サルデーニャ王国

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1839年のサルデーニャ王国
1839年のサルデーニャ王国

サルデーニャ王国Regno di Sardegna)は、イタリアピエモンテサルデーニャ島、及び現フランスサヴォイアニースを主要な領土とした王国である。

サヴォイアから興ったサヴォイア公国を起源とする。ピエモンテのトリノ首都としたことから通称としてピエモンテ王国とも呼ばれる。イタリア統一運動(リソルジメント)において中核となり、イタリア王国の前身となった。

目次

[編集] 歴史

1720年、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は、スペイン継承戦争の際に獲得したシチリア島オーストリアに割譲する代償としてサルデーニャ島を領有し、サルデーニャ王国を成立させた。

フランス革命戦争に際しては、フランス革命政府から反オーストリア同盟を締結する提案を受けたが、代償としてサヴォイアニースの割譲を要求されたため、1792年9月より同盟を拒否してオーストリア側で参戦した。しかし、まもなくフランス軍に征服され、サヴォイアとニースを喪失した。さらに、一時はピエモンテ地方を喪失してサルデーニャ島に拠点を移すことになった。

1815年、ナポレオン戦争の終結にともない、ウィーン会議の決定に従って失地回復を果たした。また、この際にジェノヴァを合併した。

1821年3月、フェデラーティを中心とした立憲革命が勃発した。王族のカルロ・アルベルト(のちに国王となる)の理解を得て立憲制への移行が実現しようとしたが、革命の方針をめぐる内部分裂もありオーストリアの軍事干渉を受け失敗した。

1848年、フランスの二月革命を契機としてヨーロッパ各地で自由主義ナショナリズムが高揚していく中で、カルロ・アルベルト王はオーストリアに宣戦してロンバルディア地方の併合を図った。しかしまもなく敗北し、退位・亡命を余儀なくされた。この後、新王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は首相としてカヴールを登用した。

カヴール首相。サルデーニャの近代化に尽力。
カヴール首相。サルデーニャの近代化に尽力。

イタリアの多くの国家が1848年の熱狂を経て反動化したのに対し、サルデーニャでは自由主義的な憲法が維持され、教育の充実・工業化の推進・交通網の整備など一連の近代化政策が推進された。このことは、イタリア各地の人々に、立憲君主政国家であるサルデーニャを中心としたイタリア統一への支持を強めさせることになった。

しかし、サルデーニャを強国にするためには、当時の大国と同盟関係を結ぶことが必要であった。その上で、経済的にも豊かなロンバルディア・ヴェネツィアを併合することが望まれた。そのため、東方で起こっていたクリミア戦争に参戦しフランス・イギリスの歓心を得て、イタリア統一にむけて有利な国際関係を構築していった。

1858年、サルデーニャはプロンビエールの密約をフランスと結び、対オーストリア戦争に向けての外交的準備は整った。1859年4月29日よりサルデーニャとオーストリアの戦争が開始され、フランス軍の援助を受けてサン・マルティーノの会戦で勝利を収めた。

[編集] 年表

[編集] 歴代国王

  1. ヴィットーリオ・アメデーオ2世 (1720年1730年)
  2. カルロ・エマヌエーレ3世 (1730年1773年)
  3. ヴィットーリオ・アメデーオ3世 (1773年1796年)
  4. カルロ・エマヌエーレ4世 (1796年1802年)
  5. ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 (1802年1821年)
  6. カルロ・フェリーチェ (1821年1831年)
  7. カルロ・アルベルト (1831年1849年)
  8. ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 (1849年1861年)→イタリア国王

[編集] 関連項目