セネガル

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セネガル共和国
République du Sénégal
セネガルの国旗
Coat of arms of Senegal.svg
国旗 (国章)
国の標語:Un Peuple, Un But, Une Foi
(仏語: 1つの国民、1つの目標、1つの信念)
国歌コラを弾け、バラフォンを叩け
セネガルの位置
公用語 フランス語
首都 ダカール
最大の都市 ダカール
政府
大統領 マッキー・サル
首相 アブドゥル・ムバイ
面積
総計 196,190km285位
水面積率 2.1%
人口
総計(2008年 12,534,000人(72位
人口密度 55人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 5兆9,502億[1]CFAフラン
GDP(MER
合計(2008年 133億[1]ドル(106位
GDP(PPP
合計(2008年 217億[1]ドル(111位
1人あたり 1,736[1]ドル
独立
 - 日付
フランスより
1960年4月4日
通貨 CFAフランXOF
時間帯 UTC 0(DST:なし)
ISO 3166-1 SN / SEN
ccTLD .sn
国際電話番号 221

セネガル共和国(セネガルきょうわこく、フランス語:République du Sénégal)、通称セネガルは、西アフリカサハラ砂漠西南端に位置する共和制国家。北東にモーリタニア、東にマリ、南東にギニア、南にギニアビサウと国境を接し、ガンビアを三方から囲んでいる。西は大西洋に面する。首都ダカール。フランスと関係が深く、フランコフォニーに加盟している。

首都ダカールはかつてのパリ・ダカール・ラリーの終着点として知られている。

目次

国名 [編集]

正式名称はフランス語で、République du Sénégal(レピュブリック・デュ・セネガル)。通称、Sénégal

公式の英語表記はRepublic of Senegal

日本語の表記は、セネガル共和国。通称、セネガル

歴史 [編集]

かつては奴隷貿易の拠点だったゴレ島の要塞。セネガンビアからも多くの奴隷が南北アメリカ大陸に連行された。

旧石器新石器時代の遺跡が見つかっており、その頃から人類が居住していたこと分かっている。 セネガル川の中・下流域では、9世紀以降、北アフリカとの交易で栄え、ガーナ王国とテクルール王国、ジョロフ王国が成立した。 マリ帝国1240年-1473年)勢力のもと、14世紀 - 16世紀ウォロフ族ジョロフ王国などの勢力が台頭した。

1815年ウィーン会議フランス植民地とされ、ダカールなどの都市、ダカール港サンルイ - ダカール間鉄道などの建設を進めた。1848年奴隷貿易が廃止された。

1895年にはフランス領西アフリカに編入されダカールがその中心地となった。1904年フランスが全土を支配下に。1926年サン・テグジュペリダカール - トゥールーズ間の飛行士に。1958年11月自治国となり、1959年4月フランス領スーダン(現マリ)とマリ連邦を結成した。

1960年4月4日マリ連邦としてフランスから独立し、8月20日にはマリ連邦から分離しセネガル共和国として単独国家となった。9月6日セネガル社会党 (PSS) のレオポルド・セダール・サンゴールが初代大統領に就任、親フランスの穏健改革路線で1980年12月31日まで長期政権を維持した。

1981年1月1日アブドゥ・ディウフ首相が第2代大統領に。1982年2月ガンビアセネガンビア国家連合を発足させた。 1982年12月26日カザマンス紛争英語版。 フランス領であったセネガルとイギリス領であったガンビアの体制の違い、主権問題経済格差などの問題で対立し1989年9月ガンビアとの国家連合を解消した。ディウフ大統領は1983年1988年1993年の大統領選で勝利。en:Mauritania–Senegal Border War1989年 - 1991年)。

しかし2000年3月19日大統領選決選投票セネガル民主党 (PDS) のアブドゥライ・ワッド党首が当選(4月1日就任)。4月5日ワッド大統領はディウフ政権で外相などを務めたムスタファ・ニアスを首相に任命(連立政権)。

2001年1月7日、新憲法案が国民投票で承認され、大統領任期を7年から5年に短縮、議会一院制とし議席数も140から120に削減、さらに女性の土地所有権も認められた。国民議会選挙をめぐって連立与党内での対立が発生し3月3日、ワッド大統領はニアス首相を解任、後任にマーム・マジョル・ボイを任命し、同国初の女性首相が誕生。4月29日立法議会選挙でセネガル民主党 (PDS) などの政党連合「変革」が120議席中89議席を獲得、進歩勢力同盟 (AFP) は11議席、セネガル社会党 (PSS) は10議席、民主刷新連合 (URD) は3議席を獲得。

2002年5月地方議会選挙でも、与党連合 (CAP21) が安定した勝利を収めた。これにより、大統領選挙、国民議会選挙に続き、ワッド大統領はセネガル国民からの支持を三度にわたって獲得し、1960年以来40年間続いた社会党政権からの政権交代を完了させ、国内政治を運営する上で安定した政権基盤を築いた。9月26日、ガンビア沖でフェリージョラ号が転覆。事故調査委員会は乗員乗客1,220人のうち、1,053人が死亡したと伝えた。が現場に飛行機を派遣したのが事故発生から12時間後であり、さらにフェリーは定員550人を大幅にオーバーし、設計も湖での航行用だったため、サンボ国防相とサコ設備・運輸相が10月1日に責任を取り辞任。ワッド大統領は11月4日ボイ首相以下全閣僚の解任を発表。PDSイドリサ・セック副党首が首相に。

2004年、前年からセネガル、西サハラモロッコでの降雨によってen:2004 locust outbreakが起こった。 セック首相はワッド大統領の有力な後継者と見られていたものの2004年4月21日解任され、マッキー・サル内務大臣が首相に就任。同年12月10日死刑制度廃止。同年12月30日カザマンス和平協定締結。

1996年中華民国台湾)と国交を回復するも、2005年に再び中華人民共和国と国交を樹立したため台湾とは断交した。

2007年2月25日の大統領選挙でPDSのワッドが再び選ばれた。

2012年の大統領選挙では、ワッド大統領の対抗馬として立候補したマッキー・サル氏が3月25日の決選投票でワッドを破り、第4代大統領に就任した。

政治 [編集]

カザマンス紛争 [編集]

1982年12月26日ギニアビサウとの国境地帯にあるジョラ族の多いカザマンス地方ジガンショール州セディウ州コルダ州)の分離独立を進めるカザマンス民主勢力運動英語版 (MFDC, フランス語: Mouvement des Forces Démocratiques de la Casamance) が、ジガンショールでギニアビサウを根拠地に反政府武装闘争英語版を開始。1998年MFDCと政府がガンビアの仲介で和平交渉に入り、1999年12月双方が停戦合意。2001年3月停戦の再確認や捕虜解放など5項目の和平協定調印した。

しかしその後もMFDCとみられる武装集団による略奪・襲撃事件が頻発し、2002年1月中旬にはニアン内相がMFDCの指導者と会談。2003年、MFDC事務総長シーディー・バッジ (Sidhi Badji) が死去。和平交渉は継続。2004年12月30日アブドゥライ・ワッド大統領とMFDC事務総長オーギュスタン・ジャマクヌ・サンゴール英語版 (Augustin Diamacoune Senghor) の間で和平合意。

しかし、MFDCの強硬派の一派であるサリフ・サージョの部隊による襲撃事件等が2006年になってからも頻発しており、また、3月から4月にかけ、ギニアビサウ国境地域でギニアビサウ軍英語版との戦闘が繰り広げられるなど、当地方の政治情勢は依然不透明な状況にある。日本国外務省渡航情報では渡航延期勧告が継続中。

軍事 [編集]

選抜徴兵制が採用されており、成人男性の選抜者は2年の兵役に服する。陸軍8,000人、海軍600人、空軍800人、憲兵隊5,800人。フランス軍駐留している。2002年国防予算は6,700万ドル。

国際関係 [編集]

親仏路線を維持しつつ、比較的西側諸国と友好的であるが、隣国のガンビアと同じくイスラエルとは激しく対立している。背景にはセネガル国民のほとんどが敬虔なイスラム教徒で、同じイスラム教徒であるパレスチナ人の置かれている境遇に対して非常に同情的な立場であるからである。

地方行政区分 [編集]

セネガルの14の州。

地理 [編集]

ンブールの海岸。
セネガル南部カザマンス地方の風景。

セネガルはアフリカ大陸の西部に位置する。セネガルの景観は、主に西サヘル特有の砂ぼこりが多く乾燥した平原地帯で占められる。セネガルの標高最高地点は南東部のネパン・ジャハ(581 m)。北部のモーリタニア国境セネガル川で区切られ、その他ガンビアとの国境はガンビア川(中部)、カザマンス地方にはカザマンス川英語版(南部)がある。首都ダカールは、ヴェルデ岬半島に位置し、アフリカ大陸西端ポイントを擁する。

気候は、熱帯乾燥気候であり、冬の北東からの季節風と夏の南西からの季節風により、季節乾季雨季で構成される。平均的にダカールでの雨季は6月から10月で平均最高気温は27℃。ただし、内陸部の気温は沿岸部よりはるかに高く40℃に達することもある。乾季の12月から2月の平均最低気温は17℃。4月から5月にサハラ砂漠から吹きつけるハルマッタンは高温で乾燥しており人々を悩ませる。また、降雨量は南部地域においては多い都市もあり、年間降雨量1,500 mmに達する地域もある。

ダカール市のLes Almadiesは、アフリカ大陸最西端の地。最西端の岬は、HÔTEL DES ALMADIESという名前のホテルのビーチ内にある。

経済 [編集]

ダカールの市場。

農業の生産品目はピーナッツトウジンビエ綿花などであるが、特にピーナッツの栽培は、フランスが植民地時代に持ち込んで栽培を奨励したこともあり、1960年代に独立する頃には労働人口の87%が従事する規模となっていた。漁業は、マグロタコイカかつおえびが中心であり、これらのほとんどは輸出される。2002年のセネガルの総漁獲量は36万トンであり、このうち4万トンがニシン科の魚であり、加工してケチャと呼ばれ干物として国内市場に流通する。[2]

鉱業リン鉱石)と工業は、リン鉱石を原料にする化学工業にて相互関係を持ち、観光、サービス業が主要産業。他の西アフリカ諸国と比べると工業も発達している。貿易赤字や累積対外債務に苦しむが、近年、国際通貨基金 (IMF) と世界銀行が8億ドルの対セネガル債権の免除を発表。

西アフリカ諸国中央銀行(BCEAO)の本部がダカールにおかれる。

西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS)の主要メンバー。

国民 [編集]

村の風景。カーズと呼ばれる家々。
セネガルのモスク

民族 [編集]

ウォロフ人42.7%、セレール人14.9%、プル人14.4%、トゥクロール人9.3%、ジョラ人5.3%、マンディンカ人3.6%、ソニンケ人(Sarakhole)1.7%、バンバラ族1.3%、ムーア人(Maure)1.0%、Mandjak1.0%、en:Lebou people0.8%、en:Balanta people0.8%、Soce0.6%、Malinke0.4%、Mancagne0.3%、Laobe0.3%、en:Bassari people0.1%、en:Khassonké people、Coniagui、フラニ族、その他[3]1.3%[4]

言語 [編集]

フランス語 [編集]

植民地支配の影響で、現在でもフランス語公用語となっており、公文書、公教育の場で使われるが、教養層を除いてはフランス語の能力は低く、使用頻度も少ない。しかし民族語にもフランス語からの借用語が少なくなく、民族語の文字表記も現在ではラテン文字であることなど、その影響力はフランス語話者のみにとどまらない。

民族語 [編集]

現地語として、ウォロフ語セレール語プル語ジョラ語英語版マンディンカ語などニジェール・コンゴ語族に属する各民族言語があり、とりわけウォロフ語は事実上の共通語として、北部を中心にセネガル全土で通用している。これらの民族語を国語として格上げしていこうという動きもあるが、現実的な施策としては進展していない。民族語の表記法は伝統的にアラビア文字で行われていたが、現在では公式にはラテン文字で表記され、アラビア文字表記は非公式な民間の表記法として存在している。

アラビア語 [編集]

11世紀に始まったセネガルのイスラーム化の流れは、18世紀から19世紀にかけてセネガル全土に広まった。この影響でイスラーム的知識人階級が植民地統治の直前にはすでにセネガルに存在しており、彼らによるアラビア語文学が宗教詩を中心として花開いた。セネガルの民族語は伝統的にアラビア文字を使用し、アラビア語の語彙を受け入れてきた。セネガルの各民族に属する庶民も、日々の礼拝やコーランの教育などを通じて、多少のアラビア語の知識を持っている。

宗教 [編集]

18世紀から19世紀にかけてイスラーム化が進み、19世紀にはアマドゥ・バンバ(参照)によってセネガル独自のスンナ派イスラームの宗派である、ムーリディア(英語版)が生まれた。現在のセネガルでは、19世紀に現在のマリ共和国でトゥクロール帝国英語版を建国したエル・ハジ・ウマール英語版の宗派だったスンナ派のティジャニア英語版教団と、このムーリディアがセネガルのムスリムの内約9割を占める宗派となっており、特にムーリディアは文化、社会、経済において今日も大きな影響力を持っている。

教育 [編集]

学制は小学校6年、中学校4年、高校3年、大学4年の6-4-3-4制。義務教育は小学校の6年間と中学校の4年間である。教育言語は小学校からフランス語であり、旧宗主国であるフランスの教育制度を基本的に踏襲している。

2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は39.3%(男性:51.1% 女性:29.2%)である[5]

国立の高等教育機関としては、シェイク・アンタ・ジョップ大学(1957年)、ガストン・ベルジェ大学(1990年)、ジガンショール大学(2007年)が存在する。フランスとの結びつきが強く、留学生の7割はフランスへ向かう。

文化・音楽・芸術 [編集]

セネガルのグリオ(1890年画)。

文学 [編集]

1930年代に詩人のレオポルド・セダール・サンゴールは、フランス語圏アフリカの詩人として、マルチニーク出身のエメ・セゼールと共にネグリチュード運動を牽引した。サンゴールは後にセネガル共和国初代大統領となり、国歌の作詞も行っている。しかし、ネグリチュード運動は西欧化したエリートの占有物であり、庶民にまでは根付かず、後にマルチニークではネグリチュードの限界を超えるべくクレオール運動が生まれた。

独立後の代表的作家としては、独立後のエリートの腐敗を批判し、サンゴール批判も辞さなかったセンベーヌ・ウスマンや、ネグリチュードとヨーロッパ的価値観の差異と矛盾に苦しむ知識人を描いたシェク・ハミドゥ・カン一夫多妻制に苦しむセネガルの女性を描いたマリアマ・バーなどの名が挙げられる。

映画 [編集]

セネガル出身の著名な映像作家として、フランス語による小説から映像作家に転向し、メッセージ性の強い映画を多く残したセンベーヌ・ウスマンや、庶民の日常を軽快に描いたジブリル・マンベティ・ジョップなどの名が挙げられる。

音楽 [編集]

セネガルには、マンデ系の民族に伝わる伝統的音楽家の家系グリオが、ジャンベサバールコラタマなどを演奏する伝統音楽とグリオによる歌唱が存在する。そうした伝統音楽と現代のポピュラー音楽を融合させたアフリカン・ポップスのユッスー・ンドゥールが、世界的に有名なミュージシャンである。また彼の妹ヴィヴィアンヌ・ンドゥール英語版オマル・ペン英語版アメリカ合衆国ラップをセネガル風に解釈してウォロフ・ラップ(en:Senegalese hip hop)を生み出したポジティブ・ブラック・ソウル英語版などが、アフリカン・ポップスのジャンルで活躍している。

食文化 [編集]

セネガルの主要食物はであるが、一部地域ではトウジンビエキャッサバなども主食とされている。 セネガル料理はアフリカ料理の中でも特に洗練されているとされており、他のアフリカ諸国においても多くのセネガル料理店が見られるなど、セネガル料理は人気が高い。肉、魚、野菜などの具材を炒めてからスープで煮こんだのち、同じスープで米を炊きこむベンヌチン(1つ鍋)と、炊いた白米の上に、野菜などを煮込んだソースをかけるニャーリチン(2つ鍋) とに大別される。代表的なベンヌチン料理にはチェブジェンチェブヤップなどがあり、ニャーリチン料理にはヤッサマフェスープカンジャンボロヘなどがある。

世界遺産 [編集]

セネガル共和国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が2件存在し、ガンビアに跨って1件の文化遺産が登録されている。詳細は、セネガルの世界遺産を参照。

祝祭日 [編集]

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Jour de l'an
4月4日 独立記念日 Fête de l'indépendance
春分の日以降の満月の
次の月曜日
復活祭 Pâques 変動あり
5月1日 メーデー Fête du Travail
復活祭から40日後 主の昇天 Ascension
復活祭から50日後 聖霊降臨 Pentecôte
8月15日 聖母被昇天 Assomption
11月1日 諸聖人の日 Toussaint 全ての聖人と殉教者を記念する日
12月25日 クリスマス Noël イエス・キリスト生誕
ヒジュラ暦第3月12日 預言者生誕祭 Mouloud 預言者ムハンマドのヒジュラ暦による誕生日
ヒジュラ暦第9月1日から ラマダーン Ramadan
ヒジュラ暦第12月10日から タバスキ Tabaski

以上の他にも、イスラム暦による祝日がある。

スポーツ [編集]

2002年サッカーワールドカップに出場したことで知られるサッカー好きの国民。 セネガルの伝統的相撲ランブ・ジも盛ん。バスケットボールもアフリカ屈指の強豪であり、日本にもバスケ留学生が多くいる他、代表クラスの選手もbjリーグでプレーしている。

著名な出身者 [編集]

脚註 [編集]

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  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 世界の食文化11アフリカ(小川了 著、農文協)
  3. ^ ヨーロッパ人及びレバノン人ベトナム人1%
  4. ^ 1988年センサス
  5. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/sg.html 2009年4月2日閲覧

参考文献 [編集]

  • 砂野幸稔「アフリカの文化と精神の非植民地化」『「南」から見た世界03 アフリカ──国民国家の矛盾を超えて共生へ』北川勝彦編、大月書店、1999年3月。
  • 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志明石書店、2002年12月。
  • 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志明石書店、2002年12月。

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]