渡辺秀央
| 生年月日 | 1934年7月5日(77歳) |
|---|---|
| 出身地 | 新潟県栃尾市(現:長岡市) |
| 出身校 | 拓殖大学政経学部卒業 |
| 学位・資格 | 旭日大綬章(2010年) 経済学士 |
| 前職 | 議員秘書 |
| 所属委員会 | 経済産業委員会理事 |
| 世襲 | 無 |
| 選出選挙区 | 比例区 |
| 当選回数 | 2回(衆6回) |
| 所属党派 | (自由民主党→) (新進党→) (自由党→) (民主党→) (改革クラブ→) 新党改革 |
| 党役職 | 最高顧問 |
| ウェブサイト | [‐] |
渡辺 秀央(わたなべ ひでお、1934年7月5日 - )は、日本の政治家。参議院議員(2期)。現在、新党改革の最高顧問。
衆議院議員(6期)、郵政大臣(第54代)、改革クラブ(新党改革の前身)代表などを歴任。
目次 |
[編集] 概要
新潟県栃尾市(現・長岡市)出身。東京都立目黒高等学校、拓殖大学政経学部卒業。中曽根康弘の秘書を経て、1976年の第34回衆議院議員総選挙に、旧・新潟県第3区から出馬し初当選。内閣官房副長官、郵政大臣などを歴任。自由民主党時代は中曽根、藤波孝生の側近だった。
1993年の総選挙では、落選。1996年の選挙には無所属で出馬するも、再び落選し、自民党を離党し翌1997年新進党入党した。
1998年、第18回参議院議員通常選挙に自由党公認で出馬し、比例名簿4位ながらも当選、参議院議員に鞍替えした。自由党では小沢一郎の側近として選挙対策・民主党との合流問題に取り組む。また、民由合併のモデルとも言われる新潟方式にも参画している。
新潟県では保守層にも一定の影響力があり、第44回総選挙においても県内における自民党の躍進を食い止めている(6選挙区中、小選挙区4・比例1)。第16回統一自治体選挙前半戦(2007年4月8日投票)の新潟県議会議員選挙において、息子である渡辺祐介が見附市から出馬したが、落選した。2010年秋の叙勲において旭日大綬章を受章。
[編集] 反小沢の筆頭
民由合併による自由党の疑惑ともされる資産整理を小沢と幹事長であった藤井裕久が中心で行い、党選挙対策委員長であった渡辺は関与できなかった。さらに2004年の参院選では、小沢の支援を受けられず、後援会主体の選挙で最下位当選という屈辱を味わったため、以降は小沢と一定の距離を置いていると言われる。
2007年5月14日の参議院本会議で、国民投票法案の与党案採決(ボタン投票)に際し、党議拘束に造反、賛成にまわる。翌日党として郡司彰参院国対委員長から、厳重注意処分が下された。
2007年7月29日 に投開票が行われた第21回参議院選挙で、渡辺は新潟選挙区において自由党出身の森裕子ではなく黒岩宇洋を支援した。「全身全霊(政治生命)をかけて支援する」と明言したが結果は小沢や田中真紀子の支援を得た森は当選したものの、黒岩は落選した。
この結果、渡辺の党内における求心力は急速に低下し、参院選後に反小沢のグループを集結し自民党と連携する構想は頓挫したと言われる(渡辺自身は選挙後、「離党するとは一言も言っていない」と構想そのものを否定した)。
2008年4月9日の日本銀行副総裁人事でも党方針に反して大江と共に政府提案に賛成票を投じた。しかし、自由党と保守党との分裂時に自由党に残ったこと、民由合併の際に民主党への合流に躊躇する西村眞悟や藤島正之を説得していることや、新潟における社民・連合との連携を強化していることから、他の政策対応から保守的とは分類できるものの必ずしも親自民とは言えなかった。
[編集] 改革クラブから新党改革へ
2008年(平成20年)8月28日に民主党を離党すると発表。改革クラブを結成、代表就任。2010年(平成22年)4月23日に改革クラブは党名を新党改革に変更し、自身は最高顧問に就任した。2010年(平成22年)7月の第22回参議院議員通常選挙ヘは出馬せず、事実上、政界引退とみられる。
[編集] 関連項目
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 関谷勝嗣 |
第54代:1991年 - 1992年 |
次代: 小泉純一郎 |
| 先代: 唐沢俊二郎 |
1986年 - 1987年 |
次代: 小沢一郎 |
| 議会 | ||
| 先代: 伊達忠一 |
2007年 – 2008年 |
次代: 山根隆治 |
| 先代: 佐藤信二 |
1987年 - 1988年 |
次代: 田原隆 |
| 党職 | ||
| 先代: 新設 |
新党改革最高顧問 初代:2010年 - |
次代: 現職 |
| 先代: 結成 |
改革クラブ代表 初代 : 2008年 - 2010年 |
次代: 舛添要一 (新党改革に党名変更) |
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