大仁田厚

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日本の政治家
大仁田厚
おおにた あつし
生年月日 1957年10月25日(51歳)
出生地 長崎県長崎市
出身校 明治大学政治経済学部
所属政党 自由民主党
無所属
公式サイト 大仁田厚公式サイト

選挙区 比例区
当選回数 1回
任期 2001年7月29日 - 2007年7月28日
  

大仁田 厚(おおにた あつし、1957年10月25日 - )は、日本の男性プロレスラー、元政治家長崎県長崎市出身。元参議院議員身長181センチ、体重77キロ、血液型A型。弟(異父弟)は大東文化大学法学部准教授松原孝明

目次

[編集] 人物

実家は風呂敷の製造・販売業。長崎県長崎市立磨屋小学校長崎市立桜馬場中学校卒業。中学卒業後、長崎県立長崎東高等学校に入学するも3日で中退し[要出典]、日本一周徒歩旅行を計画。長崎県庁前から出発し神戸まで辿り着いたが、火事で家が全焼した知らせが入り断念した。ちなみに長崎県庁を出発する時に自分で地元マスコミを呼び、その様子が新聞に載ったというエピソードがある。

41歳にして高等学校を再受験し合格、1999年4月、駿台学園高等学校定時制課程普通科3年次編入、2000年3月に卒業。2000年4月、明海大学経済学部に入学し、1年で中退2001年4月、明治大学政治経済学部二部)経済学科に入学。国会議員、プロレスラー、タレントとして活動しながら大学に通い続け、社会人特別入試合格時には「4年というと嘘っぽくなるから、6年で卒業したい」と語っていたものの4年で卒業。

[編集] プロレスラーとして

大仁田 厚
プロフィール
リングネーム 大仁田 厚
グレート・ニタ
本名 大仁田 厚
ニックネーム 炎の稲妻
邪道
涙のカリスマ
デスマッチの教祖
邪道高校生
ミスター・ライアー
身長 181cm
体重 127kg→ダイエット後77kg
誕生日 1957年10月25日(51歳)
出身地 長崎県長崎市
スポーツ歴 野球
トレーナー ジャイアント馬場
テリー・ファンク
デビュー 1974年4月14日
  

[編集] 全日本プロレス時代

1973年、日本一周徒歩旅行を断念後、ジャイアント馬場に憧れ、全日本プロレスに「新弟子第一号」として入門し、1974年4月14日後楽園ホール大会における佐藤昭雄戦でデビュー。

その後アメリカなどへ長らく海外修業に出たが、遠征中の1982年3月7日、アメリカ・ノースカロライナ州シャーロッテコロシアムで、チャボ・ゲレロの持つNWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権に挑戦、セコンドに付いたテリー・ファンクの目前で、敵地でのタイトル奪取を成し遂げた。

このベルトを引っさげて凱旋帰国した大仁田は、当時ライバル団体の新日本プロレスで爆発的人気のあったタイガーマスクに対抗し、ジュニア戦線のチャンピオンとして活躍。佐山タイガーの華麗なる空中殺法に対して「地を這う空中殺法」と呼ばれ人気を博すが、1983年4月20日、東京体育館でのヘクター・ゲレロとの試合終了後、リングを降りる際にトップロープを飛び越えたが着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場。

一度は復帰するも、ウルトラセブンマイティ井上渕正信マジック・ドラゴンらの台頭によるジュニア戦線の充実についていけず、馬場夫妻の勧告により1984年12月2日引退を賭けてマイティ井上と闘うも敗れ、翌1985年1月3日に後楽園ホールで引退式。馬場は付き人の大仁田を可愛がり、養子にしようと本気で考えていたし、馬場元子は引退式後に大仁田を抱きしめて涙していたため、馬場夫妻にとっては苦渋の決断だった事が伺える[要出典]。後述する復帰後に、全日本がSWS騒動で選手層が薄くなった際、大仁田が馬場に対して、自らを含めた選手貸出しを申し出たが断られている。ここからも、怪我をした後の大仁田のファイトは馬場の目には自分のリングに上げるレベルではない、と判断していたと思われる[要出典]

[編集] FMW設立

その後、タレントに転向し、『11PM』等にレギュラー出演するが、この時はタレント活動は長続きせずに辞めてしまう。その後、事業家として一時成功するが、すぐ没落して借金まみれになり、土木作業員や配達員をしてしのいだ後ジャパン女子プロレスでコーチに就任。1988年、同じくコーチをしていたグラン浜田との団体内での遺恨の決着をリング上でつけるために12月3日ジャパン女子後楽園ホール大会の浜田戦で現役復帰した[1]

1989年剛竜馬率いるパイオニア戦志のリングに上がり、剛と対戦。さらに7月2日に開催された「格闘技の祭典」にて、空手家青柳政司と対戦した後、手元にあった全財産5万円を元手に[2]自らの団体FMWを旗揚げ。10月6日に名古屋市露橋スポーツセンターにて旗揚げ戦を行う(対青柳戦)。1990年8月4日に汐留で行われたターザン後藤とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで一気にブレイク。この試合は東京スポーツ主催のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞する。その後も川崎球場西宮球場などの大会場で大掛かりなデスマッチを開催し続け、「涙のカリスマ」「デスマッチの教祖」などの異名を取った。

1994年11月1日には新高輪プリンスホテルで、縫合個所「1000針突破記念パーティー」を開催。

1994年5月5日の川崎球場大会のメインイベントで天龍源一郎と対戦するも敗北し、一年後の引退を宣言。翌1995年5月5日に、川崎球場で弟子のハヤブサと戦い、2度目の引退。引退試合まで一年間をかけて「引退記念ツアー」を銘打ち、大仁田の試合が見納めになると思ったファンを集めた。

一時は俳優業に専念していたが、ミスター・ポーゴの「引退試合で、ライバルだった大仁田とタッグを組みたい」という願いを叶えるといったアングルで、この一試合限定という建前で1996年12月11日のFMW駒沢体育館大会で2度目の復帰戦[3]を行い(大仁田、ポーゴ、田中正人黒田哲広組 対 テリー・ファンク大矢剛功ザ・ヘッドハンターズ組)、そのままなし崩しにリングに上がり続けたが、荒井昌一社長、ハヤブサ、冬木弘道らとの対立が深まり、1998年11月20日の横浜文化体育館大会を最後に、FMWを追放される。この時の対戦相手は1997年に現役復帰したミスター・ポーゴであった。

[編集] グレート・ニタ

レスラーとしての大仁田厚のもう一つの顔。グレート・ムタのパロディーでもある。元々は、FMWが旗揚げして間もない1990年に、大仁田がアメリカ遠征を行った際、現地の試合でムタばりの顔面ペイントを施し試合を行い、当時の週刊プロレスの記事に『グレート・ニタ?』と紹介された事をきっかけとする。その時は、遠征時だけの限定だと思われており、大仁田自身もこの『グレート・ニタ』に関しては全く語る事はなかったが、1994年にミスター・ポーゴとの抗争において12月1日広島グリーンアリーナ大会で、正式にグレート・ニタとしてのデビュー戦を行う(ニタ、ホー・チー・ウィン組対ポーゴ、大矢剛功組)。素顔の時と違い、奇声を発したり、奇妙な行動などを行い、対戦相手を困惑させるファイトスタイルを用いる。ポーゴの凶器攻撃を受けきった後逆襲に転じる試合展開に徹し、大仁田ではできない残虐な攻撃を仕掛けるところに持ち味があった。

大仁田2度目の引退試合に先立ち、1995年5月1日に大阪府立臨海スポーツセンターにおいてニタの引退試合が行われた(ニタ、田中正人、新山勝利組対ポーゴ、ザ・グラジエーター保坂秀樹組)。試合後、ニタは大阪湾の彼方に消え、二度と現れないものと思われた。

だが、大仁田が現役復帰して新日本プロレスに参戦した際、武藤敬司がニタの存在に不快感を示したのをきっかけに、ニタと本家グレート・ムタとの一騎打ちが決定。その際『ワールドプロレスリング』内では、二タが消えたとされる大阪南港を舞台にした「ニタ復活」の映像が放送された。その寸前まで真鍋由アナウンサーに対し「お前はグレート・ニタを見たいか!」「二タは生きている!今から呼ぶ!」と吼えていた大仁田が、ニタとして大阪湾から現れ、真鍋が驚愕の表情を浮かべる顛末は、もはや奇天烈さすら感じさせる映像となり、プロレスファンの間でしばらく語り草となった。

1999年8月28日、神宮球場においてムタ対ニタが行われた。しかし盛り上がらぬ試合展開のままニタは敗北し、試合後「ニタは死んだ」として葬式が行われ、いつの間にか現れた大仁田は棺桶の前で嗚咽した。この時の映像も話題となった。

しかしその後、2003年にWJへの参戦に伴い、「ニタは今魔界から帰ってきた」というアングルで再び復活させ、5月3日グランキューブ大阪大会で馳浩と対戦した(結果は「両者反則負け」)。

[編集] フリーレスラーとして

FMW追放後は、新日本プロレスへ参戦しプロレスファンを驚かせた。1999年1月4日の東京ドームでの佐々木健介戦を皮切りに、蝶野正洋、グレート・ムタ、長州力らトップレスラー相手に、メジャーの新日本マットで電流爆破マッチも実現。「大仁田劇場」と称された、真鍋由アナとのやりとりは、視聴者を楽しませた。当時、新日本の選手の試合よりも、大仁田の喋りやパフォーマンスの方(「お前は電流爆破を見たいか?」など)が視聴率が高くなる場合すらあったという、新日本プロレスにとっては屈辱的な事実があった[要出典]。また、大仁田を表紙にした専門誌は売り上げが増えたとの報告もある[要出典]

また、新日本参戦とほぼ並行して、一部のインディー団体やFMWのOB・OGたちの協力を得て「大仁田厚プロレス」と銘打った自主興行を開催。小規模ながらも団体並みにシリーズを組んで、地方巡業も行った。

2003年には、WJプロレスに参加。越中詩郎と電流爆破マッチを行う。 2005年3月26日午前、日本武道館での明治大卒業式に出席し、午後には、後楽園ホールでプロレス興行「プロレス卒業試合」を行う。試合は、矢口壹琅と組んで天龍源一郎&越中詩郎と対戦する「ノーロープ有刺鉄線ストリートファイトトルネード・バリケードマット・ダブルヘル・フライパンデスマッチ」で、これで3度目の引退となったが、すぐに「曙太郎とデスマッチをやりたい」と発言するなど、誰も本当に引退したとは思っていなかった。

大方の予想を裏切らず、翌2006年には、「国の為に死んでいった方々に礼を尽くす、記念すべき大会。もし良かったら参加させてほしい」と、4月1日の靖国神社奉納プロレス大会への参加を中村祥之代表らに直訴し、「大仁田厚提供奉納試合」として3度目の復帰戦を行う(大仁田、田中将斗、ランジェリー武藤組 対 ケルベロス、ヤヤ谷口、イチローキング矢口組)。当初はやはり「この一試合限り」ということだったが、2007年1月に正式にプロレスラー復帰を宣言。2月に行われるプロレス団体・二瓶組復活興行に参戦。それまで認める発言をしていた曙に対し「プロレスにはいらない存在、年内に葬り去る」と発言。

2007年4月29日、夕張市でチャリティー興行(自主興行)を開催。自らも出場したメインの有刺鉄線デスマッチには、衆議院議員鈴木宗男を特別レフェリーに迎え、破天荒な試合を繰り広げた。

2008年2月5日、都内会見にて現役復帰を発表(通算5度目)。同月24日のLOCK UP後楽園大会に予告通り乱入し、長州力宛てにタッグ結成を申し出る手紙を渡す。乗り気な発言は見られなかった長州だったが、後日、リキプロ道場にて長州と対面しタッグ結成をほのめかした。4月、金村キンタローの復帰を思わしくないとする発言に、金村本人が激怒。後に開かれた大仁田の会見に金村が乱入し一触即発となる。5月、LOCK UPの大会にて、金村・折原昌夫vs大仁田・越中がメインに組まれたが、結果は大仁田が毒霧攻撃で反則負けとなった。この2月の会見後、フリーとなった若林健治アナ(元・日テレ)との掛け合いから、「大仁田劇場」も復活となった。

2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場。栗栖正伸とタッグを組み、グラン浜田鶴見五郎組に敗退した。

[編集] 評価

人によって好き嫌いが極端に分かれるタイプのプロレスラーだが、ドラマに出演し巧みな演技を見せる等、一般的な知名度は比較的高く、またかつては“大仁田信者”と呼ばれる熱狂的な支持者も多かった。特にFMWを興して以降は、それが奇跡のカムバックと捉えられただけでなく、「大好き」とまで公言したプロレスに対して身を投げ打つかのような姿勢が強く支持された。

「TV番組が無ければプロレス団体運営は出来ない」と言われていた時代に、奇抜なデスマッチやパフォーマンス、様々なTV番組への出演により、プロレスに興味の無かった若年ファンの底辺を広げFMWの経営を軌道に乗せたことを評価すべきだという意見が存在する。また、FMWが対立概念となり、伝統ある他団体の観客動員増にもつながり、業界全体への功績は大きかったとの評価もある。

逆に否定的な意見としては、FMWが成功した為に、後にインディープロレス団体が乱立する遠因となったとするものがある。さらに、FMWでの活動は流血やパフォーマンスが派手でデスマッチ中心であった為に「邪道」と呼ばれ、キワモノとする意見も存在した。

新日本参戦後は、ストリートファイトを強調すべく、「邪道」と背中に大きく書かれた黒の皮ジャンに、‘EVIL WAYS’と記されたジーンズがトレードマークとなった。しかも入場時には、場内禁煙の会場にもかかわらず、煙草を燻らすパフォーマンスまで行い度肝を抜いた。これには新日本側も一度遺憾の意を示したが、大仁田は「俺は東京ドームで煙草が吸いたい」と頑として譲らなかった。かくして後の東京ドーム大会の入場時には、吸殻がいつ捨てられてもいいように大きい灰皿(鉄板製)を持ったスタッフが、花道の下で大仁田の動きに合わせて歩くという光景も見られた。なお、「邪道」の黒皮ジャンは、2006年4月1日の靖国神社プロレス大会で、一回盗難に遭っている。

[編集] プロレスラーとしてのエピソード

  • 若手時代、ミル・マスカラスが控え室でシャワーを浴びているときに、勝手にマスクをかぶっていたら素顔のマスカラスにみつかり、こっぴどく怒られた。
  • 馬場の付き人時代、馬場の試合用パンツを忘れてきたため、外国人レスラーのパンツを黙って借りてきて、馬場に履かせた。これが試合後に発覚し、馬場に怒られた末、空手チョップを食らったが、次に馬場の衣服を忘れた時に、今度は正直に告白し土下座して謝ったら、黙って許してもらえた。それどころか馬場は、その時の巡業の間中、団体のジャージでずっと過ごしたという。大仁田はこのことから「馬場さんに大切なことを教わった」と回顧している。
  • 大仁田はこれまで、事あるごとに馬場に対する気持ちを語ってきているが、膝の怪我による引退、1年間に及ぶ引退シリーズ、そして幾度かの復帰など、プロレスにおける行動は、NWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権を獲得する際にサポートしていたテリー・ファンクとの共通性が強い。
  • 経歴欄にある、1989年の「格闘技の祭典」での青柳との異種格闘技戦においては、大仁田側のセコンドにはスペル・デルフィン邪道外道(いずれも若手時代)が付き、青柳側のセコンドには佐竹雅昭松永光弘がいた。試合終了後、両セコンド陣はリング上に殺到し、入り乱れて大乱闘を繰り広げており、影ながら「夢のカード」が実現していたともいえる。
  • 全日本のジュニア戦線で売り出した頃は、片岡鶴太郎に顔が似ていると言われた。その当時のトレードマークは臀部に‘ONITA’と書かれた青いショートタイツだった。FMWでのカムバック後は、そのショートタイツに白いタンクトップが加わった。当時、バラエティ番組で芸能人がプロレスの物真似をする際、ダチョウ倶楽部上島竜兵は、よく大仁田に扮しており、白いランニングシャツとやはり臀部に‘ONITA’と書かれた青いタイツを履き、さらに額に大きな絆創膏を貼り付けた格好で登場していた。
  • 2003年の試合中、大仁田の秘書の中牧昭二セッド・ジニアスに暴行し、その後大仁田がメールで恐喝を行ったとしてセッド・ジニアスから告訴される。大仁田も反訴する意思を見せていたが、2007年3月15日、最高裁判所第一小法廷(裁判長・泉徳治)は、大仁田側の上告を棄却する決定をした。これにより、セッド・ジニアスを蹴った中牧昭二の不法行為と大仁田の使用者責任を認めて78万円の支払いを命じた一、二審判決が確定した。

[編集] 得意技

全日本プロレス時代
  • ブロックバスターホールド
  • サンダーファイヤー1号
  • サンダーファイヤー2号
  • トペ・スイシーダ - FMW以降の試合でも、まれに使うことがある。
  • 羽折式風車固め
FMW以降

[編集] 獲得タイトル

  • NWAインターナショナル・ジュニア (前身に当たる「NWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権」[4]も獲得)
  • AWA南部タッグ (パートナーは渕正信
  • NWA南部タッグ (パートナーは渕正信)
  • WWAブラスナックル
  • WFDA世界マーシャルアーツ
  • WFDA世界マーシャルアーツタッグ
  • 世界ブラスナックル
  • 旧NWA五大湖地区USヘビー
  • 世界ストリートファイト六人タッグ
  • ボブワイヤーストリートファイト六人タッグ

[編集] タレント活動

芸能活動も積極的に行い、NHK大河ドラマ秀吉』では蜂須賀小六役を演じた。2009年現在もタレント活動は続けており、時に番組のゲストであるゴージャス松野に椅子を投げつけるなどの暴力的な言動をとり、他のゲストから一斉に非難を浴びるなど[要出典]、今もその破天荒さは健在である。

後日大仁田は「台本に『松野の言葉にキレた演技をしてくれ』といった内容のことがあるから、従った」と、突発的ではなく段取り通りだったことを雑誌のインタビューで述べている[要出典]

しかし、その一方で吉田豪杉作J太郎などは大仁田を「リング内よりもむしろリング外の方がガチンコの人物で、下手に絡む事が出来ない。天性のアドリブ能力で渡り歩いてきた人物の為、突発的にとんでもない行動を起こす事がある」と評価している[要出典]。吉田によれば前述の松野への椅子投げなどは台本で想定している演技の範囲を超えた、完全にガチの行動であったという[要出典]

また、吉田はかつて大仁田が長州力に挑戦した時の一連のアングル(引退中の長州に大仁田が執拗に対戦表明を行い、長州が練習で汗をかいたシャツを渡して返礼とした)を模して、ターザン山本が大仁田に対戦表明を行い、自身のウンコ付きのパンツを渡すという企画を北野チャンネルで行った際に、大仁田の通っていた学校までマキタスポーツが山本のパンツを渡しに訪れた処、大仁田はパンツを見た瞬間に突然何の前触れもなく「責任者を出せ!!」とマキタスポーツや番組スタッフ相手に大暴れし始め、マキタスポーツに同行していたハチミツ二郎が大仁田に謝罪するまでは、全く番組の収録にならなかったという逸話を語っている[要出典]

[編集] 出演番組

[編集] 映画

[編集] テレビゲーム

※ゲーム中にレスラーとして本人が登場する。

[編集] 参議院議員として

2001年7月29日に実施された第19回参院選に比例区で出馬、当選。「小泉チルドレン」の一人となる。元参議院議員平野貞夫によると、当初は自民党からではなく自由党から出馬することが決定していたが、大仁田が仕事の金銭問題を理由に出馬断念を表明した(平野によると大仁田は他党から出ないことを明言していた)。しかしその直後に自民党から出馬を表明してこの約束を反故にしたという。同選挙では自由連合より佐山聡も出馬していた事から、かつてのライバル関係を知るファンから注目を浴びたが、双方とも互いの出馬にはほとんど触れず、大仁田のみ当選。

2005年8月8日、参議院本会議での郵政民営化関連法案採決を棄権。理由は「離島の郵便局が守られないから」とされる。2007年6月23日、次期参議院選挙に不出馬、政界引退を表明。9月7日、自民党を除名された。

[編集] パフォーマンス

  • 2001年7月の参院選に出馬の際、「当選したら猪木と闘う」という選挙公約を掲げていた。
  • 「当選したら学生服で登院する」とも主張していたが、初登院時はスーツ姿で登場。以後1度も学生服で議員活動をすることは無かった。
  • 2003年7月25日、参議院外交防衛委員会でイラク特措法案(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法案)の採決で、委員長の護衛役としていたが強行採決となり、自由党(当時)参院議員の森裕子に髪をつかまれ頭を殴りつけられた。
  • 2005年8月8日、参議院での郵政法案否決後、国会から『ワイドスクランブル』(テレビ朝日系)に生出演。ゲストとして出演していた浜田幸一に「議決権を行使しない者に議員の資格はない」「反対なら反対できちっと明確に意思表示をする。それが、あなたの長崎県の代表としての務めだ」と言われ「でも、僕は小泉さんの子供ですから…僕には裏切れなかったんですよ!」と突如怒鳴りだした。が、浜田から「何、オレに怒鳴ってんだよっ!」と逆に激怒され、さっきまで激怒していた大仁田が突如冷静になり、逆に浜田から窘められる場面もあった。大仁田はその後「すいません」とだけ言ってカメラの前から立ち去った。
  • 参議院での採決前には「衆議院が解散されたら離党する」と発言。しかし実際には離党しなかったため本人のホームページには非難の書き込みが殺到した。
  • 郵政法案採決前に「小泉総理に直談判する」として面会を求めたがアポなしだったため断られる。法案否決直後は涙を流して小泉首相の強権的手法を批判した。しかし、第44回総選挙で自民党有利の情勢が伝えられると、掌を反して「民営化こそ改革です」と主張して片山さつきの応援に出向いた。この変節振りに非難が集中した。さらに、総選挙後法案採決に棄権したことに関して党紀委員会より戒告処分を受けた。
  • 自民党衆院議員の杉村太蔵の軽率な言動に対し、彼の教育係を自ら買って出た。しかし杉村本人と党幹事長武部勤は全く無視し、そのため武部に抗議文を提出した。
  • 杉村の事務所に訪問した際、杉村本人が不在であったためマスコミに囲まれる中で不満を爆発させた。それ以外にもさまざまな行動で杉村・武部を批判する。
  • マスコミから「(杉村への言動が)パフォーマンスなのでは?」という質問を受け「パフォーマンスですよ。パフォーマンスしてなんで悪い?」と発言した。
  • 2005年12月22日共同通信は2006年2月の長崎県知事選に大仁田が立候補を検討していることを報道した。このことは大仁田の関係者が長崎市内で開かれた知事選の立候補予定者説明会に出席していることから明らかになったものである。
  • 2006年1月10日、長崎県知事選への立候補見送りを表明。金子知事が自身の掲げた政策の取り入れを検討するとしたため。この立候補見送りに対し、最初から立候補する意志はなく、一連のパフォーマンスではないかとの声もある[要出典]

このような数々のパフォーマンスから自民党衆議院議員の川条志嘉杉村太蔵、参院議員の山本一太とともに「自民党のパフォーマンス議員」と揶揄される[要出典]

[編集] 政界引退

2007年7月29日に行われる第21回参議院議員通常選挙では初当選時に引き続き比例区での公認が内定していたにもかかわらず、6月23日に記者会見を開き突如政界引退を表明した[5]

通常国会の国会会期延長により当初は7月22日に予定されていた投票日が1週間ずれ込んだことなどを理由に安倍内閣への不信感が強まったとしているが、スキャンダルが6月25日に週刊ポストに掲載予定で、当選の見込みがなくなったための身引きであることは明らかであり、この行動は失笑じみた批判を浴びた。なお、会見の中で「自分は若者の代表だ。夏休みでは若者の投票が減る」といった発言をしているが、当の本人が当選した2001年の参議院選挙の投票日も7月29日である。このことを大仁田本人が自覚しているのかは不明だが、会見そのものが自己矛盾に満ちたものとなった。

6月25日発売の『週刊ポスト』は、大仁田が国土交通省のキャリア官僚とキャバクラ嬢AV女優を参議院宿舎に招いて「乱痴気パーティ」を開いていたことを報じている[6]。このことについて本人からは何のコメントもないが、大仁田と同期当選の舛添要一は東京スポーツ紙上で「この件が明るみに出て、これで引退するのなら格好悪い話」とコメントしている[要出典]

7月17日には党本部に離党届を提出した。その後は野党候補の応援演説(民主党公認の森裕子。大江康弘や同党・新党大地国民新党推薦の多原香里など)をしていた。9月7日、前述の野党候補の応援を理由に、党紀委員会全会一致で自民党を除名された。なお、提出され党本部預かりとなっていた離党届は不受理。

[編集] 政治家としてのメディアへの登場

[編集] その他のエピソード

  • 大仁田がプロレスラーになろうと決心したのは、子供の頃1967年4月に放送されたウルトラマンの最終回でウルトラマンがゼットンに敗れたシーンを見て衝撃を受けたからと言われている(1987年放送TBSわいわいスポーツ塾」より)。
  • TV番組収録時に怪我をして大きな切り傷から出血してしまったが、近くに病院がない為、その場にあった瞬間接着剤で傷口を塞いでその場をしのいだ。その後、病院に行ったところ医者から「その処置は正しい」と言われた(その時使用した瞬間接着剤が、医療用の物かどうかは不明)。
  • 2008年1月13日付けの本人のブログで、誤って自身のものと思われる携帯のメールアドレスを掲載してしまう。すぐに削除されたものの、コメント欄に乗せられたりしている。しかし、本人はアドレスを変える気がない様子。

[編集] 脚注

  1. ^ これは、当時経営難だったジャパン女子プロレスの経営改善策として、男子レスラーとの合同興行を画策した事によるが、所属選手の猛反発を受け(ファンの多くもそれに同調した)、1試合のみで終っている。
  2. ^ 正確には、大仁田の手元にあった5万円に、友人から借りた3万円を加えた合計8万円で「とりあえず(連絡用の)電話一本引いた」というのが、FMWの始まりという(大仁田本人談)。この時の「友人」とはウォーリー山口で、同時に山口は、道場代わりの練習場所なども提供したという。「5万円で団体旗揚げ」は大仁田が事ある毎に語ったことでお馴染みのエピソードになったが、「電話一本引くにも、もっとお金かかるよ」と訝しがる声もある。
  3. ^ FMWで引退後の大仁田は、デスマッチによってできた額の傷を皮膚移植手術で整形し消すなど、プロレスとは一線を引く姿勢を見せていた。ファンの側も、体を酷使し(2度目の引退前、巡業先で過労などが原因で倒れて鹿児島の病院に緊急入院、危篤状態にまで至ったことがあった)やり尽くした末の引退という認識で、大仁田のプロレス復帰は絶対あり得ないと思われた。ところが暫く経つと、大仁田はプロレスマスコミに御意見番のような形で顔を出すようになり、しかも時が経つにつれ「何度でも言う、俺は二度と復帰はしない」という前言を反故にするかのように、「もし俺が復帰したとしたら…」などと、自分から「復帰」の二文字を口にし始めた。こうしてマスコミを巧みに誘導したうえ、プロレス会場、さらにFMWの会場にも現れた大仁田に対して「嘘つき」との声も飛んだが、ある時ついにリングに乱入してしまう。そして自身の矛盾について「俺は大嘘つきよ。だがお前らは今まで一度でも嘘をついた事はないのか!!」という論理で突破してしまった。これが一時期名乗ったニックネーム「ミスター・ライアー(嘘つき)」の所以である。
    なお、この2度目の復帰戦はもちろん、ポーゴの引退試合と銘打たれていたが、結果的に大仁田復帰戦の色合いが濃くなってしまい、しかも当日の観衆が7923人(超満員札止め)と、当時のインディー団体の大会としても稀な盛況となったことが、その後も大仁田が活動を続ける後押しとなってしまう。
  4. ^NWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権』は、もともと新日本プロレスの藤波辰巳1980年に奪取したのをきっかけに日本に定着したものである[1]。後にこの王座に就いた木村健吾がチャボ・ゲレロにタイトルを明け渡した時点で新日本から離れ、そのチャボから大仁田が奪取したことで、今度は全日本プロレスに定着した。しかし、1982年7月の大仁田対チャボの同選手権試合で、両者体固めの裁定が下り紛糾したことから、タイトルはNWA本部預かりに。直後の同年8月に行われたプエルトリコサンファンでのNWA総会において「NWAは管理の杜撰な現在のジュニア王座を破棄し、新たに『インターナショナル・ジュニアヘビー級選手権』を設ける。この新王座の管理は、全日本プロレスに一任する」(総会に出席したジャイアント馬場談)といった決定がなされる。ところが同じ時期に、すでにタイガーマスク(初代)が『NWA世界ジュニアヘビー級選手権[2]レス・ソントンから奪取し、王者として防衛活動を行っていた為、物議を醸すこととなり、後日「ワールドプロレスリング」で古舘伊知郎が「NWAの議事録」という書類を片手に「タイガーマスクはNWAのメンバーにもその実力が高く評価されており、NWAが認める唯一の『世界ジュニアヘビー級王者』はタイガーマスクである」との説明を行った。結局これは、全日本が「NWA世界ジュニアヘビー級選手権」の存在も“容認”するという形で落着した。一方、『NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級選手権』は、NWAの指令により、大仁田とチャボとの間での「三番勝負」で王座決定戦が行われ、これを勝ち抜いた大仁田が新王座を獲得している。
  5. ^ 大仁田氏が会見 参院選出馬取りやめ政界引退(スポーツ報知・2007年6月23日)
  6. ^ 大仁田議員「乱痴気パーティー」 スキャンダル記事で政界引退?

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