グランヴィル・ルーソン=ゴア (初代スタッフォード侯爵)

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初代スタッフォード侯爵
グランヴィル・ルーソン=ゴア
Granville Leveson-Gower, 1st Marquess of Stafford
生年月日 1721年8月4日
没年月日 (1803-10-26) 1803年10月26日(82歳没)
死没地 スタッフォードシャートレンタム・ホール英語版
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャート
所属政党 ホイッグ党トーリー党
称号 初代スタッフォード侯爵、第2代ゴア伯爵ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)
配偶者 ルイーザ(旧姓ファザカーリー)
ルイーザ(旧姓エジャートン)
スザンナ(旧姓ステュアート)
親族 初代ゴア伯(父)
初代サザーランド公(長男)
初代グランヴィル伯(次男)
初代エレズミーア伯英語版(孫)
第2代グランヴィル伯(孫)

内閣 第1次ニューカッスル公内閣、デヴォンシャー公内閣
小ピット内閣
在任期間 1755年12月 - 1757年6月
1784年11月 - 1794年7月

内閣 大ピット内閣、グラフトン公内閣、ノース卿内閣
小ピット内閣
在任期間 1767年12月22日 - 1779年11月24日
1783年12月19日 - 1784年12月1日

グレートブリテン王国の旗 庶民院議員
選挙区 ビショップズ・キャッスル選挙区英語版
ウェストミンスター選挙区英語版
リッチフィールド選挙区英語版
在任期間 1744年12月 - 1747年
1747年 - 1754年4月
1754年4月 - 1754年12月

グレートブリテン王国の旗 貴族院議員
在任期間 1754年12月25日 - 1803年10月26日
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初代スタッフォード侯爵グランヴィル・ルーソン=ゴア英語: Granville Leveson-Gower, 1st Marquess of Stafford, KG, PC1721年8月4日 - 1803年10月26日)は、イギリス政治家貴族

18世紀中期から後期のイギリス政界で閣僚職を歴任した。

父がゴア伯爵 (Earl Gower) に叙された1746年から自身が爵位を継承する1754年までトレンタム子爵 (Viscount Trentham) の儀礼称号で称されていた。1754年にゴア伯爵位を継承し、1786年にはスタッフォード侯爵位に叙せられた。

経歴[編集]

1721年8月4日、第2代ゴア男爵ジョン・ルーソン=ゴア(後にゴア伯爵に叙される)とその先妻のイヴェリン(初代キングストン=アポン=ハル公爵英語版エヴリン・ピアポントの娘)の間の長男として生まれる[1][2]

ウェストミンスター・スクールを経てオックスフォード大学クライスト・チャートへ進学[1]

1744年12月にビショップズ・キャッスル選挙区英語版の補欠選挙から庶民院議員に初当選した。1747年総選挙からはウェストミンスター選挙区英語版1754年4月の総選挙からはリッチフィールド選挙区英語版に鞍替えして当選を続ける。同年12月25日に父が死去し、爵位を継承して貴族院へ移籍した[1]

1755年1月にスタッフォードシャー知事英語版に就任。さらに同年12月に第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルの縁故を頼って王璽尚書に就任するとともに枢密顧問官に列した。1757年6月には主馬頭英語版1760年11月には衣服保管長官英語版1763年4月には宮内長官英語版と転任する。しかし1765年7月にはホイッグ革新派の領袖第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースが首相となったことにより辞任に追いやられた[1]

1766年8月には首相初代チャタム伯爵ウィリアム・ピット(大ピット)から海軍大臣英語版としての入閣を求められたが、拒否した。しかし1767年12月には第一大蔵卿の第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイの求めに応じる形で枢密院議長に就任した。以降10年以上の長期にわたって同職に在職した。1771年2月にガーター勲章を受勲する。はじめアメリカ独立戦争継続派だったが、途中で考えを変えたため、1779年11月に枢密院議長を辞職してノース卿内閣から離れた[1]

彼は「国王の友」と呼ばれる親国王派の議員と見られていたので、1782年3月にノース卿内閣が崩壊した際には国王ジョージ3世から組閣を打診されたが、彼は組閣のためには野党ロッキンガム侯爵派の協力が不可欠であり、自分ではそれを得ることは不可能と判断して拝辞した[3]1783年3月の第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティ内閣の崩壊後も組閣の打診を受けたが、やはり拝辞している[1]

1783年12月にウィリアム・ピット(小ピット)内閣が成立すると再び枢密院議長として入閣した。1784年11月からは王璽尚書へ転任した[1]。1786年3月1日にスタッフォード侯爵(Marquess of Stafford)に叙せられる。1794年7月に第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの入閣を機に王璽尚書を辞した[1]

1803年10月26日スタッフォードシャートレンタム・ホール英語版で死去した[1]

家族[編集]

1744年12月にニコラス・ファザカーリー(Nicholas Fazakerley)の娘エリザベス(?-1746)と結婚したが、彼女は結婚後間もなく死去した[1]

1748年3月に初代ブリッジウォーター公爵スクロープ・エジャートンの娘ルイーザ(1723-1761)と再婚し、彼女との間に以下の4子を儲けた[4]

1768年5月には第6代ギャロウェイ伯爵アレグザンダー・ステュアートの娘スザンナ(?-1805)と三度目の結婚をし、彼女との間に以下の4子を儲けた[4]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j "Leveson-Gower, Granville (1721-1803)" . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  2. ^ Lundy, Darryl. “John Leveson-Gower, 1st Earl Gower” (英語). thepeerage.com. 2015年8月13日閲覧。
  3. ^ 小松春雄 1983, p. 279.
  4. ^ a b Lundy, Darryl. “Granville Leveson-Gower, 1st Marquess of Stafford” (英語). thepeerage.com. 2015年8月13日閲覧。

参考文献[編集]

グレートブリテン議会英語版
先代
カーナーヴォン侯爵
アンドリュー・ヒル
ビショップズ・キャッスル選挙区英語版
選出庶民院議員

1744年1747年
同一選挙区同時当選者
アンドリュー・ヒル
次代
サミュエル・チャイルド
ジョン・ロビンソン・リットン
先代
パーシヴァル子爵英語版
チャールズ・エドウィン英語版
ウェストミンスター選挙区英語版
選出庶民院議員

1747年 – 1754年
同一選挙区同時当選者
サー・ピーター・ウォーレン英語版(1747–53)
エドワード・コーンウォリス英語版(1753–54)
次代
サー・ジョン・クロッセ
エドワード・コーンウォリス英語版
先代
ヘンリー・ヴァーノン
トマス・アンソン英語版
リッチフィールド選挙区英語版
選出庶民院議員

1754年
同一選挙区同時当選者
トマス・アンソン英語版
次代
ヘンリー・ヴァーノン
トマス・アンソン英語版
公職
先代
第3代マールバラ公爵
王璽尚書
1755年1757年
次代
第2代テンプル伯爵
先代
初代ドーセット公爵
主馬頭英語版
1757年 – 1760年
次代
第10代ハンティンドン伯爵英語版
先代
第4代マールバラ公爵
宮内長官英語版
1763年1765年
次代
第3代ポートランド公爵
先代
初代ノースイントン伯爵
枢密院議長
1767年1779年
次代
第2代バサースト伯爵
先代
第7代ストアモント子爵
枢密院議長
1783年1784年
次代
初代カムデン伯爵英語版
先代
第4代ラトランド公爵
王璽尚書
1784年 – 1794年
次代
第2代スペンサー伯爵
宮廷職
先代
サー・トマス・ロビンソン
衣服保管長官英語版
1760年1763年
次代
フランシス・ダッシュウッド
名誉職
先代
初代ゴア伯爵
スタッフォードシャー知事英語版
スタッフォードシャー首席治安判事英語版

1755年1799年
次代
ゴア伯爵
先代
初代ダウンシャー侯爵
最先任枢密顧問官英語版
1793年 – 1803年
次代
初代タウンゼンド侯爵
グレートブリテンの爵位
爵位創設 初代スタッフォード侯爵
1786年1803年
次代
ジョージ・ルーソン=ゴア
先代
ジョン・ルーソン=ゴア
第2代ゴア伯爵
1754年 – 1803年
イングランドの爵位
先代
ジョン・ルーソン=ゴア
第3代ゴア男爵
1754年 – 1799年
繰上勅書により生前に爵位譲る
次代
ジョージ・ルーソン=ゴア