オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)
第3代グラフトン公オーガスタス・ヘンリー・フィッツロイ(Augustus Henry FitzRoy, 3rd Duke of Grafton, 1735年9月28日 - 1811年3月14日)は、イギリスの政治家。
第2代グラフトン公チャールズ・フィッツロイの孫として生まれ、1757年に公爵となった。グラフトン公家は、チャールズ2世と愛妾クリーヴランド公爵夫人の次男ヘンリー・フィッツロイに始まる家柄で、彼はその4世代目の子孫であった。
ウェストミンスター・スクールを卒業後、大陸へグランド・ツアーとして出かけた。帰国後、ケンブリッジ大学ピーターハウスで単位を取得。1756年、ボロブリッジ選出の議員となった。彼は最初、ジョージ3世の寵臣ビュート伯の政敵として知られるようになった。同じくビュート伯と対立していたニューカッスル公と組み、短期間の首相となった。1765年のロッキンガム侯政権では北方相となったが同年に引退。
1767年の終わりにチャタム伯ウィリアム・ピットの病状が悪化した結果、フィッツロイが政府で最も影響力のある政治家となった(1768年には首相室の補佐をしている)。1768年にケンブリッジ大学総長となり、1771年と1782年の2度王璽尚書を務めた。晩年は確固たるユニテリアン主義者であった。1811年、75歳で死去。息子のジョージが爵位を継いだ。イギリス海軍軍人でビーグル号の船長を務めたロバート・フィッツロイは孫に当たる。
フィッツロイはサラブレッド生産も手掛け、ダービーを3回勝った。彼が生産した馬たちの子孫は現在でも非常に繁栄しており、父系ベースでみると全サラブレッドの95%がホエールボーンの父系子孫、牝系ベースでも、サラブレッドの16%を占める1号族の大半が彼が生産した馬たち(PromiseとPrincessの姉妹、及びその子供)を基礎としている。
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