石田次男
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いしだ つぐお
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| 生年月日 | 1925年 |
| 没年月日 | 1992年2月4日(満66歳没) |
| 出身校 | 旧制芝浦工業専門学校 (現・芝浦工業大学) |
| 所属政党 | (無所属→) (公明政治連盟→) 公明党 |
| 親族 | 弟・石田幸四郎 |
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| 選挙区 | 全国区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 任期 | 1959年6月3日 - 1965年6月1日 |
石田 次男(いしだ つぐお、1925年 - 1992年2月4日)は、日本の政治家、宗教家。元参議院議員。新宗教団体創価学会元理事。
目次 |
[編集] 経歴
芝浦工業専門学校を卒業後、1950年に創価学会に入会する。創価学会秘書室を経て、聖教新聞編集長、創価学会男子部第一部隊長、創価学会小岩支部長を歴任し、特に教学方面を担当する。
1953年、創価学会理事に就任する。
1959年、創価学会の支援を受け、第5回参議院議員通常選挙に立候補し、当選する。災害対策特別委員長を歴任した。
1964年、創価学会が中心となり結成された公明政治連盟(後に公明党に改称)に参加する。党内では重要な役職にはつかなかった。
1965年、第7回参議院議員通常選挙に立候補せず、政界を退く。
創価学会へ復帰後、創価学会会長池田大作を中心とする創価学会の活動とは距離を置いた。後に池田らの仏法説を「内外一致の妙法」、「六師義・外道説」であると批判し、創価学会とは没交渉の状態になり、宗門である日蓮正宗とも縁が薄くなった。
1980年、日蓮正宗僧侶の一部により正信会が結成された際には、その理論的支柱となった。日蓮正宗も創価学会を破門した後には、石田の所説をしばしば援用した。
死去に際し、原稿用紙600枚に及ぶ「池田への諫言」と称する遺言書を残した。
[編集] 人物
- 創価学会への入会後から1年にも満たない時期に、当時の創価学会会長の戸田城聖から教学面の理解の高さを買われ、『折伏教典』の第一章「生命論」の執筆を命じられた[1]。
- 創価学会において、戸田の後を継ぐ次期創価学会会長の声が出るほどのサラブレッド的存在であった[1]。
- 28歳の若さで創価学会理事に就任した[1]。
- 戸田会長の死後、会長職を望めば狙える地位にいたが、週刊文春は記事の中で「誠実だが病弱でありトップに立とうとする欲望が無かった」と評している[2]
[編集] 親族
[編集] 著書
- 『六師義は正理なのでしょうか』
- 『内外一致の妙法 - この有り得べからざるもの』 縁友会、1995年。
- 『現代諸学と仏法 (1-2) 』 日経企画出版局。
[編集] 役職歴
- 創価学会秘書室
- 聖教新聞編集長
- 創価学会男子部第一部隊長
- 創価学会小岩支部長
- 創価学会理事
- 参議院災害対策特別委員長
[編集] 脚注
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