ハワイ王国

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ハワイ王国
Kingdom of Hawai‘i
1795年 - 1898年
ハワイの国旗
国旗
国の標語 : Ua mau ke ea o ka ʻāina i ka pono
国歌 : ハワイ・ポノイ (現在は州歌。)
ハワイの位置
公用語 ハワイ語
首都 ヒロ
(1796年-1803年)
ラハイナ
(1803年-1845年)
ホノルル
(現在の州都)
(1845年-1898年)
国王
1795年 - 1819年 カメハメハ1世(初代)
1877年 - 1895年 リリウオカラニ(最後)
面積
16,635km²
変遷
王国樹立宣言 1795年
ハワイ統一 1810年
共和制へ移行 1894年7月4日
滅亡 1898年8月12日

ハワイ王国Kingdom of Hawai‘i)は、1810年から1893年まで、ハワイ諸島にあった王国(建国宣言は1795年)である。1893年の革命で共和制となり、1898年にはアメリカ合衆国に併合され消滅した。政治的には立憲君主制をとった。

目次

[編集] 政治体制

1840年憲法制定により、ハワイ王国は国王の任命する貴族院と、国民の直接投票で選ばれる下院の二院制をとった。この憲法により、司法部がつくられた。最高裁判所長官は国王が任命した。各地方は国王の任命する知事が管轄した。元首は国王で、大臣を集めた会議を開いて行政を行った。

[編集] カメハメハ王朝

初期のハワイ王国は、初代カメハメハ1世(カメハメハ大王)とその子孫によって統治された。特に2世と3世は初代王の息子である。

カメハメハ1世は、白人から入手した武器を利用して領土を広げ、1795年、ハワイ王国の建国を宣言した。この後、1810年ハワイ全土を統一した。これ以前、ハワイはそれぞれの地方ごとに有力者が統治していた。

カメハメハ2世の時代(1820年)にキリスト教のアメリカン・ボードから派遣された宣教師が相次いでハワイを訪れる。ちょうどハワイで生じていた宗教的な混乱と時期が重なり、キリスト教化が進んだ。逆に、ハワイの古くからの宗教は衰退した。

カメハメハ3世の時代、1840年に憲法が制定され、近代国家としての体裁が整うと、各国が相次いでハワイ王国を承認。名実ともに独立国家として認められるようになった。憲法制定に当たっては、特に当時世界最大の君主国であったイギリスを手本にしたとされている。この後もハワイ王国はイギリス寄りの外交を行った。

カメハメハ家による統治は、1872年のカメハメハ5世ロットの死去によって終わった。ロットは、王女パウアヒ(w:Bernice Pauahi Bishop)を呼び出し、王冠を託したが、彼女にはすでに家庭があり、即位を拒否した。ロットは代わりの次王を任命する前に死去した。

[編集] 選挙君主制

カメハメハ5世ロットの死去後、王国司法部は国王選挙が行われなければならないと宣言した。議会での選挙で選ばれた国王は次のとおり

[編集] カラカウア王朝

ルナリロ王もまた先代王と同じように、次代王を指名せず、また、即位から1年を経ることなく不慮の死去を遂げた。司法部は再び国王選挙の開始を宣言した。この選挙は、ハワイにおいてもっとも汚らしい選挙といわれた。結果、カラカウア (David Kalakaua) が激しい中傷合戦を制し、当選して国王となった(在位1874年-1891年)。

カラカウア王は、王位継承に関する混乱を防ぐため、あらかじめリリウオカラニ(Liliuokalani、在位1891年-1893年)を次期王候補に指名した後、死去した。

[編集] 王国の滅亡

アメリカ合衆国からの入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的にも力をつけはじめると、よりアメリカ寄りの政治を求める声が特に経済界から強くなりつつあった。1887年クーデターがあり、カラカウア王は修正憲法(銃剣憲法)の成立を承認せざるを得なくなった。この修正憲法により、国王の権限は制限され、王国はアメリカ合衆国の属国化することを余儀なくされていた。王国の滅亡はこれに始まる。

1893年1月16日、アメリカと関連の深いサトウキビを扱う業者らが、さらにアメリカ寄りの政権を打ち立てるため、政権の転覆を計画した。アメリカ海軍艦USSボストンは、首謀者サンフォード・ドール (Sanford B. Dole) とロリン・A・サーストン (Lorrin A. Thurston) を保護する名目でホノルルに到着。リリウオカラニ女王は幽閉状態となった。1月17日、ドールは臨時政府を打ち立て、王政の廃止を宣言した。

1894年7月4日、ドールは「ハワイ共和国」の建国を宣言した。ドールは同国の初代の、そして最後の大統領となった。1895年1月に王党派による最後の大規模な武力蜂起が起きたが鎮圧され、1月16日にはリリウオカラニも私邸から大量の武器が発見されたという理由で逮捕され、廃位された。ドールの主な業績は、ハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作ったことだった。この条約が成立したときドールは、「ハワイ準州」の初代知事に任命された。

1898年8月12日、時の米大統領ウィリアム・マッキンリーはハワイの米国領への編入を宣言。この日、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国国旗が降ろされ、星条旗が揚げられた。古来のハワイ住民らはこのとき、悲しみの声をあげたという。これにより米国の準州として編入され、103年間の王国としての歴史は完全に幕を閉じた。

準州となった後も、表向きハワイは米国の領土として扱われる事は無かった。しかし、名実ともに米領へと変貌していく。これは準州知事が設置されていながら、米自治領という形がとられたためであった。1959年8月21日には完全な米領土としてハワイ州が成立。今では、アメリカ50番目の州として認知されている。

[編集] 再興の動き

1991年、ハワイ王室の末裔であるカメハメハ6世が「即位」し、1992年1月26日にハワイ独立宣言。1992年6月7日、カメハメハ6世はイオラニ宮殿に立て篭もり、ハワイ王国復活を宣言。1993年4月3日、カメハメハ6世はハワイ王国の王として声明を発表[1][2]。(ただし、カメハメハ6世の独立宣言についての記述は日本の匿名ブログのみ。ニュース記事はなし。「Kamehameha VI」は英文サイトでは確認できない。)

1993年11月、米国議会はハワイ併合に至る過程が違法だったと認め、公式に謝罪する両院合同決議[1][3]。「ハワイ憲法制定会議2008」はウェブサイト(HAWAII - INDEPENDENT & SOVEREIGN)を開設している。(このサイトにはカメハメハ6世についての記述はない。)

[編集] 日本との関連

1867年日本・ハワイ親善協定が締結され外交関係を樹立後、1868年には民間の第1号移民団(153名)がハワイに渡った。ハワイ王国はこの後も日本からの移民を積極的に受け入れたため、21世紀の現在でもハワイには日系人が多い。また、東京にはハワイ王国公使もいたほか、7代王カラカウアも1881年に日本を訪問している。1884年には日本・ハワイ移民協約が締結され、官製移民団が組織されるようになった。官製の移民は、翌1885年から1894年まで続き、総計29,339人がハワイに渡った。

1893年の王政廃止のさい、明治政府は「在留邦人保護」を名目として、巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)、「金剛」をホノルル港へ派遣し、新政権を牽制した。なお、東郷は新政権との接触を避け、リリウオカラニ廃王にのみ謁見した。

[編集] 日本とハワイとの連邦構想

1881年、世界一周旅行で来日したハワイ王のカラカウアは、明治天皇と会見をした際、ハワイ王国の安泰のため、日本とハワイの連邦化を提案した[4]。その時のハワイ王からの提案は次の通り。

日本政府はアメリカとの対立を避けるため、この縁談を「良友 睦仁」の御筆の入った親書をもって丁重に断った[要出典]

[編集] 関連項目

[編集] 脚註

[編集] リンク先