亜米利加丸

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亜米利加丸(亞米利加丸、アメリカ丸)
AmericaMaru-1943.jpg
亜米利加丸
船歴
起工 1897年3月 ウィガム・リチャードソン造船会社、ウォルセンド・オン・タイン工場
進水 1898年3月9日
竣工 1898年9月24日
所属 東洋汽船(TKK)客船、1911年9月20日に大阪商船
沈没 1944年3月6日
要目
排水量 6069t,6070t,6210(北太平洋定期客船史)t,6307t
全長 131.4(128.93) m
全幅 15.58 m
全高 8.2(8.99) m
出力 9299 ihp
スクリュー 3連装
速力 13(18.1)knt
船舶番号 3068
信号符字 HRTW>JACD

亜米利加丸(亞米利加丸、アメリカ丸)は、日本初の本格的な快速豪華客船で日本丸級貨客船3隻の内の第2船。

経緯[編集]

浅野総一郎が太平洋航路に進出するため、1896年明治29年)7月に東洋汽船を設立した。社長であった総一郎が、1867年に初の太平洋定期航路(サンフランシスコ-横浜・香港間)を始めたPacific Mail Steamship[1]とハンチントン契約を結び、渡英。イギリスのウィガム リチャードソン造船会社にクリッパー船を3隻発注した。その一隻が亞米利加丸であった。船型は、7年前に就航したCPL(カナダ太平洋汽船:後のカナダ太平洋航空の母体)のエンプレス級をモデルとした、真っ白な3本マストの気品に満ち「太平洋の白鳥」と呼ばれた。「日本丸」「香港丸」と共に活躍した。2本煙突。

イギリスニューカッスル・アポン・タインでの進水から46年目の同じ3月、日本人乗員599人とともにマリアナ諸島の海に沈められた。

年表[編集]

  • 1897年3月 スワン・ハンター&ウィガム・リチャードソン/ウォルセンド・オン・タイン造船所で起工。1898年3月9日進水。9月24日竣工。
  • 1899年 香港~厦門~上海~長崎~神戸~横浜~ハワイ・ホノルル~サンフランシスコをつなぐ北太平洋定期航路に就航して姉妹船の日本丸、香港丸とともに活躍した。
  • 1900年12月、野口英世(23歳)が北里柴三郎の紹介状を頼りに、ペンシルベニア大学サイモン・フレクスナー博士を訪ねて渡米する時に乗船した。横浜から出港。フレクスナーのもとペンシルベニア大学で助手の職を得て、蛇毒の研究をした。研究の成果を論文にまとめ、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、ミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなった。
  • 1901年6月16日 第一回目の革命軍の蜂起に失敗した孫文が,清国から亞米利加丸に乗って横浜へと亡命した。まさに、北京で義和拳団と八ヶ国連合軍が衝突し混乱している時代だった。
  • 1904年3月14日 海軍が徴用し仮装巡洋艦に改装中、火災により損傷。12月10日再徴用。
  • 1905年1月12日 連合艦隊付属となる。艦長は石橋甫
  • 1908年11月 地洋丸の完成により姉妹船「香港丸」とともに南アメリカ航路に変更。
  • 1911年9月20日 大阪商船に36万7千円で売却され神戸~台湾基隆線などに就航。
  • 1924年 大連航路に就航、盧溝橋事件後の1938年陸軍が徴用し船体を白く塗り赤い十字のマークをつけ病院船として使用。その時の船内写真が今も残されている。
  • 太平洋戦争(大東亜戦争)時に海軍が徴用し運送船(雑)とする。
  • 1943年10月10日15:05 門司出港後、帝海丸等と105船団を編制。15日高雄港に入港。
  • 1944年1月12日 陸軍を解傭。同日、海軍が徴用し運送船(雑)とする。
  • 1944年3月4日 日本領サイパンより引き揚げ疎開の514名を乗せてガラパンから横須賀へ出港後、6日未明、硫黄島南南東320km(22゚19'N/143゚54'E)でアメリカ潜水艦「ノーチラス」の発射した魚雷2本を第4船倉、機関室左舷部に受け沈没。婦女子を含む民間人511名、軍関係者4名、乗員87名、合計602名中599名が死亡。米軍に救助されたのは民間人の3名だった。同じ日に出港したサントス丸は無事に内地(日本)に到着した。アメリカ丸沈没と同じ3月6日、関東軍の精鋭部隊との触れ込みで、第29師団歩兵第18連隊と師団直轄部隊がサイパン・ガラパンに到着したが、彼らの乗った輸送船「崎戸丸」も南洋航海中、米潜水艦に撃沈。乗員約3900人の内、助かった者は半数以下の1720人。しかも三人に一人は重傷者だった。
  • 1944年3月末 サイパン島北ガラパンの本願寺で支庁主催の合同慰霊祭が執り行われる。境内は花輪と焼香の列で埋まった。アメリカ丸には、南洋庁官吏や南興職員とそれらの家族の他、北ガラパン二丁目通りの商店街から、高橋食料品店の妻子3名、宏彰堂・竹中時計店の娘2名が乗り合わせていた。

姉妹船「日本丸」は 1919年にチリの運送会社に売却されやがて「イキケ」という港で倉庫として生まれ変わった。「香港丸」は1934年に解体されたが、一等喫煙室は神戸・西宮の家の応接間としてもらい受けられた。香港-サンフランシスコの定期運行は「天洋丸」「地洋丸」「春洋丸」と交替された。

艦長[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Globetrotters in JapanAllen Hockley, マサチューセッツ工科大学
  2. ^ 『日本海軍史』第9巻、114頁。

参考文献[編集]

「日本領サイパン島の一万日」岩波書店 野村進著

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第一法規出版、1995年。

関連項目[編集]