フランツ2世

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フランツ2世 / 1世
Franz II. / I.
神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝 (その他)
フランツ2世

戴冠 1792年7月19日
先代 レオポルト2世

宰相 クレメンス・フォン・メッテルニヒ
次代 フェルディナント1世

出生 1768年2月12日
トスカーナフィレンツェ
死亡 1835年3月2日(満67歳没)
オーストリアウィーン
埋葬 オーストリアウィーンカプツィーナー納骨堂
実名 Franz Joseph Karl
フランツ・ヨーゼフ・カール
帝室 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 レオポルト2世
母親 マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン
后妃
子女
居所 ホーフブルク宮殿
信仰 キリスト教カトリック教会

呼称は、神聖ローマ皇帝としてはフランツ2世、オーストリア皇帝としてはフランツ1世、ハンガリー国王としてはフェレンツ1世、ベーメン国王としてはフランティシェク2世である。
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フランツ2世ドイツ語: Franz II.1768年2月12日 - 1835年3月2日)は、最後の神聖ローマ皇帝(在位:1792年 - 1806年)であり、最初のオーストリア皇帝フランツ1世(在位:1804年 - 1835年)である。父は神聖ローマ皇帝レオポルト2世。母はスペイン国王カルロス3世の娘マリア・ルドヴィカ。父方の叔母にマリー・アントワネットがいる。

[編集] 生涯

父は祖父フランツ1世が1765年に死去した際、祖父のトスカーナ大公位を継承していた。フランツ2世はトスカーナ大公国の宮廷が置かれたフィレンツェで生まれた。祖父の帝位を継いだ伯父の皇帝ヨーゼフ2世に子供がなかったことから、フランツ2世は未来の帝位継承者と見なされ、成長するとウィーンで教育を受けた。1790年に伯父が、帝位を継承した父が2年後の1792年に死去したため、フランツ2世が帝位についた。トスカーナ大公位は弟フェルディナンド3世が1790年に継いでいる。なお、伯父の死の2日前に最初の妃エリーザベトを、翌1791年にエリーザベトとの間の唯一の子である長女ルドヴィカを、父の死の2ヵ月半後に母マリア・ルドヴィカを喪っている。

父の死により帝位を継承した際、フランス革命が進行中であった。父は前年の1791年にピルニッツ宣言を行って革命への介入を宣言していたが、フランツ2世の即位から間もない1792年4月20日、フランス革命政府はオーストリアに宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発する。翌1793年にルイ16世が処刑されると、第一次対仏大同盟が結成されるが、その一方でオーストリアはポーランド分割にも関与する(1795年)。

その後ナポレオン戦争に巻き込まれ、三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で惨敗し、フランツ2世は神聖ローマ皇帝の称号を自ら放棄して、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。しかし、自らの支配領域であるオーストリアとハンガリー王国を中心としてオーストリア帝国を再編し、オーストリア皇帝フランツ1世として君臨した。またクレメンス・メッテルニヒを登用し、ウィーン会議で失地を回復した。

国家運営をすべてメッテルニヒら臣下に任せる場合が多かったが、質素な生活を好み、その在位も40年の長きにわたったため、晩年は国民からも親しみを込められて「善き皇帝フランツ」と称された 。

[編集] 家族

フランツは生涯に4度結婚した。

トスカーナ大公時代のレオポルト2世一家
ヨーハン・ゾファニー画、1776年ウィーン美術史美術館蔵)


[編集] 関連項目

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