細川護熙
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ほそかわ もりひろ
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| 生年月日 | 1938年1月14日(74歳) |
| 出生地 | |
| 出身校 | 上智大学法学部卒業 |
| 前職 | 朝日新聞社従業員 |
| 現職 | 陶芸家 永青文庫理事長 東北芸術工科大学学園長 京都造形芸術大学学園長 |
| 所属政党 | (無所属→) (自由民主党→) (日本新党→) (新進党→) (フロム・ファイブ→) (民政党→) 民主党 |
| 称号 | 法学士(上智大学・1963年) |
| 親族 | 細川護久(曾祖父) 池田詮政(曾祖父) 近衞篤麿(曾祖父) 細川護立(祖父) 近衞文麿(祖父) 細川護成(大伯父) 近衞秀麿(大叔父) 南部利英(従伯父) |
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| 内閣 | 細川内閣 |
| 任期 | 1993年8月9日 - 1994年4月28日 |
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| 選挙区 | (旧熊本県第1区→) 熊本県第1区 |
| 当選回数 | 2回 |
| 任期 | 1993年 - 1996年9月27日 1996年 - 1998年5月7日 |
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| 選挙区 | (旧全国区→) (熊本県選挙区→) 比例区 |
| 当選回数 | 3回 |
| 任期 | 1971年7月4日 - 1977年7月3日 1977年7月10日 - 1983年1月12日 1992年7月26日 - 1993年7月4日 |
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| 任期 | 1987年2月11日 - 1991年2月10日 |
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| 任期 | 1983年2月11日 - 1987年2月10日 |
細川 護熙(ほそかわ もりひろ、1938年〈昭和13年〉1月14日 - )は、日本の政治家、陶芸家。公益財団法人永青文庫理事長、東北芸術工科大学学園長(初代)、京都造形芸術大学学園長(初代)。
参議院議員(3期)、熊本県知事(第45・46代)、日本新党代表(初代)、衆議院議員(2期)、内閣総理大臣(第79代)、フロム・ファイブ代表(初代)などを歴任した。
目次 |
[編集] 概要
上智大学法学部卒業後、朝日新聞社記者を経て第9回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し初当選。その後、熊本県知事に転じ、2期8年務めた。知事退任後、日本新党を結成して代表に就任し、参議院議員として再び国政に戻る。1993年(平成5年)7月の第40回衆議院議員総選挙に鞍替え立候補し、衆議院議員に初当選。非自民連立政権の首班となり、38年ぶりに自由民主党からの政権交代を実現させた。内閣総辞職後、新進党の結党に参加するものちに離党、フロム・ファイブを起ち上げた。以降、民政党を経て民主党に合流。還暦を機に議員辞職し、政界引退後は陶芸家として活動する。
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国大名・細川忠興の子孫で、旧熊本藩主細川家第17代当主・細川護貞と、近衛文麿元内閣総理大臣の娘である温子との間の長男として東京府東京市(現在の東京都千代田区)に生まれる(本籍地は熊本県熊本市)。
清泉女学院小学校から栄光学園中学校、学習院高等科卒業。学習院高等科での同級生に菅孝行がいる。大学入試では京都大学を受験するが失敗。一浪して再び京大を受験するがまたも失敗し、上智大学法学部を卒業後、朝日新聞社に入社。鹿児島支局では鹿児島県警察記者室に入っていたが、ある時記者室で財布を無くしたことがあった。「当時の金銭感覚では考えられない大金」だったが、細川は「「財布は買い直せば良い」という表情だった」という[1]。その後本社に戻って社会部記者となり、金嬉老事件などを取材した。
[編集] 政界へ
その後、朝日新聞社を退職。かねてから政界進出の意志を持っていたが、松前重義(社会党)に「自分は次の選挙に出ない。いい機会だから、胆(はら)を決めて出たらどうか」と勧められ、1969年に行われた衆議院議員総選挙に熊本1区から無所属で出馬した。しかし父の護貞は、政界入りに反対し、「そんなヤクザな道に入るのなら、家とは縁を切ってくれ。カネも含めて今後一切の面倒は見ない」と勘当を言い渡した。文芸春秋での実弟・忠煇の発言によれば、護煕は細川家次期当主と言えど、当時三笠宮家の長女甯子内親王と結婚したばかりの忠煇より知名度が低く、忠煇自身も政界進出には否定的だったという。
細川自身は保守系無所属としての出馬を選んだ(社会党は松前の後継に藤崎久男を擁立したが落選)。佐藤榮作首相に面会すると、田中角栄に会うよう勧められ、田中には「当選ラインは6万票。選挙までに3万軒、戸別訪問しろ」といわれ、どぶ板選挙を行った。しかし細川家の末裔とはいえ、家の支援は望めず、有権者にとっては無名に近い存在だった。結果、戸別訪問も目標の半分しかできず38,632票で落選したが、戸別訪問で回った地域は、不思議なくらい票が伸びたという[2]。1971年の参議院議員選挙では全国区から自由民主党公認で出馬し、石原慎太郎などの支援を得て当選するが、後に石原とは袂を分かち田中角栄の七日会(田中派)の旗揚げに参加する。2期目は熊本県選挙区から出馬し当選、官職では大蔵政務次官などを歴任。党職では自由民主党の参議院副幹事長を務めている[3]。
[編集] 地方自治へ
その後、熊本県知事選挙への出馬を表明、現職の沢田一精と自民党の公認を争った末の調整で公認候補となり、1983年に当選、2期8年勤める(当時全国最年少の知事)。この間、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進。NHKアナウンサーを退職した鈴木健二を熊本県立劇場館長として迎えたりしている。
また、知事在任中、何をするにも国(中央省庁)に権限を握られていることを痛感し、地方分権を推進するためには国の中枢に入って改革をする必要があると考えるようになる。引き合いとしてよく使った「バス停の設置場所を数メートル移動させるだけでも運輸省の許可を得るのに大変な手間がかかる」という例は話題になった。
[編集] 新党結成
熊本県知事3選も確実視されていたが、「権不十年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え、2期8年で知事を退任。1991年2月に活動の本拠を東京に移して、「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長を務めた。
1992年、文藝春秋で「自由社会連合」結党宣言を発表。東西冷戦終結の国際潮流とリクルート事件をはじめとする政治腐敗、既成政党不信、政治改革・行政改革の遅滞を背景に、政権交代の可能性がほとんどなくなっていた保守政党(自民党)と革新政党(社会党)の二大政党制(1.5大政党制)を捨て、政権交代可能な保守の二大政党制を打ち立てるべきだと訴えた。新党は公募により党名を「日本新党」とし、10年以内に政権獲得を実現するという目標を掲げた。同年、参議院選挙に比例区から立候補し、日本新党は細川を含めてミニ政党としては過去最高の4議席を獲得した。
宮澤内閣の下で政治腐敗防止のために政治資金規正や政権交代を容易にする小選挙区制度導入といった政治改革実現の目途は立たず、1993年5月、ついに宮澤喜一首相がテレビの特別番組で「政治改革を必ず実現する」「どうしてもこの国会でやる」と断言し、決意を示したものの党内の根強い反対論を覆せず、再び断念に追い込まれた。その結果、宮澤内閣に対する不信任決議案が政治改革を推進する羽田派の賛成により衆議院で可決され、宮澤は解散総選挙を決断。羽田孜、小沢一郎らは自民党を離党し、新生党を結党。また不信任決議案には反対票を投じた武村正義、鳩山由紀夫らも離党し、新党さきがけを結成した。
この間、細川は日本新党代表として全国を遊説して政治改革・地方分権を訴え、無党派層の支持を集めていった。6月、総選挙の前哨戦と位置付けられた1993年東京都議会議員選挙で、一気に20議席獲得と大躍進した。またこの頃、武村正義や田中秀征が主導した、行政の制度改革を勉強する会である「制度改革研究会」に運営委員として参加している。
[編集] 細川内閣
詳細は「細川内閣」を参照
衆議院の解散による第40回衆院選で日本新党は躍進、細川は小池百合子と共に衆議院に鞍替えし、熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選した(小池も兵庫2区で当選)。この選挙で野党第一党の日本社会党は大敗し、与党で第一党の自由民主党も過半数に達していなかったため、日本新党と新党さきがけがキャスティングボートを握る。新党さきがけ代表の武村正義は、細川とは滋賀県知事時代以来のつきあいがあり、その縁で日本新党を引き込み自民党との連立政権を模索したが、新生党代表幹事小沢一郎がこれに対抗して「細川首相」を提示。細川は「自民党を政権から引きずり下ろすためには悪魔とも手を結ぶ」と述べ、非自民連立政権の首班となることを受諾した。
1993年8月9日、政治改革を最大の使命として掲げる細川連立政権が誕生した。公選知事経験者の首相就任は史上初(2011年現在唯一。公選知事経験者の三権の長就任は2009年衆議院議長に就任した横路孝弘も含む)。また、衆議院議員当選1回での首相就任は1948年の吉田茂以来45年ぶり、閣僚を経験していない政治家の首相就任としては1947年の片山哲以来46年ぶりである。細川政権の誕生により1955年から38年間続いた所謂55年体制が崩壊した。日本新党、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社会民主連合の7党、及び参議院の院内会派である民主改革連合が連立を組んだ8党派からなる細川内閣は連立与党間の調整の難航が予想され、「8頭立ての馬車」「ガラス細工の連立」と揶揄されることもあった。しかし、内閣発足直後に行われた世論調査では内閣支持率は軒並み7割を超え、史上空前の高い支持率を誇る。この記録は小泉内閣によって塗り替えられるまで保たれることになる。
1993年8月15日に、日本武道館の「戦没者追悼式典」で首相として初めて「日本のアジアに対する加害責任」を表明する文言を挿入した辞を述べた。また、折からの冷夏によって起こった記録的米不足を背景に、食糧管理法を改正し所謂ヤミ米を合法化し、自民党政権下でも長年の懸案でもあったコメ市場の部分開放を決断した。ただし米糧のブレンド米の緊急輸入に関しては就任直後には慎重な姿勢を見せていたのにも関わらず、結果として認めたため記者会見で「断腸の思いだ」と発言するなど一部から批判を浴びた。11月にはアメリカでのAPEC首脳会議に参加した。
その一方で政治改革四法案の成立は難航した。連立与党の衆議院選挙制度改革案は、当初の小選挙区250、比例代表(全国区)250、計500議席を、小選挙区274、比例代表(全国区)226と自民党へ譲歩したものの受け容れられず、民意を正確に反映しない小選挙区制の導入に反対する社会党の一部参議院議員も造反したため、1994年1月に廃案となる。ここで細川は、一度否決されたにもかかわらず、自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開き、再び改革案成立への意欲をアピールした。細川は、河野洋平自民党総裁との党首会談で修正を話し合い、今までよりもさらに自民党案に近い小選挙区300、比例代表(地域ブロック)200の小選挙区比例代表並立制とする案を呑むことで合意を取り付けた。こうして長年にわたり何度も頓挫してきた新たな選挙制度を実現させた。結果的には、羽田孜や小沢一郎が自民党を割って出てまで推進してきたこの政治改革の成就が、9ヶ月の細川内閣におけるほとんど唯一の実績だが、ここで成立した選挙制度改革や政党交付金制度は、後の政治のあり方を大きく変えていくことになる。
1994年2月、冷戦終結後の日本における安全保障のあり方の見直しを提起し、防衛問題懇談会を設置した。
政治改革関連法案が曲がりなりにも成立し、高い内閣支持率もそのまま維持した。2月3日、これに意を強くした小沢一郎と大蔵事務次官の斎藤次郎のラインに乗った細川は、消費税を福祉目的税に改め税率を3%から7%に引き上げる国民福祉税構想を発表した。しかし、これは深夜の記者会見で唐突に行われたもので連立与党内でも十分議論されていないものであったため、世論はもとより武村正義内閣官房長官や社会保障を所管する厚生大臣の大内啓伍民社党委員長、村山富市社会党委員長ら、与党内からも反対の声が沸き上がり、結局翌2月4日に連立与党代表者会議で白紙撤回に追い込まれた。
政権を支える新生党代表幹事の小沢一郎と、内閣官房長官の武村との対立が表面化。細川は内閣改造によって武村の排除を図るがこれも実現できず、さらに細川自身の佐川急便借入金未返済疑惑を野党となった自民党に追及されることになる。細川は熊本の自宅の門・塀の修理のための借入金で既に返済していると釈明したが、返済の証拠を提出することが出来ず、国会は空転し、細川は与党内でも四面楚歌の苦境に陥る。4月5日、参議院議員コロムビア・トップ、同西川きよしとの会食の席で「辞めたい」と漏らしたことが報じられ、一旦は否定したものの政権はもはや死に体となってしまい、8日に退陣を表明。総予算審議に入る前に予算編成時の首相が辞任するのは極めて異例の事態である。こうして国民の大きな期待を背負って誕生した細川内閣は、1年に満たない短命政権に終わった。細川の退陣に伴い、かねてから細川との関係が悪化していた武村が率いる新党さきがけは、将来的な合流を見据えて組んでいた日本新党との統一会派を解消し、連立内閣からも離脱して次期政権では閣外協力に転じる意向を早々と表明した。
[編集] 首相退陣後
28日には、細川内閣で外務大臣兼副総理を務めていた羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。このとき社会党と公明党を除く連立与党が新選挙制度への対応と政権安定化のために院内統一会派「改新」を結成した(公明党は遅れて参加を表明)が、これに社会党が猛反発し、連立政権からの離脱を表明。与党第一党であった社会党の離脱により、羽田内閣は少数与党政権に転落し、不穏の船出となった。与党が少数となった国会は借入金未返済についての細川の証人喚問を決定、6月に喚問を受けた。羽田内閣は社会党に連立政権への復帰を促し、社会党内にも連立復帰に前向きな意見があったものの実現しなかった。
1994年6月、羽田内閣総辞職・村山内閣誕生により、統一会派「改新」に参加する日本新党・新生党・公明党・民社党などは野党に転落したが、新選挙制度の下では中小政党は不利になることに鑑みて、12月、新進党を結成した。1995年7月の参院選で、細川は党首海部俊樹、羽田孜とともに首相経験者3人組で政権交代可能な二大政党の一つであることをアピール(三総理作戦)、勝利に導いたが、この選挙で新進党比例候補として当選した友部達夫がオレンジ共済組合事件で逮捕されると、その比例名簿順位の決定に関わった細川は追及を受けることとなる。
新進党では12月に新たに党首に就任した小沢一郎の党運営が強権的であるとの不満が大きくなり、1996年の総選挙前には鳩山邦夫・船田元・石破茂らが離党し、敗北後はさらに離党者が続出。細川も1997年6月18日に離党、新進党解党直前の12月には新党「フロム・ファイブ」を立ち上げた。
さらに1998年1月には、旧民主党、新党友愛、太陽党、国民の声、民主改革連合とともに野党共闘を目指す勢力として院内会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」を結成。それからまもなく同じ民友連を構成する羽田孜らの太陽党、国民の声との三党合併により民政党を結成。その後も、新進党解党後の二大政党の一翼を担いうる新党の結成を目指し、旧民主党、新党友愛、民主改革連合との新党設立を協議する政権戦略会議の議長を務める。協議は難航したが、4月、「民主党」の名称を受け入れることでとりまとめ、面目を保った。
新 民主党の結党を見届けた後の1998年5月7日、還暦(60歳)を迎えたことを区切りとして衆議院議員を辞職した。
[編集] 現在
1998年、還暦を機に政界を引退。主に陶芸家、茶人として活動し、祖母の住まいがあった神奈川県足柄下郡湯河原町宮上の邸宅に、工房と茶室「不東庵」を設えている。茶室の設計は建築史家の藤森照信がした。陶芸の師は辻村史朗[4]。
創作・執筆活動しながら、2001年から、主に春から秋にかけ茶器・書・画等の「作品個展」を開いている。また、TBSラジオの「細川護煕・この人に会いたい」でパーソナリティを務めたこともある。
細川家当主として公益財団法人「永青文庫」理事長を務めている。また、母の姉が野口晴哉(活元運動の提唱者)の妻である縁(すなわち晴哉は護熙の義理の伯父、晴哉から見て護熙は甥にあたる)から社団法人整体協会会長理事に就任している。
現在唯一政治に関わる活動としては、「女性のための政治スクール」顧問を務める(名誉校長は妻の細川佳代子)。2011年2月1日から東北芸術工科大学と京都造形芸術大学の初代学園長に就任することが発表された[5][6]。両大学を運営する学校法人東北芸術工科大学と学校法人瓜生山学園は統合を予定しているが、その統合計画について「誠に時宜を得たもの」[7]と評しており、「両校はこれまでも、『藝術による平和の希求と日本の再生に向けた運動』に取り組んできましたが、今回の法人統合が実現したならば、その運動は更に力を増し、様々な分野で、具体的な展開を図っていく可能性が拓けていく」[7]と主張し、法人統合に寄せる期待を表明している。
2010年5月、首相在任中に書き留めていた日記を、日本経済新聞社から出版。なおこの日記が出版された直後、細川内閣の官房副長官だった鳩山由紀夫が首相を辞任した。
2010年9月に行われた民主党代表選挙に際しては、「(首相を)やれるのは小沢さんしかいない。わたしも一生懸命応援します」[8]と述べ、小沢一郎への支持を表明したが、小沢は現職の菅直人首相に敗れた。しかし、その後も菅の政権運営に批判的なスタンスを取っており、2011年4月8日には「菅は日本のためにいてはならない。絶対に辞めさせなければならない」[9]と宣言した。2011年8月の民主党代表選挙に先立ち行われた小沢と野田佳彦との会談の仲介役を買って出た。細川は今回は小沢を支援せず、野田も細川に支援を要請しなかった[10]。
[編集] 人物
[編集] 人物像
- 血液型はO。
- 熊本県知事時代の1986年に第41回冬季国民体育大会のアルペンスキー競技の大回転に出場したことがある。勅使河原宏監督の映画「利休」(1989年)に、細川幽斎役で一カットのみ出演している。
- 首相就任時に密室とのイメージを避けるために「料亭政治」の廃止と国会の外では議員バッジを外すと宣言した。これに対し、料亭業界からは「料亭というのは悪いところじゃございませんからね。細川さんによくおっしゃっておいて下さい」と苦言を呈され、バッジ業界からは「特定の業界の存在意義を否定するかのごとき発言は許されない」と抗議された。またこの影響で料亭には閑古鳥が鳴いたという。(2007年9月26日付産経新聞わたしの失敗(2)より)
- 記者会見では立ったままで会見したり、プロンプターを導入してマスコミの注目を集めた。また、自ら質問者を指名するスタイルも国民の目には斬新に映った(ボールペンを指して質問者を指名する仕草が有名だが、ペンを用いずに手で指名する時もあった)。この一連の動作は嘉門達夫の『ハンバーガーショップ(国会篇)』でネタにされている。従来の首相記者会見が椅子に座りながら机上のメモを読む姿であったのに対して対照的であったのでこれ一つだけでも大きく取り上げられた。
[編集] 評価
- 風貌も似ているせいか、外祖父の近衛文麿によく比せられる。家柄のよさ、貴公子然とした身なり、政治改革の期待を一身に受け国民から圧倒的支持を受けたこと、にもかかわらず突如政権を投げ出したことは風貌どころか政治手法も似ていると揶揄される。
- 毛並みの良さが言われるが、朝日新聞記者時代のあだ名は数日間も入浴も着替えもせず、支部の記者室に寝泊りをしていたことから「野蛮人」。
- 父護貞は、護熙の首相就任時にまったく喜ばず、「あれの性格では、いずれ投げてしまいます」といった趣旨の発言をし、周囲を唖然とさせたが、後にその通りとなった。父よりも祖父・護立の影響が強いとされる。なお祖父は青年時は白樺派の一員だった。母・温子は幼少時に病没しており、戦後護貞が、後妻薫子を旧熊本藩重臣・松井家より迎えたことも、護貞と護熙の間に距離がある一因とされた。
- 細川が連立政権の首班に小沢一郎から選ばれたのは「混乱期にこそ、血統の良さがモノを言う」という理由からだった。
- 国民福祉税導入を記者会見で発表した際、税率の根拠について尋ねられると、「腰だめの数字」と答えて物議をかもし、「やはりお殿様だ」と批判された。
- コメ市場の部分開放、河野洋平自由民主党総裁との政治改革4法案の修正合意や国民福祉税構想などの重要な発表をする際の記者会見が何度も深夜に行われ、マスコミはその度に振り回された。当時社会党委員長だった村山富市は細川の一連の記者会見について「深夜に騒ぐ男じゃのう」と呆れていたという。また、当時日本商工会議所会頭だった稲葉興作からは「夜寝て、朝起きて満員電車に揺られて仕事をするのが普通の姿。そういうときに正常な判断ができる」と一連の記者会見に苦言を呈した。
- 退陣があまりにも突然だったため、週刊誌などでは当時さまざまな憶測が流され、中には「退陣劇の裏には、細川に対する“決定的な弱み”を握られ、捜査当局による事情聴取などの噂が飛び交い、現職首相の刑事訴追を避けるために政界引退と引き換えのある種の司法取引がなされた」とするものまであった。この突然の退陣、いわば政権の投げ出しを、細川の外祖父の近衛文麿が戦争を止める道筋を立てられぬままに辞任したことになぞらえて批判する向きもある。
[編集] 発言
- 「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」というジョークが、細川の首相就任時に流布された。実際には、上記の発言は護熙の父・護貞のジョークである。
- 政府専用機の左右主翼の上下と垂直尾翼の両側の計6ヵ所につけられているやたらと大きな日の丸を見て、細川は「どこかの七つ紋みたいだね」(肥後細川家は第5代藩主の細川宗孝が、家紋を取り違えた板倉勝該によって江戸城内で殺害されてしまったことから、それ以後裃に付ける家紋の数を通常の5から7に増やし、間違えられないようにしていた)と漏らしたという。
- 2005年郵政解散直後のインタビューで、沈黙を破って時評を行い「私は議員在任中は中国との軋轢を避けるため一度も靖国参拝していない」「郵政解散は政治的空白を作る」「小泉君はアメリカのいいなりだ。私は決していいなりにはならなかった」などの批判を行う一方でリーダーシップそのものは評価するとも語った。
[編集] 家族・親族
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の子 源義国を祖とする足利氏の支流 細川氏の一門・細川奥州家の流れを汲む肥後細川家の当主。明治期に侯爵家となった。外祖父は五摂家筆頭で第二次世界大戦前に首相を3度勤めた公爵・近衞文麿。父の細川護貞は、近衞文麿内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。また日本ゴルフ協会会長を務めていた。弟に日本赤十字社社長で近衞家を継いだ近衞忠煇がいる。
妻・佳代子との間に一男二女を儲ける。佳代子はスペシャルオリンピックス日本の理事長を務める。長男で細川護光は大学時代に興味を覚えて父親と同時期に陶芸の道に入り福森雅武に師事した後、現在は熊本県南阿蘇村を拠点に活動している。
また、遠い親戚に細川隆一郎(細川忠隆〔=細川忠興の嫡男だが後に廃嫡〕の子孫)がいる。戦国時代末期の大名として知られる細川忠興(細川輝経の養子で細川藤孝の実子)・ガラシャ(明智光秀の子)夫妻が祖先。(男系では上記忠隆系のみが明智家と血が繋がっており、肥後藩主系では途中他家養子が入っている)。
肥後細川家(和泉守護家及び細川奥州家)の人物であるため、細川家嫡流・京兆家の細川頼之・細川勝元・細川政元らの血は引いていない。
そのほかにも遠縁の著名人が多数いるが、下記では細川護熙の親族に該当する者のみを記載する。括弧内は続柄、ハイフン以降は代表的な役職を示す。
- 近衞忠房(高祖父) - 国事御用掛
- 前田慶寧(高祖父) - 加賀藩藩主
- 細川護久(曾祖父) - 熊本藩藩知事、白川県知事、貴族院議員
- 池田詮政(曾祖父) - 貴族院議員
- 近衞篤麿(曾祖父) - 貴族院議長
- 細川護立(祖父) - 貴族院議員
- 近衞文麿(祖父) - 貴族院議長、内閣総理大臣
- 細川護成(大伯父) - 貴族院議員
- 近衞秀麿(大叔父) - 指揮者、貴族院議員、日本芸術院会員
- 細川護貞(父) - 内閣総理大臣秘書官
- 近衞文隆(伯父) - 陸軍軍人
- 近衞通隆(叔父) - 東京大学史料編纂所教授
- 南部利英(従伯父) - 貴族院議員
- 博義王妃朝子(従伯母) - 旧皇族
- 春仁王妃直子(従伯母) - 旧皇族
- 細川佳代子(妻) - スペシャルオリンピックス日本名誉会長
- 近衞忠煇(弟) - 日本赤十字社社長、国際赤十字赤新月社連盟会長
- 近衞甯子(義妹) - 日本赤十字社副総裁
- 南部利昭(再従兄) - 靖國神社宮司
- 伏見宮博明王(再従兄) - 旧皇族、モービル石油顧問
- 水谷川優子(再従妹) - チェリスト
- 近衞忠大(甥) - 映像作家
[編集] 系譜
- 清和天皇…<略>…輝経━忠興━忠利━光尚━綱利(宣紀)━宗孝(重賢)━治年(斉茲)━斉樹(斉護)━韶邦(護久)━護成(護立)━護貞━護熙
- 別説
- 清和天皇━貞純親王━源経基…<略>…義国━足利義康…<略>…義晴━細川忠興…<略>…斉護━護久━護立━護貞━護熙
※ 2010年1月、日本経済新聞の連載企画「私の履歴書」にて自身の半生を記述した際、連載二日目をまる1日分使ってまで、先祖の自慢で埋め尽くしていたほど、先祖を誇りに思っているようである。
[編集] 略年譜
- 1938年
- 1月14日 出生(父・護貞、母・温子)。
- 1953年
- 1956年
- 3月 学習院高等科卒業。
- 1963年
- 1968年
- 11月 朝日新聞社退社。
- 1969年
- 12月27日 第32回衆議院議員総選挙(旧熊本1区・無所属)落選。
- 1971年
- 6月22日 第9回参議院議員通常選挙(全国区・自由民主党公認)当選。
- 1977年
- 7月10日 第11回参議院議員通常選挙(熊本地方区・自由民主党公認)2期目当選。
- 1983年
- 2月 熊本県知事選挙(無所属)当選。
- 1991年
- 1992年
- 5月22日 日本新党結成、党代表就任。
- 7月26日 第16回参議院議員通常選挙(比例区・日本新党公認)3期目当選。
- 1993年
- 7月18日 第40回衆議院議員総選挙(旧熊本1区・日本新党公認)当選。
- 8月9日 内閣総理大臣就任、細川内閣発足。
- 1994年
- 1996年
- 10月20日 第41回衆議院議員総選挙(熊本1区・新進党公認)当選。
- 1997年
- 1998年
[編集] 文献
[編集] 著書
- 『景観づくりを考える』中村良夫との共著、技報堂出版、1989年10月、ISBN 4-7655-1498-6
- 『地方の経営 : シナリオとその戦略』内外情勢調査会、1989年
- 『鄙(ひな)の論理』 岩國哲人と共著、光文社、1991年1月、ISBN 4-334-05180-4
- 『明日はござなくそうろう リーダーの条件』 ダイヤモンド社、1991年3月、ISBN 4-478-70061-3
- 『権不十年』 日本放送出版協会、1992年1月、ISBN 4-14-008803-6
- 『日本新党責任ある変革』 東洋経済新報社、1993年4月、ISBN 4-492-21048-2
- 『The time to act is now thoughts for a new Japan』 NTT Mediascope、1993年
- 『細川内閣総理大臣演説集』日本広報協会、1996年12月
- 『内訟録 細川護熙総理大臣日記』 伊集院敦構成 2010年5月、日本経済新聞出版社-編者は日本経済新聞記者。
[編集] 芸術活動の著作(政界引退後)
- 『不東庵日常』 小学館、2004年6月、ISBN 4-09-387507-3
- 『晴耕雨読 細川護煕作品集』 新潮社、2007年、ISBN 4-10-304331-8、茶器などの作品写真集
- 『ことばを旅する』 文藝春秋、2008年8月、ISBN 4-16-370500-7。→文春文庫、2011年1月
- 『跡無き工夫-削ぎ落とした生き方』 角川書店[角川oneテーマ21新書]、2009年11月、ISBN 4-04-710204-0
- 『閑居の庭から-続不東庵日常』 小学館、2009年12月、ISBN 4-09-387866-8
- 『胸中の山水』 青草書房、2011年10月、ISBN 4-903735-18-4
- 『細川護煕展』壺中居、2003年-以下は、主な「作品図録」[12]
- 『細川護熙展』壺中居、2004年
- 『五周年記念 細川護熙の作陶』 茶道資料館、2005年
- 『細川護煕展』壺中居、2006年
- 『細川護熙 数寄の世界展』高島屋日本橋店、2007年4月
- 『細川護熙展』壺中居、2009年
- 『細川護熙展』三越、2010年3月-9月、パリ三越エトワールと全国数ヶ所の展覧会で開いた。
※以下は、各.編著
- 『Seeing Japan 日本 うるわしき姿』 チャールス・ウィプル(Charles Whipple)-英文ビジュアル本「序文」
Kodansha International(講談社インターナショナル)、2005年、ISBN 4-7700-2337-5 - 『美に生きた細川護立の眼』 求龍堂、2010年6月、ISBN 4-7630-1001-8
[編集] 脚注
- ^ 「毎日新聞」鹿児島版2010年11月29日号 ペン&ぺん:県警余話 /鹿児島
- ^ 「産經新聞」 【わたしの失敗】元首相・細川護熙さん(69)(1) (2/2ページ) 2007.9.25 07:27
- ^ 細川護熙・岩國哲人、1991、『鄙の論理』、光文社 ISBN 4-334-05180-4.
- ^ 『細川護熙 閑居に生きる 和樂ムック』(小学館、2009年6月)に詳しく紹介されている。
- ^ 「12日の理事会で本学学園長に元首相細川護熙氏の選任を決定」『12日の理事会で本学学園長に元首相 細川護熙氏の選任を決定:東北芸術工科大学 TUAD』東北芸術工科大学。
- ^ 「細川元首相、東北芸工大と京都造形大の学園長に就任」『asahi.com(朝日新聞社):細川元首相、東北芸工大と京都造形大の学園長に就任 - 社会』朝日新聞社、2011年1月13日。
- ^ a b 「学校法人東北芸術工科大学の統合について――両法人の統合契約書を両理事会で承認し、7月下旬までに文部科学大臣に申請へ」『学校法人東北芸術工科大学と学校法人瓜生山学園の法人統合に関しまして:東北芸術工科大学 TUAD』東北芸術工科大学、2011年6月16日。
- ^ 「『首相やれるのは小沢氏だけ』=細川元首相が電話で激励」『時事ドットコム:「首相やれるのは小沢氏だけ」=細川元首相が電話で激励』時事通信社、2010年9月7日。
- ^ 赤坂太郎「『菅抜き連立』主役たちの同床異夢――小沢は森・大島に秋波を送り、前原は安倍と気脈を通じる。ポスト菅を巡る蠢動」『文藝春秋』89巻6号、文藝春秋、2011年6月1日、225頁。
- ^ “野田、小沢会談を仲介 細川元首相” (日本語). MSN産経ニュース. 東京都: 産経新聞社. (2011年9月3日) 2011年9月4日閲覧。
- ^ 卒業が1年遅れているのは数学で赤点を取って落第したためである。産経ニュース2007年9月27日【わたしの失敗】元首相・細川護熙さん(69)(3)を参照。
- ^ 作陶のほか、書、水墨、茶杓、漆芸なども手がける。「個展」を2001年より毎年日本各地で、海外でも2003年にパリ、2007年にニューヨークで行った。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 歴代総理の写真と経歴 - 細川を紹介する総理大臣官邸のページ
- 京都造形芸術大学 | 学園長 - 細川を紹介する京都造形芸術大学のページ
- 細川護煕 プロフィール - 細川を紹介するオーディックのページ
- 細川氏系譜
- 細川氏系譜2
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 宮澤喜一 |
第79代:1993年 - 1994年 |
次代: 羽田孜 |
| 先代: 沢田一精 |
第45・46代:1983年 - 1991年 |
次代: 福島譲二 |
| 党職 | ||
| 先代: 結成 |
フロム・ファイブ代表 初代:1997年 - 1998年 |
次代: 民政党へ |
| 先代: 結成 |
日本新党代表 初代:1992年 - 1994年 |
次代: 新進党へ |
| 学職 | ||
| 先代: 新設 |
東北芸術工科大学学園長 初代:2011年 - |
次代: 現職 |
| 先代: 新設 |
京都造形芸術大学学園長 初代:2011年 - |
次代: 現職 |
| 文化 | ||
| 先代: 細川護貞 |
永青文庫理事長 2005年 - |
次代: 現職 |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第78代 宮澤喜一 |
第79代 1993年 - 1994年 |
第80代 羽田孜 |
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