辻政信

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辻 政信
つじ まさのぶ
Tuji Masanobu.jpg
辻 政信
渾名 「作戦の神様」
生誕 1902年10月11日
日本の旗 日本 石川県江沼郡東谷奥村今立
死没 1961年?[注釈 1]
ラオスの旗 ラオス?
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1924 - 1945
最終階級 陸軍大佐
除隊後 衆議院議員
参議院議員
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日本の旗 日本の政治家
辻 政信
つじ まさのぶ
Memorial statue of Masanobu Tsuji.JPG
石川県加賀市の「辻政信之碑」
所属政党 自由党→)
自由民主党→)
無所属クラブ→)
第二院クラブ→)
無所属
親族 長女・堀内英子
娘婿・堀内光雄

選挙区 全国区
当選回数 1回
任期 1959年6月2日 - 1965年6月1日[注釈 2]

選挙区 石川県第1区
当選回数 4回
任期 1952年10月2日 - 1959年4月30日
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辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年に行方不明)は、日本陸軍軍人政治家

ノモンハン事件太平洋戦争中のマレー作戦ポートモレスビー作戦ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。シンガポール華僑虐殺事件バターン死の行進などの戦争犯罪への関与も指摘されている。軍人としての最終階級陸軍大佐

敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち、戦記を発表しベストセラーとなった。政治家に転身し衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任した。参議院議員在任中の1961年4月に視察先のラオスで行方不明となり、1968年7月20日に死亡宣告がなされた。

生涯[編集]

幼年学校、士官学校と陸軍大学校[編集]

石川県江沼郡東谷奥村今立(現在の加賀市山中温泉)で4人兄弟の3男として生まれた。父の亀吉は炭焼きで生計を立てており、集落の中でも比較的裕福な家庭であった。山中高等小学校から苦学の末、1918年名古屋陸軍地方幼年学校に補欠で入学し首席卒業した。陸軍中央幼年学校では西竹一らが同期にあたる。陸幼を経て陸軍士官学校 (陸士)(36期) に入学し、予科二年間を終了後には士官候補生として金沢に駐屯する歩兵第7連隊に6ヶ月配属され、その後本科へと進み1924年(大正13年)7月に陸士を卒業した。幼年学校と同様に士官学校も首席で卒業しており、恩賜の銀時計を拝領している。見習士官として再び歩兵第7連隊に配属され、三ヵ月後に少尉に任官した。1927年中尉に昇進し、翌年に陸軍大学校(43期)に入学、三年間の学務を経て1931年11月に陸大を卒業した。卒業時の成績は首席の天野正一と次席の島村矩康に続く3番であり、恩賜の軍刀を拝領している。陸大での同期には秩父宮雍仁親王がいる。

辻が金沢の第7連隊に戻ってからしばらくして、中華民国上海において第一次上海事変が発生した。第9師団も動員され、辻は第7連隊第二中隊長として上海に出征、負傷。翌年5月に上海停戦協定が調印され部隊が日本に帰還した後には、師団を代表して実戦の様子を偕行社で演説し、新聞でも彼の名が報じられている。同年9月には参謀本部付となり、第一課に配属された。

参謀本部への転出と陸軍士官学校事件[編集]

編成および動員を担当する第一課において当時課長を務めていたのは東條英機大佐であった。辻は翌年8月に大尉に昇進し12月に第一部第三課に転籍した。1934年9月になると、士官学校の幹事(副校長)に転じていた東條の誘いを受けて本科の生徒隊中隊長に任命された。この人事は栄転であるモスクワ駐在武官職を断っての決断であり、また老大尉が多い生徒隊中隊長を陸大卒のいわゆる天保銭組が務めるのは前例がなかった。澄宮(後の三笠宮崇仁親王)が陸士本科に入学する予定であったことが関係しているとみられる。実際に澄宮は辻が中隊長を務める第一中隊に配属された。辻は演習で自ら生徒とともに泥まみれになるなど指導に力を入れたため生徒間での人気は非常に高かった[1]

当時の士官学校は1932年に発生した五・一五事件の影響もあって、軍部による国家革新を目指す国家社会主義思想が広まっていた。そのリーダー格であった第二中隊の武藤与一候補生は、皇道派に属する陸大の村中孝次大尉や磯部浅一一等主計とも接触しており、さらに陸士第一中隊の佐藤勝朗候補生にも声をかけた。佐藤から報告を受けた辻は生徒隊長の北野憲造に報告した上で、佐藤には内偵を命じた。佐藤、武藤と数名の候補生は磯部、西田税、村中らを訪問し、しばらくして村中大尉らは青年将校と士官学校生徒によるクーデター計画を打ち明けた。この情報を得た辻は参謀本部の片倉衷少佐および憲兵司令部塚本誠大尉に通報した。さらに辻は塚本とともに陸軍次官橋本虎之助中将の官舎へとおもむき、容疑者の摘発を強く主張した。

憲兵隊は村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、片岡太郎中尉らを逮捕し、佐藤、武藤候補生らも軍法会議にかけられることになった。辻がスパイとして利用した佐藤を含め、陸士生徒5名が退学処分をうけ、青年将校らには不起訴、停職処分がくだされた。辻には重禁錮30日の処分がくだされ、その後水戸連隊付となった[2]

村中らのクーデター計画は具体性に乏しいものであったことが後の憲兵隊による調査で判明した。村中と磯部はこの事件が永田鉄山軍務局長、辻らによるでっちあげであると主張し、辻、片倉、塚本を誣告罪で告訴した。さらに2人は事件の経緯を書いた「粛軍に関する意見書」を配布したことで免官される。この陸軍士官学校事件、真崎甚三郎大将の教育総監罷免、相沢事件を経て統制派と皇道派の対立は頂点に達し二・二六事件の発生につながることになった[2]

関東軍への転出[編集]

二・二六事件後の1936年4月に辻は片倉衷少佐の斡旋によって関東軍参謀部へと転出した。兵站を担当する第三課に配属され、満州事変の経過や戦術を詳細に解析している。協和会の基本理念を固めるために上京した際には、当時参謀本部戦争指導課長を務めていた石原莞爾と面会、満蒙についての理念を石原から教示された。石原との出会いは辻にとって衝撃的だったようで、これ以降、生涯にわたる石原崇拝が始まり、辻は石原のことを「導師」と呼び人生最大の尊敬を向けることになる。1936年9月、植田謙吉大将(関東軍司令官)と板垣征四郎中将(関東軍参謀長)の名で、「満州帝国協和会の根本精神」なる声明がパンフレットとして、石原信奉者であった辻政信大尉(関東軍参謀)の筆により出された。法令により直接に規定する根拠がないのに協和会を共産党のように政府をも指導する機関と規定し、さらに関東軍司令官を“哲人”と書き、大問題となった。これに抗議して当時の総務庁長 大達茂雄も辞任し、関東軍もパンフレットを必死に回収した騒動があった[3]

1937年5月には満州事変後に奉天郊外の寺に安置されたまま弔われていなかった張作霖の葬儀を協和会の名で執り行っている。同年7月7日に発生した盧溝橋事件をきっかけとして中華民国国軍支那駐屯軍との間に戦闘が発生すると、辻は関東軍の東條参謀長や片倉高級参謀らに同調して戦線拡大を主張した。この際作戦主任の池田純久中佐に対しては、自身自らが爆撃機にのって中国軍を爆撃すると申し出、この独断専行に驚いた池田がそのようなことをすれば戦闘機を用いてお前の飛行機を撃ち落とすと話した為これを断念している。7月末には支那駐屯軍への転出を自薦し、8月に新たに編成された北支那方面軍第一課の参謀となったが、ここで高級参謀を務めていた下山琢磨大佐は以前に辻とトラブルを起こしており、第5師団への一時的な転出を経て関東軍作戦参謀に栄転した。この南京参謀時代、上下を問わず不良軍人狩りを実施し綱紀粛正に努め、兵士や平民から「今様水戸黄門」と評されていた。また、汪兆銘政権への秘密工作を実行した。

ノモンハン事件[編集]

1939年昭和14年)4月に「満ソ国境紛争処理要綱」が布告された。これは作戦参謀の辻が起案し関東軍司令官植田謙吉大将が通達したものであった。当時国境線が明確に決定されていなかった地点で現地司令官が自主的に国境線を認定し衝突が発生した際の兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。「侵さず侵しめざることを満州防衛の根本とする」、「万一侵されたら機を失せず膺懲する」などの記述を辻は拡大解釈し利用することになった[4]。同年5月11日、外蒙古満州国が共に領有を主張していたハルハ河東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。ハイラルに駐屯する第23師団は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていたソビエト連邦でもゲオルギー・ジューコフ中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は電報で中止を指令したが、辻はこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに陸軍刑法第37条の擅権の罪に該当する重罪であった。[独自研究?]紛争はジューコフによる攻勢によってソ連軍優位に進み、8月31日に日本軍は係争地域から撤退、9月16日に日ソ間で停戦協定が成立した。

ノモンハン事件の和平交渉は1939年昭和14年)12月7日から25日までソ連のチタで、続いて翌1940年昭和15年)1月7日から30日まではハルビンで行われた。1月30日には全ての交渉が終わり署名を残すのみとなっていたが、ソ連側は合意を覆して1月30日に帰国してしまった。この件に関して、辻が白系ロシア人を使嗾してソ連代表と外蒙古代表の暗殺を示唆したとの証言が存在する。当時、満州国の代表メンバーの補佐官として加わっていた北川四郎は、当初「ロシア人は全く信用ができぬ」と憤慨していたが、1978年昭和53年)に亀山代表から、ロシア人を調停に署名したら殺すぞと辻が脅したことが原因であると聞いている[5]。戦後、辻は「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである」、「外交もまた、負けたと思うものが、負けるのである」と記している[6]

ノモンハン事件では第23師団捜索隊長井置栄一中佐や歩兵第七十二連隊長酒井美喜雄大佐など、辻によって自殺を強要された将校がいた[7]。辻は捕虜交換によって戻ってきた将校たちにも自殺を強要した[8][9][要高次出典]

ノモンハン事件において辻とともに関東軍作戦課を取り仕切った主任参謀で服部卓四郎中佐は、一旦は歩兵学校付および教育総監部付に左遷されたが、1940年昭和15年)10月に参謀本部に戻り作戦班長に任命され、翌年には作戦課長に昇進した。独ソが開戦した翌々日の1941年昭和16年)6月24日付で参謀本部部員として返り咲いた。

ノモンハン事件後[編集]

辻が課長を務める台湾第82部隊第2課は、開戦前「これだけ読めば戦は勝てる」(1941年)という小冊子を作成した。この小冊子は後に大本営から各方面に配布された。この小冊子は南方戦の具体的な戦闘のノウハウを記述したもので緒戦では有効に機能した。しかし、戦意を高揚させるために相手側を単純に侮る言葉も多く、「将校は西洋人で下士官は大部分が土人であるから、軍隊の上下の精神的団結は全く零だ」「戦は勝ちだ。飛行機や戦車や自動車や大砲の数は支那軍より遥かに多いから注意しなければならぬが、旧式のものが多いのみならず折角の武器を使うものが弱兵だから役には立たぬ、従って夜襲は彼等の一番恐れる所である」というような記述もあった。

ノモンハン事件の頃は北進論者であった辻であるが、この時期は南進論者に豹変していた。田々宮英太郎によると、1941年秋、日米首脳の直接会談によって戦争回避をはかった近衛文麿首相の爆殺を計画したが、直接会談はおこなわれず、近衛内閣も退陣したため、爆殺計画は実行されなかった。この時期になると辻は石原の敵対者であった首相の東條英機に接近している。

マレー作戦[編集]

この時の参謀本部作戦部長は田中新一が、作戦課長は服部卓四郎が務めており、辻はそのもとで作戦課兵站班長に任命された。服部の前に作戦課長を務めていた土居明夫大佐は、辻の呼び戻しを要求する服部作戦班長(当時)と対立し、左遷されている。

太平洋戦争開戦後は、マレー作戦第5師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行うなど蛮勇を発揮した。作戦参謀としての任務を放棄し第一線で命令系統を無視して指揮をとることに対して、第25軍司令官山下奉文中将はマレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判している。また、市川支隊一千人をタイ国軍に変装させてクアラカンサルまで大突破を図るという作戦に関与したが、この作戦は失敗した。

本作戦において辻は、紀元節天長節陸軍記念日などの記念日に拠点を占領する日が来るような実情を無視した作戦計画を立て作戦部隊の混乱を招いている[注釈 3]

シンガポールを占領した日本軍は、市内の華僑20万人の一斉検問をおこない、この中から抗日分子であると判断した者を大量に処刑した。このシンガポール華僑虐殺事件を巡っては、東京裁判においては6000人の華僑が殺害されたとされた。当時警備本部で嘱託として勤務していた篠崎護は、この命令は辻が立案したものであると証言している。また、この虐殺事件が戦犯裁判で問題になったとき、責任の所在がはっきりせず、裁判関係者は困惑した。連合軍に捕えられて、その罪を問われた人たちは、この虐殺は辻の起案した軍命令によるものであり、 シンガポール陥落直後辻が乗り込んで来て処刑を迫ったので、やむをえず従ったものだと辻に責任を向ける弁明したが裁判でその主張が採用されることはなかった。辻は、敗戦と共にバンコクで姿を消したまま行方不明であった。辻さえ姿を現わして、自身の主張に沿った証言をしてくれれば、助かるのにと、被告をはじめその家族の者はひたすら願った。しかし、辻は遂に現われず、無罪を立証することができないままに、多くの軍人が「責任者」として死刑判決を受ける。辻が潜伏から再び姿を現わしたときは多くの日本軍の士官下士官が処刑された後だった[10]

虐殺の目撃者で後に国会議員となった堀昌雄などによって、辻の失踪後に国会においてシンガポール華僑虐殺事件について論議されている。

マレー作戦終了後の1942年3月に辻は東京に呼び戻され作戦班長に栄転した。

フィリピン[編集]

フィリピン戦線を担当していた本間雅晴中将率いる第14軍は、マニラ占領後にバターン半島にこもる米比軍の追撃をおこなった。しかしジャングルの悪環境や情報不足によって攻撃は一時頓挫し、東京の大本営では一部参謀を左遷し、さらに辻を戦闘指導の名目で派遣した。4月3日に開始された第二次総攻撃によって、米比軍は4月9日に降伏し、コレヒドール島を残すのみとなった。

4月9日に米比軍指揮官エドワード・P・キング中将が降伏を部隊に命じて以降、米比軍兵士が続々と投降し始めたが、そのような中、聯隊や兵団に「米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する」との命令が第65旅団司令部から電話で伝達された。この命令を信じ、実行に移した者もいた。ところが大本営はこのような命令を下達しておらず、本間中将も全く関知していなかった。当時、歩兵第141連隊長であった今井武夫は、第65旅団司令部の高級参謀松永梅一中佐からその命令を電話で伝えられた。松永の談によると、辻が口頭でその命令を伝達して歩いていたとのことである。[11]

ポートモレスビー[編集]

辻政信はポートモレスビー作戦で戦略研究命令を受けダバオに赴く。彼が大本営の決定前に独断で攻略命令にすり変えたため作戦が実行されたとの説もある[12] 。この作戦の無謀さは多くの人が指摘していたが、結果的に数多くの犠牲者を出しながら日本軍は何ら成果を残さないまま転進した。

ガダルカナル島の戦い[編集]

ガダルカナル島の戦いでも実情を無視した攻撃を強行し、辻の責任であるとする説によると、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の川口清健少将と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口を罷免させようとした。辻が攻撃しようとしていた場所は、既に川口が一度総攻撃を行った場所であって、再度の総攻撃でも失敗する確率はきわめて高いと思われた。しかも、総攻撃の日時は、海軍の都合で夜間に艦隊が島の周辺海域に突入できる月齢と一致させるために、戦闘準備には無理が生じ、ジャングルの中を通る急峻な道路によって大砲などもほとんど輸送できず、結局小銃での攻撃に頼るのみであった。この条件では作戦の失敗も当然であるが、戦後辻はこの作戦の失敗を川口側に問い、自著『ガダルカナル』で「K少将」と川口の名を伏せ、専ら自らの主張に沿った描写をした。辻の主張に怒った川口は、当時国会議員となっていた辻の地元の石川県で講演会を開いたものの、講演会は辻の賛同者達により怒号とヤジに包まれ失敗した[13]

アメリカ軍が占領したヘンダーソン飛行場への総攻撃失敗を体験した兵士達は、辻に報告を行い、攻撃方法の改善策を進言した。彼等は辻ならば直ぐに全軍に情報を伝え迅速に対応策を練るだろうと期待していたが、辻は同期の多数の指揮官の戦死などの報告を聞き、呆然としたまま迅速な対応をとることが出来なかった。結局ガダルカナル戦で辻は、重度のマラリアに罹り駆逐艦で戦いの途中撤退している。

中支戦線、ビルマ戦線[編集]

ガタルカナル以降は、中国大陸、ビルマを転戦する。また戦局が不利になりはじめたこの時期に対蒋介石政権講和を東條に進言、辻自らによる重慶乗り込み講和交渉しようとしたが陸軍首脳の反対にあい講和は失敗した。

ビルマにおいては拉孟・騰越の戦いに参陣した。「軍は龍稜方面の敵に対し攻勢を企図しあり、『バーモ』(拉孟)『ナンカン』地区の防衛は未完なり、水上少将は『ミイトキーナ』を死守すべし」とミートキーナ守備隊水上源蔵少将に死守命令を発令。水上少将は独自の判断で「ミートキーナ守備隊の残存しある将兵は南方へ転進を命ず」と部隊に脱出を命じ、自分は部隊の渡河を見届けてから責任をとり自決した。その結果、水上部隊の一部は包囲網の突破に成功して生還したが、辻は状況報告をしようとした水上の副官を「死守せよと言ったのに、おめおめ生きて帰りおって」とすさまじい勢いで殴打した。あまりにも激しい暴力で居合わせた師団長が止めに入るほどだった。

既に第15軍が壊滅して劣勢の日本軍であったが、15倍の英印軍、および米式装備の中国軍に対する遅滞戦闘を実施した。これにより、更に損害は増大した。この作戦以後インド国民義勇軍は作戦地図より消滅。大部分のビルマ方面軍はタイのシャン高原付近へ敗走し終戦を迎える。辻自身は作戦指揮中、寝返ったビルマ軍の襲撃を受け負傷、後送される。

終戦[編集]

バンコクで敗戦を迎え、まもなく進駐してきたイギリス軍は辻の徹底捜索をおこなったが、辻は当初自決を覚悟したが、やがて「アジアの中で民族の再建を図るために、むしろ生きてアジアに俸する」決意をする。そして僧侶に変装し、さらに自殺偽装をして中国への亡命に成功する。この頃、ウィリアム・スティーブンソンの著作『革命の王』(原題:The Revolutionary King)によると、当時のタイ国王ラーマ8世の怪死事件に関与していたとされている。1946年昭和21年)9月にタイ王国当時の国王ラーマ8世の不審死はの暴発に因るものであると片付けられたが、当時の捜査に参加したイギリスの作家ウィリアム・スティーブンソンは辻が国王を殺害したという証拠を提示し、確信を持っていた。ただし、辻の自伝『潜行三千里』では、1945年にタイを脱出し、1946年6月9日時点では中国にいたとしている。

中国では連合国であった国民党政権に匿われ、しかも国民党政権の国防部勤務という肩書きを与えられた。これは蒋介石特務機関である軍統(軍事委員会調査統計局)のボス、戴笠の家族を過去に助けた経緯から、国民党政権が辻へかなりの親近感をもっていたためだといわれる。また蒋介石自身も、蒋の母が病死した際の慰霊祭を辻が以前におこなったことから辻に非常な好意をもっていた。

国内潜伏[編集]

やがて始まった中国の国共内戦が国民党に不利になりはじめたことから中国にとどまることにも危機を感じ、1948年に上海経由で日本に帰国し、戦犯で訴追されるのを避けて国内に潜伏する。戦友、寺院、右翼団体に匿われたり、偽名で炭鉱労働者をしたりと国内を転々とし、作家の吉川英治から資金援助を受けたことがある。

辻は帰国直後(1948年春)は佐賀県の小城炭鉱で鉱夫をしたり、全国の日蓮宗の寺に身を寄せていた[14]1949年昭和24年)には渡辺渡児玉誉士夫のもとに身を寄せている。その後1950年昭和25年)6月に台湾経由でインドシナに渡り中国国民党のための工作を行ったが、工作は一度きりで断った[14]

作家として[編集]

1950年に辻は戦犯指定から逃れ、再び世に姿を現すことになった。逃走潜伏中の記録「潜行三千里」を発表して同年度のベストセラーとなる。同時に「十五対一」もベストテン入りしている。

旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。著書を次々出版しベストセラー作家としての知名度を確立した。

辻はその後、印税などで裕福になっていく。アメリカの束縛から離れた辻は『第三次世界大戦アメリカ必負論』とそれに基づくアメリカ駐在軍全面撤退論を唱えはじめる。アメリカは公職追放令違反で辻を追及しようとしたが、占領が終わろうとしていた時期だったためか具体的な対応を取らなかった[14]

政治家として[編集]

追放解除後の1952年旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党鳩山一郎派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。

政治家になった辻は1955年昭和30年)にソ連に視察旅行に出かける。このとき辻はソ連のさまざまな人と会話をして、ソ連の実情を看破した。また、ノモンハン事件で対決したジューコフと辻は極秘に会談し「アメリカが日本に小笠原列島と沖縄を返還したら、ソ連は千島と樺太を返すだろう」などの内容を話し合った。辻は次のソ連の政権はジューコフとフルシチョフで争われるだろうと予想したが、実際にそうなり、フルシチョフが政権を握った[14]

衆議院議員4期目の途中だった1959年岸信介攻撃で自民党を除名されて議員を辞職。参議院議員全国区)に鞍替えして第3位で当選した。

失踪[編集]

1961年、辻は参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した[15]。辻は北ベトナムホー・チ・ミンに会うことを望んでいた[16]。予定では1ヶ月程度の日程であったが5月半ばになっても帰国しないため、家族の依頼により外務省は現地公館に対して調査を指令している。辻はラオス入りを支援した旧日本軍兵士・現地軍将校が4月21日に目撃したのを最後に消息を絶った[17]。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオス北部のジャール平原へ単身向かったことが判明している[15]

失踪の真相を巡って様々な説が主張された。虎か毒蛇に襲われ死亡した[18]、アジアの政治に介入するのを恐れたCIAが暗殺した[19]、ベトナムで反共義勇軍で戦った[20]キューバフィデル・カストロ首相の支援工作をしている[19]エジプトナセル大統領の軍事顧問となった、などがある。辻の失踪については、1962年5月4日の参議院議院運営委員会で報告・議論がなされている[21]

辻がラオスで消息を絶ってから9年後の1970年4月13日付の朝日新聞で辻の消息に関する記事が掲載された[22]。従軍カメラマンの楊光宇[23]による証言によると、1961年4月に辻はパテート・ラーオに捕らえられ、「中国語なら少しわかる」という辻の申し出により、中立派軍からカンカイの司令部にいた従軍カメラマン楊が通訳にかり出された[24]

6月頃に楊は、脱走しビエンチャンへ向かうのに協力して欲しいと辻から報酬を引き換えに持ちかけられたが、ほどなく軍の命令により北京へ写真の研修に向かい、1962年3月にラオスへ戻った[25]。カンカイには既に辻の姿はなく、パテート・ラーオの司令官や兵士からは「辻は逃げた」、「楊が北京に向ってから1ヶ月ほど経って姿が見えなくなった」などと言われた[25]。楊は「結局、1965年まで私は中立派軍にいました。辻さんの行方はついにわかりませんでした。これは私の意見ですが、変装したということが、スパイ容疑を決定的にしたようです。ひそかに処刑されたのだ、と思います」と述べている[26]。ラオスで現地調査を行った三木公平は、辻は僧衣をつけていたことや軍歴・経歴からスパイと疑われ、フランス軍将校の関与により処刑されたという証言を得ている[27]

参議院議員としての議席は1965年6月の任期切れまで保たれていた。この間、1962年に無所属クラブは参議院同志会(緑風会より改称)と合同して第二院クラブとなったため、辻は不在のまま二院クラブ所属になった。1964年、旧同志会が二院クラブを離脱して緑風会に戻ると、辻はどちらの会派にも入れず、便宜上各派に属しない議員(純無所属)とされた。

その後、家族の失踪宣告請求により、1969年6月28日東京家庭裁判所は1968年7月20日付の死亡宣告をおこなった。1979年には郷里に辻の遺徳を顕彰した銅像が建立されている。

CIA極秘文書[編集]

2005年平成17年)に公開された、米中央情報局(CIA)極秘文書には『服部卓四郎ファイル』や『辻政信ファイル』が存在する。有馬哲夫はファイル解析の結果、辻の『潜行三千里』の記述は「おおむね事実」であるという[14]。辻の大陸での行動は中国国民党からの報告がCIA文書となって残っているので、辻の活動はその文書から確認できるという[28]

アメリカ国立公文書館で2005~2006年に解禁されたCIAの機密文書によると、CIAを始めとするアメリカの情報機関は戦後、辻らに接近したという。しかし、辻を「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値である」「機会があるならばためらいもせずに第三次世界大戦を起こすような男」(1954年の文書)と酷評している[29]

吉田政権へのクーデター話は、服部卓四郎ファイルに入っている。クーデターの指導者は服部卓四郎で主要メンバーは児玉誉士夫、天野辰夫、本間憲一郎、井本熊男らであるという。辻はグループを説得し、倒すべき敵は社会党であるとした。グループはクーデターの代わりに小規模の暗殺を行うことも計画し、そのターゲットは広川弘禅であるとした。ただ、このクーデターの話はファイルで「信頼性を判断できない情報源からもたらされた信憑性を判断できない情報」であると評価されている。有馬哲夫は、この情報が中国からもたらされている事実もふまえ、中国との繋がりもある辻の一種のブラフではないかと考えている[30]

人物像[編集]

自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言したと伝えられる。このような態度に出られたのは他に石原莞爾のみと言われ、言われた側もその意見に従わざるを得ない不思議な気迫と雰囲気を持っていたという[31]。高級参謀は通常現地視察を行うことは殆どないが、辻は積極的に(最前線も厭わず)現場に赴き現場の人間と会話を交わしている。このようなフットワークの軽さによって、接した人に感銘を与え、親近感や信頼を勝ち得ることに成功した[32]。また、ノモンハンにおいて負傷した兵士を置き去りにして退却する友軍を叱咤し、自ら最前線に進み負傷した兵士を背負って戻ってきた[33]ともいう。自著『ノモンハン』において辻は、連隊長・須見新一郎が第一線でビールを飲んでいるのを目撃した際に義憤にかられて階級を無視して連隊長を怒鳴りつけたと記述している[34]

杉森久英は「辻は新しい部署に配属されると、まず経理部に出かけて、参謀長以下幕僚たちの自動車の使用伝票と料亭の支払伝票を調べ上げた。これで弱点を握られた上官は、辻に頭が上がらなくなり、彼の横暴を黙認する結果となった」と述べている[35]

平等主義に徹し、正義感が強かったとされる。1942年昭和17年)11月、ガダルカナルの戦いに関連してトラック島泊地に停泊していた連合艦隊旗艦の戦艦大和」と山本五十六連合艦隊司令長官を訪れたとき、物資統制にもかかわらず山海の珍味が食卓に並んでいたのを見て、国民が窮しているときに、軍人のみが贅沢をしていることに憤り声を荒立て抗議し、対して海軍側は「客人であるので特別の歓待をしたまでである」と宥めるのにやっとであった。

評価[編集]

毀誉褒貶がきわめて大きな人物で、その歴史的評価は正負真っ向に分かれている。

戦時中、マレー作戦で辻は新聞記者相手の広報も担当し、記者達は辻がよどみなく語る名作戦の数々に感嘆し、辻を「作戦の神様」と謳った。陸軍士官学校事件ノモンハン事件シンガポール華僑虐殺事件バターン死の行進ポートモレスビー攻略作戦ガダルカナル島の戦いにおける辻のスタンドプレーは特に有名であり、その才能と行動力を高く評価された。秦郁彦は、作戦参謀としての辻について、多くの論者と同じようにノモンハン事件については厳しく批判しつつ、マレー作戦については高評価、バターン半島作戦についても一定の評価をしている[36]

反面、戦後、GHQから「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」と危険視された。

辻を慕い、尊敬し、支持する人々が多くいたことも事実であり[37]、戦後、加賀市には辻の威徳を顕彰するために銅像が建立されている。

一方、批判的評価をする者もいる。例えば牟田口廉也‎については人格、能力においてほぼ全面的否定の評価が多いが、半藤一利は、「(その後、自己弁護が続くにしても)少なくとも牟田口は自分の責任を口にしていたが、辻は自分の責任を全く考えていない」と二人を比べている。半藤は戦後、議員となった辻を取材した際、目の前に「絶対悪というものが出現存在する気配にとらわれた」と感想を記している[38]

著書[編集]

  • 『十五対一』(酣灯社、1950年)
  • 『1960年』(1956年)、『ズバリ直言』(1959年)『世界の火薬庫をのぞく』(1957年 全て東都書房
  • 『亜細亜の共感』、『自衛中立』(共に亜東書房、1950年・1952年)
  • 『ガダルカナル』(養徳社、1950年)
  • 『この日本を』(協同出版、1953年)
  • 『これでよいのか』(有紀書房、1959年)
  • 『シンガポール』(東西南北社、1952年)
  • 『潜行三千里』(毎日新聞社、1950年 2008年に毎日ワンズより新装再版)
  • 『ノモンハン秘史』 - 家族に宛てた手記を公開(毎日ワンズ、2009年)

手記[編集]

週刊新潮』2006年2月23日号で、辻が失踪直前に次男に託した手記の存在が明らかになった。ノート6冊に及ぶ手記には、陸軍参謀本部や関東軍での生活など自らの半生が詳細に綴られているといい、研究が待たれている。手記は『ノモンハン秘史』(毎日ワンズ、2009年)として刊行。

辻が登場する作品[編集]

  • 安彦良和の長編漫画『虹色のトロツキー』では、ノモンハン事件をきっかけに辻が日ソの全面戦争を目論み、またこの事件前に、対ソ戦争計画について、辻の師匠の石原莞爾が辻と様々な謀議を重ねていたことが描かれている。

注釈[編集]

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  1. ^ 東京家庭裁判所は、1968年7月20日付の死亡宣告を行っている。
  2. ^ 失踪扱いのため、任期満了まで参議院議員として在籍したとして扱われている。
  3. ^ 逓信省は、「シンガポール陥落」の記念切手を1942年2月16日に発行しているが、紀元節(2月11日)に陥落することを期待して切手が準備されていた(山口修 『日本記念切手物語戦前編』 日本郵趣出版、1985年

脚注[編集]

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  1. ^ 高宮太平 『軍国太平記』 中央公論2010年ISBN 4122051118
  2. ^ a b 高橋正衛 『二・二六事件―「昭和維新」の思想と行動』 中央公論1994年ISBN 4122051118
  3. ^ 古海忠之 『忘れ得ぬ満州国』 経済往来社、1978年、147頁。
  4. ^ 半藤一利 『昭和陸海軍の失敗―彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか』 文藝春秋2007年ISBN 4166606107
  5. ^ 北川四郎 『ノモンハン 元満州国外交官の証言』 現代史出版社1979年
  6. ^ 辻政信 『ノモンハン』 亜東書房1950年
  7. ^ 村上兵衛「地獄からの使者辻政信」、『中央公論』、中央公論新社1956年5月
  8. ^ 児島襄 『参謀(上)』 文藝春秋1975年、54頁。ISBN 4167141035
  9. ^ 田中克彦 『ノモンハン戦争 モンゴルと満州国』 岩波新書2009年
  10. ^ 杉森久英 『参謀・辻政信』 河出書房、133頁。
  11. ^ 今井武夫 『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』 みすず書房、2009年、157-158頁。
  12. ^ 亀井宏 『ガダルカナル戦記』 1987、1987年
  13. ^ 五味川純平 『ガダルカナル』 文春文庫。
  14. ^ a b c d e 有馬哲夫『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』
  15. ^ a b #ラオスの霧18頁
  16. ^ #ラオスの霧37、49頁
  17. ^ #ラオスの霧28-34頁
  18. ^ #ラオスの霧94頁
  19. ^ a b #ラオスの霧26頁
  20. ^ #ラオスの霧93、98-101頁
  21. ^ 「議員辻政信君に関する件」第040回国会 議院運営委員会 第21号1962年5月4日
  22. ^ #ラオスの霧102頁
  23. ^ 天文学者の楊光宇とは別人。
  24. ^ #ラオスの霧103頁
  25. ^ a b #ラオスの霧104-105頁
  26. ^ 『”私は辻政信氏の通訳だった” ラオスの中国人が証言 パテト・ラオ 9年前、尋問に立会う』朝日新聞1970年4月13日
  27. ^ #ラオスの霧203-206頁
  28. ^ 『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』
  29. ^ 有馬哲夫『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』
  30. ^ 有馬哲夫『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』
  31. ^ 半藤一利保坂正康2008『昭和の名称と愚将』文藝春秋:174
  32. ^ 半藤一利保坂正康2008『昭和の名称と愚将』文藝春秋
  33. ^ 半藤一利保坂正康2008『昭和の名称と愚将』文藝春秋:182
  34. ^ 後に須見はこれに反論しており、自身が下戸であること、当時ビール瓶の空き瓶にハルハ河の水を入れていたと弁明している。
  35. ^ 著書『参謀・辻政信』
  36. ^ 『昭和史の軍人たち』文藝春秋、1982年
  37. ^ 中所豊1948『日本軍閥秘史 裁かれる日まで』
  38. ^ 『ノモンハンの夏』半藤一利

参考文献[編集]

  • 三木公平 『参謀辻政信 ラオスの霧に消ゆ』 波書房、1985年9月。ISBN 4-8164-1193-3
  • 田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』 芙蓉書房出版、1986年 ASIN 4829500662
  • 生出寿『悪魔的作戦参謀辻政信 稀代の風雲児の罪と罰』 光人社文庫 1993年 ISBN 4769820291
  • 高山信武『二人の参謀—服部卓四郎と辻政信』 芙蓉書房出版、1999年 ASIN 4829502347
  • 田々宮英太郎『権謀に憑かれた参謀辻政信 - 太平洋戦争の舞台裏』 芙蓉書房出版 1999年 ISBN 9784829502327
  • 津本陽 『八月の砲声 ノモンハンと辻政信』 講談社 ISBN 4062129299
  • 橋本哲男 『辻政信と七人の僧 - 奇才参謀と部下たちの潜行三千里 』 光人社NF文庫 ISBN 4769820658
  • 生出寿 『「政治家」辻政信の最後 - 失踪「元大本営参謀」波瀾の生涯』 光人社 ISBN 4769804989
  • 河田宏 『満州建国大学物語 - 時代を引き受けようとした若者たち』 原書房 ISBN 9784562035267
  • 今井貞夫 監修高橋久志 『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』中央公論事業出版 ISBN 9784895142946
  • 有馬哲夫 『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』 新潮新書 ISBN 9784106104008

関連項目[編集]