第二次対仏大同盟

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第二次対仏大同盟(だいにじたいふつだいどうめい, Second Coalition, 1798年12月24日 - 1801年)は、フランスの勢力拡大を脅威と感じたヨーロッパ諸国が、フランスに対抗するために結成した同盟である。

同盟[編集]

1798年、イタリア遠征を終えたナポレオン・ボナパルトは、イギリスインドの連絡を断つべくエジプト遠征に乗り出した。オスマン帝国相手の陸戦では勝利を重ねるも、ナイルの海戦でフランス艦隊はホレーショ・ネルソン率いるイギリス艦隊に敗北、これによってナポレオンはエジプトから動くことができなくなった。ナポレオンの不在を好機と見た諸国は、同年12月24日、第二次対仏大同盟を結成し、フランスへの攻撃を開始した。

第二次対仏大同盟に参加した国家は以下のとおりである。

イタリア・スイス戦役 (1799-1800年)[編集]

アルプスを越えるスヴォーロフ
ダヴィッド『アルプス越えのナポレオン』

1799年[編集]

1799年、北イタリアではオーストリア軍の攻勢にフランス軍が押されていた。2月に元帥スヴォーロフがロシア軍最高司令官に復帰し、4月から、フランス軍はさらなる劣勢に立たされ、イタリア方面軍司令官モローは8月にはジェノヴァまで後退した。

ライン方面ではカール大公率いるオーストリア軍と、ライン方面軍司令官ジュールダン率いるフランス軍が衝突していた。3月25日、シュトックアッハの戦いフランス語版でオーストリア軍が勝利した。ジュールダンは解任され、マッセナが新司令官となった。これ以降、ラインでは対峙が続いた。

スイスヘルヴェティア共和国)ではロシア・オーストリア同盟軍とフランス軍が一進一退の攻防を続けていた。9月25日、第二次チューリッヒの戦いフランス語版でマッセナが同盟軍を破ると、スヴォーロフ率いるロシア軍はグラールスからイランツ英語版へのアルプス越えを行なってスイスから退却した。翌年にはロシアのパーヴェル1世がフランスと和平を結び、同盟から脱落した。

この年の末、ナポレオンはエジプトからフランスへ帰還し、ブリュメール18日のクーデターによって第一執政となり政権を握った。ナポレオンはフランス軍を再編し、翌年の攻勢に備えた。

1800年[編集]

ナポレオンはジュネーヴに軍を集結。1800年5月、3万7,000を率いてグラン・サン・ベルナール峠を越え北イタリアへ進出した(ダヴィッド作『サン・ベルナール峠を越えるナポレオン』はこのときの情景を描いたものである)。その頃、オーストリア軍はジェノヴァに篭城するマッセナ指揮下のフランス軍部隊を攻囲中であった。ナポレオンはオーストリア軍の背後に出てミラノとパヴィアを占領するが、ジェノヴァのフランス軍部隊は限界に達し6月4日に開城。オーストリア軍主力はトリノに集結した。

フランス軍によって退路を遮断される形となったオーストリア軍司令官のメラス英語版は東進を決意。6月14日、両軍はアレッサンドリア近郊のマレンゴにおいて遭遇戦となった。このマレンゴの戦いでフランス軍は窮地に追い込まれるが、ドゼーの別働隊が増援に駆けつけ逆襲に成功する。しかし勝利と引き換えにドゼーは命を落としたのだった。

ライン方面でも、イタリア方面軍司令官からライン方面軍司令官となっていたモローが、6月19日のホッホシュタットの戦いドイツ語版でオーストリア軍に勝利し、7月にはミュンヘンまで迫る勢いを見せた。フランスとオーストリアは7月15日に休戦に入った。

この間に講和の話し合いがもたれたが、交渉は不成立に終わった。11月13日に休戦期限が切れるとともに、再び両軍は戦闘を開始した。モローは攻撃を再開し、12月3日、ホーエンリンデンの戦いドイツ語版でオーストリア軍に決定的な打撃を与えた。ここに至ってオーストリアは継戦意欲を喪失し、講和に向けて話し合いが開始された。

戦後処理[編集]

1801年2月9日、リュネヴィルの和約が締結された。オーストリアは、イタリアとネーデルラントに建国されたフランスの衛星国を承認し、フランスのラインラント領有も認めた。この時点で第二次対仏大同盟は崩壊し、再びイギリスのみが交戦を続けることとなった。そのイギリスも、1802年3月25日、フランスとアミアンの和約を締結して講和した。