活字

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活字(かつじ)は、狭義においては活版印刷の際に文字の図形を対象(特に)に印字するもので、金属に字形を刻み、それにインクをつけて何度も印刷できるようにしたものである。また広義では、写真植字文字盤デジタルフォントをはじめ、広く文字を同一の字形で繰り返し表現するものを含む。

印刷技術については活版印刷を、印刷された本については刊本を、印刷された文章についてはテクストを、それぞれ参照のこと。

グーテンベルク以降の金属活字。1. ボディ、2. 高さ、3. 大きさ、4. 幅、5. ネッキ、6. 腹、7. 背、8. 足、9. 溝、10. 字面
同活字の頭。1. 字面、2. ベベル(斜面)、3. ショルダー(肩)、4. 谷、3は、鋳造活字以外にはほぼ存在しない

製造[編集]

金属活字
金属活字で"Wikipedia"と並べた例

活字の製造手法は、大きく彫刻活字と鋳造活字に二分される。彫刻活字が先に開発され、鋳造活字は後からできた。彫刻活字ではできなかった「全く同じ形の文字を大量に製造する」ことが鋳造活字によって可能となり、活版印刷をより実用的なものとした。

彫刻活字[編集]

彫刻活字は、あらかじめ用意してある駒に印字したいものを彫ることによって活字を作るものである。彫れればなんでもよいのであるから、さまざまな材質の活字があった。最も古い活字であるといわれる膠泥活字は陶器製だったとされる(カーター・グッドウィッチ)。そのほか金属のものも中にはあったが、ほとんど木に彫ったものである。木活字は、容易に制作できたことから、金属活字主体の印刷現場においても、特殊な用途(見出し用巨大活字・作字など)で用いられることがあった。

木活字[編集]

鋳造活字[編集]

和文五号活字の電胎母型

鋳造活字は高麗で始まったとされている。高麗の活字は、銭の鋳造技術を援用したと考えられており、父型を作り砂型を取って、そこに銅を流し込んで作ったと見られる(百瀬)。グーテンベルクが開発したものは、作った父型をまた金属に打ち込んで母型とし、それを枠にはめてアンチモン合金を流し込んで作る、パンチ法と呼ばれる手法であった。グーテンベルクの独創はこの合金の発明にあったといわれる。

パンチ法[編集]

電胎母型法[編集]

ベントン法[編集]

自動鋳造機[編集]

歴史[編集]

中国・朝鮮[編集]

現存最古の活字印刷物:『仏説観無量寿仏経』(1103年)残頁

活字は中国で発明された。漢字の数の膨大さは活版印刷をおこなう上で常に障壁となり、後々までも小規模な設備で印刷をおこなうことを困難たらしめた。このため、活字印刷の淵源は中国にあるが、漢字は最も印行に向かない表記法でもあった。

『夢渓筆談』に記録が残っている畢昇膠泥活字(こうでいかつじ)が知られている最古の活字である[1]。同書によれば、粘土(膠泥)の一字一字の駒に文字を彫り、焼いて活字を得た。必要に応じて数十個まで作られた活字は、韻によって木箱に分納された。陶を使ったのは、木では彼の考案した印刷法に向かないためという。温州市の白象塔から発見された北宋崇寧年間(1102-1106年)印刷(膠泥活字)の『観無量寿経[2]が、知られている現存最古の印刷物である。その他、12世紀半ばから13世紀初頭に西夏で印刷されたと見られる、内モンゴル自治区エジン旗から発見された西夏文字による仏典や武威市で出土した維摩詰所説経が現存している。

1300年代には王禎木活字を作った。王禎は、韻書にそって字を選び、能書家に字を書かせ、それを板木に裏返しにのり付けし、工人に彫らせたと記録している[3]。木活字版はおもに仏典や学術書などの開版に使われた。木活字は欧州へも伝播した。

13世紀には朝鮮半島や日本へも金属活字や木版が伝わったとみられる。高麗では1234年に青銅製の活字が作られ(銅活字と呼ばれる)実用化したといわれている。高麗末の14世紀後半に印刷された直指心体要節が現存する世界最古の金属活字本であるといわれている。高麗においては発達せず、李氏朝鮮に至って本格化した。永楽元年(1403年)に李成桂の命により活字鋳造がはじめられた。この時の字は癸未活字という。その後数回の改刻を経たらしいが、現存していない。

ヨーロッパ[編集]

近代活版印刷技術はヨハネス・グーテンベルクによって1445年頃、ドイツのマインツで一応の完成をみた。すなわち、

  1. 鋳造しやすい鉛合金(活字合金)の活字材料
  2. 正確で生産性の高い活字鋳造技術
  3. 金属活字に適した印刷インキ
  4. 葡萄絞り機を元にした平圧印刷機

の開発である。この技術はまたたく間にヨーロッパ中に広がった。

グーテンベルクは本というものの新しい概念を追求したのではなく写本の再現につとめたため、彼の作った活字は、ブラックレターとかゴシック体と分類される、写本に使われる黒みの強い書体であった。『グーテンベルク聖書』を誤って写本として分類した図書館も存在する。

やがて単なる手書きの再現ではなく、印刷の特性に合わせた書体が生み出されるようになり、イタリアでニコラス・ジャンソンによってローマン体が作られるなど、さまざまな活字書体が生み出された。

グーテンベルク活字の改良[編集]

日本[編集]

活版印刷に使われる活字
日本語文字の活字は膨大な数になる

キリシタン版・古活字版[編集]

日本語を活字で印字しようとしたのは16世紀イエズス会がグーテンベルク系の印刷機を持ち込み、教育や伝道に用いる書物を印刷した(キリシタン版と呼ばれる)のに始まる。また、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した際(文禄2年、1593年)に朝鮮の金属活字を日本に持ち込み、後陽成天皇に献上とされるが、これで印刷されたものは知られていない。いずれにせよ、これらの環境によって、木活字による印行を活発にし、古活字版と通称される書籍群を生み、出版文化の基礎を築いた。その代表例が、慶長勅版(慶長2-4年)、伏見版(慶長6-11年)などである。伏見版で使われた木活字の一部は、開版の地であった円光寺に今もって保存されている(重要文化財)。古活字版は市場に対応できず、整版に譲って、印行部数も少なく写本と同じ扱いであった。キリシタン版及び嵯峨版は、連綿させた複数の字で一つの活字のブロックを作ったもの(連綿活字)を多用しているが、それ以降は散見されるのみであった。[4]

江戸時代[編集]

江戸初期には盛行した木活字印刷であるが、その後、版本の主流は、活字ではなく版木による整版印刷本に移り変わる。これは、漢字を多用する日本語表記が、印刷に際して組み直しの時間と手間が掛かり増刷の度に校正を伴うなど、利便性とコストにおいて劣勢であったことに起因する。一方の整版印刷は、刻工の手で板木を彫るにはコストと手間がかかっても増刷が容易であり、版木を蔵する(蔵版する)ことによって、版権も容易に維持できるなどのメリットが大きかった。

ただし、そのような状況の中でも、幕末までの間、木活字による印刷出版は主流とはならなかったものの継続された。そのような木活字本を、江戸初期の木活字版と区別するために、近世木活字本と呼びならわしている。また、幕末には、この近世木活字版による出版は、個々の出版部数は百部以下と少数であったが、一部では非常に盛行した。その理由は、今日の私家版自費出版に相当するような印刷物を出版するのに、木活字版が適していたことによる。

増刷を行なわない場合に限れば活字版は経済的であり、また整版に比べて多少歪な文字の並びになったり、凹凸によって文字ごとの濃淡ができたとしても、小部数の出版には木活字版は適していた。当然それらの版本は、一般の書肆が関与した町版とは異なり、写本と同様の流通をしていた。また、その特徴として、小部数の発行であったことから、幕府公儀の許可を得なくても出版することが可能であった。そのため、堂々と書肆の手を経て出版できない類いの思想性を帯びた図書などが、木活字版として出版された。一方、このような形態で出版されたため、公儀の許可を得るための奥付も附されていないのが、近世木活字本の特徴となっている。それ故、「無届内証」による板行という呼び方もされていた。

近代[編集]

幕末期、鎖国下の日本では、外国との交流の気運が高まり、さまざま形で西ヨーロッパの技術を移入しようという試みがなされた。活字もまた同様で、大鳥圭介島霞谷本木昌造らが試行し、一定の成果を得た。ヨーロッパにおける東洋学のなかで、日本語活字が製造されもしている。

ジェームス・カーティス・ヘボンは和英辞典の出版を考えたが、日本では印刷できずに中国上海に渡り美華書館で印刷した(『和英語林集成』1867年出版)。そのとき、岸田吟香の字をもとにして片仮名活字が作られた。

本木昌造は、しかし、欧文活字をわずかに鋳造するのに成功したのみで日本語活字はできていなかった。そこで、フルベッキの紹介にあずかり、当時上海にいたウィリアム・ギャンブル(日本ではガンブルと表記されることが多い)を招聘し、文字の細部まで高い再現性を持つ電胎母型法などを教授された。初期の本木らの活字はギャンブルが将来した美華書館の明朝体活字をそのまま複製したものに過ぎなかった。本木らのグループは、日本語を印行するために仮名文字を整備し、やがて築地活版製造所として会社組織を組みしていき、活字市場を覇することとなった。

その後、築地活版の活字を購入し、そこから自らの活字にしていく動きが出た。その主たるものが秀英舎(現在の大日本印刷)の活字であり、これは築地体と並んで金属活字の二大源流と呼ばれるようになっていく。

現代[編集]

写真植字(写植)とDTP(デスクトップ・パブリッシング)化は活字の命脈を途絶えさせる。デジタル製版が可能になり、1990年代から活版印刷は減少した。現在の日本では、活版印刷は絶滅に近い。名刺はがき程度の印刷をする印刷業者はあるものの、本1冊分の印刷をするというような会社はほとんどない。

活字の大きさ[編集]

活字はそれぞれが特有の大きさを持っている。活字は並べるためにその並べる方向に大きさが斉一でなければならないが、複数の大きさの活字群(フォント)を扱うなかで、次第に規格として整備されていった。

システムをなさないもの[編集]

ポイント活字[編集]

ポイント活字参照。

号数活字[編集]

号数活字の体系(初号から6号迄)

本木・平野系の活字システムでは、当初、号数体系と呼ばれるサイズ体系を有していた。初号から8号までの9種類のサイズから成るが、号数とサイズの関係が直感的に分かりづらいものであり、のちのポイント制、メートル制の唱道の原因となった。しかしポイント制が隆盛する中でも随所で使われ続け、新号数制の提唱など混乱は長く続いた。紙面編集者の立場から見れば、初号など大きなサイズの活字ははじめから太くデザインされており、見出し文字として使いやすく、編集能率が上がるということが、号数制を支持する大きな理由のひとつであった。

号数活字の制定をめぐっては、明治末期から大正にかけては本木が曲尺を単位に策定したとされていたが、三谷幸吉が「鯨尺の一分を基準単位として本木がその策定した」と記して以来、活字に関する書籍はその説に従って記述されてきた。しかし小宮山らによる実際の印刷物の比較検討によって、当初のそれは美華書館の明朝活字の流用であったことが明らかにあり、号数についても、美華書館が大きい順に呼び習わしていたものを、本木らが固定化したのだとされる(本木昌造参照)。

号数と美華書館での活字サイズとの対応は以下のとおり(『活版見本』)。

号数 美華書館のサイズ 現代のポイントシステムでのおおまかな相当値
Four line small Pica 42
1 Two line English 24
2 Two line small Pica 22
3 Two line Brevier 16
4 English 14
5 Small Pica 11
6 Brevier 8

明治期の文壇において雑誌掲載時の活字の大きさは作家のポジションや原稿料と直結する問題であり、活字の大小を巡ってしばしばトラブルの種になった[5]

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  1. ^ カーター: 162-164
  2. ^ 漆侠編『遼宋西夏金代通史 四』第四章四
  3. ^ カーター: 166-7。
  4. ^ 堀川,2010,pp. 149-158
  5. ^ スバルにおける 「椋鳥通信」 - 山口徹、早稲田大学教育学部学術研究第53号、2005年

参考文献[編集]

  • 小宮山博史「上海から明朝体活字がやってきた」『タイポグラフィの世界 書体編』大日本スクリーン製造、2004-05。
  • 小宮山博史「明朝体、日本への伝播と改刻」『本と活字の歴史事典』柏書房、2000。
  • 鈴木敏夫『基本・本づくり』印刷学会出版部、印刷史研究会編、1967。
  • 東京築地活版製造所『活版見本』東京築地活版製造所、1903(片塩二朗『秀英体研究』大日本印刷、2004所収)。
  • 堀川貴司『書誌学入門』勉誠出版、2010。
  • 三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』本木昌造平野富二詳伝頒布刊行会、1933。
  • 百瀬宏「駿河版銅活字 その成立と鋳造技術の解析」印刷紙研究会編『本と活字の歴史事典』柏書房、2000。
  • T・F・カーター、L・C・グドリッチ改訂『中国の印刷術 その発明と西伝』2、藪内清・石橋正子訳注、平凡社、1977.10。

関連項目[編集]