ハノーファー王国

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ハノーファー王国
Königreich Hannover
1814年 - 1866年
国旗 国章
国旗 国章
国の標語 : Suscipere et finire
国歌 : Heil Dir, Hannover!
ハノーファーの位置
公用語 ドイツ語
首都 ハノーファー
国王
1814年 - 1820年 ゲオルク3世
1820年 - 1830年 ゲオルク4世
1830年 - 1837年 ヴィルヘルム
1837年 - 1851年 エルンスト・アウグスト
1851年 - 1866年 ゲオルク5世
宰相
1814年 - 1831年 エルンスト・フリードリヒ・ヘルベルト・ツー・ミュンスター
1865年 - 1866年 ゲオルク・バクマイスター
変遷
成立 1814年10月1日
消滅 1866年9月20日
通貨 ハノーファー・フェアアインスターラー

ハノーファー王国ドイツ語Königreich Hannover)は、現在のドイツ北部のニーダーザクセン州に存在した国家の通称。

1692年にハノーファー公エルンスト・アウグスト選帝侯となってから1803年フランスに占領されるまでブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯国(Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg)として、および1814年ウィーン会議によってドイツ連邦の構成国となってから1866年普墺戦争に敗れてプロイセン王国に併合されるまでハノーファー王国として存続した。以後は1946年までプロイセン王国の一州となっていた。もともとはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国(Herzogtum Braunschweig-Lüneburg)の一部であるカーレンベルク公国(1432年 - 1803年)で、首都がハノーファーに置かれたため俗にこう呼ばれる。

目次

[編集] 歴史

神聖ローマ帝国領邦の一つであったブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国は、しばしばいくつもの公(侯)国に分割された。1432年にブラウンシュヴァイク公国から分割されたカーレンベルク公国も、そうした領邦の一つであった。カーレンベルク公位は1584年に断絶によってヴォルフェンビュッテル公に継承されるが、1635年にカーレンベルク公国はゲッティンゲン公国とともに、再びヴォルフェンビュッテル公国から分割された。そして1636年に首都がパッテンセンからハノーファーに遷されたため、ハノーファー公国と呼ばれるようになった。

1692年、ハノーファー公エルンスト・アウグストが選帝侯となったことにより、その公国はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯国、通称ハノーファー選帝侯国となった。1714年、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世はジョージ1世としてイギリス王に即位した(ハノーヴァー朝)。ドイツにおいても、リューネブルク公国の継承(1705年)、スウェーデンからのブレーメンフェルデン(ブレミッシュ=フェルデン)の割譲(1719年)、と勢力を拡大していった。

1803年には、ナポレオンによる神聖ローマ帝国解体の一環としてオスナブリュック司教領(Bishopric of Osnabrück)を併合したものの、選帝侯国はフランスに占領され、1807年にはヴェストファーレン王国の一部となった。しかし1813年に選帝侯ゲオルク3世(イギリス王ジョージ3世)は領土を回復し、1815年ウィーン会議により王国に昇格した。これは王国となっていたヴュルテンベルクと地位を等しくするためだった。さらにウィーン会議でハノーファーは、リューネブルク公領であったエルベ川右岸や東にあったいくつかの飛び地と引き換えに、プロイセン王国からヒルデスハイム司教領(Bishopric of Hildesheim)、東フリースラント、リンゲン伯領(The Lower County of Lingen)、およびミュンスター司教領(Bishopric of Münster)の北部を獲得した。

ハノーファーの王位継承規定はイギリスと異なっていたため(サリカ法典を採り、女子のハノーファー王位継承を認めていなかった)、イギリスとハノーファーの同君連合1837年ヴィクトリアがイギリス女王に即位したときに解消され、女王の叔父エルンスト・アウグストが即位した。このとき、イギリス的な自由主義国家体制も破棄されたために、これに抗議するグリム兄弟らによってゲッティンゲン7教授事件が起こされた。1866年普墺戦争でハノーファー王国はオーストリア方についたため、敗戦後にプロイセンに併合されて州となった。第二次世界大戦後の1946年に、イギリスの占領下でオルデンブルクブラウンシュヴァイク、シャウムブルクと合併してニーダーザクセン州となり、ハノーファーの名前は国名としては消滅した。

[編集] 歴代君主一覧

年号は、在位期間を示す。

[編集] ハノーファー選帝侯

正式には「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、カーレンベルク公、神聖ローマ帝国選帝侯」

1803年、ハノーファー選帝侯国はフランスに占領され、以後10年間ゲオルク3世の統治下にはなかった。しかし彼と家臣はロンドンで独自の外交を続けた。

1815年、フランスから解放。統治権を奪還。同年ドイツ連邦に参加。連邦議会の議席を得る。

[編集] ハノーファー国王

1837年イギリスで女王ヴィクトリアが即位すると、サリカ法典を採る王国はその叔父エルンスト・アウグストが継承し、同君連合は解消された。

1866年にハノーファー王国はプロイセン王国に併合され、ゲオルク5世と王太子エルンスト・アウグスト(2世)は廃位された。王太子の子エルンスト・アウグスト(3世)はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇女との縁組により、同族の遠戚の死後空位となっていたブラウンシュヴァイク公の継承が認められた。

[編集] ハノーファー州知事一覧

年号は、在任期間を示す。

[編集] 関連項目