トマス・クロムウェル

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トマス・クロムウェル
ハンス・ホルバインによる肖像画)

初世エセックス伯トマス・クロムウェル(英語:Thomas Cromwell, 1st Earl of Essex, 1485年 - 1540年7月28日)は、イングランド王国テューダー朝政治家である。ヘンリー8世に側近として仕え、イングランドの宗教改革や「行政革命」を主導した。

生涯[編集]

大陸での青年期[編集]

1485年、ロンドン郊外のパトニーで、ウォルター・クロムウェル(1463年 - 1510年)の子として生まれる。ウォルターは鍛冶屋・醸造家・旅館業など職業を転々とし、貧しい暮らしだった。トマスは早くから故郷を離れ、大陸へ渡航、フランス王国軍の兵士となり、イタリア戦争にも従事したという。その後1512年まではフィレンツェの有力な富豪にして銀行家のフレスコバルディ家に雇われ、ネーデルラントオランダ)のミデルブルフ織物市場で商事に従事していた。

クロムウェルはこれらの活動を通じてラテン語イタリア語フランス語に堪能となり、バチカン図書館の史料によれば、ローマ教皇庁枢機卿レジナルド・ベインブリッジの代理人となり、イングランドに関わる教皇庁控訴院の案件に従事していたという。

帰英、ウルジーの推挽[編集]

1514年、ベインブリッジ枢機卿の死後、クロムウェルはイングランドへ帰国し、トマス・ウルジー枢機卿に仕え、ヨーク教会管区の集税吏となる。ウルジーは1515年にヘンリー8世治下の大法官となり、野心的外交政策、国内では独裁的な政策を進めていた。また、1519年以前に服屋の娘エリザベス・ウィッキーズと結婚し、長男グレゴリー(のち男爵)をもうけている。法学を学んだ後、1523年にはイングランド議会の議員となって小修道院の調査を行った。

1529年にウルジーの専横が弾劾されるが、クロムウェルは擁護し、ヘンリー8世から評価されて騎士(ナイト)に任命される。ウルジー失脚後も王の信頼は深まっていった。

イングランド国教会と国王至上法[編集]

当時ヘンリー8世は王妃であるキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚問題を協議させるため、後に宗教改革会議と呼ばれることになる議会を招集した。王はキャサリンの侍女であったアン・ブーリンとの結婚を望んでいたため、キャサリンとの婚姻の無効化を望んでいた(カトリック教会では離婚を認めていないため、それまでの結婚そのものを無効とするよう教皇クレメンス7世へ認可を要請した)。王の離婚の意思を支持して王の信頼を得ていったクロムウェルは、やがて宮廷内に入って王の腹心となり、1532年には公的な手続きを経ずして閣僚(王室財宝部長官)となった。1533年には大蔵大臣、1534年には国王秘書、控訴院判事、1535年には総監督代理と出世を重ねていくことになる。

こうして王の信頼を得たクロムウェルは、イングランドの宗教改革において重要な役割を果たすこととなった。クロムウェルの閣僚就任以前の議会では、ローマ教皇庁の意向も受け、王の結婚無効化が認められることはなかったが、1532年にクロムウェルが主導権を握るや、議会での議論はたちまち変化していく。教皇庁の収入の源泉であった修道院の財産を遮断するとともに、聖職者に対する立法権をイングランド王に移行させた。さらに1533年にはイングランド宗教改革の土台となる「上告禁止法」(en:Statute in Restraint of Appeals)を起草し、議会を通過させる。本来この法は王の婚姻問題のために制定されたものであるが、クロムウェルの手腕により、後述のようにより大きな意味を持つ法となっていく。

クロムウェルによる同法の序文には、イングランドは「帝国」であること、イングランドは教皇庁の管轄に属さないこと(よって国王の婚姻の有効問題も教皇庁の認可を必要としなくなった)などが高らかに宣言された。それまでもイングランドの君主が「皇帝」(Emperor)を名乗ることはあったが、これは単に複数の国々を支配する君主という意味である。しかしクロムウェルがここで用いた「帝国」は、イングランドはイングランド以外の君主に支配されることはないという宣言であり、教皇庁から独立した国民国家(nation-state)となったことを告げる画期的なものであった。

教皇庁からの独立に伴い、クロムウェルは国王に、イングランドにおける教会の頂点に立つことを進言する。1534年に議会を通過させた首長令国王至上法)によって、イングランド国教会はローマ・カトリック教会から離脱し、国王ヘンリー8世は「信仰の擁護者」として国教会の長となった。国王の傀儡となったカンタベリー大司教トマス・クランマーもまた王の婚姻無効を認めた。

国王の離婚のためだけに制定されたこの2つの法令は、イングランドにおける宗教史・政治史の転換点ともいえるものであった。それまで欧州全土に普及していた教会組織の中で、一辺境支部に過ぎなかったイングランド教会が、教皇庁から独立した組織「イングランド国教会」となったことを意味したのである。この一連の改革においてクロムウェルは主要な役割を果たしたが、当然のごとく反対派もまた少なくなかった。ヘンリー8世に媚びるクロムウェルとは対称的に、カトリックとしての立場から一貫して国王に批判的であった前大法官のトマス・モアは、王やクロムウェルに疎まれて失脚し、やがてロンドン塔に投獄され、1535年7月6日に処刑されている。

修道院の解体[編集]

ヘンリー8世とクロムウェルの宗教改革は、上記の2大法令の制定に留まらなかった。やがてその情熱は修道院の解体へと注がれることになる。修道院はイングランド国内にあるにもかかわらず、国外にある教皇庁の支配下にあるという宗教上の弊害があった上に、経済的にもイングランドの富を集中保有していると見なされたためである。クロムウェルはこれら修道院の資産を王室へ移管することで、王権を強化することを進言した。1535年宗教上の国王代理(Vicegerent in Spirituals)に指名されたクロムウェルは、宗教裁判の管轄権を有し、さらにカンタベリーとヨークの教会管区を統合。さらに総監督代理(Vicar-general)となった後、1536年に小修道院の解散法を議会で通過させ、つづいて1539年には大修道院の解散法を成立させた。

1540年3月23日、ロンドン北東部に最後に残ったウォルサム修道院が解散を命じられ、中世以来イングランドにおいて重要な役割を担ってきた修道院は軒並み姿を消す。そのあまりの過酷さに、修道士たちはクロムウェルを「修道士の鉄槌」(malleus monachorum)と呼んだという。一連の法令で解散させられた修道院は400以上ともいわれる。それらが所有していた財産は王室経済を潤したが、ヘンリー8世によって起こされたフランスやスコットランドとの無意味な戦争の戦費決済に費やされることになる。結局、没収された修道院の土地はやがて王室の手を離れて、ジェントリ(郷紳)・都市市民層へ流出し、これらの層が成長していくきっかけとなる。

さらにクロムウェル主導の下、ウェールズの統合法が議会を通過し、1536年にウェールズとイングランドが統合された。これらの功績により、1536年7月9日にはオーカム男爵として貴族に列せられ、さらに1539年には侍従長、1540年4月18日にはエセックス伯爵となっている。

突然の没落[編集]

ロンドン橋

ヘンリー8世はキャサリンとの婚姻の無効化後、アン・ブーリンと再婚するが、第2王女エリザベスを儲けた後、侍女のジェーン・シーモアに心移りしてしまう。アン王妃はやがて反逆罪を着せられ、ロンドン塔で処刑され、ヘンリー8世はジェーンと3度目の結婚に臨んだ。どこまでもヘンリー8世に忠実なクロムウェルは、王によるアンの処刑およびジェーンとの婚姻を全面的に支持していた。

失脚したきっかけは、1537年のジェーン王妃の早すぎる産褥死の後、王の4度目の再婚相手としてアン・オブ・クレーヴズを推したことであった。隣国との関係悪化を牽制するため、同盟国を欲したクロムウェルは、大陸各国の宮廷から新たな王妃の候補を探索させた。クロムウェルは、宮廷画家ハンス・ホルバインを欧州大陸の各国宮廷に派遣し、妃候補の肖像画を描かせたという。やがてクロムウェルは1539年、イングランドとの婚姻に重大な関心を抱いていたユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘アンナ(アン)を王に推挙することになった。しかし実際にイングランドへやってきたアンに謁見した王は、ホルバインによるアンの肖像画と実物とのあまりの違いに激怒したという。結局1540年1月6日に行われたこの結婚は半年しか持たなかった。クロムウェルに抑えられていた政敵たち(特にノーフォーク公トマス・ハワードなど)はこれを絶好の機会と捉え、クロムウェル失脚に動いた。

最期[編集]

1540年6月10日、ノーフォーク公から叛逆罪で告発されたクロムウェルは、突然逮捕されてロンドン塔に収監され、人権喪失法により私権を剥奪された。7月9日には王とアン・オブ・クレーヴズは正式に離婚し(実際には再度の婚姻無効化が議会で承認された)、同月28日5番目の妻となるキャサリン・ハワード(かつての妃アン・ブーリンの従妹にして、ノーフォーク公の姪)と結婚した。その裏で同日、ひそかにクロムウェルが処刑されたのである。ヘンリー8世はこのかつての片腕を処刑する際に、わざと未経験の処刑人に担当させて苦痛を味わわせたという。

処刑後、クロムウェルの首はかつての政敵トマス・モア同様、ロンドン市街に臨むロンドン橋に架けられた。尚、この日国王と結婚したキャサリンはわずか1年半後に処刑され、ヘンリー8世は6人目となる最後の妻キャサリン・パーを得ることとなる。

雑記[編集]

  • クロムウェルは政治上の師であるウルジーに劣らず、王の寵愛を武器に専制的な政治を行ったが、また一方で勃興しつつあった人文主義者たちの良きパトロンでもあった。イングランドにおける宗教改革を宣伝するために当時盛んになりつつあった印刷物という手段を用いたためでもある。数々の印刷業者を保護したクロムウェルは、たとえば自ら出資してイタリアの神学者マルシリウスの著書『平和の擁護者』を翻訳・出版させている。また晩年のエラスムス(皮肉にもクロムウェルと対立したトマス・モアと親友であった)が年金の引き出しを断られ難渋していた折、クロムウェルはエラスムスにエンゼル金貨20枚とともに、熱い支持の言葉を贈ったという。
  • クロムウェルの息子、グレゴリー・クロムウェルの妻は、ヘンリー8世の3番目の王妃であるジェーン・シーモアの妹のエリザベス・シーモアである。また、17世紀のピューリタン革命後、共和制に移行した英国で護国卿として権力を握ったオリバー・クロムウェル1599年 - 1658年)は、トマスの姉キャサリン・クロムウェルの玄孫である。
  • ニューヨークフリック・コレクションに、ハンス・ホルバインによる肖像画(本記事の上部に表示されているもの)が収められているが、皮肉にもクロムウェルの政敵として処刑されたトマス・モアの肖像画と同じ部屋に飾られている。

フィクションにおけるクロムウェル[編集]

クロムウェルは欧米ではしばしば映画テレビドラマで描かれている。そのうち最も有名な作品は『わが命つきるとも』(A Man for All Seasons, 1966年アメリカ映画フレッド・ジンネマン監督)であろう。レオ・マッカーン演じるクロムウェルは、苦悩する主人公トマス・モアの最大の敵対者であり、無慈悲な野心家として描かれている。

クロムウェルはウィリアム・シェイクスピアの史劇『ヘンリー八世』の脇役としても登場する。また1602年に「W.S」のイニシャルで出版された『トマス・クロムウェル』という作品もある(現在ではシェイクスピアとは別人の作品とされている。詳細はシェイクスピア外典参照)。

イギリスの女性作家ヒラリー・マンテルが2009年からトマス・クロムウェルを扱った三部作を刊行中である。第1作のWolf Hall (2009)(『ウルフ・ホール』)も第2作のBring Up the Bodies (2012)(『罪人を召し出せ』)も高く評価され、売り上げも上々である。マンテルは、英国で最も権威ある文学賞であるブッカー賞(2009年と2012年)をこれらの作品で受賞している。

関連項目[編集]