佐藤ゆかり

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衆議院議員 佐藤 ゆかり
生年月日 1961年8月19日(47歳)
出生地 東京都世田谷区
出身校 ニューヨーク大学大学院
学位・資格 経済学博士(Ph.D)
前職 会社員
所属委員会
内閣役職
財務金融委員会委員
経済産業委員会委員
世襲
選出選挙区 比例東海ブロック岐阜県第1区
当選回数 1回
所属党派 自由民主党(無派閥)
党役職
会館部屋番号 衆・第二議員会館613号室
ウェブサイト 自由民主党 佐藤ゆかりHP

佐藤 ゆかり(さとう ゆかり、1961年(昭和36年)8月19日 - )は、日本政治家衆議院議員(1期)。証券会社エコノミストを務めた。

目次

[編集] 概要

第44回衆院選に大量当選した“小泉チルドレン”の一人。他の女性新人議員らと共に“小泉シスターズ”[1]とも呼ばれた。“ゆかりタン”という愛称で呼ばれることもある。“萌え”という言葉が盛んに使われた議員。

2005年8月、自由民主党の候補者公募に応じ、郵政解散を受けた第44回総選挙で、郵政関連法案反対候補者への「刺客」として野田聖子元郵政大臣の地元の岐阜1区落下傘候補として出馬。野田聖子との女性対決(俗にマドンナ対決と呼ばれる)や、ネガティブキャンペーン的な週刊誌報道(不倫スキャンダル[2])などでマスコミに取り上げられることも多く、一躍、時の人となった。小選挙区で野田聖子に敗れたが自由民主党の女性枠候補として東海ブロックで1位搭載されたため比例復活で初当選。

2006年6月、自民党衆議院議員の江崎洋一郎との神楽坂での会食が“不倫デート”と報道された[3]

2007年9月、安倍の総理大臣辞任表明を受け、83会のメンバーらと共に小泉純一郎前総理大臣の擁立を目指し国会議員らの署名を集めるが、小泉純一郎が福田康夫元官房長官支持を表明した為、福田康夫を支持。2008年9月、福田の総理大臣辞任表明を受けた同党総裁選挙では小池百合子元防衛相を支持した。

[編集] 政治活動と発言

2004年埼玉8区補欠選挙安倍晋三幹事長として自民党史上初の全国的な候補者公募実施、自身も応募し最終選考に残ったが柴山昌彦に敗れた。

2005年の総選挙出馬に際し選挙区が岐阜1区(岐阜市)に決まったことに対して、当初「2月に観光でライトアップの時期の白川郷に行き、岐阜にはまた何度でも来たいと思っていたら、まさか選挙活動に来るなんて、という気持ちです」と急造の落下傘候補の為選挙区と無関係の地名を出したが、党本部から注意され新幹線でJR岐阜駅に到着するとホームで「岐阜に嫁ぐ気持ちでやってきました」と言い直した。

2005年8月、二股不倫不倫メール500通」報道(週刊文春)[4]。佐藤は選挙中は報道を一切無視したが、選挙後、週刊誌等による不倫疑惑報道というネガティブキャンペーンを“謀略”と抗議し、メディア規制に賛成する立場に立った為、メディア規制反対の立場の櫻井よしこにたしなめられた。その後、佐藤は婦人公論2006年8月22日号[5][6][7]などでも不倫報道を“謀略”との主張を展開。ウィキペディアにも抗議をした[8][9]

2005年の総選挙で自身のHPに経済的な政策提言を公表し、自身の経済ビジョンの優位性を訴えた。この政策提言が佐藤ゆかりの基本的な経済ビジョンとみられる。なお、この政策提言は、佐藤がかつて経済産業省の委員会において外資系証券会社のエコノミストとして発言した趣旨でもある。[10]

総選挙では「(サラリーマンは)所得が無いなら、株を買って生活費を補えばよい」という趣旨で自身の公約を訴え、当選後もテレビ等で発言し、「国会議員の発言ではない」等と出演者にたしなめられる場面もあった。だが、佐藤は将来的な経済の先行きを見越して個人の所得が上がらないことを予測しており、発言はその対処の一つを示したと見る向きもある。

2005年9月、総選挙直後のテレビ番組で、2005年4月の日本経済新聞紙上で過去に小泉首相の郵政改革を50点(落第点)と採点した事に対し、「あの時は評論家としての立場で採点した」と答えた。

選挙後、公職選挙法違反である有権者宅への戸別訪問を行う映像が『真相報道バンキシャ!』(日本テレビ)で報道され、これを市民団体に告発された(総務省の見解では複数の有権者宅へ戸別訪問した場合、公職選挙法違反の適用を受けるため)。同団体に別件で告発された杉村太蔵らと共に週刊誌に“お騒がせ議員”として叩かれ、佐藤も自身のサイトに戸別訪問をしない旨の注意書きを書いた。

2005年11月、早稲田大学での与野党の討論会で「(子供を産む女性も)自助努力で頑張っていくことが大事」と発言したことが報道され、子育てや女性の立場を理解しているのかと、物議をかもした。(なお、佐藤は自身について 独身で子供はいない、としている。)また同じ討論会の席上、自民党内の比例区での“女性優遇枠”の存在を否定した。

2006年3月に83会で出版した『UBUDAS』では全員分の色紙が掲載されたが、佐藤は「愛国心」と揮毫。

「ふるさと税」構想。2006年5月頃に佐藤がHPで公表した政策提言。提言のタイトルは『「ふるさと税」の創設と納税番号制度の活用を』。佐藤は証券業界のエコノミスト出身の議員らしく納税番号制度(納税者番号制度)の導入に積極的な立場。同年7月1日の“新生銀行リテール5周年感謝セミナー”での講演でも「ふるさと税」について発言し、その内容が7月30日付けの日経新聞内の銀行の広告として大きく広告された。この「ふるさと税」は、後の自民党総裁選で谷垣禎一財務大臣(当時)が取り上げたり、河野太郎議員も言及した[11]

2006年6月、レギュラー出演していた朝のテレビ番組で、赤坂に建設中の“億ション”並の議員宿舎(都内に自宅を持たない議員が利用可能)が国会議員が安価で利用できる問題に関して、政権与党の立場から「程度問題。(地方選出議員には)この程度の宿舎が必要」と発言し、番組内で民主党(当時)の河村たかし(現在は名古屋市長)や他の出演者に「年間4000万円も税金を貰っておきながらお金が足りないとは何事か」等と批判された。佐藤はこの件を契機にTVへのレギュラー出演をしていない。なお、同番組で新しい議員宿舎に入居しないと明言したにも拘らず、赤坂に入居。

2006年6月、江崎洋一郎議員と神楽坂のフレンチレストランで会食していた模様を週刊新潮にスクープされ、不倫デートと報じられた。江崎のボディータッチについて、佐藤は「散発的な不規則行為」「不倫ではなくセクハラ」とTVやHPで反論。その後、江崎は離婚。

小泉チルドレンではあるものの、2006年の皇室典範改正議論の時には、女性天皇許容の小泉総理の意見よりも、慎重論の自民党執行部の意見に与し、武部幹事長の補佐として動いた。

2006年9月、総裁選山本一太片山さつきらと共に安倍晋三候補の応援を行った。10月、自民党副幹事長に就任。

2006年11月、選挙区を争う野田聖子議員などの郵政造反組12名の自民党復党問題に絡んで復党に反対する議員連盟を発足させたが少数の議員の賛同しか得られず、小泉前首相の“政治家は使い捨て”発言も出て、復党を容認する流れを覆すことはできず、“私は100%自民党”と決定に従った。その後、復党した野田聖子議員(岐阜1区選出)に対して“私が支部長”と同選挙区の公認候補を争う構えを見せ、岐阜1区(岐阜市)内の自民党支持者を分裂させる争いを起こした。この争いは自民党の支持率低下を招いた為、自民党内でも不評を買い、また民主党はこの件につき「コップの中の争い」とコメントした。TVや週刊誌等のメディアでも「女の争い」というイメージで報道した。

2006年11月30日付けフジサンケイビジネスアイへの寄稿記事「子供の福祉、原点は家族」では、「夫婦別姓論は排除されるべき」と選択性夫婦別氏制度(選択的夫婦別姓制度)を推進する動きを牽制(けんせい)した[12]

2006年12月、野田聖子が復党すると、『私が(選挙区・岐阜1区の)支部長』とテレビを通じ次期選挙での小選挙区公認候補を譲る意思のないことを強く主張した。国会閉会日の12月19日に議場で野田が佐藤に近づき握手を行った[13]。この対立は、2008年2月、佐藤が選挙区を転出することで決着。しかし現在でも“しこり”があるとされる。

2006年12月経済産業委員会の採決を無断欠席したことで、党国対委員会によって、同様に経産委員会を無断欠席した片山さつき議員と共に「所属常任委員会を変更」「国会開会中海外渡航を1年間禁止」「2007年3月まで国対委員会へ出席停止」という処分が下された。また、佐藤は11月10日財務金融委員会関税暫定措置法採決)も無断欠席しており、その委員からも外された[14]。両議員とも決算行政監視委員会に変更されたが、後に復帰した。

議員在籍年数に比して議員秘書の辞職者が多いが、佐藤は「私の事務所よりも多数の秘書が辞めた議員もいる」とコメント[15][16][17]

2007年9月、佐藤が代表を務める自民党岐阜県第1選挙区支部が、平成17年の政治資金収支報告書に自民党本部からの交付金300万円を記載せず、昨年9月に県選管に訂正を届け出ていたことが8日、分かり、佐藤の事務所は「選挙運動費用収支報告書には記載しており、それで十分だと思っていた」とコメントした。

2008年2月、選挙区調整で衆院東京5区に鞍替え。

2008年4月小池百合子猪口邦子、佐藤ゆかりで政策提言ユニット「TPL」(Tokyo Projects of/by/for Ladies)を結成。同年9月、総裁選小池百合子候補の推薦人となった。

[編集] 日本アムウェイへの関与

2008年10月、マルチ商法業者との関りがあるとして、自民党の野田聖子吉田六左ェ門猪口邦子などと共に名前があがった。[18][19][20]

[編集] 岐阜1区騒動

衆院岐阜1区は自民党の野田聖子元郵政大臣が連続当選してきた様にもともと保守的な選挙区であったが、“小泉劇場”の注目選挙区の一つとなったことで、自民党内が分裂し激しく争うこととなり、その対立が生んだ“しこり”が一連の騒動(選挙区をめぐる激しい公認争い)の遠因といわれる[21]

佐藤は2005年の総選挙に際し8月20日頃、自民党岐阜1区の落下傘(刺客)候補として公表されてから、一貫して改革路線(小泉自民党が主張した改革路線。いわゆる「郵政民営化」等)を主張し、その選挙区に強い地盤をもつ野田聖子に挑戦した。選挙中は、佐藤の過去の不倫疑惑が週刊誌から報道されるというネガティブキャンペーンが行われたり、候補者の一挙手一投足が過熱に報道され、注目された。

選挙の結果、佐藤は比例で復活当選したが、その後自民党内で、選挙区当選した無所属議員(当時)の野田聖子を支持するグループとの間に対立が続き、岐阜市内で与謝野馨担当大臣(当時)などが融和を、河野太郎などが非融和を訴える中央政界を巻き込んだ政治的な対立に向かった(対立は安倍政権下でも続き、情を取るか路線をとるかで揺れた)。

佐藤は岐阜市内の支持派としては野田聖子の支持派に比べ少数派で、選挙区奪取には劣勢であった。自民党執行部が安倍体制に代わると、保守層の再結集の為に野田聖子を始めとする保守系無所属議員が2006年12月に自民党に復党したが、これに先立って選挙区が重なる刺客組の佐藤などがテレビなどマスメディアを通じ大きく反対した為、政権支持率が急落。世論の一部に反発を招いた。これがクレーマーに選挙区調整について脅迫電話を受ける遠因となったとされる。(別件だが、佐藤の脅迫よりも先に野田聖子も他の議員らと共に脅迫をうけたが、これは選挙で注目を浴びたことが原因。)

野田聖子が復党後も佐藤は党内融和を行わず、「岐阜1区の支部長は私」「100%従わないと握手しない」等の発言をテレビを通じて行い、一歩も引かなかった。また佐藤は犯人を特定せずに「私の支持者宅に動物の屍骸を投げ込んだ」「支持者宅へ中傷ビラがまかれた」とテレビを通じて発言したり、週刊新潮に江崎洋一郎議員と東京神楽坂で会食をした模様を“不倫デート”と報道されたことを秘書がスケジュールを漏らした(スパイである)と考えたことが報道され、ますます感情的な対立を深める方向に誘導したりした。

そんな折りの2007年8月10日、野田聖子事務所への放火事件が起き、同時に佐藤を中傷するビラも路上にまかれる事件が発生した。犯人は捕まっておらず、動機や目的は現在も不明である。

佐藤は野田聖子の復党後も次回(第45回)総選挙でも引き続き岐阜1区支部長として公認するよう党本部に求めていたが、福田政権となって地元から選挙区調整を行うよう申し入れがあり、党本部(古賀誠自民党選対委員長)などが調整した。

2008年1月、自民党は独自の世論調査で優勢な野田聖子を同選挙区の公認候補とする方針を決定した。また、佐藤は東京5区への転出が噂され始めた。これに対して佐藤の後援会役員及び秘書らが街頭で岐阜残留を求める署名を行い、2万以上の署名が集まった。(朝日新聞)

同2月8日、協議の結果、衆院東京都第5区への転出が決まり(毎日新聞)、党本部内の記者会見で野田・佐藤両者が握手を行った。両者の争いは感情的なものであり、佐藤が追い出されたと感じた支持者らが野田聖子の不支持を唱えている。

[編集] その他の活動

外資系証券会社のエコノミストとして活躍。2004年にアメリカの投資情報誌「インスティテューショナル・インベスター[22][23]」誌上の投票で日本経済レポート担当のエコノミストとして第2位となるほどの新進気鋭のエコノミスト[24]ぶりだった。日本経済の動向調査とレポートの仕事をしながら、経済誌などに寄稿[25]又はインタビューをうけたり[26]、経済についての講演や、経済番組などにTV出演[27]をした。エコノミストとしての活躍は証券会社内に留まらず、地域経済を活性化させる提言を講演(例:埼玉県蕨市でのレッズランドについて講演(埼玉新聞2005年8月1日記事))したり、政府の委員会の委員も務めた。[28]

立候補直前の肩書きは、外資系証券会社クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券(CSFB)におけるチーフ・エコノミスト兼経済調査部長。同社での在籍は2004年9月から1年間。投資銀行インベストメントバンク)のエコノミストとして日本経済の構造分析や政策提言を行う一方、財務省、経済産業省、自民党等のポストを兼任した。

2004年度に早稲田大学大学院公共経営研究科非常勤講師を務め、獨協大学でも教鞭をとっている。

[編集] 人物

中学校時代は陸上部に所属、上智大学時代は少林寺拳法部に所属していた。

現在独身、結婚歴あり、子供なし。離婚した元夫はテレビ朝日の報道マン。2005年総選挙出馬の際の記者会見では家族構成や婚姻の有無を聞かれたが個人情報として明らかにしないこともあった。

留学時代、得意の英語を買われて、政治ジャーナリスト末延吉正テレビ朝日の番組取材(1988-1989年米大統領選ブッシュ陣営への同行取材)を手伝った。(※修士課程修了して10年後にPh.D取得したが、その際、米国第14代連邦準備制度理事会(FRB)議長ベン・バーナンキニューヨーク大学の学者だった頃、博士論文の指導を一時期受けたとする本人談がある。)

[編集] 家族・縁戚

母親は探偵[1]。また、民主党衆議院議員の横光克彦は外縁の親戚(横光夫人が従姉妹)。

家族(両親兄)がいずれも故人であり、相続で都内など複数に住宅・宅地・山林を所有と大手新聞社に報道された[2]。株への投資は相続した二銘柄のみ(本人は資産運用に興味無しとコメント)。平塚に賃貸物件を所有。

[編集] 略歴

[編集] 所属団体

[編集] 著作

[編集] 単著

[編集] 共著

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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