ウィリアム・ピット (小ピット)
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イギリスの政治家
ウィリアム・ピット
William Pitt
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小ピット
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| 生年月日 | 1759年5月28日 |
| 出生地 | ケント州 |
| 没年月日 | 1806年1月23日(満46歳没) |
| 死没地 | ロンドン |
| 出身校 | ケンブリッジ大学 |
| 所属政党 | トーリー党 |
| 親族 | チャタム伯ウィリアム・ピット(父) ヘスター・グレンヴィル(母) ジョン・ピット(兄) ジョージ・グレンヴィル(伯父) ウィリアム・グレンヴィル(従兄) |
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| 任期 | 1783年12月19日 - 1801年3月14日 |
| 国王 | ジョージ3世 |
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| 任期 | 1804年5月10日 - 1806年1月23日 |
| 国王 | ジョージ3世 |
ウィリアム・ピット(William Pitt、1759年5月28日 - 1806年1月23日)は、イギリスの政治家、首相(在任:1783年 - 1801年、1804年 - 1806年)。1760年代に首相を務めたチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)とヘスター・グレンヴィルの次男。チャタム伯ジョン・ピットは兄で、大ピットと同じく1760年代に首相を務めたジョージ・グレンヴィルは母方の伯父、後任の首相ウィリアム・グレンヴィルは従兄に当たる。同名の父と並んで小ピット(Pitt the Younger)の通称で知られる。
目次 |
略歴 [編集]
誕生 [編集]
幼いころから病弱であったが、ラテン語やギリシア語に通じるなど才能に恵まれていたため、1773年、14歳でケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学した。それ以後、この最年少入学記録を破った者はいない(2010年に同じ14歳でケンブリッジ大学に入学するものが現れるまでの237年間、ピットの記録に並ぶものすらいなかった[1])。大学では政治哲学、古典、数学、化学、歴史などを勉強した。しかし、在学中も健康に恵まれなかったため、貴族の特権を行使して試験なしで1776年に卒業を果たした。1780年、ケンブリッジ大学が保有していた下院の議席に出馬するが落選。今度は学閥の力とコネを活用しアップルビーの腐敗選挙区の補欠選挙で当選、1781年に下院議員となる(後にケンブリッジ大学に鞍替え)。
組閣 [編集]
アメリカ独立戦争による政治の混乱と国王ジョージ3世と大衆の支持に乗じて、1783年に24歳の若さで首相に就任する。この記録はもちろん史上最年少である。翌年総選挙に圧倒的に勝利して、17年もの長期政権の基礎を築いた。1793年までは、自由主義路線に沿って諸改革に取り組む。
- 国家財政の再建
- アメリカ喪失後の新しい帝国の建設(カナダの行政改革と東インド会社の再構築)
- フランスとの間に自由貿易的な通商条約の締結など。
- 1786年にフランスと通商条約(イーデン条約)を締結したが、これにより産業革命を経験した安価で良質なイギリス商品がフランスに入り込んでフランスの国内産業に打撃をあたえ、フランス革命を引き起こした社会的混乱を招く原因になった。
1788年には、ヨーロッパでの孤立外交からの脱却とフランスに対抗するためにプロイセンとオランダとの三国同盟を締結。1801年、アイルランド併合を行うと共にカトリック教徒解放を考えるが、国王ジョージ3世と意見が合わず辞任。
1789年、フランス革命が勃発し、その流れが過激なものへと変容していくにつれて危機感を増し、1793年から3回に渡って対仏大同盟を組織して革命を潰そうとした。そのため、彼はフランスから「人民の敵」と呼ばれることになる。のちに対仏穏健派が支持を失うと、対仏強硬派で主戦派の彼は1804年に再び組閣した。
1805年に第三次対仏大同盟を組織するも、同年のアウステルリッツの戦いの敗北に衝撃を受け、翌年1月に病没。
業績 [編集]
イギリスの保守勢力を糾合し、野党でホイッグの指導者フォックスとともに政党政治の確立に貢献してイギリスの二大政党政治の土台を築いた。
フランス革命とナポレオン戦争の混乱に乗じて、イギリスはフランスやフランスの従属国となったオランダの植民地を攻撃した。西インド諸島のトバゴ島やインドのポンディシェリー、シャンデルナゴール、コルシカ島等。更にセイロン島や南アフリカのケープタウンもイギリスの支配下に入った。このような戦略は父の大ピットから受け継いだ小ピットの植民地を重視した海洋派の主張が大きく反映されたからである。ウィーン議定書によってセイロン島とケープ植民地のイギリス領有が正式に認められた。
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