エドワード・モンタギュー (第2代マンチェスター伯爵)

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第2代マンチェスター伯爵エドワード・モンタギュー(ピーター・レリー画、1661年 - 1665年)

第2代マンチェスター伯爵エドワード・モンタギュー(Edward Montagu, 2nd Earl of Manchester, KG, KB, FRS, 1602年 - 1671年5月5日)は、イングランドの貴族・軍人。清教徒革命では議会派の司令官として王党派と戦ったが、後に部下のオリバー・クロムウェルから消極的な姿勢の責任を問われ軍から追放された。

生涯[編集]

1602年、マンチェスター伯ヘンリー・モンタギューとサー・ヘンリー・スペンサーの孫娘キャサリン・スペンサーの息子としてオックスフォードシャーで生まれた。海軍軍人のサンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューは従弟で、詩人で政治家のハリファックス伯爵チャールズ・モンタギューは甥に当たる。

1623年チャールズ王太子(後のチャールズ1世)とバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズスペイン訪問に同行、帰国後はハンティンドンシャーから下院議員に選出され政治に参加、1626年にチャールズ1世からバス勲章を受勲、モンタギュー男爵・マンデヴィル子爵に叙爵され上院へ移った。同年、ウォリック伯ロバート・リッチの娘アンと結婚。

1642年に清教徒革命(イングランド内戦)が始まると議会からエセックス伯ロバート・デヴァルーと並んで軍事指揮官に選ばれ、父の死によりマンチェスター伯位を継承、イングランド東部司令官として王党派の迎撃に向かい、1643年リンカンシャーを攻めた王党軍をトーマス・フェアファクスとクロムウェルらと合流してウィンスビーの戦いで撃破、東部副司令官となったクロムウェルと共に王党派への交戦を続けた。1644年には北上してヨークを包囲したが、カンバーランド公ルパートの援軍で包囲を解いて引き上げ、撤退中に追撃したルパートと応戦、マーストン・ムーアの戦いで勝利してハンティンドンシャーへ向かった[1]

しかし、この頃から戦意を失い軍事行動を停滞させるようになり、西部に駐屯していたルパート軍の攻撃命令を拒否したり、エセックスが王党軍に襲われ議会から救援命令を受けた時も即座に動かず、エセックスが敗走した段階になって進軍、ニューベリーの戦いでは友軍を救援しなかったり、クロムウェルの追撃要請を退けたりしたため王党軍が立ち直ってしまった。このような日和見的な態度が問題となり、議会とクロムウェルから非難され軍法会議にかけられ、1645年の辞退条例で軍から排除された[2]

以後は上院で政治活動に取り組み、チャールズ1世の処刑には反対の態度を取り、1649年にチャールズ1世が処刑されイングランド共和国が成立すると政界から引退したが、1660年王政復古チャールズ2世が即位すると王室家政長官に任じられた。翌1661年にガーター勲章を受勲、1667年に王立協会のフェローに選ばれ、1671年に69歳で死去、息子のロバート・モンタギューが爵位を継いだ。

1644年に消極的な態度に出た理由は、元が貴族であったためチャールズ1世との決定的な対立は避けて、和平で戦争を切り上げようとした思惑があったからとされている。軍法会議では「もし我々が国王を99回破っても依然として国王であり、子孫も国王であるが、国王が我々を1回でも打ち破れば我々は全員絞首刑となり子孫も抹殺されるだろう」と弁明して和平を主張したが、クロムウェルからは「ならば何故初めに武器を取ったのか」と中途半端な態度を批判されている[3]

脚注[編集]

  1. ^ 今井、P202 - P204、清水、P59、P71 - P72。P77 - P78。
  2. ^ 今井、P205 - P206、清水、P80 - P86。
  3. ^ 今井、P206、清水、P44、P82。

参考文献[編集]

公職
先代:
空位
王室家政長官
1660年 - 1671年
次代:
ヘンリー・ジャーミン
名誉職
空位 ハンティンドンシャー統監
同期:サンドウィッチ伯

1660年 - 1671年
次代:
サンドウィッチ伯
ノーサンプトンシャー治安判事
1660年 - 1671年
次代:
ノーサンプトン伯
イングランドの爵位
先代:
ヘンリー・モンタギュー
マンチェスター伯爵
1642年 - 1671年
次代:
ロバート・モンタギュー