特務艦隊
特務艦隊(とくむかんたい)は、旧日本海軍の部隊。第一次世界大戦末期、ドイツによる無制限潜水艦作戦が展開され、連合軍の輸送船団に被害が及んだことから、イギリスは日英同盟を理由に日本へ船団護衛部隊の派遣を要請した。これまでも陸軍のヨーロッパ戦線派遣や金剛型巡洋戦艦の貸与を拒絶し、一方で「対華21ヶ条要求」をはじめ中国への進出を推進してきた日本に対する不信感が高まっていたことから、海軍省は難色を示す軍令部を押し切って派遣を決定した。3個艦隊を編制し、イギリス勢力圏に派遣された。なお、いずれも特設の艦隊であるため、司令部を持たず、指揮官は司令長官ではなく司令官である。
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[編集] 第一特務艦隊
インド洋横断航路の護衛を担当するため、航路の両端にあたるシンガポールとケープタウンに分散配置された。アフリカ-インド-オーストラリアを結ぶ重要な航路ではあるが、インド洋に拠点を持たないドイツの攻撃は非常に困難であるため、実戦の機会が特に少ない名目上の護衛艦隊である。1919年にはインド洋護衛任務からはずれ、1919年12月1日をもって、大陸駐留部隊である第一遣外艦隊に改編し、活動の場を揚子江流域に移した。
[編集] 編制
(1917年12月の編制)
[編集] 歴代司令官
[編集] 第二特務艦隊
地中海縦断航路の護衛を担当するため、マルタ島に派遣された。オーストリア海軍の軍港があるアドリア海は、オトラント海峡にて封鎖されていたが、ドイツ潜水艦は隙間から地中海に出撃して通商破壊を実施していた。3個特務艦隊の中でもっとも危険な海域に派遣されたのが二特である。1年半の派遣期間中に、雷撃を受けた駆逐艦榊乗組員をはじめ78名の死者を出した。二特の拙いながらも懸命な護衛は、連合軍諸国からも高く評価され、佐藤司令官は各国元首から賞賛され、謁見を許可されている。1921年、摂政裕仁親王は、訪欧の際にマルタ島の二特戦死者慰霊碑への訪問を強く要望した。
[編集] 編制
(1917年12月の編制)
[編集] 歴代司令官
- 佐藤皐蔵少将(1917年2月7日-1919年7月20日解隊)
[編集] 第三特務艦隊
アンザック連絡航路の護衛を担当するため、シドニーに派遣された。ドイツ勢力圏外のオーストラリアを担当するため、1個戦隊からなる形式上の派遣で、2個特務艦隊に2ヶ月遅れて1917年4月13日、第四戦隊を改称して派遣した。わずか半年で護衛任務を解かれ、一特に編入されて解散した。
[編集] 編制
(全期間の編制)
[編集] 歴代司令官
- 山路一善少将(1917年4月13日第四戦隊司令官より留任-1917年12月12日解隊)