ポール=アンリ・スパーク

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ベルギーの旗 ベルギーの政治家
ポール=アンリ・スパーク
Paul-Henri Spaak
Bundesarchiv Bild 183-39998-0427, Paul-Henri Spaak.jpg
ポール=アンリ・スパーク
生年月日 1899年1月25日
出生地 スカールベーク
没年月日 1972年7月31日(満73歳没)
死没地 ブラバン・ワロン州 ブレーヌ・ラリュート
出身校 ブリュッセル自由大学
所属政党 ベルギー社会党

任期 1938年5月15日 - 1939年2月22日
国王 レオポルド3世

任期 1946年3月13日 - 1946年3月31日

任期 1947年3月20日 - 1949年8月11日

国際連合の旗 第2代 国際連合総会議長
任期 1946年 - 1947年

任期 1952年 - 1954年

その他の職歴
Flag of NATO.svg 第2代 NATO事務総長
1957年5月16日 - 1961年4月21日
欧州連合の旗 第2代 欧州評議会議員会議議長
1949年 - 1951年
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ポール=アンリ・シャルル・スパーク(Paul-Henri Charles Spaak, 1899年1月25日 - 1972年7月31日)はベルギー社会主義政治家

若年期[編集]

ポール=アンリ・スパークはスカールベークにおいて劇作家・詩人のポール・スパークと上院議員のマリ・ジャンソンの間に生まれた。母方の祖父はポール・ジャンソン、伯父はベルギーの首相・外務大臣だったポール=エミール・ジャンソンであるが、このふたりはともにリベラル系の政治家であり、またマリ自身はベルギー初の女性上院議員であった。

第一次世界大戦期にスパークは自分の年齢を偽って陸軍に入隊し、のちに2年間をドイツの戦争捕虜として過ごすことになる。

スパークはブリュッセル自由大学で法学を専攻する。

ベルギー[編集]

1920年、スパークは社会主義系のベルギー労働党に入党する。1932年には代議院議員となる。

1935年、ポール・ヴァン・ゼーラント政権で運輸相として入閣する。1936年2月には外相としてゼーラント、その後伯母であるエミール・ジャンソン政権に加わった。1938年5月から1939年2月にかけて、1期目の首相を務める。

1939年9月から1949年8月までの間に、ユベール・ピエルロアヒレ・ファン・アッケルカミーユ・ユイスマンの3人の首相の下で外相を務めた。また1946年3月13日から同月31日までベルギー史上最短となる政権を担当したほか、1947年3月から1949年8月までの間にも首相を務めた。

さらに1954年4月から1958年6月までのアヒレ・ファン・アッケル政権、1961年4月から1966年3月までのテオ・ルフェーヴルピエール・アルメル両政権でも外相を務めた。

第二次世界大戦までスパークはベルギーの「独立方針」を提唱していた。1940年5月からのドイツによる占領期間において外相であったスパークはフランスに逃れており、直後の夏には帰国を目指していたがドイツによって阻まれた。このためスパークはイギリスに滞在することを余儀なくされた。

国際連合[編集]

1945年になるとスパークは国際的な評価が高まり、この年には国際連合総会の初代議長に選出される。パリでの国際連合総会第3回会議でスパークはソビエト連邦代表団に対して "Messieurs, nous avons peur de vous"(私たちはあなた方を恐れている)という有名な言葉で呼びかけた。

ヨーロッパ[編集]

1944年以降、スパークは地域協力や集団安全保障といったものに傾倒していく。ロンドンに逃れていた期間、スパークはベルギー、オランダルクセンブルクベネルクス関税同盟を創設しようと働きかけた。1949年8月、スパークは欧州評議会の議員会議初代議長に選出される。1952年から1953年にかけては欧州石炭鉄鋼共同体共同総会の議長を務めた。

1955年、ヨーロッパ各国の首脳らによるメッシーナ会議においてスパークは単一欧州市場の設立について検討する委員会(スパーク委員会)の委員長に指名された。通称「スパーク報告書[1]は1956年のヴァル・ドゥシェス城での政府間協議における土台となり、1957年3月25日の2つのローマ条約欧州経済共同体設立条約・欧州原子力共同体設立条約)の署名に至った。このときスパークはベルギーを代表してジャン=シャルル・スノワ・エ・ドピュールとともに両条約に署名した。欧州経済共同体設立に至ったこれらの功績によりスパークは欧州連合の父に数えられている。

北大西洋条約機構[編集]

1956年、スパークはヘースティングス・イズメイの後任として北大西洋条約機構の事務総長に選出された。1957年から1961年にかけて事務総長を務め、その後ディルク・スティッケルと交替した。またスパークは1966年に機構本部の新しい所在地としてブリュッセルが選ばれるさいの決め手ともなった。

1956年という年はスパークにとってヨーロッパ運動の最後の年となった。この年スパークはフランスをヨーロッパの枠組みに戻るよう働きかけることで「空席危機」を解決する重要な役割を果たした。1957年にはアーヘン市からヨーロッパの理念と平和に貢献した人物に授与されるカール大帝賞が贈られた。

政界引退後[編集]

スパークは1966年に政治の世界から退く。その後スパークはベルギー王立フランス語文学アカデミーの会員となる。1969年、スパークは2巻にわたる回想録 Combats inachevés を出版する。1972年7月31日、スパークはブリュッセル近郊のブレーヌ・ラリュートで73歳において永眠する。スパークの亡骸はブレーヌ・ラリュートのフォリス墓地に埋葬された。

家族[編集]

スパークにはマルグリッテ・マレヴェズとの間にフランス語圏民主戦線を率いた娘アントワネット・スパーク、外交官の息子フェルナン・スパークの2人の子どもがいる。1964年8月にマルグリッテと死別したのち、1965年4月にシモーヌ・デアールと再婚する。姪には女優のカトリーヌ・スパークがいる。1940年代、ニューヨーク滞在時にアメリカのファッション・デザイナーであったポーリン・フェアファクス・ポッターと愛人関係にあった。

参考文献[編集]

  1. ^ Intergovernmental Committee on European Integration. The Brussels Report on the General Common Market” (English). Unibersity of Pitsburgh. 2009年2月10日閲覧。
  • Spaak, Paul-Henri (English). Continuing Battle: Memoirs of a European, 1936-66. Littlehampton Book Services. ISBN 978-0297993520. 

外部リンク[編集]

公職
先代:
ポール=エミール・ジャンソン (en
アヒレ・ファン・アッケル (en
カミーユ・ユイスマン (en
ベルギーの旗 ベルギー王国首相
第40代:1938 - 1939
第43代:1946
第46代:1947 - 1979
次代:
ユベール・ピエルロ (en
アヒレ・ファン・アッケル (en
ガストン・エイスケンス (en
先代:
エドゥアール・エリオ
欧州連合の旗 欧州評議会議員会議議長
第2代:1949 - 1951
次代:
フランスワ・ド・メントン (en
外交職
先代:
(創設)
国際連合の旗 国際連合総会議長
初代:1946 - 1947
次代:
オズヴァルド・アラニャ (en
先代:
ヘースティングス・イズメイ
Flag of NATO.svg NATO事務総長
第2代:1957 - 1961
次代:
ディルク・スティッケル (en
先代:
(創設)
Flag of the European Coal and Steel Community 6 Star Version.svg 欧州石炭鉄鋼共同体
共同総会議長

初代:1952 - 1954
次代:
アルチーデ・デ・ガスペリ