ジェレミ・ベンサム

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ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham、1748年2月15日 - 1832年6月6日)は、イギリス哲学者経済学者法学者功利主義の創始者として有名である。

ジェレミ・ベンサム
ジェレミ・ベンサム

目次

[編集] 人物

法学を専攻するもウィリアム・ブラックストンの講義を聴いて失望し、功利主義の立場から自然法を批判的に論じた。法典化を推奨し、後世の国際法学に影響を与えた。英単語の codify(法典化する)も international(国際的な)も彼の造語である。他にも、maximize や minimize などの多数の造語は、既存の用語による先入観をできるだけ排除して新たな方法論を記述するための努力の結晶といえる。

彼の名前は、日本では「ベンサム」と表記発音され英語圏でも[ˡbenθəm]と発音されるのが一般的だが、語源から言えば古英語のbeonet(コヌカグサ)とham(村落)に由来するため[1]、tとhをつなげて読まずに[ˡbentəm]と発音する方が本来は正しく(岩佐幹三『市民的改革の政治思想』[法律文化社、1979年]参照)、また日本でも特に法律学者は伝統的にベンタムと表記することが多いようである(長谷川正安「訳者はしがき」(長谷川正安訳、J.ベンタム著、E.デュモン編『民事および刑事立法論』、勁草書房、1998年)参照)。 本項では一般的なベンサムという読みを採用する。

[編集] 生涯

ロンドンのスピタルフィールズで富裕なトーリー党の家族に生まれた。幼少の頃から父親の机に座って何巻もの英国史を読み、神童として認識された。彼は三歳のときからラテン語を習った。

ベンサムはウェストミンスター校に入学し、その後、1760年には父親によってオックスフォード大学のクィーンズカレッジに入れられ、そこで1763年学士号を、1766年に修士号を取ることになった。ベンサムは法律家として訓練され、1769年弁護士資格を得た。富裕な弁護士である彼の父は、ベンサムを法曹にして父の後を継がせることを決め、彼の利発な息子がいつか英国大法官になることは確実だと思っていた。

しかしすぐにベンサムは法曹界に幻滅した。それは特に、当時の主導的権威であるウィリアム・ブラックストン卿の講義を聴講したことによる。彼が「誤魔化しの悪魔」("Demon of Chicane")と呼んだイギリスの法典の複雑さを非常に不満に思い、彼は法律を実践するのではなく法律について著述することに決め、彼の人生を法律への批判とその改良方法の提案に費やした。1792年に父親が死亡したので、ベンサムは経済的に独立し、ウェストミンスターで著述家として身を立てた。40年近く彼はそこで静かに暮らし、80歳になってさえ一日に10枚ないし20枚の原稿を書いた。法や社会の改革のためにベンサムが行った多くの提案の中には、彼がパノプティコンと呼んだ監獄建築のための設計がある。それは実際に建設はされなかったが、彼のアイデアは後の世代の思想家に示唆を与え、彼の設計はペントンヴィル刑務所の輻射状のデザインなどにも影響を与えた。

ベンサムはしばしば、後にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンとなるロンドン大学の設立に関連付けられるが、これは実際には真実ではない。ベンサムは大学が開設された1828年には80歳で、その設立に何の関係もなかった。裕福であることと国教徒であることの両方がオックスフォード大学とケンブリッジ大学に入学するためには必須の要件だったが、ベンサムは、教育はより広く、特に裕福でないあるいは国教会に属していない人に対しても行われるべきであると強く信じていた。ユニヴァーシティ・カレッジは、人種信仰、政治的信念に関わらず入学を認めた最初の大学であったから、この大学はベンサムの見解に調和していた。ベンサムは、彼の生徒の一人であるジョン・オースティン1829年法理学(Jurisprudence)の初代教授として任用されるのを監督した。

死後ベンサムの遺体は、彼が遺言書で要求した通り、保存され、ユニヴァーシティ・カレッジで木製の棚に保管された。これは"オート・アイコン"と呼ばれる。それは公的な行事の際、倉庫から時折持ち出された。保存の過程で頭部は深刻な損傷を受けたので、頭部だけは蝋でできたレプリカである。本物の頭部も同じ棚に長年展示されていたが、たびたび学生のいたずらの標的にされ、事あるごとに盗まれたので、現在では厳重にしまい込まれている。

[編集] 功利主義

ベンサムは法や社会の改革を多く提案しただけでなく、改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。「快楽や幸福をもたらす行為が善である」というベンサムの哲学は功利主義と呼ばれる。ベンサムは、正しい行為や政策とは「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness for the greatest number)をもたらすものであると論じた。「最大多数の最大幸福」とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味である。しかし彼は後に、「最大多数」という要件を落として「最大幸福原理」(the greatest happiness principle)と彼が呼ぶものを採用した。ベンサムはまた、幸福計算と呼ばれる手続きを提案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するものである。功利主義は、ベンサムの門弟であるジョン・ステュアート・ミルによって、修正され拡張された。 ベンサムの理論には、ミルの理論とは異なり、公正さの原理が欠落している、としばしば言われる。例えば、拷問される個人の不幸よりも、その拷問によって産出される他の人々の幸福の総計の方が大きいならば、道徳的ということになる、という批判がある。しかしながら、P. J. ケリーが著作『功利主義と配分的正義―ジェレミ・ベンサムと市民法』(Utilitarianism and Distributive Justice: Jeremy Bentham and the Civil Law [ISBN 0-19-825418-0])の中で論じているように、ベンサムはそのような望ましくない帰結を防ぐような正義論をもっていた。ケリーによれば、ベンサムにとって法とは、「個々人が幸福と考えるものを形成し追求できるような私的不可侵領域を定めることによって、社会的な相互作用の基本的枠組みを提供する」(op. cit.、p. 81)ものなのである。私的不可侵領域は安全を提供するが、この安全は期待を形成するための前提条件である。幸福計算によれば、「期待効用」(expectation utilities)は「自然効用」よりもはるかに高くなるので、ベンサムは多数者の利益のために少数者を犠牲にすることを支持しないのである。

功利主義が肯定的に語られる例として、当時のイギリスでは禁止されていた同性愛の擁護が挙げられる。ベンサムは、同性愛は誰に対しても実害を与えず、むしろ当事者の間には快楽さえもたらすとして、合法化を提唱した。この他、功利主義によれば被害者なき犯罪はいずれも犯罪とならない。

[編集] 著作

主な著作は、

  • 『統治論断片』
  • 『立法と道徳の原理序説』
  • 『法一般について』
  • 『義務論』
  • 『憲法典』
  • 『クレストメイシア』
  • 『立法論』(デュモン編訳)

など。

全集は、

  • ロンドン大学のベンサムプロジェクトによる "The Collected Works of Jeremy Bentham"
  • バウリングの編集による "The Works of Jeremy Bentham"

がある。

[編集] 名言

  • "いかなる法律自由の侵害である(Every law is an infraction of liberty.)"
  • "最大多数の最大幸福は、道徳立法の基盤である(The greatest happiness of the greatest numbers is the foundation of morals and legislation.)"
ジェレミ・ベンサムのオート・アイコン
ジェレミ・ベンサムのオート・アイコン

ベンサムの遺体はミイラにされて服を着て杖を持ち椅子に座った状態でロンドン大学に保存されている。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク