明朝体

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明朝体(みんちょうたい)とは漢字や仮名の書体の一種で、セリフ書体に分類される。漢字や仮名の表示や印刷において標準的な書体である。中国語では宋体明体とも。日本においては、明治の活字技術の導入期にひらがなカタカナを漢字とは別様のまま遣ったためバリエーションが生じた。

特徴[編集]

活字として彫刻するために、基本となる楷書の諸要素を単純化したものが定着している。縦画と横画はそれぞれ垂直・平行で、おおむね縦画は太く、横画は細い。しかし「亡」や「戈」に見られる緩やかな転折では、どちらもほぼ同じ太さとなる。ほかには、横画の始めの打込みや終りのウロコ、縦画のはね、また左右の払いなどに楷書の特徴を残している。しめすへんやしんにょうなど一部の部分では、隷書のそれと類似したものも見られる。

活字としての利便性から字形が正方形に近づいたため、筆書体とは要素のまとめ方が異なり、字面において点画が可能な限り均等に配置される。こうした字面を一杯に大きく使う手法は、小さいサイズでの可読性が向上するだけでなく、文章を縦横二方向に組むことが行われるようになった後は、いずれの方向へ組んでも整然とした効果を得られるという点で、さらに有効なものとなった。

字体問題[編集]

明朝体は活字の書体として成立したため、書き文字よりも字体が固定化しやすい傾向がある。また、様式化のために手書き書体で正統なものとされた楷書との字体の異同が発生した。これに加えて『康熙字典』に発する字体の問題があり、これらが合わさって明朝体の字体を巡る問題は起こっている。

木版印刷や活字による活版印刷における印刷書体として成立したその字体は当時の通用字体又はは正字体を反映して様式化されたものであった。例えば、筆押えは楷書では運筆上で軽く添えるだけのもので、明朝体のような様式化されたものではない。そのほかにも、くさかんむりを3画につくるという明朝体は、楷書体が原則として4画につくるのと対立した。そして、ぐうのあし()の1画目の始めの位置と2画目の始めの位置が同じである明朝体は、1画目と2画目を左上で交わらせる楷書体と対立した。また、『康熙字典』において、『説文解字』などにのっとって新たに定められた正字はこれらと異なっていた。それまでの「隠」と「隱」のような字画の構成要素の不足で正誤又は正俗字体を区別していたのに加えて、書体の変遷として通用していた「曽」の点画の向きが『説文』の小篆のものと異なるのを問題として「曾」を正字とするなどとなされたのである。

しかしそれでも一般的な出版においては通用字体が主流のままであったが、中国へ欧米勢力が入り始め、金属鋳造活字の開発を始めたとき、『康熙字典』を参照して漢字活字を製作したのである。一部において通用字体が使われることもあったが、欠画なども『康熙字典』のままであった。これらの活字技術が従来の技術に取って代わろうとし金属活字の明朝体が日常で見られるものとなったとき、それまでの通用字体・正字体との隔たりが大きな問題となった。例えば楷書体では「吉」の上部は「土」につくり、「高」は「はしご高」が多かったが、新たに入ってきた明朝体の字体を理由にこれらが誤りとされるなど、筆記書体に大きな影響を与えた。

また、筆押えなどは、字を示す上で必要がないとされることもある。そのため簡体字や正体字ではこれらを楷書風に改めたものが示されている。当用漢字字体表が告示された際、手書きの表であったため筆押えなどがなかったものを、ないのが正しいとして活字を作り直す業者や、新字体で印刷するのにそれらをなくせと指示する顧客もあった。しかし当用漢字表外の漢字や、一部活字業者では筆押えなどは残されたままであったので、教育などでは正しい字体の指導上問題になるとして明朝体を使用しなかったり使用しても「印」や「収」などの折れ曲がりの部分、しんにょうが楷書と異なるとして特別に変えたりした。

ただし、常用漢字などでは、このような筆押さえ等の形状に加え、点画の付くか離れるかや長短などという細かい差異を「デザイン差」と呼び、専ら統一などするまでもない「差」として、統一は強制でないとしているし、JIS(日本工業規格)などでもそれに従うが、教育や書体の開発の場において省みられることは少ない。

使用場面[編集]

明朝体は主に印刷において、本文書体として使われ、また、比較的小さいサイズでの使用が多い。一方、そのデザイン上の特徴を生かして、大きいサイズでも使われる。また、特に太いウェイトのものは、コントラストが高くインパクトが要求される見出しや広告などの場面で使用されることも多い。

20世紀終盤にはゴシック体で本文を組む雑誌等も増えてはいるが、それ以外の書籍はほとんど明朝体の独擅場と言える。よって、フォントを制作・販売する企業(古くは活字母型業者、のちには写植機メーカー、そしてフォントベンダー)は、ほぼ必ずラインナップの中核に明朝体を据えている。そうしたことから、明朝体は活字文化の象徴としてとらえられることもあり、かつては明朝体で組まれた文章・紙面とは、すなわち印刷所を経由してきたものであった。

だが近年のパソコン(やワープロ)の普及により状況は変わっている。パソコンで文字を扱うに際しても明朝体のフォントOSに付属するため、そういった機器・ソフトウェアを有する誰しもが明朝体で組まれた文書を作成・印刷できるようになっている。一方で、ウェブブラウザなど、もっぱら画面上で文字を扱う場合には、明朝体はあまり用いられず、字画のよりシンプルなゴシック体が広く用いられる。これは、画面の解像度の制約により、「うろこ」など明朝体独特の装飾がギザギザに表示されて可読性を損ねるためである。

日本では、鉄道設備(駅・車両等)のLED表示機でも日本語フォントとして広く使われているが、視認性を考慮してゴシック体に置き換えられるものもみられる。

他書体との関係[編集]

アンチック体の代替として、ウエイトの大きなものがゴシック体を漢字・記号部分に混植する仮名書体として用いられることがある。これは辞典類や、漫画吹き出し内の台詞の表現などにみられる用法である。なお、アンチック体はゴシック体との混植を想定して明朝体の仮名よりも太く作られており、書体メーカーでは明朝体とアンチック体を別のカテゴリでリリースしている。

また、明朝体の文章における強調箇所などにはゴシック体を使用して、欧文でローマン体の文章に用いられるイタリック体/ボールド体と似たような効果を得ようとする場合もある。

歴史[編集]

明朝体は木版印刷や活字による活版印刷における印刷用書体として成立した。木版印刷は、当初楷書で文字を彫っていたが、楷書は曲線が多く、彫るのに時間がかかるため、北宋からの印刷の隆盛により、次第に彫刻書体の風を享けた宋朝体へと移っていった。宋朝体が更に様式化し、明代から清代にかけて明朝体として成立し、仏典や、四書などの印刷で用いられた。清代に入り古字の研究成果がとりまとめられた『康熙字典』は明朝体で刷られ、後代の明朝体の書体の典拠とされた。『康熙字典』は『説文解字』など篆書や隷書で書かれた文字を明朝体で書き直したため、伝統的な書字字形と大きく異なった字形がなされた。

清朝が弱体化し、ヨーロッパ諸国が中国に進出するようになると、まず中国への興味から、その風習などと共に奇妙な文字が紹介された。中国進出を誇示する目的もあって、ナポレオン1世パルマ公によってそれぞれ作られた『主の祈り』という本に使われた活字はフランス王立印刷所ジャンバッティスタ・ボドーニ (Giambattista Bodoni)の印刷所などヨーロッパの印刷所で彫られたものである。その後中国の研究が始まり、中国語の辞典や文法書などの印刷のために漢字活字の開発が必要とされた。また、ヨーロッパの進出とともにキリスト教禁制が無実になっていくと、宣教師がやってきて、教化のための翻訳を始めた。そのとき、東アジアにあった製版技術を利用しないで、金属活字の技術を持ち込んで使った。そして、どちらも、漢字を活字にするにあたって、明朝体を選択したのである。これは欧文の印刷で普通だったローマン体(漢字活字の開発は主に英仏米の勢力が中心であった)とテイストが合っていたためだとか普通だったからだとかいわれる。宣教の場面では、活字はヨーロッパで使われていたものを使用したり、現地で使用するのに一々木などに活字に掘り込んだりして作った。ヨーロッパで使用されていたもので、初めてまとまった量が作られたのは1715-42年のフランス王立印刷所の木活字で、ルイ14世の命になった。この活字はのち、ナポレオン1世の中国語辞書編纂のために拡充された。その後ジャン=ピエール・アベル=レミュザ (Jean-Pierre Abel-Rémusat) の『漢文啓蒙』で使われた活字は、鋳造活字であった。木活字も鋳造活字もともに明朝体であった。19世紀中葉王立印刷所のマルスラン・ルグラン (Marcellin Legrand) は中国の古典の印刷の用に活字制作を依頼され、分合活字を制作した。ルグランの分合活字では、偏旁冠脚をそれぞれ分割して、より少ない活字製作で多くをまかなおうとしたもので、これも明朝体であった。

キリスト教宣教では、主にプロテスタントが伝道をになった。彼らは伝道する地域の言語で伝導することを重視し、そのために漢字活字の開発が重要だったのである。ヨーロッパから、例えばルグランの分合活字などの活字を取り寄せることもあったが、現地で活字を開発するものも多くあった。サミュエル・ダイア (Samuel Dyer) など幾例があるが、その代表例は上海の「英華書院」や「美華書館」である。英華書院は London Missionary Society Press の漢訳で、倫敦伝道会 (London Missionary Society) の宣教師が設立したものであり、美華書館は American Presbyterian Mission Press の最後期の漢語名称で、美北長老会差会 (American Presbyterian Mission) の印刷所であった。特に後者では、6代館長にウィリアム・ギャンブルが入り、スモール・パイカ(small pica = 11ポイント[1]。普通のパイカ(pica)は12ポイント)のサイズなどの活字の改刻を行った。これらのミッションプレスの活字は欧米から来た技術者が指導して制作された金属活字で、サイズも自国の活字サイズに基づくものであった。活字の大きさは、特定の大きさのみを作り、大きいほうから順に「1号」、「2号」……と呼んでいた。

美華書館は一時上海で隆盛を誇っていたが、美華書館の活字を二次販売する、商務印書館などの業者が現れ、廃業する。

日本[編集]

日本に明朝体が入ってきたのは代や代に仏典四書などを輸入したものを再版したことに興る。特に大規模なものは、黄檗宗僧侶・鉄眼道光禅師による一切経の開刻であった。その後もこれらの用途では明朝体は使われていたが、楷書が使われるほうが多く、一般にいたっては「御家流」と呼ばれる連綿体の一種が主流であった。

大鳥圭介による明朝体での活字開発はあったが、金属活字における明朝体の歴史は一般に本木昌造長崎鉄工所に開かれた活版伝習所において、美華書館に来ていたウィリアム・ギャンブルを招聘し講習を受けた際、ギャンブルが持っていた明朝体を本文書体として使い続けたことに始まる。伝習後本木は鉄工所を辞め、長崎鉄工所に残った後の勧工寮の派と崎陽新塾の新街活版所へ移った後の築地活版の派に書風が分かたれた。

明朝体の受容は活字の受容と大体一致する。明治10年頃には活字を供給する体制が整い始め、新聞等の印刷に常用されるようになった。また、漢字廃止を訴え仮名専用を唱えるものは、仮名だけで見やすい字体を目指して、連綿を取り払うのみならず書風を改めて活字を彫り、自身の新聞で利用していた。カナジクワイは明朝体の仮名字形に大きく影響を与えたと言う。明治期の活字供給会社として著名なのは築地活版製文堂(秀英舎)であり、また、紙幣局も有力な供給源であった。秀英舎が自社の母型を持ち始めたのは明治20年代後半からである。

明治末期から昭和にかけて活字のサイズがアメリカン・ポイント制へ移行した。移行の際のあおりや、ベントン父型母型彫刻機を導入して新たに活字を供給する会社の出現したのを受けて昭和13年築地活版は倒産した。ベントンは一字ずつ木に父型を彫り、電胎法で母型を得てそこから活字を作る蝋型電胎法とは異なり、一字ずつ原字パターンを制作しそれを基に機械的に縮尺を行って母型を得るものであった。また、ベントンの導入の際、より細い字形を作った。

また、昭和に入って写真植字の開発も行われ、嚆矢となる写研の石井明朝体は築地活版の12ポイント活字を利用して作られた。また、モリサワはリュウミンを制作するなど、写植では活字書体の翻刻書体が利用された。写植ではファミリーが形成され、特に太いウェイトの字形では、横線を極端に細く、縦線を極端に太くされた。

当用漢字字体表が告示されると、各社は新字体によった字体に変更し始めた。この時、当用漢字字体表の字体に筆押さえなどのエレメントがなかったのを、これも字体変更のうちと判断し、新字体への変更と同時に取り除かれることがあった。しかし、これは当用漢字字体表の字体は手書きであるために筆押さえがないのであり、筆押さえなど明朝体に特有のエレメントがないのは改悪だとの批判もあった。

東芝が日本語ワープロを開発したのに始まるデジタルフォントの初期はビットマップフォントが使われていた。ビットマップフォントの字体はJISによって策定され、通称83JISと呼ばれる漢字の入れ替えや、字体変更の一部を常用漢字以外の漢字にも適用したことなどで混乱が生じた。アウトラインフォントはモリサワがPSフォントにリュウミンを投入したのに始まり、幾多の会社が活字の復刻書体フォントや新規のフォントを開発して市場に投入した。このフォントでもファミリー化はなされ、様々なウェイトが混在している。

かな[編集]

日本で活版印刷を実現する場合、仮名の鋳造も必要となる。木活字による印刷で必要とされる仮名が片仮名だけであったころは漢字同様に片仮名活字を彫れば足りた。しかし、一字一字が独立し、しかも全字同サイズの正方形で活字が存在する西洋式漢字活版印刷が明治になって導入され、幅広い用途において印刷をしようとしたとき、平仮名も必要となるが、連綿をするものとして捉えられてきた平仮名を一字一字正方形に収めるのは一筋縄ではいかなかった。明朝体が伝承された際、活版伝習所では平仮名は開発されないで、新街活版において池田香穉の字を基に開発されたのだが、その字は正方形にうまく入れられたとは言えず、つとに明治4年後半には、寺子屋のいろは手習いの仮名をもとにした仮名が開発され、やがてそちらが優勢となった。

築地活版は、1886年に、一、三、六号の平仮名活字を改めたのに始まって、98年ごろの五号の活字改正など、多くの活字の仮名を入れ替えた。製文堂も明治20年代後半から開発を始める。また、ポイント制活字の導入によって制作する活字が増えると、それぞれのサイズで別々に書体が開発されるので、大きさの数だけ書体が増える算段となる。印刷所ではおなじ活字製造所の複数のヴァージョンや複数の活字製造所の文字を混用して使っていた。

印刷技術の向上や印刷紙の質の劣化に伴い、1910年頃より文字を細くする傾向が生まれる。印面がシャープに刷りあがるということからはじめられたものであったが、日中戦争に向うにつれ印刷用紙が劣悪になり、それまでの文字では滲んで使い物にならないというのがその傾向に拍車をかけた。細字化とカナ文字派の「仮名の視認性の高上」などの動きから、仮名文字を大きく形作る書体がさまざまに試みられた。朝日新聞や日本活字工業、モトヤなどの仮名の設計をした太佐源三や、カナ文字派のミキイサムなどが大きく影響した。これにより、それまでの小ぶりな字(文字の中の白い部分が狭い=懐が狭い)から、懐が広い、「明るい」字が作成されるようになった。

さらに、1929年に実用化された写真植字機と、ベントン父型母型製造機による活字であった。これらの機械では、一つの原字から、複数のサイズで同じ字形で印字することが出来た。写植ではこのため同じ字形で太さが異なる書体群が発生した。ファミリーの実現である。懐が広い字では骨格が同じままで、太さを変えることが容易であり、新書体のファミリー化が進んだ。

日本語の表記において仮名の比重が増すにつれて、仮名フォントの重要性も高まり、仮名だけを変えて使うという例も増えた。特に写植以降は変更が割合に自由で盛んに行われた。例えば、石井明朝体の、標準のかなである NKL を、築地活版の12ポイント活字を模した OKL に変えたり、秀英舎の初号活字の写植化である秀英明朝 (SHM) の漢字と、築地活版の初号活字の系譜である民友社初号活字の写植化であるかな民友明朝 (KMYEM) を合わせたりすることなどがあった。

韓国[編集]

最近まで日本の用語の影響で、同様のハングルの書体を、韓国語で明朝体(명조체、ミョンジョチェ)と呼んでいたが、1993年に文化部後援の書体用語標準化により、韓国語で「基礎」という意味のパタン体바탕체、パタンチェ)という単語に置き換えられ、これが現在の用語になっている。

参照[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]