糸山英太郎
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糸山 英太郎(いとやま えいたろう、1942年6月4日 - )は、日本の政治家、実業家。
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[編集] 略歴
- 1942年 佐々木真太郎と道子との間に生まれる。文京区立第三中学校、獨協高等学校を経て日本大学経済学部卒業。
- 1969年 新日本観光株式会社代表取締役に就任。
- 1974年 第10回参議院議員通常選挙で全国区から自民党公認で立候補し初当選。
- 1981年 相模工業大学(現・湘南工科大学)学長・理事長に就任。
- 1983年 第37回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し荒船清十郎の地盤を引き継ぐ形で当選。
- 1996年 衆議院議員を辞職し、政界引退。湘南工科大学学長・理事長に就任。
- 1998年 湘南工科大学名誉博士号取得。
- 2002年 日本航空の特別顧問に就任。
- 2004年 湘南工科大学名誉総長、および名誉教授に就任。
- 2005年 湘南工科大学理事長・総長に就任。
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
東京都生まれ。ゴルフ場経営で財を築いた実業家で新日本観光興業(現:新日本観光)の創立者・佐々木真太郎(1969年には所得日本一となった)と糸山道子との間に出来た子。幼少時は虚弱児で、4歳の時には疫痢で死線をさまよった。
東京府豊島師範学校附属幼稚園を経て、5歳のとき療養で藤沢市に転居。男の子についていけないことを危惧した母の判断により、私立の女子小学校に入れられたが、女の子ばかりの学校に適応できず、4か月で私立湘南学園小学校に転校。ここは男子校だったが、虚弱児童であるためにいじめを受けた。3年生のとき脊椎カリエスを病み、出席日数不足で落第。かつての同級生に遅れを取ることが我慢できず、藤沢市立藤沢小学校に転校。コルセットが取れなかったため、ここでもいじめを受けた。
6年生の夏、受験のことを考えて東京都渋谷区立臨川小学校に転校。ここでもいじめを受けそうになったが、1年遅れで体が大きかったことから番長を投げ倒し、新しい番長となった。このころ自暴自棄になり、慶應受験を断念して渋谷区立広尾中学校に入学。喧嘩と恐喝、酒と煙草に明け暮れる不良少年となり、自主退学や放校を繰り返し、私立正則中学校(港区芝)や文京区立第三中学校を転々とする。
遊興費欲しさにポルノ写真を売ったのが人生最初のビジネスだったが、売りつけた相手が刑事だったために警視庁富坂署へ連行されたこともある[1]。都立の高校受験に失敗して獨協高等学校に入学。ここでもたびたび暴力事件を起こして警察の世話になり、2年生のときに父親から勘当を受ける。この時期、特に学習院に通う良家の子弟を目の敵にしていたという。
19歳で日本大学経済学部に入学。1962年、高校の後輩を助けてリンチを受けたことへの復讐で恐喝事件を起こし、警視庁大塚署に告訴されたが、検事の温情により起訴を免れる。
この事件を機に暴力の世界から足を洗い、1962年に大学を中退して日比谷商事に就職、中古外車のセールスマンとなる(大学については、のち1973年に卒業資格を取得)。1年間で77台の車を売ったのは、当時の業界の新記録だった[2]。
入社1年目で独立したが、顧客の裏切りで35万円の穴を作り、父に泣きついたことから新日本観光に入社することになり、半年間のキャディー研修生活を経て、ゴルフ場の運営で実績を上げる。1968年には同社常務取締役関西支社長に昇進。その後、笹川良一の姪で笹川了平の娘である桃子夫人と結婚して資金的にも恵まれるようになり、政界、投資にも進出していった。
[編集] 政治家として
後の総理大臣・中曽根康弘の秘書を経て、1974年、石原慎太郎の後押しにより自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区出馬、32歳で参議院議員に初当選するが、選挙期間中から金権選挙振りがマスコミの耳目を集めた。更に当選直後に大規模な選挙違反が発覚、選対本部長を始め経営していた会社の社員・ギャンブル関係者など142人が逮捕され、1287人が検挙されるという当時としては最大規模の選挙違反事件に発展した(特に義父の笹川了平は初犯だったにも拘らず、この選挙違反で実刑判決を受けた)。
任期が満了した1980年の参院選には、一時期埼玉県選挙区からの出馬を検討していたが、宇野亨の選挙違反事件・浜田幸一の金銭スキャンダルが問題となっていたこともあって出馬を断念。1983年の第37回衆議院議員総選挙から衆議院議員に転身、一度の落選を挟んで3回当選。1996年、任期途中に辞職した。「井上馨以来の貪官汚吏の頭目」と評されたことがある。
[編集] 政界引退後
新日本観光等の会長職に就いており、東京都港区にある自社ビルのザ・イトヤマタワーには、自らも居住する。糸山政経塾を主宰し湘南工科大学の名誉総長及び名誉教授も務めるほか、国内最大手の航空会社である日本航空の個人筆頭株主であり、エグゼクティブアドバイザーでもある。東京都知事の石原慎太郎とは親友である。
2004年6月、長男・太一朗を新日本観光の代表取締役副社長に迎えた。
[編集] エピソード
- 1973年の幻のローリング・ストーンズ来日公演をプロデュースした影の主催者であった。
- 政治家に多額のカネをばら撒いたと自ら著書の中で告白している。不透明なカネを受け取ったのは自民党のみならず、共産党を除く野党すべてに及ぶ。
- 宇野宗佑政権で国対副委員長を務めた。宇野が女性問題などを理由に辞意をもらした際、酔った上での発言にもかかわらず、それを記者団に公表し、宇野退陣の直接のきっかけを作った。宇野の発言は酔った上での愚痴めいたもので、何の政治的配慮もなしに首相の発言を公表したことは、橋本龍太郎幹事長や中曽根元首相、竹下登前首相ら実力者が、宇野翻意に動いている最中だったこと等を理由に、党内から批判を受けた。
- 世界で154番目(日本で5番目)の資産を有する大富豪とアメリカの経済誌フォーブスは発表している(2006年版・4200億円)。
- 中山製鋼所を舞台にした仕手戦では、大物相場師の近藤信男(近藤紡績)を相手に一度は苦境に陥るが、父親や笹川の手を借りて何とか乗り切った。
- 1986年6月17日には、指定暴力団山口組後藤組系良知総業の舎弟頭に襲撃される。発端は、1985年12月20日に開かれた「新日本フォーラム」とされる。その後、後藤忠政組長、野村秋介とは和解。その後、後藤組長は、糸山の様々な依頼を処理していくようになる。[要出典]
- 2003年7月12日頃、ザ・イトヤマタワー18階の自宅で、元暴力団組長から紹介された16歳の少女に15万円の現金を渡して買春、このことが警察に露見し元暴力団組長ら3人が児童福祉法違反で逮捕された。しかし買春相手が18歳未満だとは知らされなかったとして、児童福祉法違反に問われることはなかった。このとき、事件もみ消しに暗躍したのが、五代目山口組若頭補佐(当時)だった後藤忠政・後藤組組長であったとされている。[要出典]
- 2006年、糸山英太郎が会長兼社長を務めるゴルフ場運営会社がスポンサーを務めた「ゴルフスーパーバトル」という番組を放映する際に、糸山英太郎に対し幹部社員が挨拶していなかったとの理由により、幹部社員に対しテレビ東京が戒告などの処分を行った。これについては、糸山英太郎はホームページでテレビ東京の対応に感謝すると共に、更にテレビ東京株を買い増しして影響力を強めていく意向を述べたが、一方で大株主が人事に介入するのはおかしいとしてテレビ東京側への非難の声も上がっている。
- テレビ東京の大株主でも知られている(株主第2位。ちなみに株主第1位は日本経済新聞社)。2007年7月6日に業績の悪化を理由にすべての株を売却すると表明していたが、実際には大量売却はしていないようで、2007年11月14日現在で同社の株を13.58%(2,803,100株)所有していることが関東財務局に提出した大量保有報告書から分かっている。また、同社株を今後も買い増す意向を示している。
[編集] 著書
[編集] 作詞した楽曲
- 太陽への挑戦(歌:にしきのあきら)

