広尾 (渋谷区)

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広尾(外苑西通り)

広尾(ひろお)は、東京都渋谷区町名。現行行政地名は広尾一丁目から広尾五丁目。住居表示済み区域。2010年7月31日現在の人口は、13,001人[1]郵便番号は150-0012。

地理[編集]

東京都渋谷区の南東部に位置している。西は同区・と、南は渋谷川を境界として同区・恵比寿と、東は港区南麻布と、北は港区西麻布および南青山と接する。

二丁目や三丁目の高台などは東京都内を代表する高級住宅街のひとつであるが、幹線道路沿いにはオフィスビルや店舗が多く見られる。天現寺交差点付近には、在日アメリカ海軍の施設、「ニュー山王ホテル(ニューサンノー米軍センター)」がある。

歴史[編集]

もともと広尾は「樋籠」(ひろう)と記され、広大な原野であったという。「広尾原」とも呼ばれた。文政から天保年間に描かれた『江戸名所図会』では、一面にススキが広がる景色が描かれている[2]。ススキ原の端、渋谷川山下橋には江戸時代大型の水車が設置され、山下橋の風情と合わせて、これも『江戸名所図会』に載っている[3]。現在の港区と渋谷区に跨る広域地名でもあった。

江戸時代初期までは下渋谷村の一部であったのが、1664年町屋の起立が許され渋谷広尾町が発足。その後、1713年に江戸町奉行の所管になった際に広尾橋を挟んで麻布側にも麻布広尾町が発足する。なお渋谷広尾町は現在の恵比寿駅前と渋谷橋周辺、及び広尾駅周辺に点在していた。

1870年明治3年)、渋谷広尾町は渋谷広尾町・渋谷上広尾町・渋谷下広尾町に三分割され、翌1871年に東京府豊島郡に編入されるが、1878年(明治11年)には郡区町村編制法施行に伴い、東京府麻布区に編入される。1889年(明治22年)の市制町村制施行に伴い、渋谷広尾町・渋谷下広尾町の全域及び渋谷上広尾町と麻布広尾町の一部が南豊島郡1896年より豊多摩郡)渋谷村に編入され、同村の大字となる。一方、渋谷上広尾町の残部と麻布広尾町の大部分は東京市麻布区に編入され、1891年(明治24年)に麻布区の渋谷上広尾町は麻布広尾町に併合された。

また1911年(明治43年)に麻布区に新広尾町が起立するが、この範囲は天現寺橋から麻布十番に近い一ノ橋までの古川両岸の地域で、本来の広尾とは別物である。ただし、麻布広尾町の住人の手により起立した町といわれ、地番も麻布広尾町の続き番号となっていた。

なお、渋谷町(1909年町制施行)は1928年昭和3年)に町内の11大字を廃止して新たに66町を設置したが、広尾の名前は新設の元広尾町が受け継いだ。このため、住居表示実施以前は現在の渋谷区広尾五丁目付近が「元広尾町」、現在の港区南麻布五丁目付近が「(麻布)広尾町」であった。港区南麻布四丁目に広尾神社がある。

土筆ヶ原[編集]

都立広尾病院

広尾五丁目から広尾病院慶應幼稚舎のある恵比寿二丁目にかけての平坦地一帯は、かつてツクシがたくさん生えていたことから「土筆ヶ原」(つくしがはら)と呼ばれ、江戸時代には江戸名所図会の挿絵にもみられるように庶民の遊歩散策の場所となっていた[4]

現在、広尾五丁目商店街となっているあたりの町は正徳3年(1713年)に町並地となり町方支配となった。町は1945年(昭和20年)のアメリカ軍による東京大空襲でも被災を免れて明治・大正の建物が多く建ち、近年まで昔の面影が残されていた[4]。土筆ヶ原の中心にあたる外苑西通り天現寺交差点近くに建つ都営広尾五丁目アパートの場所には、かつて都電の車庫が置かれていた[4]

交通[編集]

港区南麻布との境界上に東京メトロ日比谷線広尾駅がある(所在地は港区側)。一丁目と東京都道416号古川橋二子玉川線(駒沢通り)沿いの二丁目、そして境界部分の三丁目は日比谷線及びJR線の恵比寿駅が最寄駅となる。

道路は、地域南部を明治通りが横断している。東の南麻布との境界の一部は東京都道418号北品川四谷線(外苑西通り)。首都高速道路3号渋谷線高樹町出入口が最寄となる。

施設[編集]

広尾プラザ
恵比寿プライムスクエアタワー

名所・旧跡[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 住民基本台帳による。渋谷区調べ
  2. ^ 川田逸『江戸名所図会を読む』、東京堂出版、平成19年第9版,130頁。
  3. ^ 川田逸『江戸名所図会を読む』、東京堂出版、平成19年第9版、132頁。
  4. ^ a b c 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p284-5