チャールズ・ジェームズ・フォックス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
イギリスの旗 イギリスの政治家
チャールズ・ジェームズ・フォックス
Charles James Fox
Charles James Fox by Karl Anton Hickel.jpg
アントン・ヒッケルドイツ語版画のフォックス)
生年月日 1749年1月24日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国ロンドン
没年月日 1806年9月13日(満57歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスチズウィック
出身校 オックスフォード大学ハートフォード・カレッジ
所属政党 ホイッグ党
称号 枢密顧問官 (PC)
親族 初代ホランド男爵英語版(父)
配偶者 エリザベス・ブリジット・アーミステッド

内閣 第二次ロッキンガム侯爵内閣
第二次ポートランド公爵内閣
グレンヴィル男爵内閣
任期 1782年3月27日 - 1782年7月5日
1783年4月2日 - 1783年12月19日
1806年2月7日 - 1806年9月13日

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 ミッドハースト選挙区英語版
ウェストミンスター選挙区英語版
任期 1768年 - 1774年
1780年 - 1803年
テンプレートを表示

チャールズ・ジェームズ・フォックス閣下: Rt. Hon. Charles James Fox, PC1749年1月24日 - 1806年9月13日)は、イギリス政治家

ホイッグ党ロッキンガム侯爵派として活躍し、1782年のロッキンガム侯爵内閣でイギリスの初代外務大臣(在職1782年3月-7月)を務める。ロッキンガム侯爵の死後、彼の派閥を継承してホイッグ党内にフォックス派を形成した。1783年にはホイッグ党ノース卿派と連立を組み、ポートランド公爵内閣を成立させ、その外務大臣となるも、国王ジョージ3世との対立により内閣は短期間に終わる。その後に成立したトーリー党長期政権小ピット内閣には野党として徹底的闘争を挑んだ。1806年に成立したホイッグ・トーリー連立政権のグレンヴィル内閣には外務大臣として入閣したが、同年中に死去した。

自由主義的な政治家であり、アメリカ独立フランス革命、議会改革や奴隷貿易廃止を支持した。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1749年1月24日、政治家のヘンリー・フォックス英語版(後の初代ホランド男爵)とその妻キャロライン英語版(第2代リッチモンド公爵チャールズ・レノックス英語版の娘)の間の次男としてロンドンで生まれる[1]

イートン校を経てオックスフォード大学ハートフォード・カレッジを卒業[1]

1768年ミッドハースト選挙区英語版から出馬してホイッグ党所属の庶民院議員に当選した[2]

ノース卿内閣の閣僚期[編集]

1770年ノース卿内閣が成立すると海軍卿の一人として入閣したが、1772年には王室結婚法案をめぐる閣内分裂を機に辞職した[2]。その後、1772年に下級大蔵卿(Junior Lord of the Treasury)として再入閣したものの、スキャンダルが多かったため、1774年に国王ジョージ3世の意向で罷免された[2][1]

ロッキンガム侯爵派として[編集]

以降はホイッグ党内野党勢力ロッキンガム侯爵派に属し、ノース卿内閣の方針を批判するようになった。アメリカ独立戦争でもアメリカ植民地支持を表明し、イギリス政府の対米政策を批判した[3][4]1778年2月2日にはこれ以上アメリカに増援部隊を派遣することに反対する動議を庶民院に提出した。この動議自体は否決されたものの、165票もの賛成票を得たことで注目された。これをきっかけにロッキンガム侯爵派は明確にアメリカ独立支持の方針を打ち出すようになった[5]

また1779年のヨークシャー運動を契機に議会外改革派の運動が高まり、議会改革(平等選挙区、男子普通選挙、議員任期1年、議員歳費支給など)が盛んに訴えられるようになったが、首相ノース卿はじめ議会政治家の大半がこれに否定的だったのに対して、フォックスらホイッグ党ロッキンガム侯爵派は前向きな姿勢を取った。議会内改革派と議会外改革派の距離が広がると議会外改革派が過激化する恐れがあるという判断からの支持であり、この考え方が19世紀前半のホイッグ党の自由主義改革へと繋がっていく[6]

ロッキンガム侯爵内閣の外相[編集]

1782年のジョシュア・レノルズ]画のフォックスの肖像画。

1781年11月までにアメリカ独立戦争の敗北は決定的となり、ノース卿内閣は1782年3月に総辞職に追い込まれた。代わって第二次ロッキンガム侯爵内閣が成立し、フォックスは新設された外務大臣として同内閣に入閣した。内閣においてフォックスはアメリカ独立を無条件に支持し、また議会改革に積極的な立場を取ったため、アメリカ独立に消極的な内務大臣シェルバーン伯爵と対立を深めた[7]

1782年7月に首相ロッキンガム侯爵が死去。フォックスは議会の最多数派であるロッキンガム侯爵派のポートランド公爵が首相になるべきであると訴えたが、国王はこれを無視してシェルバーン伯爵に組閣の大命を与えたため、それに反発して外相を辞した。これ以降フォックスに従って下野したロッキンガム侯爵派の議員たちはフォックス派という派閥を形成するようになった[8]

フォックス=ノース連立内閣の外相[編集]

1783年時の庶民院勢力はシェルバーン伯爵派140議席、ノース卿派120議席、フォックス派90議席、その他200議席となっていた。そのためシェルバーン伯爵とフォックス派は競い合うようにノース卿派の取り込みを図ったが、結局ノース卿は1783年2月中旬にフォックス派との連立を決定した。フォックス=ノース連合は、シェルバーン伯爵内閣がアメリカとの間に締結した仮条約を弱腰外交と批判し、2月24日にもシェルバーン伯爵内閣を庶民院の評決で敗北させて総辞職に追い込んだ。国王ジョージ3世はフォックスが中心になって活躍する政権を阻止したがっていたが、議会を無視するわけにはいかず、フォックス派のポートランド公爵に組閣の大命を与える羽目となった。フォックスは同内閣に外務大臣として入閣した(ノース卿は内務大臣として入閣)[9]

しかし組閣後も国王から嫌われ続けたうえ、1783年春から夏頃にかけて内閣は汚職の容疑がかかっていた官職保有者を擁護したことや、フォックスと親しい関係にあった皇太子ジョージの借金問題の対応などで人気を落としていった。また小ピット提出の議会改革案をめぐってはフォックスとノース卿の見解の違いが露呈した。結局インド法案[注釈 1]が12月に国王の手回しで貴族院で否決されたことで内閣は更迭され、トーリー党の小ピットが後任の首相となった[10]

国王の露骨なポートランド公爵内閣降ろしは18世紀的立憲主義に照らしても許し難い物だったので下野したフォックス派は国王批判・小ピット批判を本格化させた。しかし世論は逆に野合的なフォックス=ノース連合の方に批判的であり、党派的行動を嫌う改革派小ピットを支持した。その世論に支えられて小ピットは野党の攻勢に耐え抜いた。そして1784年3月の解散総選挙英語版で与党トーリー党は大勝し、フォックス=ノース連合は惨敗するに至った。フォックス自身もウェストミンスター選挙区英語版で苦戦を強いられ、ギリギリの票差で当選している[11]

小ピット内閣の野党時代[編集]

以降野党勢力は大きく力を落とし、ピット内閣は17年にわたる長期政権を築いた[11]

フォックスはその全期を通じて野党生活を送り、小ピットの政策のほぼすべてに反対した[2]。これに対して小ピットはホイッグ党並みの進歩的政策を打ち出すことでフォックスが党派的行動からそれに反対せざるを得ないという状況を作り出し、フォックスの信用を落とした[12]。フォックスが小ピットの政策で唯一賛成したのは、1785年の議会改革法案だった。しかしこの法案は与党トーリー党内からの強い反発で小ピットも可決させられなかった[2][13]

フォックスは1789年に発生したフランス革命を強く支持した。イギリス世論はフランス革命についてはじめ支持、革命が過激化してくると批判へと転じたが、フォックスは一貫してフランス革命を称賛し続けた[2]フランス革命戦争で英仏が交戦状態となった後もその立場は変わらなかった。「イギリスが誤っているのだから、フランスがイギリスに対して優位に立つのは喜ばしいことである」とさえ発言して世論から国賊呼ばわりされたこともあった。議会内でもあまりの親仏的態度により支持者を失って孤立した[14]

グレンヴィル内閣の外相就任と死去[編集]

1806年1月、小ピットの死後に成立したホイッグ党のウィリアム・グレンヴィルを首相とするホイッグ・トーリー連立内閣で外務大臣として入閣した。奴隷貿易廃止法案の議会通過に目途を付けたが、同年9月13日に死去した。ウェストミンスター寺院に葬られた[14]

人物と評価[編集]

ロンドン・ブルームズベリー広場英語版にあるフォックス像

G.M.トレヴェリアン英語版は「青年時代の賭博者としての浪費、後年の政治家としての逸脱、ノースとの連合、ピットの1780年代の最善の緒政策の多くに対する党派的な反対、これらはフォックスの評価にあたって不利な要因である。しかし年配と政治的前途の暗い見通しが彼を真剣ならしめるとともに、党争に費やされてきた精神の炎は、いよいよ誠実に被抑圧者の擁護に向かっていった。特に黒人奴隷である。ピットはますます大英帝国と全ヨーロッパをナポレオンから守るという日々の緊急事に心を奪われて他の全てを忘れ去り、奴隷貿易反対運動も一定以上進んで応援しようとしなかった。しかしフォックスの情熱とピットの死後の連立内閣でホイッグ領袖を政権につかせた機会があったおかげで、奴隷貿易ははるか後年を待つことなく、1807年に廃止された」と評価している[15]

栄典[編集]

家族[編集]

エリザベス・ブリジット・アーミステッドと10年に及ぶ愛人関係の末に1795年に結婚した[2]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 東インド会社の管理権を政府が任命する7人の委員会に移すことを骨子とする。「事実上フォックスが東インド会社を支配する内容」として主に議会外から批判されていた[10]

出典[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

議会
先代:
バンバー・ガスコイン英語版
ジョン・バーゴイン
ミッドハースト選挙区英語版選出庶民院議員
1768年英語版1774年英語版
同一選挙区同時当選者
スタヴォーデール男爵英語版
次代:
ハーバート・マックワース英語版
クレメント・タッドウェイ英語版
先代:
トマス・ペラム=クリントン卿英語版
モールデン子爵英語版
ウェストミンスター選挙区英語版選出庶民院議員
1780年英語版 – 1806年
同一選挙区同時当選者
サー・ジョージ・ロドニー准男爵英語版(1780-1782)
サー・セシル・レイ准男爵英語版(1782-1784)
サミュエル・フッド(1784-1788,1790-1796)
ジョン・タウンゼンド卿英語版(1788-1790)
サー・アラン・ガードナー准男爵(1796-1806)
次代:
サー・アラン・ガードナー准男爵
パーシー伯爵英語版
公職
先代:
初代ヒルズバラ伯爵英語版
(前身の南部担当大臣英語版
グレートブリテン王国の旗 外務大臣
1782年
次代:
第2代グランサム男爵
先代:
ノース卿
グレートブリテン王国の旗 庶民院院内総務
1782年
次代:
トマス・タウンゼンド英語版
先代:
第2代グランサム男爵
グレートブリテン王国の旗 外務大臣
1783年
次代:
第3代テンプル伯爵英語版
先代:
トマス・タウンゼンド英語版
グレートブリテン王国の旗 庶民院院内総務
1783年
次代:
小ピット
先代:
第3代マルグレイヴ男爵
イギリスの旗 外務大臣
1806年
次代:
ホーウィック子爵
先代:
ウィリアム・ピット
イギリスの旗 庶民院院内総務
1806年