ベルリンの壁崩壊

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ベルリンの壁に登る東西ベルリン市民(1989年11月10日

ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)とは、1989年11月9日東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で誤発表した事によって、ベルリンの壁11月10日以後に西ベルリン市民によって破壊された事件である。略称として壁崩壊ドイツ語: Mauerfall)という。

東欧革命を象徴する事件として有名である。「崩壊」の日付はゲート開放(後述)が行われた11月9日とされることが多いが、実際に壁の破壊が始まったのは11月10日である。

目次

[編集] 前史

東ドイツ建国40周年式典に出席したホーネッカーやゴルバチョフら東側諸国の首脳陣(1989年10月7日

1980年代ドイツ社会主義統一党エーリッヒ・ホーネッカー書記長は、ハンガリー人民共和国ポーランド人民共和国で社会変革の動きが強まってからも、秘密警察である国家保安省を動員して国民の束縛と統制を強めていた。政治改革を行うということは、ほぼ必然的に現状の政治体制を放棄して西ドイツとの統合の道を歩まなければならなくなるということを東ドイツ首脳部は知っていたため、東欧に押し寄せる改革の波に抗い続けていた。

ところが、1985年ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内のみならずその影響圏である東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、1989年6月18日にはポーランド人民共和国で複数政党制による自由選挙が実施され、他の東欧諸国に先んじて民主化を果たしたことが契機となり、他の東欧諸国や東ドイツ国内でも民主化推進の声が高まっていた。

1989年8月19日ハンガリーで「汎ヨーロッパ・ピクニック」が成功すると、ベルリンの壁が持つ意義は相対的に低くなり、多くの東ドイツ市民が西ドイツへの亡命を求めてハンガリーチェコスロバキアに殺到した。

1989年9月イギリス首相マーガレット・サッチャーはベルリンの壁崩壊を阻止するためにミハイル・ゴルバチョフ書記長にソビエトのリーダーとして崩壊を阻止するために出来得る限りのことをするよう要請し、次のように語った[1][2]

我々は統一ドイツを望まない。これは戦後の国境を変えることになってしまうことでしょう。我々は世界情勢の安定を傷つけ、我々の安全の脅威となるような発展を認めることはできない[1]

東ドイツ国内でも、10月9日ライプツィヒで長期政権に居座るホーネッカーの退陣を求めて大規模なデモが起こる(月曜デモ)。

ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソビエト連邦政府からの支持を得ることであったが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典を訪問したソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、人民議会での演説で先に発表した新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する発言をしたのみで東ドイツ政府を支持する内容には言及しなかった。

また当の建国式典では、動員されたドイツ社会主義統一党員らが突如として、ホーネッカーら東側指導者の閲覧席に向かって「ゴルビー! ゴルビー!」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあった。後盾だったソ連共産党のゴルバチョフに見捨てられ、民衆に目の前で反目されたホーネッカーは、ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。

こうして東ドイツ国内外での混乱が拡大すると、10月18日にホーネッカーは退陣し、ドイツ社会主義統一党政治局員のエゴン・クレンツが後任となった。しかし、11月4日には首都の東ベルリンでも大規模なデモが起こり、東ドイツ政府は根底から揺さぶられる事になった。もはや混乱は収拾が付かない状態に陥っており、後任のクレンツ政権も十分に状況を把握できなくなっていた。

[編集] 事件の経緯

[編集] 「旅行許可に関する出国規制緩和」の発表

「旅行許可に関する出国規制緩和」を発表するシャボウスキー(1989年11月9日

1989年11月9日に、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳部に提案された。この時、クレンツをはじめとする政府首脳部は国内のデモや国外に流出する東ドイツ市民への対応に追われ、また2日前の11月7日ヴィリー・シュトフ首相が更迭され、11月8日ハンス・モドロウを首相に任命することが決まったばかりという混乱の中であった。このため大した審議もされず、政令の内容を確認したかも怪しい状態で「11月10日から、ベルリンの壁を除く国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」政令が政府首脳部の審議を通過した。

この政令の内容を発表する東ドイツ政府のスポークスマンであったギュンター・シャボウスキー(社会主義統一党政治局員)はこの会議には出席しておらず内容をよく把握しないまま、現地時間19時頃から記者会見を始めてしまい「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表した。

この記者会見場で記者が「(この政令は)いつから発効されるのか」と質問したところ、上記の通り翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにも拘らずそれを伝えられていなかった(文書に記載されていなかったとも、次の紙に書いてあったのを気が付かなかったとも言われている)シャボウスキーが「私の認識では直ちにです」と発表した[3]。この発言を受け、後に国境ゲート付近でゲートを越えようとする市民と指令を受け取っていない警備隊との間で当該指令の実施をめぐるトラブルが起きる。マスコミによって「旅行が自由化される」の部分だけが強調されたことも混乱に拍車を掛ける。

[編集] 壁に殺到する市民

チェックポイント・チャーリー」から西ベルリンに入る東ベルリン市民(1989年11月10日
東西ベルリンの検問所に詰めかけた東ベルリン市民(1989年11月10日)
東西ベルリンの検問所を越えるトラバントと歓迎する西ベルリン市民(1989年11月14日

この記者会見の模様は、夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は(ベルリンでは電波が当然にスピルオーバーとなる為、東西双方がお互いのテレビ番組を視聴することが可能であった)半信半疑で壁周辺に集まりだした。

一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近ではいざこざが起き始めた。21時頃には東ベルリン側でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがった。門を開けるよう警備隊に要求し、やがて「開けろ」コールが地鳴りのように響く状況となった。

[編集] 国境ゲートの開放

膨れ上がった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできず、また現場にいない上官は責任逃れに終始したため責任を押しつけられた現場の警備隊は対応に困り果てた。また、同じ1989年6月4日天安門事件の影響もあり、武力弾圧という手段はまず不可能で、事態を収拾する策は尽きていた。日付が変わる直前の11月9日23時台に、ついに警備隊は群衆に屈し、ゲートが開放され、東西ベルリンの国境は開放されることになった。

本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であったが、混乱の中で許可証の所持は確認されることがなかったため許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、抱き合ったり一緒に踊ったりあり合わせの紙吹雪をまき散らすなど東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所でみられた。この大騒ぎはそれから三日三晩続く。

[編集] 壁と国境の撤去

クレーンによって撤去されるベルリンの壁1989年12月21日)。

数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーつるはし建設機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業を始めた。壁は東側によって建設された東側の所有物であるが、東側から壁を壊していい旨の許可は一切出されていない。しかし数日後からは東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。

こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、建設開始から28年後の1989年11月10日、ついに破壊された。ベルリンの壁は、「冷戦」「越えられない物」「変えられない物」の象徴だった。これは西ドイツ国民も誰も予想しておらず、事件当時、西ドイツのヘルムート・コール首相は外遊先のポーランドにいたがこのニュースを聞くと慌ててベルリンへ向かった。

東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。ポルシェBMWメルセデス・ベンツを自国に擁する西ドイツ市民から見ると、酷く時代遅れな東ドイツ製の小型車「トラバント」に乗った東ドイツ市民が相次いで国境を越え西ドイツに入ってきた。西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れた。こうした国境線にも越境を阻止する有刺鉄線などが張られていたが、これらも壁と同じく撤去された。東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから暫く東西ドイツ融合の象徴として扱われた。

[編集] 事件の影響

[編集] 東西ドイツ統一

ベルリンの壁崩壊に対して、ソビエト連邦アメリカ合衆国東ヨーロッパなどから祝辞を送られ、次の政治目標には、1945年5月8日ドイツ分断以降、ドイツ人にとっては悲願である東西ドイツ統一が設定されその気運が高まった。

フランス大統領フランソワ・ミッテランはベルリンの壁崩壊に反対していたイギリス首相マーガレット・サッチャーに統一ドイツはアドルフヒトラーよりも広大な領土を手に入れるであろう、そしてその結果にヨーロッパは耐えなければならないことになると語った[4]

ソビエト連邦の最高指導者であったゴルバチョフは、東西ドイツ統一には時間がかかると想定していた上に、東ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に参加することを恐れていた。アメリカ合衆国大統領であったジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)も、統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。

東ドイツでは円卓会議を開き、新国家のための新憲法まで作ってさえいた。しかしながら東西ドイツの統一は、アメリカ、ソ連、そして西ドイツ首脳が考えていたよりもはるかに速いスピードで進められた。この驚異的なスピードで進んだドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓喜」と「感動」以外の何物でもなかった。

1990年3月、東ドイツにおいて最初で最後となる自由選挙が行われ西ドイツのコール首相が肩入れした速やかに東西統一を求める勢力が勝利するとそれまでの社会主義統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入する方式(東ドイツの5州を復活し、それを自発的にドイツ連邦共和国に加入させる)で統一が果たされることに決定した。

結局、ベルリンの壁崩壊から満1年も経たない1990年10月3日、悲願の東西ドイツの統一が実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂に「黒・紅・金の三色旗」が揚げられ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。

しかし、この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。東ドイツでは1989年11月10日以後、自分達は2つに分裂したうちの片方である「東ドイツ国民」ではなく統一された「ドイツ国民」であるという意識が大きくなっていった。これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消す事を助長した。

ドイツの再統一は、東ドイツ市民を無条件で裕福にするかのような幻想を生み出した。結局「ドイツ再統一」のスピードが余りにも速すぎたことは、その後の経済的混乱によって実証される事になった。世界屈指の経済大国であった旧西ドイツと旧東ドイツの経済格差は一時的な幻想では覆い隠せないほど歴然たるものが存在した。現在でも東西の所得格差は残されたままである。また旧東ドイツでは資本主義に適応できなかった旧国営企業の倒産によって失業者が増加し、旧西ドイツでは旧東ドイツへの投資コストなどが足かせとなって景気の低迷を招いた。このため東西双方で市民の間に不満が高まることになった。

東西ドイツの統一に関する法的な見方については「ドイツ再統一」を参照すること。

[編集] 冷戦終結

ゴルバチョフは従来から冷戦の緊張関係を緩和させる新思考外交を展開していたが、ドイツの東西分裂とベルリンの壁の存在は、冷戦の代名詞でもあり、いくら緊張緩和といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況であった。

ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立った。壁崩壊から1か月後の1989年12月3日、アメリカの父ブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフの両首脳がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言した。

[編集] 東欧全域への民主化革命の波及

ベルリンの壁崩壊は、既に民主化を果たしていたポーランドハンガリーブルガリアのみならず、東ヨーロッパ全域に波及した。1989年11月17日には、チェコスロバキアビロード革命が発生し、ポーランドのワルシャワではKGBチェーカーの後身)の設立者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が三つ裂きにされて撤去された[5]。そして、マルタ会談の直後の12月16日にはルーマニア革命 (1989年)が発生した。

そして、ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年8月20日にはバルト三国が独立し、1991年12月25日には共産主義の元祖であったソビエト連邦自身まで崩壊した

[編集] エピソード

  • ベルリンの壁が崩壊した当日、会期中だった西ドイツ国会にこのニュースがもたらされると、やがて議員たちの間から自然発生的にドイツ国歌の斉唱が始まった。
  • コール西ドイツ首相はこの時、ポーランドを訪問していた。ワルシャワでベルリンの壁崩壊を知り、コールは同行中の外相ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャーをワルシャワに残して直ちにベルリンに向かい事態に対応した。
  • 東ドイツの政権与党であったドイツ社会主義統一党は民主社会党と改名し生き残りを図ったものの、その後衰退の道を辿り消滅寸前かと言われた時期もあった。しかし社会民主党の内紛によって同党を離脱した最左派とともに左翼党を結成した2005年の総選挙では社会民主党政権の新中道左派路線に不満を抱く左派支持者の票を集めて躍進を果たした。
  • ドイツ統一に貢献した当時のソ連外相エドゥアルド・シェワルナゼが、2003年グルジア大統領を追われると、かつての恩人を見捨てることなくドイツへの亡命受け入れを申し出て一時はドイツ入りしたというニュースも飛び交った。実際はシェワルナゼは感謝しつつもこれを固辞してグルジアに留まっている。
  • ベルリンの壁の材料には大量のアスベストが使用されているが、この事実が知られていなかったためか無数の観光業者により無断掘削・販売が行われ日本でも一部はデパート等で流通した。
  • 西ベルリンに到着した東ベルリン市民が大挙して真っ先に購入したのがバナナ。当時3倍の経済格差があり、ぜいたく品は無論買えるはずがないので東ベルリン市民全員が喜ぶ物で比較的値段が安く東ドイツではメーデークリスマスにしか市場に出回らない(輸入元は同じく共産圏のキューバ)ほど貴重であったバナナが購入の対象だった。
  • 当日、ちょうどベルリンを訪れていたダライ・ラマ14世は、崩壊の現場に向かい、東ベルリンに足を踏み入れ、歴史的瞬間を写真におさめた。老婦人から渡された蝋燭に灯を灯し、人々と共に祈った[6]ノーベル平和賞受賞の1か月前のことである。

[編集] 壁崩壊20周年

ベルリンの壁崩壊20周年記念式典でのドミノ倒し後の様子(2009年11月9日

ベルリンの壁崩壊から20周年に当たる2009年には、ドイツ国内でもイベントが開かれた。

式典ではドイツのアンゲラ・メルケル首相、フランスのニコラ・サルコジ大統領、ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領、イギリスのゴードン・ブラウン首相、 アメリカのヒラリー・クリントン国務長官らがブランデンブルク門を東から西にくぐって友好を演出した。ただしバラク・オバマ大統領は出席しなかった。冷戦終結の立役者となったポーランドのレフ・ワレサ元大統領、旧ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ両元大統領も姿を見せた。「ベルリンの壁崩壊記念日」の2009年11月9日には、ドイツ政府主催のイベントがベルリンで開かれ、このイベントでは、ベルリンの壁に見立てた発泡スチロール製のドミノ約1000個を倒すイベントも行われた。このイベントでは、ワレサがドミノ倒しの先頭を切った[7]

2009年10月31日には、ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)、ゴルバチョフ、コールの3人がベルリンで再会した。このイベントにおける3人の発言は、以下の通りである。

  • コール:「誰も信じていなかった統一を成し遂げたのは誇りだ。」
  • 父ブッシュ:「壁崩壊とドイツ統一は、冷戦を終わらせただけでなく、2回の世界大戦の傷跡を消し去った。」
  • ゴルバチョフ:「政治家ではなく、国民が英雄だった。」
関連リンク

[編集] 関連作品

[編集] 脚注

  1. ^ a b How Margaret Thatcher pleaded with Gorbachev not to let the Berlin Wall fall out of london”. Hasan Suroor. Hindu (2009年9月15日). 2011年11月3日閲覧。
  2. ^ “Thatcher told Gorbachev Britain did not want German reunification”. Times (UK). (11 September 2009). http://web.archive.org/web/20110716101355/http://www.timesonline.co.uk/tol/news/politics/article6829735.ece 2011年7月16日閲覧。 
  3. ^ この質問をしたイタリア人記者リカルド・エルマン(Riccardo Ehrmann)が2009年4月16日に放送されたドイツARDテレビの番組で明らかにしたところによればこの会見の前にエルマンと面識があった社会主義統一党の大物から電話があり、取材する際に出国規制の緩和について必ず質問するよう念を押したという「ベルリンの壁」崩壊の陰に謎の電話、ドイツ”. 2009年6月10日閲覧。
  4. ^ “United Germany might allow another Hitler, Mitterrand told Thatcher”. Times (UK). (10 September 2009). http://web.archive.org/web/20110512174119/http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/europe/article6828556.ece 2011年5月12日閲覧。 
  5. ^ 朝日新聞 1989年11月19日付 7頁
  6. ^ 『ダライ・ラマ自伝』(ISBN 4167651092)
  7. ^ ソ連とポーランドは第二次世界大戦でスラブ人を劣等種族とみなすナチスドイツによって大きな被害と犠牲を蒙った国であるものの、首脳らはこのような式典に出席した。これによりドイツがいかに周辺国との軋轢を克服したのかが伺える。一方イスラエルはドイツ語禁止、ドイツ製品禁止などドイツに対して遺恨が残っている。

[編集] 関連項目

11月9日の大事件
分断国家

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