ダニエル・デフォー

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ダニエル・デフォーDaniel Defoe, 1660年 - 1731年4月21日)は、イギリスの著作家、ジャーナリスト。『ロビンソン・クルーソー』を書いたことで有名である。

生涯[編集]

本名はダニエル・フォー(Daniel Foe)。ロンドンにジェームズ・フォーの息子として生まれた。父親は獣脂ろうそくの製造に従事しており、非国教会派であった。清教徒革命の挫折と王政復古英語版の時代であり、少年デフォーは1665年ペスト大流行(Great Plague of London, 当時のロンドンの人口の2割ほどが死亡)、翌年の大火を体験したものと推測される。著作活動に入る前に様々な商業活動に従事した。時には巨富を築き、時には破産し、実生活でもロビンソン・クルーソーのように浮き沈みが激しかった。

後に貴族的な響きを持つ "De" を姓につけ、ダニエル・デフォーをペンネームとした。これはフォー(foe)には「敵・反対者・障害」という負の意味があったのを嫌ったためとされ、“ダニエル・デフォー”のペンネームに落ち着くまで、“ダン・フォー”や“ダン・デ・フォー”と、何回かペンネームを変更している。

デフォーは有名なパンフレット作者、ジャーナリストとなり、そして、英語での小説が書かれ始めた時期に作家となり、先駆者の一人として知られる。イングランドアン女王のインテリジェンス(スパイ活動)の元締もしていた。偽名を用いてスコットランドに潜入し、匿名で政治宣伝文書を書き、聖書の翻訳者、歴史家、放浪者などに扮し、スコットランドのさまざまな階層に近づいてイングランドとの合邦の利を説いて回った。彼の努力もあって、スコットランド議会は合邦を決して、1707年連合法ができてイングランドとスコットランドが合邦してグレートブリテン王国ができた[1]。パンフレット作成及び政治的な活動により捕らえられ、1703年7月31日にさらし台にあげられた。これは、ハイ・チャーチ英語版イングランド国教会の一派)およびトーリー党が非国教徒の絶滅を主張していたのを痛烈に皮肉ったパンフレット "The Shortest Way with Dissenters" が主な原因とされている。そこで「さらし台への賛歌」(Hymn to the Pillory)を発表し、そのため観衆は、さらし台に上げられた者へは汚物を投げつけるのが習慣だったにもかかわらず、彼に花と飲み物を与えた。

著作[編集]

参考文献[編集]

  • 柏野健三『社会政策の歴史と理論 改訂増補版』 ふくろう出版、1997年
  • ダニエル・デフォー『イギリス通商案 植民地拡充の政策』 泉谷治訳、りぶらりあ選書・法政大学出版局、2010年

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 川成洋『紳士の国のインテリジェンス』集英社新書 2007年)「グレート・ブリテン王国」誕生の陰の立役者ダニエル・デフォー(1660~1731)」。

外部リンク[編集]