欧州石炭鉄鋼共同体

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設立時 消滅時
ECSC52.png
EU1976-1995.svg
原加盟国 消滅時の加盟国 ††
拠点都市 ブリュッセル
ストラスブール
ルクセンブルク
公用語
アルジェリアは欧州石炭鉄鋼共同体設立当時、フランスの支配下にあった。
†† 旧東ドイツは再統一時に旧西ドイツに編入された。

欧州石炭鉄鋼共同体(おうしゅうせきたんてっこうきょうどうたい、英語:European Coal and Steel Community、略称:ECSC)は、冷戦期に6か国によって設立され、のちに欧州連合となっていった国際機関。欧州石炭鉄鋼共同体はスープラナショナリズムの原則に基づいて設立された最初の機関である。1950年5月9日にフランス外相ロベール・シューマンが提唱したもので、「フランスドイツの間での戦争を二度と繰り返さない」という考え方に基づいている。その後1951年にパリ条約が調印されたことを受けて設立されることになるが、条約の調印にはフランスとドイツ(当時は西ドイツ)だけでなく、イタリアとさらにオランダベルギールクセンブルクベネルクス3か国も加わった。欧州石炭鉄鋼共同体の発足によりこれらの調印国の間で石炭鉄鋼共同市場を創設することが企図されていた。欧州石炭鉄鋼共同体は加盟国政府の代表、議会の議員、独立の立場にある司法の監督を受ける最高機関の下で運営がなされた。

1957年には欧州石炭鉄鋼共同体のほかに2つの似たような共同体の設立が決まり、いずれも加盟国や一部の機関を共有するものとなった。1969年には欧州石炭鉄鋼共同体の機関が欧州経済共同体のそれらに統合されたが、共同体としては独自に存続していった。ところが2002年にパリ条約が失効し、また条約が更新されなかったため、欧州石炭鉄鋼共同体の活動や資源は欧州共同体に吸収された。欧州石炭鉄鋼共同体が存続していた期間で市場の統合は達成したが、石炭・鉄鋼産業の衰退を回避することはできなかった。しかしながら、欧州石炭鉄鋼共同体は将来の欧州連合における統合の基盤を創りあげたといえる。

歴史[編集]

1950年5月9日(のちにヨーロッパ・デーとされる)に発表されたシューマン宣言ジャン・モネの構想に基づいて作成され、共同市場において石炭と鉄鋼を共有するヨーロッパの共同体を設立するというものであった。シューマンは宣言の中で次のように述べている。

ヨーロッパの他の国々が自由に参加できるひとつの機構の枠組みにおいて、フランスとドイツの石炭および鉄鋼の生産をすべて共通の最高機関の管理下に置くことを提案する。

駐日欧州委員会代表部による仮訳、10px

この提案は経済の成長を促し、また長らく敵対してきたフランスとドイツとの間での平和を強固にするということが目的とされている。石炭と鉄鋼は国家が戦争を起こすのに欠かせない資源であり、敵同士であった両国の間でこれらの資源を共有するということはきわめて象徴的なものとして受け止められた。そのためシューマンの構想は「ヨーロッパ連邦」の第1歩としても捉えられている[1][2]

政治的圧力[編集]

西ドイツではヨーロッパの労働組合や社会主義者の支持を受けているにもかかわらず、社会民主党がシューマンの構想に反対することを決定した。フランスや資本主義、コンラート・アデナウアーに対する個人的な不信感とは別にクルト・シューマッハーは、「6か国による小ヨーロッパ」という統合の概念は社会民主党の党是であるドイツ再統一を覆すもので、西側諸国のアルトラナショナリズムや共産主義の動きを強めるものだと主張した。またシューマッハーは、欧州石炭鉄鋼共同体では鉄鋼産業の国有化が不可能となり、「カルテル、聖職者、保守派」のヨーロッパが独占することになると考えていた[3]

フランスでは、シャルル・ド・ゴールがかねてより経済圏の「連携」を支持しており、また1945年にはルール地方の資源開発を行う「ヨーロッパの同盟」について語っていた。ところがド・ゴールは欧州石炭鉄鋼共同体について、「見せかけの共有」 "le pool, ce faux semblant" と表現している。ド・ゴールは、欧州石炭鉄鋼共同体がヨーロッパの統合においては不十分な「断片的なアプローチ」であり、また共同体におけるフランス政府の優位性があまりにも弱すぎると考えていたのである[4]。また議員総会がヨーロッパ市民の選挙で選ばれていないことからスープラナショナル機関として欧州石炭鉄鋼共同体は不完全なものであるとも考え、欧州石炭鉄鋼共同体の設立はアメリカ主導の経済復興からの脱却であるというレイモン・アロンの主張を受け入れなかった。このような状況でド・ゴール率いるフランス国民連合はパリ条約批准承認にあたって、国民議会で反対にまわった[4]

このような反対勢力があったものの、欧州石炭鉄鋼共同体は設立されることになった。

条約[編集]

欧州石炭鉄鋼共同体を設立することがうたわれた100か条にわたるパリ条約は1951年4月18日にフランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクによって調印された。パリ条約により史上初のスープラナショナリズムに基づく国際機関が設立されることになり、またそもそもが石炭と鉄鋼の共同市場の設立が目的であったものが、共同体における経済の拡大、雇用の増進、市民の生活水準の向上といったことも狙いとなっていた[1]。さらに共同市場は、安定と雇用を確保する一方で高水準の製品の流通を合理化するということも企図されていた。石炭の共同市場は1953年2月10日に、鉄鋼市場は同年5月1日にそれぞれ開設された[5]。欧州石炭鉄鋼共同体が発足したことをうけて、ルール国際機関はその役目を欧州石炭鉄鋼共同体に譲った[6]

パリ条約の調印から6年後に、欧州石炭鉄鋼共同体の加盟国は欧州経済共同体と欧州原子力共同体の創設を取りまとめたローマ条約に調印した。両共同体は若干の修正がなされているものの、欧州石炭鉄鋼共同体の持つ構造や理念に基づいて設立されている。パリ条約が発効から50年後に効力を失うのとは異なり、ローマ条約には期限が設定されていない。この新たな共同体はそれぞれ関税同盟原子力エネルギーでの協力体制を構築するものであったが、その後対象とする分野が急速に拡張され、欧州経済共同体が政治面での統合において最も大きな役割を持つようになったのに対して、欧州石炭鉄鋼共同体の存在感は薄くなっていった[1]

統合、消滅[編集]

法令上は別個の組織で閣僚理事会最高機関・共同体委員会もそれぞれに設置されていたが、欧州石炭鉄鋼共同体、欧州経済共同体、欧州原子力共同体は議員総会(のちの欧州議会)や欧州司法裁判所を共有していた。その後重複による無駄を省くため、ブリュッセル条約により3共同体の機関が統合された。また欧州経済共同体はのちの欧州連合における3つの柱の1つとなった[2]

パリ条約は欧州諸共同体や欧州連合が発展、拡大するにつれてたびたび修正がなされていった。また2002年にパリ条約が失効することもあり、その後の対処に関する議論が1990年代初頭から始められたが、規定どおり失効させることが決定された。欧州石炭鉄鋼共同体の対象分野についてはローマ条約に移し、未処分の財産や欧州石炭鉄鋼共同体の研究基金についてはニース条約の附属議定書で扱うこととなった。2002年7月23日にパリ条約は失効し、ブリュッセルの欧州委員会本部の前で掲げられていた欧州石炭鉄鋼共同体の旗は降ろされて欧州旗に取り替えられた[7]

条約の変遷[編集]

署名
発効
条約
1948
1948
ブリュッセル
1951
1952
パリ
1954
1955
パリ協定
1957
1958
ローマ
1965
1967
統合
1986
1987
単一議定書
1992
1993
マーストリヒト
1997
1999
アムステルダム
2001
2003
ニース
2007<br />2009<br />リスボン Pix.gif Pix.gif Pix.gif Pix.gif Pix.gif Pix.gif Pix.gif Pix.gif
                   
欧州諸共同体 3つの柱構造
欧州原子力共同体
欧州石炭鉄鋼共同体 2002年に条約失効・共同体消滅 欧州連合
    欧州経済共同体 欧州共同体
      司法・内務協力
  警察・刑事司法協力
欧州政治協力 共通外交・安全保障政策
組織未設立 西欧同盟    
2010年に条約の効力停止
                   

機関[編集]

欧州石炭鉄鋼共同体の機関には最高機関、共同総会、閣僚特別理事会、司法裁判所があった。また付属機関として諮問評議会が最高機関に設置されていた。これらの機関は1967年の欧州諸共同体発足時に統合されたが、諮問評議会だけは2002年のパリ条約失効時まで独立して存続していた[5][8]

パリ条約では機関の所在地について加盟国の総意で決めるよううたっていたが、これについては激しい議論となった。その場しのぎの妥協として、共同総会はストラスブールとしたものの、それ以外の機関は暫定的にルクセンブルクに置かれた[9]

最高機関[編集]

ルクセンブルク国立貯蓄銀行本館
欧州石炭鉄鋼共同体最高機関の本部が置かれていた。

欧州委員会の前身である最高機関は9人で構成され、共同体の運営にあたる執行機関である。フランス、西ドイツ、イタリアから2人ずつが、ベネルクスから1人ずつが委員に任命された。委員に任命された9人は自らの中から1人を委員長に指名する[5]

委員は出身国政府から任命されるが、出身国の国益を代表するのではなく共同体全体の一般的利益を忠実に守るとされた。また委員の独立性については、共同体以外の役職を兼ねることや事業を行って利益を受け取ることが禁止されていたことからも確保されていた[5]

最高機関の理念として画期的な点はそのスープラナショナルな性格である。条約の目的達成を確保したり、共同市場が円滑に機能したりするためには幅広い分野で競合することがある。最高機関は3種類の法令でこれらに対応してきた。それらには、加盟国内で直接的に効力をもつ決定、目的には拘束力が与えられるもののその達成手段は加盟国に裁量が認められる勧告、そして一切の拘束力をもたない意見がある[5]

1967年の統合まで最高機関の委員長には以下の5人が任命され、また統合直前には暫定委員長が置かれていた[10]

その他の機関[編集]

共同総会は78名で構成され、執行機関である最高機関の監督にあたっていた。共同総会の議員は各国議会内で互選された議員か、市民が直接選んだ人物であるとされた。ただ実際には前者だけしかおらず、またローマ条約が発効するまで選挙を実施する必要がなかったうえに、直接選挙が初めて実施されたのは1979年のことである。しかしながら共同総会という議会組織は各国政府の代表者で構成される従来の国際機関とは異なるものであるということが強調されており、それはパリ条約において「諸国民の代表」という文言が用いられているところに表れている[5]。共同総会はシューマンの構想には盛り込まれていなかったが、パリ条約の協議の2日目にジャン・モネが提案して創設されることになった。共同総会の設置は民主的な配慮を示すもので、正式な権限は与えられていないものの最高機関を統制する意味合いを持たせている。共同総会の初代議長にはポール=アンリ・スパークが選ばれた[11]

欧州連合理事会の前身である閣僚特別理事会は各国政府の代表者で構成されていた。また議長は加盟国が3か月ごとにアルファベット順の輪番制で務めていた。閣僚特別理事会の重要な点は最高機関と各国政府の政策執行の調整であり、当時国内の一般的な経済政策については加盟国政府があたっていた。さらに理事会は最高機関が担当する政策のなかで、特定分野について意見を述べることが求められていた[5]。石炭と鉄鋼に関する案件に限っては最高機関が排他的に扱い、これらの政策分野について理事会はただ監視にあたるのみであった。ところが石炭と鉄鋼以外の政策分野では理事会の同意が求められた[12]

司法裁判所の使命はパリ条約の解釈・適用を行い、欧州石炭鉄鋼共同体の法令遵守を確保することであった。裁判所は各国政府の総意で任命された7人の判事で構成され、任期は6年である。判事の国籍については問われることがなく、ただ適性が認められ、その独自性に疑念がもたれないということが要件となっている。さらに2人の法務官が裁判所を補佐している[5]

欧州連合の経済社会評議会に似たような機関であった諮問評議会は、石炭・鉄鋼産業の生産者、労働者、消費者、販売者から人数が平等にされた、30人から50人ほどの議員で構成されていた。議員の任期は2年間で、任命した組織の負託や制約を受けていない人物とされていた。評議会には全員出席の総会、事務局、議長が設置されていた。最高機関は評議会に対して、特定の分野の案件について適切な機会に諮問し、また情報を開示する義務を負っていた[5]。ほかの機関が統合されていったなかで2002年まで諮問評議会は独立性を維持し、パリ条約が失効した後は経済社会委員会にその機能が引き継がれた。ただしそれぞれに同じ案件が諮られたときは、独立性を維持しつつも諮問評議会は経済社会評議会と協調していた[8]

成果と失敗[編集]

欧州石炭鉄鋼共同体は石炭と鉄鋼の生産にあまり影響をもたらすことはなく、世界の傾向と比較すると鉄鋼の生産量は増加したが、石炭の生産量は減少した。しかしながら加盟国間では、石炭の貿易量は10倍となるなど通商関係が促進され、またアメリカからの資源輸入の必要性がなくなったことで域外への資金流出が抑えられた。最高機関は生産量の向上と経費削減を促すために産業界に280件の融資も実施していた。また国境通過の際の関税を廃止したことで、産業界にとっては経費がさらに削減されることになった[13]

欧州石炭鉄鋼共同体の最大の成果は経済面においてではなく、福祉の面において見られる。15年以上にわたり労働者に対して11万2500件の共同住宅購入向けの融資を実施し、1件あたり平均で1,770USドルを貸与されたことで労働者は手の届かなかった住宅を購入することができた。さらに欧州石炭鉄鋼共同体は、石炭・鉄鋼関連施設が閉鎖されて職を失った労働者の転職にかかる費用の半額を支払った。地域の再開発支援とあわせて欧州石炭鉄鋼共同体は1億5000万ドルを拠出して10万件の雇用を創出し、その3分の1は失業した石炭・鉄鋼関連の労働者に割り当てた。欧州石炭鉄鋼共同体が考案した社会保障政策は加盟国政府の一部で石炭・鉄鋼業以外の労働者にもその対象を広げられていた[13]

一方で欧州石炭鉄鋼共同体はパリ条約でうたわれたいくつかの根本的な目的を達成しそこねている。欧州石炭鉄鋼共同体ではアドルフ・ヒトラーが権力を強めるのに役立てたコンツェルンのような、大規模な石炭・鉄鋼グループの復活を阻止することが期待されていた。ところがカルテルや大企業が再び現れ、価格操作がなされていくようになった。さらに適切なエネルギー政策を明確にすることができず、また域内市場の労働者賃金の向上・均質化を確保することもできなかった。これらの未達成の目的はそもそもが短期間で実現することが不可能なものや、あるいは単に蔑ろにされるような政治的なポーズに過ぎなかったものであったという考え方がある[13]

脚注[編集]

  1. ^ a b c The European Communities” (English). CVCE Centre for European Studies. 2013年8月9日閲覧。 (要Flash Player)
  2. ^ a b Treaty establishing the European Coal and Steel Community, ECSC Treaty” (English). EUポータルサイト "EUROPA". 2008年5月31日閲覧。
  3. ^ Orlow, Dietrich (English). Common Destiny: A Comparative History of the Dutch, French, and German Social Democratic Parties, 1945-1969. Oxford. ISBN 978-1-57181-225-4. 
  4. ^ a b Chopra, Hardev Singh (English). De Gaulle and European Unity. New Delhi: Abhinav Publications. ISBN 978-81-7017-012-9. 
  5. ^ a b c d e f g h i The Treaties establishing the European Communities” (English). CVCE Centre for European Studies. 2013年8月9日閲覧。 (要Flash Player)
  6. ^ Office of the US High Commissioner for Germany Office of Public Affairs, Public Relations Division, APO 757, US Army, January 1952 "Plans for terminating international authority for the Ruhr" , pp. 61-62 (英語、PDF形式)
  7. ^ Ceremony to mark the expiry of the ECSC Treaty (Brussels, 23 July 2002)” (English). CVCE Centre for European Studies (2002年7月23日). 2013年8月9日閲覧。(要Flash Player)
  8. ^ a b European Economic and Social Committee and ECSC Consultative Committee” (English). CVCE Centre for European Studies. 2013年8月9日閲覧。
  9. ^ The seats of the institutions of the European Union” (English). CVCE Centre for European Studies. 2013年8月9日閲覧。 (要Flash Player)
  10. ^ Members of the High Authority of the European Coal and Steel Community (ECSC)” (English). CVCE Centre for European Studies. 2013年8月9日閲覧。 (要Flash Player)
  11. ^ Negotiations on the ECSC Treaty: Multilateral negotiations” (English). European NAvigator. 2013年8月9日閲覧。 (要Flash Player)
  12. ^ Council of the European Union” (English). CVCE Centre for European Studies. 2013年8月9日閲覧。 (要Flash Player)
  13. ^ a b c Mathieu, Gilbert (1970年5月9日). “The history of the ECSC: good times and bad” (English). Le Monde, accessed on CVCE. 2013年9月8日閲覧。 (要Flash Player)

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Grin, Gilles (English). The Battle of the Single European Market: Achievements and Economic Thought, 1945-2000. European Studies Series. London: Kegan Paul. ISBN 978-0-7103-0938-9. 
  • Hitchcock, William I. (English). France Restored: Cold War Diplomacy and the Quest for Leadership in Europe, 1944-1954 (New Cold War History). Chapel Hill, NC: University of North Carolina Press. ISBN 978-0-8078-4747-3. 
  • Maas, Willem (English). Creating European Citizens (Europe Today). Lanham, MD: Rowman & Littlefield Publishers. ISBN 978-0-7425-5485-6. 

外部リンク[編集]