コンラート・アデナウアー

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コンラート・アデナウアー
Konrad Adenauer
Bundesarchiv B 145 Bild-F078072-0004, Konrad Adenauer.jpg
アデナウアー(1952年)

任期 1949年9月15日1963年10月16日

出生 1876年1月5日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセン王国ケルン
死去 1967年4月19日(満91歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州
レーンドルフ
政党 キリスト教民主同盟
配偶者 アウグステ・ツィンサー
アデナウアーの死の直後に発行された切手(1968年)

コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアー[1](Konrad Hermann Joseph Adenauer, 1876年1月5日 - 1967年4月19日)は、ドイツ政治家西ドイツの初代連邦首相1949年から1963年に亘って務めた。また1951年から1955年には外相を兼任した。戦前はドイツ中央党に属し、戦後はキリスト教民主同盟 (CDU) の初代党首。

経歴[編集]

ケルン市長[編集]

学生時代のアデナウアー(右端)(1896/97年)

父はケルンの控訴審裁判所の書記官ヨハン・コンラート・アデナウアー、母はヘレーネ(旧姓シャルフェンベルク)。5人兄弟の3番目として生まれた。教派カトリックである。1894年3月5日にケルンのアポステルギムナジウムアビトゥーアを取得。1894年から1897年までフライブルク大学ミュンヘン大学ボン大学法学経済学を学ぶ。1897年に第1次、1901年に第2次法曹国家資格試験に合格し、ケルンで公務員として試補採用された。1903年から1905年までケルン上級裁判所に判事として勤務する。1904年にエンマ・ヴァイヤーと結婚し、3人の子どもをもうけた。1906年ドイツ中央党へ入党した。1909年にケルン市助役。エンマは1916年10月6日に死亡し、1919年にアウグステ・ツィンサーと再婚して五児をもうける。

ケルン市長時代(左から3人目)

中央党の政治家として1917年から1933年までケルン市長。就任当時は41歳と、ドイツの大都市では最も若い市長だった。1918年にはプロイセン枢密院終身議員に選出される。しかしその年11月の第一次世界大戦の敗北でその称号は有名無実になった。敗戦直後の混乱期、中央党はラインラント地方の分離運動をしたためアデナウアーもその一味として攻撃されたが、これは濡れ衣である。1922年から1933年にはプロイセン枢密院議長を務める。ヴァイマール共和国時代には何度か首相候補として取りざたされたが、彼はケルン市長の座に満足しておりこれを固辞していた。ケルン市長としては、戦後の混乱期に食糧確保に意を砕いたり、古い城壁を取り払って緑地帯にし、ケルン大学を再建、フォードシトロエンなど外国企業を誘致し、メッセやドイツ最初のアウトバーンを建設してケルンをドイツ一の産業都市として振興したなどの功績がある[2]

彼はナチ党の台頭を苦々しく思っており、1931年にその支持者が勝手に橋に党旗を掲げた時は撤去させた。しかし1933年にナチスは政権を掌握。その年アデナウアーはケルンを訪問したヒトラーとの握手を拒否したため、ケルン市長とプロイセン枢密院議長の座を追われた。翌年ヒトラーが反対派を粛清した「長いナイフの夜」の直後には2日間拘留された。アデナウアーは引退して年金生活に追い込まれたが、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件の直後にも、かつて彼が作ったメッセの跡地に置かれた強制収容所に入れられた。病気を理由に病院へ移され、そこから脱走して再び逮捕されるも、11月に釈放された。

初代連邦首相[編集]

第二次世界大戦後、進駐したアメリカ軍はアデナウアーを再びケルン市長に任命したが、代わって進駐したイギリス軍により食糧供給の不備を理由に更迭された。さらには占領軍に禁止されていた政党活動の咎で、再び引退生活に追い込まれる。これはアデナウアーがフランスと組んでラインラントに独立国を作るのを防ぐ目的があったという。引退中もアデナウアーはドイツキリスト教民主同盟 (CDU) の設立に尽力する。アデナウアーが戦前所属した中央党はカトリック政党であったが、戦後、プロテスタントとともにキリスト教に基づいた政治を目指し、キリスト教民主同盟として生まれ変わり、その創設者のひとりとなった。

西ドイツ(西側連合国占領地)で行われた1949年8月の第一回ドイツ連邦議会選挙に出馬し当選、CDU の連邦幹事長となり、9月15日の議会での投票でドイツ社会民主党 (SPD) 候補のクルト・シューマッハーに1票差で競り勝って初代連邦首相に選出され、翌日初代連邦大統領テオドール・ホイスにより正式に任命された。当時はまだ西ドイツに防衛・外交の自主権はなく、連合国が管掌していた。同年西ドイツの首都フランクフルト・アム・マインでなくボンになったことに、アデナウアーは大きく影響を与えている。1950年には CDU が全国組織として発足し、アデナウアーは初代党首に就任する。

戦争被害者の社会復帰が西ドイツの復興に繋がり、総力戦で分散した国民を一体化させる効果が有るとして、1950年連邦援護法(Bundesversorgungsgesetz 戦争犠牲者の援護に関する法律)を制定し、一般国民も軍人と同等の援護を受けられるよう、医療費は無料とし、機能に障害の無い火傷のケロイドも大変重い障害とした。連邦援護法の財源は、戦争被害の少ない企業からの税徴収と連邦政府で負担調整基金を設立し、被害の多い個人と企業を援護した。(後に東西が統一ドイツになると、ドイツ統一条約に基づき、東ドイツ居住のドイツ人も1991年1月から適用された。)[3]

アデナウアーは1953年1957年1961年の連邦議会選挙を勝ち抜き、14年に亘って連邦首相を務めることになった[4]。とりわけ1957年の選挙では CDU とキリスト教社会同盟(CSU; CDUのバイエルン地域政党)が連邦議会議席の半数を獲得した。西ドイツの再建を指導し、ルートヴィヒ・エアハルトを重用して経済成長に寄与した。

アデナウアー外交[編集]

仏独協力条約に調印する独仏首脳
左からアデナウアー、ド・ゴール、ポンピドゥー
ベルリンにある独仏関係修復記念碑
右がアデナウアー、左がドゴール

1951年に西ドイツの外交主権が回復されると、外務大臣を兼任したアデナウアーはフランスをはじめとする旧連合国との和解に強力な指導力を発揮し、1955年5月5日に連合国とパリ条約を締結して主権を正式に回復、1963年ドイツとフランスは仏独協力条約(エリゼ条約)に調印した。この条約にはフランス大統領シャルル・ド・ゴールとの個人的友好関係が大きく寄与したといわれる[5]。 経済的にもマーシャル・プランを基に経済復興を進め、欧州石炭鉄鋼共同体欧州経済共同体欧州原子力共同体に加盟。この外交関係は現在の欧州連合へと発展していく。1954年には、ヨーロッパの理念と平和に貢献した人を称えるカール大帝賞アーヘン市から受賞した。

アデナウアー政権下で西ドイツは再軍備を許され[6]北大西洋条約機構 (NATO) に加入した。一方でアデナウアーは、ソビエト連邦東側諸国との国交を結んだ。1955年にはモスクワを訪問しソ連に残っていたドイツ人戦争捕虜の帰国を実現した。但しハルシュタイン原則を掲げ、ソ連軍占領地に誕生した東ドイツは承認せず、また1955年に BND を創設し、翌年にはドイツ共産党を非合法化するなど、共産主義に心を許していたわけではない。 再軍備を進める一方で、1952年12月3日には旧軍の名誉回復演説をおこなっている。[7]

1952年3月27日、ミュンヘン警察署でアデナウアー宛の小包が爆発し、警官1人が死亡した。捜査の結果この犯行にはイスラエルユダヤ人テロ組織イルグンやその指導者メナヘム・ベギン(のち同国首相)の関与が明らかとなったが、ナチス政権下のドイツによるホロコーストの記憶も生々しい当時、両国の間で外交問題に発展することを避けるため、事件背景は発表はされず容疑者はイスラエルに国外追放された。この措置にイスラエル初代首相ダヴィド・ベン=グリオンは感謝したといわれる。

1955年にはイスラエルとルクセンブルク協定を結び、ホロコースト生存者に対して1人当たり3000マルク、総計34億5000万マルクを支払った。1960年にはニューヨークウォルドルフ=アストリアホテルでベン=グリオンと初会談し、巨額の借款を実現した。さらに、1966年にはドイツの重鎮政治家として初めてイスラエルを訪問している。ただしニュルンベルク法制定に関わった人物(ハンス・グロプケ)を激しい批判にも関わらず連邦首相府長官として重用し続けるなど、その姿勢は批判を受けた。

退陣と余生[編集]

2ドイツマルク硬貨の裏面にあしらわれたアデナウアーの横顔(1969年発行)

1959年ごろから、アデナウアーの威信は低下し始める。この年、連邦大統領を2期務め引退するテオドール・ホイスの後任大統領としてエアハルトを据えようとしたが、これは「経済の奇跡」の立役者として人気を博し、アデナウアーの後継者と目されていたエアハルトを棚上げして自身の政権の延命を図るためだった。当時83歳[8]だった老宰相のこの態度が周囲の猛反対を受けると、アデナウアーは今度は「大統領が首相の職務に介入できる」ことを条件に自らが大統領になろうとするが、これも猛反発を受けて撤回。結局、ハインリッヒ・リュプケを候補者とすることで落ち着いた。

1961年ベルリンの壁が建設された際、アデナウアーはベルリンに赴かず強い批判を受ける。当時西ベルリン市長であったヴィリー・ブラントが事態をよく把握し西ドイツ国民の支持を集める一方、アデナウアーは「首相はどこに行った」と批判を受けた。アデナウアー自身、ブラントの人気に「西ドイツの首相は誰だ」と強く嫉妬心を抱いたといわれる。政府の意のままにならないドイツ公共放送連盟 (ARD) に対抗する国営放送創設の企ても、連邦憲法裁判所に違憲とされ失敗した。なおこの放送局は、1963年公共放送局・第2ドイツテレビ(ZDF)として開局することとなる。

1962年には雑誌『デア・シュピーゲル』の編集者および記者が国家反逆罪のかどで警察に逮捕されるスキャンダルがあり、この逮捕をアデナウアーが承認したことが明らかになり、フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス国防相の首を差し出して切り抜けたものの、指導力の低下は覆うべくもなかった。この年には初めての心臓発作を起こし健康不安も重なり、翌年に連邦首相を辞任、エアハルトへの禅譲を余儀なくされた。

しかしアデナウアーはなおも CDU 党首の座に1966年まで留まった。更に連邦議会議員も辞任せずその死去まで務めたが、当時の91歳という年齢はドイツ連邦議会史上最高齢である。1967年4月19日午後1時21分、インフルエンザに心臓発作を併発したアデナウアーは自宅で死去した。最後の言葉は "Da jitt et nix zo kriesche!"(泣くことなど何も無い!)だった。故郷のケルン大聖堂で国葬が行われ、その棺はドイツ連邦軍高速艇ライン河を運ばれ、自宅近くの墓地に埋葬された。

表彰[編集]

メルセデス・ベンツ300D「アデナウアー」

1919年、自らが再建したケルン大学から名誉博士号を与えられる。その後も同大学の各学部に3度に亘って名誉博士号を授与され、哲学政治学医学法学などその名誉博士号は多岐にわたる。1955年にはローマ教皇ピウス12世から、教会に馬で乗り入れる特権 (Ritter vom Goldenen Sporn) を与えられた。またアデナウアーはケルンの名誉市民ともなっている。

ケルン・ボン空港にはアデナウアーの名が冠されている。またドイツの各都市では例外なくアデナウアーの名を冠した大通りや橋、建築物を目にすることができる。その名を冠した財団もある。ドイツ製の高級車として知られるメルセデス・ベンツにも、アデナウアーの名を愛称に持つモデルがある。

2003年11月、ZDFの番組「偉大なドイツ人」の視聴者投票で、アデナウアーは「ドイツの歴史を通じて最も偉大な人物」に選ばれた。タブーであるヒトラーは言うに及ばず、侵略主義的なビスマルクへの忌避感も強い現在のドイツでは、まずまず順当な選出と言える。

人物[編集]

コンラート・アデナウアー薔薇

2度の結婚で8人の子供をもうけた。最初の妻エンマは画廊主の娘で、1916年に36歳で病死。2番目の妻アウグステ(「グッシー」)はゲシュタポに逮捕された時に体調を崩し、1948年に死去している。孫の1人がノルトライン=ヴェストファーレン州ギュータースローの郡議会で議員を務めている。

政治家の傍ら、発明家としても活動した。第一次世界大戦時の食糧難に対応して大麦の加工食品や大豆製ソーセージを発明(特許をとったのは1件のみ)。ナチスにより引退生活に追い込まれていた時には「害虫防止ブラシ」「車のライトに幻惑されないメガネ」など珍発明を連発し出願したが、いずれも特許権は認められなかった。庭いじりが好きでバラの新種を開発し「アデナウアーのバラ」と名付けられた。

晩年よく休暇を過ごした北イタリアのスポーツ、ボッチャにはまり、自宅や首相官邸に競技場を作ったほどだった。

経済再建の目標として日本教育勅語のドイツ語訳を執務室の壁に掲げていた[要出典]。在任時期・敗戦からの復興という時代背景・外交方針・剛腕という共通点から、日本吉田茂首相と比較するむきも多い。2歳違いの二人は、没年も同じである。

学生時代にクラスメイトと共にカンニングをしていた。その計画は巧妙で、頭の良いクラスメイトに問題の解答を作らせ、それぞれの生徒が間違えるところまで指示していた。

脚注[編集]

  1. ^ ドイツ語での発音に従えば「アーデナウア」と表記したほうが正確だが、日本では慣用的に「アデナウアー」と表記されている。
  2. ^ 一方でカトリック中央党の政治家として反キリスト教的・「反道徳的」な芸術には厳しく臨み、ブレヒトの劇「三文オペラ」のセリフを変更させたり、バルトークの「中国の不思議な役人」の上演を禁止したり、印象派画家オットー・ディクスの作品を美術館から撤去させたりした。
  3. ^ [2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」]
  4. ^ ヘルムート・コールが1982年から1998年まで5期16年務めるまで、ドイツの民選宰相としては最長記録だった。
  5. ^ ただし政治に容喙してナチスの台頭を許した元軍人の大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクを引き合いに出して、軍人が大統領になることには懸念をもっていたという。
  6. ^ アデナウアーは1949年にすでに西ドイツの再軍備を主張していたが、表面上はNATO 諸国の要望によるものという形式をとっていた。1950年、再軍備に抗議して CDU の重鎮グスタフ・ハイネマン内相が辞任している。1951年に連邦国境警備隊が、1955年11月12日にドイツ連邦軍が創設され、アデナウアーの主張が実現した。
  7. ^ 「私は本日、本会議場において連邦政府の名において宣言したいと思います。われわれは皆、気高き軍人の伝統の名において、陸・海・空で名誉ある戦いを繰り広げたわが民族のすべての兵士の功績を承認します。われわれは近年のあらゆる誹謗中傷にもかかわらず、ドイツ軍人の名声と偉大な功績がいまなおわが民族のもとで命脈を保ち、今後も生き続けることを確信します。」これが現在に至るまでドイツにおける旧軍に対する認識の基礎となった。
  8. ^ アデナウアーは首相就任時にすでに73歳だった。ドイツ政治では円熟は求めても「活きの良さ」を重視する傾向があり、アデナウアー以外に70代の人物が連邦首相を務めたことはない。