井上成美

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井上 成美
1889年12月9日 - 1975年12月15日
Inoue Shigeyoshi.jpg
渾名 三角定規[1]剃刀[2]、沈黙の提督、最後の海軍大将
生誕地 日本の旗 宮城県仙台市
死没地 日本の旗 神奈川県横須賀市
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1906年 - 1945年
最終階級 海軍大将
多磨霊園
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井上 成美(いのうえ しげよし、1889年(明治22年)12月9日 - 1975年(昭和50年)12月15日)は、大日本帝国海軍軍人(兵37期)。最終階級は海軍大将。宮城県仙台市出身。

条約派の人脈に属し、米内光政(兵29期)、山本五十六(兵32期)らと共に日独伊三国軍事同盟日米開戦に強硬に反対した。最後の海軍大将として知られたが、戦後はほとんど人前に出ずに生涯を終えた。

目次

[編集] 略歴

宮城県第二中学校[3]を経て、1906年(明治39年)11月に海軍兵学校に181名中9番で入校[4]

1909年(明治42年)11月の兵学校卒業(37期)時の席次は179名中2番で、恩賜の双眼鏡を拝受[5]練習艦隊での第一期実習、実施部隊に配属されての第二期実習の後、1910年(明治43年)12月15日に「海兵37期 137名 の最先任者」で海軍少尉に任官した。以後、井上は海兵37期のクラスヘッド(最先任者)として海軍生活を送った。[6]

兵科将校としての専門は航海科(海軍大学校乙種学生・専修科学生<航海術>卒業)[7]

海軍大学校甲種学生(22期)を卒業。

1927年(昭和2年)にイタリア駐在武官1932年(昭和7年)に海軍省軍務局第一課長、1935年(昭和10年)に横須賀鎮守府参謀長などを歴任。横須賀鎮守府参謀長としては、司令長官の米内光政を補佐し、1936年(昭和11年)の二・二六事件の際は青年将校グループを叛乱軍と断定し、即座に海軍陸戦隊東京に派遣し海軍省の警備につかせるなどの対応をとった。

1936年(昭和11年)、永野修身海軍大臣の特命により、兵科機関科一系問題について約1年間研究し、「4年間の教育期間を維持できるなら一系化を推進すべし」という旨の答申を作成した後、1937年(昭和12年)、海軍省軍務局長に就任。米内光政海軍大臣山本五十六海軍次官と共に日独伊三国軍事同盟条約締結に強硬に反対し、一度は阻止した。

1939年(昭和14年)の支那方面艦隊参謀長1940年(昭和15年)の航空本部長を経て太平洋戦争開戦時は第四艦隊司令長官であった。航空本部長としては「新軍備計画論」を及川古志郎海軍大臣に提出して、軍令部の大艦巨砲主義を批判し、海軍の空軍化を主張した。第四艦隊司令長官としてはウェーク島攻略作戦珊瑚海海戦などを指揮した。

1942年(昭和17年)10月より海軍兵学校校長に就任。敗戦を予感し、卒業生の今後のために普通学(数学、語学等)を軍事学より重視し、その一環として当時陸軍等に「敵性語」とされた英語教育廃止論を断固として退けた。

1944年(昭和19年)、米内光政が現役復帰して海軍大臣に就任すると、米内に請われて海軍次官として中央に復帰。海軍省教育局長の高木惣吉海軍少将に終戦工作の研究を指示、米内を援け早期和平に向けて尽力する。1945年(昭和20年)5月に大将に昇進し、次官を退任して軍事参議官となる。塚原二四三(兵36期)とともに大日本帝国海軍最後の海軍大将であった。

敗戦後は横須賀市長井に隠棲した。井上の旧居(ソレイユの丘付近)は一部分が保存され、小さいながら記念館として一般に無料開放されている。

2008年(平成20年)10月に防衛大学校内に設置された槇智雄(初代校長)記念室には、旧海軍軍人の中ではただ一人井上が紹介されている。

[編集] 海兵37期の先任順位について

帝国海軍の人事制度では、ハンモックナンバー(海兵同期生の中での先任順位)が重視された。

海軍兵学校の歴史を通じて唯一、井上が属する海兵37期(卒業時179名)は、同期生が揃って少尉任官せず、かつ、兵学校卒業時に席次2番であった井上が、少尉任官以降は最先任者(クラスヘッド)となった異例のクラスである。井上を最先任者とする海兵37期137名が1910年(明治43年)12月15日に少尉任官したのに対し、序列下位の約1/4は、約3ヶ月遅れの1911年(明治44年)年2月27日に少尉任官した。兵学校卒業席次が1番であった小林万一郎[8]は病気のため「任官3ヶ月遅れ組」に入った。[6]小林万一郎の先任順位は、海兵卒業時には1番であったのが、少尉任官後は138番以下に急降下したことになる。

「海兵同期生が揃って少尉任官しない」という、極めて異例の事態が生じた背景に、練習艦隊司令官の伊地知彦次郎少将が海軍省に提出した文書が2点指摘される。

  1. 伊地知司令官から海軍省教育本部長への報告書に「成績については、兵学校の成績・第一期実習での成績の両方を総合しても小林が1位、井上が2位である。しかし、兵学校長、兵学校教官、練習艦隊指導官らの多数意見は『人物においては、井上が小林に勝っている』である。この点を特にお伝えする」というくだりがある(防衛省戦史部に現存)。[9]
  2. 井上と海兵同期の木幡行(最終階級は海軍少将。「任官3ヶ月遅れ組」)が、1929年(昭和4年)に海軍省教育局員を務めていた時、伊地知司令官が斎藤実海軍大臣に宛てた意見書を発見した。木幡によると、その内容は「37期の候補生の後半(序列下位者)は、練習航海中の勤務・成績共に不良。彼らの反省を促すため、37期候補生の後半の任官を半年遅らすべし」とあった。[10]

[編集] 人物像

  • 名前「成美」の由来は、論語顔淵篇の一節 「子曰く、君子は人の美を成す、人の悪を成さず、小人はこれに反す」。[11]
  • 「いのうえ せいび」とも呼ばれていた形跡がある。1981年に英国で刊行された日英海軍の関係をテーマとした研究書に、「イノウエ シゲヨシ海軍少将、海軍省軍務局長。イノウエ セイビという呼び方で、より知られている…」と記載されている[12]。井上は海大甲種学生22期を卒業しているが、井上は最先任であったのでこの期の学生長を務めた[13]。海大甲種学生22期の同期会は「済美会(せいびかい)」という名称だった[14]。阿川弘之は1986年(昭和61年)に刊行した井上の伝記「井上成美」のタイトルに『いのうえせいび』とルビを振っている。
  • 1966年頃に、東大経済学部教授の安藤良雄の「(井上さんが)生涯を通じて堅持して来られたのはリベラリズムということになりましょうか」との問いに、「いえ、その前にラディカルという字が入ります」と答えた。[15]
  • 宮城県第二中学校時代の学籍簿が現存している。中学4年終了時の成績は「60人中1番、優科:数学、劣科:漢文、運動:不定[16]、嗜好:音楽と細工」とある。第二中学校の同級生の回想では「井上君は恐ろしく頭が良く、数学と英語が得意だった」とのこと。この同級生の回想は、井上が少将で海軍省軍務局長だった1939年(昭和14年)2月23日の朝日新聞宮城県版に掲載された。[17]
  • 井上の音楽好きは、の名手であった母親譲りで、琴をはじめとして、ピアノギターアコーディオンヴァイオリンなどを奏きこなした。海軍士官時代、井上の音楽好きは海軍部内で有名で、支那方面艦隊参謀長時代に、上海水交社に臨時に司令部を置いていた時には夜にピアノやヴァイオリンを奏いたり、宴席で芸者と琴の合奏をほぼぶっつけ本番で披露して周囲の舌を巻かせたり[18]と言ったエピソードが多い。戦後に開いていた英語塾では、ギターやアコーディオンで「弾き語り」をし、生徒に英語の歌を歌わせた[19]。ギターやアコーディオンの個人指導もした[20]。戦後、横須賀市長井に隠棲する井上を訪ねた「比叡」艦長時代に飛行長だった今川福雄大佐(兵52期)[21]に、「私は海軍に入っていなかったら、今ごろきっとお琴の師匠で身を立てていただろうと思います」と語った[22]
  • 井上は手先がたいへん器用で、戦後に軍人恩給が停止されて貧窮生活を送っていた時、病弱な娘のために、竹製の寝たままで用便出来る介護用ベッドを自分で作り、またパン焼き器・万年カレンダー・太陽熱湯沸かし器など様々な器械を「発明」していた。長井の住居には工房があり、木工・金属加工の道具類が一通り揃っていた。これらは、戦前、井上が海軍将官であった時に買い揃えたものであった。[23]バリカンで自分の頭を坊主頭にするのも造作なかったという[24]
  • 井上を含め、親族には数学に長じた者が多い。「家族・親類関係」で詳述。井上は、兵学校校長時代に、生徒や教官の数学的思考を養うための「数学パズル」を考案して数学教育に利用させ、海軍次官になった後も暇さえあればそれを楽しんでいた。終戦直後に「サン・パズル」という名前でアメリカに販売しようとした。日米開戦時の駐米大使館附武官で、アメリカに知己の多い横山一郎少将(兵47期)の助けを得たが、この企画は実現しなかった[25]。「数学パズル」は、1944年(昭和19年)の、財団法人東京水交社機関誌「水交社記事」に、井上が執筆した詳細な遊び方、図解、数学的な解説が掲載されており、復元可能である[26]
  • 井上の語学力の高さを示すエピソードは多い。
  1. 兵学校の三号生徒(一学年、井上在校時の兵学校の在校期間は3年)の頃の井上は、「英語の成績の悪い生徒」として教官から名指しされた。井上は、英語が抜群と評価されていた同期生に英語の勉強方法を尋ね「英語の小説、"Adventures of Sherlock Holmes" でも原書でどんどん読め」と助言され、同書を手に入れて読んでみたものの歯が立たなかったとのこと。入校時に181名中9番の好成績だった井上は、二号生徒(二学年)に進級する時は16番に席次が下がった。しかし、二号生徒になるまでには英語力を高め、二号生徒の一学期には1番となった。[27]
  2. 支那方面艦隊参謀長として上海に在勤中に、井上の下で最後任の参謀であった中山定義少佐(兵54期恩賜、のち中佐、戦後に海上幕僚長)は、井上に、英語の勉強を勧められた。中山が兵学校でドイツ語履修組であり、英語力が不足していたため。上海は、共同租界内に住むイギリス人が多く、英語を学ぶのに適した環境であり、そのための部屋も借りてあった(原文ママ)ので、中山もそこで勉強することにした。井上は中山に自らの語学習得の苦しみについて「外国語の単語というものは、ちょっとやそっとで覚えられるものではないよ。ぼくは辞書の覚えられない単語にマークをつけたが、マークの数がどんどん増えてしまってね。なかには一つの単語に十何回もマークをつけたものがあったよ」と語った。中山は、海軍部内で頭脳明晰を謳われる井上が語学で自分同様に苦労したと知って、励みになったという。[28]
  3. 戦後、長井の井上宅を訪れた今川福雄大佐が井上に「井上さんは語学の才能に恵まれているから、(新制の)中学生に(初歩の)英語を教えるくらい、わけないでしょう」という趣旨のことを言うと、井上は「それは間違っています。私は私なりに努力したのです」と答え、イタリア駐在武官に赴任する際に、一ヶ月の船旅の間にイタリア語の独習書をひもといて現地に到着したら何とかカタコトでも会話ができるようになりたいと努力した、人はこの(自分の陰の)努力を知らずに語学の天才のように言うが、これは誤りだと言った。なお、井上はイタリア駐在武官に着任後、元小学校教師の大使館のタイピスト嬢を相手に、毎朝、食堂で1時間、イタリア語を勉強した。[29]
  4. 青年士官時代に3年間ドイツとフランスに駐在し、その間にドイツ語とフランス語をマスターした[30]。戦後の井上は「海軍生活において、ドイツ語は日独伊三国軍事同盟に役に立った程度だが、フランス語は、後々の勤務において外国人との付合いに使う機会が多く大変役に立った」と述懐している[31]。戦後、英語塾を開く傍ら、高校生にフランス語の個人教授をしていた[32]。英語については、戦後に英語塾を開いていたのは有名だが、敗戦後に進駐してきた米軍との折衝に部下を伴って赴き、部下の英語力が不十分と見た井上は自らアメリカ側と話し始め、要件を全て自分で片づけてしまうだけの英会話力を有していた[33]
  5. アドルフ・ヒトラーの「Mein Kampf」の和訳本「我が闘争」が1937年(昭和12年)に刊行・ベストセラーになり、ドイツびいきの世論形成に一役買っていた。井上は、ドイツ語の原書を読み、和訳本「我が闘争」では除かれている日本人を蔑視する記述を把握し、海軍部内に注意喚起していた(「海軍省軍務局長時代」で詳述)。
  • 剛直で理論家肌の性格と切れすぎる頭脳が災いし、相手が面目を失うまで手厳しく論破したり(航空本部長時代に、マル5計画を審議する海軍首脳会議の席上で、マル5計画を提出した軍令部を徹底的に論破した。「海軍航空本部長時代」で詳述)、相手の欠点を遠慮なく口に出す(敗戦後の1950年(昭和25年)に井上の次兄の井上達三陸軍中将が死去した際、井上は葬儀に上京した。葬儀の参列者に、元海軍士官で早いうちに予備役となった者がいた。親戚の一人が「あの人はいい人なのに海軍を早く退いて・・・」と言ったのに対し、、井上は言下に「(海軍を早く)辞めされられたのには、それだけの理由があったのだ」と言い放った。[34]ような無遠慮な点があった。海軍部内には井上を良く言わない者が多く、海兵同期生にも井上を嫌う者が少なくなかった[35]。しかし、井上の温かい人柄、特に弱い者への優しさを伝えるエピソードも多い。
  1. 「比叡」艦長時代、井上が翌朝まで帰艦しない予定で上陸した。従兵長の下士官が、その隙に艦長室のベッドで熟睡してしまったのを、予定を切り上げて帰艦した井上が見つけた。井上はこれを誰にも言わず、懲罰を受けずに済んだ従兵長は井上の恩情を長く徳とした。[36]
  2. 井上は、支那方面艦隊参謀長時代には、方面艦隊司令部所属の軍楽隊に目をかけ、旗艦「出雲」内に、他の邪魔にならない練習場所を確保してやったり、国際都市の上海ゆえに一流の楽団の演奏会や音楽映画の上映があると、ポケットマネーで切符を買って全楽員を行かせたりと、物心双方で援助をした。琴やピアノの演奏に長けており、音楽の素養が深い井上は、軍楽隊が演奏する都度、気がついたことを楽員にアドバイスした。休日には日本人公園で野外演奏を行わせ、外国人を含む聴衆から拍手を受ける経験を積ませ、軍楽隊の士気を高めた。[37]
  3. 第四艦隊司令長官時代には、トラック所在の第四海軍軍需部の少女傭員であった奥津ノブ子(当時15歳)を可愛がった。大東亜戦争開戦後の1942年(昭和17年)夏に、邦人婦女子が内地へ送還されることになり、奥津も「ぶら志゛る丸に乗って内地へ向かったが、出港翌日に「ぶら志゛る丸」は米海軍潜水艦に撃沈された。1942年(昭和17年)8月5日の深夜であった。1隻のカッターと3隻の救命艇が救助した生存者は、23日もの漂流の末、日本の飛行機に発見され、救助船が向かってトラックに戻ることが出来たが、奥津は生存者の中に入っていた。トラックに生還した奥津が、井上の所に報告を兼ねて挨拶に来た時、艦隊司令長官たる井上が、一介の傭員に過ぎない奥津の前で正座して「申し訳ない」と言い、深々と頭を下げ、ポケットマネーで購入した身の回り品や当座の生活資金を与えた。井上が兵学校長に転補されてトラックを去る日、奥津は長官用自動車に乗ることを許され、井上が乗る九七式飛行艇が横付けされた桟橋まで行って井上を見送った。奥津は、1943年(昭和18年)3月に便船を得て内地に帰ることができ、以後は神奈川県小田原に住んだ。奥津は兵学校長として広島県江田島にいた井上に手紙で帰国を知らせ、井上は奥津の帰還を祝う手紙を出し、以後、井上は奥津と文通をしていた[38]1944年(昭和19年)、井上が海軍次官として東京に戻ると、奥津は土産の梨を持って海軍省に井上を訪ねた。敗戦の混乱で井上と奥津の音信は途絶えたが、1949年(昭和24年)に、井上が奥津の戦前の小田原の住所に手紙を出してみた所、その住所に戦後も住んでいた奥津から落花生の小包が井上に届き、文通が復活した。軍人恩給の復活(1953年(昭和28年)まで、ほとんど収入がなく「貧民のような食生活」を余儀なくされていた井上は、栄養のある落花生の贈り物を大いに喜んだ。1963年(昭和38年)6月には、奥津が長井に隠棲する井上を訪ね、21年ぶりの再会が叶った。奥津は、井上からパラオ出張の土産に贈られた鼈甲のコンパクト、「ぶら志゛る丸」沈没後にトラックに生還した際に井上から贈られた絹の靴下(奥津は、一度も足を通さずに保存していた)を、井上の没後も大事にしていた。[39]
  4. 兵学校長時代には、校内の雑用係の「ボーイ」(尋常高等小学校の高等科を卒業後に上級学校に進めなかった少年達で、15-16歳程度だった)に、何とか教育の機会を与えたいと考え、希望者を募って20人くらいの班を2つ作り、午後3時から5時まで2時間の授業を1日おきに実施した。課目は、井上が、少年たちに一番大事と考えた数学と英語の2科目とし、講師には兵科予備学生出身の武官教官を宛てた。兵学校の元・文官教官が、「ボーイ」達が授業を受けている時に井上がしばしば視察に来て、後ろに座って授業の様子を見ていたこと、終業式の際に成績優秀者に三省堂のコンサイス英英辞典が井上のポケットマネーで提供されていたことを語っている。その元・文官教官は、戦後に広島大学を訪れた時に、この教育を受けた「ボーイ」の一人が、理科関係の助手を務めているのに出会った。広島大学をいつ訪問したのか、その「元ボーイ」がその後どのような人生を歩んだか、などは不明。[40]
  5. 同じく兵学校長時代。兵学校教官は、休日には担当する分隊の生徒を官舎に呼んで妻の手料理を振る舞う慣習があった。戦争が激化して物資が不足しているのに、実験的に2つの分隊を担当させられた教官がおり、2倍の生徒に手料理を食べさせるために出費が嵩み、かつ娘が栄養失調で入院してしまい、家計のやりくりがつかなくなった。これを知った井上は、その教官宅に校長命令で粉ミルクやパンなどを特別配給させて深く感謝された。[41]
  • 少将・大佐クラスで終戦を迎えた、海軍省・軍令部での勤務経験を有し、井上を良く知っているエリート海軍士官たちの座談会が、雑誌『歴史と人物』1981年(昭和56年)5月号に掲載された。その中で、井上について、小島秀雄少将(兵44期)、松田千秋少将(兵44期)、野元為輝少将(兵44期)、 黛治夫大佐(兵47期)、横山一郎少将(兵47期)が語っている。インターネット上にその記事が転載されている。外部リンク / 前記URLのウェブ魚拓
  • 44歳で大佐の時に妻の喜久代に先立たれたにも関わらず、女性に対して極めて禁欲的だった[42]。妻を亡くしてから海軍が消滅するまで、宴席で料亭に行っても、他の高級士官のように芸妓と遊ぶ(一夜を共にする)事はなく、布団の中で洋書を読むのがお決まりの過ごし方だったという。横須賀鎮守府参謀長時代に、一度だけ芸妓と泊まったことがあり、名指しされた芸妓が驚いた程であった。しかし、その芸妓とコンドームの使用を巡って押し問答となり、結局何もせずに終わった[43]。昭和40年代、晩年の井上を経済的にバックアップしていた兵学校長時代の教え子の深田秀明(兵73期)の質問に対し、井上は「私は先妻の喜久代を結核で亡くした。娘も私も、これに感染している恐れが十分あった。事実、娘の靚子は戦時中に結核を発病して夭折した。だから、コンサンプションと呼ばれる胸部疾患に私は極めて神経質で、それを警戒してずっと禁欲生活を続けてきた」と語った[44]
  • 宴席に侍る芸妓たちからは好感を持たれていた。井上と学生・部下として5回接した[45]山本善雄少将(兵46期)は「(井上が)面白味がない、人間的に冷たいと言う人がいるがそれは違うと思う。公務の時には表に出ない内面の優しさや温かさを、女が敏感に感じ取っている。だからあれだけ芸者たちに慕われるんだ」と戦後に述べた[46]
  • 海軍省軍務局員であった1925年(大正14年)、榎本重治書記官(東京帝大法科卒の国際法の権威。大正期から、海軍が1945年(昭和20年)に消滅するまで奉職し、海軍教授(海軍大学校教官)兼 海軍書記官として、海軍文官の最高位である、中将と同格の高等官1等に至った。[47])に「治安維持法が近く成立するが、共産党を封じ込めずに自由に活動させる方がよいと思うが」と問われた井上は無言であった。二十数年が経った戦後のある日、横須賀市長井の井上宅を初めて訪ねてきた榎本の手を握って、井上は「今でも悔やまれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。いまのように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争が起きなかったのではあるまいか」と語った。[48]

[編集] 海軍省軍務局第一課長時代

大佐で海軍大学校教官であった井上は、海軍省軍務局長の寺島健少将(兵31期、条約派の中心人物)の指名により、1932年(昭和7年)11月1日に海軍省軍務局第一課長の要職に補された。同日に妻の喜久代が肺結核で死去した(37歳没)。[49]

1933年(昭和8年)3月、軍令部が「軍令部条例並に省部[50]事務互渉規定改定案」を提起した。この案は、そのまま通せば軍令部に戦争決定のフリーハンドを渡すに近いものであった。[51]

海軍軍令部長の伏見宮博恭王元帥(以下「伏見宮」)は、皇族軍人としては空前の海軍士官としての力量を有し、日露戦争での実戦・戦傷経験を含め、海上勤務経験が豊富で、海軍部内に絶大な影響力を有していた。昭和天皇も伏見宮に一目置いていた。[52]

伏見宮は、「軍令部令並に省部事務互渉規定改定」の試案を見て、「私の在職中でなければ恐らく出来まい、是非やれ」と、軍令部次長の高橋三吉中将(兵29期)を激励した[53]

軍令部の試案を通読した井上は、この件を担当局員に任せずに自ら処理することとした。海軍省を代表する井上に対する、軍令部側の代表は、軍令部第二課長で(艦隊派)の中心人物であった、兵学校で一期上の南雲忠一大佐(兵36期)で、南雲からは「殺すぞ」と何度も脅迫された。井上は、海軍高級士官である南雲が自分を殺さないとしても、他の者に暗殺される可能性を考慮して遺書を書き、執務机の引き出しに入れていた。遺書の表書は「井上成美遺書 / 本人死亡せばクラス会幹事開封ありたし」、本文は「どこにも借金はなし。娘は高女(高等女学校)だけは卒業させ、出来れば海軍士官に嫁がせしめたし」であった。[54]

「軍令部条例並に省部事務互渉規定改定案」(決裁権限者は海軍大臣)を、海軍省の主務課長である井上が決裁しないため、改定案は半年経っても成立する見込みが立たず、そのことを知った伏見宮が、軍務局第一課長を更迭して改定案を通すよう示唆し、自身の辞職をちらつかせて海軍省に圧力をかけた[55]

海軍大臣である大角岑生大将(兵24期)は、八方美人の異名がある人物であり、伏見宮の圧力に屈した[55]。大角海相以下の海軍省首脳部が改定案に同意し、1933年(昭和8年)9月16日土曜日の朝に、井上の直属上司である軍務局長の寺島健中将が井上を局長室に呼び、

「こんな馬鹿な案によって制度改正をやったという非難は局長自ら受けるから、枉(ま)げてこの案に同意してくれないか」

と、井上の肩に手を置いて懇願するように言ったが、井上は

「自分が正しくないと思うことに、私は同意出来ません。同意しろと言われるのは、私に節操を捨てろと迫られるに等しく、私は節操を捨てたくありません。どうしても通す必要があるなら、一課長を更迭してこの案に判を捺す人を持って来られたらよろしいでしょう。私としても、事態を紛糾させた責任は感じております。今日まで、正しいことの通る海軍と信じて愉快に御奉公して参りましたが、こんな不正の横行する海軍になったのなら、私はそのような海軍に居りたくありません」

という旨を返答し、軍服を背広に着替えて鎌倉の家に帰った。海軍次官の藤田尚徳中将(兵29期)の意を体した使者が、その晩に井上宅を訪問して翻意を促したが、井上は拒否した。[56]

海軍大臣秘書官だった矢牧章少佐(兵46期)によると、週明けの9月18日月曜日に、井上は、海軍大臣室から「第二種軍装の胸に勲章を吊って」出て来た。矢牧は、井上が大角海相に進退を伺い、予備役編入を願い出たと解釈した。矢牧が入れ替わりに大臣室に入ると、大角海相は「そうまで思いつめんでええと言うんだが、井上が諾かんのだ。何遍言っても諾かんのだ。困ったな、困ったな」と赤い顔をして言った。[57]

一日置いた9月20日に、井上は横須賀鎮守府附という予備役編入を前提とするような辞令を受けた[57]。軍務局第一課長には井上より三期下の阿部勝男大佐(兵40期)が補され、軍令部条例と省部事務互渉規定が大角海相の決裁により改正され、昭和天皇の裁可を得る運びになった[57]。しかし、昭和天皇は大角の上奏に対し、「突っ込んだ質問をして、一旦書類を下げ渡す」という異例の対応をし、大角は顔面蒼白になったという[58]

これらの改定の結果、下記のようになった。[58]

  • 海軍軍令部の呼称が軍令部に、海軍軍令部長の呼称が軍令部総長に変った。
  • 軍令部の権限が大幅に強化され、海軍省の機能が制度上・人事上弱体化した。

伏見宮が「井上をいいポストにやってくれ」と言った由で[59]、井上は予備役編入されず、横須賀鎮守府附となってから2ヶ月後の11月15日付で戦艦比叡艦長に補された。

[編集] 「比叡」艦長時代

「比叡」艦長への補任時、井上は大佐昇進後5年目であった。通常は一つの軍艦の艦長任期は1年だが、井上は「比叡」艦長を2年務めて、クラスヘッドの慣例通りに、海兵37期で最初に少将に昇進した[60]

海軍における慣例として、大佐昇進から少将昇進には6年を要した。6年目の大佐として現役に残っていれば、1年後の少将昇進が確実であった[61]

1933年(昭和8年)11月の「比叡」艦長への補任は、1922年(大正11年)11月に海大甲種学生を仰せ付けられて以来、井上にとっては11年ぶりの海上勤務だった。陸上勤務の長かった井上に戦艦の艦長が務まるかと危ぶむ声もあったが[59]、もともと「航海屋」である井上は、1935年(昭和10年)4月1日に、大連港の桟橋に「計算尺が操艦しているようなやり方で」ぴったり接舷させて、大連港港務部長に「戦艦が本港に横付けしたのは初めてです」と操艦の腕を賞賛された(当時、戦艦のような大型艦船は入港しても沖合いに錨泊するのが普通だった)[62]

練習戦艦となっており、横須賀鎮守府所属の警備艦であった「比叡」にはカタパルトがなく、配備されていた九四式水上偵察機(94式水偵)は横須賀海軍航空隊に預けられていた。井上は、「比叡」飛行長の今川福雄大尉の操縦する94式水偵にしばしば同乗し、飛行機についての知見を実地で得た。飛行科出身でない艦長が、搭載機に同乗するのは異例であった。井上とこうして親しく接した今川は、井上の人格に惚れ込み、後には、井上の了解を得て、井上の名前「成美」にあやかって息子を成雄(しげお)、娘を美子(よしこ)と名付け、戦後も度々井上宅を訪ねた。[63]

井上は、「比叡」の若手士官に対して、国粋思想の影響を受けた、陸上での会合に出席することを禁じた。その上で、「軍人勅諭」を極めて具体的かつ現実的な見方で平易に説いた「勅諭衍義」と題した冊子を、「比叡」乗組の士官全員に配布した。この「勅諭衍義」は、後に井上が兵学校長に着任した際にも、教官兼幹事に参考資料として配付された。その際に井上が自らつけた説明文に

「本稿記述の当時(1934年(昭和9年))は5.15事件後にして海軍部内思想動揺時代(之は少々過言かも知れず、然し本職は左様考えて対処せり)なりしことを念頭に置きて之を読むの要あり」

とある。井上は、5.15事件以来の右翼的思想がはびこることを警戒して、「比叡」の若手士官たちに

「軍人が平素でも刀剣を帯びることを許されているのは、国を守るという極めて国家的な職分を担っているからである。統帥権の発動もないのに勝手に人を殺せということではない」

と繰り返し諭した。[64]

「比叡」艦長に就任した翌年の1934年(昭和9年)に、三浦半島の西側、横須賀市の反対側の神奈川県三浦郡長井町[65](当時)の、相模湾が一望できる崖の上に[66]井上の家が完成した。赤屋根に2本の煙突がある洋館であった[67]

井上が1975年(昭和50年)12月に死去した直後に、この家を訪れたNHKプロデューサー(当時)の中田整一は「(井上の旧居は)横須賀市のはずれ、相模湾を望む荒崎海岸の切り立った崖の上に立つ、洋風の二間ばかりの小さな家であった」と記している[68]

この家は、もともと、1932年(昭和7年)11月1日に肺結核で死去した妻の喜久代の療養所として計画された。喜久代は、井上がイタリア駐在武官に赴任する頃(1927年(昭和2年)に肺結核に罹患した。当時、肺結核の治療法は「空気の清浄な場所で、十分な栄養を取って静養する」以外になかった。井上は、イタリアから帰国して海軍大学校教官に補された(1930年(昭和5年)1月)後は、空気の良い鎌倉に家を借りて喜久代を療養させていたが、さらに「空気の良い所」を求めた。井上の長兄の秀二が、長井町に別荘を建てていたので、その土地の一部を譲り受けた。井上は、秀二の別荘に泊まりに行っては、半年もかけて具体的な計画を練った。[69]高名な土木技術者であった秀二が、井上に建築設計上のアドバイスをしたと思われる。

「比叡」艦長時代に、長井の新宅への訪問客が「海に面していて、風の日はさぞきついでしょう」と尋ねると、井上は図を描いて

「この家の建っている崖はこういう形で、快速軍艦の艦橋前面に似ている。ここを補強して強風が直接当たらずに上へ吹き抜けるようにしている。三浦半島のこの辺では台風時の瞬間最大風速が何メートル程度、風向きはこのように変るので、崖の先端からベランダまでこのくらい離して、屋根を何センチ低くした」

と、細かい説明をしたという[70]

横須賀軍港在泊の「比叡」艦内に起居する井上は、毎週末には長井の新宅に戻った。一人娘の靚子は、東京・西大久保の阿部信行陸軍大将宅(阿部の妻が、喜久代の長姉[71]。)に寄宿して、お茶の水高女(東京女子高等師範学校附属高等女学校)[72]に通っていたが、週末には長井の井上宅に戻ってきて、父娘二人で水入らずの生活を楽しんだ。夏休みには、靚子が女学校の友達を連れてくることもあった。[73]この頃、井上宅に通じる畑の中の道は、自動車が通れる道幅があり、井上宅の玄関先まで自動車が入れた[74]

井上は1935年8月1日付で「比叡」艦長を退任し、再び横須賀鎮守府附となった。6年目の大佐が、少将昇進の前に現職を離れるのは異例であった。[75]今川福雄によると、井上は戦後に「私は、少将昇進後は新設される第三航空戦隊の司令官に補されると内定していました。時局が急変したので、第三航空戦隊の新設が流れ、横須賀鎮守府参謀長になったのです。海軍の人事は予定通り行きません」という旨を語った。[76]

[編集] 横須賀鎮守府参謀長時代

1935年(昭和10年)11月15日、少将に任ぜられると同時に横須賀鎮守府(横鎮)参謀長に補される。半月遅れの12月1日付で、米内光政が横須賀鎮守府司令長官に着任した。ここに米内と井上の初めてのコンビが成立し、井上は米内の信頼を得た。後に海軍大臣となった米内の下で、井上が軍務局長や海軍次官として本領を発揮できたのも、この横鎮時代の二人の信頼関係による所が大きい。[77]

井上は「五・一五事件で海軍に先にやられた陸軍が暴発する恐れがある」と考えていた。長官の米内の承認を得て、いざという時、即座に兵力を東京の海軍省に差し向けられるように、下記のように準備した。その目的は、長官(米内)・参謀長(井上)・先任参謀の3名しか知らなかった。[78]

  1. 鎮守府所属の兵員で特別陸戦隊1個大隊を編成して、2回召集し、顔合わせと訓練を行った。
  2. 横須賀所在の砲術学校に要請して、掌砲兵20人をいつでも鎮守府に呼集できるように準備した。万一の時には海軍省に派遣し、大臣官房の走り使いや連絡に当たらせ、または小銃を持たせて海軍省の警備に当たらせる。
  3. 横鎮所属の警備艦「那珂艦長に、昼夜雨雪を問わず、芝浦に急行できるよう研究を命じた。如何なる場合でも、特別陸戦隊1個大隊を東京に急派するため。

1936年(昭和11年)の正月に、横須賀地区の陸海軍首脳の懇親会があった。宴会がたけなわになった頃、酔いが回った横須賀憲兵隊長の陸軍憲兵少佐が井上の前にやって来て、井上に議論を吹きかけ、井上を「貴公」[79]と何度も呼んだので「君は少佐ではないか、私は少将だ。少佐のくせに少将を呼ぶのに貴公とは無礼な。海軍ではな、軍艦で士官が酒に酔って後甲板でくだをまいても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼をするんだ。これが軍隊の正しい姿だ。君のような礼をわきまえない人間とは酒は飲まん」と席を立った。井上が別室でお茶漬けを食べていたところ、憲兵隊長と海軍少将2名がケンカをしていると芸者たちが報告に来た。井上は「どっちが勝ってるか」と質問し、「憲兵隊長がなぐられてます」という事を聞くと、「そんならほうっておけ」とだけ言った。翌日、(酔いが醒めて反省した)憲兵隊長が横須賀鎮守府に井上を訪問して謝罪した際は、「あとであやまらにゃならん様なことをするな」とだけ言って幕を下ろした。[80]

井上はかねてから新聞記者に理解があった。戦後になって

「新聞記者も商売だ。彼らの成り立つように考えてやる(適切に情報を開示する)ことが必要だ。その反面、利用もできる」

と語っている。横鎮に着任すると、庁舎内に記者控室を作ってそこに参考図書を備えるなど、新聞記者に便宜を図った。[81]

1936年(昭和11年)2月20日頃、横鎮出入りの新聞記者から井上に情報が入った。東京の警視庁の前で、陸軍が夜間演習を行ったというのである。日頃から井上が新聞記者を大事にしてきた成果であった。井上は警戒態勢に入った。2月26日の早朝、官舎で就寝中の井上に、副官から電話が入った。「新聞記者から、本日早朝に陸軍が反乱を起こしたという情報が入った」という内容であった。井上は、幕僚全員を横鎮に非常召集するよう命じて、自分も直ちに登庁した。[81]

井上が、横鎮に着くと、既に幕僚たちは全員揃っていた。副官から詳細な情報を聴いた上で、かねて用意の手を打った。井上の事前準備が功を奏し、下記の措置は混乱なく実施された。[82]

  1. 横鎮砲術参謀を自動車で東京へ実情実視に急派。[83]
  2. 掌砲兵20人を海軍省に急派。
  3. 特別陸戦隊用意。
  4. 木曽」急速出港用意[84]
  5. 横鎮麾下各部隊は自衛警戒。

午前9時近く、長官官舎の米内から「俺も出て行った方がいいか」と電話がかかってきた。井上は「当面の手は全て打ちましたが、やはり長官が鎮守府においでの方がよろしいでしょう」と返答した。米内は、早朝に副官から事件の報告を受けていた。[85][86]

登庁した米内は、井上に、陸軍反乱部隊が宮城を占領したら如何すべきかを問うた。井上は

「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を「比叡」(横鎮所属)においで願いましょう。その後、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを言っても、海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく(陛下に)軍艦に乗って頂ければ、もうしめたものだ」

と即答した。[87]

時を同じくして、特別陸戦隊を乗せた「木曽」が正に出港しようとしていた時に、軍令部から「待った」がかかった。警備派兵には手続が要り、横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのであっても、軍令部総長が天皇の統帥命令を伝達するという形式を踏まねばならないという内容であった。軍令部は「横須賀鎮守府特別陸戦隊(曩<さき>に派遣のものを合せ四(個)大隊を基幹とす)を東京に派遣し海軍関係諸官庁の自衛警戒に任じしめらる」という命令を出し、兵力に注文をつけてきた。この時点で横鎮が用意していた特別陸戦隊は一個大隊であったので、三個大隊を急ぎ追加編成する必要が生じた。そのため、横鎮特別陸戦隊4個大隊(井上と海兵同期の佐藤正四郎大佐が指揮)は、その日の午後遅くにようやく東京・霞ヶ関の海軍省(現在の農林水産省本庁舎の場所)に到着した。井上にとっては誠に不本意な結果であった。[88]ただし、結果としては、陸戦隊4個大隊を編成・派遣したことで、陸軍反乱軍と同等の陸戦兵力を海軍省に配備することができた(後述)。

戦後の井上の見解では、

  1. 2.26事件当時の軍法によると、横鎮の所管区域である「神奈川県・東京府の海岸海面」上で、横鎮麾下の警備艦を行動させるのは、横鎮長官の専権事項として実施できた。
  2. ただし、海軍省警備のために陸戦隊を芝浦に上陸させるのは、「陸上」は横鎮の所管区域ではないため、横鎮長官の権限を越えたかもしれない。これは、長官の有する「警備」権限の解釈、すなわち『鎮守府令』第2条「鎮守府は所管海軍区の警備に関することを掌り」の解釈の問題である。[89]
  3. 結果としては軍令部の干渉に屈してしまったが、「木曽」を芝浦に回航するのは、軍令部が何を言おうが、横鎮長官の判断で出来たのだから、直ちにやるべきだった、と悔やんでいる。

とのこと。[90]

井上が、海軍省軍務局一課長時代に、生命と職を賭して反対した「省部事務互渉規程の改訂」により、改訂前は海軍大臣の権限だった「国内警備艦戦部隊の派遣」に、軍令部が干渉できるようになっていた。軍令部が、横鎮の素早い動きに待ったをかけたのは、井上の軍務局一課長時代の危惧が当たったことになる。[90]

海軍省に到着した横鎮特別陸戦隊四個大隊を率いる佐藤正四郎大佐は、砲術学校教頭を務める陸戦の権威であった。2,000余名の陸戦隊を指揮して、反乱軍(歩兵のみで1,500名程度の兵力と言われる)と対峙した。佐藤は、反乱軍の襲撃を受けて射殺された(とされていた)岡田啓介首相(予備役の海軍大将、兵15期)の遺体が首相官邸に放置されているだろうことに気づいた。佐藤は反乱軍と交渉して、佐藤と参謀1名が岡田の霊前に参拝することを了承させた。佐藤らは、陸戦隊の自動車に軍艦旗を掲げ、反乱軍が占拠する首相官邸に入った。佐藤は、岡田が連合艦隊司令長官だった時期に、連合艦隊旗艦「長門」の砲術長の職にあり、岡田の人相を良く知っていた。佐藤は、「岡田首相」の遺体の顔にかかった布を取った瞬間に、それが岡田の遺体ではない(岡田の義弟、松尾伝蔵が岡田の身代わりに反乱軍に射殺されていた。岡田は無傷で、女中の協力を得て首相官邸内に潜んでいた)ことに気づいた。海軍省に戻った佐藤は、海軍大臣の大角岑生大将に岡田の生存を報告した。その後、岡田首相は首相官邸から脱出し、反乱軍の手中から逃れた。[91]

[編集] 兵機一系化問題

井上は1936年(昭和11年)11月に「軍令部出仕兼海軍省出仕」に補された。海軍の長年の懸案だった「兵科将校と機関将校の一系化 (兵機一系化)」問題の解決に専念するため。海軍大臣の永野修身大将(兵28期)の特命による。[92]

翌年、井上は「兵科将校と機関科将校の両方の勤務をこなす少尉候補生の育成には、現在の兵学校・機関学校の修業年限4年でも不足。4年の修業年限を維持するなら、一系化を促進すべし」という答申書を、海軍次官の山本五十六中将に提出した。[93]

井上が答申書の条件としていた兵学校・機関学校の修業年限「4年」は、答申書提出翌年の1938年(昭和13年)3月卒業の兵65期・機46期まで維持されたが、1939年(昭和14年)3月卒業予定だった兵66期・機47期は支那事変により1938年(昭和13年)9月に繰上卒業して「3年6ヶ月」となり、戦争の激化で最終的には「2年4ヶ月」に短縮された。[94]

[編集] 海軍省軍務局長時代

井上は1937年(昭和12年)10月20日に海軍省軍務局長(海軍軍政の最重要ポスト[95])に補された。前任者は豊田副武中将(兵33期)であり、大幅な若返り人事であった。米内光政大将が海軍大臣に、山本五十六中将が海軍次官に既に就任していた。海軍省詰めの新聞記者たちは、やがてこの三人を「海軍省の左派トリオ」と呼んだ。[95]

井上が軍務局長に就任したのは、1937年(昭和12年)8月13日に、中国国民党軍が、上海共同租界に駐留する上海海軍特別陸戦隊(司令官は井上と海兵同期の大川内傳七少将)を攻撃して第二次上海事変が始まり、支那事変(当時の正式な呼称)が本格化した時期であった。上海海軍特別陸戦隊が国民党軍の攻撃に耐えているうちに、帝国陸軍部隊が上海付近に派遣され、戦勢が逆転して、上海海軍特別陸戦隊の包囲が解かれてからは、海軍は揚子江(当時の呼称)上の軍艦による艦砲射撃、及び航空機による空からの攻撃で陸軍に協力していた。

揚子江流域は、イギリス・アメリカ・フランスの権益が多く存在する地域であり、それらの国との摩擦が各所で起きており、海軍に関係のある問題は全て軍務局長である井上の所へ集中した。戦後の井上の回想では

「(中国における軍事行動においては、常にアメリカを刺激しないように、起こらせないようにと苦心し、)航空部隊の連中には誠に気の毒だったが、その軍事行動に非常に厳しい制限が加えられ(ていた)」

という。その矢先に、海軍の艦上爆撃機隊が、南京付近の揚子江に碇泊中のアメリカ砲艦を誤爆・沈没させる「パネー号事件」が1937年(昭和12年)12月12日に発生した。井上は、アメリカの態度硬化を危惧し、山本次官と共に、素早く、かつ率直に日本海軍の非を認め、パネー号事件を収拾すべく奔走した。日本政府は、当時の常識を越える多額の賠償金220万ドル=670万円[96]を支払い、駐日大使グルーを通じてアメリカに陳謝する措置を取り、いったんは硬化したアメリカの世論を沈静化した。[97]

戦後に井上は

「昭和12、13、14年にまたがる私の軍務局長時代の2年間は、その時間と精力の大半を(日独伊)三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な努力でなしに、唯陸軍の全軍一致の強力な主張と、之に共鳴する海軍若手の攻勢に対する防禦だけに費やされた感あり」

と回想している[98]

ただし、井上は日独伊防共協定は容認していた。満州事変以後の国際的孤立状態からの脱出、及び共産主義に反対の立場からである。[99]

ドイツは、元来は国民党政府と親密であったが、支那事変の激化と時を同じくして、親日的な政策に転換し、既存の日独伊三国防共協定を強化して軍事同盟化すべく日本に打診してきた。ドイツと同盟することで北方のソ連を牽制し、支那事変を解決しようと考える陸軍の一部、特に陸軍省・参謀本部の中堅(佐官クラス)はドイツの動きに積極的に呼応した。海軍部内にも三国同盟に肯定的な者が少なくなかった。新聞や雑誌のマスコミは、これに迎合して、イギリス・アメリカ・フランスの「露骨な援蒋行為」を批判し、ドイツの「躍進」ぶりを持ち上げて、反英米・親独の世論を煽っていた。しかし、米内・山本・井上の「海軍省の左派トリオ」は、上記のような動きに絶対反対の態度を堅持した。[100]

井上は、三国同盟締結の得失を下記のように考えていた。[101]

  1. 経済的に見て、三国同盟は論外。日本経済は、そのほとんどを米英圏に依存している。特に海軍にとって最重要の鉄と石油はアメリカから購入している。三国同盟を結べば、イギリス、さらにアメリカを敵に回し、日本は鉄と石油の供給を絶たれる。ドイツとイタリアが代わりに日本に鉄と石油を供給してくれることは有り得ない。
  2. 軍事的に見て、三国同盟は無意味。地理的に遠く離れた日本とドイツ・イタリアは相互援助が不可能である。
  3. ドイツのヒトラーは、『Mein Kampf』で述べているように、有色人種を蔑視して、ドイツ民族による世界制覇を目指しており、いずれ破綻するのは目に見えている。イタリア駐在武官時代の経験から、イタリアは、外見は立派でも頼むに足りない。

ヒトラーの『Mein Kampf』は、1937年(昭和12年)末に三笠書房から『わが闘争』(大久保康雄訳)として出版され「話題の書」と持て囃されていたが、和訳本は、英語版からの重訳、かつ部分訳であり、アーリア民族至高主義者であるヒトラーが、日本人に対して露骨な侮蔑と嫌悪感を示している部分は省かれていた。[102]

ドイツ語に堪能な井上は『Mein Kampf』を原書で読み、ヒトラーが日本人蔑視を公言していることを知っていた。井上は、軍務局長名で海軍省内に下記のような通達を出した。[102]

「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは三思三省の要あり、自戒を望む」

井上が、三国同盟に強力に反対した最大の理由は、ドイツが提案してきた条約案に、自動参戦義務条項、すなわち

「ドイツまたはイタリアが戦争状態に入った場合は、日本は自動的に戦争に加担する」

という条項があったからである。三国同盟を主張する陸軍と、それに反対する海軍の交渉が進むにつれ、論点は「自動参戦条項」の有無に絞られた。陸軍はこれを是認し、海軍は絶対反対であった。[103]

この頃について、戦後の井上は次のように回想している。[104]

「海軍で(三国同盟に)反対しているのは、大臣、次官と軍務局長の三人だけということも世間周知の事実になってしまった。山本次官が右翼からねらわれているとの情報あり、次官に護衛をつけ、官舎へ帰る途順を色々変えたり、秘書官が心配して私に、催涙弾でもお持ちになってはいかがですかと申し出たのもこのころのことであった」

三国同盟を巡る陸軍と海軍の対立が頂点に達した1939年(昭和14年)8月上旬には、陸軍がクーデターを起こすのではないか?という見方が、海軍省の井上らの周囲で強まってきた。[105]

しかし、このような状況は、8月23日に、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結したことが伝わると一変した。ドイツは、日本との軍事同盟が進展しないのに業を煮やし、それまで敵視していたソ連と抜き打ちに手を結んだのである。平沼騏一郎内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」という声明を発して総辞職すると共に、日独伊三国同盟は阻止された。よって、直後の9月1日にドイツのポーランド侵攻、それに対するイギリス・フランスの宣戦布告によって始まった第二次世界大戦に、日本は当面は巻き込まれずに済んだ。[106]

1939年(昭和14年)10月10日、井上の一人娘の靚子が、海軍軍医大尉の丸田吉人(よしんど)と結婚した[107]。井上が軍務局長の職を去るのはそれから間もなくであった。

[編集] 支那方面艦隊参謀長時代

井上は、1939年(昭和14年)10月23日に支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長に補され、上海に在泊する支那方面艦隊旗艦「出雲」へ赴任した[108]。直後の11月15日に井上は中将に任ぜられ、同時に支那方面艦隊の組織改編により第三艦隊参謀長兼任を解かれた[109]

日本軍が陸上から攻撃することが不可能な重慶で抗戦を続ける蒋介石政権を崩壊させるため、1940年(昭和15年)5月1日から9月5日までの約4ヶ月間、「百一号作戦」が実施された。陸海軍の航空兵力を結集して、四川省方面の中国空軍を撃滅し、重慶の蒋介石政権の機関、軍事基地、援蒋ルートを破壊することを目的としていた。海軍側の主力は、従来から支那方面艦隊の指揮下にあった第二連合航空隊、第三連合航空隊と、連合艦隊から増援された第一連合航空隊であり、漢口方面の飛行場に集結した総機数は、陸攻・艦攻・艦爆・艦戦を合せて約300機に達した。[110]

井上は6月4日に漢口へ飛び、航空部隊総指揮官である、第一連合航空隊司令官の山口多聞少将(兵40期)、第二連合航空隊司令官の大西瀧治郎少将(兵40期)をはじめとする将兵を激励した。支那方面艦隊参謀長が最前線に出るのは異例のことであり、百一号作戦に寄せる井上の期待が大きかったことを伺わせる。[110]

百一号作戦の開始当時は、重慶を爆撃可能な航続力を持つ九六式陸上攻撃機を、航続力の短い九六式艦上戦闘機が護衛できないことであった。そのため、戦闘機の護衛なしで重慶付近を爆撃する陸攻隊の損害が日を追って増えた。航続力が飛躍的に長く、強力な武装を備えた零式艦上戦闘機が、正式採用前の「十二試艦上戦闘機」として漢口に送られ、15機が揃って8月19日から実戦に参加した。9月13日に、重慶上空で、零戦13機が27機の中国軍戦闘機隊を捕捉し、中国軍戦闘機を全滅させて零戦側は全機が帰還するという大戦果を挙げた。以後、重慶上空の制空権は日本側に移り、重慶爆撃の戦果は大いに上がった。[111]

井上は、支那方面艦隊参謀の中山定義少佐(兵54期)のみを従えて[112]、8月6日に九六式陸攻の特別機を仕立てて上京し、翌日、軍令部第一部長の宇垣纏少将(兵40期)ら海軍省・軍令部の十数名と会談し、支那方面艦隊の現状報告ならびに中央への要望を行った。以下は、中山の回想による。

井上は、

「われわれは海軍航空隊による重慶を初めとする中国奥地戦略要点の攻撃に重点を置いており、その成否は、当面する支那事変解決の鍵と確信している。この作戦は日露戦争における日本海海戦に匹敵するとの認識のもとに全力投球している」

と述べ、陸攻の増派をはじめとする具体的な増強案を提示した。中山少佐が、これで井上の要望は終わったかと思った所、井上は一段と語調を強めて

「中央には、対支作戦を推進し、その完遂を期すとしながら、その上に第三国(アメリカ・イギリス)との開戦に備える動きがあると仄聞するが、万一事実とすれば以ての外である。今や我が国は支那事変だけでも大変な状況に陥っており、この泥沼から抜け出す見通しが立たない状況である。この上、第三国たる大国を相手に事を構えるが如きは論外であるというのが、現地部隊である支那方面艦隊の実感である」

と述べた。中央側の出席者は沈黙するのみであった。宇垣少将の「御主旨はよくわかりました」という短い挨拶でこの会議は終わった。[113]

前年の1939年(昭和14年)9月に欧州で第二次世界大戦が始まっており、この1940年(昭和15年)の6月16日にフランスがドイツに降伏していた。井上が東京で上記の発言を行った翌月の9月27日に、井上が軍務局長時代に一度は葬った日独伊三国軍事同盟が締結される状況であった。しきりに入るドイツ軍優勢の情報について、中山少佐が、井上に感想を求めた所、井上は即座に

「ドイツ軍は必ず負けるよ」

と答えたという。[114]

8月18日に、軍令部から、支那方面艦隊司令部宛に無電で「北部仏印作戦準備のため、第一連合航空隊を9月5日に内地に引き揚げさせることに手続き中」という返答があった。支那方面艦隊先任参謀の山本善雄中佐(兵47期)によると、「蒋介石政権を空襲で崩壊させるため、支那方面艦隊の航空兵力をさらに増強されたい」という意見具申と「支那事変をそのままに、第三国と事を構えるなど言語道断」という意見具申を、二つとも無視された井上の怒りは大変なものであったという。[115]

井上は、支那方面艦隊司令長官の嶋田繁太郎中将(兵32期)の了解を得て、長官名で、軍令部次長の近藤信竹中将(兵35期)宛に再度の意見具申電を発したが、軍令部は「先に井上参謀長が上京して意見具申をした時、軍令部は、御主旨はわかったは言ったが、その通りやるとは言っていない」と井上を馬鹿にするような応対をした。これに対し、井上が「軍令部に駄目押しをしなかった自分の手抜かりであった、辞職する」と言い出した。支那方面艦隊の参謀副長の中村俊久少将(兵39期)と山本善雄中佐が井上を説得し、ようやく収まった。井上が「海軍を辞める」と言ったのは、海軍省軍務局一課長当時に続き2回目であった。[116]

中村俊久少将は、自他共に認める温厚な性格で、日頃は出番が少なかったが、中山少佐に

「自分にもたった一つだけ他人には真似の出来ない取り柄があるんだ。それはね君、剃刀井上のなだめ役さ」

と言ったという。[117]

井上が支那方面艦隊参謀長の職を離れる直前の1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国同盟が締結された。北部仏印進駐と合せ、日本は対米英戦争への道を大きく踏み出した。[118]

[編集] 海軍航空本部長時代

井上は、1940年(昭和15年)10月1日に、海軍航空本部長に補された。12月16日には、丸田家に嫁いだ娘の靚子が長男の研一を産んだ。[119]

井上は、戦後に、山本親雄少将に「自分は支那方面艦隊参謀長のとき、航空が最も重要だと思い、嶋田繁太郎司令長官(大将、兵32期)に、航空関係への転勤希望を申し出ていたところ、これが容れられた」と語っており、井上の希望通りの人事であった[120]

戦後に、井上は下記のように語っている。[121][122]

「戦艦なんか造ったって、飛行機が進歩したらだめだぞ、戦にならないぞという考えは、二、三年前の昭和12年頃から私の頭にあった。大きな戦艦なんか造るのはむだだ、と会議があるたびに出したわけです」

井上の航空重視の考え方は、海軍省軍務局長として2年間に渡り軍政の中枢に位置し、かつ支那方面艦隊参謀長として航空作戦に直接携わり、決定的になったものと考えられる[123]

海軍航空本部は、海軍省の外局であり、航空機の開発製造、航空関係の人員養成、航空関係設備の整備などを管掌する[123]

井上の航空本部長時代のハイライトは、「新軍備計画論」を起草し、海軍大臣の及川古志郎大将(兵31期)に提出したことである。「新軍備計画論」は、1940年(昭和15年)初頭に軍令部が作成した「第五次海軍軍備充実計画案」(略称のマル五計画で知られる。日本の国力を超えた計画であり、ほぼ実行されずに終わった)を、軍令部が海軍省に予算を請求する趣旨で開かれた省部首脳会議に航空本部長として出席した井上が

「この計画(マル五計画)を拝見し、かつ、ただいまの御説明(軍令部第二部長の高木武雄少将<兵39期、のちに戦死、大将>が説明した)を聴くに、失礼ながらあまりにも旧式で、これではまるで明治・大正時代の軍備計画である。・・・かような杜撰な計画に膨大な国費を費やし得るほど日本は金持ちではないし、仮りにこの計画通りの軍費が出来たとしても、こんなことでアメリカに勝てるものではない。・・・軍令部はこの要求を一応引っ込めて、とくと御研究になったらよいと思います」

と痛烈に批判した井上が、その対案として作成したものである。[124]

「新軍備計画論」は、井上自筆(ペン書き)の原本が、防衛省防衛研究所に現存している[125]。戦後に井上自身が、骨子を下記のようにまとめている。[126]

  1. 航空機の発達した今日、之からの戦争では、主力艦隊と主力艦隊の決戦は絶対に起らない。
  2. 巨額の金を食う戦艦など建造する必要なし。敵の戦艦など何程あろうと、我に充分な航空兵力あれば皆沈めることが出来る。
  3. 陸上航空基地は絶対に沈まない航空母艦である。航空母艦は運動力を有するから使用上便利ではあるが、極めて脆弱である。故に海軍航空兵力の主力は基地航空兵力であるべきである。
  4. 対米戦に於ては陸上基地は国防兵力の主力であって、太平洋に散在する島々は天与の宝で非常に大切なものである。
  5. 対米戦では之等の基地争奪戦が必ず主作戦になることを断言する。換言すれば上陸作戦並びにその防禦戦が主作戦になる。
  6. 右の意味から基地の戦力の持続が何より大切なる故、何をさておいても、基地の要塞化を急速に実施すべきである。
  7. 従って又基地航空兵力第一主義で航空兵力を整備充実すべきである。之が為戦艦、巡洋艦の如きは犠牲にしてよろし。
  8. 次に日本が生存し、且(かつ)、戦を続ける為には、海上交通の確保は極めて大切であるから之に要する兵力は第二に充実するの要あり。
  9. 潜水艦は基地防禦にも、通商保護にも、攻撃にも使える艦種なる故、第三位に考えて充実すべき兵種である。

上記では言及されていないが、「新軍備計画論」の原本には、『日米戦争の形態』の一節がある。「日本が米国を破り、彼を屈服することは不可能なり。其理由は極めて明白簡単にして・・・」と説明し、その上で「米国は、日本国全土の占領も可能。首都の占領も可能。作戦軍の殲滅も可能なり。又、海上封鎖による海上交通制圧による物資窮乏に導き得る可能性大」と述べている。[127]

史実の大東亜戦争では、艦隊決戦は起らず、水上艦は米軍航空機や潜水艦の餌食となった。戦況は太平洋の島々の争奪戦となり、米軍は占領した島を基地として日本本土空襲を行った。井上は、大東亜戦争の経過を、1941年(昭和16年)の段階で概ね正確に予想し、その意見を公にしたと認められる。[128]

当初、井上はこのような内容の意見書を個人の意見として提出するつもりであった。ところが、井上が「新軍備計画論」を起草して航空本部総務部長の山縣正郷少将(兵39期)に見せた所、山縣少将が「ぜひ航空本部長の名で出して下さい」と言ったため、井上が考え直し、1941年(昭和16年)1月30日付で、海軍航空本部長から海軍大臣宛に正式に提出された。[129]

井上は、これを、及川海相に直接、手渡しで提出した。井上の戦後の回想によると、井上は、及川に「確かに受け取った」と言わせた後で

井上「これでいい。私はこれでやめます。正しいことが一つも通らない海軍はいやになったから、馘を切って下さい」

及川「馘は切らんよ。やめさせない」

という問答があったという。[130]井上が「海軍を辞めます」と言ったのは、海軍省軍務局一課長時代、支那方面艦隊参謀長時代に続いて三度目である。

井上は、この時の心境を、戦後に下記のように述べている。[131]

「井上は破壊的な議論ばかりするという声が耳にはいったからです(省部連絡会議で、マル五計画を痛烈に批判したことを指す。『伝記』 289ページ)。これじゃいかんと思ったので、建白書に自分の考えをまとめたのです。ただ破壊的に、こんなもの(マル五計画、その他の日本海軍の考え)はダメだと批判していただけではない。ずっと以前から、どういう軍備が必要かということを考えていたのだ、ということを示すためにもね。それで私はやめますっていったんだ」

「私はいわゆる大艦巨砲主義に反対して、海軍の空軍化を力説したのだが、あれは航空本部長のときにいったんで誤解され、損をしましたよ。航空本部長でもってやったもんだから、我田引水だとか、セクショナリズムだとか、そういうふうにとられてしまいました」

航空本部長は、海軍省の外局の長であるため、井上が戦後に「本省の機務に関する書類は外局たる航本には回って来ないので、真相はなかなか分らなかった」と述べる状況であった。しかし、海軍次官が豊田貞次郎中将(兵33期)から沢本頼雄中将(兵36期)に交代した1941年(昭和16年)4月4日から約2週間、井上は海軍次官代理を兼務し、機務に触れることができた。[132]

この時に、野村吉三郎 駐米大使(予備役の海軍大将、兵26期)が、悪化の一途を辿る日米関係の改善への必死の努力の結果、「日米了解案」を東京へ打電して来た。これに対し、海軍省軍務局第二課主務局員の柴勝男中佐(兵50期)は反対の立場(枢軸寄りの立場)であり、駐米海軍武官の横山一郎大佐(兵47期)に対し、「日米了解案について、野村大使を『慎重に補佐』すべし」という訓電を起案し、軍務局長の岡敬純少将(兵39期)と次官代理の井上に提示した。岡少将は、当初は野村大使の「日米了解案」に乗り気だったものの、結局は下僚である柴中佐の意見に同意した。しかし、井上は「野村電に非常に乗り気で、すぐにでも(日米了解案に)調印しろといわんばかりの考えであった」ため、及川海相への直談判に及んだ。井上の記憶では、その日は土曜日(1941年(昭和16年)4月19日と思われる)で及川はもう帰宅した後だったので、井上は及川の私宅を訪れた。[133]

井上は及川に「あなたは米国と戦争になってもよいとお考えですか」と問い、及川が「それは戦争にならない方がよい」と答えると、

「あなたの直接の部下は少しもあなたの方針を承知しておらず、かえってその反対のことばかりやっていますよ。今持って来た、この書類(柴中佐が起案し、岡少将が承認した訓電案)は実に危険千万なもので、対米了解を達成しよう、などの気持は少しもないのみか、野村大使の苦心を打ちこわすことを考えているようにしか見えません。私は次官代理ですから根本方針を変えるような事務に立ち入る権利はありませんが、こんな書類は通すわけには参りません。私、自分で加筆修正して軍務局につき返しますからご承知下さい」

と及川に言った。井上は、加筆修正して、岡少将を通じて柴中佐に電文を返した。井上は、自分が修正した訓電がそのまま発電されたものと死ぬまで考えていたようである。しかし、実際には、柴が「それでは訓電の意味をなさないので、岡軍務局長の了解を得て発電を中止してしまった」と戦後に語っている。[134]この時期の海軍省内に、日米開戦是認の空気が濃厚だったことが分る。

次官代理兼任というわずかな機会を捉えて、反米・開戦への空気にブレーキをかけようと必死だった井上は、沢本頼雄 新次官が上京して着任する前日、熱海に一泊すると聞き、及川海相に「新次官の沢本中将が、着任して省内の反米の雰囲気に巻き込まれる前に、私から現状をつぶさに話して善処をお願いしたい」と願い出て、熱海に行き、沢本中将に、次官代理をした2週間の出来事と自分の考えを説いた。[135]

[編集] 第四艦隊司令長官時代

海軍航空本部長であった井上は、1941年(昭和16年)8月11日に、第四艦隊司令長官に親補された。海兵37期で、艦隊司令長官(親補職である)に補されたのは、クラスヘッドの井上が最初であった。第四艦隊司令長官の前任者は、海兵35期、井上より海兵で2クラス先輩である高須四郎中将であった[136]。航空本部長として東京に勤務していた井上は、宮城での親補式を済ませ、鉄道で岩国へ向かい、岩国海軍航空隊から大型飛行艇で8月21日にサイパン島に到着し、同島に碇泊していた第四艦隊旗艦「鹿島」に着任した。井上が坐乗する「鹿島」は、直ちに、第四艦隊司令部の陸上施設があるトラック島に向かった。[137][138]

大東亜戦争の開戦前、第四艦隊の防備区域は、第一次世界大戦後に、日本の委任統治領となった、旧ドイツ領の南洋群島全域であった。即ち、東経130度から175度、北緯22度から赤道まで渡っており、東西5,000キロ、南北2,400キロの海域であった。この海域の中には、マリアナ諸島、カロリン諸島(トラックを含む)、マーシャル諸島など、大小1,400の島があった。しかし、第四艦隊に与えられていた兵力は、独立旗艦の「鹿島」(練習巡洋艦として建造されており、居住性に優れるが、戦闘力はない)以下、旧式軽巡の「天龍型」2隻、旧式駆逐艦、商船改造の特設艦、旧式となっていた九六式陸上攻撃機九六式艦上戦闘機など僅かなものでしかなかった[139]

大東亜戦争の開戦以降、日本軍が南洋群島の東と南に占領地を広げると、その地域は第四艦隊の防備区域となった。ウェーク、ラバウル、ニューギニア、ソロモン諸島など。この状況は、1942年(昭和17年)7月14日に、ニューギニア方面・ソロモン方面を管轄する第八艦隊が編成されるまで続いた。

第四艦隊司令長官の職務に就いた井上は、トラック島の巨大な環礁の中の島である「夏島」にある第四艦隊司令長官官邸に住み[140]、毎朝、第四艦隊旗艦「鹿島」に乗艦して、午前8時の軍艦旗掲揚を「鹿島」艦上で迎え、午後4時に退艦して夏島の長官官邸に戻る日課であった。[141]

井上は、連合艦隊司令長官の山本五十六大将から「作戦打ち合わせのため(第四艦隊)参謀長及び関係幕僚を帯同して上京せよ」という電報を11月6日に受け取り、随員と共に11月8日にトラックを飛行艇で出発し、横浜航空隊(海岸に面しており、海軍の飛行艇や水上機の基地であった)に到着して、東京において11月5日付の「大海令第1号」と「大海指第1号」を受け取った[142]。さらに、11月13日に岩国海軍航空隊で行われた、連合艦隊司令長官、各艦隊司令長官、各艦隊参謀長並びに関係幕僚による「作戦打ち合わせ会議」に出席した。各艦隊の司令部に、連合艦隊司令部から、「機密連合艦隊命令作第1号」が配布された。井上とその随員は、往路と同じく、横浜航空隊から飛行艇で出発し、11月20日にトラックに戻った。[143]

大東亜戦争の開戦劈頭に真珠湾攻撃を行った第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将(兵36期)は、攻撃隊の収容が進み、戦果の概要が判明したハワイ時間の12月7日午後0時30分(ハワイ時間に1日を加え、4時間30分を減ずると日本時間になる。即ち、ハワイ時間の12月7日午後0時30分は、日本時間の12月8日午前8時。[144])に、連合艦隊司令長官宛に「敵主力艦2隻轟沈、4隻大破、巡洋艦4隻大破、以上確実、飛行機多数爆破、我損害軽微」という内容の暗号電文を、無線電信機で送信した[145]

「鹿島」艦内の第四艦隊司令部では、この暗号電文を傍受し、解読して真珠湾攻撃の大戦果を知った。第四艦隊通信参謀の飯田英雄中佐(兵51期)[146]が、「鹿島」の司令長官室に、第一航空艦隊長官発の電文を持参し、井上に「おめでとうございます」と言った所、井上から「馬鹿」と言われた[147]

12月8日の大東亜戦争開戦以降、第四艦隊は、いくつかの戦闘を指揮した。主なものとして、

  1. 米国領ウェーク島攻略作戦。第一回の攻撃(12月11日)は失敗に終わり、真珠湾攻撃から帰投する途中の第一航空艦隊の応援を得て、ウェーク島上空の制空権を確保して行った第二回の攻撃(12月23日)でようやく攻略できた。
  2. 珊瑚海海戦(MO作戦。本来の作戦目標はポートモレスビーの海路からの攻略)。井上は、旗艦の「鹿島」をラバウルまで進めて指揮を執った。

がある。

海軍省・軍令部や連合艦隊首脳部は、第四艦隊の日米開戦以降の作戦指導について、全てを不満とした。下記が記録されている。[148]

  1. 井上の下で、第四艦隊航海参謀であった土肥一夫少佐(兵54期)は、1942年(昭和17年)7月に連合艦隊参謀に転出した。連合艦隊司令部に着任した土肥が、第四艦隊司令部から提出された珊瑚海海戦に関する報告書類、当時の電報綴りを見ると、赤字で「弱虫!」「バカヤロー」などと多くの罵詈雑言が書き込まれていた。
  2. 連合艦隊参謀長の宇垣纏少将は、日誌「戦藻録」の1942年(昭和17年)7月5月8日の項に「第四艦隊の作戦指導は全般的に不適切であった。小型空母「祥鳳」を失っただけで、敗戦思想に陥っていたのは遺憾である」旨を書いている。
  3. 軍令部第一部第一課作戦班長であった佐薙毅中佐(兵50期)は、日誌に「第四艦隊の作戦指導は消極的であり、軍令部総長の永野修身大将は不満の意を表明していた」旨を書いている。
  4. 井上と親しかった連合艦隊司令長官の山本五十六大将は、親友の堀悌吉海軍中将(兵32期、予備役)に宛てた1942年(昭和17年)5月24日付の書簡で「井上はあまり戦はうまくない」と書いている。
  5. 昭和天皇が、海軍大臣の嶋田繁太郎大将(兵32期)に「井上は学者だから、戦はあまりうまくない」と言ったという。
  6. 中沢佑少将(兵43期)が、1942年(昭和17年)12月に、海軍省人事局長に就任する際に、前任者から引き継ぎを受けた。その際に中沢が作成したメモが残っており、井上に対する、嶋田繁太郎海軍大臣の評を記した部分には「(井上は)ウェーキ、コーラル海(珊瑚海)、戦機見る目なし。次官の望みなし。徳望なし。航本(航空本部)の実績上がらず。兵学校長、鎮(鎮守府)長官か。大将はダメ」と記されている[149]
  7. 高木惣吉少将(兵43期)によると、1944年(昭和19年)3月7日に、岡田啓介元首相が、戦勢が日に日に非であるのを憂い[150]、熱海で静養中の伏見宮博恭王海軍元帥を訪問し、「米内光政海軍大将(予備役、元首相)を現役復帰させて(要職につけて)はどうか。現役大将から選ぶなら、豊田副武(兵33期)、もしくは井上成美はどうか」と言った所、伏見宮は「井上はいかぬ。あれは学者だ。戦には不向きだ。珊瑚海海戦の時の指揮は拙劣だった」という旨を答えた[151]

井上自身、自分は戦が下手だと考えていた。下記が記録されている。

  1. 1942年(昭和17年)5月7日、珊瑚海海戦の第一日に、米国機動部隊の攻撃で小型空母「祥鳳」が沈んだ時の心境を、井上は、珊瑚海海戦の後に書いたと推定される手記に「実に無念であった。このような時に、東郷平八郎元帥であればどうなさるだろうかと考えた。心中、「お前は偉そうに第四艦隊長官などと威張っているが、お前は戦が下手だなあ」と言われているような無念を感じた」という趣旨の記述をしている[152]
  2. 敗戦後、1951年(昭和26年)12月10日付の新聞東京タイムズに、横須賀市長井に隠棲していた井上のインタビュー記事が掲載された。その記事の中で、井上は「(自分は第四艦隊司令長官として南方作戦を指揮したが、)自分は戦が下手で、幾つかの失敗を経験し、昭和17年10月海軍兵学校の校長にさせられた時は、全くほっとした」と語っている[153]

第二次ソロモン海戦後の1942年(昭和17年)9月、井上は、第三艦隊(空母機動部隊)の准士官以上の搭乗員をトラックの料亭「新小松」に招待した。60名ばかりが出席した。井上は麻の白絣、薄鼠の袴、白足袋という夏物の和服で出席した。高橋定大尉(兵61期、「瑞鶴」飛行隊長、のち少佐[154])は、井上が支那方面艦隊参謀長時代に海軍航空隊を支那事変の奥地爆撃に積極的に参加させ、多数の搭乗員が犠牲になったことを疑問視していた。酔いが回った高橋定は、井上の前に進み出て、ビールを井上の袴にぶちまけた。高橋定の行動を見た搭乗員で同じことをしたものが一人二人いた。高橋定の観察では、搭乗員の狼藉に対し、井上は姿勢も顔色も変えず、僅かに唇を歪めただけで無言であった[155]

[編集] ガダルカナル島の飛行場建設について

日本軍の最前線基地であるラバウルから直線距離で1,020キロ離れており[156]、ラバウルとの間に日本軍の拠点が存在しないガダルカナル島に飛行場を建設したことについて、井上の責任を追求する論者がいる。例えば千早正隆(兵58期)が「戦場の井上成美」と題して、文庫本で37頁の紙幅を用い、井上の第四艦隊司令長官としての作戦指導を批評している中で、「(井上の指揮する)第四艦隊司令部には(ガダルカナル島への飛行場建設について)重大この上ない不作為の過失があった」[157][158]と述べ、井上の責任を追及している。

千早は『戦場の井上成美』において、上記の井上批判の前提として、「ガダルカナル島の陸上基地の建設ほど奇々怪々の謎に包まれているものはない」と述べ、

  1. ガダルカナル島への飛行場建設の前段階において、1942年(昭和17年)5月にソロモン群島南端のツラギ島を日本軍が占領し、水上機基地を設け、大型飛行艇を主力とする水上機偵察部隊である横浜海軍航空隊が進出した。
  2. 基地航空部隊の作戦に責任のない第四艦隊は、この頃(ガダルカナル島への飛行場建設が検討されていた1942年(昭和17年)5月-6月か)、幕僚をツラギ上空に飛ばして現地の状況を視察させた形跡はない。
「戦後になっても軍令部の航空担当部員はガダルカナル島に飛行場が建設中であることを知らなかったと言っている」
「(陸軍側の)参謀本部は知る由もなかった。陸軍は、ガダルカナル島を巡る大悲劇の根本原因は、海軍が勝手に飛行場を作ったことにあると非難している」

と記しているが、千早は事実を誤認している。

半藤一利『遠い島ガダルカナル』PHP文庫、2005年(平成17年)、50頁-61頁に、下記のように記載されている。

  1. ツラギ島に進出している横浜海軍航空隊司令の宮崎重敏大佐(兵46期)から、上官である第二十五航空戦隊司令官の山田定義少将(兵42期)に「ツラギ島対岸のガダルカナル島に、飛行場建設の適地あり」という報告があった(『遠い島ガダルカナル』には日時の記載なし。ただし、日本軍がツラギ島を占領したのは5月3日、横浜空の飛行艇のツラギ進出は翌4日。森史朗『暁の珊瑚海』、光人社、2004年(平成16年)、60頁-61頁)。
  2. 5月25日に、25航戦と第8根拠地隊(以下「8根」。司令部はラバウル。司令官は金沢正夫少将【兵39期】)の幕僚・技術者を乗せた九七式飛行艇によって、ガ島を中心とするラバウル以南の島々の航空偵察が行われた。
  3. この偵察結果を受けて、山田25航戦司令官は、6月1日に、上級司令部である第十一航空艦隊の参謀長の酒巻宗孝少将(兵41期)に、調査結果を報告し、「急ぎ、ガダルカナル島への飛行場建設に取りかかるべし」と意見具申した。
  4. ミッドウェー海戦(6月5日-7日)の後に、11航艦司令部からの報告を受けた連合艦隊司令部は、ラバウルからガ島が遠すぎることを理由に難色を示した。零式艦上戦闘機の航続距離では、ラバウルを基地として、ガ島上空の制空権を確保できず、ラバウルとガ島の中間にもう一つの基地が必要になるため。
  5. 連合艦隊の要望に基づき、11航艦隷下の25航戦は、ラバウルとガ島のほぼ中間にあるブーゲンビル島ブカ島を2度にわたり調査したが、「いずれも地勢に難があり、ガ島への飛行場造成以上に日数を要する」という結論となった。なお、25航戦にはミッドウェー海戦で日本が主力4空母を喪失したことが知らされていず、この方面の制空権は容易に確保できるという考えがあった。
  6. 6月19日、連合艦隊司令部は、参謀長の宇垣纏中将(兵40期)名で「ガダルカナル航空基地は次期作戦の関係上、八月上旬迄に完成の要ある所見込承知し度(たし)」と『現地部隊』に訓電した。
  7. 連合艦隊司令部の訓電を受けた『現地部隊』の25航戦、8根、及び、この方面の総指揮を執る第四艦隊司令部から参謀が派遣され、再度のガ島上空からの航空偵察が行われた。ガ島のルンガ川東方、海岸線から2キロ入った所が飛行場建設に最適と結論した。
  8. 連合艦隊司令部は、ミッドウェー攻略作戦のために編成されていた第11設営隊、ニューカレドニア攻略作戦のために編成されていた第13設営隊の2個設営隊をガ島飛行場建設に当たらせることを決意し、両設営隊の本隊を乗せた輸送船団は、6月29日にトラックを出港、7月6日にガ島に上陸した。
  9. 設営隊本隊のガ島上陸の翌7月7日、(海軍)軍令部作戦課は、(陸軍)参謀本部作戦課に文書を提示している。その中には「ガダルカナル陸上飛行基地(最近造成に着手、八月末完成の見込)」と記されている。
  10. しかるに、当時の参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐、陸軍省軍務局長の佐藤賢了少将は、戦後に出版した手記に「ガ島飛行場建設のことは全く知らなかった」と平然と書いている(千早は、これらに騙されたと思われる)。

ガ島に飛行場を建設することについて、連合艦隊司令部に意見具申したのは、第十一航空艦隊 → 第二十五航空戦隊 → 横浜海軍航空隊(第十一航空艦隊司令長官は、第四艦隊司令長官たる井上の指揮を受けない)のラインであり、ガ島に飛行場を建設する決意をしたのは連合艦隊司令部である。

兵力不足ながら、この方面を管轄していた[159]第四艦隊司令部は、第十一航空艦隊の隷下部隊をサポートする形で関与し、前記のように、ガ島への飛行場建設が決定する前に、幕僚をして現地視察させている。

[編集] 海軍兵学校長時代

第四艦隊司令長官を1年あまり務めた井上は、1942年(昭和17年)10月26日に、海軍兵学校長に補された[160]。これに先立つ10月7日に、トラック在泊の第四艦隊旗艦「鹿島」に坐乗していた井上は、同じくトラック在泊の連合艦隊旗艦「大和」坐乗の連合艦隊司令長官の山本五十六大将(兵32期)に「大和」へ招かれた。海軍兵学校長から、10月1日付で第十一航空艦隊司令長官(ラバウルの陸上に司令部を置く)に親補された、井上と海兵同期(兵37期)の草鹿任一中将が、内地からラバウルへ赴任する途中にトラックの「大和」に立ち寄ったので、山本が草鹿を主賓とする夕食会を開き、井上も呼んだものである。[161]

この夕食会で、山本は井上が草鹿の後任の兵学校長に決定していると告げた。山本から

「この間、嶋田(嶋田繁太郎大将、山本と海兵同期、海軍大臣)から手紙が来て、君(井上)を(連合艦隊から)兵学校長にもらいたいといってきたので僕は承知しておいたよ」

と言われた井上は

「私は十七や十八の生意気盛りの小僧を教えるなんていやですね。あなた(山本)もよく知っておられるとおり私はリベラリストだから、近頃のような教育には向きませんよ」

と答えた。この日の夜、草鹿の申し出によって、井上は発令前ではあったが、宿舎で草鹿から兵学校長の引き継ぎを受けた。[162]

第四艦隊司令長官の後任は、これも井上と海兵同期の鮫島具重中将だった[163]。井上は鮫島への引き継ぎを終え、10月31日にトラックを離任して97式大艇で内地へ帰還した[164]

11月初頭に井上は海軍省に出頭し、直属上官となる嶋田海軍大臣に挨拶した[165]

井上は、嶋田に、自分を兵学校長に選んだ理由を尋ねた。嶋田は、

「私は君が(兵学校長に)適任だと思っているよ。その上、君が1937年(昭和12年)に約1年かかって研究して結論を出した一系問題を実施しようと思うので、そのために君に兵学校に行ってもらうことにした」

と返答した。

井上は

「解りました。一系問題ならば引き受けました。・・・当局は兵学校長を1年くらいで交代させていますが、それでは短すぎます。私を兵学校長にする以上は、3、4年くらいは兵学校長をやらせて下さい」

という旨を嶋田に言った。嶋田が

「君はあと2年もすれば大将になる。君の要望通りに3、4年も兵学校長をやらせる訳には行かない」

と言う旨を答えると、井上は

「私はべつに大将になどなりたいとは思いません。その時[166]がきたら私を中将のまま予備役に編入、即日召集して兵学校長にして下さい」

と言った。嶋田は

「そうもいかないよ。ではこうしよう。私が大臣の間は君の兵学校長を替えないよ」

と言い、これで井上もようやく納得した。[167]

親補職たる第四艦隊司令長官の任を終えた井上は、11月5日の午前10時に参内して昭和天皇に拝謁、軍状を奏上し、菊花紋附木杯一組と金一封を下賜された[168]

校長に就任して早々、朝から晩まで緊張し目が吊り上っている生徒の表情を見て「非常に気にくわない。あれじゃ前科三犯の面構えじゃないか。張り切り過ぎているというのが私は嫌いだ」と言い、「前科三犯の面構え」にしている原因である無駄な慣習などを一切廃止させ「士官の卵を家畜のように追い回すのは良くない。もっと遊ばせてやれ」と生徒に笑いと余裕を持たせるように指示した。その指示を出してから数ヶ月後、井上と旧交があった陸軍士官学校校長の牛島満中将が視察に兵学校を訪れた際、生徒の顔つきを見て「ここの生徒は可愛い顔をしているね。俺んとこの生徒はもっと憎たらしい顔をしているよ」と井上に述べ、自身も「効果が現れてきた。第三者が言うのだから間違いはない」と満足したという。また、生徒が長期休暇中に書き兵学校に提出する休暇日誌も、上級生が事前に検閲し優等な日誌として細工し提出させるようなことが慣例と化していたが、「まるで詐欺の訓練をしているようなものだ。こういうことを続けさせたらしまいに陛下の前で平気で嘘を申し上げるような海軍士官が出来る。百害あって一利なし」と即廃止している。

また、兵学校の教職員の家族に対しては、全くといっていいほど娯楽がない島の生活の福利厚生として土曜日に映画を上映するために副官を広島に派遣して映画の選定を行わせたが、井上から出された条件は「戦争ものはダメ」「芸術的すぎるのも子供が楽しめないのでダメ」「出来るだけ肩が凝らないもの」で、当時「戦争映画」「芸術的すぎる」なものばかりだった映画界において井上の注文に適う作品を探すのはかなり難しかったという。しかし上映されると至って好評で、「出来るだけ大勢の人を呼んでやれ」という指示により守衛、運転手、ボーイや女子事務員まで映画を楽しみ、井上自身も見に来ていたこともあったという。

陸軍士官学校英語教育を廃止し入試科目からも外すと、海軍兵学校もこれにならうべきだという声が強くなった。「入試科目に英語があると有望な人材を陸軍に取られてしまうのではないか」という意見に対し、「一体何処の国の海軍に、自国語しか話せないような海軍士官がいるか」としたうえで、「いやしくも世界を相手にする海軍士官が英語を知らぬで良いということはあり得ない。英語が今日世界の公用語として使われているのは好む好まないに拘らず明らかな事実であり、事実は素直に事実と認めなければならぬ。外国語のひとつも習得しようという意気のない者は、海軍の方から彼らを必要としない。私が校長である限り英語の廃止などということは絶対に認めない」と却下、排斥運動に関しても、「これらの運動に従事する人物の主張するところ、概ね浅学非才にして島国根性を脱せず」と断じ、兵学校の英語教育は従来通り行った。海兵校内では従来通り外来語の使用も容認している。

この様に、英語教育を推進した事に関して、後年井上は、鈴木貫太郎(兵14期、退役の大将)が兵学校を訪れた際に、井上と同様に敗戦を見越した上で、「いいか、兵学校の教育の成果が現れるのは、20年後だぞ、井上君」と言われ[169]、敗戦後に生徒が日本の復興に役立つ人材として活躍して欲しい、と思っての事だったと述懐しており、生徒達から相当感謝されている[170]

また、英語教育の具体的な有り方も詳しく述べており、「英語は英語として理解し、無理に和訳させることは良くない」「英語の単語を無理に日本語に置き換えるのは百害あって一利なし」としている[171]

海兵の講堂には従来、歴代の海軍大将の額を掲げてあったが、井上は「歴代の大将の写真が汚れる」「兵学校の教育は出世主義ではない」と言う名目ですべて降ろさせている。ただ、実際は井上の「大将といっても、一等大将もあれば、三等大将もある。この中には国賊と呼ぶべき者もいる」と言う意向によるものであった。また、教官に実戦での武勇伝を話すことを一切禁止、生徒には陸士生徒との私的交流を禁止した[172]

また、兵学校の卒業式は軍楽隊の『蛍の光』の演奏と共に卒業生、在校生共に「帽振れ」を行うことが定番だったが、それも「『蛍の光』は敵国の曲なので中止してはどうか」という意見が教官や生徒などからあった。しかし、井上は「名曲は名曲である。名曲に敵も味方もあるか」と一蹴している。こうした措置から、「校長は横暴である」と若手士官を中心に批判もあった。しかし、井上はそういう批判や反対意見を排除し[173]、ジェントルマンとしての生徒教育に尽力し、戦後も当時の生徒や教官が多数訪れ「校長」と最後まで呼ばれていた。また、井上の方策に反抗していた元教官が戦後井上のもとを訪ね、「私がすべて間違っておりました」と謝罪し、井上も「あれは嬉しかった」と述べている。

井上が校長当時、初級士官不足により兵学校の年限を2年に短縮する動きが起こったが、井上はそれらの要求を「校長としては絶対不可」とすべて跳ねのけ、海軍省内での会議で教育課程が短縮されることが議題になることを元部下の報告で知ると、次官宛てに緊急電報を打ち決定させないように先回りをして決定を回避させている[174]。軍令部員の高松宮宣仁親王大佐(兵52期)が卒業式の名代として出席した際の雑談がてらに話を持ち出しても、「その御下問は親王殿下としてですか、それとも軍令部員としてですか」と言い、高松宮が「もちろん後者だ」と答えると「ではそのことは御免蒙ります」と一蹴している[175]。また永野修身元帥が兵学校に立ち寄った時にも同様の話があったが、井上は「私は米作りの百姓です。中央でどんな米を入用かは知りませんが、青田を刈ったって米は取れません」と答えた[176]

兵学校の教育について、防衛大学校初代校長槇智雄が訪ねた際にこう語っている。

私は、『ジェントルマンを作るつもりで教育しました』とお答えしました。つまり、兵隊を作るんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、いろいろ言えるでしょうが、一例を言ってみればイギリスのパブリック・スクールオックスフォード大学ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。これは、それとは別の話ですが、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人々が本当に勇敢に戦いましたね。日ごろ国から優遇され、特権を受けているのだから、今こそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育を受けた大半の人達がそうでしたね。私は、一次大戦後に欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える』ということです。ジェントルマンが持っているデューティーとかレスポンシビリティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて重要なのはこれですね。

その上、士官として一つ大切なものは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。そういう下士官を指導するためには教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違った所だと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校ではありますが、私は高等普通学を重視しました。そして文官の先生を努めて優遇し、大事にしたつもりです

[編集] 海軍次官と終戦工作

米内光政が現役復帰し小磯内閣の海軍大臣に副総理格として就任、海軍次官に井上を起用する際に、再三の要求にもかかわらず井上は当初「江田島の村長で軍人生活を終わりにしたい。私に次官など不向きなことはあなたがいちばんわかっているでしょう」と固辞していた。しかし、米内の「すでに伊勢神宮に井上が次官になると報告した」「政治の話の時には君は上を向いていろ」という言葉で説得され次官に就任した。当然ながら、次官が政治の話の時に上を向いているわけには行かず、後年この時のことを「貫禄負けでした」と語っている。井上の次官就任は概ね好意的に見られ、当時海軍省勤務だった中山定義は井上の次官就任時の雰囲気として、「海軍省が針路も見失い、暗闇の中を懐中電灯で足元を照らしながらうろうろしていた時、海軍省構内無線大鉄塔の上に米内・井上という大きな灯台がともったような気がする」「前次官の時には未決書類が山のように積まれて事務処理が非常に滞っていたが、井上さんが次官になったら定時(午後5時)までに山のような未決書類がすべて綺麗になくなっていた」と述懐している。

次官となった井上は、兵学校長時代には見ることのできなかった戦局に関する資料を見て、予想以上に状況が悪化していることを知り、米内に対して「この戦争、だめです。今から終戦工作を始めます」と宣言し、米内の了解を取って高木惣吉少将に、月2,000円の機密費を与え、秘密裏に終戦工作の研究を始めさせたり、「敗戦は亡国とは違う。古来いくさに勝って国が滅亡した例は少なくない。逆に戦いに破れて興隆した国がたくさんある。無謀の戦争にこのうえ本土決戦の如き無謀を重ねるなら、日本は本当に亡国になってしまう」として早期終戦を強硬に主張した[177]

また小磯内閣が総辞職する際には、米内が留任を望んでおらず、小磯と米内がともに大命を受けた内閣成立時の経緯があるにもかかわらず、井上が中心となって部内を米内留任でまとめている[178]

1945年(昭和20年)のはじめ、海軍記者との記者会見の際に新名丈夫が「海軍はこの戦争をどうするつもりですか」と聞いたところ、井上は「和平です」とはっきり答え、記者も井上の気持ちと身の上の安全を考えて一人も記事にしていない。

同年4月に行われた菊水作戦にも終始反対で、「軍令部次長にありながら何故こんな馬鹿な作戦を許可したのか。もはや戦艦は飛行機の敵ではない。アメリカの士気を高めるだけじゃないか。それ以前に、第二艦隊の面目が立つというが面目の道連れになった何千もの将兵が可哀そうとは思わないのか」と軍令部次長だった海兵同期生の小沢治三郎を詰問している。

更に、1945年(昭和20年)より陸軍から、陸海軍を統合した「国防軍」の設置、参謀総長軍令部総長の上に最高幕僚長を設置する話が出てきた時も、「国家を乗っ取ろうとするのに邪魔な海軍を抹殺するための謀略」「本土決戦の片棒を担がせようという陸軍の意思は明白」「陸軍を止めるものは海軍しかない」と、昭和天皇の発言をでっち上げてまで強引に迫ってくる陸軍を追い返している。昭和天皇も、「私が(陸海軍統合を)望んでいると陸軍は言っているが、全然そんなことないから」と鈴木貫太郎に述べている[179]。 この「陸軍による海軍の吸収合併」を食い止めた出来事は井上の隠れた功績である。

しかし、そんな激務や苦悩の中でも「みんな気が滅入っているみたいだから音楽でも聴かせて気分転換させよう」と、週1回昼休みに軍楽隊による演奏会を次官命令で海軍省中庭で開催させ、士官以外の文官職員や記者にも評判だったという。その時にも「勇ましい曲はやらせるな」と『軍艦マーチ』などは演奏しないよう注文をつけている。その理由として、「もう軍艦の時代は終わりだからね。今からは空海軍の時代だよ。そろそろ『航空マーチ』でも作らないとな。君たちも案があったら持って来てくれ」と記者団に冗談を交えて答えている。

1945年(昭和20年)5月15日、井上は、海兵で1期上の塚原二四三中将と共に海軍大将に昇進し、同時に軍事参議官に転補された。海軍次官は「現役の海軍少将または中将」と海軍官制で規定されており、大将に昇進した井上は次官に留まれないため。大将昇進は年1回、3月に行われるのが慣例だった。海兵37期クラスヘッドの井上が、1945年春の大将に昇進するのは、海軍の人事慣例に沿っていた。

井上は、国家存亡の危機にある時に大将を「作る」など、後世の物笑いになると考えていたようで(後述)、同年1月・2月と海軍大臣の米内に、自身の大将昇進に反対する旨の意見書を提出し、3月(通例の大将昇進の時期)に米内が大将昇進の話を切り出した時にも「今、大将を二人(井上と塚原)作らないと海軍がいくさをしていくのに困る訳ではありますまい」と固辞していた。しかし、5月7日にドイツが連合国に無条件降伏したのと同じ頃に、米内に大臣室に呼ばれて「天皇陛下が、塚原と君の大将親任を御裁可になったよ」と告げられた際は、

「陛下の御裁可があったのでは致し方がありません。普通ならここで大臣のお取り計らいに対し御礼を申し上げるべきでしょうが、私は申しません。なお、次官は辞めさせて頂けますでしょうね」

と答えた。5月15日に、米内に次官退任の挨拶をする際には

「『負けいくさ大将だけはやはり出来』。後世の物笑いですよ」

と言って、上記の川柳を米内に見せた。[180]

軍事参議官に就任後は、伊東の海軍将官保養所に1か月ほど「休養」の名目で滞在している。通常なら長くても1週間くらいの滞在であり、将官保養所に1か月も、それも副官に理屈をつけて強引に東京に帰してまで滞在することはほとんど前例がなく、終戦工作に奔走していた高木惣吉の報告を待っていたとの説もある。それについて阿川弘之が後年に高木に質問したところ、高木は「日本が滅びかけている時期に、井上さんや私が保養所や熱海でのんびりしているとは何事だという批判を聞くと、怒りたくもなりまた悲しくもなる」と肯定も否定もしていない。高木が提出した終戦工作報告を「もう僕は責任を取れないから、これは見ないことにしておくよ」と突き返したというが、東京の水交社で引き続き打ち合わせは行っており、人目を忍んで二人で話し合う姿の目撃談も多数ある[181]

また同じく水交社で寝泊りし、後に宮城事件を起こす陸軍中堅将校とパイプがあった中山定義も雑談と称して井上に自主的に陸軍の動向を報告している。また米内とは喧嘩別れしたという説もあるが、最高血圧が260に達した米内はいつ倒れてもおかしくない身であり、また陸軍中堅による鈴木首相・米内海相暗殺の噂も流れていたため、「米内倒れる」の報があれば真っ先に駆けつけられるように常に水交社で待機していたともされ[182]、終戦まで長井の自宅には帰らなかった[183]

しかしながら、米内が死去した際は「娘の看病で多忙につき」と葬儀にも参列していない。それについて後年「他に世話する人がいないので家で手を合わせてご冥福をお祈りしていました」と親しい人に語り、亡くなる前兵学校の教え子に米内の墓参代理をお願いしている。また、東久邇宮内閣の時米内続投を推したのは井上である。幣原内閣が成立した時、当時まだあった海軍大臣のポストに米内が自分の後任として推薦したのは、井上ではなく豊田副武であった[184]

上述の様に、強硬なまでに早期終戦を主張した理由として、井上は戦後のインタビューで、「アメリカ、イギリスとの軍備の比率は低いほうがいい、戦いをすれば負けるから、なんとか外交でしのでいかなきゃいかん、…軍人としてそれを自分に言いきかせるということは悲しい…そして、悔しい…悔しいけれど…そういう国なんだから。自分よりも技術が進み、富もあり、人口もたくさんある、土地も広い、という国がある、ということは仕方がない。もがいたって、これを脱ける訳にいかない。そういう世界の状況なれば、その中で、無理をしない範囲で立派な国になっていく方がいいんではないかと考えていた」と語っている[122]

[編集] 戦後の生活(軍人恩給復活まで)

戦後英語塾をしていた頃
井上は海軍兵学校校長時代から英語教育廃止論を退けて英語教育を徹底するなど、教育者としての見識も深かった。
ギターを演奏する井上

海軍が消滅して一市民となった井上は、横須賀市長井の家に隠棲した[185]。長井は、行政上は横須賀市に入るものの、実際は三浦半島最西端の半農半漁の村であり、横須賀市内からの交通も不便な「僻村」であった[186]

第二復員省[187]総務局に所属していた、井上の支那方面艦隊参謀長時代・海軍次官時代の部下である中山定義中佐によると、ある日、井上が、ボストンバッグに長井名産らしい小ぶりのミカンを詰め込んで、中山の職場に慰問に来てくれた。この際の井上は、きちんとした背広を着て、あまり貧乏くさくはなく、なかなか元気そうであった。中山は、元の大将・中将で、旧部下の復員官にこのような気配りをしてくれたのは井上だけだったと言う。[188]

井上は、長井の家の近所の子供を相手にに英語塾を開いていたが、僅かな謝礼しか請求せず、他は無収入であったため、軍人恩給の復活(1953年(昭和28年)8月)までの井上の生活は困窮を極めていた。1951年(昭和26年)12月24日付の、井上の長兄の秀二の娘である伊藤由里子[71]に宛てた手紙で、井上は「貧民のような食事」をしている窮状を嘆いている。[189]

1945年(昭和20年)の暮れ頃、長井の井上の元に、戦争未亡人となった一人娘の靚子が息子の丸田研一(1940年(昭和15年)12月16日生、5歳)と共に身を寄せたが[190]、靚子は1948年(昭和23年)10月16日に肺結核で死去した(29歳)[191]。その後、井上が男手一人で孫の研一を育てるのは無理で、井上の困窮が募ったこともあり、8歳の研一を靚子の嫁ぎ先である丸田家に託さざるを得なかった。研一は、丸田家の縁者宅を点々とした後、約2年後に、丸田吉人の義弟(吉人の実妹の順子の夫)である八巻信雄に引き取られて成人するまで養育され、早稲田大学教育学部を卒業して出版社に勤務した。クリスチャンの八巻順子には「この子の面倒を見なければならない」という強い責任感があり、夫を説得して研一を引き取った。それを知った井上は丁重な礼状を送っている。[192]

宮内庁の文書に記録がないが、戦後間もない時期に宮中よりの使者が井上宅を訪れたとされる。井上宅があまりに乱雑であったため、使者はいったん立ち去り、井上が玄関口を掃き清めるのを待って再度訪問して口上を述べた。井上は「私のやったことが天子様の御心にかなった。これで死後、大きな顔して両親に会うことが出来る」と漏らした。[193]

1951年(昭和26年)12月、「東京タイムズ」で、海軍大将であった井上が、横須賀市外の僻村で無収入に近い極貧生活を送っている様子が報道された。井上の下で第四艦隊機関参謀だった山上実中佐(機34期)[194]がその記事を読んで衝撃を受け、戦後も交誼を保っており、実業界への転身に何とか成功していた、第四艦隊参謀長だった矢野志加三中将(兵43期、当時は東洋パルプの専務取締役)、第四艦隊先任参謀だった川井巌少将(兵47期、当時は東京光学機械の販売子会社「東光物産」の神保町店支配人)に連絡を取った。矢野・川井の両名は、井上との信頼関係がもっとも厚かった人たちであり

「山上君の言う通り(、井上さんがそんなに困っておられるなら)、何とかせにゃいかん。年明けにでも、みんな(第四艦隊司令部幕僚)揃って一度様子を見に行こう」

と一決した。[195]

1952年(昭和27年)5月に、矢野、川井、山上らの第四艦隊司令部幕僚が井上宅を訪問した。第四艦隊司令長官時代の井上の端正な姿を知る旧部下たちは、井上のあまりの貧窮ぶりを実見して言葉もなかった。[196]

旧海軍料亭「小松」は戦後も横須賀に健在であった[197]。「小松」を経営する山本直枝夫婦は、1941年(昭和16年)12月の大東亜戦争開戦から間もなく、第四艦隊司令長官の井上から、「トラックには将兵の慰安施設が一軒しかない。士官用の施設として、小松の支店をトラックに出してくれないか」という依頼を受け、1942年(昭和17年)7月に、「小松」の支店をトラックに開業した。[198]その後の戦局の悪化、敗戦でトラックの「小松」は消滅し、看護婦の仕事を手伝うようになった女子従業員が6人犠牲となった。井上は、終戦直後に「小松」を訪ね、案内された座敷に入らず、敷居の外に座って山本直枝に頭を下げ

「申し訳ありません。今度の戦争では大変な御迷惑をおかけしたことを、日本海軍を代表しておわびいたします」

と謝罪した。山本は、井上の潔い謝罪に感銘を受けた。[199]そして、長井の井上宅を初めて訪問した時、あまりの貧窮ぶりに「これが国のために働いた海軍大将の生活か」と絶句した。井上の生活ぶりを案じて、時々食べ物を持って井上宅を訪ねると、井上はいちいち掛け軸などを山本に渡して「お返し」をしようとする。井上の困窮に心底から同情していた山本は困惑したが、一時預かるつもりで「お返し」を受け取り、「井上さんが(本当に)困った時には、品物をお返しすれば良い」と自分を納得させた。[200]

山本直枝は、井上に心置きなく好意を受けて貰う方法はないかと考えていた。1951年(昭和26年)頃になって、「小松」に米軍の客がやって来るようになったので、従業員への英会話の指導を井上に頼むことにしたのである。山本は

「井上さんに好きなものを御馳走してさしあげようと思い、英会話の先生をお願いしたんです」

と語っている。井上は、英語塾で使っているものとは別に、「小松」従業員専用の英語教材を用意し、米国・英国の国歌まで教えた。「小松」に大きな借りがあると考えている井上は報酬を求めなかったが、英会話を教えに「小松」に来る井上は、出される食事は喜んで食べ、「お車料」の名目で出される包みは素直に受け取った。井上と山本直枝の交誼は、井上が亡くなるまで続いた。[201]

井上は、1953年(昭和28年)6月16日に胃潰瘍で大量の吐血をし、市立横須賀病院長井分院に搬送された。井上は社会保険に加入していず、所持金もなく、満足な治療を受けられない状況だった。偶然に、分院長が、井上と親しい山本善雄少将の近親者で、搬送された患者「井上成美」が、かつての海軍大将であることに気づいて、分院の総力を挙げての応急治療がなされた。井上は、症状が安定した4日後に市立横須賀病院の本院へ搬送された。本院の院長が、機転を利かせて、「小松」に井上の状況を通知し、「小松」を介して井上の窮境が海軍関係者に伝わり、多数の海軍関係者・縁故者の手が差し伸べられた[202]

市立横須賀病院で定期的に診療していた中山恒明千葉大学医学部第二外科教授の執刀で手術が成功した。治療費の拠出、著名な外科医であった中山の執刀、いずれも海軍関係者の尽力による[203]

井上が市立横須賀病院に入院中の1953年(昭和28年)8月1日に軍人恩給が復活した、同年4月から遡及して支払われる規定であった。山上実中佐は、井上が早期に軍人恩給を受給できるように東京都民政局へ脚を運んで係官と相談した。井上が海軍次官(文官扱い)を経験したことから、文官恩給を申請する資格があること、武官恩給の年金額より多くなるならば、文官恩給を申請した方が良いという示唆を受けた。山上がその旨を井上に伝えた所、井上は「海軍士官であった者として生涯を終えたい。金額が仮に不利であっても、武官の恩給を申請する」と返答した。[204]

[編集] 戦後の生活(死去まで)

井上は、1953年(昭和28年)8月末に市立横須賀病院を退院して長井の自宅に戻った後、軍人恩給が復活して一応の生活の目処が立ったためか、田原富士子と同年の秋に再婚した[205]

田原富士子は、井上の書いた書面によると、1899年(明治32年)12月に埼玉県で医師の娘として出生、田原某と結婚するも死別、花柳流日本舞踊の名取、井上より10歳年下で、井上と結婚した時は53歳であった[206]1951年(昭和26年)12月に「東京タイムズ」に掲載された井上についての記事を読み、記事から伝わる井上の高潔な人格に敬服して、貧窮に苦しむ井上に援助の手を差し伸べたいと考えたという。東京タイムズの記者の紹介で、翌1952年(昭和27年)に長井に移住し、井上の長兄の秀二の別荘を借りて住み始めた。ご馳走を作って井上に届けるなど、井上との交際を深めて行った。井上が、1953年(昭和28年)6月に胃潰瘍で大量の吐血をした際、井上は駆けつけた近所の人に「隣の奥さんを呼んで来て下さい」と書いた紙を渡した。医師の娘である富士子は多少の医学・薬学の知識を有しており、吐血の際の応急処置、医師への連絡などを適切に行うことが出来た。[207]富士子は、井上が市立横須賀病院に入院している最中には常に付き添い(井上の姪の伊藤由里子と交代で付き添った[208])、下の世話も厭わずに献身的に世話をした[209]

富士子は、井上の入院中に「面会謝絶」の医師の指示を頑強に守り通そうとして、遠方から駆けつけた親戚の阿部信行元首相[210]、山梨勝之進大将(兵25期、井上と同郷、かつ井上と同じ条約派、当時は水交会会長)などの大事な見舞客を追い返す勇み足を犯したり[211]、井上との結婚後に、井上の亡妻の喜久子の親戚筋である阿部(信行)家、稲田正純陸軍中将家、大石堅志郎海軍大佐家らに、「今後、井上宅への来訪は見合わせて頂きたい」という書状が井上の名で届いたり[212]、井上の親戚、旧部下、英語塾の教え子などの「井上と縁のある女性」が井上宅を訪れた時に井上に無断で門前払いしたり、彼女たちから井上に届いた手紙を、井上に見せずに捨ててしまう[213]など、批判されても仕方ない所があった。井上の親族の中でも、戦後の井上と最も親しかった伊藤由里子は「あの方、要するに海軍大将夫人におなりになりたかったんじゃないの」と、富士子へのきつい批判を洩らした[214]

しかし、井上は、死去の前年の1974年(昭和49年)に、山上実中佐に

「富士子は私の看護のために結婚してくれたようなもので、何らの楽しみも与えることができず、誠に気の毒だ。私の万一の場合に、富士子の身の上が一番心配だった。しかし、(兵学校の)生徒諸君が援助を約束してくれているのでほっとしているよ」

と述べており、富士子に深く感謝していた様子が伺える。[215]井上が死去し、富士子が入院して空き家となった井上宅を整理していた者が、「井上富士子」名義の預金通帳を発見した。預金通帳には、兵学校時代の教え子である深田秀明(兵73期)が「管理料」の名目で井上に送金した(後述)金額が、そっくり預金されていたという。[216]井上が、富士子の老後のことを心底から案じていたことが分る。

山本善雄少将は、あくまでも自分の想像に過ぎないが、として

「井上さんが、ちょっとした贈り物にも返礼しなければ気が済まない性分なのは、支那方面艦隊でお仕えした自分はよく知っている。富士子さんの、入院中の井上さんへの献身的な看護ぶりは、我々が頭を下げてお礼を言いたい程であった。しかし、戦後の井上さんにはこれに報いる手立てが何もない。そこに軍人恩給が復活して、受給者(井上)が死んだ場合、親または配偶者は半額の遺族扶助料が終身支給されるようになった。井上さんが、押しかけ女房の気味のあった富士子さんと、敢えて結婚に踏み切られたのは、命の恩人である富士子さんに、自分の死後、僅かながらも終身の年金を保証し、せめてもの『お返し』をするためだったのではないか」

という旨を述べている。[217]

井上の英語塾は、井上が吐血して緊急入院した1953年(昭和28年)6月に自然閉鎖され、井上の退院後は再開されなかった。元生徒の一人が保存する英語塾のノートの日付は、1953年(昭和28年)5月24日で終わっている。[218]

軍人恩給の復活により、井上の生活は一応安定したが、軍人恩給のみでの生活は楽ではなかった。この時期[219]、矢野志加三中将は日平産業[220]の社長を務め、実業界で一定の地位を築いていた。矢野は、井上の生活を心配して、井上を一流会社の顧問に推薦したいと再三打診したが、井上は頑なに拒否した。[221]

また、戦後のこの時期までに井上と接触した旧部下有志(主に、第四艦隊司令長官時代の幕僚と、兵学校長時代の教官・教え子)の協力による金銭援助すらも、井上は全て断っていた。社会通念として行われる程度の贈答品についても、井上は、「小松」の山本直枝に示したような潔癖さを見せ、時には好意を受け入れてもらえなかった者の気分を白けさせた。[222]

井上自身は、軍人恩給のみでは、いずれは生活が行き詰まると考え、長井の自宅を売却して、もう少し便利な場所に小さな家を建て、残金を老後資金に充てたいと考えていた。しかし、この頃の井上宅は、自動車の入れない細道を歩いて行かないと玄関先に辿り着けなくなっており[74]、横須賀市の市街地や逗子方面へ出るのも困難、かつ別荘地としての発展も見込めず[223]、井上の考えるように、代替の住宅と老後資金を確保できるだけの値で売れる見込はなかった。[224]

井上の兵学校長時代の教え子で、井上に心酔しており、実業界で成功を収めていた深田秀明(兵73期)が、井上を

「子供(兵学校生徒)が立派に成長して小遣いを持って訪ねて来たのに、それを受け取らぬ親(兵学校長)がどこにいますか」

と言う理屈で説得して、金銭援助を受け入れさせることに成功した[224]1964年(昭和39年)のことであった[225]

深田は、まず井上を自分の会社の顧問として顧問料を月々支払い(1964年(昭和39年)から。当初は5千円、1968年(昭和43年)頃から1万円。[226])、次いで、井上宅を深田の会社が買い取り、井上夫婦を「住み込みの管理人」として、井上に管理料を月々支払う(1969年(昭和44年)から。5万円。[227])、という形式で、井上が死去するまで金銭援助を継続した。[228]

井上は、深田の好意を受ける代わりに土地家屋を無償で譲渡したいと深田に申し入れ、固辞した深田が、井上の再三の申し出に負け、井上宅を深田の会社が「適正な価格」で買い取ることになったもの。深田は、複数の不動産屋に井上宅の時価を評価させ、売買契約書を公正証書とした。契約内容は「井上夫婦のいずれか一方が存命中は無償で不動産を使用でき、売却代金に加えて、管理費用として毎月一定の金額を深田の会社が井上に支払う」という破格のものであった。この経緯については、井上が1975年(昭和50年)12月に死去した後、井上の相続人である孫の丸田研一が、井上の死の直後に深田から説明された。丸田は、晩年の井上を支えていた、兵学校長時代の企画課長(兵学校のナンバースリーで、艦隊司令部の先任参謀にあたる)であった小田切正徳大佐(兵52期[229])からも深田の説明を裏づける話を聞き、井上宅の押入れから、深田の説明通りの内容の公正証書を発見した。[230]

1965年(昭和40年)10月23日に、第四艦隊司令部幕僚の親睦会「珊瑚会」と、深田を中心とする兵学校73期前後の生徒有志により、井上の喜寿を祝う会が東京・新宿の「古鷹ビル」(深田の会社の本社ビル)[231]で開催された。戦後の井上が上京し、人前に出た数少ない事例である。この際に、井上は、中佐でイタリア駐在武官に赴任する際に同じ船に乗り合わせて知り合った彫刻家日名子実三がローマで制作した、イタリア駐在武官時代の第一種軍装・勲章佩用のブロンズ胸像を持参して深田に託した。[232]井上の胸像は、深田の会社の事務室に飾られることが決まった[233]

井上は、1974年(昭和49年)の春に風邪をこじらせて横須賀市民病院に半年入院し、退院した後は、一日の大半を床の中で過すようになった。暖かい日に部屋の中を歩いたり、庭を散歩することもあった。そして、1975年(昭和50年)12月15日午後5時過ぎに、老衰で死去した。86歳没。亡くなった日は、井上は朝から床に伏していたが、夕刻5時近くになって、付き添っていた富士子の目を盗んでそっと起き上がり、居間の窓の敷居をまたいでベランダに出て、太平洋を眺めていた。富士子が気づいた時は、再び窓の敷居をまたいで部屋に帰る所であり、床に戻って間もなく息を引き取ったという。[234]

井上は、自分の死後のことについて遺書を残していたが、死後2ヵ月半後に偶然見つかるまで誰も存在を知らなかった[235]。しかし、生前から葬儀を簡素にして欲しいという話を教え子らにしていたので、結果としては井上の遺言に沿った簡素な葬儀が、長井の勧明寺(住職は英語塾の元生徒)で12月17日に挙行された。昭和天皇から祭祀料1万5千円が下賜された。葬儀委員長は、海兵37期クラス会幹事の中村一夫少将が務めた。参列者は305名の多数に及んだ。[236]

参列者の中には終戦間際に秘密工作を命じた高木惣吉少将(当時82歳)の姿もあった。高木は体調不良で医者から安静を命じられていたが、「井上さんの葬儀にはどんなことがあっても行かなければ気が済まない。そのために死んだって本望だ」と家族の制止を振り切って参列した。寺の本堂に入るようにとの葬儀委員の勧めを固辞して、屋外の椅子に端然と座って12月の海風に身を曝していた高木は、その日から肺炎に罹患して危篤状態となり、長期の療養を余儀なくされた。[237]

1976年(昭和51年)1月31日に、「井上成美追悼会」が東京・原宿の東郷記念館で催された。海兵71期-78期までのクラス会が世話人となった。主催者の予想を遥かに超える715名が参列したため、用意された椅子に座れたのは参列者の1/3程度に過ぎず、会場の外に参列者が溢れた。戦後の海軍関係の集会では最大の人数であった。追悼会は3時間に渡り、中村一夫の悼辞で締めくくられた。[238]

未亡人となった富士子は、井上の死後2ヶ月余りの1976年(昭和51年)2月26日に、長井の自宅に通じる農道で転倒し、横須賀市民病院に入院した。同病院に勤務する、生前の井上の主治医であった兵学校時代の教え子を中心に治療がなされたが、富士子には、長期間の井上の看護・葬儀・追悼会などの疲労が重く蓄積しており、心身が急速に衰え、認知症が悪化して来た。富士子は老人病院に転院し、退院することなく、井上を追うように1977年(昭和52年)6月16日に満76歳で死去した。[239]

井上の死の直後に長井の井上旧宅を訪れ、その印象を文章にしているノンフィクション作家の中田整一(井上成美#「比叡」艦長時代に既述)は、井上旧宅のその後について記している。[240]

「(2000年(平成12年)頃に)井上の旧宅を訪れてみた。空き家は、庭の手入れも行き届き、昔のまま保存されていた。なんとこの家で教えをうけた英語塾の塾生のひとりが夫婦で二十五年間、空き家を守り続けていたのである。まさに井上成美の教育の原点を見る思いであった」

「そして現在(2007年(平成19年))は、海軍兵学校時代の教え子の次の世代の家族が引き継いで、すっかり外観の装いも新しくなった。井上が住んでいた頃の名残をとどめるのは、暖炉の煙突だけである。井上が起居した部屋からみえた荒崎海岸の切り立った断崖と、岩に砕け散る波のさまは、昔と変らぬ風景だった」

[編集] 家族・親類関係

父の嘉矩(よしのり)は、1847年(弘化4年)生まれの旧幕臣で、数理に長じ、若くして御勘定奉行所普請方に出仕した。長崎に留学してオランダ人に建築術を学んだと言う。明治になって大蔵省に勤め、宮城県庁に転じて一等属を務めた。宮城県庁によると、県庁一等属とは、県令(県知事)、大書記官(副知事)に次ぐナンバー・スリーの職であり、後年の出納長に当たる重職であった[241]

井上が数学に長じていたことは知られるが、長兄の秀二は著名な土木技術者となり、次兄の達三が陸軍砲兵将校(陸軍現役将校を志し、幼年学校・中学校を経て士官候補生となった者は、陸軍士官学校予科を卒業する前に志望兵科を決めるが、数学を得意とする者が、砲兵科・工兵科を志望した[242])として中将に昇っている。

秀二の次男で、井上本家を継いだ井上秀郎(ひでお[243]1980年(昭和55年)死去。大学教授。[244])は、井上と「一卵性双生児」のように容姿がソックリだった。秀郎の妻の達子によると、秀郎は容姿に加え性格も井上と良く似ており、達子は井上を怖いと思ったことは一度もなかった。秀郎は数学教師で、戦前は成蹊高等学校に勤務していた。[245]

井上一族に数学に長じた者が多いのは、嘉矩の素養を受け継いでいると思われる。

嘉矩は、1878年(明治11年)12月に40歳を過ぎたばかりの壮年で、かなりの俸給を得ていただろう宮城県庁一等属を辞した。宮城県庁人事課に、嘉矩が提出した解職願が残っており「眼が悪くて執務に耐えられないので解職を願う」とある。退職後は、仙台市坊主町54ないし53(現在の仙台市青葉区国見二丁目5-38、仙台市立第一中学校の北側にあたる。当時の仙台の市街地からは外れる)に住み、ブドウ園を経営した。広い土地で人を使ってブドウを栽培したが、300円かけて300円の収入が漸く得られるような経営状態だったと伝わる。自然として、県庁退職後の井上家の家計は楽ではなく、後妻に入った「もと」の実家の石川家からの援助に頼る状況であった。晩年の嘉矩は嗣子の秀二と同居し、1915年(大正4年)11月17日に68歳で没した。[246]

井上は1968年(昭和43年)に海兵クラス会の会報に寄稿し、中学3年の時に父に呼ばれて「家計が苦しいので、兄(秀二と他1名)のように高等学校にやる訳には行かない」と言われたこと、海軍兵学校を志望した一番の理由は「海兵に進んだ先輩が帰郷した時の短剣姿に憧れたから」だと記している。[247]

嘉矩は、前妻と三男一女を儲けたが、いずれも明治中頃までに夭折した。井上成美の生母の「もと」は、仙台藩主伊達家の一門である石川家の出身で、井上嘉矩の後妻に入り、九男を産んで1901年(明治34年)12月16日に46歳で没した。女子ながら漢籍に通じており、かつ琴の名手であった。[248]

母の「もと」の音楽の素養も、井上とその兄弟に受け継がれた。井上が琴・ピアノをはじめとする多数の楽器を奏きこなし、音楽好きとして海軍部内で有名だったのは知られるが、仙台に住んでいる時から、井上兄弟は合奏や歌を楽しみ、ヴァイオリンやピアノを自作して奏いていたという。[249]

井上成美は、夭折した異母兄姉を含めると、13人兄弟(十二男一女)の十一男だった。兵学校の採用試験で、試験官に家庭状況を問われて「十一男です」と答え、「ふざけた返事をするな」と叱られたと言う[250]。異母兄姉がみな夭折したため、事実上の長男は四男の秀二であった[251]。井上の実兄弟は、すぐ上の兄の美暢が1952年(昭和27年)1月2日に病没したのを最後に、井上の生前に全て死去していた[252]

祖父:石川義光 
陸奥石川氏37代目当主。
伯父:田村邦栄 
陸奥一関藩主。
伯父:田村崇顕 
陸奥一関藩主。
従兄:田村丕顕 
海軍少将。
実兄:井上秀二 
土木技術者。
実兄:井上達三 
陸軍中将。
実兄:井上美暢(よしのぶ) 
陸軍大佐、士候20期。中尉時代に連隊長に制裁を加えたため陸大を受験できなかった。[253]義暢と成美は反りが合わず、仲違いをしていたエピソードが伝わる[254]
義兄:阿部信行 
陸軍大将、内閣総理大臣。井上の妻の喜久代の長姉を娶る。喜久代の父は、陸軍二等主計正(中佐相当官)の原知信(とものぶ)。原は陸軍を早く退き、金沢市で陶磁器会社の重役をしていた人。[71]
義兄:関寿雄 
陸軍大佐、士候13期。喜久代の次姉を娶る。[71]
義弟:大石堅四郎 
海軍大佐、兵42期。喜久代の妹を娶る。[71]
娘婿:丸田吉人(よしんど) 
海軍軍医中佐、北海道帝国大学医学部在学中に海軍軍医学生となった現役軍医科士官[255]重巡鳥海」軍医長としてレイテ沖海戦で戦死[256]。父は丸田幸治 海軍軍医少将。[107]
親類:稲田正純 
陸軍中将。阿部信行の娘である和子を娶る[71]。和子は、少女時代に井上成美にたいへん可愛がられた。琴に長じる井上は、阿部信行の家で、かつて稲田のために「六段の調」を弾いてくれたという。稲田は、大佐で参謀本部作戦課長を務めていた時に、三国同盟締結に関して、海軍省軍務局長であった井上に直談判を試みたが、相手にされたなかった。[257]

[編集] 遺書

表に「井上成美遺書」と書かれた白い封筒に入っていた。以下の文章が、粗末な便箋2枚に書かれていた(ペン書き、縦書き)。文字遣いは、井上の書いた通り。[258]

井上成美遺言 (明治二十二年十二月九日生まれ)
小生の葬儀は密葬の事
雑件
(一)、葬儀場は勧明寺(長井町・・・)
 電話・・局の「・・・・」井上宅から歩いて十分
(二)、埋葬。東京多摩[259]霊園の本家墓地に埋葬のこと。この事は在中野分家の現主人井上秀郎承知。
 井上秀郎住所(・・・)
(三)、花輪、供物、香典等は一切お辞退の事。
附言。おつ夜その他の段等は荒井、長井等一般世間の習慣に依る事。

[編集] 年譜

墓所は東京都府中市多磨霊園所在。

[編集] 主要著述物

  • 『思い出の記』井上成美私稿

[編集] GHQ歴史課陳述録

  • 海軍の和平案、陸海軍統合問題、米内海相留任などについて 1950年(昭和25年)

[編集] 出典の簡略表記

本記事は、大部分の記述を、下記の2つの文献に拠っている。脚注においては、記載簡略化のため、それぞれ略称を用いている。

  • 井上成美伝記刊行会編著『井上成美』井上成美伝記刊行会、1982年(昭和57年)。 第37回毎日出版文化賞を受賞[264]。 → 略称 『伝記』
  • 阿川弘之『井上成美』新潮文庫、1992年(平成4年)。 → 略称 『阿川』

[編集] 脚注

  1. ^ 阿川弘之『米内光政』新潮文庫、2002年(平成14年)、214頁。
  2. ^ 『伝記』 263頁。
  3. ^ 井上は県立宮城県第一中学校(明治34年7月1日 - 明治37年5月31日の名称)、宮城県仙台第一中学校(明治37年6月1日-大正8年10月31日の名称)の13回生(明治35年入学 - 同40年卒業)として、一貫して宮城県仙台第一高等学校の(「正会員 中学の部」)同窓会(卒業者)名簿にも掲載されている。在学中の1904年(明治37年)に学校の名称変更など制度改正があった。つまり井上成美が県立宮城県第一中学校に入学したのち、宮城県仙台第一中学校と宮城県仙台第二中学校の二つに改組されたので、両方の卒業生として名前が記載されている。
  4. ^ 『伝記』 26頁。
  5. ^ 『伝記』 31頁。
  6. ^ a b 『伝記』 49頁-50頁。
  7. ^ 井上が初級士官であった当時、海兵を卒業して少尉任官すると、少尉・中尉の時代に総員が砲術学校と水雷学校の普通科学生となる。次いで、大尉になると、選抜試験を受けてクラスの約80%が「海大乙種学生」となる。海大乙種学生は、砲術・水雷・航海の各高等科に分れる前の教養課程の位置づけで、約半年間、主に高等数学の教育を受ける。その後、砲術科志望者は砲術学校高等科学生、水雷科志望者は水雷学校高等科学生となった。航海科志望者は、海大専修学生となった。海大専修学生は、後年の航海学校学生に相当する。『伝記』 66-67頁。
  8. ^ 小林万一郎は、海軍少佐であった1922年(大正11年)に病没。『伝記』 31頁。
  9. ^ 『伝記』 48頁。
  10. ^ 『伝記』 48頁・50頁。
  11. ^ 『伝記』 4頁。
  12. ^ Arthur J. Marder, Old friends, new enemies: the Royal Navy and the Imperial Japanese Navy, Oxford: Oxford University Press, 1981, Reprinted 2002) Page 98 "Rear-Admiral Inoue Shigeyoshi (better known as Inoue Seibi, Vice-Admiral, November 1939), Chief of the Bureau of Naval Affairs (October 1937 - October 1939), was a tall and slender man who gave the impression of being cold - he rarely smiled - but closer contact revealed him to be warm-hearted."
  13. ^ 『伝記』 92頁。
  14. ^ 『伝記』 96頁。
  15. ^ 『阿川』 543頁。
  16. ^ 1959年(昭和34年)に井上が財団法人水交会の求めに応じて行った談話の中に「私は運動神経が極めて鈍いので、武道体技その他の実技はお話にならないほど下手で、剣道、柔道、水泳共クラス中最劣等だったと記憶する」とあり、スポーツは苦手であった模様。『伝記』 資料編 272頁。
  17. ^ 『伝記』 5-7頁。
  18. ^ 『伝記』 257頁。
  19. ^ 『伝記』 507頁。
  20. ^ 『伝記』 514頁。
  21. ^ 『伝記』 154頁。
  22. ^ 『阿川』 347頁。
  23. ^ 『伝記』 500-501・522-523頁。
  24. ^ 『阿川』 58頁。
  25. ^ 『伝記』 386頁-387頁。
  26. ^ 『伝記』 資料編 221-228頁。
  27. ^ 『伝記』 27頁。
  28. ^ 丸田研一『わが祖父-井上成美』 徳間書店、1987年(昭和62年)、87-88頁。
  29. ^ 『わが祖父-井上成美』 188-189頁。
  30. ^ 『伝記』 79頁。
  31. ^ 『伝記』 79頁。
  32. ^ 『伝記』 514頁。
  33. ^ 『阿川』 31-32頁。
  34. ^ 『伝記』 550頁。
  35. ^ 『阿川』 16-27頁。
  36. ^ 『阿川』 144頁。
  37. ^ 『伝記』 256-257頁。
  38. ^ 戦時中の1943年(昭和18年)・1944年(昭和19年)に、井上が奥津に送った手紙4通を見ると、海軍中将であった井上が、奥津ノブ子を全く対等に遇していたことが分る。『伝記』 資料編 257-258頁。
  39. ^ 『伝記』 322-325頁。
  40. ^ 『伝記』 371-372頁。
  41. ^ 『阿川』 447-449頁。
  42. ^ 『阿川』 368頁。
  43. ^ 『阿川』 169頁。
  44. ^ 『阿川』 564頁。
  45. ^ 山本善雄少将は、海大甲種学生(29期)の時に海大戦略教官だった井上の教えを受け、その後、井上が軍務局一課長で山本が海軍大臣秘書官、井上が軍務局長で山本が軍務局第一課A局員、井上が支那方面艦隊参謀長で山本が同艦隊先任参謀、井上が海軍次官で山本が軍務局一課長と、4度に渡り、部下として勤務した。戦後に井上が胃潰瘍で倒れた際に世話になった医師が、偶然に山本の従兄かつ義弟であった。『伝記』 資料編 250頁。
  46. ^ 『阿川』 221頁。
  47. ^ 雨倉孝之『海軍アドミラル軍制物語』光人社、1997年(平成9年)、122-128頁。
  48. ^ 『伝記』 102-103頁。
  49. ^ 『阿川』 86-87頁。
  50. ^ 『省部』とは『(海軍)省(と海軍軍令)部』を意味する。
  51. ^ 『伝記』 137-142頁。
  52. ^ 野村實『山本五十六再考』中公文庫、1996年(平成8年)、11-74頁。
  53. ^ 『阿川』88頁。
  54. ^ 『阿川』 89頁。
  55. ^ a b 『阿川』 90頁。
  56. ^ 『阿川』 90-91頁。
  57. ^ a b c 『阿川』 91頁。
  58. ^ a b 『阿川』 92頁。
  59. ^ a b 『阿川』 93頁。
  60. ^ 海軍の人事を見ると「クラスヘッドと他に1名程度が、同期の最初に進級する」「クラスヘッドは、途中で死去・途中で海軍を辞める・不祥事を起こすなどの『特段の事情』がなければ、同期の最初に中将に進級する。大将に進級するか否かは別」「直前の期のクラスヘッドの昇進の1年後に次の期のクラスヘッドが昇進する。後の期のクラスヘッドが前の期のクラスヘッドを追い抜くことはない」となっていた。後に、井上が1945年(昭和20年)5月15日に大将に昇進し、『最後の海軍大将』と呼ばれるようになったのも、海兵36期の出世頭(191人中3番。海兵36期のクラスヘッドの佐藤市郎は、中将昇進は沢本と同時、その2年後に中将で予備役)だった沢本頼雄1944年(昭和19年)3月1日に大将に昇進したのを受けた「海軍の人事慣例通り」の人事であった。海兵37期の出世頭の井上と同時に、海兵36期の2番手として、塚原二四三が大将に昇進している。
  61. ^ 『海軍アドミラル軍制物語』 23頁。
  62. ^ 『阿川』 146頁。
  63. ^ 『阿川』 133・142頁。
  64. ^ 『伝記』 156-159頁。
  65. ^ 三浦郡長井町は、大東亜戦争中の1943年(昭和18年)に横須賀市に合併され、横須賀市長井となった。横須賀市HP「昭和時代年表」
  66. ^ 井上の長井の家は海岸に面した崖縁にあり、庭先から歩いて海岸に降りることができた。『伝記』 499頁。
  67. ^ 『阿川』 48頁。
  68. ^ 中田整一 編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想-淵田美津雄自叙伝』 講談社文庫、2010年(平成22年)、380-381頁。
  69. ^ 『伝記』 168頁
  70. ^ 『阿川』 131頁。
  71. ^ a b c d e f 『伝記』 68頁。
  72. ^ 『伝記』では、当時の通称の「お茶の水高女」と表記されているが、『わが祖父-井上成美』 57頁に「【靚子は】東京高等女子師範学校(現 お茶の水女子大学)の付属に通っていた」とある。
  73. ^ 『伝記』 168頁。
  74. ^ a b 戦後の混乱時に、井上宅に通じる道について、近所の農民たちが畑の境界線をなし崩しに広げて道幅を狭め、1965年(昭和40年)頃には自動車が入れない細道になっており、井上宅の不動産価値を著しく下げていた。『阿川』 532頁。
  75. ^ 『伝記』 173-174頁。
  76. ^ 『伝記』 171-174頁。
  77. ^ 『伝記』 172-173頁。
  78. ^ 『伝記』 176頁。
  79. ^ 「貴公」は、陸軍で、階級や士官学校の年次がごく近い将校同士で使われた二人称。
  80. ^ 『伝記』 資料編19-20頁。
  81. ^ a b 『伝記』 178頁。
  82. ^ 『伝記』 179頁。
  83. ^ この日の関東地方は大雪で、かつ鉄道の横須賀線は陸軍の反乱のために途絶した。阿川『米内光政』新潮文庫、2002年(平成14年)、220頁。
  84. ^ 「那珂」はこの日は九州方面に出動中だったので、同じく横鎮所属の「木曽」が代わりとなった。『わが祖父-井上成美』 81頁。
  85. ^ 『伝記』 180頁。
  86. ^ 2.26事件の前夜、米内は東京・柳橋の待合に泊まっており、26日の早朝に待合を出たという証言がある。その証言が正しいとすれば、米内は、何も知らない状態で、横須賀線下りの始発に乗り、横須賀の長官官邸に戻ってから副官の報告で事件発生を知ったと推定できる。阿川『米内光政』新潮文庫、2002年(平成14年)、215-220頁。
  87. ^ 「陛下を比叡にお移し申し上げるべし」という井上の発言は、戦後の井上と新名丈夫との対談による。『伝記』 180頁。
  88. ^ 『伝記』 180-181頁。
  89. ^ 『伝記』 182頁。
  90. ^ a b 『伝記』 182-183頁。
  91. ^ 戦後に、佐藤が海兵37期のクラス会会報に寄せた手記による。『伝記』 184-186頁。
  92. ^ 『阿川』 173頁。
  93. ^ 『阿川』 176頁。
  94. ^ 平間洋一他 『今こそ知りたい江田島海軍兵学校』 新人物往来社、2009年(平成21年)、70頁-72頁。
  95. ^ a b 『伝記』 211頁。
  96. ^ 1937年(昭和12年)の1円=2011年の2,000円として換算すると、パネー号事件のアメリカへの賠償金670万円は、2011年の貨幣価値で135億円となる。
  97. ^ 『伝記』 221頁。
  98. ^ 『伝記』 223頁。
  99. ^ 『伝記』 210頁。
  100. ^ 『伝記』 224頁。
  101. ^ 『伝記』 225-226頁。
  102. ^ a b 『阿川』 194頁。
  103. ^ 『伝記』 227頁。
  104. ^ 『伝記』 228頁。
  105. ^ 『伝記』 233-237頁。
  106. ^ 『伝記』 238頁。
  107. ^ a b 『伝記』 242-243頁。
  108. ^ 『伝記』 244頁。
  109. ^ 『伝記』 245-247頁。
  110. ^ a b 『伝記』 258頁。
  111. ^ 『伝記』 258-259頁。
  112. ^ 『阿川』 235頁。
  113. ^ 『伝記』 259-260頁。
  114. ^ 『伝記』 261頁。
  115. ^ 『伝記』 262頁。
  116. ^ 『伝記』 263頁。
  117. ^ 『伝記』 263頁。
  118. ^ 『伝記』 267頁。
  119. ^ 『伝記』 268頁。
  120. ^ 『伝記』 271頁。
  121. ^ 『伝記』 272-273頁。
  122. ^ a b 朝日ジャーナル』昭和51年1月16日号掲載のインタビュー記事。このインタビューは、1970年(昭和45年)4月末に行われたが、「関係者に存命の者もいるので、私が死ぬまで発表したくない」との井上の希望により、井上が1975年(昭和50年)12月15日に死去した後に掲載された。
  123. ^ a b 『伝記』 273頁。
  124. ^ 『伝記』 283頁、287-289頁。
  125. ^ 『伝記』 資料編 125-135頁。
  126. ^ 『伝記』 290-291頁。
  127. ^ 『伝記』 296-297頁。
  128. ^ 『伝記』 298-299頁。
  129. ^ 『伝記』 292頁。
  130. ^ 『伝記』 292-293頁。
  131. ^ 『伝記』 293頁。
  132. ^ 『伝記』 304頁。
  133. ^ 『伝記』 304-305頁。
  134. ^ 『伝記』 305-306頁。
  135. ^ 『伝記』 306-307頁。
  136. ^ 高須四郎は海兵35期の卒業席次は10番。海軍中佐から海軍大将に至るまでの全ての階級で、2期下の海兵37期クラスヘッドである井上成美より1年前に進級している。なので、高須が1940年(昭和15年)11月から9ヶ月間(1年弱)、第四艦隊司令長官を務めた後に、高須よりちょうど1年後任である井上が第四艦隊司令長官に就任するのは、自然であるとも言える。
  137. ^ 『伝記』 315頁。
  138. ^ 艦隊司令長官、艦隊参謀長以下の艦隊司令部職員は、旗艦内に居住し、艦隊司令部は旗艦の中で完結するのが通常であった。横須賀佐世保舞鶴のような軍港地には、鎮守府要港部といった海軍の司令部が、艦隊司令部とは別個に陸上に置かれていた。呉であれば、呉鎮守府司令長官を長とする呉鎮守府が、呉地区の海軍の陸上諸機関を統轄していた。一方、第四艦隊旗艦「鹿島」の母港の役割を果たしていたトラック島には、鎮守府のような海軍の陸上司令部は存在せず、第四艦隊が、鎮守府・要港部の機能を兼ねていた。『伝記』 318頁。
  139. ^ 『伝記』 317-318頁。
  140. ^ 『伝記』 320頁。
  141. ^ 『伝記』 322頁。
  142. ^ 『伝記』 325頁。
  143. ^ 『阿川』 283-287頁。
  144. ^ 森史朗『運命の夜明け』文春文庫、2006年(平成18年)、247頁。
  145. ^ 『運命の夜明け』(文春文庫版) 501頁。
  146. ^ 『伝記』 321頁。
  147. ^ 『阿川』 287-288頁。
  148. ^ 『伝記』 338-340頁。
  149. ^ 海軍現役士官の人事は海軍大臣の専権事項であった。嶋田が東條英機内閣の総辞職(1944年(昭和19年)7月18日)と共に海軍大臣職を解かれて軍令部総長専任となり、同年8月2日に軍令部総長職も解かれて軍事参議官になる事態がなければ、井上の大将昇進(1945年(昭和20年)5月15日)はなかったであろう。
  150. ^ 岡田啓介元首相が、熱海で静養中の伏見宮博恭王海軍元帥を訪ねた1944年(昭和19年)3月7日の前、同年2月に、東條英機首相が、陸軍大臣と参謀総長を兼任し、嶋田繁太郎海軍大臣が軍令部総長を兼任して、「東條幕府」と批判される状況であった。
  151. ^ 『伝記』 464-465頁。同書のこの記述は、『高木海軍少将覚え書』毎日新聞社、1979年(昭和54年) を史料としている。
  152. ^ 『伝記』 333-334頁。
  153. ^ 『阿川』 331頁。
  154. ^ 『伝記』 340頁。
  155. ^ 『阿川』 321頁。阿川は高橋定に直接取材している。この挿話については、『阿川』の記述に従った。
  156. ^ 半藤一利『遠い島ガダルカナル』PHP文庫、2005年、51頁。
  157. ^ 千早正隆『日本海軍失敗の本質』PHP文庫、2008年、187頁。
  158. ^ 千早正隆「戦場の井上成美」の初出は、『井上成美のすべて』、新人物往来社、1988年(昭和63年)。千早『日本海軍失敗の本質』(PHP文庫)160-197頁に再録。
  159. ^ ニューギニア・ソロモン方面を管轄する第八艦隊が編成されたのは、1942年(昭和17年)7月14日であり、米軍がツラギ島・ガ島に上陸作戦を行う8月7日より1ヶ月近く前である。第四艦隊が、南東方面の広大な海域を守備するに足る兵力を持たないことは明白であった。
  160. ^ 『伝記』 349頁。
  161. ^ 『伝記』 347頁。
  162. ^ 『伝記』 347-348頁。
  163. ^ 『伝記』 349頁。
  164. ^ 『伝記』 346頁。
  165. ^ 海軍兵学校は、海軍省の外局。
  166. ^ 大東亜戦争中は、中将に進級してから5年半経過しても現役にある者は大将に親任される例であった(雨倉孝之『海軍アドミラル軍制物語』 光人社、1997年(平成9年)、163-164頁)。1939年(昭和14年)11月15日に 中将に進級した井上は、予備役にならなければ、1945年(昭和20年)5月に大将に親任される計算となる。史実では、井上は1945年(昭和20年)5月15日に大将に親任された。結果としては嶋田の言う通りに1942年(昭和17年)11月から「2年半」で井上は大将になった。ただし、井上成美#第四艦隊司令長官時代で既述のように、「嶋田海相が、『井上は大将はダメ』と言っていた」と示す資料があるので、兵学校への赴任を前に井上が海軍省を訪れた際の嶋田海相の発言はリップサービスと思われる。
  167. ^ 『伝記』 349-350頁。
  168. ^ 『伝記』 350頁。
  169. ^ 鈴木が練習艦隊の「宗谷」艦長時代、候補生を集めて「精神教育は1年2年で効果が現れるわけではない。10年、20年後だよ、宗谷の候補生諸君!」と訓示しているが、それを聞いた一人に「宗谷」乗艦の少尉候補生だった井上もいた。
  170. ^ 「あと2年もすれば日本がこの戦争に負けるのは決まり切っている。だけど公にそんなことを言うわけにはいきません。そんな顔をすることすら出来ない。名分の立たぬ勝ち目のない戦だと内心思っていても、勅が下れば軍人は戦うのです。新しく兵学校を巣立って行く候補生にだって、私の立場ではしっかりやって来いとしか言えない。軍籍にある者の辛いとこですよ。それならしかし、負けた後はどうするのか。とにかくこの少年達の将来を考えてやらねばいかん。皆で滅茶苦茶にしてしまった日本の国を復興させるのは彼らなんだ。その際必要な最小限の基礎教養だけは与えておいてやるのが、せめてもの我々の責務だ。そう思ったから、下の突き上げも上層部からの非難も無視して敢えてああいうことをやりました」と阿川弘之のインタビューに答えている。
  171. ^ この案については大多数の英語教官が賛成であったが、長年兵学校で教鞭を取っていた名物教授で「源内先生」と生徒から呼ばれていた平賀春二は井上の英語教育に批判的で、「語学の授業時間が多い旧制高校や、時間がたっぷり取れた大正時代の兵学校であれば理想的だが、授業時間が削られ修行年限が短縮された当時では到底無理なことだ」と従来通りの和訳式の授業を貫いている。また井上の人柄についても「井上さんは蒸留水だよ。あれほど面白味がない提督も珍しいくらい。考え方も理想的すぎる」と批判的に述懐している。
  172. ^ 陸士生徒から海兵生徒へ相当の働きかけがあったらしい。
  173. ^ 「校長として指示を出した場合には無条件に従ってもらう。批判は許さない。が、一緒に考えてもらいたい時には自分の考え方を「漫語」という形で出す。これは自由に批判検討してもらって構わない。その批判を受けて自分もまた考える」と述べている。
  174. ^ 『阿川』 397頁。
  175. ^ 『阿川』 440頁。
  176. ^ 『阿川』 444頁。
  177. ^ これを、井上自身「政治はやらなくていい約束の井上の政治活動第一号」と自嘲している。
  178. ^ これも、「政治はやらなくていい約束の井上の政治活動第二号」と言っている。米内は長谷川清大将(兵31期)を後任にしようと海軍省に呼び寄せたが、井上の意図を聞いた長谷川は留任するよう米内を説得に回った。井上はのちにこの長谷川の態度も絶賛している。鈴木内閣の仮人事案では井上が大臣になっていたが、それを見た井上は「私が大臣なんてとんでもない。自分が大臣不適任ということは自分がいちばんわかっているし、次官がやれるから大臣もやれるという問題ではない」と米内を推した経緯がある。
  179. ^ 天皇自身は最高幕僚長設置にはかなり乗り気で率先して設置を勧めたと『東久邇日記』に書かれているが、『昭和天皇独白録』によると当時海軍大臣の米内光政が最高幕僚長に就任するという条件なら賛成、という意見を述べたという。陸軍も海軍に案を呑ませるために幕僚長に海軍軍人が就任することで妥協したが、米内・井上の猛反対で実現はしなかった。
  180. ^ 『阿川』 499-500頁。
  181. ^ 高木自身も「報告場所が海軍省から水交社に変わっただけだ」と著書で述べている。
  182. ^ 阿川は米内の指示としている。
  183. ^ 水交社に滞在していたのは、海軍士官及びその関係者しか入れない水交社だと終戦工作の打ち合わせが行いやすいし怪しまれもしない、それ以前に部外者が入れないので秘密が漏れる可能性が少ないとの配慮だったとも言われる。娘の静子の舅にあたる丸田幸治元海軍軍医中将が当時重病で倒れていたが、軍事参議官になって暇が出来たはずの井上が婿の戦死のお悔やみも含めて見舞いに来ないのに憤慨し、また律儀な性格な井上にしては珍しいと不思議がっていた。しかし終戦後二日後に丸田と旧知である副官を連れて見舞いに訪れ、「これで安心した」とその数日後に息を引き取った(『わが祖父-井上成美』)。このことから、軍事参議官になっても依然終戦工作の指示を送り模索していたことが推測される。
  184. ^ GHQから豊田が忌避され米内留任、最後の海軍大臣となる。
  185. ^ 井上がいつ長井に引っ越したかは不明。海軍の奉職履歴では1945年(昭和20年)10月10日に待命、同月15日に予備役となっており、10月までは現役の海軍大将・軍事参議官であったが、8月末に既に井上が長井にいたと伺わせる情報もある。『伝記』 498頁。
  186. ^ 『阿川』 47-48頁。
  187. ^ 1945年(昭和20年)11月30日付で帝国海軍は消滅し、翌12月1日付で海軍の残務処理のため第二復員省が発足した。
  188. ^ 『阿川』 528頁。
  189. ^ 『伝記』 496-497頁。
  190. ^ 『伝記』 498頁。
  191. ^ 『伝記』 501頁。
  192. ^ 『わが祖父-井上成美』 173-178頁、204-206頁、『阿川』 549-550頁、『伝記』資料編 260-261頁。
  193. ^ 『阿川』 116頁。
  194. ^ 『伝記』 321頁。
  195. ^ 『阿川』 327-330頁。
  196. ^ 『阿川』 339頁。
  197. ^ 「小松」は2011年(平成23年)現在も継続して営業中。海軍料亭小松・公式サイト
  198. ^ 『阿川』 312-313頁。
  199. ^ 『伝記』 526頁。
  200. ^ 『伝記』 527-528頁。
  201. ^ 『伝記』 528-529頁。
  202. ^ 『阿川』 351-352頁。
  203. ^ 『阿川』 353頁。
  204. ^ 『阿川』 360頁。
  205. ^ 『阿川』 358・366頁。
  206. ^ 『阿川』 358-359頁。
  207. ^ 『伝記』 534頁。
  208. ^ 『阿川』 352-354頁。
  209. ^ 『阿川』 368頁。
  210. ^ 阿部信行元首相は、井上が市立横須賀病院を退院した直後の1953年(昭和28年)9月7日に死去した。『阿川』 368頁。
  211. ^ 『伝記』 535頁。
  212. ^ 『伝記』 537頁。喜久子の親戚筋に「縁切り状」を送ったのは、富士子の意向と思われる。
  213. ^ 『阿川』 544-546頁。
  214. ^ 『阿川』 368頁。
  215. ^ 『伝記』 558頁。
  216. ^ 『阿川』 578頁。
  217. ^ 『阿川』 368-369頁。
  218. ^ 『伝記』 506頁。
  219. ^ 『伝記』 548頁。具体的な時期は書かれていない。矢野志加三中将は、1966年(昭和41年)1月に72歳で死去している。1953年(昭和28年)の井上の大病の後、1964年(昭和39年)に深田秀明による金銭支援が始まる前の、昭和30年代のことであろう。
  220. ^ 浦賀船渠の関連会社で、エリコン20ミリ機銃をライセンス生産していた大日本兵器が戦後に機械メーカーに転じて日平産業となった。合併を経て、2011年(平成23年)現在はコマツNTCとなっている。
  221. ^ 『伝記』 548頁。
  222. ^ 『伝記』 548-549頁。
  223. ^ 『阿川』 532頁。
  224. ^ a b 『伝記』 549頁
  225. ^ 『阿川』 533頁。
  226. ^ 『阿川』 552-553頁。
  227. ^ 『阿川』 556頁。
  228. ^ 『阿川』 532-533頁・554-558頁。
  229. ^ 『伝記』 531頁
  230. ^ 『わが祖父-井上成美』 44頁。
  231. ^ 2011年現在は「ふるたかビル」と改称している模様。
  232. ^ 『伝記』 550-551頁。
  233. ^ 『阿川』533頁。
  234. ^ 『伝記』 558-560頁。
  235. ^ 『伝記』 570頁。
  236. ^ 『伝記』 570-571頁。
  237. ^ 『伝記』 571頁。
  238. ^ 『伝記』 572-573頁。
  239. ^ 『伝記』 560-561頁。
  240. ^ 『真珠湾攻撃総隊長の回想-淵田美津雄自叙伝』(講談社文庫版) 384頁。
  241. ^ 『伝記』 10頁。
  242. ^ 塚本誠『ある情報将校の記録』 中公文庫、1998年(平成10年)、40頁。
  243. ^ 『わが祖父-井上成美』 38頁
  244. ^ 『伝記』資料編 328頁。
  245. ^ 『わが祖父-井上成美』 178-181頁・213頁
  246. ^ 『伝記』 10頁。
  247. ^ 『伝記』 7-8頁。
  248. ^ 『伝記』 16頁。
  249. ^ 『伝記』 22頁。
  250. ^ 『阿川』 265頁。
  251. ^ 『阿川』 181頁。
  252. ^ 『阿川』 337頁。
  253. ^ 『伝記』 17-19頁。
  254. ^ 『阿川』 214頁、『伝記』 550頁。
  255. ^ 『わが祖父-井上成美』 55頁。
  256. ^ 『伝記』 455頁。
  257. ^ 『伝記』 232-233頁。
  258. ^ 『伝記』 570頁。
  259. ^ ママ。正しくは「多磨」
  260. ^ 海軍では、兵学校を卒業、遠洋航海の終了後に実戦部隊に配属される際に、クラスヘッドは連合艦隊旗艦に乗組む慣例であった。小泉昌義『ある海軍中佐一家の家計簿』光人社NF文庫、2009年(平成21年)、91頁。
  261. ^ 第17駆逐隊は第1艦隊第1水雷戦隊に所属。井上の、最初で最後の駆逐艦勤務。「桜」乗組の5ヶ月以外、海兵37期クラスヘッドで、かつ「航海屋」であった井上は、巡洋艦以上の大艦に勤務した。『伝記』 63頁。
  262. ^ 『伝記』 304頁。
  263. ^ 『伝記』 490頁。
  264. ^ e-honサイト(株式会社トーハン運営)歴代毎日出版文化賞一覧

[編集] 関連図書

(井上に批判的な図書)

  • 前田哲男『戦略爆撃の思想 ゲルニカ―重慶―広島への軌跡』朝日新聞社。新訂版、凱風社
  • 岡文正『愚将井上成美 日本の敗因を探る』サクセス・マルチメディア・インク
  • 実松謙ほか 『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』 プレジデント社、1994年。
実松譲「軍政家としての井上成美」
  • 千早正隆『日本海軍失敗の本質』PHP文庫、2008年、160頁-197頁「戦場の井上成美」

[編集] 関連項目

先代:
草鹿任一
支那方面艦隊参謀長
第3代:1939年10月23日 - 1940年10月1日
次代:
大川内傳七
先代:
豊田貞次郎
海軍航空本部
第11代:1940年10月1日 - 1941年8月11日
次代:
沢本頼雄
先代:
高須四郎
第四艦隊司令長官
第3代:1941年8月11日 - 1942年10月26日
次代:
鮫島具重
先代:
草鹿任一
海軍兵学校
第43代:1942年10月26日 - 1944年8月5日
次代:
大川内傳七
先代:
岡敬純
海軍次官
第21代:1944年8月5日 - 1945年5月15日
次代:
多田武雄
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