トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)

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「鎧を纏ったストラフォード伯」1639年アンソニー・ヴァン・ダイク

初代ストラフォード伯トマス・ウェントワース(Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford, 1593年4月13日 - 1641年5月12日)は、清教徒革命直前の17世紀イングランドの政治家で、アイルランド総督などを歴任した国王チャールズ1世の側近である。内戦前夜のイングランドで議会勢力から糾弾され、斬首刑にされた。

1630年代のイングランドにおいて、チャールズ1世の元でウィリアム・ロードと共に「ロード=ストラフォード体制」とよばれる統治体制を担った国王側の人物とされるが、実際にイングランド全体における発言力を持ちはじめたのは1638年から1640年頃に過ぎなかった。イングランド北部ヨークシャー出身で下院議員から治安判事をへてアイルランド総督に就任、アイルランドの諸改革に大ナタをふるった。しかし、彼の手法は敵を多く作り、現在も意見が分かれている。

時代背景・人物像[編集]

ウェントワースが生きた17世紀は、イングランドにピューリタニズムが浸透しはじめた時代であった。独立派や長老派などピューリタンは、イングランド国教会のヒエラルキー構造を批判したのみならず、党派によっては千年王国論など政治面でのドラスティックな改革を要求する存在であった。こうした層がイングランドに生まれてきていたなかで、ウェントワースは従来の教会・国家像を堅守する保守側の政治家であった。

ウェントワースは生涯でジョン・サヴィルバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズなど幾人かの政敵と対峙した。彼らとの対立は深刻で、生き残るためには冷酷さ・残忍さを持ち合わせている必要があった。映画「クロムウェル」などで悪役として描かれているのは、こうした冷酷な面を有していたことによる。またピューリタニズムの浸透が薄いイングランド北部に生を享けたウェントワースにとって、政治的ピューリタニズムは反逆的危険思想に映った[1]

ウェントワースの政治的な理想は国王と議会の調和であった。ウェントワースにとって議会の権限(徴税など)と国王の権限(外交・戦争および議会の召集・解散)はそれぞれ不可侵のものであり、17世紀の議会は国王大権に真っ向から対立していた。ウェントワースの目指した理想はエリザベス1世時代の体制であり、17世紀には通用しなかったという指摘もある。

生涯[編集]

青年期まで[編集]

青年期を過ごしたインズ・オブ・コート

1593年、準男爵ウィリアム・ウェントワースとアンとの間の第2子としてロンドンで生まれた[2]。ウェントワース家は歴史の古いジェントリの家系で、いわゆる名門とされる家の1つであった。父ウィリアムは、リポンの司祭を家庭教師として招きトマス・ウェントワースの教育に当たらせた。1607年からインナー・テンプル法曹学院で学び、2年後にケンブリッジ大学セント・ジョン校に入学した。

1611年、カンバーランド伯フランシス・クリフォードの娘マーガレット・クリフォードと結婚し、ナイトの称号を得た。ウェントワースの教育を完成させたのはグランドツアーであった。フランスパリオルレアンボルドーなどに渡り、フランス語イタリア語スペイン語を習得した。1613年にイングランドに戻り、翌1614年に父の死に伴い家督を相続した。年収4000ポンドという当時としては巨額の資産を手にしたが、そのほとんどは8人の弟・妹たちの教育費に消えていった。

下院議会[編集]

ウェントワースは1614年、ヨークシャー州選出議員としてイングランド議会に参加しはじめた。当時は「混乱議会(Addled Parliament[3]」のさなかで、国王と議会が対立していた。ウェントワースも他の議員たちと同様、ジェームズ1世とその側近のバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの施策に反対の立場をとっていたが[4]、他の議員ほど熱心な反対者ではなかった。イングランドの法によれば、外交権や戦争を始める権利は国王に帰するものであり、対スペイン開戦を主張する議会は、ウェントワースにとっては国王大権への挑戦と映った。1621年に召集された議会ではスペイン討つべしとの声が大きかった[5]が、ウェントワースはこれと距離を置き、この議会を王が解散するのを支持した。

1622年に妻マーガレットが死亡し、3年後の1625年にクレア伯ジョン・ホレスの娘アラベラ・ホレスと再婚した。同年にジェームズ1世が死去してチャールズ1世が即位した。ウェントワースはバッキンガム公の唱える対スペイン開戦には否定的で、むしろ国内の問題にあたるべきだと主張した。議会が11月に解散してからはウェントワースはヨークシャー州長官に就任した。しかしチャールズ1世が議会の承認なしの課税を進めようとすると反対、ジェントリに課された強制借り上げ金の支払いを拒否したため投獄され、一転して監獄の住人となった。

権利の請願[編集]

バッキンガム公ジョージ・ヴィラーズ。ウェントワースが台頭する以前はジェームズ1世・チャールズ1世の右腕的存在だった

1628年はウェントワースにとって一大転機となった年であった。この年、議会は権利の請願を提出し、それまでの王の腹心バッキンガム公が暗殺された。王権を抑制する権利の請願をウェントワースは支持していた。チャールズ1世はしぶしぶこれに同意したが、ウェントワースは同時に王権に対して敬意を払うべきであると考えていた。議会と王の中間をとった彼の主張は、議会内強硬派から裏切り者の烙印を押されることになった。一方で王の覚えはめでたくなり、男爵に位階を進め、政治的影響力を高めていった。

1628年の議会における関心事は、王の意思のみによる課税を防ぐことにあった。ウェントワースは議会の正統な権利であるとしてこれを支持したが、いっぽうで王と議会の全面的衝突を防ごうとも考えていた。イングランド法に照らして権利の請願が急進的に過ぎると判断したウェントワースは、請願を王の逆鱗に触れにくい形にしようとしたが、チャールズ1世も議会も譲歩しようとせず、ウェントワースの根回しは徒労に終わった。かわって主導権はジョン・エリオットらに渡り、対立は先鋭化していった。議会の解散権は王にあり、これを行使されれば王は非常事態の名のもとに資金調達が可能になると考えたウェントワースは上院議員らと諮ったうえでエリオットらに譲歩を求めたが、口論になるばかりであった。

こうしたウェントワースの言動にチャールズ1世は信頼感を高め、12月に北部法廷(Council of the North)長官および子爵に叙した。議会は1629年に解散され、それから1640年にいたるまで召集されなかった。ピューリタンが多数を占める議会と王の仲立ちをしていたウェントワースは、両者の決定的対立そのどちらかを選ばざるを得なくなり、チャールズ1世を選んだことが彼の運命を決定づけた。すなわち、彼はカンタベリー大司教ウィリアム・ロードと並んでチャールズ1世治下の双璧となって権限を揮うことができたが、議会からは敵視されることになったからである。

アイルランド総督[編集]

ダブリン城。当時アイルランド総督府を兼ねていた

ウェントワースは1629年枢密院に属し、1631年に2人目の妻を亡くして翌1632年にエリザベス・ローズと結婚した。ウェントワースは3人の舅を持つことになり、この人脈の助力もあって力を増してきていた。1632年1月、評判になっていた辣腕を買われてアイルランド総督に就任し、アイルランドにおける国王の名代となった。

ウェントワースはアイルランドにイングランドの法制度を導入した。彼のやりかたは極端で専制的であったともいわれるが、アイルランドの政治的経済的近代化をもたらした利点もあった。

ウェントワース以前のアイルランドは、宗教的にはカトリックとプロテスタント、民族的にはイングランド人入植者からスコットランド人ノルマン人ケルト人などからなる多様でまとまりのない状態であった。ウェントワースはこれをまとめ、強力な政府を作ることを期待されていた。トマス・ローは「総督(訳注:ウェントワース)は議会の設立とそれによる統治が重要であることを知っており、よくアイルランドを治めた」と書き残している。

政策としては、アイルランドで形骸化していた既存の政府を再編し、議会をうまくコントロールしてイングランド式の秩序をどうにか実現した。また、リネンを生産してスペインとの交易を始めるなどアイルランド経済にもメスを入れ、こうした施策によって関税収入は25,000ポンド(1633年 - 1634年)から57,000ポンド(1637年 - 1638年)にまで上がった。さらに軍備を増強して海賊を取り締まり、プロテスタント教会の領地をカトリック教会から取り戻した。

しかしこうしたウェントワースの統治はイングランドではあまり支持されなかった。彼らの興味はアイルランドの繁栄ではなく、イングランドの経済であり、アイルランドのリネン工業はイングランドの同業者を脅かすことになったからである。

1635年にウェントワースは、300年前の名義を持ち出して各都市から補助金を上納するよう迫った。ゴールウェイの評議会からは拒否されたため強制没収でこれに応じたことは、アイルランドの人々の反感を買った。ウェントワースにも慈悲の心はあったが、他のイングランド人がそうであったように、ウェントワースもアイルランド人やカトリックに対する思いやりは持ち合わせていなかった。ウェントワースの統治は、基本的にイングランドの慣習・法・信仰を施行するというものであった。「この王国(訳註:アイルランド)がカトリックである限り、この王国の臣民はイングランドの王の従僕たりえないことは明らかだ」と彼自身が書き残している。

ウェントワースの評判を落とした政策の1つに、アイルランド各地へのイングランド人植民計画があげられる。これはカトリックが多数を占めていたアイルランドをプロテスタント化すること、アイルランド経済活性化のためのカンフル剤たらしめること、そして人口が増えつつあったイングランドにおいて植民先を提供すること[6]などが目的だった。植民用の土地を確保するために不在地主の土地所有を禁じ、違反した場合は土地召し上げを行う旨の法を施行した。この法はカトリックのみならずプロテスタント地主の土地をも没収することになり、既得権者の怒りを買った。

議会からの弾劾[編集]

ウェントワースは1639年9月にイングランドに呼び戻され、危機的状況にあった国家財政問題、および対スコットランド問題(主教戦争)など国家全体にわたる諸問題についての主要なアドバイスを行う立場になった。しばらくアイルランドにいたウェントワースは、ここ数年来のチャールズ1世と議会の対立を知らず、対スコットランド戦争のための税収を認めさせるために議会を招集するよう勧めた。翌1640年1月にストラフォード伯爵位に叙され、3月にアイルランドに戻って議会を開くとスコットランドの長老派討伐のための補助金を議会に認めさせ、開戦の準備を整えると再びイングランドに赴き、貴族達に国王を支持するよう説得して回り、議会の反発に悩まされていたチャールズ1世に対しては、期待していたほどの金額は集まらなかったがこれで満足すべきだと助言した。

ところがこの短期議会はウェントワースの予測を裏切って、スコットランドとの和平を主張した。課税を認めるために議会が出した交換条件はさらに高圧的なものとなり、ウェントワースも議会の解散を支持せざるを得なかった。短期議会は僅か3週間で解散されたが、ウェントワースら枢密院は財源をどこに求めるかで意見が割れて集約出来ず、財源確保の同意取り付け必要のため再度の議会招集は時間の問題となっていた。

主教戦争で屈辱的な敗戦と和睦を経た1640年11月には、議会を再度招集するしか道は残されていなかった。11月3日に集まった長期議会は、ただちにウェントワースを呼び出した。「彼の名誉が傷つけられない」ことを文書で約束したうえでの呼び出しであったが、議員達の怒りは充満していた。ウェントワースはこのことを察知し、11月9日に到着するとすぐにチャールズ1世に、議会派がスコットランド勢力と通じているという批判を展開するよう頼んだ。しかし機先を制したのは議会派で、ウェントワースはジョン・ピムによって告発され、11月25日ロンドン塔送りとなった。罪状は王国の法を蹂躙したということであった。

私権剥奪法[編集]

ウェントワースの裁判。ロンドン塔所長と共に被告席に立っているのがウェントワース。チャールズ1世は玉座の奥で王妃達と共に裁判を見ている

議会から王の手先として糾弾されたウェントワースだったが、議員たちの攻撃材料はいかにも貧弱であった。唯一ともいえる証拠であるウェントワースの演説のメモは断片的で、いかようにも解釈できる代物だった。ウェントワースはこの点を突き、4月10日、弾劾の失敗によってひとまず命をつなぎ止めた。しかし弾劾の失敗は同時にウェントワースをして絶対王政の象徴たらしめたため、議員達は彼をつぶす必要を感じ、私権剥奪法[7]を提案し、204対59の大差で通過させた。上院で否決させることは可能で、国王側はその算段で動いていたが、民衆とジェントリ達の怒りは尋常ならざるもので、上院の貴族達を恐怖させるに十分であった。

このまま上院で審議すれば可決しウェントワースの首と胴体が離れると考えたチャールズ1世は、主だった議員とロンドン塔を武力によって制しようと計画した。しかしこの計画が事前に洩れ、チャールズ1世とウェントワースの立場を悪化させる結果に終わった。上院は私権剥奪法を通過させざるをえず、残る壁はチャールズ1世が法案に署名するのみとなった。

チャールズ1世はウェントワースに良心の呵責を感じて署名を拒んでいたが、ウェントワース自身からの嘆願が最終的に決断させることになった。

「…私は、陛下の署名拒否によって起こるであろう暴動や虐殺といった惨事を防ぐために、陛下にご署名なさることを謹んで嘆願いたします。現在の不幸な状況を乗り越えて、陛下と議会が神の祝福のもとに合意にいたることができるならば、これにまさる望みはありません。」
ウェントワースの処刑場面

5月10日、チャールズ1世は法案に署名し、12日にタワーヒルにおいて20万の観衆の前でウェントワースは首を刎ねられた。

ウェントワース処刑の知らせがアイルランドに届くと、当地の治安はたちまち混乱に陥った。ウェントワースのイングランド化政策によって追いやられていたカトリック系住民が反乱を起こし、プロテスタント住民が虐殺されたという報が過大にイングランドに伝わった。これがイングランドの秩序も混乱に陥れ、イングランド内戦と三王国戦争(清教徒革命)によってブリテン諸島は戦争の時代に突入することになった。

ウェントワースの死から4年後の1645年にロードも処刑され、8年後の1649年、チャールズ1世もウェントワースやロードに倣って処刑された。チャールズ1世は処刑前の最後の望みを「罪状をウェントワースの処刑に署名したことにしてほしい」と言い残したといわれる。ストラフォード伯位を始めウェントワースの肩書きは全て消滅したが、息子のウィリアム・ウェントワースはチャールズ1世の息子チャールズ2世王政復古後の1662年にストラフォード伯位を与えられ復権を果たした。

後世の評価[編集]

トマス・ウェントワースへの評価は時代によって二転三転した。アイルランドの人々にとっては議論の余地のない悪役であったが、ヨーク大学のウェントワース・カレッジにその名を残しているように、イングランドにおいては必ずしも悪役として評価されているわけではない。清教徒革命における国王派や後のトーリー達にとっては殉教者のひとりであり、議会派やホイッグにとっては尊大な権力志向者であった。

ウェントワースをめぐる評価は分裂状態にあったが、1732年にノウラー(Knowler)の名で出版された「Strafford's Letters」が転機をもたらした。ウェントワースの非公開の手紙・書簡などからなるこの書は、著者ノウラーの背後にパトロンとしてウェントワースの曾孫のロッキンガム子爵が先祖の名誉を回復しようとしたものであり、都合の悪い部分は削除して出版されたものであった。しかしこれが真に受けられ、以降20世紀中ごろまでウェントワースは忠実なる国王の従僕にして悲劇の主人公ということになった。20世紀前半、バークレア(1931年)・ウェッジウッド(1935年)・バークンヘッド(1938)がそれぞれウェントワースの伝記を出版したが、いずれも好意的評価を与えるものであった。ところが「つごうの悪い部分」が20世紀半ばに見つかってしまい、風向きが変化することになる。ウェントワースの強権的で無慈悲な態度をしめす記述がすくなからず見つかり、ウェッジウッドは1961年に改訂版を出して対応した。ウェントワースは一転、イングランド内戦の原因を作った犯人の1人になってしまった。

ウェントワースをどのように描写するかについて、歴史家の間で見解の一致はみられない。ウェントワースは常に政敵と戦う必要に迫られており、冷酷さなしには政界で生き残れなかったのも確かであった。権利の請願に参加しながらも国王に強く敵対しなかったのも、彼の出身選挙区であるヨークシャーの人々の意見を吸い上げてのことであった。彼の積極的意志はアイルランド総督時代にみられ、議会運営をうまく行い、カトリックのみならずプロテスタントの不在地主の所有地にもメスを入れたことはイングランド在住の既得権者の恨みを買い、最後に国王の「専制」の責任を一身に背負って人生を終えた。ウェントワースは期待された役割を果たしただけであるとする意見がある一方、横暴さや冷酷さを指摘する声もあり、ウェントワースをめぐる議論は現在進行形で続いている。

脚注[編集]

  1. ^ 一方で、妻を亡くした時の祈り方はピューリタンのそれであった。
  2. ^ 第1子は産後すぐ死亡したため、事実上の長男である。
  3. ^ 1614年に召集された議会。議会操作によって補助金を認めさせようとした国王ジェームズ1世に議会が反発して混乱に陥り、一つの法案をも通さずに解散に至ったため、このような名称で呼ばれている。
  4. ^ これには、政敵との関係が微妙に影を落としていた。同じ選挙区のジョン・サヴィルはウェントワースのライバルであったが、サヴィルはパトロンにバッキンガム公を擁していた。
  5. ^ 当時ヨーロッパ大陸は三十年戦争のさなかにあり、折しもスペインがプファルツ選帝侯領に侵攻を開始していた。プロテスタント強硬派は、プロテスタント国が団結してこれに反撃すべきだと主張した(今井、164頁)。
  6. ^ 17世紀前半のイングランドは、自然増加ユグノー流入など社会増加の双方による急速な人口増加に生産力が追いつかず、インフレが起こって失業や不安定な雇用形態が深刻な社会問題となっていた。アイルランドや13植民地への植民政策は、人々に職を与える側面も有していた。Morrill, pp. 1-17.
  7. ^ 反逆者に対して私権を奪う立法。通常の私権剥奪と異なり、裁判を経る必要がなかった。

参考文献[編集]

英語版記事 of 18:52, June 27, 2006および、

  • Armstrong, Robert. "Protestant War: The 'British' of Ireland and the wars of the three kingdoms", Manchester University Press, 2005. ISBN 0719069831
  • Asch, G. Ronald. "Wentworth, Thomas, first Earl of Strafford", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, vol.58, pp.142-157, 2004.
  • Morrill, John. "STUART BRITAIN: A Very Short Introduction", Oxford University Press, 2005. ISBN 0192854003
  • 今井宏編「世界歴史大系 イギリス史 2 近世」山川出版社、1990年。ISBN 4634460203
  • 松村赳・富田虎男編「英米史辞典」研究社、720頁、2000年。ISBN 476743047X

関連作品[編集]

  • クロムウェル -- パトリック・ワイマーク(Patrick Wymark)がウェントワース役を演じている。
名誉職
先代:
ジョン・サヴィル
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー治安判事
1616年 - 1626年
次代:
ジョン・サヴィル
公職
先代:
サンダーランド伯
ヨークシャー統監
1628年 - 1641年
次代:
サヴィル子爵
先代:
ジョン・サヴィル
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー治安判事
1630–1641
先代:
空位
アイルランド総督
1633年 - 1641年
次代:
レスター伯
イングランドの爵位
先代:
新設
ストラフォード伯爵
1640年 - 1641年
次代:
消滅