中山恭子
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なかやま きょうこ
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| 生年月日 | 1940年1月26日(72歳) |
| 出生地 | 東京府 |
| 出身校 | 東京大学文学部 |
| 前職 | 官僚 |
| 所属政党 | (自由民主党)→ たちあがれ日本 |
| 称号 | 文学士(東京大学) |
| 配偶者 | 中山成彬(夫) |
| 公式サイト | 中山恭子オフィシャルサイト |
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| 内閣 | 麻生内閣 |
| 任期 | 2008年9月27日 - 2009年9月16日 |
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| 内閣 | 福田康夫改造内閣 |
| 任期 | 2008年8月2日 - 2008年9月24日 |
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| 内閣 | 福田康夫内閣 |
| 任期 | 2007年9月26日 - 2008年8月2日 |
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| 選挙区 | 比例代表 |
| 当選回数 | 1回 |
| 任期 | 2007年7月 - (現職) |
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| 内閣 | 安倍内閣 安倍改造内閣 |
| 任期 | 2006年9月26日 - 2007年9月26日 |
中山 恭子(なかやま きょうこ、1940年1月26日 ‐ )は日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員(1期)。たちあがれ日本参議院幹事長代理。
在ウズベキスタン特命全権大使、内閣官房参与、国連改革欧州諸国担当大使、内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)、内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)などを歴任した。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 官界での活動
群馬県立前橋女子高等学校を経て東京大学文学部仏文学科を卒業。大学卒業後、一年間の研究生活を送る。一時外務省に勤務したが、文学部卒では出世が遅れることから、東京大学法学部へ学士入学する。1965年国家公務員採用上級甲種試験(経済職)に合格し1966年に大蔵省に入省。のちに夫となる中山成彬は大蔵省時代の同期である(他に武藤敏郎、中島義雄、長野厖士(元大蔵省証券局長)などがいる)。なお、東京大学法学部は中退している。
国際通貨基金派遣職員、大蔵省大臣官房調査企画課、大臣官房企画官、東京税関成田税関支署長を経て、1989年6月に大蔵省初の女性課長(理財局国有財産第二課長)に就任。1991年6月には女性初の地方支分部局長として四国財務局長に就任し約2年間を高松で過ごす。女性官僚の草分け的存在になるも、大臣官房参事官兼大臣官房審議官を最後に1993年9月退官。
[編集] 退官後の活動
国際交流基金常務理事を経て、1999年7月、特命全権大使(在ウズベキスタン及び在タジキスタン)に就任。その直後の1999年8月23日、隣国キルギスの南西部オシェ州で日本人鉱山技師4人を含む7人がIMU(ウズベキスタン・イスラム運動)と見られるウズベキスタン反政府武装グループに拉致される事件が発生する。キルギス政府に交渉を一任せよとの外務省の方針に背き、救出劇の先頭に立った。武装グループに対して影響力を持つタジキスタン政府や関係者を通じて交渉・説得を行い、人質の解放に成功する[1]。
大使退任直後の2002年9月拉致被害者家族担当の内閣官房参与に就任、翌月北朝鮮に拉致被害者5人を出迎えた。それ以降も拉致問題に尽力し、安倍晋三と並び拉致被害者家族会の信頼は最も厚かったが、2004年9月に任務であった政府と被害者家族との間の信頼関係が出来たため辞任。
2006年9月26日、安倍晋三内閣の内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に任命される。同時期に政府に設置された拉致問題対策本部の事務局長に就任。
[編集] 政界への転身
2007年7月に第21回参議院議員通常選挙へ自由民主党比例区から立候補し、党内得票数第3位で当選した。同年8月27日に発足した安倍改造内閣で留任、同年9月7日に拉致問題対策本部事務局長職を離任した。同年9月26日に発足した福田内閣でも内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。11月15日、町村派に入会。
2008年、福田康夫改造内閣にて、内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)として初入閣を果たした。さらに、福田康夫改造内閣では、特命事項として拉致問題担当と公文書管理担当が発令され、国務大臣として同時に兼任することとなった。以降は大臣として拉致問題の解決を担当したが、およそ1ヶ月後の内閣総辞職にともない内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)および拉致問題担当、公文書管理担当を退任した。
同年9月24日に発足した麻生内閣では中山の入閣は見送られ、拉致問題担当の特命事項は内閣官房長官の河村建夫が兼任することになった。拉致問題担当の国務大臣に中山を任命しなかったことに対して総理大臣官邸に批判が殺到したため[2]、中山は内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任された。
2009年、夫である中山成彬が第45回衆議院議員総選挙にて宮崎県第1区から立候補した。成彬は以前引退を表明していたことから、自由民主党宮崎県支部連合会は上杉光弘の擁立を決定しており、両者とも党本部の公認が得られぬまま激しい選挙戦が展開された。恭子は選挙対策総本部長に就任しサポートしたが成彬は落選し、さらに恭子の秘書2名が公職選挙法違反容疑で書類送検された[3]。
2010年6月18日、夫・成彬が同年7月におこなわれる予定の第22回参議院議員通常選挙にたちあがれ日本から出馬することが確実になったことを受け、「夫を支援するため」として、自民党に離党届を提出し[4][5][6]、6月21日、夫と共にたちあがれ日本へ入党した[7]。
[編集] 人物
[編集] 略歴
- 1963年3月 東京大学文学部仏文学科卒業
- 1966年4月 大蔵省入省
- 1975年6月 国際通貨基金
- 1985年6月 大臣官房企画官
- 1987年7月 東京税関成田税関支署長
- 1989年6月 理財局国有財産第二課長
- 1991年6月 四国財務局長
- 1993年6月 大臣官房審議官 9月 国際交流基金常務理事
- 1999年7月 駐ウズベキスタン特命全権大使
- 2002年9月 退官 内閣官房参与
- 2004年9月 内閣官房参与 辞任
- 2005年3月 国連改革欧州諸国担当大使(2005年9月辞任) 4月 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授 香川大学地域マネージメント研究科客員教授
- 2006年9月 内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当)
- 2007年7月 参議院議員(全国比例代表)
- 2008年8月 内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)として初入閣。
- 2008年9月 内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当)
[編集] 家族
[編集] 社会的活動
[編集] 著書
- 『ウズベキスタンの桜』(KTC中央出版、2005年)
[編集] 脚注
- ^ 詳細は、平成18年2月27日提出の質問趣意書111号「キルギスにおける日本人拉致事件に関する質問主意書」、及び中山による回想録『ウズベキスタンの桜』(KTC中央出版)に詳しい。同じく、内外の関係筋からの聞き取りを行ったジャーナリストであるアハメド・ラシッドによる『聖戦―台頭する中央アジアの急進的イスラム武装勢力』(講談社)、及び当時の情勢の参考として国連職員である川端清隆による『アフガニスタン―国連和平活動と地域紛争』(みすず書房)がある。また、『週刊新潮』(2005年12月1日号)の「『中山恭子』元参与が告発したキルギス人質『八百長解放劇』」に詳しく説明されており、(http://www.asyura.com/0502/war69/msg/755.html)に同記事の一部抜粋がある。
- ^ 佐藤勝巳「組閣人事の危うさ――拉致で抗議殺到」『2008.09.26-組閣人事の危うさ―拉致で抗議殺到―』現代コリア研究所、2008年9月26日。
- ^ 「衆院選公選法違反容疑、中山恭子氏秘書ら書類送検」『衆院選公選法違反容疑、中山恭子氏秘書ら書類送検 : 週間ニュース : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)』読売新聞、2009年9月19日。
- ^ “中山恭子氏が自民離党 夫、たちあがれから出馬で”. 47NEWS. (2010年6月18日) 2010年6月18日閲覧。
- ^ “中山恭子氏、「たちあがれ」へ 夫・成彬氏支援が目的”. 東京新聞. (2010年6月18日) 2010年6月18日閲覧。
- ^ “中山恭子元拉致担当相が自民離党届”. 産経新聞. (2010年6月18日) 2010年6月18日閲覧。
- ^ “中山恭子氏入党・成彬氏を公認…たちあがれ日本”. 読売新聞. (2010年6月21日) 2010年6月22日閲覧。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 中山恭子オフィシャルサイト(公式サイト)
- 北朝鮮による日本人拉致問題ホームページ
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第3代:2008年 |
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