井上成美
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| 井上 成美 | |
|---|---|
| 1889年12月9日 -1975年12月15日 | |
| 生誕地 | 宮城県仙台市 |
| 死没地 | 神奈川県横須賀市 |
| 所属政体 | |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1906年 - 1945年 |
| 最終階級 | 海軍大将 |
| 指揮 | 横須賀鎮守府参謀長 海軍省軍務局長 支那方面艦隊参謀長 第三艦隊参謀長 第四艦隊司令長官 海軍次官 |
| 戦闘/作戦 | 日中戦争 第二次世界大戦(太平洋戦争) ウェーク島の戦い 珊瑚海海戦 |
井上 成美(いのうえ しげよし、1889年(明治22年)12月9日 - 1975年(昭和50年)12月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。宮城県仙台市出身。
親英米派の米内光政、山本五十六の人脈に属し、日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反対した。「最後の海軍大将」として知られた。終戦後は殆ど人前に出なかったことから、「沈黙の提督」とも呼ばれた。
目次 |
[編集] 略歴
海軍兵学校第37期入校時の成績順位は180名中第8位、卒業時の成績順位は179名中2位で、恩賜の双眼鏡を拝受している。
義兄に阿部信行陸軍大将(後の内閣総理大臣)がいる。阿部信行が三国軍事同盟に消極的だったのは、井上成美は結婚して新居を阿部の家に構えたが[2]、そのまま妻を残しイタリア駐在武官となり、井上の妻が義兄阿部の家で生活していたことから、井上の妻を通じて、海軍風とりわけ「ラディカル・リベラリズム」の観点からの、井上のイタリアのファシズムの性格に関する情報を把握していたから、という説もある。
イタリア海軍駐在武官、軍務局第1課長、横須賀鎮守府参謀長などを歴任。横須賀鎮守府参謀長の際には司令長官の米内光政を補佐し、二・二六事件の際は青年将校グループを反乱軍と断定し、海軍陸戦隊を東京に派遣し海軍省の警備につかせるなどの水際立った対応をとった。
その後、軍務局長として米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官と共に日独伊三国軍事同盟条約締結に反対し、一度は流産させることに成功した。この頃、海軍省記者クラブ黒潮会の新聞記者からは米内・山本・井上ラインのことを「海軍左派3羽烏」と称された。
支那方面艦隊参謀長、航空本部長を経て太平洋戦争開戦時は第4艦隊司令長官。
その後は、海軍兵学校校長に就任。「敵性語」とされた英語教育廃止論を断固として退けた。
米内光政が海軍大臣に復帰すると井上が海軍次官として中央に復帰。海軍省教育局長の高木惣吉海軍少将に終戦工作の研究を指示、米内を援け早期和平に向けて尽力する。1945年5月に大将昇進したが、井上はこの人事には不満であった。同時に次官を退く。塚原二四三とともに大日本帝国海軍最後の海軍大将であった。
敗戦後、横須賀市長井に隠棲し責任を感じるとして公の場には出ず、子供たちに英語を教えたりなどしていた。井上が英語教育をしていた住まい(ソレイユの丘付近)は、その一部分が保存され、小さいながら記念館として一般に無料開放されている。
2008年10月に防衛大学校内に設置された槇智雄(初代校長)記念室には、旧海軍軍人の中ではただ一人井上が紹介されている。
2008年、陸上自衛隊元幹部が昭和44年に井上を訪問しその会話を録音したテープが発見され、NHKのニュースで放映された。その中では「大義名分が立たない戦に部下を殺すのは大嫌いだ、大嫌い以上にやるべきじゃない。大義名分とは何かというと独立ということ、それを脅かされた時はこれはもうどうにしてもしょうがない」「しかし戦争というモノは良いものではないから、私はね戦争は必要悪だと思う」とする自身の考えや「自衛隊は昔の陸軍・海軍という殻を抜け出して、新しい何かを作っていただきたい」「(民間出身者だった防衛大学校初代校長が幹部自衛官の教育について助言を求めた際)あなた独自におやりなさい。恥ずかしい話だけれども何も知らないんだから兵隊なんてものは、兵隊というのは偏りがちな癖がある」「兵隊を作ることではない。ジェントルマンを作ることだ。そのためには教養を高めることが一番大切だ」と従来のように軍事知識に捉われない幅広い見識と知識を身につけた人材の養成が大切であることを助言したとされる[3]。
[編集] 人物像
- 旧制中学時代の成績表が残っているが、そこには数学と音楽、そして細工(工作)の成績がずば抜けており、意外にも英語は「兵学校三号生徒の時は教官に名指しで英語下手を指摘され」、「おかげで成績は入校時の9番から16番に落ちた」くらいの成績だったようである。英語はその後、クラス一の英語達者な人に英語学習法を聞いて実行したりして逆に得意科目にしている。井上の音楽好きは母親譲りでギターやピアノ、琴が得意だったと言う。戦後に隠遁生活を送った時も、病弱な娘のために介護用ベッドを自分で作り、またパン焼き器やトースターまで自分で作っている。
- 兵学校校長時代に独自で編み出した、生徒や教官の数学的思考を養うための「数学パズル」も残っており、海軍次官になった後も暇さえあればそれを楽しんでいた。終戦後に「サン・パズル」という名前でアメリカに販売しようとしたこともある。
- 数学と語学の教育については自分の経験に基づいた理論を持ち、語学に関しては「語学は若いうちにやる方が有利」「流暢さより正確にものを伝えることに重点を置け。ずっと勉強していればいつか流暢にはなる」「勉強する語学でしゃべる夢を見ればしめたもの」「現地で語学をやるからには会話をマスターすべし。読み書きは日本にいても出来る」「音楽の素養がある人は語学の上達も早い傾向あり」等、海外駐在時代に書いた『駐在任務遂行経過並ニ所感』という提出物にまとめられている。駐在前に駐在経験者の堀悌吉を訪問しているが、「スパイまがいの活動はするな。もっと次元の高いことをやれ。その国の歴史を知り、世情に通じることだ。その国の人々が何をどう考えているか、それを勉強してこい」とアドバイスされ、実際に実行している。
- 早くから軍政面で頭角を現したが、その一方で実戦では珊瑚海海戦での消極的と評価された指揮により、司令長官職を事実上解任されるなど、能力を発揮できなかった[4]。井上本人も「本当にいくさが下手でした」と述懐したことがあった[5]。ただし井上の「いくさ下手」の評価を決定付けた、前述の珊瑚海海戦での消極的といわれる行動は、実際に前線で指揮をとった原忠一海軍少将が現場の判断で行ったもので、直ちに井上の評価に結びつけるのは間違いであるとの指摘もある[6]。また艦隊勤務がからきし駄目だった訳でもなく、軍務局を離れ練習戦艦比叡の艦長を務めた際は、長く艦隊を離れていたにも関わらず、見事な操艦指揮を見せ周囲を驚かせている。
- しかし、人物が冷たいということではなく、艦長不在中に勝手に艦長室のベッドで熟睡してしまった従兵を気遣い自分はベッドの端で就寝し[8]、従兵が気づいて直立不動で謝罪しても[9]、まあいいから朝の総員起こしまで寝ておけ、と不問に付したり、支那方面艦隊参謀長時代は練習場所に困っていた軍楽隊に練習場所を確保してあげたり、兵学校校長時代には校内の雑用係だった当時15~6歳の「ボーイ」に、「勉学に励むには一番良い年齢なのに雑用ばかりではもったいない」と希望者のみ無料で基礎的な数学と英語を隔日2時間ほど教育するよう指導し[10]、成績優秀者にはポケットマネーでコンサイスの英英辞典をプレゼントしたり[11]、兵学校生徒の接待で生活費がかさみ破産寸前になり娘を栄養失調で入院させてしまった教官に対しては、校長命令で粉ミルクやパンなどを特別配給させたりしたりと、「三角定規ではあるものの杓子定規ではない」暖かい面もある。横山一郎も「井上さんは部下の意見を実によく聞いてくれた。部下の意見を聞かないワンマンとは違う。井上さんのことをとやかく言う人がいるが私は好きだね」と評している。また、練習戦艦「比叡」の飛行長だった今川福雄は井上の人柄や考え方に共鳴し、井上の諒解を取って子供に「成雄」「美子」と名付けている。
- 一方で、『井上成美』を書き実際に会ったことがある阿川弘之は、半藤一利との共著『日本海軍、錨揚ゲ!』の中で、「井上さんと酒は飲みたくない」「同僚・友人としては山本さん(山本五十六)、部下としては米内さん(米内光政)のような上司がいいが、井上さんだったら部下はたまったものじゃない」「(米内や山本と比べて)井上さんは人間として面白味がない」と語っている。しかし、阿川の意図は「女性関係など人間的にどこかスキがあり、そういうエピソードが豊富な米内や山本と比べて、井上は全くスキがなく非の打ち所がない紳士なところが面白くない」ということで、井上の人間性を否定した意味ではない。また、「そのマイナスを重ね合わせたらプラスに転化するのではないかとの思いで『井上成美』を書いた」とも述べている。
- 当時の海軍軍人としては珍しく、女性に対しては禁欲的だった事で知られている。たまに待合茶屋などに行っても、芸妓と遊ぶ事は無く、布団に入っては英書を読んでいたという[12]。しかし芸妓たちからは比較的好感を持たれていたようであり、支那方面艦隊参謀長時代には、上海での宴席で琴を芸妓と一緒に演奏し、その腕前に皆が舌を巻いたという[13]。支那方面艦隊勤務時代や海軍大学校教官時代など、部下や学生として四度井上に直接接した山本善雄は、「面白味がない、人間的に冷たいと言う人がいるがそれは違うと思う。公務の時には表に出ない内面の優しさや温かさを、女が敏感に受け取っている。だからあれだけ芸者たちに慕われるんだ」と述べている。山本によると英語の官能小説を面白がって読んでいたこともあったという。また、海軍兵学校校長の時などに二十歳前後の女性を女中として身辺のお世話をさせていたこともあり、「少女趣味があったのではないか」という声もあったが、彼女らは全員否定している。「小松」の女将も「井上さんに限ってそれはない。いくら叩いても埃一つ出てこない人です」と証言している。
- 海軍省軍務局第一課長時代には、軍令部による『軍令部令及び省部互渉規定改正案』に激しく抵抗して名を知られ、一時は遺書を同期に出すほどに覚悟を固めていたらしい。
- 井上は海軍省が持っている権限を軍令部に移すことで、戦争への道が容易になると考え、軍務局長だった寺島健中将と猛烈に反対し続け、寺島が折れた後も、絶対に首を縦に振ろうとしなかった。最後は「海軍を辞めます」と言い放ち、家へと引きこもってしまった。この時、娘に「お父さんは海軍を辞めることにしたから」と言ったところ、「お父様はケンカが早いからね」と苦笑されている。
- なお、当時軍令部の南雲忠一が交渉相手(艦隊派)であり、南雲からは「殺すぞ」と直接的に脅迫されたこともあったが、井上は「さあ、やるならやれ。そんな脅しで屈するようでこの職が務まるか」と引き出しから遺書を出して南雲に見せ、南雲もその気迫に押され何も言えなかったという。この『軍令部令及び省部互渉規定改正案』は皇族である伏見宮軍令部長の威光に屈する形で海軍省側が折れたが[14]、大角岑生海相が昭和天皇に裁可を求めた際には、井上と同じ反対理由で、再考するよう一度突き返されており、その事を兵学校同期で当時海軍省副官だった岩村清一が井上に「今日は貴様の胸がスーッとする事を教えてやる」といって伝えた。
- 結局、『軍令部令及び省部互渉規定改正案』に賛成する後任課長と交替する形で一課長を追われ、井上が横須賀鎮守府附として待命予備役編入の辞令を待つ、なかば左遷状態の時に、当時練習戦艦であった比叡艦長の辞令を得ている。井上の職を賭したその態度を、対立していたはずの伏見宮が「男としてまた軍人として、まさにああでなければならない。自己の主張、信念に忠実な点は見上げたものである。次は良いポストに就けてやるとよい」と称賛したことによるものであった。この比叡艦長の時に、観測機として配属されていた航空機に着目したことは、後の「新軍備計画論」の執筆へと繋がる。
- 練習戦艦「比叡」艦長に補せられた大佐時代に「勅諭衍義」という訓示を出している。その中に「軍人が平素でも刀剣を帯びるのを許されており、吾々またその服装を誇りにしておるのは、一朝事ある時、その武器で敵を斬り、国を守るという極めて国家的な職分を果たすからである」と書いており、「国家の命令があって初めて軍人は武器を使用できる。手元に武器があるからと言って自分勝手に人を殺せば、どんな思想信条であろうとただの人殺しだ」と、五・一五事件の後海軍にも広まっていた国粋主義・下剋上の空気を強く戒めている。
- 横須賀鎮守府参謀長時代のエピソードとしては、横須賀陸海軍の親睦会で憲兵隊長と飲んでいた時、憲兵隊長の「貴公、貴公」と言う傲慢な態度に「少佐が少将に向かって貴公とは無礼な。君のような礼をわきまえない人間とは酒は飲まん」と席を立ち、別部屋でお茶漬けを食べていたのだが、その憲兵隊長と付き添いの海軍軍人数人がケンカをしている報告を聞き、「憲兵隊長が袋叩きにされています」という事を聞くと、「ほっとけ」と言い、後日憲兵隊長が謝罪に訪れた際、「後で謝るなら最初からするな」と強烈なパンチを食らわせている。
- また、ある艦艇の艦長が乗員に上陸禁止令を出し自分は水交社で食事をしていたところに参謀長の井上が現れ、「貴鑑には上陸禁止令が出ていたはずだが」と質問した。艦長が平然とそれを認めたところ、「それは艦長命令で出したのか」と再質問。「はい、艦長命令で出しました」と答えたところで「自分が出した命令を自分で破ってどうする。すぐに戻れ」と激怒。艦長はその剣幕に慌てて戻ったところ、艦長室の前には大量の糞尿が置かれていたという。
- 後年「日本の大多数の者が、日独伊同盟に加盟するのは集団防衛で、プラスであると思ったんだけれども、集団防衛という形だけはあっても、日本にドイツからどれだけの援助があるのか。何もできない。そういうことをすると、強い国と仲良くしていかなけりゃならんというのに、アメリカとも悪くなるし、イギリスとも悪くなるという意味もあって、ドイツから何等の恩恵をこうむらない。得をするのはドイツだけです」[15]と述べていた通り、三国同盟に徹底的に反対し、ファシズム体制下のドイツやイタリアには厳しい見方をしていた。井上はドイツ、イタリア駐在の経歴を持つが、両国の人間性をあまり信用せず、アドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』についても「日本人を差別している」とし、軍務局長時代には、英米軽侮、親独の風潮が出てきた軍務局員に注意を促している。「でも、そんなこと書いてないぞ。」と言った局員は、他の局員から「井上さんは和訳本を読んでるんじゃないよ。原典をドイツ語で読んでいるんだよ」と笑われたという[16]。
- 支那方面艦隊参謀長時代の昭和15年5月、上海の共同租界で私服の日本人憲兵が中国人の強盗に襲われた際、陸軍はこれを口実に国際法規を無視して一個大隊を租界に進入させようとしたが、井上の「強引に租界に入ろうとする者は、たとえ日本陸軍でも敵とみなして撃滅せよ」という厳命を受けた上海海軍特別陸戦隊や艦隊参謀が陸軍の行進を阻止、押し問答の末陸軍は引き下がるざるを得なかった[17]。陸軍が租界内に入ることは領土侵犯にあたり、井上のこの措置によって国際紛争の芽を一つ摘むことが出来たという。
- 昭和16年12月8日に、カロリン諸島の中心であるトラック島において、第四艦隊旗艦「鹿島」艦上にて、「トラトラトラ」を傍受した際、通信参謀である飯田秀雄中佐が電報を届けた。このとき飯田は「おめでとうございます」と言ったのだが、井上からは「何がめでたいだバカヤロー」と物凄い剣幕で怒鳴られたという。飯田はその時何故自分が怒鳴られたのかわからなかったが、本土に帰還して焼け野原の東京を見てはじめて井上の「バカヤロー」の意味を理解したという。
- 第二次世界大戦が始まってヨーロッパに住んでいた日本人が続々引き返してきた頃、神戸出身の海軍士官が新聞社のインタビューで「ドイツは負けますよ」と発言しそれが記事になった。陸軍がその記事に激怒して海軍省に殴りこみ、その士官も「えらいことになったな。僕が直接説明しよう」と行こうとしたら、「貴様はここで座っていろ。今井上さんが相手してるから」と同僚がウインクをして30分後、陸軍側がトボトボと引き返して行く様子を見て、「ははん、井上さんにめった斬りにされたな」と思わず笑ったという。
- 戦後海軍省が廃止され、第二復員省になった後、自宅があった三浦半島の名物だというミカンを手土産に復員省を訪れ、「田舎にはこんなものしかないが、みんなで食べてくれたまえ」と旧部下に心遣いを見せている。当時貴重な果物だったミカンを机に山が出来たくらい持参したといい、当時復員局員だった中山定義は「元の大将中将で、復員局を訪れてかつての部下を労ってくれたのはそれまで一人もいなかった」と述べている。
- 戦後は、長井の別荘に隠棲しており、近所の子供達や、軍人時代に懇意にしていた横須賀の料亭の芸者や仲居達に英語を教えていたが、特に謝礼を取る訳でもなく、無収入であった為生活は困窮を極めたが、後に兵学校時代の生徒達の尽力により困窮を脱している。
- 後年、海上自衛隊の練習艦隊壮行会に、太平洋戦争開戦にGOサインを出した東條内閣時の海軍大臣である嶋田繁太郎が出席して乾杯の音頭を取ったと聞いた際は、「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」と周囲が青ざめるほどに激怒したという。
- 家庭的には妻に先立たれ娘も病気で失い、困窮により孫を娘婿方の家に養子に出す等、私生活は決して恵まれない寂しい家庭環境だったという[18]。
[編集] 井上と二・二六事件
昭和10年、横須賀鎮守府参謀長に任命される。鎮守府長官は後にコンビを組む米内光政であり、米内・井上ラインはここが始まりである。
しかし、海軍部内でも「なんとなくもたもたしていて、すっきりしない」「相変わらず陰気で、少しも改まってこない」(『思い出の記』)空気で、井上は「五・一五事件で海軍に先にやられた陸軍が暴発する恐れがある」と考え、陸軍の暴走に備えるべく、
- 特別陸戦隊一個大隊を編成し、二回召集し顔合わせと訓練を行う。
- 砲術学校から兵員20人を、いつでも横須賀鎮守府に呼集できるように準備する。これらの兵は、万一の時には海軍省に派遣し、大臣官房の走り使いや連絡に当たらせ、または小銃を持たせて海軍省の警備に当たらせる。
- 反乱軍から帝都と海軍省を海軍の手で守り、仮に反乱軍が宮中に乱入した場合に天皇を御召艦「比叡」まで避難させる為に、軽巡洋艦「那珂」艦長に、昼夜風雪の如何に関わらず芝浦に急航できるよう研究すべし。
と命令した。井上は新聞記者とも懇意で仲が良く、新聞記者も慕って情報を流したりしていたが、昭和11年2月20日頃に警視庁の前で陸軍将校・常盤稔少尉とその部下たちが夜間演習を行ったとの情報が記者から入り、「そろそろだな」と予測した。そして2月26日の朝6時頃に新聞記者より副官経由で二・二六事件の速報が入る。
「幕僚全員出動!私もすぐ行く」と副官に言った井上はすぐに鎮守府に急行、かねてより「この時」に対しての準備は出来ていたのですべて手はず通りに行い、混乱はなかった。午前9時頃に長官の米内から「俺もそろそろ行っていいか」という連絡があり、井上は当時を振り返り「大提督らしい態度だった」と述懐している[19]。警備艦の派遣は軍令部より待ったがかかり遅れてしまったが、この時に備えて編成されていた特別陸戦隊は26日午後には海軍省に到着、陸軍が決起部隊をどう判断するか煮え切らない態度を取っていた頃、真っ先に反乱軍と規定して米内も井上が作成した訓示に一言の訂正も加えずに許可している。
[編集] 兵機一系化問題
海軍には、兵科将校と機関将校との身分の格差があり、機関科将校は大将になれないどころか艦長にもなれず、また艦船の指揮権もなかった。海軍内では「癌」とまでいわれた問題で、幾人もこの問題に取り組んだが答えは出ず、永野修身が海軍大臣の時も豊田副武軍務局長に解決策を求めても「現状維持」と永野が納得できる回答ではなかった。永野は中央に戻ってきたばかりの井上を呼び、「君がこの問題を検討したまえ。他の人間が出した回答は白紙にしてもよい。期間は1年、くれぐれも極秘裏でな」と兵機一系化問題の解決を任せた。
1年後、井上は「一系化すべし」と結論し、永野から大臣を継いだ米内光政に提出する。その後、井上は軍務局長に就任する。
実際に海軍兵学校と海軍機関学校が合併し、兵機一系化が実現するのは1944年(昭和19年)のことである。
[編集] 重慶爆撃
海軍航空隊による重慶爆撃は1939年5月から始まっていたが、翌1940年に行われた、長期間継続された戦略爆撃である「百一号作戦」を立案したのが、支那方面艦隊参謀長となった井上成美であった。井上は、百一号作戦が「日露戦争における日本海海戦にも匹敵する」として重慶爆撃を推進した[20]。部下の参謀として井上に随行し、終始発言をメモしていた中山定義によると、この発言の後に「仄聞するところによると中央では大陸における作戦と並行して、第三国との戦争に備えていると聞いている。もし事実とすればそれは大変なことである。支那との戦争の見通しもつかないのに、この上第三国たる大国相手に事を構えるがごときは全く論外である。現地部隊支那方面艦隊司令部の意見としては全く容認できない」と述べ、前述の発言よりはるかに気迫が籠った口調で、わざわざ上海から東京向けにチャーター機を飛ばしてまで言いたかったのはむしろ後者の方だなと察したという[21]。しかし井上の提案は「ご趣旨は理解したとは言ったが実行するとまでは言ってない」「北部仏印作戦準備の為」という名目で採用されることはなかった。
[編集] 海軍兵学校長時代
井上自身は兵学校長の職が気に入っており、このまま予備役に編入されてもよいと考えていたらしい。「校長なら何年でもやっていたい」と周囲に語っており、後に海軍次官になってからも事ある毎に「江田島に帰してくれ。やはり私は中央より江田島が合う」と言っている。校長に就任して早々、朝から晩まで緊張し目が吊り上っている生徒の表情を見て「非常に気にくわない。あれじゃ前科三犯の面構えじゃないか。張り切り過ぎているというのが私は嫌いだ」と言い、「前科三犯の面構え」にしている原因である無駄な慣習などを一切廃止させ「士官の卵を家畜のように追い回すのは良くない。もっと遊ばせてやれ」と生徒に笑いと余裕を持たせるように指示した。その指示を出してから数ヶ月後、井上と旧交があった陸軍士官学校校長の牛島満中将が視察に兵学校を訪れた際、生徒の顔つきを見て「ここの生徒は可愛い顔をしているね。俺んとこの生徒はもっと憎たらしい顔をしているよ」と井上に述べ、自身も「効果が現れてきた。第三者が言うのだから間違いはない」と満足したという。また、生徒が長期休暇中に書き兵学校に提出する休暇日誌も、上級生が事前に検閲し優等な日誌として細工し提出させるようなことが慣例と化していたが、「まるで詐欺の訓練をしているようなものだ。こういうことを続けさせたらしまいに陛下の前で平気で嘘を申し上げるような海軍士官が出来る。百害あって一利なし」と即廃止している。
また、兵学校の教職員の家族に対しては、全くといっていいほど娯楽がない島の生活の福利厚生として土曜日に映画を上映するために副官を広島に派遣して映画の選定を行わせたが、井上から出された条件は「戦争ものはダメ」「芸術的すぎるのも子供が楽しめないのでダメ」「出来るだけ肩が凝らないもの」で、当時「戦争映画」「芸術的すぎる」なものばかりだった映画界において井上の注文に適う作品を探すのはかなり難しかったという。しかし上映されると至って好評で、「出来るだけ大勢の人を呼んでやれ」という指示により守衛、運転手、ボーイや女子事務員まで映画を楽しみ、井上自身も見に来ていたこともあったという。
陸軍士官学校が英語教育を廃止し入試科目からも外すと、海軍兵学校もこれにならうべきだという声が強くなった。「入試科目に英語があると有望な人材を陸軍に取られてしまうのではないか」という意見に対し、「一体何処の国の海軍に、自国語しか話せないような海軍士官がいるか」としたうえで、「いやしくも世界を相手にする海軍士官が英語を知らぬで良いということはあり得ない。英語が今日世界の公用語として使われているのは好む好まないに拘らず明らかな事実であり、事実は素直に事実と認めなければならぬ。外国語のひとつも習得しようという意気のない者は、海軍の方から彼らを必要としない。私が校長である限り英語の廃止などということは絶対に認めない」と却下、排斥運動に関しても、「これらの運動に従事する人物の主張するところ、概ね浅学非才にして島国根性を脱せず」と断じ、兵学校の英語教育は従来通り行った。海兵校内では従来通り外来語の使用も容認している。
この様に、英語教育を推進した事に関して、後年井上は、鈴木貫太郎が兵学校を訪れた際に、井上と同様に敗戦を見越した上で、「いいか、兵学校の教育の成果が現れるのは、20年後だぞ、井上君」と言われ、敗戦後に生徒が日本の復興に役立つ人材として活躍して欲しい、と思っての事だったと述懐しており、生徒達から相当感謝されている[22]。また、英語教育の具体的な有り方も詳しく述べており、「英語は英語として理解し、無理に和訳させることは良くない」「英語の単語を無理に日本語に置き換えるのは百害あって一利なし」としている[23]。
海兵の講堂には従来、歴代の海軍大将の額を掲げてあったが、井上は「歴代の大将の写真が汚れる」「兵学校の教育は出世主義ではない」と言う名目ですべて降ろさせている。ただ、実際は井上の「大将といっても、一等大将もあれば、三等大将もある。この中には国賊と呼ぶべき者もいる」と言う意向によるものであった。また、教官に実戦での武勇伝を話すことを一切禁止、生徒には陸士生徒との私的交流を禁止した[24]。
また、兵学校の卒業式は軍楽隊の『蛍の光』の演奏と共に卒業生、在校生共に「帽振れ」を行うことが定番だったが、それも「『蛍の光』は敵国の曲なので中止してはどうか」という意見が教官や生徒などからあった。しかし、井上は「名曲は名曲である。名曲に敵も味方もあるか」と一蹴している。こうした措置から、「校長は横暴である」と若手士官を中心に批判もあった。しかし、井上はそういう批判や反対意見を排除し[25]、ジェントルマンとしての生徒教育に尽力を尽くし、戦後も当時の生徒や教官が多数訪れ「校長」と最後まで呼ばれていた。また、井上の方策に反抗していた元教官が戦後井上のもとを訪ね、「私がすべて間違っておりました」と謝罪し、井上も「あれは嬉しかった」と述べている。
井上が校長当時、初期士官不足により兵学校の教育期間を短縮する動きが起こったが井上はそれらの要求を「校長としては絶対不可」とすべて跳ねのけ、海軍省内での会議で教育課程が短縮されることが議題になることを元部下の報告で知ると、次官宛てに緊急電報を打ち決定させないように先回りをして決定を回避させている。軍令部員の高松宮宣仁親王が卒業式の名代として出席した際の雑談がてらに話を持ち出しても、「その御下問は親王殿下としてですか、それとも軍令部員としてですか」と言い、高松宮が無論後者だと答えると「ではそのことは御免蒙ります」と一蹴している。また永野修身が帰省する際に兵学校に立ち寄った時も同じことを切りだしたが、「私は米作りの百姓です。中央でどんな米を入用かは知りませんが、青田を刈ったって米は取れませんよ」と断りを入れている。
兵学校の教育について、防衛大学校初代校長槇智雄が訪ねた際にこう語っている。
「私は、『ジェントルマンを作るつもりで教育しました』とお答えしました。つまり、兵隊を作るんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、いろいろ言えるでしょうが、一例を言ってみればイギリスのパブリック・スクールやオックスフォード大学、ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。これは、それとは別の話ですが、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人々が本当に勇敢に戦いましたね。日ごろ国から優遇され、特権を受けているのだから、今こそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育を受けた大半の人達がそうでしたね。私は、一次大戦後に欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える』ということです。ジェントルマンが持っているデューティーとかレスポンシビリティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて重要なのはこれですね。
その上、士官として一つ大切なものは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。そういう下士官を指導するためには教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違った所だと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校ではありますが、私は高等普通学を重視しました。そして文官の先生を努めて優遇し、大事にしたつもりです」
[編集] 海軍次官と終戦工作
米内が現役復帰し小磯國昭内閣の海軍大臣に副総理格として就任、海軍次官に井上を起用する際に、再三の要求にもかかわらず井上は当初「江田島の村長で軍人生活を終わりにしたい。私に次官など不向きなことはあなたがいちばんわかってるでしょう」と固辞していた。しかし、米内の「すでに伊勢神宮に井上が次官になると報告した」「政治の話の時には君は上を向いていろ」という言葉で説得され次官に就任した。当然ながら、次官が政治の話の時に上を向いているわけには行かず、後年この時のことを「貫禄負けでした」と語っている。井上の次官就任は概ね好意的に見られ、当時海軍省勤務だった中山定義は井上の次官就任時の雰囲気として、「海軍省が針路も見失い、暗闇の中を懐中電灯で足元を照らしながらうろうろしていた時、海軍省構内無線大鉄塔の上に米内・井上という大きな灯台がともったような気がする」「前次官の時には未決書類が山のように積まれて事務処理が非常に滞っていたが、井上さんが次官になったら定時(午後5時)までに山のような未決書類がすべて綺麗になくなっていた」と述懐している。
次官となった井上は、兵学校長時代には見ることのできなかった戦局に関する資料を見て、予想以上に状況が悪化していることを知り、米内に対して「この戦争、だめです。今から終戦工作を始めます」と宣言し、米内の了解を取って高木惣吉少将に、月2,000円の機密費を与え、秘密裏に終戦工作の研究を始めさせたり、「敗戦は亡国とは違う。古来いくさに勝って国が滅亡した例は少なくない。逆に戦いに破れて興隆した国がたくさんある。無謀の戦争にこのうえ本土決戦の如き無謀を重ねるなら、日本は本当に亡国になってしまう」として早期終戦を強硬に主張した[26]。また小磯内閣が総辞職する際には、米内が留任を望んでおらず、小磯と米内がともに大命を受けた内閣成立時の経緯があるにもかかわらず、井上が中心となって部内を米内留任でまとめている[27]。
昭和20年のはじめ、海軍記者との記者会見の際に新名丈夫が「海軍はこの戦争をどうするつもりですか」と聞いたところ、井上は「和平です」とはっきり答え、記者も井上の気持ちと身の上の安全を考えて一人も記事にしていない。
昭和20年4月に行われた菊水作戦にも終始反対で、「軍令部次長にありながら何故こんな馬鹿な作戦を許可したのか。もはや戦艦は飛行機の敵ではない。アメリカの士気を高めるだけじゃないか。それ以前に、第二艦隊の面目が立つというが面目の道連れになった何千もの将兵が可哀そうとは思わないのか」と軍令部次長だったクラスメートの小沢治三郎を詰問している。
更に、昭和20年より陸軍から、陸海軍を統合した「国防軍」の設置、参謀総長・軍令部総長の上に最高幕僚長を設置する話が出てきた時も、「国家を乗っ取ろうとするのに邪魔な海軍を抹殺するための謀略」「本土決戦の片棒を担がせようという陸軍の意思は明白」「陸軍を止めるものは海軍しかない」と、昭和天皇の発言をでっち上げてまで強引に迫ってくる陸軍を追い返している。昭和天皇も、「私が(陸海軍統合を)望んでいると陸軍は言ってるが、全然そんなことないから」と鈴木貫太郎に述べている[28]。この「陸軍による海軍の吸収合併」を食い止めた出来事は井上の隠れた功績である。
しかし、そんな激務や苦悩の中でも「みんな気が滅入っているみたいだから音楽でも聞かせて気分転換させよう」と、週1回昼休みに軍楽隊による演奏会を次官命令で海軍省中庭で開催させ、士官以外の文官職員や記者にも評判だったという。その時にも「勇ましい曲はやらせるな」と「軍艦マーチ」などは演奏しないよう注文をつけている。その理由として、「もう軍艦の時代は終わりだからね。今からは空海軍の時代だよ。そろそろ『航空マーチ』でも作らないとな。君たちも案があったら持って来てくれ」と記者団に冗談を交えて答えている。
終戦間際に行われた、米内海相による大将進級[29]については様々な憶測があり、井上があまりに性急に終戦処理を進めようとする結果、周囲と致命的な軋轢を生むことを恐れた米内らによる更迭[30]とも、健康状態が優れなかった米内が次期大臣候補として井上を昇進させ、軍事参議官の閑職に置いておいたともいわれている[31]。大将に進級した際は「負ケ戦 大将ダケハ 矢張リ出来」と皮肉った川柳を詠んで米内に披露し、「後世までの笑いものですよ」と語ったといわれているが、同じく大将進級の話があった小沢治三郎が結局断り抜いた事に対比し、その真意を疑う意見もある。しかし井上の大将進級については、昭和天皇の裁可があった後に米内より井上に知らされており、次官就任時と同じように、井上が反対できない状態に米内が持ち込んだとも考えられる。しかし、米内も井上もこれについては何も語らずに亡くなってしまったので、今でも謎のままである。
この件については、『井上成美 反骨の海軍大将』(加野厚志 著)では井上更迭説を取り、『最後の海軍大将・井上成美』(宮野澄 著)や『静かなる楯 ― 米内光政』(高田万亀子 著)では井上温存説を取り[32]、『井上成美』(井上成美記念刊行会 編)では両方の説を紹介しながら「米内の真意も、井上の真意も、今となっては知るよしもない」として謎としている。高木惣吉や大井篤などはこの井上人事に関して「米内さんの大失策」と批判し[33]、半藤一利も著書の中で、後任次官に多田武雄、軍令部総長に豊田副武、次長に大西瀧治郎を選んだ人事も含めて「あの時の米内さんはどうかしていたとしか思えない」と同様に批判している[34]。中山定義は自伝の中で更迭説を取っているが、当時「陸海軍協力が最も強く要望されているこの時期に、井上次官のように陸軍とは口を聞くのもまっぴらというのでは有害である」というマスコミ等から流布された話があり、陸軍が日独伊三国軍事同盟の時に生命の危険をちらつかせてた脅しも通じなかった教訓があるので、今度は正面攻撃を避けマスコミ等を利用しての婉曲的な攻撃がじわりと効いており米内も世論を察せざるを得なかったという、海軍省参与官から聞いた話を紹介している。しかし、当時海軍大臣秘書官の麻生孝雄は「大将次官で何が悪い。国が滅びようとしている時に自分の論理や潔癖さだけを押し通すのはどうかと思う。もう少し泥を被る器量の大きさを見せて欲しかった」と井上を批判している。ただ、麻生は「『終戦』という見方は一致していた。しかしそのやり方に意見の食い違いがあった可能性はある」としている。事実、「大臣手ぬるい!早く!1日延ばせば何千何万と人が死んでいく」と米内に詰め寄る井上の姿が目撃され、「天皇制の維持」が優先の米内に対して、「国の独立や国民のためには、連合国が天皇制を認めないと言っても戦争を終わらせるべき」という井上の意見が対立したという説もある。
軍事参議官就任後は将官保養所に1か月ほど「休養」の名目で滞在しているが通常なら長くても1週間くらいの滞在であり、将官保養所に1か月も、それも副官に理屈をつけて強引に東京に帰してまで滞在することはほとんど前例がなく、終戦工作に奔走していた高木惣吉の報告を待っていたとの説もある。それについて阿川弘之が後年に高木に質問したところ、高木は「日本が滅びかけている時期に、井上さんや私が保養所や熱海でのんびりしているとは何事だという批判を聞くと、怒りたくもなりまた悲しくもなる」と肯定も否定もしていない。高木が提出した終戦工作報告を「もう僕は責任を取れないから、これは見ないことにしておくよ」と突き返したというが、東京の水交社で引き続き打ち合わせは行っており、人目を忍んで二人で話し合う姿の目撃談も多数ある[35]。また同じく水交社で寝泊りし、後に宮城事件を起こす陸軍中堅将校とパイプがあった中山定義も雑談と称して井上に自主的に陸軍の動向を報告している。また米内とは喧嘩別れしたという説もあるが、最高血圧が260に達した米内はいつ倒れてもおかしくない身であり、また陸軍中堅による鈴木首相・米内海相暗殺の噂も流れていたため、「米内倒れる」の報があれば真っ先に駆けつけられるように常に水交社で待機していたともされ[36]、終戦まで長井の自宅には帰らなかった[37]。しかしながら、米内が死去した際は「娘の看病で多忙につき」と葬儀にも参列していない。それについて後年「他に世話する人がいないので家で手を合わせてご冥福をお祈りしていました」と親しい人に語り、亡くなる前兵学校の教え子に米内の墓参代理をお願いしている。また、東久邇宮内閣の時米内続投を推したのは井上である。幣原内閣が成立した時、当時まだあった海軍大臣のポストに米内が自分の後任として推薦したのは、井上ではなく豊田副武であった[38]。
上述の様に、強硬なまでに早期終戦を主張した理由として、井上は晩年に答えたインタビューの中で、「アメリカ、イギリスとの軍備の比率は低いほうがいい、戦いをすれば負けるから、なんとか外交でしのでいかなきゃいかん、…軍人としてそれを自分に言いきかせるということは悲しい…そして、悔しい…悔しいけれど…そういう国なんだから。自分よりも技術が進み、富もあり、人口もたくさんある、土地も広い、という国がある、ということは仕方がない。もがいたって、これを脱ける訳にいかない。そういう世界の状況なれば、その中で、無理をしない範囲で立派な国になっていく方がいいんではないか」と考えていた事を挙げている[15]。
終戦が決まり、米内が軍事参議官を集めて経緯の説明をした席では、悲嘆にくれる同僚をよそに一人すがすがしい表情をしていたという。
[編集] 戦後の生活
戦争が終わると、亡き妻のために建てた横須賀市長井の別宅に夫を亡くした娘と孫と一緒に隠棲していた。時をほぼ同じくして、生計を立てる為の方法を考えていたところ、自宅近くにある勧明寺の住職から「英語を教えてはどうか」と勧められたことをきっかけに、終戦の年の10月から近所の子供に英語を教えるようになり、井上もそれが楽しみになっていった。自然発生的に出来た「英語塾」は名前もなく、近所の子供たちも「英語に行く」「ミスター井上のとこに行く」と言っていただけだが、井上は彼らのために明治時代に行われていた「こんにゃく版印刷」という技法で作成した自作のテキストを配布し、元生徒たちは現在でも大切に持っているという。井上に教えられた生徒数は、後年元塾生がまとめた「元井上英語塾生名簿」によると、125名になるという。
生徒たちの英語教育には、兵学校校長の際に貫いた語学学習法をそのまま取り入れ、授業はすべて英語で行い、遅刻の言い訳も隣の人に消しゴムを借りるのも英語で言わないといけないという厳しいものであったが、「もう2年半くらい子供たちを教えているが、次第に上達してゆくのが楽しみです。(中略)昔から海軍の教育は自由討論に主眼を置き陸軍のように押し付けはしなかった。私は子供の教育にはこれが一番良いと思っています。(中略)それから英語教育には歌を教えるのが一番いい」と東京タイムズの記者に語っている。また、兵学校校長時代の元教官が訪ねてきた時も、「兵学校の校長と言っても、上に海軍大臣がいて色々言ってくることがあったが、ここでは自分が思うとおりの教育をやっているよ」と語っている。
「井上塾」では、英語だけでなく靴の脱ぎ方からテーブルマナー[39]、レディーファーストの精神まで授業のうちに入っており、高校生の塾生の中には数学やフランス語、「上手くなればミスター井上のギターが弾ける」としてギターやアコーディオンの手ほどきを受けるなど音楽を学んだ人達もいた。「英語も心も磨いて欲しい」と自分の生徒を託した地元の中学教師は、「井上先生の感化で荒んでいた生徒の心が清らかになり、行っている生徒と行ってない生徒の違いが英語だけでなく言葉遣いから礼儀まで、その差がはっきりとわかりました」と述べており、教え子達も「英語以上に教えて頂いたのは、人間としての生き方でした」と口を揃えて述懐している。
また、英語は海軍時代にお世話になった横須賀の料亭「小松」の従業員にも週2回出張で教えたが、戦後初めて「小松」を訪ねた際、「申し訳ありません。この度の戦争では大変なご迷惑をおかけし、日本海軍を代表してお詫び申し上げます」と頭を下げた[40]。その後は「小松」の新しい客となった在日米軍に対する接客の英語を中心に教え、テキストも自分で作ったガリ版刷りのものであった。謝礼は一切受け取らなかったが、授業の後に出した夕食は喜んで摂ったという。
昭和26年12月10日付の東京新聞に『ギターを弾く老提督』という記事が載り、その中で戦後の横須賀での生活を送っている当時の心境として「本当に不自由な所だが近所の子供達が遊びに来てくれるので、それだけが楽しみだ。たった一人の私は貧乏だが、純朴な子供達が本当の子供にも思え、夜になるとみんな“家に帰って”寝てしまってから静かな“人生をやっと過ごせるようになった”んだと自分で自分の心に言い聞かせている。まあ世捨て人でもなし、ただの俗人というところだ。再び世の中へ出るという話も無い訳ではないが、もう骨董品の私には、世の中へ出る気持ちもないし、また、出たとしても何も出来ないだろう」と語っている。
また、上述の記事を見た元部下や教え子たちが訪問するようになるが、服は破れた部分を継ぎ足して家には特に何もなく、栄養失調で顔が青黒くなり痩せこけた姿に、これがかつて人並み外れて端正で服装に厳しかった人の姿かと愕然としたと言う。
昭和28年、窮乏生活の無理が祟り胃潰瘍で吐血して横須賀市立市民病院に運ばれるが、「小松」を通してかつての教え子や部下たちに報告され、彼らの尽力によって一命を取り留める。その際にずっと横に付き添っていた田原富士子と同年の秋に再婚し、同年6月に「英語塾」も閉鎖されるが、兵学校時代や「英語塾」の教え子や部下、クラスの人の訪問に喜び、「英語塾」の子供と一部の限られた人間以外は頑なに訪問を断っていた[41]性格も温和になり、公の舞台には亡くなるまで出て来なかったものの[42]、海軍時代から親しい人達には昔話や当時の心中を語っている。
また、あまりに貧乏を極めた生活に見ていられなくなった兵学校時代の教え子たちが提案した資金援助も、最初は丁寧に辞退していたが、教え子の一人の深田秀明元中尉の「子供が立派に成長して小遣いを持って訪ねてきたのに、それを受け取らない親父がどこにいますか」という一言に心を動かされ、好意を受け取るようになった[43]。深田は後に井上の喜寿の祝いを自分の会社のビルで行い、井上の希望で料理も酒もない質素なお祝いであったが、深田はイタリア駐在時代に井上が作った自身のブロンズ像を託されている。
毎年8月15日には、一日茶以外は摂らずに絶食し、軍帽を被り一人端座して遠い海を眺めることを常としていた。
昭和50年12月15日午後5時過ぎに、老衰で死去。86歳没。最期の言葉は「海が…、江田島へ…」だった。亡くなった日も、ふらついた足で庭に出て、長い時間海を眺めていたという。遺言は死後二ヵ月半後に見つかったのだが、生前から葬儀の話を周囲にしていたためその遺言のまま告別式が挙行された。昭和天皇より祭祀料が下賜され、参加者の中には終戦間際に秘密工作を命じた高木惣吉の姿もあった。高木は体調不良で医者から安静を命じられていたが、「井上さんの葬儀にはどんなことがあっても行かなければ気が済まない。そのために死んだって本望だ」と家族の制止を振り切って参列したという[44]。
また、戦前に井上の暗殺を実行しようとし、戦後にすべて間違っていたと悟り北海道に移住し、開拓事業に従事していた最中に、過労で倒れ病院で療養中だった元右翼の男が新聞で井上の死を知り、ドクターストップを振り切って「焼香のできる自分ではないが、せめて霊前で井上さんに一言お詫びしたい」と告別式の場にやってきたという話もある。
[編集] 親類関係
家庭的に恵まれなかった井上だったが、兄妹は多く自身は十一男であり当時としても珍しく、兵学校の面接で家族について聞かれ「十一男です」と答え、「ふざけた答えをするな」と叱られたという。父の嘉矩(よしのり)は、江戸時代に幕府直参や御勘定奉行普請役を務めた人物であったという。
また、陸軍嫌いであったわりには、親類に陸軍軍人が多い。そのため、日独伊三国軍事同盟締結に抵抗していた際、陸軍に縁者がいない米内光政・山本五十六より井上の説得が易いと陸軍は考えていたようで、その縁を頼って様々な陸軍軍人が井上の説得に軍務局長室を訪ねている。
- 実兄:井上達三陸軍中将(陸11)
- 実兄:井上美暢陸軍大佐(陸20)
- 義兄:阿部信行陸軍大将(元総理。夫人同士が姉妹)
- 親類:稲田正純陸軍中将(阿部信行の娘婿。その縁を頼って三国同盟締結に関して井上に直談判をしようとしたが門前払いされている)
[編集] 遺言
- 小生の葬儀は密葬のこと
- 雑件
- 葬儀場は歓明寺
- 埋葬は東京多磨霊園の本家墓地に埋葬のこと
- 花輪、供物、香典等は一切お辞退のこと
- 付言
- お通夜その他の段取りは一般世間の習慣に依ること
[編集] 年譜
- 1889年(明治22年)12月9日- 宮城県仙台市生
- 1902年(明治35年)3月31日- 宮城県尋常師範学校附属小学校高等科2年修了
- 1906年(明治39年)10月31日- 宮城県第二中学校5年次中途退学
- 11月24日- 海軍兵学校第37期入校 入校時成績順位180名中第8位
- 1909年(明治42年)11月19日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位は179名中第2位・任 少尉候補生・2等巡洋艦「宗谷」乗組・練習艦隊近海航海出発 大連~仁川~鎮海湾~佐世保~鹿児島~津方面巡航
- 12月29日- 帰着
- 1910年(明治43年)2月1日- 練習艦隊遠洋航海出発 マニラ~アンボイナ~パーム島~タウンズビル~ブリスベーン~シドニー~ホバート~メルボルン~フリーマントル~バタヴィア~シンガポール~香港~馬公~基隆方面巡航
- 1911年(明治44年)1月18日- 巡洋戦艦「鞍馬」乗組 イギリス国王ジョージ5世戴冠式兼観艦式列席
- 11月12日- 帰朝
- 1912年(大正元年)4月24日- 海軍砲術学校普通科学生
- 1913年(大正2年)2月10日- 2等海防艦「高千穂」乗組
- 1914年(大正3年)7月19日- 第17駆逐隊附
- 1915年(大正4年)12月13日- 任 海軍大尉・戦艦「扶桑」分隊長
- 1916年(大正5年)12月1日- 海軍大学校乙種学生
- 1917年(大正6年)5月1日- 海軍航海学校高等科第17期学生
- 1918年(大正7年)12月1日- 在スイス日本公使館附海軍駐在武官 ドイツ語修得従事
- 1920年(大正9年)7月1日- ヴェルサイユ平和条約実施委員 ドイツ軍武装解除確認従事
- 1921年(大正10年)12月1日- 任 海軍少佐・帰朝
- 1922年(大正11年)3月1日- 軽巡洋艦「球磨」航海長
- 12月1日- 海軍大学校甲種第22期学生
- 1924年(大正13年)11月26日- 海軍大学校甲種卒業 卒業成績順位21名中第3位
- 12月1日- 海軍省軍務局第1課 イギリス担当課員
- 1925年(大正14年)12月1日- 任 海軍中佐
- 1927年(昭和2年)10月1日- 海軍軍令部出仕
- 1929年(昭和4年)8月1日- 帰朝
- 1930年(昭和5年)1月10日- 海軍大学校戦略教官
- 1932年(昭和7年)10月1日- 海軍省出仕
- 11月1日- 海軍省軍務局第1課長
- 1933年(昭和8年)9月20日- 横須賀鎮守府附
- 1935年(昭和10年)8月1日- 横須賀鎮守府附
- 11月15日- 任 海軍少将・横須賀鎮守府参謀長
- 1936年(昭和11年)11月16日- 軍令部出仕兼海軍省出仕 兵科機関科将校統合問題研究従事
- 1937年(昭和12年)10月20日- 海軍省軍務局長兼将官会議議員
- 1939年(昭和14年)10月18日- 軍令部出仕
- 1940年(昭和15年)4月29日- 勲一等旭日大綬章受章
- 1941年(昭和16年)1月22日- 『新軍備計画論』を及川古志郎海軍大臣に提出
- 1942年(昭和17年)10月26日- 海軍兵学校長
- 1944年(昭和19年)8月5日- 海軍次官
- 1945年(昭和20年)5月15日- 任 海軍大将・軍事参議官
- 1975年(昭和50年)12月15日- 神奈川県横須賀市長井の自宅で死去。 享年87(満86歳没)
[編集] 新軍備計画論
総論
一、海軍軍備計画ハ根本的ニ改定ヲ要ス
軍令部説明軍備計画ヲ見ルニ、其ノ考へ方ハ、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、其ノ他ノ各艦種及航空兵力ニ就キ、対米比率ノ或ル一定水準ノ保持ヲ目的ト為シ居ルヤニ見エ、口ニハ質ヲ以テ量ノ不足ヲ補フト云フモ、其ノ行キ方ハ単ニ個艦能力ノ優ヲ求メ、之ニ依リ勝テ相ニ考へ居ル迄ナリ。而カモ其ノ口ニ云フ質ノ考へ方モ、其ノ内容ヲ突キ詰ムルトキハ、結局、大砲口径ノ大、登載数ノ大、等ヲ覗ハントスルモノニシテ、矢張量的競争ニ過ギズ、海軍々備全体トシテノ質的ノ考へ方、甚少キガ如ク感ゼラル。殊ニ潜水艦勢力ノ対米比率迄モ気ニシ居ル如キ物ノ考へ方ヲ見ルニ至ッテハ、何処ニ自主的ナル軍備計画アリヤヲ疑ハザルヲ得ズ。素々潜水艦ハ、決シテ相手國ノ潜水艦ト相戦フヲ本質トスル艦タネニ非ズ。想定敵國ト潜水艦保有量ノ比較ハ、軍備條約ニ於ケル両國ノ建艦ノ権利ヲ比較シタル軍備條約時代ノ、単ナル政治的ノ思想ニシテ、其ノ間少シモ兵術的ノ表現シ居ラザル素人ノ考へ方ナリ。
軍令部当局ハ、各艦種ニ就キ、何レモ此ノ思想ニテ軍備計画ヲ立案シ居ルモノノ如ク、成ル程、此ノ思想ハ軍備計画上、一応一ツノ考へ方ニ相違ナク、財力豊富ニシテ、想定敵國ヨリモ優勢海軍ヲ保持シ得ル英・米ノ如キ國情ニ於テ一応首肯シ得ルモ、ソノ思想ハ、海軍々備ノ相対性ヲ極メテ狭ク考へ、各艦種毎ニ優勢ヲ保持スレバ海防ハ安全ナリ、トノ考ニ出発ス。
帝國ハ其ノ國力ニ於テ、英・米ト飽ク迄建造競争ヲ行ハントスレバ、遂ニ彼ニ屈服スルノ外ナキハ、乍残念明瞭ナル事実ナレバ致方ナシ。曩ニ軍縮條約ヲ破棄セル際ノ帝國ノ決心ハ、彼ト量的ノ建艦競争ヲ行ハントセシニ非ズ。軍備ノ自主性ヲ求メントシタルニ外ナラズ。即チ、帝國海軍ハ軍備條約破棄ヲ契機トシテ軍備充実ノ自由ヲ獲得シ、自主的ニ帝國々情、地理的情勢ニ適応セル、特徴アル軍備ヲ充実シ、ソノ特徴ニ因ッテ帝國國防ノ安固ヲ求メントセシ次第ナリ。
然ルニ爾来参年ヲ経過セル今日、軍令部当局ノ立案セル将来軍備計画ヲ見ルニ、其ノ間何等新味ナク、何等ノ特徴ナク、旧態依然タルモノアリテ、最近ノ米國ノ大建艦計画ノ報ニ周章、只只量的ニ彼ニ追及セムコトヲ考へ居ルニ過ギズ。
斯クシテ帝國ハ、対米比率ニ於テ軍備條約時代、條約ノ存在・恩恵ニ依リテ保障(結果ヨリ見レバ此ノ通ナリ)セラレタル約七割ノ軍備ガ、無條約時代ニ至ッテ漸次却ッテ其ノ比率ガ低下セントシ、其比率ノ低下ヲ防ガントシテ四苦八苦ナリト云フガ現状ナルニ非ズヤ。其ノ間、何レニ軍備ノ自主性アリ、何レニ海軍々備ノ特徴アリヤ。軍縮條約破棄ノ際、海軍ガ多大ノ希望ヲ懸ケ、國民ニ迄声明セシ自主的軍備ハ、何処カニ置キ忘レラレタルノ観アリ。殊ニ航空機、潜水艦ノ異常ノ発達ハ、戦争ノ方式ニ大ナル変革ヲ来シツツアリ。又一方、支那問題、東亜共栄圏ノ問題等、帝國ノ地位、東亜ノ情勢ニモ大ナル変化アル今日、吾人ハ徒ラニ米ニ対スル量的競争ノミヲ目途トスルコトヲ止メ、一旦日米開戦ノ暁、日米戦争ハ如何ナル形態ヲ採ルヤ、吾ハ如何ナル作戦を実施スベキヤ、帝國ヲ不敗ノ地位ニ置キ方策如何等ヲ、根本的ニ考察シ、独自ノ見解ニ立チ、新ナル 着想ノ下ニ、新軍備計画ヲ樹立スルノ要、切ナリト謂フベシ。
吾人ハ何モ、帝國ハ英・米ニ比シ劣勢ニ甘ンズルヲ要スルガ故ニ、軍備ノ自主性ヲ論ジ、特徴軍備ヲ主張スルモノニ非ズ。例令帝國ガ英・米ニ対シ、量的ニ優位ヲ保チ得ルトスルモ、軍備ノ自主性ハ常ニ緊要ニシテ、彼ニ対シ充分ナル優勢ヲ保持シ得ルト仮定スルモ、今後艦隊決戦本位ノ建艦ハ、之ヲ止メ、新形態ノ軍備ニ邁進スルノ要アルコト勿論ナリ。
二、日米戦争ノ形態
帝國ガ米國ト交戦スル場合、ソノ戦争ノ形態ヲ考察スルニ、帝國ハ米國ニ敗レザル事ハ軍備ノ形態次第ニ依リ可能ニシテ、又是非共然アルベキモ、又一方、日本ガ米國ヲ破リ、彼ヲ屈服スルコトハ不可能ナリ。其理由ハ極メテ明白簡単ニシテ、
(一)米國ノ本土ハ極メテ広大ナルヲ以テ、其國土全土ヲ攻略スルコトハ不可能ナリ。
(二)米國ノ首都攻略モ(一)ト同一理由ニヨリ不可能ナリ。
(三)日本ハ米ノ作戦軍ヲ殲滅スルコトハ不可能ナリ。
(四)米國ハ物資豊富ニシテ、其ノ國外依存ノ程度少キヲ以テ、封鎖ニヨル苦痛僅少ニシテ、彼ノ死命ヲ制スルニ足ラズ。
(五)米國ノ海岸線ノ長大、帝國ヨリノ遠大距離ニ在ル事、及び太平・大西洋ニ海岸線ヲ有スル為、日本軍ニヨル海上封鎖ハ不可能ニ近シ。
(六)北米大陸ノ中央ヲ占メ、陸境ヲ有スル地理的関係ヨリ、米本國ノ完全封鎖ハ不可能ナリ。
米國ノ対日作戦ハ、日本ガ米本國ヨリ遠大距離ニ占位シ在ルノ一事アル為、米ノ吾ニ対スル作戦ガ、吾ノ米本國ニ対スル作戦ノ困難ナルト同様ノ共通点アルモ、他ノ情況ハ、日ノ米ニ対スルト大イニ趣ヲ異ニシ、
(一)日本国全土ノ占領モ可能ナリ。
(二)首都ノ占領モ可能。
(三)作戦軍ノ殲滅モ可能ナリ。又、
(四)海上封鎖ニヨル海上交通制圧ニヨル物資窮乏ニ導キ得ル可能性大。
(五)海上封鎖モ技術的ニ不可能ニ非ズ。
右ニ述ブル如ク、日本ハ対米戦争ノ場合、米ニ対シ、有ラユル弱点ヲ有スルヲ以テ、吾ニ於テ、万一此ノ弱点ヲ守ルノ方策ニ欠クル処アルニ於イテハ、彼、吾ノ弱点ヲ突クノ公算多ク、帝國々防ノ安泰ヲ期シ難シ。旧時ニ於テハ、戦術的ニ対米決戦ニ敗レザルノ兵力ヲ保有スル事ニ依リ、前述ノ弱点ノ手当ハ完全ニ行ハレ、帝國ノ國防ノ安泰ヲ期シ得タルモ、潜水艦及航空機ノ発達ハ海防上ノ大変革ヲ来シ、旧時代ノ海戦ノ思想ノミ以テハ、何事モ之ヲ律スルヲ得ザルコトニ注意ノ要アリ。今、試ニ、対米戦争ノ場合ノ戦争形態ヲ論述スルニ、概、以下列記ノ通ナリト考ヘラル。勿論、以下ハ、純正ナル兵術思想ヲ基礎トセル経過ノ予察ニ過ギザルヲ以テ、彼レ米ニシテ、突飛ナル作戦ノ挙ニ出ズル場合アラバ、吾人ノ予想ト相違スルコトアルベキハ論ヲ俟タズ。又、戦争ハ相対的ナルノミナラズ、情況ハ千変万化、所謂定形ナシ。故ニ厳格ニ細部ニ亘リ、的確ナル予想ヲ行フ事ハ至難ナルベキモ、全体的ナル荒筋ハ大体ニ於テ当ルモノト見ルベシ。
(一)米國ハ多数ノ潜水艦ヲ日本近海及日本ノ生命交通線ニ活動セシメ、航空機ト協力シ根強ク日本ノ海上交通破壊戦ヲ行ヒ、日本ノ物資封鎖ノ挙ニ出ズルベシ。
日本ハ國家生存及作戦遂行上ノ必要ニヨリ、米ノ潜水艦及航空機ノ攻撃ニ対抗シ、海上交通線ノ確保ヲ要スベシ。此ノ意味ニ於イテ、海軍ノ海上交通確保戦ハ、日米作戦中重要ナル一作戦ナリ。
米の潜水艦及航空機ハ、韮島ヲ初メ、西太平洋ノ米國ノ領土ヲ基地トシテ活動スベク、吾ハ之ガ抜本塞源的方策トシテモ、此等在東洋米國領土ノ攻略ヲ必要トシ、且、之等領土ヲ我ニ占有スルトキハ、所在航空基地ヲ逆ニ我ニ利用シ得ベク、之ニヨリ我ガ航空機ノ活動ヲ更ニ積極化シ、且、前進セシメ得ルノ見地ヨリ、在東洋米領土ノ攻略ハ、殆ンド絶対ニ近キ必要性ヲ帯ビ来ルヲ以テ、日本ハ此等領土攻略戦ヲ実施スベシ。
尚、米ガ対日戦ニ於テ、英其ノ他ノ國ノ領土ヲ作戦ニ利用スル場合ニ於テハ、此等三國領土ニ対スル日本ノ攻略作戦ハ是非共必要トシ、ソノ攻略戦ハ、米ガ作戦ニ利用スル程度ニモヨル事ナルモ、原則トシテハ、帝國領土ニ近キモノヨリ順次ニ足場ヲ固メツツ、歩歩前進的ニ実施セラルベキモノトス。
(二)日本ハ、海上ヨリスル敵ノ攻撃ニ対スル直接帝國領土ノ防衛ノ為ニハ、多数ノ潜水艦及航空機ヲ配ス。彼、又航空機ヲ以テ我ニ対シ、基地攻略ノ手段ニ出ズルベシ。此ノ作戦ハ、韮島・台湾・パラオ間、及南洋方面、季節ニヨリ北海方面ニ於テ行ハルベシ。米ハ時ニ好機ヲ見テ、日本本土ノ空襲ヲ企図スベシ。
コノ意味ニ於テ、吾ハ直接国土防衛ノ方策上、此等米國ノ基地攻略ヲ実施スルノ必要アリ。此ノ要求ハ、第一項ニ論ジタル通商線・交通線確保ノ為ノ米領土攻略ノ要求ト相一致ス。
此ノ米領土攻略戦ニ於テ、日本ノ作戦有利ニ展開シ、在東洋米領土全部ヲ攻略シ得ルニ於イテハ、米國航空機ノ西太平洋ニ於ケル活動ハ大ナル制限ヲ受ケ、爾後ノ作戦ハ概ネ吾ニ有利ニ推移スルヲ得ベク、航空機ト潜水艦ノ活動ニ依リ、米ノ主力艦ノ如キハ、米艦隊長官ガ非常ニ無智無謀ナラザル限リ、生起ノ公算ナシ。
然レドモ、米モ亦、吾ガ前進基地ヨリ漸次ニ作戦正面ヲ狭窄スルガ如ク帝國ノ領土攻略戦ヲ実施スベキヲ以テ、台湾方面、南洋方面、及北海方面ノ基地奪取戦ハ、相互的ノ努力トナル事、勿論ナリ。
側チ、日米相互ノ争フ此ノ領土攻略戦ハ、日米戦争ノ主作戦ニシテ、此ノ成敗ハ帝國国運ノ分岐スル所ナリト言フモ過言ニ非ズ、其ノ重要サハ旧時ノ主力艦隊ノ決戦ニ匹敵ス。 (三)日本ガ韮島ヲ初メ、西太平洋ノ米領土ヲ全部攻略スルコトニ依リ、戦ノ大勢ハ決セラレ、帝國ハ西太平洋ノ事実上ノ王者タリ得ベシ。
勿論、潜水艦ノ存在スル限リ、制海権ノ意義ハ旧時ノ如ク絶対的ナラザル事ニ注意スルヲ要ス。 (四)日本ハ、其潜水艦兵力ヲ以テ、進ンデ布哇及遠ク米本國ニ多数ノ潜水艦ヲ配シ、彼ノ海上交通破壊戦ヲ行フト共ニ、彼ノ水上兵力ニ対シ、機会アル毎ニ突撃ヲ加フベシ。旧来ノ如ク、敵艦隊出撃、西航ノ時機ヲ捕へ、之ヲ通報スルト共ニ、之ニ接触セントスルガ如キ任務ノ如キハ、其実現ノ機会少キヲ以テ、突撃一点張ノ任務を課スルヲ要ス。 (五)以上ノ情況ニ於テ、日米戦争ハ持久戦ノ性質ヲ帯ビ、吾ニモ新シキ手ナク、彼ニモ新シキ手ナク、平凡ナル経過ヲ辿ルベシ。 (六)結論
帝國ハ、以上述ブル所ノ情況ヲ考へ、帝國ヲ先ズ不敗ノ地位ニ置キ、持久戦ニ耐へ得ル丈ノ準備ヲ為シ置ク事、最緊要ニシテ、速戦速決ノ如キハ、云フベクシテ行ハレズ。従ッテ、速戦速決ノ目途トスル艦隊決戦兵力ノ整備ノミヲ考フルトキハ、其ノ整備スラ思フニ任セズ、之ニ焦慮シ居ル間ニ、帝國ヲ不敗ノ地位ニ置クノ方策ニ大ナル欠陥ヲ生ズベシ。其ノ情況ニテ開戦トナルニ於テハ、決戦兵力ノ如キハ之ヲ用フルノ機会ナキ中ニ、帝國ノ最弱点ヲ突カレテ屈スルコトトナルノ危険アル事ヲ認識スルヲ要ス。
三、帝國ノ海軍軍備整備ノ要点
前章ニ於テ日米戦争ノ形態ヲ明ニセシコトニヨリ、帝國海軍軍備ハ何ヲ目途トスベキヤハ自ラ明白ナリ。勿論、日米戦争ガ必然的ニ前述通ノ形態ノ経過ノミヲ辿ルト断言スルヲ得ズ、時ニ吾人ノ予想セザル形態ニ発展スルコトナシトセザルモ、夫ハ概ネ彼ガ兵術常識ニテ考エラレザル型破リノ戦法ニ出デタル場合ナルベク、其ノ場合ニ於テハ、弱点ニ乗ジ彼ノ兵力減殺ノ機会ヲ得ベク、敢テ意トスルニ足ラザルノミカ、吾ニ幸スルモノト云フベシ。
故ニ吾人ハ、前述ノ戦争形態ニ適応セル戦備ヲ整フルコトニ依リ、帝國海防安全ノ万事ヲ解決シ得ルモノナリ。
以下順ヲ追ヒ、帝國海軍々備整備ノ要件ヲ述ブ。
(一)帝國ハ、帝國ノ生存上必要ナル、又戦争遂行上必要ナル、國トシテノ海上補給線ノ確保ニ必要ナル兵力ヲ整備スルヲ要ス。帝國ガ其國家生存上及戦争遂行上、國家トシテ日満支連絡線、並ニ蘭印ヲ含ム西大西洋海面交通線ノ保持ヲ必要トスルヲ以テ、戦時此ノ場合、会敵ヲ予期スル敵兵力ハ、航空機、潜水艦及機動水上部隊ナルベク、吾ハ之ニ対応スル兵力ヲ保持・運用スルヲ要ス。
[編集] 主要著述物
- 思い出の記 井上成美私稿
[編集] GHQ歴史課陳述録
- 海軍の和平案、陸海軍統合問題、米内海相留任などについて 1950年(昭和25年)
[編集] 脚注
- ^ 井上成美は県立宮城県第一中学校(明治34年7月1日 - 明治37年5月31日の名称)、宮城県仙台第一中学校(明治37年6月1日-大正8年10月31日の名称)の13回生(明治35年入学 - 同40年卒業)として、一貫して宮城県仙台第一高等学校の(「正会員 中学の部」)同窓会(卒業者)名簿にも掲載されている。在学中の明治37年に学校の名称変更など制度改正があった。つまり井上成美が県立宮城県第一中学校に入学した後に学校が分校して宮城県仙台第一中学校と宮城県仙台第二中学校ができたので、両方の卒業生として名前が記載されている、という意見もある。
- ^ 阿部と井上の妻が実姉妹だった。
- ^ 2008/12/05NHKニュース・最後の海軍大将 自衛隊への"遺言"」
- ^ 珊瑚海海戦当時の連合艦隊スタッフの電報ファイルには、井上の事を指して「バカヤロー」「弱虫」などといった悪口雑言が赤鉛筆で書かれていたという。作戦目標であるポートモレスビー攻略に失敗した事が最大の要因とされているが、これらの酷評ぶりには、常日頃井上の鋭い舌鋒に言い負かされ続けてきた者による恨み・反感が少なからず込められていたとの指摘もある。
- ^ 「いくさが下手でした、といわれています」と語った事もあるといわれている。
- ^ 戸高一成などからは、井上の指揮ぶりを検証したうえで、アメリカ相手にウェーク島及び珊瑚海いずれの戦闘でも痛み分け若しくは日本が僅かながら優勢といえる戦果を残している事から、総じて手堅い指揮であった評されている。
- ^ 「井上さんは結局、リベラリストとして一生を貫かれたことになりますか」という質問に、「いえ、その前に『ラジカル』がつきます」と答えている。
- ^ 艦長の井上の方が、兵に気を遣って寝ていた。
- ^ 普通は謝罪では済まない。
- ^ 講義は予備学生出身の武官教官がボランティアで行っていた。
- ^ この教育を受けた「ボーイ」の中には、戦後大学に入り大学講師になった者もいるという。
- ^ 海軍士官には必需品であり、必ずポケットに忍ばせていたというSA(エスエー。海軍隠語で言うコンドーム)が井上のポケットからはついに一度も出て来なかったという。阿川弘之『井上成美』にはSAを持たなかった井上が、相手の芸者に持ってないなら帳場へ行ってもらって来てくれと言うのを、恥ずかしいからイヤだし、いつも無しで済ましてますという芸者との間でのコミカルなやりとりが書かれている。
- ^ 『最後の海軍大将 井上成美』
- ^ 阿川本には「私の在任中でなければ(この改正案は)おそらく通るまい」と暗に皇族部長の威光をかさに通してしまえとの伏見宮の発言がある。
- ^ a b 『朝日ジャーナル』昭和51年1月16日号掲載。この記事は、1970年4月末に井上のインタビューをテープに収録したもので、直ちに発表される予定だったが、「関係者に存命の者もいるので、私が死ぬまで発表したくない」との井上の希望により、すぐには発表されなかった。
- ^ 事実、日本語版からはヒトラーの人種観、特にアジア人に対する蔑視的表現が削除されている。該当項目参照のこと。
- ^ 陸海軍の協定により租界内の警備は海軍陸戦隊が一手に行い、陸軍は入ることが出来なかった。
- ^ 晩年に再婚している。
- ^ 『思い出の記』より。米内は前日には東京の待合にいて事件の事は全く知らず、横須賀線の始発電車で横須賀に帰って来たという説もあり、待合の女中の妹の挙式が2月25日に行われ米内も出席して朝風呂を浴びて出たといい、井上はそれを知っており『思い出の記』で適当に取り繕ったという話もある。
- ^ 1940年8月7日の軍令部会議での発言。
- ^ 中山定義『一海軍士官の回想』
- ^ 「あと2年もすれば日本がこの戦争に負けるのは決まり切っている。だけど公にそんなことを言うわけにはいきません。そんな顔をすることすら出来ない。名分の立たぬ勝ち目のない戦だと内心思っていても、勅が下れば軍人は戦うのです。新しく兵学校を巣立って行く候補生にだって、私の立場ではしっかりやって来いとしか言えない。軍籍にある者の辛いとこですよ。それならしかし、負けた後はどうするのか。とにかくこの少年達の将来を考えてやらねばいかん。皆で滅茶苦茶にしてしまった日本の国を復興させるのは彼らなんだ。その際必要な最小限の基礎教養だけは与えておいてやるのが、せめてもの我々の責務だ。そう思ったから、下の突き上げも上層部からの非難も無視して敢えてああいうことをやりました」と阿川弘之のインタビューに答えている。
- ^ この案については大多数の英語教官が賛成であったが、長年兵学校で教鞭を取っていた名物教授で「源内先生」と生徒から呼ばれていた平賀春二は井上の英語教育に批判的で、「語学の授業時間が多い旧制高校や、時間がたっぷり取れた大正時代の兵学校であれば理想的だが、授業時間が削られ修行年限が短縮された当時では到底無理なことだ」と従来通りの和訳式の授業を貫いている。また井上の人柄についても「井上さんは蒸留水だよ。あれほど面白味がない提督も珍しいくらい。考え方も理想的すぎる」と批判的に述懐している。
- ^ 陸士生徒から海兵生徒へ相当の働きかけがあったらしい。
- ^ 「校長として指示を出した場合には無条件に従ってもらう。批判は許さない。が、一緒に考えてもらいたい時には自分の考え方を「漫語」という形で出す。これは自由に批判検討してもらって構わない。その批判を受けて自分もまた考える」と述べている。
- ^ これを、井上自身『政治はやらなくていい約束の井上の政治活動第一号』と自嘲している。
- ^ これも、『政治はやらなくていい約束の井上の政治活動第二号』と言っている。米内は長谷川清大将を後任にしようと海軍省に呼び寄せたが、井上の意図を聞いた長谷川は留任するよう米内を説得に回った。井上はのちにこの長谷川の態度も絶賛している。鈴木内閣の仮人事案では井上が大臣になっていたが、それを見た井上は「私が大臣なんてとんでもない。自分が大臣不適任ということは自分がいちばんわかっているし、次官がやれるから大臣もやれるという問題ではない」と米内を推した経緯がある。
- ^ 天皇自身は最高幕僚長設置にはかなり乗り気で率先して設置を勧めたと『東久邇日記』に書かれているが、『昭和天皇独白録』によると当時海軍大臣の米内光政が最高幕僚長に就任するという条件なら賛成、という意見を述べたという。陸軍も海軍に案を呑ませるために幕僚長に海軍軍人が就任することで妥協したが、米内・井上の猛反対で実現はしなかった。
- ^ 井上本人は反対の意見書を提出するなど強く辞退していた。
- ^ 次官は大将の任用ポストではないため。しかし大将の次官は過去に沢本頼雄の例があるので問題はなく、次官は井上本人の意思で辞めており米内も慰留はしていない。
- ^ 俗に言う「井上温存説」。過去に米内は海軍次官だった山本五十六の暗殺を恐れ、連合艦隊司令長官として海上に出したことがある。
- ^ 吉田俊雄も井上温存説を支持している。阿川弘之は『井上成美』では中立の立場で書いているが、個人的には温存説支持という見方をしている。
- ^ 高木は万事に鈍重な米内に苛立ち、米内を病気を理由に更迭し後任に井上を据えテキパキ捌いてもらおうと考えたという(平瀬努著『高木惣吉正伝』)。大井は後年、井上に大西の軍令部次長就任を批判したところ、「大西を米内さんに推薦したのはボクだよ」と答えたという。しかしそれを答えた時の井上の表情が何かぎこちないと感じた大井は、「これは米内さんを庇っている」としている。しかし、一部には「大西さんが次長か。これは戦争を終わらせるつもりだな」と感じた士官もいたという。
- ^ 昭和天皇も、井上のことには触れていないが、豊田・大西の人事に関しては天皇自身「司令官として成績不良の者を総長に持ってくるのはどうか」と米内に苦言を呈したこともあったが、どうしてもと米内に押し切られた経緯があり、「これは米内の(人事の)失敗である」と述べ、米内自身も「豊田には裏切られた」と言っている。また、多田は本土決戦派ではなかったがクラスで仲が良かった大西に毎日のように責め立てられ、ノイローゼ気味になってやがて健康上の理由で海軍省に出勤しなくなった。
- ^ 高木自身も「報告場所が海軍省から水交社に変わっただけだ」と著書で述べている。
- ^ 阿川は米内の指示としている。
- ^ 水交社に滞在していたのは、海軍士官及びその関係者しか入れない水交社だと終戦工作の打ち合わせが行いやすいし怪しまれもしない、それ以前に部外者が入れないので秘密が漏れる可能性が少ないとの配慮だったとも言われる。娘の静子の舅にあたる丸田幸治元海軍軍医中将が当時重病で倒れていたが、軍事参議官になって暇が出来たはずの井上が婿の戦死のお悔やみも含めて見舞いに来ないのに憤慨し、また律儀な性格な井上にしては珍しいと不思議がっていた。しかし終戦後二日後に丸田と旧知である副官を連れて見舞いに訪れ、「これで安心した」とその数日後に息を引き取った(丸田研一著『わが祖父 井上成美』)。このことから、軍事参議官になっても依然終戦工作の指示を送り模索していたことが推測される。
- ^ GHQから豊田が忌避され米内留任、最後の海軍大臣となる。
- ^ この講座は、授業の中休みのおやつの時間に行われていたのだが、後年再婚することとなる富士子夫人の後日談によると、井上は夫人に自身の持ち物を鎌倉の質屋で換金させ、塾生の菓子代に充てていたという。物資が不足していた時代だっただけに、塾生の菓子代を捻出する為に、身の周りの殆どの物を売り払うこととなったが、「子供もかわいいが、海軍の軍帽だけは残してくれ」として、軍帽だけは決して手放そうとしなかったという。
- ^ これは井上が音頭を取ってトラック島に進出した「小松」の支店が空襲で焼け、多数の死者が出たことへの謝罪も含んでいるという。
- ^ 昭和天皇の「井上はどうしているか」との言葉を受けて、長井町の自宅を訪ねた侍従も「私は御用の済んだ者です」と門前払いにしている。
- ^ 防衛大学校の講演も二つ返事で断っている。
- ^ 井上、冨士子の死後、ほぼ手付かずのまま預金された通帳が出てきている。(阿川弘之「井上成美」)
- ^ 高木は葬儀のあと、無理が祟り体調を崩し、生死の境をさまよう。
[編集] 参考文献
- 『戦史叢書・第79巻』 中国方面海軍作戦(2) (防衛庁防衛研究所戦史部 編・朝雲新聞社)
- 『戦史叢書・第38巻』 中部太平洋方面海軍作戦(1) (防衛庁防衛研究所戦史部 編・朝雲新聞社)
- 『井上成美』(井上成美記念刊行会 編)
- 『井上成美』(阿川弘之 著・新潮社) ISBN 4-10-300414-2 C0093
- 『米内光政』(阿川弘之 著・新潮社) ISBN 4-10-300413-4 C0093
- 『山本五十六』(阿川弘之 著・新潮社) ISBN 4-10-300415-0 C0093
- 『高松宮日記』(細川護貞・阿川弘之・大井篤・豊田隈雄 編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
- 『海軍の昭和史』(杉本健 著・光人社) ISBN 4-404-01662-X C0021
- 『高木惣吉日記と情報・上下巻』(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 『海軍少将高木惣吉語録』(藤岡泰周 著・光人社) ISBN 4-7698-0375-3 C0095
- 『昭和陸海軍の失敗―彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか』(半藤一利・秦郁彦・平間洋一・保阪正康・黒野耐・戸高一成・戸部良一・福田和也 編・文藝春秋) ISBN 4166606107
- 『日本海軍、錨揚ゲ!』(阿川弘之・半藤一利 共著・PHP研究所)ISBN 4569664253
- 『海に帰る』(横山一郎著・原書房)
- 『最後の海軍大将 井上成美』(宮野澄・文藝春秋)
- 『反戦大将 井上成美』(生出寿 徳間書店)
- 『一海軍士官の回想』(中山定義 著・毎日新聞社)
- 『日本陸海軍の制度・組織・人事』(日本近代史料研究会 編・東京大学出版会)
- 『海軍兵学校沿革・第2巻』(海軍兵学校 刊)
- 『海軍兵学校出身者名簿』(小野崎誠 編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)
- 『あゝ海軍』(大映・1970年) 森雅之演じる海軍兵学校校長のモデル
(批判的な意見を述べた著書)
- 『戦略爆撃の思想 ゲルニカ―重慶―広島への軌跡』(前田哲男 著・朝日新聞社。新訂版、凱風社)ISBN 9784773630091
- 『愚将井上成美 日本の敗因を探る』(岡文正 著・サクセス・マルチメディア・インク。)ISBN 4-88588-043-2

