敵前逃亡

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敵前逃亡(てきぜんとうぼう)とは、兵士などが軍事遂行命令を受けているにもかかわらず、戦わずに逃亡すること。この行為は重大な軍規違反であり、重刑になる可能性がある。

概要[編集]

多くの国の軍隊では、戦闘放棄し逃げ出した部下を上官がその場で射殺する即決銃殺刑を、部隊の規律と秩序を維持するために認めている。他の者が続いて逃げ出したらその戦線は総崩れとなり、敵に突破されるためである。ただし、認められている国でも実際に即決刑が適用されるかどうかは国や部隊によって大きな差がある。

部隊から逃亡した軍人を、一般的には「脱走兵」と呼ぶ。脱走兵は平時では軍法会議にかけられ、懲役刑などを科せられて再教育を受けることが多い。戦時下、戦線後方で部隊を逃亡した軍人は、懲罰部隊に転属させられることが多い。人命を軽視する傾向が強い国の軍隊や敗色が濃厚な軍隊では、死刑に処せられる場合がある。

日本の事例[編集]

日本自衛隊では、敵前逃亡は自衛隊法第123条により7年以下の懲役または禁錮となっている。防衛出動または治安出動命令を受けた後、3日以上逃亡しあるいは任務に就かない時は処罰される。なお、平時で休暇満了後に帰隊せず音信不通、また災害派遣先から逃走した場合は懲戒免職となる。自衛隊の車両を利用して任務から逃亡した場合は窃盗罪が適用されることがある。

第二次世界大戦[編集]

第二次世界大戦末期の日本軍では、指揮官の無責任な戦域離脱が何度か発生し、敵前逃亡と非難されている。ビルマ戦線での木村兵太郎大将の逃亡(南方軍に無断で逃亡中に大将に昇進)を筆頭に、フィリピン戦線での富永恭次中将による指揮下部隊を置き去りにしての敵前逃亡(ウィスキーと芸者連れで逃亡の後温泉療養)や、インパール作戦での牟田口廉也中将による作戦指揮を放棄しての戦域離脱(本人は死ぬまで「後方確保の為の行動」として逃亡の事実を認めなかった)などである。しかしいずれも左遷程度の軽い処分で済まされ、軍法会議になった事案は殆どない。富永に関しては、逃げてきた人間を予備役に編入するのはおかしいということで、懲罰的に満州へ異動させたとされるが、これもやはり左遷の一種であり、軍法会議などを経た公式な処分(銃殺刑、懲役刑)ではなく、緩い処分の範疇でしかない。ソ連対日参戦時の満州戦線でも同様に高級将校による逃亡が多発したとされているが、敗戦時の混乱のため詳しい状況は伝わっていない。

また佐藤幸徳中将による第31師団のインパール作戦の戦場放棄、抗命撤退もあったが、これは当時所属だった第15軍司令官の牟田口に確約されたはずの補給が無かったために、牟田口の死守命令を受けて散々粘った末に、弾薬、食料が完全に底を突き「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と、戦線維持不可能として抗命してまで行われた師団撤退命令であり、上記のものとはやや性格が異なる。この件に関しては牟田口司令官による独断での佐藤師団長罷免(牟田口司令官に罷免権はない)が行われ、佐藤師団長は軍法会議で作戦の非を訴えようとしたが、これもまた軍法会議は開かれず、佐藤師団長は精神に疾患ありとしてジャワ島に送られて終戦を迎えている。

2012年8月放送のNHKスペシャル「戦場の軍法会議~処刑された日本兵」にて紹介された北博昭(大阪経済法科大学客員教授)が入手した元海軍法務官文官)で法改正により1942年昭和17年)4月1日武官任用され法務中佐だった馬場東作(戦後、弁護士に転身、日本弁護士連合会元副会長)が戦場から引き上げる際に持ち出した資料によると、戦地での軍法会議で、海軍刑法[1]戦時逃亡懲役6ヶ月以上禁固7年以下の刑罰なのを、奔敵未遂(敵と戦わず捕虜に成るのを目的に逃亡)として死刑とした。戦況の悪化に伴い、食糧補給が無いので食料を探しに部隊を無断で離れる兵士も多くなり、上官殺人で軍紀の乱れが有り、軍法会議にかけず処刑された兵士も多く、変死、平病死、特攻として死に追いやられた。

軍法会議の記録は1945年昭和20年)8月15日の終戦時に軍が焼却処分しているので、ほとんどの記録が無いが、昭和30年代~40年代にかけて軍人恩給の手続きをしていた旧厚生省が軍の裁判官や法務官の20人に聞き取り調査を行い変死、平病死、特攻などの不審死に対しては正当な裁判を受けずに処刑された調査結果が国立国会図書館に資料で残っているが、遺族には調査が行われた事も結果も知らされていない為に、不当な処刑であっても県庁の社会福祉課に残る軍の記録には敵前逃亡の処刑とされ名誉回復されていない。

処刑された兵士の遺族は、戦争中は国賊扱いの白い目で見られ、隣組の発達していた時代には戸籍を移して生活基盤を失い、戦後も遺族年金を1970年昭和45年)の法改正まで受け取れなかった。

戊辰戦争の事例[編集]

戊辰戦争では、幕府軍の総大将であった徳川慶喜が薩長軍を前に部下を置き去りにして江戸へ逃げた敵前逃亡が有名である。「徳川家の将軍=幕府軍の大将としてあるまじき行動である」と批判された。

アメリカの事例[編集]

現在では、アメリカ軍では懲役刑や配置換えなどで対処される場合が大半であり、実際に銃殺刑の判決を受けても減刑されている。第一次世界大戦以降、アメリカ軍で敵前逃亡による罪で銃殺刑になったのはエディ・スロヴィクの1名のみである。

ソビエト軍の事例[編集]

第二次世界大戦中には「木に吊るす」という慣用句が出来たほどに頻繁に現地での絞首刑が行われた。1942年7月27日のスターリンによる命令「ソ連国防人民委員令第227号(原文)」によると、命令なしで自らの位置を離れたものは銃撃され、また戦車で轢き殺す命令を出しており、前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊機関銃が設置された。スターリングラードの戦いでは、この命令により1万4千人[要出典]余りの兵士が自軍に銃殺された。実に一個師団分の兵士が友軍によって殺害されたことを意味する。このような事をしたのはスターリンは裏切り者に対しては絶対に許さない性格であるためである。

その他[編集]

比喩として、競争相手や仕事内容を見て、意欲を喪失して試合や仕事を止める・放り出すことをこのように言う。

脚注[編集]

  1. ^ 海軍刑法第七十三条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
    一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
    二 戦時ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
    三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

文献情報[編集]

大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪及び非行に関する一考察 戦史研究年報 (10), 42-62, 2007-03 防衛省防衛研究所

関連項目[編集]

外部リンク[編集]