ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)

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初代オックスフォード=モーティマー伯ロバート・ハーレー(1710年)

初代オックスフォード=モーティマー伯ロバート・ハーレー(Robert Harley, 1st Earl of Oxford and Earl Mortimer, KG, 1661年12月5日 - 1724年5月21日)は、イギリスの貴族・政治家。アン女王の晩年に政権を率いてユトレヒト条約を締結、スペイン継承戦争を終結させた。ダニエル・デフォージョナサン・スウィフトのパトロンとしても知られている。

生涯[編集]

トーリー党の若手[編集]

1661年、ロンドンのボウ・ストリートでエドワード・ハーレーの長男として生まれた。オックスフォードシャーの村バーフォード近くのシルトンという村の学校で教育を受けて政治の道を進み、1688年名誉革命が発生、翌1689年の総選挙ではコーンウォールのトレゴニーで下院議員に選出、翌1690年からはウェールズのラドナーで立候補して当選、トーリー党に入党した。

議会では1697年大同盟戦争が終わった頃に軍縮を主張して認められ、翌1698年にも軍縮を行い一躍トーリー党の有力者にのし上がり、1701年に下院議長に選ばれ、翌1702年に引き続き下院議長に選出、イングランドウィリアム3世が死去、後を継いだアン女王の側近の第一大蔵卿シドニー・ゴドルフィンと提携して政権を支えた。

1702年に議論となった便宜的国教徒禁止法案を巡り、イングランド国教会の一派であるハイ・チャーチを風刺したデフォーが投獄されたが、ハーレーはデフォーに目を付けて援助を行い釈放させた。デフォーはハーレーの意を受けてパンフレット宣伝を行い、ジャーナリズムを展開していくことになる[1]

野党化から政権奪取まで[編集]

アンの治世ではスペイン継承戦争が課題として示され、ゴドルフィンは友人でイングランド軍総司令官のマールバラ公ジョン・チャーチルを大陸へ送り出して後方でイングランドを支える役目を負っていた。ハーレーはトーリー党員だが穏健派であるためゴドルフィンに協力、急進派のロチェスター伯ローレンス・ハイドとノッティンガム伯ダニエル・フィンチとは一線を画していた。1703年にロチェスターが、1704年にノッティンガムが政権を去ると北部担当国務大臣に選ばれ、閣僚入りしてゴドルフィンと共に穏健派として政権を率いる立場になった。

しかし、1705年ホイッグ党が議会の与党になり、ゴドルフィンが政権運営のため閣僚にホイッグ党員に入れた頃から警戒し始め、翌1706年にゴドルフィンがスコットランドとイングランド合同の必要性とホイッグ党の要求でサンダーランド伯チャールズ・スペンサーを南部担当国務大臣に起用するとゴドルフィンに不信感を抱いたアンに接近、グレートブリテン王国が成立した翌1707年にアンの親友でマールバラ公の妻サラ・ジェニングスとアンが衝突、サラの従妹でハーレーの又従妹でもあるアビゲイル・メイシャムがアンの信頼を得ると、アビゲイルを通してアンの側近となりゴドルフィンから離れていった。

1708年にゴドルフィンとマールバラ公が辞任を表明した時、支持者がアンだけで他の閣僚や議会の反発に遭い逆に形勢不利となり、国務大臣を辞任して下野した。しかし戦争の長期化に伴う政権への不満を抱くホイッグ党の穏健派やトーリー党を取り込み、ロチェスター・ノッティンガムら急進派とも組んで巻き返しを図り、アンを通してホイッグ党員の罷免を行い6月にサンダーランドを罷免、8月にゴドルフィンも更迭させた。そして財務府長官に就任して与党に返り咲き、10月の総選挙でトーリー党が圧勝して完全にホイッグ党に対してトーリー党が優位に立ち、翌1711年にオックスフォード=モーティマー伯に叙爵、大蔵卿に就任して政権を握った。以後、同じく野党に下りながら協力していった北部担当国務大臣のヘンリー・シンジョンと共にスペイン継承戦争終結へ邁進していくことになる[2]

絶頂期[編集]

ハーレーは主要な敵国であるフランスとの和睦を考え1710年からフランスの外相トルシー侯に元駐仏大使のジャージー伯エドワード・ヴィリアーズを通して秘密交渉を行い、1711年になって同盟国オランダに和睦を明かしたが、以後オランダにも内密でフランスとの交渉を進めていった。1711年にジャージーが急死してからはシンジョンを加えて交渉を進め、一方でスウィフトを通して交渉の正当性を世論に訴え、逆に同盟国を戦争を長引かせていると非難した。

更にマールバラ公を司令官から罷免してオーモンド公ジェームズ・バトラーを後任に据え、ホイッグ党員が多い上院に対してはアンに働きかけて与党派の12人を貴族に叙爵、上院も押さえて和平に動いたが、1712年に他の同盟国も含めた予備交渉の段階になって内容が明らかになると、同盟国からの反発により再びフランスとの秘密交渉に取り組み、オーモンドにはフランス軍と交戦しないよう命令し、トルシーとシンジョンが休戦を結ぶとイギリス軍を引き上げさせた。同盟国の非難をよそにフランスとの和睦交渉を続け、1713年ユトレヒト条約を締結、海外植民地を増加させイギリスの利益増となった終戦によりトーリー党及びハーレーは絶頂期を迎えた。

しかし、トーリー党は王位継承問題を巡って揺らいでいて、アン亡き後に又従兄に当たるドイツハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが後継者に選ばれていたが、アンの異母弟でカトリック教徒のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを支持するジャコバイトも含まれていて、ハーレーはハノーファー派だったが、ハーレーと主導権を巡って対立していたシンジョンはジャコバイトに肩入れしたため党内一致に失敗した。しかも、大陸でマールバラ公と共にフランスと戦っていたゲオルク・ルートヴィヒはハノーファーを含む同盟国を見捨てた単独講和に不満を抱いていたため、トーリー党がアン亡き後に政権を継続出来る見通しが無くなっていた。おまけに、ハーレーは1713年から飲酒でしばしば体調不良になり、シンジョンに主導権を奪われ指導力の低下からアンにも見限られ、1714年7月27日に第一大蔵卿を罷免された。後任は中立派のシュルーズベリー公チャールズ・タルボットで、シンジョンは公金横領の疑いで選ばれなかったためトーリー党の衰退は明らかになっていった[3]

不遇の晩年[編集]

大蔵卿罷免から4日後の8月1日にアンが死去、ゲオルク・ルートヴィヒが9月18日にイギリスに上陸してジョージ1世として即位すると出迎えたが冷たい扱いを受け、返り咲きが無いことを悟りヘレフォードシャーへ引退したが、翌1715年の総選挙でホイッグ党が大勝するとロバート・ウォルポールに単独講和を推進した責任を問われ弾劾、ロンドン塔へ投獄された。シンジョンとオーモンドも弾劾されジャコバイトに合流したが、反乱は即座に鎮圧され亡命の身となり、トーリー党はなすすべも無く没落、ホイッグ党は与党に返り咲き長期政権を築いていった[4]

1717年に釈放されたが政界へ復帰出来ず、1724年に不遇と失意の内に62歳で死去。息子のエドワード・ハーレーが爵位を継いだ。

晩年は指導力低下から足をすくわれたが、ユトレヒト条約を締結した意義は大きく、イギリスがヨーロッパの主要国に躍り出る一歩となった。また、海外植民地と貿易の利潤獲得によりイギリスが海外に勢力を伸ばして海洋国家として世界進出を始めるきっかけも作り、後の大英帝国を築く元になった。

子女[編集]

1685年にトマス・フォーレーの娘エリザベス(? - 1691年)と結婚、4人の子を儲けた。

  1. エドワード(1689年 - 1741年)
  2. ロバート(1690年)
  3. エリザベス(? - 1713年) - リーズ公ペレグリン・オズボーンと結婚
  4. アビゲイル(? - 1750年) - キノール伯ジョージ・ヘイと結婚

1694年にサイモン・ミドルトンの娘サラ(? - 1737年)と再婚、子は無かった。

脚注[編集]

  1. ^ 『イギリス革命史』P229 - P238、『スペイン継承戦争』P65 - P67。
  2. ^ 『イギリス史2』P271 - P272、『スペイン継承戦争』P146 - P149、P190 - P193、P207 - P215、P269 - P277、P284 - P291、P300 - P303。
  3. ^ 『イギリス史2』P272 - P274、『スペイン継承戦争』P317 - P333、P340 - P345、P351 - 360、P367 - P383。
  4. ^ 『イギリス史2』P277 - P280、『スペイン継承戦争』P387 - P389。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

議会
先代:
サー・トマス・リトルトン
イギリス下院議長
1701年 - 1705年
次代:
ジョン・スミス
公職
先代:
ローランド・グウィン
ラドノーシャー治安判事
1702年 - 1714年
次代:
カーニンスビー卿
先代:
チャールズ・ヘッジス
北部担当国務大臣
1704年 - 1708年
次代:
ヘンリー・ボイル
先代:
ジョン・スミス
財務府長官
1710年 - 1711年
次代:
ロバート・ベンソン
先代:
委員会制
パウレット伯
第一大蔵卿
1711年 - 1714年
次代:
シュルーズベリー公
グレートブリテンの爵位
先代:
新設
オックスフォード=モーティマー伯
1711年 - 1724年
次代:
エドワード・ハーレー