ベルリンの壁崩壊
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ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に突如として東ドイツ政府が、東ドイツ市民に対して事実上の旅行自由化(実際には旅行許可書発行の大幅な規制緩和)を発表した事によって、実質的に意味を持たなくなったベルリンの壁が、東西通行の自由に歓喜した東西ベルリン市民(東ベルリンと西ベルリン)によって、ハンマー、建設機械その他によって粉砕された事件。
目次 |
[編集] 概説
| 東欧革命 |
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ポーランド民主化運動 |
広義では、ベルリンの壁に象徴される東西ドイツの自由往来の制限が緩和され、東西ドイツの統合に至るまでの一連の経過を指すこともある。又、米ソ冷戦を象徴するベルリンの壁の消滅がニュース映像によって全世界にリアルタイムで伝えられたことなどから、「ベルリンの壁崩壊」を指して「冷戦終結」「東欧革命」を指している書籍も多い。この場合の「ベルリンの壁崩壊」は、最も広義の捉え方になる。
この事件は、東西ベルリン市民のみならず、東西ドイツ市民、世界中に「感動」と「歓喜」を生み出した。この「感動」と「歓喜」こそがその後の驚異的なスピードでの「ドイツ再統一」の原動力となった。
本項目では、壁が崩壊した結果達成された「東西ドイツ統一」についても、事件の影響下に起こった出来事として一括して言及する。ベルリンの壁自体とその歴史的意味に関しては「ベルリンの壁」を、東西ドイツ統一の問題点については「ドイツ再統一」の項目を参照すること。
[編集] 前史
1980年代以降、ドイツ社会主義統一党のエーリッヒ・ホーネッカー書記長は、ハンガリーやポーランドで社会変革の動きが強まってからも、秘密警察である国家保安省を動員して国民の統制を強めていた。
ところが1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソ連国内のみならず、その影響圏である東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、1989年6月には、ポーランドで複数政党制による自由選挙が実施され、他の東欧諸国に先んじて民主化を果たしたことが契機となり、他の東欧諸国や東ドイツ国内でも民主化推進の声が高まっていた。
1989年8月19日に、ハンガリーで「汎ヨーロッパ・ピクニック」が成功すると、ベルリンの壁が持つ意義は相対的に低くなり、多くの東ドイツ市民が西ドイツへの亡命を求めて、ハンガリーやチェコスロバキアに殺到した。東ドイツ国内でも、10月9日にライプチヒで、民主化と長期政権に居座るホーネッカーの退陣を求めて大規模なデモが起こる(月曜デモ)。11月4日には首都の東ベルリンでも大規模なデモが起こり、東ドイツ政権は根底から揺さぶられる事になった。
ホーネッカーにとって最後の頼みの綱はソ連からの支持を得ることであったが、東ドイツ建国40周年式典に参加するため10月初頭に東ドイツを訪問したソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長は、人民議会での演説で、先に発表した新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する発言をしたのみで、東ドイツ政府を支持する内容には言及しなかった。
また当の建国式典では、動員されたドイツ社会主義統一党員らが突如としてホーネッカーら東側指導者の閲覧席に向かって、「ゴルビー! ゴルビー!」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあった。ゴルバチョフによって見捨てられ、民衆に目の前で反目されたホーネッカーは、ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。
こうして東ドイツ国内外での混乱が拡大すると、10月18日、ホーネッカーは解任され、ドイツ社会主義統一党政治局員のエゴン・クレンツが後任となったものの、もはや混乱は収拾が付かない状態に陥っており、後継政府も十分に状況をコントロール出来なくなっていた。
[編集] 事件の経緯
[編集] 「旅行許可に関する出国規制緩和」の発表
1989年11月9日に、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳部に提案された。このときクレンツをはじめとする政府首脳部は、国内のデモや国外に流出する東ドイツ市民への対応に追われ、また2日前の11月7日にヴィリー・シュトフ首相が解任されて、翌11月8日にハンス・モドロウを首相に任命することが決まったばかりという混乱の中であった。このため、大した審議もされず、政令の内容を確認したかも怪しい状態で、「11月10日から、ベルリンの壁をのぞく国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」政令が政府首脳部の審議を通過した。
この政令の内容を発表する東ドイツ政府のスポークスマンであったギュンター・シャボウスキー(社会主義統一党政治局員)は、この会議には出席しておらず内容をよく把握しないまま、現地時間19時頃から記者会見を始めてしまい「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表した。
この記者会見場で、記者が「(この政令は)いつから発効されるのか」と質問したところ、上記の通り翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにも関わらず、それを伝えられていなかった(文書に記載されていなかったとも、次の紙に書いてあったのを気が付かなかったとも言われている)シャボウスキーが「私の認識では直ちにです」と発表した[1]。この発言を受け、後に国境ゲート付近でゲートを越えようとする市民と、指令を受け取っていない警備隊との間で当該指令の実施をめぐるトラブルが起きる。マスコミによって「旅行が自由化される」の部分だけが強調されたことも混乱に拍車を掛ける。
[編集] 壁に殺到する市民
この記者会見の模様は夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は(ベルリンでは電波が当然にスピルオーバーとなる為、東西双方がお互いのテレビ番組を視聴することが可能であった)半信半疑で壁周辺に集まりだした。
一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近ではいざこざが起きはじめた。21時頃には東ベルリン側でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがった。門を開けるよう警備隊に要求し、やがて「開けろ」コールが地鳴りのように響く状況となった。
[編集] 国境ゲートの解放
ふくれあがった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできず、また現場にいない上官は責任逃れに終始したため、責任を押しつけられた現場の警備隊は対応に困り果てた。また同年の六四天安門事件の影響もあり、武力弾圧という手段はとうてい不可能で、事態を収拾する策は尽きていた。日付が変わる直前の0時前、ついに警備隊は群衆に屈し、ゲート開放が行われ、東西ベルリンの国境は開放されることになった。
本来の政令は、あくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって、東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であったが、混乱の中で許可証の所持は確認されることがなかったため、許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ込んだ。西ベルリンの市民も、騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、抱き合ったり、一緒に踊ったり、あり合わせの紙吹雪をまき散らすなど、東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所でみられた。この大騒ぎはそれから三日三晩続く。
[編集] 壁と国境の撤去
数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーや建築機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業をはじめた。壁は東側によって建設された東側の所有物であるが、東側から壁を壊していい旨の許可は一切出されていない。しかし数日後からは東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。
こうして、1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、28年後の1989年11月9日夜、突如として取り壊される事となった。東西冷戦、越えられない物、決して崩れない物、地域と国民を分断する物を象徴するベルリンの壁は、あっという間に崩れ去った。これは、西ドイツ国民も誰も予想しておらず、事件当時、西ドイツのヘルムート・コール首相は、外遊先のポーランドにいたが、このニュースを聞くと慌ててベルリンへ向かう。
東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。西ドイツ市民から見ると、酷く時代遅れな東ドイツ製の小型車「トラバント」に乗った東ドイツ市民が、相次いで国境を越え西ドイツへ入っていった。西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れた。こうした国境線にも越境を阻止する有刺鉄線などが張られていたが、これらも壁と同じく撤去された。東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから暫く東西ドイツ融合の象徴として扱われた。
[編集] 事件の影響
[編集] 東西ドイツ統一
ベルリンの壁崩壊はソ連・東欧を含めた世界中から祝辞を送られ、次の政治目標には、東西分裂以降ドイツ人にとっては悲願である東西ドイツ統一が設定され、その気運が高まった。ソ連の指導者であったミハイル・ゴルバチョフはドイツ統一には時間がかかると想定していた上に、東ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に参加することを恐れていた。アメリカ合衆国大統領であったジョージ・H・W・ブッシュも、統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。
しかしながら、東西ドイツの統一はアメリカ、ソ連、そして西ドイツ首脳が考えていたよりも、はるかに速いスピードで進められた。この驚異的なスピードで進んだドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓喜」と「感動」以外の何物でもなかった。翌年、東ドイツにおいて最初で最後となる自由選挙が行われ、速やかに東西統一を求める勢力が勝利すると、それまでの社会主義統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を吸収する方式(東ドイツ4州が自発的にドイツ連邦共和国に加入する)で統一が果たされることに決定した。
結局、ベルリンの壁崩壊から1年も経たない1990年10月3日東西ドイツは正式に統一されることになった。なお、統一式典ではルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。
しかし、この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。東ドイツでは1989年11月19日以降、自分達は二つに分裂したうちの片方である「東ドイツ国民」ではなく、統一された「ドイツ国民」であると言う意識が大きくなっていった。これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消す事を助長した。
ドイツの再統一は東ドイツ市民を無条件で裕福にするかのような幻想を生み出した。結局「ドイツ再統一」のスピードが余りにも速すぎたことは、その後の経済的混乱によって実証される事になった。世界屈指の経済大国であった旧西ドイツと旧東ドイツの経済格差は一時的な幻想では覆い隠せないほど歴然たるものが存在した。現在でも東西の所得格差は残されたままである。また、旧東ドイツでは資本主義に適応できなかった旧国営企業の倒産によって失業者が増加し、旧西ドイツでは旧東ドイツへの投資コストなどが足かせとなって景気の低迷を招いた。このため東西双方で市民の間に不満が高まることになった。
東西ドイツの統一に関する法的な見方についてはドイツ再統一を参照のこと。
[編集] 冷戦終結
ゴルバチョフは従来から冷戦の緊張関係を緩和させる新思考外交を展開していたが、ドイツ分裂とベルリンの壁の存在は冷戦の代名詞でもあり、いくら緊張緩和といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況であった。
ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立つこととなった。1989年12月3日のアメリカのブッシュ、ソ連のゴルバチョフの両首脳がマルタにおいて会談し、冷戦の終結が宣言された。
[編集] 東欧への波及
ベルリンの壁崩壊はすでに民主化を果たしていたポーランドを除いた全東ヨーロッパに波及し、チェコスロバキアではビロード革命、ルーマニアではルーマニア革命を引き起こした。すでに民主化への取り組みを始めていたハンガリーでは、汎ヨーロッパ・ピクニックの成功等により、民主化の動きが加速され、10月23日に共産主義体制は打ち捨てられた。さらにはバルト三国の独立が果たされ、共産主義の大本であったソ連自身の崩壊にも繋がった。
[編集] エピソード
- ベルリンの壁が崩壊した当日、たまたま会期中だった西ドイツ国会にこのニュースが齎されると、やがて議員達の間から自然発生的にドイツ国歌の斉唱が始まった。この時の歌詞は第二次世界大戦後に正式に国歌として歌われてきた3番ではなく、「世界に冠たるドイツ」というフレーズを含むことで戦後は避けられてきた1番だった。
- ヘルムート・コール西ドイツ首相はこの時、ポーランドを訪問していた。ワルシャワで『ベルリンの壁崩壊』を知り、コールは同行中の外相ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャーをワルシャワに残して直ちにベルリンに向かい、事態に対応した。
- 東ドイツの政権与党であったドイツ社会主義統一党は、その後衰退の道を辿り消滅寸前かと言われた時期もあったものの、社会民主党の内紛によって同党を離脱した最左派が左派党を結成した2005年の総選挙では、社会民主党政権の新中道左派路線に不満を抱く左派支持者の票を集めて躍進を果たした。
- ドイツ統一に貢献した当時のソ連外相エドゥアルド・シェワルナゼが2003年にグルジア大統領を追われると、かつての恩人を見捨てることなくドイツへの亡命受け入れを申し出て、一時はドイツ入りしたというニュースも飛び交った。実際はシェワルナゼは感謝しつつもこれを固辞してグルジアに留まっている。
- ベルリンの壁の材料には、大量のアスベストが使用されているが、この事実が知られていなかったためか、無数の観光業者により無断掘削・販売が行われた。
- 西ベルリンに到着した東ベルリン市民が大挙して真っ先に購入したのがバナナ。当時三倍の経済格差があり、ぜいたく品は無論買えるはずがないので東ベルリン市民全員が喜ぶ物で比較的値段が安く、東ドイツでは貴重だったバナナが購入の対象だった。
[編集] 関連作品
- 「聞こえる」(合唱曲)作詞:岩間芳樹 作曲:新実徳英
- 「壁きえた」(男声合唱組曲)作詞:谷川雁 作曲:新実徳英
- 「国境のない地図」(宝塚歌劇団星組)
- 「グッバイ、レーニン!」(映画)
- 2003年公開のドイツ映画。大ヒットし、ドイツ歴代興行記録を更新した。
[編集] 脚注
- ^ この質問をしたイタリア人記者リカルド・エルマン(Riccardo Ehrmann)氏が2009年4月16日に放送されたドイツARDテレビの番組で明らかにしたところによれば、この会見の前にエルマン氏と面識があった社会主義統一党の大物から電話があり、取材する際に出国規制の緩和について必ず質問するよう念を押したという"「ベルリンの壁」崩壊の陰に謎の電話、ドイツ". 2009-06-10 閲覧。。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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