エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)

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初代クラレンドン伯エドワード・ハイド

初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイド(Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon, 1609年2月18日 - 1674年12月9日)は、イングランドの政治家・歴史家。娘アン・ハイドはイングランド国王ジェームズ2世の最初の妻で、イングランド女王メアリー2世アンは外孫に当たる。

1640年短期議会から長期議会の議員となり、チャールズ1世の失政を攻撃した。しかし監督制を援護し、1642年大抗議文に反対して議会派から王党派に転じた。清教徒革命では王党派として活動し、国王軍が議会派に敗れると王太子チャールズ(後のチャールズ2世)に従って大陸へ逃れた。王太子の信任を得て、1658年大法官に命じられた。

王政復古後の1661年、チャールズ2世によりクラレンドン伯に叙せられた。1660年から1667年までイングランドの政治の中心的な役割を担い、イングランド国教会主義を中心とし、カトリックには包容の政策をとって統一法を強行した。また自治体法、集会法など一連の反動的諸法を制定した。これらはクラレンドン法典と呼ばれる。

1665年第二次英蘭戦争が始まり、1667年ブレダの和約が結ばれイングランドの劣勢に終わると責任を問われ同年に失脚、フランスに渡り、ルーアンで没した。亡命中に歴史書『大反乱史』を書き残した。クラレンドン失脚後、イングランドの政治はチャールズ2世の側近集団Cabalが取り仕切り、爵位は長男のヘンリー・ハイドが継承してチャールズ2世に仕え、次男のローレンス・ハイドも王党派として活動、ロチェスター伯爵に叙せられた。

公職
先代:
エドワード・ハーバート
大法官
1658年 - 1667年
次代:
オーランド・ブリッジマン
イングランドの爵位
先代:
新設
クラレンドン伯爵
1661年 - 1674年
次代:
ヘンリー・ハイド
先代:
新設
ハイド男爵
1660年 - 1674年
次代:
ヘンリー・ハイド