美濃部亮吉
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みのべ りょうきち
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| 生年月日 | 1904年2月5日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1984年12月24日(満80歳没) |
| 死没地 | 東京都渋谷区 |
| 出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) |
| 前職 | 大学教授 行政管理庁官僚 |
| 所属政党 | (無所属→) 革新自由連合 |
| 配偶者 | 初婚・美濃部百合子 |
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| 当選回数 | 3回 |
| 任期 | 1967年4月23日 - 1979年4月22日 |
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| 選挙区 | 全国区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 任期 | 1980年7月8日 - 1984年12月24日 |
| マルクス経済学(労農派) | |
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| 生誕 | 1904年2月5日 |
| 死没 | 1984年12月24日(満80歳没) |
| 研究分野 | 後期資本主義の危機的状況の諸現象 |
| 影響を 受けた人物 |
大内兵衛 |
| 影響を 与えた人物 |
童門冬二 |
美濃部 亮吉(みのべ りょうきち、1904年〈明治37年〉2月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月24日)は、日本の経済学者、政治家である。元東京都知事(第6・7・8代)。元参議院議員(全国区)。
目次 |
[編集] 略歴
- 1916年(大正5年):東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業
- 1921年(大正10年):東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業
- 1923年(大正12年):旧制第二高等学校卒業
- 1927年(昭和2年):東京帝国大学経済学部卒業。東京帝国大学助手
- 1929年(昭和4年):東京帝国大学農学部講師(1932年(昭和7年)まで)
- 1935年(昭和10年):法政大学教授
- 1938年(昭和13年):人民戦線事件で検挙され法大教授を辞任 翌年、信越化学工業の嘱託
- 1945年(昭和20年):毎日新聞論説委員を委嘱される
- 1946年(昭和21年):内閣統計委員会委員に任命 事務局長を兼任
- 1949年(昭和24年):東京教育大学教授を併任(1967年(昭和42年)まで)翌年 経済安定本部参与に就任
- 1952年(昭和27年):行政管理庁統計基準部長(1956年(昭和31年)まで)
- 知事選出馬前はNHKテレビ『やさしい経済教室』の解説者も務めており、お茶の間に名前が売れていた
- 1967年(昭和42年):東京都知事選挙に社会党・共産党推薦で立候補、自民党・民社党推薦の松下正寿立教大学総長、公明党推薦の阿部憲一渋沢海運社長を破り当選
- 1971年(昭和46年):社会・共産の推薦で出馬、自民党推薦の秦野章前警視総監を破り再選
- 1975年(昭和50年):社会・公明・共産の推薦で出馬、自民党推薦の石原慎太郎前代議士と民社党推薦の松下正寿を破り三選
- 1979年(昭和54年):四選不出馬を表明。都知事を退任
- 1980年(昭和55年):参議院議員選挙に出馬し、当選
- 1984年(昭和59年):死去
[編集] 人物
[編集] 生い立ち
美濃部達吉・多美子夫妻の長男として東京に生まれた。父・達吉は天皇機関説で知られる憲法学者で、母・多美子は、数学者・教育者・政治家として活躍した菊池大麓の長女。したがって亮吉は箕作阮甫の玄孫にあたる。
東京高師附属小(現・筑波大附属小)、同附属中(現・筑波大附属中・高)を卒業。附属中学の同級生には、正田英三郎(日清製粉名誉会長)、岸本英夫(東京大学名誉教授)、芳賀檀(ドイツ文学者)、諸井三郎(作曲家)などがいる。
[編集] マルクス経済学者
東京帝国大学経済学部では、マルクス経済学者の大内兵衛に師事し、後期資本主義の危機的状況の諸現象、なかんずくインフレーションを研究した。助手となるが、マルクス主義と処世の両立を安易に信じているような態度で挨拶に行ったことが反マルクス派の河合栄治郎の怒りを買い、母校の経済学部に講師として残ることが不可能になる。そのため法政大学経済学部に転出し、以後マルクス経済学者として教鞭を振るう。
[編集] 東京都知事
日本社会党を支持基盤とする革新知事として知られ、1967年(昭和42年)から1979年(昭和54年)の12年間(3期)に渡り東京都知事を務めた。美濃部亮吉の政治的手腕は母方の祖父・菊池大麓から、リベラルな思想は父・美濃部達吉から受け継がれたといえる(もっとも、達吉は日本国憲法に最後まで反対していた)。1971年(昭和46年)の都知事選挙では361万5299票を獲得した。これは個人が獲得した得票数としては日本の選挙史上最多得票記録であり、現在も破られていない。
政策面で評価されている点としては、老人医療費無料化、高齢住民の都営交通無料化、公害対策で企業に厳しい条件を課すなど、福祉、環境政策において様々な施策を次々打ち出し、東龍太郎都政の時代において取り残されていた課題へ対応した点が挙げられる。
批判されている点としては、これらの福祉・環境政策を充実させた裏側でそれらを実行する為の財政的な裏付けや計画性に乏しいバラマキ財政となり、結局は東京都を当時前代未聞の財政難に転落させた事が挙げられ、後年「戦後都政の暗黒時代」と批判される事にもなった。この財政悪化の主要因の一つとしては、最大の支持基盤が社会党であったため、自身の集票の基盤となっていた都職員の労働組合や教職員組合などとの関係から、交通局の職員(都電や都営バスの運転手など)や都立高校の教職員などを含む都職員の人件費が聖域になってしまい、全く手を付ける事ができなくなり、年を追う毎に人件費が膨らんでいったことが指摘されている。
[編集] 主な施策
- 歩行者天国の実施
- 都主催の公営競技(公営ギャンブル)廃止
- 都電の撤去(のちに荒川線となる27系統三ノ輪橋 - 王子駅前と32系統全線を除く。都電廃止の方針自体は東前知事からの継承)
- 老人医療の無料化
- 公害防止条例の改正
[編集] 公営ギャンブル廃止
公営ギャンブル廃止を政治公約として前面に押し出し、美濃部の都知事就任後に公約実行という形で、東京都はそれまで行っていた競輪・競馬・競艇・オートレースの全ての事業から撤退している。
これにより、東京都の単独主催場であった大井オートレース場と「競輪のメッカ」とも呼ばれた後楽園競輪場は閉鎖された。他方で、江戸川競艇場・大井競馬場・京王閣競輪場は東京都とは別に市町村や特別区が主催権を持っていたため閉鎖・廃止にならず、東京都が主催していた開催枠については各々主催権の移行が行われた。
[編集] 道路開発
東京外環自動車道、首都高速中央環状線での道路開通について、「一人でも反対があったら橋を架けない」という「橋の論理」で少数意見を極端に重視する姿勢から、道路工事反対の住民運動の側に立った。
結果として、外環や中央環状線の工事凍結という形で東京の道路整備が大きく遅れ、慢性渋滞とそれに伴う排気ガス公害を招き、大都市東京の機能に大きな遅れを生じさせることになって大きな社会的コストを強いることになった。
[編集] 南北朝鮮および在日韓国・朝鮮人との関係
対南北朝鮮、在日韓国・朝鮮人の関連では全国の都道府県の中で先駆けて朝鮮総連など、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に近い立場の関連施設の固定資産税を免税にしているほか、朝鮮大学校を各種学校として認可している。美濃部は「都市外交の一環」を名目に1971年(昭和46年)に、現職知事としては唯一の北朝鮮訪問を行い、その際に金日成と面会を果たしており、北朝鮮との間に太いパイプがあったことは事実であると言われている。その会談において、美濃部は、
「私は1925年に大学を卒業して以来約40余年間マルクス経済学を勉強してまいりました。それ故に私は社会主義者であり、社会主義の実現を理想とする人間です。金日成元帥がなされたような活動は出来ませんでしたが、日本国内で私のなし得ることはやりました。・・このような立場にたっている私としては、貴国で進められている社会主義建設の早いテンポには非常に尊敬の念を抱いてきました」
と発言した。もっとも、北朝鮮訪問を行った政治家は、本人の思想・実際の評価の如何に関らず北朝鮮側の要望で金日成や北朝鮮の国家体制などを、高評価・礼賛する内容の発言を行うよう強いられるケースも少なくないという説がある。詳細は飛鳥田一雄などを参照のこと。
美濃部の主たる支持基盤が北朝鮮との繋がりが深い日本社会党であったことから、前出の公営ギャンブル廃止論の背景には北朝鮮利権が色濃く存在するパチンコ産業の拡大を政治面から後方支援する目的があったのではなかったかとの疑念を示す意見もある。その他、都内でのパチンコ遊技場や飲食店の設置について、美濃部在職中においては北朝鮮資本が関係するものは比較的スムーズに営業開始に至ったものが多かったのに対し、一方で特に韓国系資本の関わるものについては各種許認可の遅延など様々な妨害が行われたとの声が、主として民団系の立場の者からは出されている。
ただし、民団系の在日韓国人に対して万事冷淡であったかというと必ずしもそうとは言い切れず、在日外国人に対する医療保険の適用を行うなどしており、そのことに対して在日韓国人の辛淑玉は「美濃部亮吉のおかげで命を永らえることができた」と高く評価している。
[編集] 日本共産党への牽制と公明党への接近
1975年(昭和50年)の3選の際には、部落解放同盟を巡って支持基盤の日本社会党と、解放同盟と激しく対立する日本共産党の間で対立が起こるなどしていた。社共対立を理由に一時美濃部は不出馬を表明していたが、「石原慎太郎の出馬によるファシズムの復活を阻止する」(本人談)という理由付けで3選出馬に踏み切ったことに対する反発が大きかった(美濃部自身は最初から3選を考えていたが、社共対立に頭を痛めていたため、社共の自身への支持を確実なものにするためにあえて一旦不出馬を表明してから、3選出馬を決断したように見せかけたのだろう、と後年、石原慎太郎は述べている)。
社会党系列の知事であったために、当時の東京都議会において共産党は与党でありながら知事の出した議案に反対することが多く、共産党参議院議員の有働正治などは「革新知事と呼ぶに値しない」と批判をした。そのため議会対策も兼ねて任期途中で公明党との間で政策協定を結ぶなど、共産党への牽制も少なからず行っている。
[編集] 都立高校学校群制度の継承と存続
学校群制度による都立高校入試は東龍太郎都政時代末期に導入され、都立高校の東京大学など難関大学への進学実績低下の発端となった。学校群制度によって実施され入試は1967年度(昭和42年度)入学者から1981年度(昭和56年度)入学者までの15回で,美濃部都政下では1968年(昭和43年)から1979年(昭和54年)までの12回が実施された。
第1回入試(東龍太郎都政下の1967年3月に実施)の時点で高学力層の入学辞退者増加などの問題点はすでに露呈しており、以降は都立高校全体としては難関大学進学実績の低下が進行した。美濃部都政は顕在化していた問題点に対する改善策をまったく取らず、美濃部都政全期間の3期12年間にわたって学校群制度を存続させ、都立高校の難関大学進学実績を低下するに任せた。漫然と学校群制度を存続させたこと、この制度による入試15回のうち12回が美濃部都政下で実施されたことが、学校群制度を導入したのは美濃部都政であるという誤解を生む要因のひとつとなった。
[編集] 参議院議員への転出
知事退任後は社会党東京都連などの推薦を受けて無所属で参議院議員に転出。革新自由連合所属の中山千夏の率いる「一の会」に所属し、後に第二院クラブらの議員との統一会派「無党派クラブ」「参議院の会」代表を務めるも、病もあり目立った活動がないまま、任期途中の1984年(昭和59年)12月、自宅の書斎で死去した。
信濃毎日新聞社社長・衆議院議員・貴族院議員を務めた小坂順造の長女・百合子(自由民主党衆議院議員小坂善太郎・自由民主党衆議院議員小坂徳三郎の姉)と結婚し、長男・次男・三男をもうけたが、都知事就任前に離婚。子供三人は小坂家に引き取られた。都知事就任時には既に再婚しており、後妻との間に長女をもうけている。
長男は自由民主党衆議院議員小坂憲次の秘書を務めた。また次男は僧侶となってオーストラリアに渡り、三男は信越化学工業に勤務した。いずれも小坂姓を名乗っている。
[編集] 著書
[編集] 関連項目
- 箕作家
- 美濃部達吉
- 美濃部洋次
- 走れコウタロー - 都知事時代の「公営ギャンブル廃止」公約に由来する、美濃部の声帯模写の台詞がある。
- 革新都政をつくる会 - 美濃部推しの革新共闘の流れを標榜
- 木村禧八郎
- 童門冬二 - 美濃部亮吉に師事
[編集] 外部リンク
| 官職 | ||
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| 先代: 東龍太郎 |
第6-8代:1967 -1979 |
次代: 鈴木俊一 |
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