レイテ沖海戦

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レイテ沖海戦
Princeton burning.jpg
日本軍の攻撃を受け炎上する米空母プリンストン
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1944年10月23日 - 25日
場所フィリピン周辺海域
結果:連合国軍の勝利
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オーストラリアの旗 オーストラリア
指揮官
日本栗田健男
日本小沢治三郎
日本西村祥治
日本志摩清英
アメリカ合衆国ウィリアム・ハルゼー
アメリカ合衆国トーマス・キンケイド
(日米両軍とも現場指揮官)
戦力
航空母艦4
戦艦9
重巡洋艦13
軽巡洋艦6他
航空母艦17
護衛空母18
戦艦12
重巡洋艦11
軽巡洋艦15他
損害
航空母艦4
戦艦3
重巡洋艦6
軽巡洋艦4
駆逐艦9沈没など
航空母艦1
護衛空母2
駆逐艦2
護衛駆逐艦1沈没など
フィリピンの戦い
アメリカ軍のレイテ島上陸により生起した4つの海戦の場所。以下の4つを総称してレイテ沖海戦という。1.シブヤン海海戦 2.スリガオ海峡海戦 3.エンガノ岬沖海戦 4.サマール沖海戦

レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、Battle of Leyte Gulf)とは、第二次世界大戦中の1944年10月23日から同25日にかけてフィリピン及びフィリピン周辺海域で発生した、日本海軍アメリカ海軍オーストラリア海軍からなる連合国軍との間で交わされた一連の海戦の総称。日本側と連合国側の主攻目標が共にレイテ島(レイテ湾)であったことから、この名が付けられた。比島沖海戦もしくはフィリピン沖海戦(2nd battle of the Philippine Sea)ともいう。本海戦を細分化すればシブヤン海海戦(Battle of the Sibuyan Sea)、スリガオ海峡海戦(Battle of Surigao Strait)、エンガノ岬沖海戦(Battle of Cape Engano)、サマール沖海戦(Battle off Samar)の4つの海戦からなるが、戦局に与えた影響や評者による議論の仕方によっては事前の様々な背景が採り上げられることもある。

連合軍の作戦名はキングII作戦(Operation KING II[1])でレイテ島奪還が目的、日本側の作戦名は捷一号作戦でアメリカ軍の進攻阻止が目的であった。日本海軍の艦隊戦力はこの海戦での敗北を最後に事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。また、この海戦で日本側ははじめて神風特別攻撃隊による攻撃をおこなった。

日本海軍は稼働軍艦の多くの投入を企図するなど総力を挙げ、後の戦闘を見越し陸軍も多数の部隊を配置し、アメリカも太平洋に展開する大半の軍事力(特に海軍)を投じたうえに、同盟国のオーストラリア海軍の支援を得て戦った。その規模の大きさ、戦域が広範囲に及んだことなどから史上最大の海戦と言われる。

目次

背景[編集]

日本[編集]

1944年6月のマリアナ沖海戦は敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥マリアナ諸島自体の失陥も確実なものとなった日本では国政にも影響があり、反東条の気運の中7月22日小磯内閣が誕生した。しかし、陸軍軍人とは言え予備役に引いていた小磯國昭に陸軍を抑える力はなく、この政変は陸軍、特に参謀本部の発言力を強める結果となったとされる[2]

その陸軍参謀本部は7月15日、今後の戦争指導方針として次の4案を示した。

  1. 短期決戦案
    • 本年後期に国力戦力の全縦深を展開して対米決戦を指導し、明年以降の施策は全然考慮しない。
  2. 決戦重点二本立案
    • 本年後期に国力戦力の徹底的重点(七〜八割)を構成して主敵米の進攻に対し決戦的努力を傾倒し、一部(二〜三割)をもって長期戦的努力を強化する。
  3. 併行二本立案
    • 本年後期従来程度の決戦的努力を行なうと共に、併せて長期戦的努力を行なう。
  4. 長期戦重点二本立案
    • 戦局の前途短期決戦の見込みなきをもって決戦的努力を従とし、長期戦的努力を主とする。

日本の「戦力は既に破断界に達している」と認識していた参謀本部は第2案を推薦、梅津美治郎参謀総長もこの案を推し25日陸軍大臣杉山元と協議してこれを採用した。児島襄は、初期著作『太平洋戦争』で「もし第二案の決戦で敵に大打撃を与えれば、同じ和を求めるにしても、ずるずると敗戦するよりも立場は有利になるだろう」と評した。これがいわゆる「一撃講和」の基本的な考えである。

この目的のため大本営は7月18日から3日間にわたり陸海軍合同研究を行い次の防衛作戦を立案、方面別に捷一号から捷四号と名付け、7月24日裁可、陸軍は同日作戦準備を各軍に命じた。

このうち、フィリピン方面の防衛作戦は、捷一号作戦とされていた。日本にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が途絶されることであり、戦争の敗北に大きく繋がるものであった。

その後、大本営政府連絡会議から名称を改めた最高戦争指導会議の最初の会議が8月19日に開かれた。このとき「世界情勢判断」と「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定され、前者でドイツが敗北必至であると認め、後者では「欧州情勢の推移如何に関わらず、帝国は決戦的努力を傾倒して敵を破摧、政略施策と相俟って飽く迄も戦争完遂に邁進せざるべからず」と結論し太平洋方面での戦争継続方針を追認、同時に大陸において対ソ連への独ソ和平工作、対重慶(中国国民党)への和平工作を行なうこととした(以上、日本の背景は主に児島襄『太平洋戦争 下』「フィリピンに決戦を求めて」に拠る。具体的な作戦計画については捷号作戦を参照のこと)。

アメリカ[編集]

守りに回った日本側の戦略目的がある意味で明快になりうる環境にあったのに対し、下記のように、アメリカのフィリピン奪回のスケジュールは対日反攻が相当進展してからも紆余曲折を辿った。そのようになった理由は陸海軍、統合参謀本部などの主要指揮官の間の意見の違い、ヨーロッパ戦線との兵力配分、秋のアメリカ大統領選挙を睨んだ主要アクターの行動、対日戦終結後の中華民国蒋介石政権支援のための大陸への兵力展開といった要素が絡んで考慮されたからであった。

ハワイ会談まで[編集]

1943年11月のカイロ会談で中部太平洋進攻とニューギニアからフィリピン方面への進攻の両者を進める方針が定まり、概略の順番も示されたが、優先度は中部太平洋の方が上であり、海軍作戦部長アーネスト・キングは中華民国との兼ね合いを重視してフィリピンよりは台湾→廈門に至るルートに拘りを見せていた。

1944年3月12日、海軍作戦部長アーネスト・キング、太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面最高司令官チェスター・ニミッツ、南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサーの代理であったサザーランド参謀長等の討議の後、統合参謀本部は当面の攻略予定について決定をした。その中にはマッカーサーの推すハルマヘラ(9月15日に上陸予定)、ミンダナオ(11月15日に上陸予定)など南西太平洋から南部フィリピンに至るものも含まれていた。しかし、6月の段階でも統合参謀本部はフィリピンを素通りしたい意向を示し、海軍作戦部長アーネスト・キングは上記2箇所への進攻を中止し、彼の持論である台湾へ進攻することを提案した。キングの方針は3月12日決定での中国本土接岸目標にも合致していた。

統合参謀本部は戦争終結を早めるべく6月13日、マッカーサー、ニミッツの両者に対して次の3つの案での対日進攻の再検討を命じた。

  1. 台湾攻略までの既定計画の促進。
  2. 途中の目標を素通りして一気に台湾を攻略する
  3. 既定計画を中止し、日本本土攻略を含む新計画を策定

しかし、両者ともこれらの計画は急進的に過ぎると考えた。

このとき、陸軍参謀総長のマーシャルは6月24日、マッカーサーに沖縄への進攻を提案した。その意図はマッカーサーの面子を潰さずに中国沿岸に接岸し、かつ米本土に残されているヨーロッパ用の予備兵力をキングの台湾進攻案に使わせないためであった。

マッカーサーはマーシャルの提案に反対し7月8日、統合参謀本部が3月12日に決定した案を更に短縮し1945年5月ルソン島に進攻するレノ5号(Reno-V)計画を提出した。マッカーサーは、軍事的理由としてフィリピンの場合元々アメリカの植民地支配下にあったこともあり親米ゲリラの助力が期待できること、島嶼への海上進攻と比較し地上拠点も複数確保できることを挙げていた。しかし、政治的な理由もあった。フィリピンは元々アメリカの植民地であり、マッカーサーは父親の代よりこの地の利権を多く握っていて、「マッカーサー王国」などと揶揄される状態であった。また自身の前職はフィリピン軍元帥であり、更に緒戦で日本陸軍に敗北した際に、自分を含む高級軍人達だけが脱出し「私は戻ってくる」と宣言した手前もあった。これらがマッカーサーがフィリピン奪回に大きな努力を払っていた背景である。そのため、6月18日マーシャル参謀総長に宛てた書簡に対しマーシャルはマッカーサーの個人感情をたしなめる返事を送っている[3]

一方ニミッツはこの時期、1945年2月に台湾南部に進攻するグラニット2号計画 (Granite-2) を持っていた。また7月4日、予定通りに進攻が進まなくても既定の作戦計画を遂行することと、マッカーサーの主張する機動部隊と陸上基地とを連携させた作戦が適切である旨の2点を回答した。この理由としては

  1. サイパン攻略時の抵抗が予想より大
  2. 連合艦隊の脅威
  3. 日本陸軍の大陸での進撃による中国沿岸での作戦活動の困難
  4. 1月に既にキングに対して8月までの戦力の用意はあるが以降は補強が必要である旨を伝えたが
    • マッカーサーの戦力を指揮下に置くことは期待できない
    • オーバーロードの進展からして戦力が必要な時期までに太平洋に移動することは期待できない

といったことを挙げていた。海軍はマッカーサーの提唱するレノ5号は対日戦早期終結に役立たないと批判した[4]

こうした対立のため統合参謀本部は7月11日、ヨーロッパ情勢と絡め次の提案をし、下記のいずれにするかはパラオ占領(当時の予定では9月15日)とミンダナオ攻略の間に決定するとした。

  1. ドイツが打倒され、日本海軍を壊滅させた場合は日本本土への直接進攻(その際硫黄島、沖縄進攻を提起)
  2. ドイツ打倒も日本海軍撃滅も出来ていない場合にはミンダナオ→ルソン→台湾→沖縄→九州→本州の順に進攻
  3. ドイツを打倒していないが日本海軍を撃滅した場合はミンダナオを迂回

キングはこの後エニウェトクなどの視察行に出、17日にサイパンに飛び、第5艦隊司令官を務めていたレイモンド・スプルーアンス、両用戦の指揮を取っていたリッチモンド・K・ターナーなどと討議を行なった。その中で次期進攻としてどこが望ましいかを尋ねたところ、両者ともフィリピンと答え、スプルーアンスはその理由としてサイパンのような島嶼よりも港湾向きの地形が多く、マニラ湾などを活用できることを挙げた。キングはスプルーアンスの論理に理解は示しつつも、持論の台湾進攻による中国大陸接岸案を棄てようとはしなかった[5]

動員限界[編集]

なお、この大戦の間、アメリカ本国の政軍関係者には軍の動員限界についての考えが背景にあり、労働人口との兼ね合いから他の連合国への武器供給を含めた生産計画と睨みつつ、動員を行っていた。1943年から44年にかけては本国に留保している予備戦力を含めて、陸軍総兵力を90個師団770万人(海軍は200万人)に制限する決定も出され、これを世界にどう配分するかが戦略討議の前提条件であった。更にこの動員限界を超えて徴兵を行うのは、1944年11月の大統領選挙後でなければ不可能との統合参謀本部の見解もあった。そのためマーシャルはやや後の9月末にレイテ島上陸以後の作戦を計画した際にも、この件を考慮した上で作戦を検討するべき旨を主張している[6]

ハワイ会談[編集]

一方、ルーズベルトはマッカーサーが共和党の大統領候補になることを警戒し、これまで余り手柄を立てさせないようにしてきた。マッカーサーは表面上は平静を装ってきたが、選挙出馬への働きかけは行なっていたため、これは杞憂とは言えない。しかし、マッカーサーは4月末に不出馬を宣言し、ルーズベルトは7月初旬の民主党大会で自身が大統領候補に指名されることが確実となり、カリフォルニアに滞在中の20日に指名を受けた。また、マッカーサーにも出馬の意思がなくなったことを知った。その後ルーズベルトは選挙遊説を行い、その一環としてボルチモア (USS Baltimore, CA-68 ) でオアフ島ホノルルに赴いた。これは選挙中に前線基地に赴くことで、自分を戦争指導者として国民にアピールする狙いがあった。この際、前線の最高指揮官達と下記の会談が行なわれたが、これも政治ショーの性格があった。上記のように、戦況はマリアナ諸島全体の占領が確実な段階まで来ていた。

ボルチモアは7月26日に到着し、その日の夜に現地の資産家の所有する邸宅で軍関係者を招いての夕食会を開き、その後、ウィリアム・リーヒ陸海軍参謀長会議議長 (Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy)、マッカーサー、ニミッツの4者のみで会談をおこなった。マッカーサーはミンダナオ→レイテ→ルソンというコースを示して持論を述べ、元々アメリカが植民地支配していたフィリピンはゲリラの協力が期待できるが、台湾は半世紀も日本の統治下にありむしろ住民が日本側へ協力すると思われる旨を比較してみせた。一方、ニミッツは台湾には固執していなかった。キングの提唱する台湾進攻には5〜10個の陸軍師団が必要と見られ、陸軍の協力が不可欠だったからである。ルーズベルトはこの時点ではマッカーサーに手柄を上げさせようと考えていた。マッカーサーは長弁舌を振るった後、キリスト教徒が多くを占めるフィリピンの住民は1942年に裏切られたと思っていること、フィリピンを日本軍の銃剣の下に見捨てることはアメリカの名誉に大きな汚点となることを述べて迫った。そして、会談後寝室に続く廊下で2人きりになった時、「国民の激しい怒りは、この秋の選挙時に閣下への反対票となって返ってくることになる」と脅した。これに対しルーズベルトは「フィリピンを迂回しない」ことを認め、「これからキングとやり合わねばならない」と述べた。このやり取りでフィリピンに足場を設けることは決まった。会談はその後も同艦が出港する29日まで続いた。作戦部長キング、この時点で作戦中であった第5艦隊司令官の後任を予定していたハルゼーもそうした中で討議の一部には参加或いは意識していた[7]

しかし、海軍(キング)が主張する台湾進攻とルソン進攻案との関係は後回しとされ、9月のケベック会談でチャーチルと協議した結果により決めるとした。ハワイ会談に対し統合参謀本部は不満で、キング作戦部長は即時台湾攻略を主張し、ニミッツに対して「人事を扱う航海局の出身だから妥協ばかりする」と怒りを露にした。一方海軍側でもハルゼーはフィリピン攻略の意義を認める進言をした。いずれにせよフィリピンへの進攻決定は高度の政治性を含むものではあった[8]

8月以降[編集]

8月に入りテニアングアムが相次いで陥落、マリアナ諸島を完全に占領したアメリカ軍は、ペリリュー島ヤップタラウド諸島などが次の目標として見えてきた。

8月16日、マーシャルはスケジュールを短縮できるとしたマッカーサーに計画の再提出を命じ、マッカーサーは作戦名称をマスケーティア(Musketeer )と改名し27日に計画を提出した。それによれば攻略予定は9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとなっており、リンガエンへの上陸時点でレノ5号に比較し40日短縮されていた。この一部を統合参謀本部は採用した。キングはなおも台湾に拘りマッカーサーはレイテ、海軍と海兵隊は台湾を攻略するよう提案し、暗にレイテ上陸への非協力をほのめかしたが、最終的にはレイテ後を棚上げすることで折れた。こうして9月9日、統合参謀本部はミンダナオ島の攻略(キングI)予定を11月15日、レイテ島の攻略(キングII)予定日を12月20日と指令した。その後ルソンと台湾のどちらに進攻するかは棚上げされたため未定であった。

なお、オーバーロード作戦実施直前(計画策定の最終段階)では、ノルマンディ上陸後90日でドイツ本国進撃の態勢を整え10月にはドイツ打倒を実現するスケジュールであったが、上陸から90日を経過した9月初めの段階では、それが不可能なことは明白となった。そのため、ドイツ打倒後3ヶ月で移動を開始し6ヶ月までの間に到着とされたヨーロッパ方面の兵力を当てにすることは出来なくなった[9]

両軍の作戦計画[編集]

日本軍(捷一号作戦)[編集]

日本海軍の機動部隊がアメリカ軍第38任務部隊を北方に牽制し、基地航空部隊は第38任務部隊への攻撃を控え、フィリピン奪還を目的としたアメリカ軍輸送船団を撃滅する。また適宜、戦艦を中心とした水上砲撃部隊もアメリカ軍上陸地点に送り込み、輸送船団及び上陸した部隊を攻撃してフィリピン奪還を頓挫させる。

なお、リンガ泊地に移動した部隊の訓練内容は後述のように輸送船団攻撃の計画が持ち上がって以後、それを目的としたものに変えられたが、小柳の陳述では下記の5種に区分されている[10]

  1. 湾内投錨艦船への攻撃法
  2. 夜戦訓練
  3. 対空戦闘訓練
  4. 電探射撃訓練
  5. 夜戦での星弾使用法

アメリカ軍(キングII作戦)[編集]

まずフィリピン周辺の広範囲に亘る日本軍拠点を攻撃して露払いを行い、その後レイテ島に上陸する。陸軍部隊の上陸作戦は、キンケイド中将の第7艦隊が担当し、艦船による砲火支援、輸送艦船の護衛などを行なう。ハルゼー大将の第3艦隊もこれを掩護する。

9月の情勢推移[編集]

8月29日、第3艦隊はエニウェトクより最初の出撃を行い、31日、第38任務部隊第4群が硫黄島を空襲し[11]、続いて小笠原諸島を襲った。9月4日、第3艦隊ハルゼー大将)が直接指揮する残りの3つの群はニューギニアのマヌス島から出撃し、9月6日よりパラオ周辺、続いてフィリピンを空襲(下記「ダバオ事件」の項参照)、第4群もヤップを叩きつつパラオに向かい、他の群と入れ替わりに空襲を加えた。ただし、この段階では日本軍はセブ島を中心に航空兵力を配置して敵の攻撃を控え、温存策をとっていた。このために150機分の囮が各基地に配置されていた。

一方、アメリカ軍は空襲と併行しながら9月15日、モロタイ島、ペリリュー島へ上陸した(ペリリューの戦い)。17日にはアンガウルに上陸した(アンガウルの戦い)。9月23日にはウルシー環礁を占領しており、後に後方の補給拠点として使用された。第38任務部隊はペリリュー、モロタイ上陸作戦を支援した後、小笠原諸島やヤップを空襲し、9月21日にはフィリピン・マニラを[12]、続いて沖縄を襲って日本軍機200機以上を破壊する戦果を挙げた[13]

ダバオ誤報事件[編集]

ダバオは、アメリカ軍上陸の可能性が高いと見られており、捷一号作戦では敵来寇の第一候補地に挙げられていた。9月に入ると連日のようにビアク島からの基地航空機による空襲を受けるようになり、9月9日から10日にかけアメリカ海軍第38機動部隊は、パラオ諸島に続いてダバオを中心にミンダナオ島各所に空襲を加えた。日本側は事前の空襲のため警戒を強めていたが不運なことに、この日の早朝、サランガニ見張所が敵上陸用舟艇接近と誤認、このことは捷一号作戦警戒を発令することに繋がった。そしてフィリピン南部に陸海軍の基地航空兵力が集結をはじめた矢先の9月12日、再び米機動部隊が来襲し、9月22日までマニラを始めとするフィリピン各地に空襲を続けた。

この戦いで日本側は一方的に攻撃を受けるだけで基地上空での邀撃戦に終始し、何ら敵艦隊に打撃を与えることは出来なかった。その反面一航艦の実働兵力は250機から65機へ激減した[14]。海軍と共同する陸軍の現地航空部隊である第四航空軍も約200機からほぼ全機が失われた[15]

作戦計画への影響[編集]

日本軍
マリアナ諸島等での防衛作戦で受けた打撃から再建途上にあった一航艦は再び甚大な被害を受けた。また、激化するフィリピンへのアメリカ軍の攻撃からアメリカ軍がフィリピンに侵攻するのは間違いないと判断したが、正確な日程と地点を確信するには10月まで待たなければならなかった。
アメリカ軍
上記のダバオ空襲を行っている段階で、ハルゼーは日本軍の反撃力が極めて弱く、またレイテ島に日本軍が存在しないという情報を得た[16]。9月13日、ヤップ島及びパラオの攻略計画を取りやめ、日本軍の反撃力が回復しないうちにレイテ島を攻略することをニミッツに無電で進言した[17]。ニミッツはこのうちヤップ攻略の取り止めに同意し、11日からイギリス首脳との第2回ケベック会談に臨んでいたルーズベルト、12日から開かれていた米英軍事会議に出席していた統合参謀本部のキングにこの意見を伝えた。マッカーサーも14日、タラウド諸島、ミンダナオ島迂回をマーシャル参謀総長に進言した。ルーズベルトは攻略繰上げによる選挙戦への好影響も考慮してこの意見に同意し、上記2ヶ所に加えミンダナオへの上陸計画も取りやめとなった。これにより統合参謀本部は軍事会議中の15日、計画を2ヶ月繰り上げて10月20日にレイテ島を攻略することに変更し、ヤップ攻略用に準備されていた第24軍団が攻略部隊に繰り入れされた[18]。タイムスケジュール等を改定したキングII作戦計画は9月26日付で第7艦隊、27日にはニミッツより第3艦隊にも通達された[19]

台湾沖航空戦[編集]

アメリカ軍は上記の南部フィリピン攻撃後、パラオ作戦の支援に第4群を残して第38任務部隊の残りの3群は一旦後退した。10月7日マリアナ諸島の西で合流した第38任務部隊はフィリピン奪回の陽動攻撃の意味も込めて10日に南西諸島を空襲、12日から14日には台湾を空襲。一連の戦闘を「フォルモサの戦い」としている[20]。日本軍の基地航空部隊はこれに応戦し、アメリカ軍に多大な損害を与えたものと判断したが、実際はアメリカ軍はほとんど損害を受けておらず、日本の航空戦力が消耗しただけに終わった。そして、この時の戦果誤認が、後の日本軍の艦隊総出撃という積極的な行動要因の一つとなる。第38任務部隊が陽動を行っている間の10月11日から15日にかけて、ニューギニアのホーランディアとマヌス島に集結していた上陸部隊は続々と出撃していた。

連合艦隊司令部は台湾沖航空戦の大戦果を信じ、引き続き基地航空部隊にアメリカ軍空母機動部隊の攻撃を命じた。小沢治三郎中将指揮下の空母航空隊も基地航空部隊の指揮下に移して沖縄へ展開させ、戦場に投入した。また、アメリカ軍機動部隊の損傷した残存空母を掃討するために、小沢中将の指揮下にあった志摩清英中将の第二遊撃部隊(第五艦隊)を出撃させたものの、この段階で戦果誤報に気付いたため任務は中止され、同艦隊が奄美大島へ退避中に台湾馬公に向かうように指示し、更に同艦隊を南西方面艦隊の指揮下に移した。

日本軍の作戦計画への影響
上記のように捷号作戦計画の基本は1944年の7月から8月に立てられた。その中で小沢などの意向により機動部隊は艦隊戦における中核兵力という位置づけが維持され、侵攻が12月まで延期されればリンガに派遣した遊撃部隊も本土に戻し合同して大規模な迎撃作戦を発動したい意向があった。しかし、計画策定後に前線で立て続けに敗北を重ねたため、基地航空部隊、特に第一航空艦隊が壊滅的打撃をうけ、小沢機動部隊の艦載機も同航空戦に投入しほとんどを消耗してしまった。その結果艦隊を支援するための航空戦力はほぼ枯渇し、予定した戦力と実際の戦力に大きなずれが生じた。さらに、台湾沖航空戦の直後にアメリカ軍の上陸作戦が始まった。このため作戦計画を根本的に修正する余裕がなくなった。とは言え、アメリカ軍機動部隊が防御する輸送船団に対して丸裸で突っ込むことに、何の対応策も行なわないのは自殺行為である。
そのため、苦肉の策として小沢艦隊による牽制にほぼ依存し、これを囮にして、アメリカ軍のハルゼー大将率いる第38任務部隊を水上砲撃部隊から引き離し、その間に水上砲撃部隊がレイテ湾に突入することとされた。囮とする着想を小沢は豊田長官の発想だと述べている[21]。第3艦隊の場合、方針変更は19日の艦長会議での訓示で明らかになった。20日には連合艦隊からの電令作第363号により、次のように任務が定められた[22]
  1. 第一遊撃部隊は25日黎明時タクロバン方面に突入、まず所在の敵海上兵力を撃滅し、ついで敵攻略部隊を殲滅すべし。
  2. 機動部隊本隊は、第一遊撃部隊の突入に策応、ルソン海峡東方海面に機宜行動し、敵を北方に牽制するとともに、ついで敵攻略部隊を殲滅すべし。
  3. 南西方面艦隊長官は、比島に集中する全海軍航空部隊を指揮、第一遊撃部隊に策応、敵空母ならびに攻略部隊をあわせ殲滅するとともに、陸軍と共同してすみやかに海上機動反撃作戦を敢行、敵上陸部隊を殲滅すべし。
  4. 第6基地航空部隊(台湾)は主力をもって24日を期し、敵機動部隊に対し総攻撃を敢行し得るごとく比島に転進、南西方面艦隊司令長官の作戦指揮下に入るべし。
続いて、豊田長官は第一遊撃部隊を機動部隊本隊の指揮下から除き連合艦隊司令長官の直率下に置くことを発令した。
その後、第一遊撃部隊司令部の判断で部隊も第一夜戦隊(第一戦隊、第四戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊)と第二夜戦隊(第三戦隊、第七戦隊、第十戦隊、清霜)、第三夜戦隊(第二戦隊、最上、第四駆逐隊、時雨)の2つに分けられ、レイテ島に南北からタイミングを合わせて接近し、同時に別方向からアメリカ軍輸送船団および陸上部隊に攻撃を行うこととなった[23]。第三夜戦隊には、米軍水上部隊牽制の役割も担わされていた[23]。小沢艦隊と行動をともにするはずだった志摩艦隊(第五艦隊の艦船を基幹)は、作戦開始直前になって更に南方への移動を決定し、西村艦隊と同じくレイテ島の南方から接近することとされた。しかし、突然の兵力再配置のため、両艦隊は共同行動の準備が出来ず、更に同じ中将ながら志摩の方が先任のため志摩が西村の指揮下に入ることは出来ず、ばらばらに行動することとなった。
この戦いでは連合艦隊司令長官の豊田副武が前線視察中であったため、中央から適切な指揮が出来なかったことが指摘される。この背景には通信諜報の解析を元に9月28日、マリアナ方面の敵機動部隊撃滅を賭して第7基地航空部隊として纏めた陸海軍航空兵力に丹作戦を下令し、10月5日の攻撃を予定していたということがあった。しかし、索敵を行っても敵の気配はなく、4日にとりやめとなった。この間、敵機動部隊がサイパンでの補給後、1日に出撃したことは推定されたが、敵の目的が不明であった。
そのためもあり、豊田は前線への視察を目的にフィリピン、台湾などを回っていたが、風邪を引いたこともあり現地陸海軍指揮官とまともに協議は出来ず、護衛戦闘機の不足からダバオ行きを諦めた。そして10日、日吉に戻るため台湾の新竹に移動したところ沖縄に機動部隊が来襲し台湾沖航空戦が始まった。そのため移動が出来なくなってしまったのであった[24]
また、この戦いにより空母艦載機まで投入して消耗したため、第四航空戦隊に組み込まれていた隼鷹龍鳳の出撃が諦められた。また、第一航空戦隊を編成していた雲龍天城は竣工して間がなく、訓練未了を理由に温存された。これらの戦備が完全に整っていればマリアナ沖海戦並の艦隊航空兵力によって牽制を行えたことになるが、実際には燃料の不足等による搭乗員大量養成の遅延、米軍の急激な反攻などにより(台湾沖航空戦以前にも)杜撰で刹那的な兵力投入を行なった(或いは行わざるを得なかった)面があり、同航空戦により止めを刺された。また、葛城は10月15日の竣工、信濃はこの時期同日の竣工を目標としていたが、戦局に寄与することは出来なかった。これらは戦時の建艦計画の遂行の失敗例として挙げられることが多い[25]。更にこの航空戦での敗北による稼動機の激減が、少数による航空機の体当たり攻撃、即ち特別攻撃隊投入決断への決定打となった。特別攻撃隊に関しては後述する。

ロジスティクス[編集]

日本[編集]

全般
1944年4月下旬、アメリカ海軍作戦本部長キングは潜水艦隊に対して護衛艦への積極的な攻撃を命じていた。以後、多数の連合艦隊所属艦を含む駆逐艦、海防艦が撃沈され、ルソン海峡を中心とした通商破壊も月毎に激化した。また、護衛兵力の不足と船舶の合理的使用のため南方資源用の船団とフィリピン防衛用の兵力輸送船団は纏めて運行されたが不要な船舶までが危険海域を通過するようになった。9月に入ると上述のようにハルゼーは日本側の航空兵力が弱体であることを察知し、第38機動部隊による空襲も加わった[26]。このため更に多数の船舶が沈められ、捷号作戦計画に基づいた事前の兵力展開にも支障した。これが捷号作戦時の駆逐艦不足、作戦発令前後の遊撃部隊からの一部戦闘艦艇の引き抜き、油槽船との会合遅延・失敗などにつながった。原勝洋によれば計画段階では14隻存在した連合艦隊の随行油槽船は作戦発動時6隻(日栄丸 良栄丸 厳島丸 雄鳳丸 八紘丸 日邦丸)まで減少していたという。なお、9月末の作戦計画での敵情要約の全般情勢にて、アメリカ軍は「航空機と潜水艦による攻撃は甚大な損失を敵船舶に与えており、それ故に敵のフィリピン各部隊への兵站支援は大きな障害を抱えている」と述べており、攻撃の効果を認識している。
連合艦隊司令部は16日、作戦海域付近に在泊・航行中の油槽船に艦隊随行の命令を予告、捷一号作戦が発令された18日に発令した。また10月19日、軍令部は10月2日シンガポールを進発し日本に向け南シナ海を航行していたヒ76船団を連合艦隊の指揮下に移し、作戦用燃料を確保したい意向を示した。これには陸軍が反対し、東京都芝の海軍水交社にて折衝を続けた結果、20日の昼に同船団の黒潮丸、東邦丸を指揮下に置く代わりに本土の海軍用燃料15,000キロリットルを一般用に放出することが取り決められた。なお、この際陸軍は制空権が敵にあることを理由に艦隊の突入自体に反対しており、現存艦隊主義をとって、船団についてはフィリピンが落ちたあとのことを考慮して本土に油を還送するべき旨を主張したという[27]
第二艦隊(栗田艦隊、西村艦隊)
連合艦隊司令部は上記のように16日の段階で予告をしていたが、10月17日に捷一号作戦警戒、続いてブルネイへの進出待機命令を受電した際には油槽船への随行命令は発令されていなかった。そこで栗田は第二艦隊独断でシンガポールに在泊していた雄鳳丸、八紘丸にブルネイへの進出を命じ油槽船を手配した。栗田艦隊は20日11時にはブルネイに入港したが、栗田の手配した油槽船は21日17時に入港を予定していた。栗田は給油時間を短縮する為に小型艦へは大型艦から給油を済ませておき油槽船は大型艦への給油のみを行えばよいように準備した。手配の早さから油槽船は21日11時20分に入港し、出撃予定時刻とされた22日8時の3時間前に作業は完了し、各艦は燃料を満載した。18日の連合艦隊司令部の発令により第二艦隊に随行を命じられた油槽船は計8隻となったが、ブルネイに集結した艦隊の出撃に間に合ったのは上記の2隻だけであった[28]
ブルネイからの第一遊撃部隊の進撃航路は4つの案があり、パラワン水道を抜けてシブヤン海に接近する案は距離は最短だが敵潜水艦と会敵する危険が大きかった。しかし、小柳富次の言を借りるならば「まる一日無駄に過ごした」[29]のは事実で、現実にはパラワン水道を抜けることとし、雷撃を受けた。このことについて栗田は戦後『決断』の会見記で「パラワン水道を行かずに、西方の南沙諸島をまわれば、その付近には岩礁が多いので、敵潜水艦が出没せず、安全であることがわかっていました。だが、そうすれば、1日遅れるのです。その時間がなかったのです」と述べた。
なお軍令部は第二艦隊のため、20日に萬栄丸、御室山丸、日邦丸、厳島丸に5隻の海防艦を護衛につけシンガポールから回航を命じていたが、この手配は栗田艦隊の出撃に間に合わなかった。その後日邦丸、厳島丸はコロン湾への進出を命じられ、両船共25日にブルネイを出港したが、27日バランバンガン島沖でアメリカ潜水艦バーゴール (USS Bergall, SS-320) の雷撃を受け、日邦丸は沈没、厳島丸も航行不能となった後31日に空襲で沈没した。
このような状況から下記の作戦開始後も、栗田艦隊は後の激戦を控えて23日までは20ノット以上の速力を出すことが出来なかった。パラワン水道通過時は夜間16ノットに速度を落とし、敵潜水艦に測的の余裕を与え、払暁と共に18ノットに上げたところで攻撃を受けた。シブヤン海海戦時も空襲を受けたとき以外は22ノット、下記のサマール沖で反転した際も26日中にコロン湾で待機する油槽船との合流を見据えていたという[30]
第五艦隊(志摩艦隊、18日より南西方面艦隊指揮下)
志摩艦隊は20日、馬公へ入港し、三亜から移動してほぼ同時に入港した良栄丸より給油を受けた。その後南方へ移動中の22日朝、連絡書を載せた水偵をキャビテに向け発進させ、その連絡書の中には栗田艦隊へ向けた行動予定書も含まれていた。その行動予定では、23日夕刻にコロン湾で補給作業の予定と書かれていたが、栗田からの返電はなく、志摩艦隊がコロン湾に到着した際、期待した油槽船もいなかった。そのため、志摩艦隊は巡洋艦から駆逐艦に補給をおこなったのみだった[31]
第三艦隊(小沢艦隊)
小沢艦隊の場合、出撃地点は日本本土であったが戦場には遠かった。出撃後の22日、航続力の短い丁型駆逐艦に空母と大淀から給油を行なったが悪天候のため完遂できず、未済の桐に杉を同行させ部隊から除き、台湾へ向かわせた。艦隊には2群の補給部隊が付けられそれぞれ油槽船、仁栄丸、たかね丸があったが、仁栄丸は25日アメリカ潜水艦スターレット (USS Sterlet, SS-392) の雷撃を受け沈没、戦闘後の27日、本隊の残存艦艇は奄美群島で補給作業を行なったが、たかね丸はその帰路撃沈された。

アメリカ[編集]

一方、アメリカ側ではこの時期の他の戦いと同じく、充実した体制が組まれていた。第38機動部隊は10月6日にウルシーを出港してから、1945年1月のリンガエン湾上陸支援と通商路攻撃を終えるまでの約16週間海上にあった。同艦隊各艦は少なくとも85日は洋上に留まり、根拠地等に錨をおろすことはなかった。また、第3艦隊の各部隊は概ね15ノット前後での移動が多かったが、25日の作戦行動など、必要とあれば25ノット以上の速力も選択していた。戦術レベルでは同日第34任務部隊で大型艦から小型艦に給油を行うため数時間速度を落とさざるを得なくなる場面などがあったが、後方の港湾まで後退するようなことはなかった。

この長期に亘る洋上行動を支えたのは、強力な役務部隊である。これは艦隊用タンカー34隻、護衛空母11隻、給兵艦6隻、貨物船7隻、駆逐艦19隻、護衛駆逐艦26隻、外洋タグ10隻、計113隻に及ぶ。アメリカ海軍はこれを10〜12のグループに分割し、日本軍の哨戒圏外に補給点を設定、ウルシーとの間を往復させていた。

ローテーションは次のようになっていた。補給点(Fueling Area)には常時9〜10隻のタンカーなどが待機し、残量が所定のレベルに下がると、残りを次のタンカーに移載し、3〜4日ごとにウルシーに後退、そこで本国から派遣されてきた商用タンカーから燃料を受け取るというものであった。一方空母は、グアム、エニウェトク、マヌスから、高速空母への補充機と搭乗員を運び、弾薬、需品等も補給していた。冷蔵船や郵便船なども存在していた。

一方、日本側は補給点を発見することは出来なかった[32]

ただ、第38機動部隊第1群は24日には後退して補給中であり、結局この海戦でほとんど有用な役割を果たす事はなかった。補給点はミック(MICK)と呼ばれ東経130度、北緯15度の海上にあった。この他にも補給点は設定されており、本作戦では6つあった。本作戦の兵站計画によれば、需品の供給もニューギニアに設けた後方拠点などに数ヶ月分が備蓄されていた。

その他[編集]

この間、日本側では9月29日、連合艦隊司令部が大淀から日吉の慶應義塾大学構内に移転した。軍令部総長の上奏文によれば高雄にも同様の指揮所を設置する予定だったが実際には設備は造られなかった[33]

また、戦場であるフィリピンは戦前アメリカ本国の議会を通過した法案により1946年7月4日に独立を予定されていたが、フィリピンを占領した日本軍はこの状況を汲み、1943年には形式上はフィリピンを独立させていた。日本はその後連合国への宣戦布告を迫ったが、国土が戦場となり、長年の宗主国アメリカとしこりを生みたくなかった大統領ホセ・ラウレルはこれを引き伸ばすことに努め、1944年9月23日漸く宣戦布告をした。しかしこれも、戦争状態の存在を認める(existense of a state of war)であって正真正銘の宣戦(Declaration of War)ではなかった。日本軍はこの時期、親日を誓うフィリピン人による防衛組織ガナップ隊、11月10日にはマカピリ隊を編制し、後方での役務につけた[34]

海戦の推移[編集]

ブルネイ泊地の戦艦大和、武蔵、長門(1944年10月)

1944年10月 海戦前[編集]

  • 10月6日
    • 第38機動部隊(95隻)、ウルシーを出港(『世界の艦船』1992年10月号P88)
  • 10月9日
    • アメリカ軍戦艦1隻、重巡2隻、駆逐艦8隻により南鳥島を砲撃(『日本海軍 戦場の教訓』P347)。
  • 10月11日
    • アメリカ軍上陸部隊、ニューギニア各地を出発。
  • 10月12日から16日
    • 台湾沖航空戦(上述)。日本側航空戦力、実質的に壊滅状態となる。
  • 10月17日
    • アメリカ軍レイテ湾スルアン島に上陸。
    • 連合艦隊司令部、「捷一号作戦警戒」を発令(捷一号作戦の発動を予告)。

作戦発動後[編集]

  • 10月18日
    • 大本営、捷一号作戦を発動。
    • 栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊(戦艦7隻基幹、通称栗田艦隊リンガ泊地を出撃。同日午後、第十六戦隊(重巡1、軽巡1、駆逐艦1)を第二遊撃部隊に編成替え、同戦隊はブルネイより出港(21日[35])、陸軍兵輸送のためマニラへ向かい、本海戦への投入はされなかった。本来ならば栗田艦隊の攻撃に呼応する計画だったが、青葉の被雷のため実現しなかった[36]
  • 10月19日
    • 小沢中将指揮の日本軍第三艦隊(空母4隻・戦艦2隻基幹、通称小沢機動部隊)が瀬戸内海を出撃。なお、太平洋艦隊は豊後水道に敵情監視を行なうための潜水戦隊3隻を配置していたが、敵が発見出来ないことに業を煮やして配置の変更を申し出、これは許可され20日に九州沖に移動した。その間に第一機動艦隊は元の哨戒域を通過し、敵に知られることなく太平洋上に出た。ニミッツが出撃を確信したのは商船用暗号の解読により油槽船の手配を察知したウルトラの報告からであった[37]
  • 10月20日
    • 11時、日本軍第一遊撃部隊ブルネイに入泊開始。直ちに給油する予定だったが、油槽船の到着が一日遅れたため、以後の行動予定に大きく影響した。なお、給油の後武蔵だけは塗装を塗り直し、他の艦より明るい鼠色となって一際目立った[38]。武蔵に焦点を合わせた文献ではこのことを囮となるための処置と見るものが多い。当時の大和副長兼砲術長だった能村によれば、猪口武蔵艦長から「出撃前に(大和も)一緒に外舷を塗りなおそう」と誘われており、特に囮となる意図はなかった模様[39]。能村は戦闘後に塗りなおすと提案を断った。
    • レイテ湾、台風の余波から抜け晴天となる。20日は上陸予定日(A-dayと呼称)でもある。2時間に亘る艦砲射撃の後10時より連合軍主力、タクロバン、ドラグ方面に上陸。18時までに60000名、兵器、物資等107000トンを揚陸。海軍第5航空基地隊、陸軍第二飛行師団が散発的な少数機による反撃を実施したが軽巡1隻を損傷させるにとどまる。
    • 小沢機動部隊、大分で航空機を収容。日本を離れ南下を開始する[40]。搭載航空機は、零戦52、爆装零戦28、天山25、彗星7、九七艦攻4、計116機[41]。大淀に水偵2機。
  • 10月21日
    • 日本軍第二遊撃部隊(巡洋艦3隻基幹、通称志摩艦隊)が馬公を出撃。フィリピン、ルソン島マニラへ向かう。
    • 米第38任務部隊第2群の空母「バンカー・ヒル」が搭乗員消耗のため、隊列を離れる[42]
  • 10月22日
    • 日本軍第一遊撃部隊第一部隊・第二部隊(戦艦5隻基幹)が予定より一日遅れで8時にブルネイを出撃。遅れを取り戻すため、危険が予想されたパラワン水道の迂回は不可能となり、同海域を通過するコースを取る。
    • 日本軍第一遊撃部隊第三部隊(戦艦2隻基幹、通称西村艦隊)が15時30分にブルネイを出撃。スリガオ海峡を通過するコースを取る。
    • 志摩艦隊はスリガオ海峡コースでレイテ湾突入が決定、マニラ寄港を中止。補給のためパナイ島西岸コロン湾へ向かう。
    • 7時47分、ニミッツはハルゼーに対し、小沢機動部隊が10月20日に日本を出航したことを連絡する[43]
    • 深夜、潜水艦シードラゴン(USS Seadragon, SS-194)が空母に魚雷命中を主張し、第38任務部隊に報告する[44][45]。同じく潜水艦シャーク(USS Shark, SS-314) が7隻の艦隊発見をハルゼーに報告[45]。潜水艦アイスフィッシュ(USS Icefish, SS-367)が前日9時30分に重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻発見を報告[46]。実際には、この艦隊は10月20日にマニラを出航し、高雄市に向かっていた輸送船団だった。
  • 10月23日
    • 1時16分、パラワン水道を航行中の栗田艦隊を第7艦隊所属の潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) とデイス (USS Dace, SS-247)がレーダーで発見した[47]。両艦はちょうど会合中であった。2隻はこれを報告すると共に艦隊に接近。6時32分、ダーターは栗田艦隊旗艦の重巡洋艦愛宕に対し艦首発射管から魚雷6本を発射[48]、それから急旋回して重巡洋艦高雄に対し艦尾発射管から魚雷4本を発射した[49]。愛宕には魚雷4本が命中し、6時53分に沈没した[50]。愛宕の被雷1分後、高雄に魚雷2本が命中した。高雄は大破、漂流する[50]。6時57分、今度は重巡洋艦摩耶に潜水艦デイスの放った魚雷4本が命中した。摩耶は7時8分に沈没した[50]。栗田中将は旗艦を予備の旗艦に指定してあった戦艦大和に移し、レイテ湾に向かって進撃を続けた。大和戦闘艦橋には、右側に栗田を中心とする艦隊司令部が、左側に宇垣の第一戦隊司令部が陣取り、異様な空気が漂ったという[51]。なお愛宕(摩耶)生存者の大部分は大和(武蔵)に収容されたが、愛宕水雷長は第七戦隊「利根」水雷長となり、25日のサマール沖海戦に参加することになる[52]。21時40分、高雄は応急修理の結果自力航行可能となり、駆逐艦朝霜、長波、水雷艇鵯に護衛されてブルネイに向け避退を始めた。
    • 第七戦隊(重巡洋艦部隊)から計10機の水上偵察機が発進し、サンホセ基地に向かう[53]
    • キンケイドはこの報告を受け取り当初は大規模な東京急行の前兆と誤断していた[54]。ハルゼーは、日本軍が第一次ソロモン海戦の再現を狙っていると見抜き、第38任務部隊第3群(シャーマン少将)をルソン島東方140km、第2群(ボーガン少将)をサンベルナルジノ海峡、第4群(デヴィソン少将)をスリガオ海峡に配置した[55]。第1群は補給のためにウルシーへ向かった[56]
    • 志摩艦隊コロン湾着。輸送船を発見できず、巡洋艦から駆逐艦に燃料を給油。
    • 午前4時、第十六戦隊の重巡洋艦青葉を米潜水艦ブリーム (USS Bream, SS-243) が攻撃する。魚雷が命中し、青葉は航行不能となる[57]。鬼怒は青葉を曳航し、駆逐艦浦風と共に退避。22時45分にマニラ湾に到着した[57]。この小部隊は、旗艦を鬼怒に変更した[57]
  • 10月24日
    • 午前2時15分、潜水艦「ギターロ」 (USS Guitarro, SS-363)、「アングラー」 (USS Angler, SS-240)が栗田艦隊を発見し、艦艇15隻ないし20隻を報告する[58]
    • 午前7時、第十六戦隊が陸軍兵と物資を乗せ、コロン湾を出撃。レイテ湾へ向かうが、直後に空襲を受ける[57]。米軍機約100機と交戦したが損害はなく、ミンダナオ島に向かった[59]
    • 潜水艦ダーター、高雄を追跡中に座礁[60]、自沈する。乗組員はデイスに移乗し、デイスはオーストラリアへ撤退した。
    • 空襲前、第七戦隊重巡洋艦部隊各艦から計6機の水上偵察機が発進する[53][61]。鈴谷1号機のみ索敵に向い、残る機はサンホセ基地に退避した[53]
    • 軽巡洋艦矢矧が発進させた水偵1号機、レイテ湾に「戦艦1、巡洋艦または駆逐艦5」を報告して行方不明[62]

10月24日 シブヤン海海戦[編集]

攻撃を受けている戦艦武蔵、奥は、護衛に付けられた駆逐艦清霜
シブヤン海海戦時の戦艦武藏(手前)と重巡洋艦利根(奥)(10月24日15時過ぎ)

シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は24日8時20分、アメリカ軍第38任務部隊索敵隊(カボット、イントレピッド)に発見された。イントレピッド爆撃隊モート・エスリック中佐は、「戦艦4隻、重巡洋艦8隻、駆逐艦13隻」と報告する[63]。この時第38任務部隊は第2群(ボーガン少将指揮、空母5隻基幹)がサンベルナルジノ海峡付近に、第3群(シャーマン少将指揮、空母4隻基幹)がルソン島の東に、第4群(デーヴィソン少将指揮、空母4隻基幹)がレイテ島付近にいた。また、第1群(マケイン中将指揮、空母4隻基幹)は補給中だった。ハルゼー大将は第2、3、4群の3個群を以って栗田艦隊に対し攻撃を開始した。攻撃隊指揮官は、栗田艦隊が1機の護衛機も伴っていないことを奇妙だと報告している[64]

10時26分、第2群の空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11)、カボット (USS Cabot, CV-28) からの第1次攻撃隊45機(戦闘機21、爆撃機12、雷撃機9、誘導機ビル・エリス中佐)[65]が攻撃を開始し、武蔵妙高の右舷後部に魚雷1本が命中[66]。妙高は速度12ノットに低下し戦場を離脱[66]。11時38分、第五戦隊司令部は僚艦羽黒に移乗した[67][68]

第一次攻撃隊撤収後、栗田艦隊は米潜水艦を発見し一斉回頭を何度かおこなったが、すべて流木の誤認であった[69]。駆逐艦が爆雷攻撃をおこなったことも記録されている[70][71][72]。第七戦隊では、シブヤン海に米潜水艦1隻乃至2隻が存在していると考えていた[73]

12時6分、イントレピッドからの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)[74]が攻撃を開始し、武蔵に魚雷3本、爆弾2発が命中した[75]。この攻撃で武蔵の速度は22ノットに低下した。13時30分、ミッチャー中将直率第3群の空母レキシントン (USS Lexington, CV-16)、エセックス (USS Essex, CV-9) からの第3次攻撃隊83機[76]が武蔵に攻撃を集中し魚雷5本、爆弾4発を命中させた。武蔵の速度は16ノットに低下した。14時15分、第4群の空母フランクリン (USS Franklin, CV-13)からの第4次攻撃隊65機が来襲し[76]、大和に爆弾1発が命中した。フランクリン攻撃隊(ジョー・キービー中佐)は武蔵に最低爆弾4発、魚雷3本命中、軽巡洋艦1隻撃沈を主張[77]。エンタープライズ攻撃隊(ダン・スミス中佐)は武蔵に爆弾と魚雷集中、利根に爆弾2発命中、駆逐艦2隻に爆弾命中を主張する[77]。14時59分、第2群の第3波攻撃隊30機(戦闘機15、爆撃機12、雷撃機3)が来襲[77]。攻撃は武蔵に集中し[78]、速力は6ノットに低下した。米攻撃隊は別の重巡洋艦1隻の撃沈も主張している[77]。この日の空襲中、大和では予定されていた陸上航空部隊の援護がないことに不満が高まっていた[79]

第38任務部隊の攻撃で、武蔵が最低爆弾10発・魚雷10本を受けて落伍、大和に爆弾1発、長門に爆弾2発命中して一時速力低下、利根に爆弾2発、矢矧が爆弾1発と至近弾2発で浸水し速力低下、駆逐艦清霜と浜風に爆弾1発が命中し、浜風は火災が発生して速力が低下する。ハルゼーは、「大和級戦艦1隻落伍、金剛級戦艦1隻大破、残る戦艦2隻も魚雷と爆弾命中、軽巡洋艦1隻撃沈、重巡洋艦1隻に爆弾命中、軽巡洋艦2隻に魚雷命中、夜間空襲予定あり」とニミッツとマッカーサーに報告した[80]。19時35分、武蔵は沈没した。武蔵の生存者救助には駆逐艦清霜、浜風があたり、25日1時30分過ぎ、救助を終えた清霜と浜風の2艦はマニラへ撤退した[81]

15時30分、栗田艦隊は一時空襲圏外へ退避のため反転し、16時付で電文を発信した。ハルゼーは小沢艦隊の前衛を発見した後の16時20分、栗田艦隊に張り付けていた偵察機を帰還させた。この日の日没は18時17分、月齢 6.9、月没22時37分であり、猪口武蔵艦長が加藤副長に遺書を手渡した時刻が19時5分であった[82]。このような光線状態の下、栗田艦隊の電測員も見張り員も、敵機らしきものの存在を認めることはなかった。その後連合艦隊からの返電がないまま、17時14分(17時45分とする文献もあり)に栗田の意思により栗田艦隊は再反転した。しかし、栗田艦隊はこの再反転を悟られないため直ちに発信を行わなかった。このため、連合艦隊司令部は他の日本軍部隊と同様に状況をリアルタイムで掴めず、18時15分付で第一遊撃部隊宛に「天佑を確信し、全軍突撃せよ」との電文を発信し、その3、40分後にようやく栗田艦隊の16時付の反転電文を受信した。栗田艦隊は「全軍突撃」電文を18時55分に受信した[83]。この間連合艦隊司令部は作戦の中止すら検討し、即決が慣例だったことには珍しく2時間も議論に費やした後、結局反転を容認しないという結論に達し、19時55分付けで16時の反転電文を容認しないという内容の電文を返電し、これは23時52分に栗田艦隊で受信された。結果として連合艦隊司令部は栗田艦隊が反転否認を意味する電文により進撃を再開したと考えた。

栗田艦隊の方でも米軍・日本軍双方の情勢をつかめなかった。まず午前10時30分頃、「戦艦10隻以上、巡洋艦14隻、輸送船80隻、ミンダナオ海タクロバン南方60浬」の電報を受取り[84]、午前11時ごろ西村艦隊から「0945、空襲受け扶桑被弾するも損害軽微」の電文を受信する[85]。12時27分には、最上偵察機から戦艦10隻を含む大輸送船団発見の連絡が入る[86]。空襲中の14時19分、小沢機動部隊から「機動部隊前衛(日向、伊勢、初月、若月、秋月、霜月)、ルソン島東方の残敵を撃滅せんとす」の無電を受信する[87]。また18時30分付けでラモン湾東方に存在を報告された敵機動部隊に対する攻撃成果を知らせるよう、各航空艦隊、小沢艦隊宛に発信した。しかし、この電文に対する返信を栗田艦隊は把握していない。24日19時39分、栗田艦隊は午前中ミンドロ島サンホセ基地に向け発進させた水上機に宛ててレイテ湾などの敵情を知らせるよう命じる電文を発信し[88]、その中に「進撃中」の言葉を入れたため、これを受信した部隊は栗田艦隊の状況をようやく把握した[89]。なお、この電文に対する第六航空艦隊の返答は「米機動部隊は3群、空母合計10隻、攻撃戦果不明」であった[90]。21時35分、栗田司令部は各艦に対し「25日午前1時サンベルナルジノ海峡突破、午前11時レイテ湾突入」を下令する[91]。22時13分、栗田は大損害を受けたことを知らせ「第一遊撃部隊主力は全滅を賭し『タクロバン』泊地に突入、敵部隊を殲滅せんとす」とし、同時に航空部隊による米機動部隊攻撃を切望した[92][93]。結局、栗田は、連合艦隊司令部の反転否認命令を受信する前にレイテ湾突入を命令したことになる[94]

10月24日の日本側航空攻撃[編集]

基地航空隊
栗田艦隊の援護のため、新たにフィリピンへ展開していた日本海軍基地航空隊の第二航空艦隊は日没まで5回に亘り攻撃隊を出撃させ、第38任務部隊の第3群に航空攻撃をおこなった[95]。戦闘は午前8時から始まり、米軍戦闘機隊は日本軍航空隊を次々に撃墜して艦隊への攻撃を阻止した[96]。それでも9時30分、軽空母プリンストン (USS Princeton, CV-23) に爆弾1発が命中。弾薬庫に誘爆して爆発炎上、その後軽巡洋艦リノの魚雷で処分された。また、プリンストンの消火作業中に起きた爆発で軽巡洋艦バーミングハム (USS Birmingham, CL-62) は大破して、600名近い死傷者を出した。
小沢機動部隊
アメリカ第3艦隊は洋上哨戒の穴を突かれたり、米潜水艦の誤報に振り回されるなどしてルソン島西方など見当はずれな海域を疑うこともあり[97] 、24日16時頃まで小沢艦隊を発見することが出来なかった。一方、ルソン島東方沖に到達した小沢艦隊は基地航空隊から知らされた第3群に偵察機を送って、午前9時~11時前後に存在を確認[98]し、11時30分に58機(零戦40、爆装零戦28、彗星6、天山2)[99]が出撃した。出撃した攻撃隊は故障で零戦6機、爆装零戦5機が帰艦し[100]、米機動部隊と交戦する前に戦力が減少したが、15-16時にかけて第3群を攻撃した。米戦闘機隊は「明らかに精鋭チームのパイロットだ」と評価している[101]。戦果は、空母エセックス以下数隻の空母に対して至近弾。その中の1〜2隻の喫水線下の船体に軽い損傷を与えたのみであったが、小沢艦隊は「正規空母1撃沈確実、正規空母1隻大破」としている[102]。基地航空隊と小沢機動部隊の波状攻撃は、第38任務部隊の一番北側に位置する第3群の北方への索敵を遅らせることに成功した。この時点で小沢艦隊の航空戦力は、零戦19、爆装零戦5、天山4、彗星1に減少した[103]

10月24日の戦闘後[編集]

日本側
栗田艦隊はシブヤン海でのアメリカ軍の航空攻撃により艦船への被害が相次いだため、15時30分に目的地のレイテと逆方向の西へ反転し、16時に反転を知らせる電文を発信した。その後、17時14分に栗田の意思により栗田艦隊はレイテに向けて再反転した。しかし、栗田艦隊は進撃再開後、4時間以上再反転を知らせる電文の発信を行わなかった。この間、栗田艦隊が再反転したことをうかがわせるものは、栗田艦隊が19時39分にミンドロ島のサンホセ基地に派遣中の自隊の水上偵察機隊に宛てたレイテ湾などの敵情を知らせるよう命じる電文の中の「進撃中」の言葉だけであった。再反転してからはアメリカ軍の航空攻撃はなく残存艦はレイテに向けて進撃を続けけたが、ブルネイ出撃のときに比べ沈没、損傷、損傷艦の護衛のため、戦艦1(武蔵)、重巡4(愛宕、高雄、摩耶、妙高)、駆逐艦4(長波、朝霜、清霜、濱風)が戦列を離れており、残りの艦も半数が大なり小なりの損傷を受けていた[104]
一方、連合艦隊司令部(神奈川県の日吉)は栗田艦隊から次々と入電する戦闘速報により損害が相次いでいることを知り、栗田艦隊が進撃を止めることを危惧したため、18時13分に捷号作戦全部隊宛に「天佑を確信し、全軍突撃せよ」と電文を発信した。しかし、この後に栗田艦隊からの反転報告(16時発電)が届いた(遅達した)ため、19時55分に反転を否認し、進撃を念押しする電文を発信した。サンベルナルジノ海峡に向けて進撃中の栗田艦隊が連合艦隊司令部の18時13分の「全軍突撃せよ」電文を受信したのは18時55分で、南から進撃中の西村艦隊も同じ頃この電文を受信した。予定通り進撃していた西村艦隊は、20時13分に栗田艦隊宛に「25日4時にドラグ沖突入予定」と発信した。これに対し栗田艦隊は21時45分に「25日1時にサンベルナルジノ海峡通過、11時レイテ突入予定」を発信した。栗田艦隊の進撃は、計画より6時間遅れていて北と南からレイテ湾に同時に突入するという最初の作戦計画は望めないこととなった[105]
北からフィリピンに接近した小沢機動部隊は24日16時頃、アメリカ軍偵察機に接触されたため、攻撃されることを予想したがアメリカ軍の来襲はなかった。12時頃にアメリカ機動部隊に向かった攻撃隊のうち空母に帰投したのはわずか3機で、機動部隊は既に攻撃力を失っていた。敵味方の状況が不明のため、機動部隊は一たん北上した後、23時53分に囮の役目を果たすべく再び南(南東方向)に向かった[106]
アメリカ側
24日夕方になり、栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡強行突破を危惧したハルゼー大将は、第38任務部隊の3個群から高速戦艦(6隻中5隻)を中核とする水上砲撃部隊を引き抜いてリー中将指揮の第34任務部隊が編成予定であることを全軍に知らせて準備を進めていたが、栗田艦隊の反転を作戦不能なほど損害を与えたためと判断し、戦果報告と栗田艦隊が壊滅して撤退していることを報告した。15時40分、第3群索敵機は小沢艦隊を発見し、16時40分に「空母4隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻」を報告[107]。また第3群は「ルソン島東方288kmに空母3隻、巡洋艦4-6隻、駆逐艦6隻、空母の1隻は伊勢級」と発信している[108]。ハルゼーはこれを日本軍の主力と判断し、栗田艦隊への攻撃を中止、小沢機動部隊攻撃のため、第34任務部隊を含む3個群を率いて北上した。なお、この時アメリカ側は日本側の作戦計画の基本となったと言われる新Z作戦計画文書を入手し、ハルゼーの幕僚はZ計画書類を分析していた[109]。しかし上記の敵情判断や主要参謀の注意が他に向いていたため、その内容が作戦行動に活かされることはなかった(詳細は海軍乙事件参照のこと)。
栗田艦隊は、上記のように再度反転していたが、ハルゼー大将は仮に再び栗田艦隊の残存艦(全艦損傷と報告された)がサンベルナルジノ海峡に迫っても第7艦隊が対処できると判断していたため[110]、栗田艦隊反転の知らせがきても集結と北上を続けた。その後、軽空母インディペンデンスの夜間索敵機が栗田艦隊が12ノットで東進している事を報告し、さらに「ここ数日点灯していなかったサンベルナルジノ海峡の灯台が、今に限ってなぜか点灯している」と決定的な報告をもたらしたが、いずれの報告もハルゼー大将の関心外であった。こうして、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡で待ち伏せに合うことなく通過し、レイテ湾を目指してサマール島東岸を南下した。

10月25日未明 スリガオ海峡海戦[編集]

スリガオ海峡海戦(赤:日本軍、黒:アメリカ軍)

10月22日15時30分にブルネイを出撃した西村艦隊は23日、スールー海に入りスリガオ海峡へ向かった。24日、西村艦隊も第38任務部隊第4群索敵隊に発見され、9時30分頃、「エンタープライズ」と「フランクリン」所属機約20機の空襲を受けた[111]。同時刻、ハルゼーは栗田艦隊発見の報に機動部隊第4群を北方に移動させ、西村艦隊にはキンケードの第7艦隊に対処させることを決定した[112]。このため、西村艦隊は空襲による損害を受けることはなかった。

栗田艦隊と西村艦隊はほぼ同時にレイテ湾に突入する予定であったが、栗田艦隊が一時反転したことにより予定より遅れた。同時に突入してアメリカ軍の邀撃戦力を分散するという計画は崩れたが、西村祥治中将は夜戦を企図し、西村艦隊単独でのレイテ湾突入を決断、20時13分付発信の電文にて、25日4時にドラグ沖突入の予定と栗田艦隊に通信を送った。ブルネイでの計画では25日5時半にスリガオ海峡の南口に到着する予定であったため、これは4時間も突入時刻を繰上げていることになる。しかし、この通信に対し、栗田艦隊や連合艦隊司令部からの返信はなかった。大和(第一戦隊)は第五艦隊電文(22時45分受信)として「第二遊撃部隊は0300スリガオ水道南口通過速力26ノットで突入予定」を記録している[113]。後述のように栗田、西村両艦隊の攻撃は計画とは違い調整を欠いたものとなったが、その原因は栗田艦隊側の遅延ばかりでなく、西村艦隊側の繰上げにもよっている。また、これにより志摩艦隊とは最期まで共同行動はおろか、共戦的な行動すらとることはなかった。25日午前1時、西村艦隊は「0130スリガオ海峡南口通過レイテ湾に突入、魚雷艇数隻を見たる外敵情不明」と発進し、栗田艦隊も午前2時に受信した[114]

一方、アメリカ軍第7艦隊司令長官のキンケイド中将は西村艦隊の接近を察知し、オルデンドルフ少将指揮の戦艦部隊を迎撃に投入した。オルデンドルフ少将は西村艦隊のルート上、レイテ湾南方のスリガオ海峡で待ち伏せを行うことにした[115]。その戦力は、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻と大きなものであった。マッカーサーは軽巡ナッシュビルで観戦することを望んだがこれは押し留められた。

24日22時36分、索敵中の米魚雷艇PT131が西村艦隊と接触、僚艇とともに交戦に突入。以後西村・志摩艦隊は魚雷艇隊の襲撃と触接追尾を受け続け、完全に動向を把握されていた。25日未明に、西村艦隊はスリガオ海峡に接近。栗田艦隊は西村艦隊の突入と魚雷艇による襲撃を知る[116]。1時48分、西村艦隊は北上を開始した。0時52分、米魚雷艇部隊は33本の魚雷を発射したが、1本が命中したのみだった[117]。2時25分、米魚雷艇は退避し、かわりに米駆逐艦部隊がディナガット島沿いに配置につく[117]。2時58分、西村艦隊がレイテ湾入り口にさしかかり、米駆逐艦部隊は日本艦隊を視認した。

3時、米第10駆逐艦隊は距離7500で魚雷15本を発射[118]。西村艦隊は米駆逐艦に照射砲撃をおこなったが命中せず[118]、3時8分から9分にかけて魚雷が命中した[118]。戦艦扶桑が駆逐艦メルヴィンの魚雷4本を受け右傾して停止[118]。停電と火災が発生して艦首から沈み始めた扶桑は左舷へ急転倒して大爆発を起こし、艦中央部は間もなく沈み、艦首と艦尾部分が漂流した。最初の攻撃に続き、駆逐艦「マクデルマット」、「モンセン」、「リメイ」が魚雷27本を発射[118]。駆逐艦山雲も轟沈し、駆逐艦満潮、朝雲も被雷し航行不能となった。戦艦山城にも駆逐艦モンセンの発射した魚雷1本が命中した。航行不能となった2隻の駆逐艦はその後撃沈された。西村艦隊は3隻になったが北上を続けた。3時23分、米駆逐隊第2小隊が魚雷14本を発射した。このうち1本が戦艦山城に命中。山城はさらに速力が低下したが、重巡最上、駆逐艦時雨と共に突進を続けた。3時40分、西村中将が山城から「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」と命令を下した。これが、旗艦の発した最期の命令となった。3時49分、米駆逐艦部隊に撤退命令が出る[119]。第56駆逐戦隊の駆逐艦アルバート・W・グラントが被弾した[119]

[[ファイル:Yamashiro Surigao Strait.jpg|left|thumb|250px|砲戦時の山城](24日の空襲時の写真との説もある)]

3時23分、米艦隊はレーダーで西村艦隊を捕捉した[120]。3時30分、西村艦隊は栗田艦隊(受信0415)に「山城被雷1、駆逐艦2隻被雷」を報告[121]。3時51分、米戦艦、米巡洋艦は「丁字陣形」で西村艦隊を迎え[122]、距離13500mでレーダー照射による砲撃を開始した。まず山城が被弾し、最上もレーダーが島影を敵艦影と誤認するなど役に立たず、両艦とも正面に見える砲撃の閃光を目標に反撃するしかなかった。大口径弾300発、小口径弾4,000発の砲撃を打ち込まれた艦隊は命中弾が相次いだ。山城は駆逐艦からの雷撃を受け速力が低下、その後火薬庫に引火、大爆発を起こした。この時、山城の艦橋が崩れ落ちたのが目撃されている。それでもなお山城は1、2番主砲から反撃の砲撃を行っていたのが米軍から確認されているが力尽き、右舷に傾斜、4時19分艦尾より転覆して沈没した[123]。最後尾にいた駆逐艦時雨は反転離脱した。扶桑の残骸は艦首部が4時20分頃沈み、艦尾部分が午前5時31分まで転覆したまま浮いていたとされる。軽巡洋艦ルイスビルが沈めたという[124]。最上は微速航行で戦場を脱出した。西村艦隊は駆逐艦時雨を残して壊滅状態に陥り、西村中将も戦死して、レイテ湾への突入は失敗した。

後に続き突入する筈だった志摩艦隊は西村艦隊の2時間後にスリガオ海峡に到着した。4時33分、パナオン島付近で魚雷艇隊の攻撃を受け、軽巡阿武隈が被雷した(魚雷艇PT137の雷撃)。志摩艦隊は戦闘序列で突入を開始したが、旗艦の那智最上を炎上停止した敵艦と誤認して転舵、8ノットで退避中の最上と衝突した。敵情不明のため志摩中将は突入を断念、海峡外で様子を見ることにして退避をはじめた。志摩艦隊は魚雷を発射したが命中せず、ヒブソン島の岸辺に打ち上げられた[124]。なお、アメリカ側では当時から今日に至るまで、西村・志摩艦隊を「二群に分かれた(統一指揮された)一つの艦隊」と誤認している。

4時9分、オルデンドルフ少将は同士討ち(軽巡洋艦デンバーが駆逐艦グラントを誤射)の報告を受けて、砲撃を中止させた[123]。巡洋艦と駆逐艦は残敵の掃討と救助活動をするべく南下を開始した。4時33分、米艦隊は志摩艦隊の接近を探知した。

当初は多数が海面を漂っていた生存者だが、多くが米軍の救助を拒否して自決、また近くの島に上陸した少数の生存者も丸腰だったためほとんどが原住民の襲撃により殺害され、生存者は沈没した全艦合わせて数十人だった。扶桑、山城共に戦後帰還した生存者が各10名いる以外はほとんど全員が戦死し、この両艦のみを見ても乗組員三千余名中生存者がたったの20名。まさしく全滅であった。米軍は魚雷艇1隻沈没、駆逐艦1隻損傷、魚雷艇9隻が損傷、37名が戦死し、114名が負傷した。

阿武隈の護衛に駆逐艦潮を派遣してマニラへ向かわせ、最上には駆逐艦曙を護衛にあたらせてコロン湾に避退するよう命じたが、最上はその後空襲を受け最終的に乗員の退艦後、曙の魚雷で処分され、翌日の11時28分、阿武隈もアメリカ陸軍機の空襲を受けて沈没した。志摩艦隊の本隊である、那智、足柄、霞、不知火は何度か空襲を受けたものの、損失艦はなしでコロン湾に到着した。不知火を栗田艦隊の駆逐艦早霜の救援に送ったが第38任務部隊の空襲で撃沈された。志摩の命令により「2戦隊全滅大破炎上」の報が発信されたのは4時49分であり、栗田艦隊では5時32分に受信した。

なお、スリガオ海峡海戦中の射撃回数については下記のようであった。

スリガオ海峡海戦後の残弾、各艦で発生したトラブルについては後述する。

また第十六戦隊(「鬼怒」「浦風」)は、輸送船団(第六、九、十、一○一、一○ニ輸送艦)と共に出撃[125]。25日15時45分にミンダナオ島カガヤンに到着して陸軍兵347名を載せる[59]。26日未明にオルモック港で揚搭後、コロン湾に向かった。10時20分から米軍機による波状攻撃を受け[126]、12時24分に「浦風」が沈没[127]。「鬼怒」は17時20分、戦死者83名と共にパナイ島北東で沈没した[128]

10月25日 エンガノ岬沖海戦[編集]

空襲を受ける日本空母
アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母瑞鶴(14時14分沈没)。

24日の14時39分、相次ぐ栗田艦隊の被害報告に小沢治三郎中将は小沢艦隊の存在をアメリカ軍第38任務部隊に明らかにするため、航空戦艦日向伊勢からなる松田千秋少将指揮の第四航空戦隊を基幹に前衛隊を編成して第38任務部隊に砲撃戦を試みるべく南下をはじめた[129]。16時過ぎ、艦隊は栗田艦隊のシブヤン海での反転が知らされてから間もなく第3群の偵察機に発見され、小沢艦隊は17時15分、味方部隊に対して触接を受けている旨を発信した。しかしこの電報は栗田艦隊に着電せず、栗田艦隊が受信したのは「前衛部隊は残敵を撃滅せんとす」の電文である。

アメリカ海軍第3艦隊はその晩の集計により栗田艦隊へ壊滅的な打撃を与えたと判断し、漸く発見した空母機動部隊である小沢艦隊を攻撃するため、日没から深夜にかけてサンベルナルジノ海峡、レイテ島沖から集結して全速力で北上をはじめた。この時ハルゼー大将自ら第34任務部隊(高速戦艦6隻)を率いて先行し、空からだけでなく砲戦を挑んで徹底した攻撃することを目指した。第3艦隊はマリアナ沖海戦空母大鳳翔鶴が沈んだことを知らず、この機会に日本軍空母を全滅させようと試みたのである[130]。一方小沢中将はアメリカ軍の偵察機に発見されたことから、25日は空襲を受けると判断し、17時10分に連合艦隊から「天佑を確信し、全軍突撃せよ」との電文を受け取っていたことから、栗田艦隊も予定通り進撃を続けていると考えていた。小沢中将は艦隊を本隊と松田少将の指揮する支隊の2隊に分け、南東に向け進路を取っていた。しかし、20時頃、16時に栗田艦隊が発信した反転避退の電文が着電した。小沢艦隊司令部は連合艦隊からの突撃命令を受信していたことから栗田艦隊もこの命令で再反転していると予想したが、反転避退のために突入の時間がずれ、両艦隊の連携が上手くいかないと考えた。そのため、小沢艦隊は一旦北上を行い、前衛部隊を呼び戻した[131]

小沢艦隊は25日7時12分に第38任務部隊の偵察機を発見し、錬度不十分なため戦力とならない艦載機を直衛用の戦闘機18機を除き残存機を陸上へ退避させ(爆装零戦5機、彗星1機、天山4機[132])、さらに囮任務を果たすため北上した。小沢艦隊は、空母瑞鶴軽空母瑞鳳、航空戦艦伊勢、軽巡洋艦大淀駆逐艦4隻の第1群と、軽空母千歳、軽空母千代田、航空戦艦日向、軽巡洋艦多摩、軽巡洋艦五十鈴、駆逐艦4隻からなる第2群に分かれていた[133]。8時15分、第1次攻撃隊180機が小沢艦隊に来襲した。千歳と駆逐艦秋月が被爆沈没。多摩は魚雷1本が命中、大破して速力18ノット[134]。瑞鶴も被雷して速度が低下し、通信機が損傷したため囮成功を知らせる電報が打てなかった。さらに、10時ごろ第2次攻撃隊36機が来襲した。この攻撃で千代田が被爆、大破炎上して航行不能になった。10時51分、小沢中将は旗艦を大淀に移し、連合艦隊司令部と栗田中将宛てに、「大淀に移乗して作戦を続行」と打電した。12時31分にも空襲を受けて被害が出ていることを大淀から知らせた。

10時過ぎにハワイの太平洋艦隊長官ニミッツ大将から、「第34任務部隊はどこか。全世界は知らんと欲す」と電報を受信し、ハルゼー大将はこの電報に激怒した。11時15分、ハルゼー大将は小沢機動部隊の残存艦に迫っていた第34任務部隊と第38任務部隊の第2群を率いて、レイテ島沖に引き返した。残った2個群にミッチャー中将指揮下で攻撃を続けさせ、第34任務部隊からローレンス・デュボーズ少将指揮の重巡洋艦2隻と軽巡洋艦2隻、その護衛の駆逐艦を引き抜いて巡洋艦部隊を編成して同様に追撃を続行させた。ハルゼー大将はニミッツ大将とキンケイド中将に、「レイテ沖に向けて急進中」と返答を送った。

13時過ぎ、ミッチャー中将に指揮が移った2個群から発進した第3次攻撃隊約200機が来襲、瑞鶴と瑞鳳が被爆被雷し、14時14分に瑞鶴は沈没した。14時20分、五十鈴も被弾して操舵不能となった[135]。15時過ぎになると第4波の約30機が小沢本隊を攻撃し、15時27分、瑞鳳が沈没した。航行不能になっていた千代田も第38任務部隊から分派されたデュボーズ少将指揮の巡洋艦部隊の攻撃で16時55分に撃沈され、小沢機動部隊は空母4隻全てを失った。17時過ぎには第5波と第6波の第4次攻撃隊約150機が来襲、残存艦艇の中で大型目標となった伊勢と日向に攻撃が集中された。しかし、両艦は艦長の巧みな操艦による回避運動と増備されて間もない12cm30連装噴進砲を含む強力な対空射撃により米軍機の攻撃を回避し、多くの至近弾を受けつつも大きな損傷は免れた[136]。ハルゼー大将の反転命令によって多摩を含む損傷艦は復旧と救助活動のための時間を獲得した。

18時半ごろ、小沢本隊と松田支隊は合同した。瑞鶴の護衛についていた駆逐艦若月、駆逐艦初月、駆逐艦桑は救助を続けていたが、五十鈴が千代田を曳航するため引き返してきたので3艦は合同[137]。五十鈴は初月に千代田の消息を尋ねたが判明しなかったので燃料不足を理由に捜索と所在確認を依頼した。19時25分、追撃してきたデュボーズ部隊と遭遇し、小沢中将に敵艦隊の発見と千代田の捜索中止を知らせた。五十鈴と若月は煙幕を展張し直ちに反転、撤退したが、初月は煙幕を展開するとそのまま戦闘に突入したと見られ[138]、単艦で重巡2(ウィチタニューオーリンズ )、軽巡2、駆逐艦9の13隻を相手をすることとなった。米軍記録18時53分、初月は魚雷発射体制をとり、米艦隊に回避運動をとらせて逃走した[139]。米軍記録19時15分、米艦隊は再び初月を捕捉し、5500mから射撃を開始。20時59分、爆発を起こして沈没した[139]。この奮闘により五十鈴と若月は戦場を離脱できたが、初月乗組員の生存者はいなかった。一方で、瑞鶴乗組員を救助中だった初月搭載内火艇が戦闘開始時に取り残され、これに乗っていた乗組員は生還している。

小沢中将は初月と米艦隊の交戦報告を受けて、艦隊に南下を命じたが時間を要した(ほとんどの艦が損傷していたためとされる)。また、急行途上に若月より戦艦2隻を含む艦隊と報告を受けたので、ハルゼー大将指揮の高速水上砲撃部隊と誤認、南下を続けた。しかし、デュボーズ部隊がミッチャー中将指揮の2個群と合流するため撤退したので遭遇できず、燃料も残り少なく、再び北へ反転、撤退した。大破した多摩は単艦で退避中に米潜水艦ジャラオ (USS Jallao, SS-368) の雷撃を受け23時5分に沈没。この艦も単艦での沈没のため生存者は一人もいなかった。

翌日の26日の夕方、五十鈴が沖縄南東部の中城湾に、29日の深夜、日向、伊勢、大淀、駆逐艦霜月、若月、駆逐艦槇が呉に帰港。

小沢艦隊は24日に行われた栗田艦隊への攻撃を自艦隊に引きつけることは出来なかったが、25日は第38任務部隊の牽制に成功し、後の目から見れば栗田艦隊は戦艦部隊によるレイテ湾突入を第38機動部隊2~4群の阻止攻撃から開放されていた。さらに、「空母3-4隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦1隻撃沈」という栗田艦隊からの戦果報告を受取る[140]。しかし、25日22時10分、栗田中将から夜戦の見込みがないと湾内への突入失敗を知らされた。なお、当時大和に通信仕官として乗り組んでいた都竹卓郎が戦後著した本によれば、野村實が1980年に出した本に軍令部はずっと空母4隻は健在と考え、及川総長の27日朝の戦況奏上でもその旨申し上げていた処、28日の奄美大島帰着後初めて事実が判ったと書かれていると言う。これについて、近年の研究では、空母4隻の沈没を軍令部が知ったのは27日正午に小澤中将が奄美大島に帰投してからであり、当日中に参謀本部へも伝えられていたことが明らかにされている[141]

10月25日 サマール沖海戦[編集]

サマール沖海戦(赤:日本軍、黒:アメリカ軍)
被弾して炎上する米空母ガンビア・ベイ

反転後、再びレイテ湾を目指していた栗田艦隊は、アメリカ軍第38任務部隊による妨害を受けずに、25日0時30分サンベルナルジノ海峡を通過、サマール島沖に差し掛かっていた。この時点での栗田艦隊の勢力は戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻であった。6時23分、大和はレーダーで敵機を探知し、栗田艦隊は対空戦闘に備えた陣形をとりはじめた[142]。6時30分、索敵隊形の左翼先頭にいた矢矧が水平線上のマストを発見し、大和に通報した[143]。ただし各艦戦闘詳報や艦橋勤務員の手記に記録なし。6時45-48分、大和が35km先にマストを確認した[144]。それはサマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(コードネーム"タフィ3")であった。栗田艦隊はこれを正規空母6隻、すなわちアメリカ軍の主力機動部隊と誤認[145][146]、6時57分攻撃を開始した。栗田は巡洋艦部隊である第五、七戦隊に突撃を命じ、水雷戦隊には後続を命じた[145][147]。なお、第一戦隊(大和、長門)の戦闘指揮は栗田ではなく宇垣がとった[148]

20日の上陸以来、第77任務部隊の護衛空母群は計画通り支援任務に徹し、まともな敵の攻撃を受けてこなかったが、24日になると多数の日本軍機がレイテ湾に飛来してきた。また3つの日本艦隊が報告されており、25日は敵艦隊への攻撃で多忙を極めることは予想されていた。深夜には西村艦隊の接近が報じられたが、栗田艦隊の動静について音沙汰はなかった。6時半、第3集団(タフィ3)の艦船は警戒を解除し、第3種警戒(通常配置)に移ってよいとの指示を受けた。栗田艦隊の発見は米側記録によるとその直後の6時41分の航空機によるものであり、数分後には総員戦闘配置が発令されている。やがて各艦のレーダースコープにも大艦隊が映し出された。第3集団(タフィ3)の各艦は混乱しながらもこれに対応、砲撃を回避しつつ初動の30分あまりで既に発艦していたものを合わせ100機弱の航空機を発艦させている。これら艦載機は栗田艦隊攻撃の後、主に米軍占領下のタクロバン飛行場に着陸、一部は燃料弾薬を補給して反転避退する栗田艦隊を再攻撃した。宇垣の『戦藻録』には「30機あまり発進したと見え」とあり、都竹も同様の感想を抱いていた。都竹は戦後に記録を見て本当の機数を知り、驚いたと言う。

7時10分、夾叉され続けていた護衛空母カリニン・ベイが、最初の直撃弾を受けた。一方、砲撃を受けていたスプレイグ少将は救援を求めたが、第3艦隊も第7艦隊の他の部隊もすぐに救援にいける状態ではなかった。ハルゼー大将は休養と補給中の第38任務部隊第1群を救援に向かわせ、自らは北方の小沢機動部隊へ攻撃を続けた[149]。キンケイド中将はスリガオ海峡のオルデンドルフ艦隊と志摩艦隊を追っていた巡洋艦部隊を集結して補給を急いだ。そして、第4群全体の指揮官であるトーマス・L・スプレイグ少将に対しては避退を明確に禁じ、暗に時間稼ぎの捨て駒になれと命じた。

スプレイグ少将指揮下の米駆逐艦は少しでも時間を稼ぐべく栗田艦隊に肉薄し、魚雷を発射した。第一戦隊(大和、長門、榛名)は米艦隊と反対方向に緊急一斉回頭したが米魚雷の速度が遅いためにやり過ごせず、戦場から遠ざかった。特に大和は7時54分から約10分間も魚雷と同航することになり、米艦隊との距離が開く[150]。第一戦隊は再び追跡を開始したが、8時20分に新たな正規空母3隻を発見し、榛名に追撃を命じた[151][152]。榛名は大和と長門から離れた。この時点で、栗田艦隊は正規空母9隻と交戦していると考えている[81]

一方日本軍巡洋艦部隊は、米空母から発進した艦載機の攻撃で無視できない被害を出した。第七戦隊では7時24分、熊野が駆逐艦の雷撃を艦首に受けて落伍し[153]、鈴谷も被弾して三軸運転となり落伍した[154]。第五戦隊では8時50分に鳥海が被爆して落伍、8時53分に筑摩が被雷して航行不能となった[155]。大和も漂流する筑摩と鳥海を確認した[152]。残る羽黒と利根は米護衛空母群への攻撃を続行する。羽黒は、正規空母1隻撃沈を報告したのち、二番砲塔に直撃弾を受けた[156]。水雷戦隊では8時53分、矢矧が第十戦隊に米空母への雷撃命令を出す。直後、米駆逐艦の砲撃と米戦闘機の銃撃で矢矧は艦橋人員を中心に被害を出し、矢矧の水雷長も負傷した[157]。9時3分、矢矧は魚雷7本(1本は機銃掃射で不発)を発射、従う第十七駆逐隊も魚雷20本を発射。9時25分、木村進少将は栗田長官に「エンタープライズ型(正規空母)1隻撃沈、大破1隻(撃沈殆んど確実)、駆逐艦3隻」と報告した[158]。十分な戦果をあげた(と思った)第十戦隊は本隊の合流命令に従って転針した[159]。大和では、9時10分に矢矧の突撃命令を傍受(第一戦隊戦闘詳報では、8時56分)。これを機に艦隊司令部は局面収拾を考慮し、9時12分に「反転・集結」を中波、隊内電話で伝えた[160]。宇垣は「やめるのか」と腰を浮かせかけたが、「命令なら仕方ない」とつぶやいた[152]。第七戦隊は新たに米空母5隻を発見し司令部に報告したが、かさねて司令部より「集まれ」の命令をうけ、追撃を打ちきり反転した[161]

結局栗田艦隊がおこなった約2時間の攻撃で、第3集団(タフィ3)は護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン (USS Johnston, DD-557) 、ホーエル (USS Hoel, DD-533)、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413) が沈没し、他の護衛空母はファンショウ・ベイが20cm砲弾4発被弾、カリニン・ベイが20cm砲弾13発、キトカン・ベイホワイト・プレインズが至近弾を受けて損傷したに留まった[162]。ただし栗田艦隊は、戦艦の砲撃で撃沈・正規空母1隻、重巡洋艦1隻、大型駆逐艦1隻、撃破空母2隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻[163]。第十戦隊が正規空母2隻・駆逐艦3隻撃沈[164]したと誤認している。また西村艦隊の得た戦果を、撃沈空母3、巡洋艦3、駆逐艦4、撃破空母2、巡洋艦または駆逐艦2 - 3と判断していた。小沢艦隊も空母1撃沈、空母1撃破の戦果があったとしている[165]。この理由は概ね下記に纏められる。

  • 第3集団(タフィ3)の各護衛空母がスコールを利用して度々姿を晦ましたこと
  • 「一度砲弾が落ちた所には、二度は落ちない」という、着弾修正を逆用した兵隊古来のジンクスにすがって懸命に回避運動をおこなったこと
  • 各艦が煙幕を展開し駆逐艦が進路妨害のため雷撃をおこなったこと[166][167][168]
  • 航空機が弾切れとなったにもかかわらず投弾のフェイントをおこなったり機銃掃射まで行って阻止行動に出たこと[169][170]
  • 矢矧と、同艦に従う第十七駆逐隊が米空母に接近せず遠距離雷撃を行ったこと。

一方、栗田艦隊では第3集団(タフィ3)の航空隊や駆逐艦、それに他の護衛空母群からの攻撃機などにより主に重巡洋艦が攻撃を受けた。

第3集団(タフィ3)の艦載機が半ば空中退避を兼ねた、おっとり刀的発艦であったのに対し、第2集団(タフィ2)の護衛空母6隻から8時30分頃までに発艦した79機は、魚雷49本、500ポンド爆弾133発、100ポンド爆弾、ロケット弾各200発以上の本格的な艦船攻撃装備を整えており、主として空母に接近していた重巡に攻撃を浴びせた。その戦果は筑摩に対するものだけだが、かなりの誇大報告がなされた。その他の阻止攻撃を含め鈴谷は至近弾で速力が低下した。鳥海は爆弾が1発命中し航行不能となり、筑摩も魚雷が1本命中して舵を損傷、航行不能に陥った。熊野は駆逐艦ジョンストンの雷撃により落伍し、羽黒も爆撃により第二主砲搭を失ったが、誘爆と火災は防げた[171][172]。水雷部隊を率いていた矢矧も駆逐艦の砲撃と空襲で50名近い死傷者を出した[173]

栗田艦隊の北上[編集]

9時11分、栗田中将は分散しきった艦隊に集合を命じた。各隊・各艦は司令部に対し、米空母9隻が健在であると報告した[174]。11時20分、栗田艦隊は「我地点ヤヒマ37針路南西レイテ泊地へ向かう。北東30浬に空母を含む機動部隊及び南東60浬に大部隊あり」[175]としてレイテ湾への進撃を再開したが、11時前に南西方面艦隊から栗田艦隊の北100kmの地点「ヤキ1カ」に機動部隊が存在するという電文が届いた。この戦いでの栗田艦隊通算3回目の艦隊針路反転、これが今日まで議論が続くいわゆる「栗田艦隊謎の反転問題」の始まりである。

12時36分、栗田艦隊は「1YBはレイテ突入を止め敵機動部隊を求め決戦」と無電し、敵機動部隊を求めて北上を開始した[176]。しかしその位置に機動部隊は存在せず、この点は戦後論議の対象となった(詳細は下記)。栗田艦隊は13時に再び反転した。米軍は、栗田艦隊が行動を決しかねて周辺海域を旋回していると観察している[177]。この間、護衛空母群の空襲を受けて、鈴谷が魚雷誘爆で航行不能後、13時22分に沈没[178]。利根も爆弾直撃と至近弾で速力低下をきたした[178]

栗田艦隊のレイテ湾突入意思の喪失が何時起こったかは諸説あるが、最も遅い時点での解釈を採用してもこの時をもって完全に撤退行動に入っている。一般的に伝えられる話としては、最初に反転を進言したのは大谷作戦参謀であり、それを受けて山本先任参謀が栗田長官に伝えた。栗田は自分ひとりで決定したと伊藤正徳に述べたが(詳しくは後述)[179]、小柳は参謀会議を開いて全員一致で決定したと戦略爆撃調査団に陳述している[180](一般的な決定経過は原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』など多くの書籍に記されている。その議論の詳細は下記)。

小柳の戦略爆撃調査団に語った陳述によれば、反転した理由は下記の6点に纏められる。

  1. 志摩艦隊から西村艦隊の全滅を知らされたこと
  2. 栗田艦隊のレイテ湾接近が大幅に遅延したこと
  3. 米空母から発信されたと思われる増援要請の電話傍受により2時間後に航空機が飛来すると予想されたこと
  4. 空母機にレイテ島の野戦基地に着陸するよう命じた電話の傍受により基地機との共同攻撃が予想されたこと
  5. 別の機動部隊が北方から接近すると考えられたこと
  6. レイテで戦闘を継続した場合、更に多量の燃料を消費すると予想されたこと

当時大和に通信士官として乗り組んでいた都竹卓郎によれば反転北上の頃に栗田艦隊など日本海軍でイメージされていたのは次のような態勢であった。つまり敵機動部隊は北、中央、南の3群に分かれ、南方群が明け方栗田艦隊と交戦、中央群は南方群救援のため南下を開始、昼過ぎから栗田艦隊に攻撃を加えており、また中央群から分かれた北方群が、小沢艦隊に向かいつつあるという構図である。例えば偵察情報だけでも、呉に在泊していた第6艦隊旗艦筑紫丸には、空母を含む大部隊が9時0分、ヤキ1カに近い地点ヤンメ55を南下中との偵察情報が入り、11時37分に配下の潜水艦宛に打電している。ただし都竹はこの情報が大和に届いたか記憶していない。 また、駆逐艦は燃料が極度に不足していた(後述のように撤退時5隻を分離する)。また湾口のスルアン水道通過についても機雷堰が設けられていると推測されており、難題であった。また、上述のイメージがあったため反転北上の報告を聞いた伊藤整一軍令部次長は即座に「それは却って危険だ」とコメントしたと言う。

一方で栗田艦隊の攻撃から解放された米軍のスプレイグ少将は「栗田が反転を決めた理由は単純で、栗田は被害がこのままずっと続くかもしれないと恐れただけなのだ」と見なしていた[181]。その後第3集団も他の護衛空母群と共に特攻機の攻撃を受けた(後述)。他部隊も日本軍の迎撃に追われていたため、沈没艦の溺者救助には時間を要し27日まで待たなければならなかった。第3集団の戦死者は約1200人、負傷者は800人、飛行機の損失は100機であった。

サマール沖海戦に於ける大和の砲撃戦果について[編集]

なお、「戦艦大和は遠距離砲撃の初弾を、護衛空母ガンビア・ベイの飛行甲板に直撃させる神業を見せた」という俗説があるが、後世の者による事実誤認であり、艦も異なる[182]

実際にガンビア・ベイが飛行甲板の右舷艦尾に最初の直撃弾を受けたのは、かなり遅れた8時10分のことであった(大和の砲撃かどうかは不明)。一方、ガンビア・ベイについては戦後この艦をテーマとした本『空母ガムビアベイ』が出版、邦訳され、その中で乗組員が「大和が火を吐いていた」のを目撃し、その後同艦を狙った砲弾が「隔壁に穴」を空けるのを目撃した旨の記述は存在するが、初弾ではなかった。[183]。第一戦隊戦闘詳報には7時28分に「敵巡に対し主砲射撃開始、我大巡を撃沈す」[184]、7時38分にも「我空母1隻を轟沈せり」とある[185]

命中弾の有無は別にして、都竹によれば当の米海軍側の史料には、「極めて優秀な射撃であった」、「砲術科士官が望み得る最高の弾着」といった評言[要出典]が記されているという。また都竹は日本側の評論家による批判のうち砲弾数と命中弾数で単純に割った例を示した後、次のように評した。

戦後、相手が正規の機動部隊ではなく、いわばマイナー・リーグ級の弱敵と判ったことが妙な先入観となって、戦史研究家を自任する一部「有識者」が、日本海軍の砲術技量そのものにまで、底意地の悪い疑いの目を向けているが、海洋という2次元面上での視界と気象の関係とか、1発必中方式ではない公算射撃の仕組みも、皆目弁えぬ素人談議でどうも戴けない。

都竹卓郎、「大和」艦橋から見たレイテ海戦(2)」『なにわ会ニュース』98号

他方、米軍の報告書では否定的な記述がみられる。駆逐艦ホエールからのコメント「敵の水上射撃は我々の海軍の水準より著しく劣るように見受けられる。」、空母カリーニン・ベイからのコメント「斉射の距離測定は正確だったが偏差測定は不正確であった。」[186]。明確に命中率が分かる例として、サマール沖海戦に参加した利根が挙げられる。利根は408発の主砲弾を発射。うち7発を敵艦に命中させており、1.7%の命中率である。全力で避弾運動する艦艇に対する射撃では命中率が訓練時の1/10程度に落ちることが知られており、1.7%の命中率はかなり高い命中率である。 また、サマール沖海戦に於ける日本艦の砲撃はほぼ全艦が電測射撃(レーダー射撃)をおこなったことでも知られる。 昭和18年の横須賀海軍砲術学校における研究成果により、日本の電波探信儀であっても、測距儀を用いた射撃や、アメリカのレーダー射撃と遜色ない射撃が出来たとされている。ただし大規模な水上戦砲戦はこの海戦が最後であり、その技術は自衛隊が出来る迄活用されることはなかった。

第3艦隊の追撃と栗田艦隊の撤退行動[編集]

9時20分頃、ハルゼー大将にキンケイド中将から二度目の高速戦艦・機動部隊派遣の要請と、栗田艦隊の兵力、オルデンドルフ艦隊の弾薬欠乏が知らされた。ハルゼーは第1群を送ったこと、第34任務部隊は北方の小沢機動部隊を追って前進中であることを返電し、その後9時55分に第2群に反転を命じ、10時15分に自ら率いる第34任務部隊も反転した。リーは当初20ノットでの航進を命じたが、高速の機動を繰り返していたため第34任務部隊は小型艦の燃料に支障をきたし、12時から12ノットに減速して給油を行なった。給油は15時22分に完了し、ハルゼー大将は第7戦艦戦隊の戦艦2隻(ニュージャージー、アイオワ)、第14巡洋艦戦隊の軽巡3隻、他駆逐艦8隻を抽出して第34任務部隊第5群を臨時に編成、アイオワに座乗するバッジャ少将を指揮官に命じ、リーの本隊はこの後詰という形になった[187]

一方、栗田艦隊は反転後、第1群の攻撃隊100機や、タクロバン飛行場で補給した護衛空母群の攻撃隊などに数度にわたる空襲を受けた。第1群の攻撃隊はアメリカ海軍史上最長の600km近い距離を飛行して参陣したものであり、攻撃後タクロバンに強行着陸した機体などもあった。これにより駆逐艦早霜が損傷し、結局レイテ湾への突入は断念し、北上を続けてサンベルナルジノ海峡へ向かった。この間、日本軍機による栗田艦隊の艦船への誤爆も発生した[188]。利根は艦隊に復帰したものの、19時15分に栗田中将は落伍した艦とその護衛の駆逐艦に、自力航行できない艦は処分してコロン湾に向かうように指示を出し、航行不能な筑摩と鳥海は修理が完了せず、筑摩は自沈、鳥海は駆逐艦藤波の魚雷で処分された。

ハルゼーは16時1分に速力28ノットを命じ続いて夜戦準備を下令、26日1時に海峡に到達することを予告した。第2群には東方海上で待機し航空機による支援体制を整えた。これによってバッジャの第5群は撤退しつつある栗田艦隊を追ったものの、栗田艦隊は21時5分頃に海峡を通過しており、第34任務部隊第5群との時間差は3時間あった。

第34任務部隊第5群は26日0時54分、筑摩の乗組員救助を命じられ避退が遅れていた野分と会敵し、1時35分これを撃沈したが、栗田艦隊主力の捕捉には失敗した。野分沈没により同艦に乗っていた100名を超す筑摩生存者も野分乗組員とともに全員戦死した。結局、野分に救助されずに漂流後米軍に救助された一名のみが、生還した3機(2機は不時着放棄)の筑摩水上偵察機搭乗員をのぞけば唯一の生存者であった[189][190]

夜間にサンベルナルジノ海峡東方沖へ集結した第1群と第2群は払暁前に偵察機を発進、ミンドロ島南の海域で栗田艦隊は発見され、日の出と同時に攻撃隊が発進した。この空襲で能代が沈没、熊野、早霜が損傷し、大和にも2発の直撃弾が命中した。無人島に仮泊した早霜は続く空襲で擱座した。翌27日には早霜の救援に向かった藤波も撃沈され、乗組員全員戦死した。またこれにより藤波に救助されていた鳥海乗組員も全員戦死。従って鳥海は乗組員全員が戦死してしまったため鳥海の最期の戦闘がどのようなものかは現在に至るも不明である。

栗田艦隊は28日21時30分、ブルネイに帰投し、萬栄丸、八紘丸、雄鳳丸から一週間ぶりの給油を受けた。各艦の燃料は枯渇しかけており、戦艦は188~1300トン、巡洋艦では40~190トン、駆逐艦では100~150トンだったとされる[191]

神風特別攻撃隊の初出撃[編集]

[[ファイル:USS White Plains attack by Tokkotai unit 25.10.1945 kk1a.jpg|200px|thumb|1944年10月25日、護衛空母「ホワイト・プレーンズ」に肉迫する第1神風特別攻撃隊「敷島隊」の零戦。この直後、対空砲火によって右翼に被弾、撃墜された。]]

機の突入により轟沈しつつある米護衛空母セント・ロー。太平洋戦争の初めての特攻による米艦の撃沈。

レイテ沖海戦から「統率の外道」と最初の"発令者"第一航空艦隊司令長官大西中将("発案者"は軍令部との説が有力)自らが呼んだ、神風特別攻撃隊通称「特攻隊」とよばれる、航空機による体当たり攻撃が実施された。これは台湾沖航空戦により稼動機数が僅か零戦30機程度にまで激減した航空戦力で栗田艦隊のレイテ湾突入援護を行わなければならなかった大西中将が、苦肉の策として発令したものである。人事及び機材改造など準備に時間がかかることから、作戦の一つとして元々軍令部が準備していたことは疑いないが、どのようにして大西中将が特攻戦術導入に至ったのか(彼は元々特攻反対論者であった)等は、彼が終戦直後に何も語らずに自決したことにより未だに謎に包まれている。尚、陸軍は富永恭次中将を司令官とする部隊が"万朶隊"及び"富嶽隊"の2隊を特別攻撃隊として出撃させているが、これは海戦後の11月に入ってからのことであり、海戦時は実行部隊は未だ内地で編成中であった。

21日朝、海軍の神風特別攻撃隊は各地から出撃した。しかし天候不良などで会敵出来ず、24日まで3回出撃して帰還している。そして25日、4度目の出撃が行われ8時ごろダバオを出撃した部隊はレイテ湾の南で第77任務部隊第4群第1集団(コードネーム"タフィ1")の護衛空母群を発見しこれに突入した。護衛空母サンティースワニーに特攻機が命中し損傷した。10時45分、栗田艦隊の攻撃を受けた直後の"タフィ3"(第77任務部隊第4群第3集団)の護衛空母群にマバラカットを出撃した関行男大尉率いる零戦五機から成る「敷島隊」が突入した。護衛空母セント・ローに特攻機1機(一説には2機)が命中し、爆弾、魚雷の誘爆でセント・ローは沈没した。1時間後、再び"タフィ3"にセブを出撃した部隊が突入、護衛空母カリニン・ベイに特攻機が命中した。また第38任務部隊第2群の空母イントレピッドが特攻機の命中で小破した。

この攻撃により護衛空母1隻を撃沈、3隻を撃破したが、これを日本海軍は正規空母の撃沈破と誤認。特攻の威力を過大視した日本軍は終戦までこの戦法を正規の戦術として作戦展開していくこととなる。こうしてタフィ1は大損害を受けて撤退し、かわりに第38任務部隊第4群が護衛にあたった。この艦隊も特攻機に攻撃され、29日に空母フランクリン、軽空母ベロー・ウッドが大破して避退した。

結果とその後[編集]

日本軍は、作戦本来の目的である輸送船団の撃滅および米国のフィリピン奪還阻止を達成できなかった。

日本軍はアメリカ軍に一応の損害を与えることはできたものの、与えた損害をはるかに上回る損害を被った。しかし、10月27日に大本営海軍部はレイテ沖海戦の戦果を、「空母 撃沈8隻 撃破7隻、戦艦 撃破1隻、巡洋艦 撃沈3隻 撃破2隻、航空機撃墜 約500機、・・・・」と発表した。この誇大戦果は先の台湾沖航空戦の誇大戦果と合わせてますます日本側の状況判断を誤らせることになった[192]。日本軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、残存艦艇は燃料のない本土と燃料はあっても本格的な修理改装のできない南方とに分断され、組織的攻撃能力を失った。さらに本海戦後、戦艦金剛が本土への帰航中に米潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS-315) に雷撃されて沈没、また損傷してマニラに避退していた重巡那智も空母レキシントン(CV-16)の空襲を受けて沈没している。

この海戦の直後、軍令部では、特攻機と護衛機を積んだ雲龍型航空母艦と駆逐艦で機動部隊を編成し、再びレイテ沖に殴りこむという「神武作戦」計画が企画されたが、実行されなかった。

ウルシー環礁に帰還したアメリカの第38任務部隊(1944年12月)

アメリカ軍に大損害を与えたと考えた日本軍はレイテ地上戦に突き進むことになり、多号作戦と呼ばれるレイテ島への兵員・物資の輸送作戦をおこなった。9次にわたるこの輸送作戦でも、日本軍は軽巡鬼怒以下多くの艦艇を喪失した。レイテ島を制圧したアメリカ軍は12月15日にミンドロ島に上陸、そして1945年1月9日ルソン島リンガエン湾へ上陸した。ただし、一連の戦いでの抵抗が予想より大きかったため、ルソンへの進攻は2週間遅らされた。なお、アメリカ軍統合参謀本部は10月3日に陸軍はルソン島、海軍は沖縄を目指して攻略する決定を下し、レイテ島以降の攻略予定についての論争は終わった。

海戦への評価[編集]

概要[編集]

アメリカ側
第3艦隊はこの海戦の途中から日本側の作戦通り、囮である小沢艦隊を求めて北上、栗田艦隊の侵入を許し、急遽南下したもののその完全な撃破にも失敗した。
ハルゼーは24日夜の段階では栗田艦隊を撃破し退却させたと思い込んでいたが、戦いの後「明確な意図を持って進む強力な水上戦力を、航空攻撃によってのみ阻止するのは困難」と発言し、自身の正しさについて弁明した。戦後は回顧録の中でキンケイドを批判したため、怒ったキンケイドがそれに反論、それに乗っかった「野次馬」の間で、レイテ沖でのハルゼーの取った行動の是非を問う論争が勃発した。なお、ニミッツは上記のように海戦前ハルゼーに日本艦隊を叩くように指示を出していた。論争に疲れたハルゼーは、「レイテ沖はスプルーアンスが、フィリピン海海戦は俺が指揮を執ればよかったのだ」と一言漏らしていたという。
アメリカ側ではこの件に関しての議論が多くなされる。問題の一つには、第3艦隊が多様な任務を要求され、目的が不明確になったことがあった。カール・ソルバーグに拠ればキングは厳格に指揮権を分割されたことに責任を感じたため、ニミッツは「全世界は知らんと欲す」により第3艦隊を栗田艦隊への無意味な追撃戦に差し向けた責任からか、戦後は目立った発言がなかったのだと推測している。キンケイドは第7艦隊の基本的な任務である両用作戦の護衛と支援に意識が集中しており、当時第3艦隊がサン・ナルベルナジノ海峡を封鎖していると思い込んでいた。他の将官と異なり、回顧録の類は書かなかった。
マッカーサーは、捷一号作戦の着想の巧みさを認め、アメリカ側の問題として同一作戦の指揮系統の分断、通信不達・遅延を指摘、その責任はワシントンにあるとし、作戦における海軍側の最高指揮官であったニミッツには第7艦隊の奮戦に対する感謝の言葉を述べた(マッカーサー大戦回顧録[下])。
「全世界は知らんと欲す」
アメリカ第7艦隊の護衛空母群の1つ(タフィ3)がサマール沖で栗田艦隊に攻撃されて危機に陥ったとき、第7艦隊の司令長官キンケイドはハルゼーが指揮する第3艦隊に救援を求めた。このとき第3艦隊は小澤艦隊がいる北方に向かっており、戦艦・巡洋艦・駆逐艦で編成された第34任務部隊もその中にあり、ハルゼーは戦艦に乗艦していた。この救援要請はハワイの太平洋艦隊司令長官のニミッツにも届き、ニミッツは「第34任務部隊の位置を知らせよ(where is Task Force Thirty Four?)」とハルゼーに訊ねるように指示した。通信文を暗号化するときは本文の前後に意味を持たない字句(挿入句)を加えることがルールになっていたため、暗号担当の海軍少尉は前の挿入句に「七面鳥は水辺に急ぐ(turkey trots to water)」、後ろの挿入句に「全世界は知らんと欲す(The world wonders)」を加えた。この前後の挿入句は受信側で取り除くことになっていて、受信した第34任務部隊の各艦船は正しく取り除いたが、ハルゼーが乗艦していた戦艦ニュージャージーの通信員だけは後ろの挿入句を取り除かなかった。このため、ハルゼーに届いたニミッツの電報は非難または侮辱ともとれる「第34任務部隊はどこにいるのか。全世界は知らんと欲す」となった。ハルゼーはこの電報を読んで怒り悲しみ、受信から1時間後に戦艦部隊に反転して南に向かうよう命令した。
多数の艦船が戦闘に参加したこの海戦で、ハルゼーの戦艦部隊は北へ300マイル進んだ後、南へ300マイル疾走し、戦果は栗田艦隊の中で撤退が遅れていた駆逐艦1隻を撃沈したのみであった。この北と南への疾走は後にブルズ・ラン(「Bull's Run」、ブルはハルゼーのニックネーム)と呼ばれ一部から批判された[193][194]。この件は後に調査が行われ、本文とまぎらわしい挿入句を付加した海軍少尉は「もっと重要でない部署」へ転属となった[195]
日本側
敗北した日本では戦後、多くの議論がなされてきたことが出版の記録から明らかである。日本側では議論のほとんどは栗田艦隊の行動に集中しており、戦後は擁護、批判、中間的意見など様々な見解が交互に披瀝されてきたと言える。また歴史観や実証性に関わる問題として、弾薬問題、当時の現場指揮官の状況認識については現在でも新資料に光が当てられ、従来の説が俗説として批判されることがある。
公式資料としては日米の戦闘記録(戦闘詳報)などの一次資料、海戦後に米軍内で行なわれた一部指揮官への陳述記録、終戦直後にGHQ第二復員省等の手で行なわれた日本側指揮官の陳述記録、それらを元にした公刊戦史(複数)などがある。この他上は将官、下は兵卒や民間の船員に至るまで、日本側で個人的にこの戦いの記録を残した者は多く確認されており、自費出版などの事例も多い。一方で、対戦国であるアメリカ側にも多くの史料が存在し、その中には翻訳されたものもある。しかしこれらは需要や価格の面から出版されても衆目の目に触れられない物が多い。そのため2000年代に入って初めて発掘、翻訳等がなされて刊行されることもある。
なお、日米以外の当事者であるフィリピン人等の手になる文献も存在する。

日本海軍初のレーダー射撃[編集]

レイテ沖海戦時において、海軍が各大型水上艦に搭載した仮称二号電波探信儀二型改四は、戦艦程度の目標であれば、夜間15,000m、昼間25,000m(34,000〜35,000m説もある)の捕捉距離があり、また、大和を初めとする戦艦群は初めてといえるレーダー射撃をおこなっている。その性能は「まずまず信頼して使いうる程度」といわれているものの各艦ごとの評価にはばらつきがあり、戦艦榛名の戦闘詳報では「味方艦の電波が干渉しあって妨害される場合が多く、言われるような性能が安定して発揮できない」とある一方、戦艦金剛の戦闘詳報では「電測(レーダー)射撃は相当に有効。敵の電測射撃はわが方と大差ない」としている。戦艦大和でも、長距離で10m測距儀を上回る精度が記録されている。

一般的に、米海軍ではレーダー射撃が実用可能な水準になっている一方で、日本海軍ではレーダー技術が遅れておりその性能は劣っていたと言われている。しかし一方で、初月 (駆逐艦)や西村艦隊へのレーダー射撃(下記)を例に挙あげ、米海軍のレーダー射撃も命中率の高さが証明されていないと言う主張がある。前者の場合、初月 (駆逐艦)単艦を撃沈するのに巡洋艦4隻を含む13隻の艦艇で、2時間もの時間を必要とし、巡洋艦だけで主砲弾1200発を消費していることからレーダー射撃の正確さを疑っている。

しかし、「遠距離射撃で回避に徹する艦艇」に対する砲撃の命中率が悪いことは、光学測距による射撃の場合も同じである。これは日本海軍側も認めている事実であり、実際戦艦比叡と霧島、重巡洋艦利根と筑摩がアメリカの旧型駆逐艦エドサル (駆逐艦)単艦に昼間砲撃をおこなったが、主砲弾と副砲弾をあわせて1,335発を消費して命中したのは一発のみ(命中率0.074%)で撃沈できず、結局蒼龍の九九式艦爆がこれを撃沈した事がある。これを見ても初月 (駆逐艦)の一件で米海軍のレーダー射撃能力を判断するのはできない。スリガオ海峡におけるレーダー射撃に関しては後述する。

栗田艦隊と第7艦隊の戦闘力に関する議論[編集]

栗田艦隊については、「レイテ突入を実行すれば弾薬が欠乏したアメリカの第7艦隊を撃滅した」という、根強い通説がある。例えば半藤一利は「相手に弾がないんですから、恐いことはちっともありません」と発言し[196]谷光太郎は「砲弾の残量に乏しかった。第七艦隊は簡単につぶされただろう」と述べている[197]。確かに、スリガオ海峡海戦に参加した第7艦隊主力は西村艦隊を深追いしつつあり、これを呼び戻すのには時間がかかると見込まれ、また、弾薬の心配もあったとされる。そのため、受信したスプレイグ少将の無電を読んだキンケイドは、7時25分、ハルゼーに「第7艦隊は弾薬が欠乏している」と通信を送った[198]

アメリカ側(主に第7艦隊)の状態[編集]

一方で主に上記の観点に懐疑的な立場の評者からは第7艦隊の状況について次のような事実が提示されていった。

第77.2任務部隊関連
第一に、栗田艦隊をはじめとする日本側は後世の評者達と異なり第7艦隊の弾薬状況について知ることはなかった。
第二に、第7艦隊は、栗田艦隊に対して戦艦で1.5倍、巡洋艦で2倍以上、駆逐艦で3倍の戦力を有し、大岡昇平のように旧軍人に懐疑的な立場をとる者でも、この戦力差に触れている[199]
第三に通説では不足していたと言われる第7艦隊の砲弾数だが、中核をなす戦艦に関しては一会戦する程度の分量は保有していたことが知られている。この弾薬保有量は戦後すぐに出版されたモリソンの『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』で邦訳され、『レイテ戦記』『やっぱり勝てない?太平洋戦争』などにも転載された。弾量はスリガオ海峡での戦闘後のものである[200]
スリガオ海峡海戦前。
なお、数時間後に到着した弾薬補給艦より徹甲弾48発、高性能弾1000発の補給を受けた。艦隊の他艦にも補給は行われていたという。
このように、戦艦や巡洋艦との対艦戦闘に必要な徹甲弾は一定数が残されており、榴弾は装甲貫徹力はないものの、測距儀など、非装甲部分を破壊して戦闘力を奪うことができる。佐藤和正は『レイテ沖海戦 下巻』P171にて巡洋艦には徹甲弾がないと述べた。しかし『やっぱり勝てない?太平洋戦争』によれば巡洋艦についても各巡洋艦は各砲当たり50〜80発の徹甲弾が残っていたという。スリガオ海峡海戦では砲弾の不足を補うために陣形を調整し待ち伏せを行い、中〜近距離戦へ持ち込むことに決めたという経緯があり[201]、この点が指摘されることもある。一口に砲弾の不足と言っても「戦えない」わけではない。また半藤の言葉で言う「弾がない」と「砲弾が不足」は異なる状態である。
ただし、『やっぱり勝てない?太平洋戦争』等によればスリガオ海峡海戦時には次のようなトラブルも生じていた。
  • ウェストバージニア (USS West Virginia, BB-48)
    • 射撃中前部Mk.8レーダー故障。1、3番砲塔揚弾機故障。1、3番砲塔で一門ずつ発火ミスで以後射撃不能。
  • メリーランド (USS Maryland, BB-46)
    • レーダー目標識別できず、ウエストバージニアの水柱(スクリーン上の虚像)を目標に射撃、効果なし。
  • カルフォルニア (USS California, BB-44)
    • 大部分の射撃は9門で実施。1番砲塔で装薬に破損。2、4番砲塔で発火ミスで砲塔故障、以後射撃不能。
  • ミシシッピ (USS Mississippi, BB-41)
    • レーダー目標識別できず。一斉射で終了。
  • ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38)
    • 目標識別できず射撃不能。
ウェストバージニアの前部レーダー故障は一時的なもので、素早く後部レーダーへの切り替えが行われた上、すくに修復されたので砲撃に支障はなかった[202]。メリーランド、ミシシッピ、ペンシルベニアの3隻が目標を識別できなかった原因は故障などではなく、搭載していたレーダーが旧式のMark 3だったからである[203]。効果的に砲撃を行えたのは新式のMark 8を搭載したウェストバージニア、カルフォルニア、テネシーの3隻だった。
米戦艦部隊による射撃が弾数279発中、命中弾数2発として(命中率0.68%)、レーダー射撃が効果的じゃなかったという主張が存在するが、これは事実ではない。戦艦ウェストバージニアだけで、最初とその次の斉射でそれぞれ複数の命中弾を出している。行われた13回の斉射で、ウェストバージニアの砲撃はすべて目標を夾叉しており、そのすべてに命中弾の可能性があると判断されている。目視で確認されただけで1、2,6番目の斉射で命中が確認されている。ウェストバージニアの戦闘報告書は砲撃を「非常に効果的(very effective)」と評価した[204]。命中弾が2発というのはウェストバージニアの戦闘報告書だけでも事実無根であることが明らかであり、上記の大和と同じく命中弾の有無は別にしても、ウェストバージニアがすべての斉射で夾叉に成功した事実からレーダー射撃の正確さは証明されている。
反転を行わなかった場合、米第7艦隊と栗田艦隊の交戦は日中に行われることが多くの評者により自明のこととされている。栗田艦隊がレイテ湾に到達する間に故障砲の回復をさせ戦闘能力を回復させた場合、新式のレーダーを搭載した戦艦3隻だけが効果的に砲撃を行えたスリガオ海峡とは違い旧式のレーダーを搭載した3隻も光学測距による測距を行い戦闘を行うため日中近距離の戦闘での戦力低下はないと予想される。また航空機の空襲を受けた場合、日本艦隊はより砲撃命中率で不利と予想されてもいる。また、日本戦艦群も下記のように万全のコンディションではなかった。
一方、水雷戦の要である駆逐艦27隻については、スリガオ海峡海戦前の時点で5インチ砲弾は定数の20パーセントしかなかったとされる[205]。一方魚雷は従来撃ち尽くしたと考えられてきた(例えば『レイテ戦記 上巻』P261に「確かに駆逐艦は魚雷を使い尽くしていた」とある[206]。しかし、『やっぱり勝てない?太平洋戦争』ではアメリカ軍の戦闘報告書などを検討しており搭載魚雷をすべて発射したのは3隻のみ、1本を残して発射した艦を含めても6隻のみが「ほぼ消耗した状態」であり、その他の艦は各艦当たり5〜10本の魚雷を残していたという。アメリカの駆逐艦は次発装填装置を装備していないが、一会戦分の量は保有していることになる。
その他の点としては、サマール沖海戦など他の戦いでは米駆逐艦隊は高い戦意を示しており日本側で問題になる燃料の面もロジクティクスは万全であることがある。旧来の研究でも砲弾について述べた文献では日本艦隊の圧勝を予測しているものはなく、『やっぱり勝てない?太平洋戦争』ではその傾向が更に強まり副題は「レイテ湾口で全滅」の表現がある。また、大方の評者による第7艦隊との接触予想時間は日中で、実際空母等の航空機に接触を受けており日本軍が夜戦で常套手段としてきたような奇襲もあり得ない。したがって他の水上戦闘の例やランチェスター則に照らすと、栗田艦隊は護衛の巡洋艦・駆逐艦も劣勢な戦いを強いられ、米戦艦と砲戦中に魚雷攻撃を受けることになる可能性が高いとされる。
第77.2任務部隊関連以外
第7艦隊以外のアメリカ側の状況としては、攻撃を受けていない10隻以上の護衛空母が残っており、マケイン中将率いる第1群が急行中であった。レイテ突入を行えば、第7艦隊に加えてこれら全てからの猛攻撃を受けていたと考えられる。なお、栗田艦隊は最もレイテ湾に接近した時点でも、湾内の艦船を射程に入れるまでにあと2時間を必要としていた。この間、日本基地航空隊の米護衛空母艦隊への空襲があり戦果もあがっているが、規模は大きなものではなかった。また、第7艦隊を撃破してレイテ湾に突入したとしても艦隊機動に不利な、狭いレイテ湾内で航空攻撃に晒される点は変わらない。なお、これらの迎撃態勢を整えている一方で、目標としていた上陸船団は既に揚陸を終えており、事前に栗田艦隊司令部が危惧した通り避退できる状態にあったという事実もある。

栗田艦隊の状態[編集]

栗田艦隊は作戦開始以来丸三昼夜をほぼ不眠不休の緊張状態で過ごし、栗田提督以下将兵は疲労と消耗の極みにあった[207]。その結果、既に25日朝のサマール島沖海戦で、護衛空母と正規空母、敵煙幕と直撃弾の識別さえできない、焦って気が逸るばかりな、技量や命中率云々以前の状態に陥っていたと言われる。例えば利根は、米護衛部隊や小型護衛駆逐艦を「レンジャー型空母」や「バルチモア級軽巡洋艦」と報告し[208]、第十戦隊は利根と羽黒の砲撃による水柱を魚雷命中と判断して台湾沖航空戦に並ぶ誤認戦果を報告している。また、戦後初期には大和の通信機も長時間の戦闘で調子が狂っていたとされた[209]。そのままレイテ湾に突入した場合、将兵がさらに疲労・消耗し、さらに能力が低下した状態で敵と交戦することになる点も、しばしば指摘される。また、駆逐艦などの航続力の短い艦船では燃料が減少しており[210]、その後、栗田艦隊は給油を行ないつつ艦隊を分割してブルネイに帰還している。

砲弾については戦艦には砲弾が残されているものの、重巡はほとんど弾を撃ち尽くしていたことが記されている[211]。羽黒は二番砲塔を失い、四番砲塔は弾薬切れ、健全3砲塔で残合計125発、さらに魚雷を使い果たしていた[172][212]。一方、巡洋艦、水雷戦隊は利根のように単艦で発射した艦がいるものの[213]、サマール沖海戦では駆逐隊全艦等による統制雷撃を行っていない。第十戦隊旗艦「矢矧」は9時5分に米護衛空母群に向けて魚雷7本(1本は不発投棄)を発射し、第十七駆逐隊も矢矧からの「発射本数四トス」の命令に従って同時刻に魚雷16本を発射と報告[214]。うち磯風は魚雷8発を発射したと同艦水雷長が記録しおり[215]、第十戦隊の発射魚雷数は27本である。残魚雷は、矢矧7本(3本機銃掃射で使用不能)、第十七駆逐隊32本(磯風計算外。実数28本)[216]。軽巡洋艦能代が率いた第二水雷戦隊の魚雷残量は第十戦隊より多い。

また、戦艦でも金剛は7時過ぎに敵戦闘機の機銃掃射により前檣楼トップに据えられた測距儀を破壊されており、以後砲塔測距儀による射撃によらざるを得なくなった[217]。榛名はマリアナ沖海戦での損傷修理が十分ではなく、26ノット以上を出せなかった。それでも第7艦隊の戦艦群よりは優速であるが、第7艦隊の戦艦群とほぼ変わらない速力しか出せない護衛空母の追撃においても支障が生じていた[218]

水上戦について付け加えれば、「アメリカ側(主に第7艦隊)の状態」で触れたように制空権がアメリカ側にある状態では、高い砲撃命中率が期待できない。これは直前に行われたサマール沖海戦で証明されている。

また、指揮、情報でも上記で触れてきた点の他に次のような問題があった。

まず、水上艦艇の能力を活用した作戦であるにもかかわらず、その中核である大和型戦艦については日本海軍内でも作戦を計画・指揮する部署にて正確な情報が共有されていなかった。『戦艦大和建造秘録』には栗田健男提督は「主砲口径が46cmであることを知らなかった」と米軍の調査団に陳述していることが書かれている。第二艦隊の砲術参謀も同様で、艦隊の参謀団の全員或いは大半が、指揮下の戦艦の攻撃能力を知らなかった可能性が高い。戦後の一時期、大和型戦艦の攻防力は極端なまでに高く評価される傾向があり、史料批判に熱心だった大岡昇平も「「大和」の超大口径主砲がものをいって、オルデンドルフの旧式戦艦群6隻をアウトレインジ出来たかもしれない」と指摘し[219]、佐藤和正もこの可能性には言及している[220]。しかし、上記の証言は後世指摘される46センチ砲弾の威力、46センチ砲対応防禦と言った要素を計算に入れて作戦を行うことが、艦隊司令官には不可能であることを示している。

また、日本海軍が「遠大距離」と認識していた30000m以遠での砲戦例は機会が極めて限られており、命中弾を得た戦例はない[221][222][223]

次に、艦隊司令官の裁量は一般に考えられているより狭い面があった。6月29日、木更津沖の大淀にある連合艦隊司令部を訪れた第二艦隊の小柳参謀長は次期方針の打ち合わせに関係して艦隊旗艦を従来慣例となっていた愛宕から、通信能力・防御力に優れた大和型戦艦、特に旗艦としての司令部施設に優れる武蔵とする要望を上申した。しかし連合艦隊の草鹿参謀長は第二艦隊が夜戦部隊であり速力の遅い大和型戦艦を旗艦には出来ないこと、第一戦隊を中核に艦隊の別働隊を作る計画があることを理由として却下された(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊〈6〉―第三段作戦後期―』朝雲新聞社、1970年、pp.303-304、佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第二章 旗艦「武蔵」を容認されず)。その後、愛宕は潜水艦の雷撃で沈没し、艦隊司令部は作戦中に旗艦を大和に変更することとなった。このことが後の通信不達問題を多発させた背景として指摘され、既にサマール海戦中適切な指揮が出来なかった一因として佐藤和正などが指摘している(詳細は下記)。なお、この後に武蔵は航空攻撃により撃沈されているが、旗艦ではなく、輪形陣の中心に配置されていなかったこと(被害担任艦を期待されたとも言われる)には注意が必要であろう[224][225][226]。また、旗艦としての能力を人員面から見ると、海戦当時の条件ではないが、竣工後連合艦隊司令部が移動してきた際暗号士まで含めてその陣容は160名程度であったという[227]

3点目として、仮にこれら全ての不利を覆して栗田艦隊が船団を撃破できればアメリカ軍のレイテ島攻略、延いてはフィリピン諸島攻略に一定の影響を与える可能性は指摘される。しかし、揚陸した部隊への艦砲射撃は作戦計画に含まれておらず、行なうとしても現場指揮官の裁量となり、真珠湾攻撃の基地施設破壊と同質の現場指揮官の権能にまつわる問題が生じる。

謎の反転問題[編集]

この問題は本海戦の評価の中でも最も多く議論の的となってきた。ここでは、この議論を幾つかの争点に分割して記述する。栗田艦隊のサマール島沖海戦後の反転の意図は戦史研究家などの間では「謎の反転」と呼ばれ、題名にその名を冠して記事を執筆する人物もいる。海軍研究家として名高い池田清(重巡摩耶砲術士)は「レイテ沖海戦に寄せられる深い関心の大半は、この「なぞの反転」のなぞ解きにあると言っても過言ではない」と指摘している[228]。。これに関連して幾つかの議論が起こった。各艦隊の状況を列挙した後、主に反転と栗田についての議論を記す。

作戦目的に関する議論[編集]

栗田中将本人はこの命令違反と言えるレイテ湾を目前とした反転行動の理由について、「敗軍の将は兵を語らず」と言った立場で、戦後、あまり多くを語らなかった[229]。だが戦後10年経った頃に、旧知の仲であった戦史研究家・軍事評論家である伊藤正徳の問いに答えるかたちで、当時の心境を簡潔に語っている。曰く、まず撤退については命令違反であり、軍人として不適切な行為であったと認め[179]、また当時最善と信じた判断については今思えば健全な判断とは言いがたいとし、疲れていると言う自覚はなかったものの、三日三晩をほとんど睡眠を取らず心身とも疲労の極にあり、その様な頭で下した判断は適切なものではなかっただろうとしている[179]

また、撤退に移る前の反転行為については、真に敵機動部隊が近くにいると信じていたが、それを補足できるなどと非現実的な判断を下したのが間違いであり、敵空母撃滅と言う先入観に引きずられてしまったと言う[230]。なお、この判断については幕僚にはほとんど相談などは行わず、栗田がほぼ一人で決断したと言う[179]。そしてこの補足作戦が失敗に終わったと判断された25日16時半には、今更レイテ湾に引き引き返すなどと言った考えは全くなく、帰り道での空襲や燃料の心配をしていたと言う[231]

また最後に、移動しないが故に確かにそこにあったレイテ湾に突入せず、移動するが故に会敵できるかが未知数であった敵機動部隊を補足しようとする判断がまずかったと言われれば、弁解はできないとしつつ[231]、自分はちょうど野球の敗戦投手[231]、大和が19回もの空襲を受けるなど、僕の艦隊が空襲を受けた世界記録だ[232]、と語っている。

艦隊の参謀長であった小柳富次は著書で追撃を中止した理由として「最後まで敵を機動部隊の高速空母群と誤観測していた」[233]と述べ、もし敵情を正しく把握できていれば当然追撃は続行していたであろうとしている(このことはのちにまとめて触れる)。また、第7艦隊の作戦参謀リチャード・クルーゼン大佐は空母機動部隊の接近を知れば栗田艦隊が退却するかもしれないと考え、ハルゼー宛ての救援依頼の他に「2時間以内に救援に向かう」という返事を平文で電話する謀略を講じていた[234]

しかし、評者達により過去最も議論の焦点となってきた説は、原因を作戦の計画段階に遡って求めたものである。下記のマニラで8月11日に行われた計画の打ち合わせの段階で連合艦隊司令部と栗田艦隊の意思疎通の欠如が見られ、作戦目的の認識に影響したというものである[235]。つまり、海軍中央では比島上陸部隊の輸送船団を叩く事を主目的とし、打ち合わせでも神参謀は「艦隊が全滅しても構わない、以後の作戦は一切考慮しない」と述べた。しかし栗田艦隊では機会さえあれば敵主力艦隊を撃滅することを望み、また、被害が大きくなって来ると、以後の作戦のために1隻でも多くの艦艇を保全することを考え、この齟齬が反転につながったというのである。

一方で、栗田は戦後の会見等で船団も重視していたことを述べており、小柳ら他の首脳部も著書などで船団の価値を否定してはいない。こうしたことを根拠に黛治夫のように「謎」という言葉自体を否定する者もいる[236]。また、問題の核心とされた連合艦隊司令部の神参謀が8月にマニラでおこなった打ち合わせにて小柳がした返答は小柳の著書『栗田艦隊』によると次のようなものであり、この記述はその後多くの文献で紹介された。

連合艦隊がそれだけの決心をしておられるならよくわかった。ただし、突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能である。よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団に向って突進するが、途中敵主力部隊と対立し二者いずれかを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか。

小柳冨次、栗田艦隊―レイテ沖海戦秘録

この発言を神参謀は了承した。この作戦目的の解釈の件について、当事者、後世の評者の見方は分かれている。

擁護的評価
好意的ないし同情的な見方としては、佐藤和正が挙げられる。佐藤は著書『レイテ沖海戦』で神重徳も第一次ソロモン海戦で船団を支援する敵艦隊との戦闘を経験している点を挙げ「敵艦隊と遭遇した時、これを回避して輸送船団を攻撃することの困難さを神参謀は熟知していた」と述べた。著書自体もマリアナ沖海戦の敗戦時点から説き起こし、シブヤン海に進出するまでに文庫本1冊の分量を充てて背景説明に重きをおき、日本軍全般の不利な情勢の他、マニラでの打ち合わせ後、栗田艦隊司令部が船団攻撃の研究を行い、艦隊の訓練内容も完全に船団攻撃向きに変えたことが描写された。佐藤和正は最後に「反転は”正解”だった」という節を設けており、それにとどまらず反転批判論者に対して当時の情報の不完全性などを指摘しつつ、「結果から導き出した栗田部隊への批判は、難詰であって、きわめて厚顔、無礼なもの」という旨の批判を行っている。ほぼ同様の立場としては『やっぱり勝てない?太平洋戦争』があり、同書は当該の章の副題にも「レイテ湾口で全滅」の表現を入れている。
栗田艦隊関係の当事者では戦闘詳報[237]、上記の小柳富次(但し小柳は「すぐれた軍事史家の公正な批判に待つ」とし、判断を世に問う形としている[238])や黛治夫(利根艦長)[239][240]が居る。黛は、自分が栗田でも同じ判断をすると答え[241]、「戦さの判断というものは難しい。栗田はさすがにえらかった」と述懐した[241]。海戦に参加した栗田艦隊の尉官として、左近允尚敏が通信状況や自らの体験から栗田を擁護している。村井弘司(愛宕主計中尉)は、レイテ沖海戦に参加した者だけが反転理由を知るものとした上で「是」とする[241]。栗田艦隊将兵は、多くが反転に肯定的であるという[242]
栗田艦隊以外に目を向けると、連合艦隊司令長官であった豊田副武は本海戦のような状況は現地指揮官が判断すべきものであり「栗田君から弁明は聞いてはおらない」旨を述べており、佐藤和正がこの言葉を擁護的文脈で自著に引用した[243]。その他に福留繁[244]奥宮正武[245]が擁護し、左近允と同じく尉官だった佐藤清夫などが若干の擁護をしている。佐藤清夫の場合は、当初は批判的立場のみであったが後に調べを重ねて考えを変えたことを述べている。なお、佐藤和正は『戦藻録』の解釈から宇垣纏も反転を是とする考えを前提にしていたと推量している。
中間的評価
批判と肯定が混在し、一概にどちらよりと見なせない者も居る。大岡昇平はこのやりとりについて『レイテ戦記 上巻』でコメントを残していないが、栗田艦隊の戦意の不足、当事者達の弁明に懐疑的で「旧軍人の書いた戦史および回想は、作為を加えられたものである」と述べ、当事者の恐怖心への推論を行っている。また栗田の逡巡を「当時の大本営海軍部にとっては勿論、現在の日本人にとって感情的に受け入れることは出来ないであろう」と述べ艦隊の反転を「出先の戦闘単位に命令違反が現れた。「大和」以下の主力艦群は自爆を拒否したのである。」[246]と述べた。一方で、作戦目的については日米両艦隊の指揮官が揚陸と「決戦」の狭間で引き裂かれた[247]ことを指摘、反転せず南下した場合の船団攻撃の勝算も悲観的な立場をとった。栗田については「司令官に逡巡が現れた原因は、性格、指揮の経験不足に求めるべきではなく、歴史の結果にもとめるべき」旨を述べ、「氏の逡巡を批判する者ではない」[248]と述べた。対戦国である英国の首相であったチャーチルは回顧録の中で栗田艦隊の苦境を挙げた後「この戦場と同様の経験をした者だけが、栗田を審判することができる」と述べている。
また、他者の批評に対する批評は佐藤和正以外の評者にも見られる。大岡昇平はスリガオ海峡の戦闘の評価に関連してだが、史料批判を行なう際にモリソンの『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』15巻を指して「米海軍公史の性格をもつものだが、それだけに迎合的筆致が見られ、聯合艦隊に対して嘲笑的」と述べジェームス・フィールドJrの著書を「好意がもてる」と評した。伊藤正徳『連合艦隊の最後』については「聯合艦隊への愛惜が感じられる好著」だが、戦略調査団に迎合的答弁をした旧軍人への反感を指摘し「やや偏っている」と述べた[249]
批判的評価
作戦目的の不徹底を反転の原因とし、批判的な立場を表明したのは半藤一利、外山三郎、谷光太郎[250]、原勝洋、菊澤研宗、佐藤大輔、佐藤晃、江戸雄介などである。『失敗の本質』は物量格差、計画との差異に言及しつつ、目的解釈については中央と現場が分裂したという立場をとっている。半藤は秦郁彦、横山恵一と『日本海軍 戦場の教訓』という鼎談本を出版しその中でも辛辣に批判をしている。佐藤晃は持論の政戦略面を基調とする海軍批判(および陸軍擁護)の一環として『帝国海軍が日本を破滅させた』で本海戦を採り上げ、更に踏み込んで作戦目的への無理解を批判し、栗田を命令違反のかどで軍法会議にかけるべきだったと述べた。これに近い強い批判は江戸雄介も行っている。
これらの評者達は反転せず突入するべきだったと主張、中でも半藤、谷は突入すれば日本艦隊は輸送船団を撃滅できたと主張、第7艦隊は弾薬切れであることを有力な材料の一つに挙げている[251]。江戸は成功の可能性に言及しつつ、撃滅に失敗しても海軍の任務としてやるべきだったことを主張した。原は命令の絶対性を根拠とした。児島襄は弾薬の欠乏については認める記述をし「明確な目標と任務の認識を欠いた栗田艦隊が決戦、突入のいずれも果たせず終わったのは当然」児島襄 1974, p. 285と評した。なお、外山三郎は栗田艦隊だけではなく、連合艦隊司令部でも草鹿参謀長のように艦隊決戦への未練があった者がいた可能性を指摘している[252]
作戦目的関連の批判と絡めて、栗田の資質に関する議論も生まれた(詳細は栗田健男の項を参照)。半藤は、対談において栗田艦隊司令部が反転のために嘘をついていると述べ、栗田には過去の戦闘でも逃げ癖があったと主張し、本海戦での行動についても疑念をあからさまに述べている[253]。こうした栗田個人の資質、人格に関わる批判は旧海軍軍人にも見られ、『歴史と人物/昭和56年5月号』では小島秀雄がそのことに触れている。高木惣吉は「レイテの敗将を兵学校の校長に据えた」と批判した。なお、宇垣がこの反転に批判的であったかどうかは、評者により解釈が分かれており、宇垣が反転に批判的であったと解釈している場合もある。更に、豊田副武は『最後の連合艦隊』にて自隊の概況をもとに判断を行なうべきではない旨をも述べており、原勝洋はそれを引用して「強く批判した」と述べ、佐藤和正の引用解釈とはずれが見られる。
その他の評価
これらのいずれとも異なる(或いは別の特徴的な観点からの)見方もある。大和で偵察員をしていた岩佐二郎は著書にて上官の批判は行なっておらず、むしろその心情を慮る記述をしているものの、主に心情的な理由から反転せず突入するべきだった旨を主張している。また、本海戦での物量格差は複数の者の指摘するところであり、戦時経済など戦争全体について扱った議論で提示された事実から、太平洋戦争について一定以上の知識を持つ者にとっては暗黙の前提ともなっているが、例えば森本忠夫は物質的な困窮が本海戦以降特攻戦術の拡大に繋がったと言う点に着目しており、作戦計画をその流れで解釈したことを挙げている[254]
作戦自体を否定する評価
一方、日本側には捷号作戦の意義自体を批判する者もいる。大井篤は著書にて、連合艦隊艦船などの「目に見える損害よりも、かくれた損害の方がズッと重大である」と指摘、作戦に投じた兵力をフィリピンでの輸送作戦、護衛作戦に投じたら、護衛艦艇が倍増することにより輸送も遥かに活発になり、より多くの南方資源を日本に送り込み、南方資源船団とフィリピン軍事輸送船団を別個に編成して航路も変えることにより敵潜水艦の攻撃を分散できた旨を主張、作戦の「殴りこみ」の性格や海戦後海軍の作戦指導者達が「あれでもやらなかったよりましだ」と思い込んでいるかのように見えたことを批判した[255]
奥宮正武は『提督と参謀』にて栗田を反転論議におけるつくり話などの被害者であるとし、最近は旧海軍についての常識がないためそれを史実と信じるおそれがあると主張、作戦については「航空のことを無視した大艦巨砲主義者たちによって計画され、強硬された」と評した。責任については連合艦隊司令部が最も大であり、本作戦に限らず戦争で栗田が参加した多くの戦いについても「不適切な作戦指揮の後始末をしたようなもの」とし、作戦中の評価については、突入命令より先に手探りで敵艦隊を求め、空母の掩護もなかった栗田艦隊に敵情を示すべきであった旨を述べた。宇垣については戦藻録で批判をしているが、意見具申をしていないと指摘し、理由を敵情不明に求めた。また、このような事態になった遠因をマリアナ沖海戦時の小沢治三郎の失策に求め、小沢は航空戦に無理解で印象と実態の落差が激しいと批判した。海戦自体については「敗戦処理」「消化試合」であり、最大の海戦と見ているアメリカ人や決戦と見ている一部の海軍軍人を批判した。
大和の防空指揮所でレイテ沖海戦に参加した小板橋は、栗田艦隊のレイテ突入が作戦の目的だるにも関わらず、航空機の援護計画がなかったことを批判している[256]。さらに栗田艦隊がレイテ湾に突入したとしても、西村艦隊と同じく全滅したであろうと推測し、「米軍を壊滅させて戦局逆転云々」は海戦に参加していない第三者の単純な見方であると評している[257]
反転については上記の他にも『なにわ会ニュース』92号に左近允尚敏による『栗田艦隊の反転』が掲載され、国内外の多くの評者のコメントが提示されている。
左近允尚敏は西村中将が繰上げ突入を独断したことについて、何の戦果もなく全滅したことを批判し、明るくなってから攻撃するべきだったと述べた。

通信不達に関する議論[編集]

本海戦ではあまり知られていないものも含めて、日米双方で通信の不達、或いは着電の著しい遅延する事例が発生した。日本側の状況は日本語文献ではかなり明らかになっており、実態としてはこの問題があらゆる局面で指揮官や司令部の判断に重大な影響を与えていた。終戦直後米国戦略爆撃調査団により行われた聞き取り調査でも多くの参謀、艦長、司令官が揃って述べたのがこの通信体制の不備であった。

中でも問題とされたのは栗田艦隊の状況把握である。特に巷間指摘されるのはサマール島沖を航進中に着電した9時45分付けの「ヤキ1カ」地点に敵機動部隊が存在する事を述べた電文で、ヤキ1カは栗田艦隊の北方にあり、電文は11時に着電した(大和のみが受信したことになっているとする所見もある)。そのために栗田艦隊はこの機動部隊を求めて北へ向かった。また、11時に瑞鶴が沈没し小沢艦隊司令部が大淀に移乗した旨の電文をはじめとする重要電文が大和の受信記録に残っており、東京でも受信している。

疑念[編集]

これらのことについて戦後疑問が上がった。論点は本当に栗田艦隊は北方機動部隊が存在するという電文を受信したのか、また小沢艦隊の誘出成功の電文を栗田艦隊司令部は知らなかったのかどうか、という点である。これらに対して栗田艦隊司令部が嘘をついているという立場に立ったのは半藤一利、大岡昇平等であった。

半藤は、通信士官として艦隊勤務の経験があった吉田俊雄と共に書いた『全軍突撃 レイテ沖海戦』の中で、25日に大和が小沢艦隊から受信した電報について箇条書きした。それによるとサマール沖海戦で戦闘を行いつつエンガノ沖海戦中の小沢艦隊から大和が受信した電報は次の通りである。

  1. 十月二十四日に敵機動部隊に対する航空攻撃開始を知らせた電報
  2. 日向、伊勢を中核とする前衛部隊の派遣を知らせる電報(14時39分受信[87]
  3. 日向、伊勢をふくむ前衛部隊を本隊に呼び戻す電報(23時53分受信[113]
  4. 小沢艦隊上空に敵偵察機が現れ、ハルゼーに発見されたことを知らせた電報
  5. 二十五日朝、ふたたび敵艦上機の触接を受け、ハルゼーの攻撃が近いことを知らせた電報
  6. 敵艦上機八十機来襲、交戦中であることを知らせた電報
  7. 瑞鶴に魚雷命中を知らせた電報
  8. 小沢長官が大淀に移乗、作戦を続行中であることを知らせた電報(1100発信、1215受信)
  9. 敵機一〇〇機の攻撃を受け、秋月沈没、多摩落伍を知らせた電報(1231発信、1441受信)

このうち6と7は発信前に瑞鶴が沈没したが、残りの電報でも囮作戦の成功だと判断することが出来、1、2、3、8、9は大和の電報綴に記録があるから瑞鶴の通信機は故障していない、したがって、通信不達はあったものの小沢艦隊が空襲を受けていることは分かった筈だと半藤は主張し、後年『日本海軍 戦場の教訓』にて電報の不着や遅延が重なると不自然で、それを理由に全てを隠蔽したと述べた。田村俊夫は半藤説を採りつつ栗田に情報が届かなかった理由は参謀の陰謀によるものだと述べた。

大岡は『レイテ戦記 上』にて、瑞鶴の通信機が故障していたと述べた小柳富次の証言が誤りであること、瑞鶴の通信長が戦死していること、モリソン戦史が戦艦大和の電報綴を元に書かれているが小沢艦隊が敵と接触した報告がこの綴りにはあるのに栗田艦隊の戦闘詳報にはないこと、などを疑問点としてあげている(一部は半藤が『全軍突撃 レイテ沖海戦』で挙げた点を援用している)。また、大岡は、例え愛宕に乗組んでいた第二艦隊の通信班が一部しか大和に移乗できなかったとしても大和の通信設備は完備されているし、愛宕の通信班も使えば通信業務は出来た筈である旨を主張した。

1970年代末には大和の通信班に所属していた元予備少尉の小島清文が『文藝春秋』等で、北方機動部隊の電報を見ていないことや彼が見たという大和の艦橋の様子などを根拠に、電文は捏造であると結論した。また、1970年代には『戦史叢書 海軍捷号作戦(2)』が発刊され北方機動部隊の電文については「問題の空母情報は第一遊撃部隊だけではなく、マニラでも内地でも受領されたことは紛れもない事実であるが、その情報源は分からない」と記されているが、小島はこれも戦史叢書が全て誤っていると主張した。

栗田艦隊司令部と同じ第一艦橋に居た大和副砲長の深井俊之助少佐は、戦後この電報が栗田司令部による捏造であると主張した[258]。深井はチャンネル桜の番組に出演して、ミッドウェイ海戦時第7戦隊司令官だった栗田が消極的な指揮をとったことと関連付け、小沢がこのことで不信感を抱き、作戦前に栗田艦隊司令部全員に軍刀を送って決意を促がしたと述べた[259][260]。また深井は池田武邦(矢矧航海士)との録音インタビューにも応じ、その概略は 井川聡著『軍艦「矢矧」海戦記』に収録されている。深井が大和艦橋にて「敵艦隊のマストが見えたのになぜ反転だ」とA参謀に詰めよると、その参謀は0945電報を突きつけたという[261]。戦後、深井は0945電はA参謀の捏造であり、栗田は参謀達に三川軍一南西方面艦隊司令官の電報だと説明されて騙され[262]、反転の失敗を悟った時は手遅れだったと結論づけた[263]。池田は、森元治郎(社会党参議院議員、戦争時外務省嘱託)もA参謀(戦後、参議院議員)が栗田の誤判断を誘ったと睨んでいると述べている[264]

一方、佐藤和正はこうした疑問点について強い反論を行なった。後年左近允尚敏、都竹卓郎も目的としては同趣旨の反論を行なっている。佐藤は受信状況等について考察し結論として自軍の偵察機が栗田艦隊を見て当該の電文を発信したという説を採っている。

まず海軍の通信について主に都竹の説明を元に述べる。上述のように通信には短波を主用するが、洋上に出た艦隊は敵の無線方位測定を避けるため、傍受能力は当然維持されているが、原則として電波を発射しない。

相互の交信には、打ちたい電文を行動海域(通信区)の中継局、フィリピン方面ならマニラの第31通信隊に、遠達性の低い周波数で打ち込み、通信隊はそれを丸ごと広域短波放送にかける。受信はその逆で、今の場合マニラ放送に聞き耳を立てる。海戦中は当然電報が輻輳(そう)するが、放送の仕方は当該通信隊の戦務処理に委ねられ、特定の電報が優先されることもある。放送は、他の中継局も含め、多少の時隔を置いて複数回流される。

このような放送系を介した通信の仕組みは米軍側も同じで、25日朝の第7艦隊からハルゼー艦隊宛の幾つかの救援要請電は、平文であったにもかかわらず到達に1時間前後を要している。

なお、電報番号で表示される発信日時は、電波に乗る前の「起案」時刻である。受信日時は電信員がその暗号電報を取り終わった、いわば「着電」時刻であり、どちらも字義通りの効能を持つ迄に、相当のタイムラグがある。佐藤和正は、放送を介した通信の仕組みとは明言していないが、無電は一回だけ相手を呼び出すのではなく、呼び出しは無しで定められた周波数によって数回に亘り連続打電するものであり、呼び出しが一日半に及ぶこともあると述べた。

栗田当人は、昭和46年4月第一回フィリピン方面海上慰霊巡拝団に参加した際[265]、「北方ニ大部隊アリ」は陸軍索敵機がサマール沖の栗田艦隊を米機動部隊と誤認し、陸軍司令部を通さず大和に直接送信してきたものだと語った[266]

小沢司令部の認識[編集]

栗田司令部に小沢艦隊からの敵誘致成功の電文が届かなかったのが事実だとして、それ以前の問題として小沢艦隊が栗田艦隊の再反転の無電を受信していないのではないか、という疑念がある。つまり小沢司令部が栗田艦隊の反転を知らず、栗田艦隊は撤退していると考えていたがために、自艦隊の状況を積極的に打電しなかったのではないか、だから栗田艦隊で受信できなかったのではないか、ということである。これは佐藤和正の「艦長たちの太平洋戦争」内で第四航空戦隊司令官の松田千秋少将が「戦闘終了後小沢が「栗田の再反転を知らなかった」と言っていた」と証言しており、また「小沢艦隊は再反転の電報を受信していない」とも言っていることが根拠となっている。

栗田艦隊が反転したのが24日16時前、これを報じたのが同16時、この電文を小沢艦隊が受信したのが20時であった。それ以前に小沢は2の電文を打っており17時15分に大和に着電したことは確認されている。この1分前に栗田は再反転命令を出していたのだが、これはすぐに発信されなかった。既に連合艦隊司令部からは栗田艦隊宛に再反転命令の電文が打たれており、これは受信していた小沢長官も栗田艦隊の再反転に期待していたようだが21時を過ぎてもそれが着信しないため、単独の進撃は危険と考えた小沢は21時30分、先行して南下していた四航戦の松田少将に対してに対して反転、北上するよう命令した上で、22時30分部隊を一旦全艦北上させた。このとき松田部隊はシャーマン隊の至近距離まで接近しており、これに両軍は全く気づかなかった(戦後になって両軍記録より判明)。もし、栗田艦隊の反転電文が達せず、松田部隊が進撃を続けていれば米機動部隊に対して砲撃戦を仕掛けることが出来たということになる。

栗田は19時39分になってミンドロ島サンホセ基地の水上機部隊に対して自隊への敵情報告命令を出し(連合艦隊司令部では受信せず)、これが初めて再反転を示唆する電文となったが、連合艦隊に宛てて直接再反転を報告したのは21時45分になってからだった(連合艦隊司令部では受信)。しかし、この2本とも小沢艦隊では受信していないのである。従って小沢は栗田の再反転を知らぬまま25日の敵空襲を受けることとなった。小沢は25日7時32分に4の電文を発し、同8時15分に5の電文を発しているが、いずれも短い電文であり二報しか打電していない。これは小沢が栗田艦隊が再反転したことを知らなかった証左であると、佐藤は述べている。もし小沢が栗田が進撃していることを知っていれば「敵誘致成功」の電文は栗田が確実に受信できるようにもっと多く、長く伝えていたはずだとし、瑞鶴被弾後に四航戦や「大淀」に打電を代行委任せず、「大淀」に移乗するまで現況を打電しなかったこともこれで説明が付くとしている。「栗田司令部が再反転の電文をすぐに打たなかったこと」これが栗田司令部の"小沢艦隊の状況不明"の原因となったと佐藤は指摘している。

電波伝播
当時日米両軍が多用した短波通信は、電離層の反射を利用して見通し距離外との通信を行うものである。しかし大戦中は太陽黒点活動が活発となり、電離層が不安定な時期が続き、しかも低緯度地方にその影響が集中したと述べた。周波数によってこの悪影響は程度が異なるが、日本海軍は2-4MHz短波帯であれば影響が低いことを突き止め、同周波数帯の無線機の開発にかかったが、その前に戦争が始まったため電波予報を出して事前策としていた。また、大和のアンテナは地上に設置されたものに比べて設置上の制約が大きく、10m程度のものであり、しかも常に移動するという悪条件である。船舶通信についての教育テキストでは日本標準時プロジェクトのような「報時」について言及がなされるが、リンク先にも示されているように一つの周波数のみでは伝播しない区域があることを考慮し、短波では複数の周波数で発信を行っている。この他短波の受信状況は日中か夜かでも変化し、その傾向分析を行っている事例もある。また遠方で受信できた場合に近距離であれば必ず受信できるとも限らない(鈴木治『船舶通信の基礎知識』)。佐藤の記述には「電波の突き抜け現象」による記述もある(デリンジャー現象ないしスキップ・フェージングを指すと思われる)。
送受信組織の状況
受信状況については、愛宕沈没により電測士は清水少尉、司令部付暗号士の小林(剛)、広瀬両少尉が戦死、小林(敏)少尉は救助されたが高雄でブルネイに帰投した。大和に移乗出来た通信班員は小島を含む2人の予備少尉だけであり、大和が旗艦となったことで通信班が艦隊司令部付と第一戦隊司令部付に分けられたため、オーバーワークとなり、且つはじめて聞く送信員の打電を処理しなければならなかったことで通信能力が低下した。このことは都竹によれば大和戦闘詳報の「戦訓の部」に記されており、電信員の数は一応定員を満たしていたが、速成教育を受けただけで、当直を任せられない新兵が多いため、戦闘中でも最低1直交代という原則を1直半にせざるを得ず、その上切断空中線の復旧といった応急作業が頻繁に飛び込み、古参兵は疲労困憊(ぱい)の極に達した(なお、無線通信士の間ではしばしば電信員固有の癖について指摘される[267]。この癖により、暗号数字の誤受信、ノイズ混入による欠字などにより、年間受信量の30%が受信不能となっていたという。佐藤は欠字が多い場合は暗号士に回送されても翻訳不能として没にされたと推定している。なお、『海軍艦隊勤務』では大和の定員表を推定する記事が掲載されており、機密性の高かった同艦の詳細な定員は不明な部分が多い。
従って、半藤が自著で大和の通信設備に被害がなかったように記しているのは明確な誤りである。
受信時の戦況
佐藤和正は瑞鶴が第一報を発信した午前7時32分頃は栗田艦隊は海戦中で、その指揮に追いまくられていたと述べ、瑞鶴のアンテナが第一次空襲で損傷し、補修したことを挙げた。また佐藤は「ヤキ1カ」を栗田艦隊を敵艦隊と誤認した味方航空機によるものと推定している。(実際、栗田艦隊は撤退時に、敵味方識別のために甲板に日の丸を掲げたにも関わらず味方機から爆撃を受けている)
第一機動艦隊の場合
神野正美『空母瑞鶴』によれば、第一機動艦隊は戦闘詳報でこの件について指摘し、問題があった電文として5件を挙げている。呉に帰還後調査も行なわれた。その原因分析としては次のような点が挙げられ、通信能力に優れた艦を旗艦とするべきことや台湾の高雄に展開していた通信隊の能力強化が戦訓として指摘されていた。
  1. 瑞鶴の送信勢力不充分
  2. 味方との混信
  3. 電信部通信指揮官間の錯誤
  4. 通信隊における受信状況の差異
また神野によれば、同艦隊の情報参謀であった山井實夫はこの問題について次のような点を指摘している。
  1. 使用電波、周波数の種類による時刻別の伝播特性
  2. 発信源のアンテナ効果(指向性、空母についてはアンテナマストの起倒状態、倒れていると見通しが非常に悪化する)
  3. 戦闘中の艦内伝達の難易
  4. 電波の伝播経路の空間状態
なお、佐藤和正は司令部が大淀に移乗した後には不達はなくなったと述べている。
アンテナ
これに関連して松井宗明によれば、艦艇は秘匿性が要求されたり遠距離の特定海域から本国に通信する場合などは八木アンテナなどの指向性アンテナを用いるが、通常は無指向性アンテナを使用する。マストや上部構造物を利用して展張する展張型アンテナは、ほぼ無指向性である[268]
原勝洋によれば、大和はシブヤン海海戦時に展張していたアンテナケーブルが断線し、被害が重大なものであったため予め積み込んでおいた修理部品も不足したと述べている。断線したケーブルは雑音を誘起し、通信の障害となった[269]。また、自艦の対空砲火による震動が無線機に悪影響を及ぼし、2つある受信室のうち一つは業務が不可能となっていた。都竹は、増強された高角砲が発砲振動を強め、通信環境には悪影響であった可能性を指摘している。このことにより大和は10月24日は送受信に著しい障害があり、31通の電文に問題があったという(31通の内訳について、原は本海戦を扱った『決戦戦艦大和の全貌』で述べていない)。原は、戦闘時の通信対策で課題を残したと総括した。「軍艦大和に於ける捷一号作戦通信戦訓」では、通信線の対策が「絶対に必要」と強く指摘している。
その他の状況
当時熊野に士官として乗組み、戦後海上自衛隊統合幕僚会議事務局長などを努め、情報畑の著書・論文発表が多い左近允尚敏は艦艇研究家の田村俊夫が半藤の主張を汲み入れて『海交』で疑念を呈した際、大和が受信した小沢艦隊の電報について分析を行い、『栗田艦隊の反転』にて反論している。主な点としては大和に着電した電報だけでは判断することはできないと言うものであり、7、8から分かるのは100機に空襲されて旗艦が沈んだことだけであり、「ハルゼー機動部隊が北につり上げられ、敵主力は南方にいないことが十分に読みとれるはず」という半藤の推理を否定した。また、8時46分に瑞鶴は送信不能となり、以降は大淀からの送信だったと指摘した。瑞鶴の状態についての同種の指摘は佐藤和正も行っている。
また左近允は小島が7の「大淀ニ移乗 作戦ヲ続行ス 一一〇〇」を指摘してを翻訳して敵機動部隊だと即断したこと等数点を挙げて、どのような手段(航空機か潜水艦か)で攻撃されたのかも、被害の程度も書かれていないのに何故作戦が成功したと判断できるのかについて矛盾があることを指摘した。また、左近允と都竹卓郎は小島の方が嘘をついていると批判した。戦後日本大学教授となった都竹は大和で通信士官をしており、小島が文藝春秋に投稿した記事の中でも怒りっぽい士官として描かれているが、24日18時頃ガンルームで食事中に艦橋に呼び出された件を例に、全員が戦闘配置に就いており悠長な状況ではなかったと述べた。また「海軍の通信系の仕組みを全く知らず、『大和』が聯合艦隊や各艦隊の司令部と、ダイヤル即時通話さながらに、直接交信しているものと、思い込んでいたようである」と述べ、その上で大和戦闘詳報の資料批判と日本側の作戦行動の問題点を指摘した。また両者は小島が不戦兵士を自称し、反戦活動を行なったことを批判した[270]

総論[編集]

時代により入手可能な資料や価値観が異なる面もあるが、概ね上記のような種々の視点が提供されてきた。この他の事実としては、上陸船団に十重二十重に支援艦隊がつけられるのは常識であり、日中戦争や開戦初期の日本軍の侵攻作戦でも行なわれてきた事例が複数ある。その中で栗田は数多くの作戦に参加し、通商破壊作戦で戦果も挙げた経験があった。また、実戦で示されたように米軍の索敵能力は「敵を発見する」という意味では高いものであり、戦意も高いものであった。また、損害を無視した目的の貫徹という視点についても、船団に接触する以前に全滅するほどの損害を受ければ達成は不可能である。

このことに関して、後の批評家は、上記で述べたように、反転しなかった場合には日米で戦艦同士の艦隊決戦が発生することをほぼ暗黙の前提としてきた。しかし栗田艦隊は「空襲を脅威と認識し輸送船団も揚陸を終えているだろうから期待しえる戦果は極めて少ない」と考えていた。

作戦目的の是非以外とは別に、明らかにされてきた経緯への評価は次のようなものがある。栗田艦隊の突入は小沢機動部隊の囮作戦及び味方基地航空隊の航空攻撃による、言わば事前のお膳立てと連携したものであったが、成功するかはやってみなければ分からない、言い換えれば戦況が流動的であることも両派から指摘される[271]。事実、計画策定後基地航空兵力はダバオでの誤報や台湾沖航空戦で弱体化し志摩艦隊は遊兵化した。これらは上部の連合艦隊司令部や並立する南西方面艦隊司令部の責任が大きく、その他日本側の判断ではどうしようもない作戦能力(特に偵察などの情報収集力)の低下がありソフト、ハード、量の全てで米軍とは雲泥の差であった。

そして、作戦開始後には小沢艦隊による誘出はシブヤン海海戦の後まで遅延し、西村艦隊の突入繰上げによっても遊撃部隊の突入タイミングは乱れ、栗田艦隊には『アメリカ側(主に第7艦隊)の状態』で述べたような兵力が立ちはだかった。なお、栗田艦隊のレイテ突入は、栗田艦隊司令部の言を信用するならば、小沢艦隊からの連絡は司令部の知るところではなく、味方基地航空隊の攻撃が行われているとの連絡もなく、支隊である西村艦隊もどうやら全滅したらしいという認識から、作戦の前提が崩壊しているという認識を持っていた。

そして、栗田艦隊をはじめ日本側は直前のサマール沖海戦で、米正規空母部隊の一群を撃破したと認識している[272]。この種の誤認は戦場では多発するものであり、偵察を重視していたアメリカ海軍でも多発した。一例としてはマリアナ沖海戦時、敵は発見したものの大和型戦艦を主力とする日本艦隊を艦のサイズを見誤ってその戦力を過小に報告したことがある。小沢艦隊からの囮成功の連絡もなく、自分の艦隊が(小沢艦隊が囮となって誘引するはずの)米機動部隊の一群をすでに捕捉・撃破している(という認識を持つ)状況下で、小沢艦隊の米機動部隊誘引作戦が成功しているなどという「正しい」認識を持つのは不可能であり、戦果を挙げたと認識している以上海軍上層部が作戦後に艦隊司令部等に処罰を行うことはありえない[273]

また、栗田艦隊は真偽はともかく北方機動部隊の電報を前提に動いた。これを放置した場合の脅威を想定したことを指摘する向きもある。もちろん栗田艦隊は北方機動部隊と会敵しなかったが、日本側が考えていた敵機動部隊たる第3艦隊は、陽動に引っかかったことに気づくと各部隊から戦闘艦艇を引き抜き、それら護衛艦を集結して大部隊とするより追撃を重視して栗田艦隊に向かった。一部の評論家が夢想した、「ヤキ1カに居たとしても逃げるだけで、機動部隊は護衛艦も含め水上戦には無力である」と言ったイメージとはかけ離れた姿であったし、都竹や小柳の証言に見られるように、日本側もそこまで機動部隊を軽んじていた訳ではなく、有力な敵だと見做していた。アメリカ側だけでなく日本側にも開戦初期以来、数々の海戦で護衛艦艇を攻撃的に使用し、或いはそのように使用する含みを持たせ運用してきた実績があった。

上で述べたように日本側では総じて事前準備、組織間の情報伝達、連携の調整の失敗が多くの者に指摘される。上記のほか例えば外山三郎も兵力差の他の重要な要因としてこれらを挙げている[274]。最終段階の栗田艦隊の行動を中心に意見が分かれる部分もあるが、資料批判を行なう評者の中には一部の批判に対しての反論もあり、日本軍批判であれば中身は何でも良いわけではない旨が指摘されることもある[275]

また、栗田が艦艇を保全したことは、数度にわたって行われた日本軍の逆上陸作戦(多号作戦、成功例もある)での護衛艦確保という意味で有益であった。米機動部隊は残存日本艦隊の攻撃に大きなリソースを割いており、艦艇がレイテ湾で全滅していれば、米機動部隊の陸軍部隊に対する空襲支援はより強力なものとなったであろう。従来の通説による栗田中将(或いは栗田艦隊)批判は、誤った情報を前提とした評価によるもの、残弾論争のように物証に乏しいものが多く含まれている。また奥宮の「消化試合」という言葉に代表されるように誰が指揮を行なっても史実以上の成果が得られたかは疑問であり、それだけ戦況は日本側に不利であった。

昭和30年に刊行された戦記である伊藤正徳の『連合艦隊の最後』において、本海戦は、

「無理の集大成であり、そして無理は通らないという道理の証明に終わった」

という評価が成されている。

戦闘序列(日本軍)[編集]

海上部隊については連合艦隊(基地航空部隊を含む海軍)の各艦隊と南西方面艦隊で指揮系統が大きく異なることに注意。但し建て前の上では作戦発動後連合艦隊司令長官が全海軍部隊を指揮できると取り決めされていた。

連合艦隊[編集]

司令長官:豊田副武大将 参謀長:草鹿龍之介中将 参謀副長:小林謙五少将 先任参謀:神重徳大佐

第二艦隊[編集]

司令長官:栗田健男中将 参謀長:小柳富次少将 先任参謀:山本祐二大佐 航空参謀:添田啓次郎中佐 作戦参謀:大谷藤之助少佐 砲術参謀:宮本鷹雄少佐 水雷参謀:森卓二少佐 機関参謀:大迫隼夫中佐 航海参謀兼副官:八塚清少佐
旗艦:愛宕→大和

  • 第一遊撃部隊第一部隊(第二部隊と合せて通称は栗田艦隊)
  • 第一遊撃部隊第二部隊
  • 第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)
    • 第二戦隊:司令官:西村祥治中将、戦艦 山城(10/25 没 スリガオ 砲雷撃)、扶桑(10/25 没 スリガオ 砲雷撃) 重巡洋艦 最上(10/25 没 スリガオ 砲雷撃、空母機)
    • 第四駆逐隊:司令:高橋亀四郎大佐、駆逐艦 山雲(10/25 没 スリガオ 雷撃)、満潮(10/25 没 スリガオ 砲雷撃)、朝雲(10/25 没 スリガオ 砲雷撃)
    • 第二十七駆逐隊:艦長:西野繁少佐、駆逐艦 時雨
  • 随行油槽船
    • 八紘丸 萬栄丸 御室山丸 日栄丸 雄鳳丸 厳島丸 日邦丸 良栄丸

第三艦隊[編集]

空母機116機 司令長官:小沢治三郎中将 参謀長:大林末雄少将 先任参謀:大前敏一大佐 参謀:青木武中佐 有馬高泰中佐 辻本毅少佐
旗艦:瑞鶴→大淀

  • 機動部隊本隊(小沢機動部隊)
    • 第三航空戦隊:司令長官直率、正規空母 瑞鶴(10/25 没 エンガノ沖 空母機)軽空母 千代田(10/25 没 エンガノ沖 空母機)、千歳(10/25 没 エンガノ沖 空母機)、瑞鳳(10/25 没 エンガノ沖 空母機)
    • 第四航空戦隊:司令官:松田千秋少将、航空戦艦 伊勢日向
    • 巡洋艦戦隊:司令官:多摩艦長山本岩多大佐指揮、軽巡洋艦 多摩(10/25 没 エンガノ沖 潜水艦)、五十鈴
    • 第一駆逐連隊(第三十一戦隊のみ):司令官:江戸兵太郎少将
    • 第二駆逐連隊:(第六十一駆逐隊司令兼務)
      • 第六十一駆逐隊:司令:天野重隆大佐、初月(10/25 没 エンガノ沖 砲撃)、若月秋月(10/25 没 エンガノ沖 潜水艦)
      • 第四十一駆逐隊:司令:脇田喜一郎大佐、霜月
  • 第二補給部隊
    司令:山崎 仁太郎少佐(秋風艦長と兼務)
    • 駆逐艦 秋風
    • 油槽船 仁栄丸 たかね丸
    • 海防艦 22号 29号 31号 33号 43号 132号

第六艦隊[編集]

  • 先遣部隊 司令長官:三輪茂義中将 参謀長:仁科宏造少将
  • レイテ方面:大型潜水艦8隻
  • マニラ方面:中小型潜水艦7隻

第五基地航空部隊[編集]

第一航空艦隊 司令長官:大西瀧治郎中将

直率 実働機約40機

第六基地航空部隊[編集]

第二航空艦隊

司令長官:福留繁中将 参謀長:杉本丑衛大佐

実働機223機

南西方面艦隊[編集]

司令長官:三川軍一中将 参謀長:西尾秀彦少将

第二遊撃部隊(志摩艦隊、10月18日より南西方面艦隊指揮下)

司令長官:志摩清英中将 参謀長:松本毅少将

  • 第二十一戦隊:司令長官直率 重巡洋艦 那智足柄
  • 第一水雷戦隊:司令官:木村昌福少将 軽巡洋艦 阿武隈(10/26 没 爆撃)
  • 第七駆逐隊、駆逐艦
  • 第十八駆逐隊、駆逐艦 不知火
  • 第二十一駆逐隊、駆逐艦 若葉(10/24 没)、初春初霜
    • (第二十一駆逐隊はセブ島への航空機材等の輸送のため21日朝馬公から高雄へ出港し突入には参加せず)
  • 第十六戦隊:重巡洋艦 青葉(10/23 離脱 潜水艦)、 軽巡洋艦 鬼怒(10/26 没 空母機) 駆逐艦 浦波(10/26 没 空母機)
    • (元々第一遊撃部隊と行動を共にしていたが、編成替えにより第二遊撃部隊の指揮下となる。「青葉」被雷のためマニラに回航され、旗艦を「鬼怒」に変更後、レイテ島オルモックへの兵員輸送を行う)

南方軍[編集]

第四航空軍[編集]

第四航空軍 司令官:富永恭次中将

第十四方面軍[編集]

第十四方面軍 司令官:山下奉文大将

第三十五軍[編集]

第三十五軍 司令官:鈴木宗作中将

戦闘序列(連合軍)[編集]

総計734隻(戦闘艦艇157隻、輸送船420隻、特務艦船157隻)[276]

第二次ケベック会談でレイテ攻略を最終決定した1944年9月、連合幕僚長会議の決定によりマッカーサー指揮の第7艦隊が上陸作戦の指揮を執ることとなった。この際、ハルゼーの上陸部隊移管の進言もあり太平洋艦隊からはウィルキンスン中将の両用戦部隊が移管されたが、第3艦隊を中心とする空母機動部隊とその補給部隊はニミッツの指揮下の太平洋艦隊にとどめ置かれ、その任務は第7艦隊を支援し、日本艦隊が出現した場合にはその撃滅を優先するものとなっていた。従ってで第3艦隊と第7艦隊では指揮系統が大きく異なる[277]

第3艦隊[編集]

太平洋方面最高司令官指揮下(最高司令官:チェスター・W・ニミッツ大将)

司令官:ウィリアム・F・ハルゼー大将、参謀長:ロバート・カーニー少将 (Robert Carney) 作戦主任参謀:ラルフ・ウィルソン大佐 航空参謀:ホレスト・モルトン大佐 通信参謀:レオナルド・ドウ大佐 情報参謀:マリオン・チーク大佐 作戦副参謀:ハーバート・ホーナー大佐 戦務副参謀:ハロルド・スタッセン大佐
艦隊旗艦:戦艦ニュージャージー

第38任務部隊[編集]

司令官:マーク・A・ミッチャー中将、参謀長:アーレイ・A・バーク代将、旗艦:空母レキシントン

役務部隊[編集]

下記兵力を10〜12のグループに分割し日本軍哨戒圏外の指定海域〜ウルシー間にて移動・待機

給油艦33隻、護衛空母11隻、曳船10隻、駆逐艦18隻、護衛駆逐艦27隻

第34任務部隊[編集]

水上打撃任務部隊

司令官:ウィリス・A・リー中将 (Willis A. Lee)

10月24日15時30付けで第38任務部隊第2群、第3群、第4群から水上部隊(戦艦6、巡洋艦7、駆逐艦17)を抽出して編成。ただし編成を宣言したものの実施されなかったと言う[278]。また、24日夕刻の時点では第3群の艦船は集結地点近海にいなかった。

潜水艦部隊[編集]

太平洋艦隊潜水艦部隊司令官:チャールズ・A・ロックウッド中将

シーライオン(戦艦金剛を撃沈)、ダーター(重巡愛宕撃沈)、デイス(重巡摩耶撃沈)、ハリバット(駆逐艦秋月撃沈?)他、計9隻

第7艦隊[編集]

南西太平洋方面最高司令官指揮下(最高司令官:ダグラス・マッカーサー陸軍大将、旗艦:軽巡洋艦ナッシュビル)
兵員輸送船53隻、貨物輸送船54隻[279]、その他含め攻略部隊艦船計420隻、戦闘艦艇計157隻[280]

司令官:トーマス・C・キンケイド中将、旗艦:輸送艦ワサッチ(水陸両用作戦部隊旗艦)

第70任務部隊[編集]

第1群
  • 高速魚雷艇隊(司令:レッスン少佐)
    • 魚雷艇 39隻(3隻・13個小隊)
      • 152号 130号 131号 127号 128号 129号 151号 146号 190号 192号 191号 195号 196号 194号 150号 134号 132号 137号 494号 497号 324号 523号 524号 526号 490号 491号 493号 495号 489号 492号 327号 321号 326号 320号 330号 331号 328号 323号 329号

第77任務部隊[編集]

第2群
支援射撃部隊(下記中央隊他はスリガオ海峡海戦時のもの)
司令官:ジェシー・B・オルデンドルフ少将、旗艦:重巡洋艦ルイビル

第4群[編集]

護衛空母部隊

司令官:トーマス・L・スプレイグ少将 (Thomas L. Sprague) 旗艦:護衛空母サンガモン

潜水艦部隊[編集]

(司令官:クリスティ少将)

第78任務部隊[編集]

北部攻撃(司令官:バーベイ少将)

第79任務部隊[編集]

南部攻撃(司令官:ウィルキンソン中将)

上陸部隊[編集]

米陸軍第6軍(海兵隊部隊は不参加)

総兵力20万2500名(司令官:W.クルーガー中将)

  • 第10軍団 53000名(司令官:F.シバート中将)
    • 第1騎兵師団 サンホセ、ドラグ方面に上陸(司令官:B.マッジ少将)
    • 第24師団 タクロバン、パロ方面に上陸 1個連隊はパナオン水道方面に上陸(司令官:F.アービング少将)
  • 第24軍団 51500名(司令官:J.ホッジ中将)
    • 第7師団 サンホセ、ドラグ方面に上陸(司令官:A.アーノルド少将)
    • 第96師団 サンホセ、ドラグ方面に上陸(司令官:J.ブラッドリー少将)
  • 軍直轄支援部隊
  • 第6レンジャー歩兵大隊
  • 軍予備部隊 28500名
    • 第32師団(司令官:W.ギル少将)
    • 第77師団(司令官:A.ブルース少将)

[281]

レイテ沖海戦に関する作品[編集]

映画[編集]

文学作品(小説)[編集]

  • 伊藤正徳『連合艦隊の最後』光人社、2000年。ISBN 4-7698-0979-4
    • 実質は戦史評論的な内容。初出1956年。栗田への取材付。
  • 大岡昇平レイテ戦記 (上巻)』中公文庫、1974年、初出1971年。ISBN 4-1220-0132-3
    • 小説と分類されているが、レイテ海戦を述べた部分は文中でその都度参考文献を明示しており、日米両軍への評価が見られる。
  • 佐藤大輔『目標、砲戦距離四万!』徳間文庫、1993年。ISBN 4-19-567506-5
    • レイテ沖海戦を扱った部分の前半は史実に対する佐藤の評論であり、後半は小説である。佐藤は戦史評論も複数の実績がある。1991年の単行本の文庫化。

ボードゲームおよび関連記事[編集]

  • 『太平洋艦隊』ホビージャパン
  • 『パシフィック・ウォー』VG。
  • 『日本機動部隊2』国際通信社、1999年。
  • 上田暁「コンピューターゲームデザイナーズノート 連合艦隊の栄光」『シミュレイター No.5 1986 Early Summer』翔企画
  • コマンドマガジン 第10号』国際通信社、1996年。
    • 特集は「レイテ」である。

脚注[編集]

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  1. ^ 英標記はDefense Technical Information Center所収の論文及び原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』の標記に従った
  2. ^ 児島襄 1974
  3. ^ 児島襄 1974
  4. ^ 『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三。なお、マッカーサー、ニミッツの提出した両計画の意図、両者の見解などはそれぞれの回顧録に詳しい。
  5. ^ 谷光太郎『アーネスト・キング』第11章。
  6. ^ マーシャルの考えは時系列に沿って配置していないが、主要人物の考えの提示として記載。谷光太郎『アーネスト・キング』第12章、『第2次大戦の米軍事戦略』第2章P74、第3章P161、第4章P212-213等も参照。
  7. ^ 『駆逐艦「野分」物語』第七章 「ハルゼーの猛進」。ただし、ハワイ会談の日付については、他の多くの文献が指している日付とした。
  8. ^ ハワイ会談については他節で挙げたものの他『レイテ沖海戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』 学習研究社 の谷光太郎の記述にもよる。
  9. ^ 以上、アメリカ側については上記文献のほか主に福田茂夫『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三、谷光太郎『アーネスト・キング』第11章等に拠る。
  10. ^ アメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月24日(英語版
    最初の回答。
  11. ^ 児島襄 1974, p. 240.
  12. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 87.
  13. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 88.
  14. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』P129。機数は文献によりばらつきがある。
  15. ^ この出来事は文献によっては省略されていることも多いが『戦史叢書』や一般的な文献では佐藤和正『レイテ沖海戦』第三章に記されている。
  16. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 85.
  17. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 86.
  18. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』第三章 米軍、レイテ島攻略を繰り上げる。他にこの件について触れた文献は『太平洋戦史シリーズ レイテ沖海戦』マッカーサーの比島への道などがある。
  19. ^ 江戸雄介『激闘レイテ沖海戦』及びキングII作戦計画
  20. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 91.
  21. ^ アメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月30日(英語版
    「Basically it was TOYODA's idea.」と回答している質疑がそれである。
  22. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第18-19画像
  23. ^ a b 「軍艦妙高戦闘詳報」第3画像
  24. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第三章 遅かった豊田長官の巡視行
  25. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第三章 103頁
  26. ^ 『海上護衛戦』23 24 25等
  27. ^ 『海上護衛戦』26 しびれた輸血管他
  28. ^ 『戦史叢書56巻 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦』、佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第四章
  29. ^ 『栗田艦隊』第6章内 進撃航路の選択
  30. ^ 松代格三「艦艇の航続力と海軍作戦」『世界の艦船』1992年10月号。
  31. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第五章「志摩艦隊、レイテ湾突入を決定す」
  32. ^ 以上、アメリカ側については松代格三「艦艇の航続力と海軍作戦」『世界の艦船』1992年10月号)
  33. ^ 『日本海軍 戦場の教訓』P346)。
  34. ^ 鈴木静夫『物語 フィリピンの歴史』中公新書
  35. ^ 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第13画像
  36. ^ 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第13-14画像
  37. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 176他.
  38. ^ 井川聡 2010, p. 159-160.
  39. ^ 能村次郎『慟哭の海』140-141頁。能村が横須賀海軍砲術学校で教官勤務時代、猪口は教頭。
  40. ^ 「捷号作戦戦時日誌(3)軍艦瑞鶴・軍艦日向」第5画像
  41. ^ C08030036600「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)」第4画像
  42. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 106.
  43. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 122.
  44. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 154.
  45. ^ a b カール・ソルバーグ 1999, p. 123
  46. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 124.
  47. ^ カール・ソルバーグ 1999, pp. 109-110.
  48. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 140.
  49. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 141.
  50. ^ a b c 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第30画像
  51. ^ 小板橋孝策 1985, p. 130.
  52. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第36、38画像
  53. ^ a b c 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第6画像
  54. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 128.
  55. ^ カール・ソルバーグ 1999, pp. 132-135.
  56. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 134.
  57. ^ a b c d 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第5画像
  58. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 155.
  59. ^ a b 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第6画像
  60. ^ カール・ソルバーグ 1999, pp. 145-146.
  61. ^ 安永弘『サムライ索敵機 敵空母見ゆ!』(光人社、2002)306-307頁
  62. ^ 池田清 1998, p. 158.
  63. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 159.
  64. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 169.
  65. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 168.
  66. ^ a b 「軍艦妙高戦闘詳報」第7画像
  67. ^ 宮崎清文 『軍艦高雄始末記 : 短現主計科士官の回想』 立花書房、1989年ISBN 4803740135
  68. ^ 「軍艦妙高戦闘詳報」第8画像
  69. ^ 池田清 1998, p. 148、井川聡 2010, pp. 156-157
  70. ^ 「軍艦羽黒戦闘詳報(1)」第9、10画像
  71. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)」第50画像
  72. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第54画像
  73. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第14画像
  74. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 171.
  75. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第55画像
  76. ^ a b カール・ソルバーグ 1999, p. 172
  77. ^ a b c d カール・ソルバーグ 1999, p. 173
  78. ^ 小板橋孝策 1984, p. 121.
  79. ^ 小板橋孝策 1985, pp. 150-151.
  80. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 175.
  81. ^ a b 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第6画像
  82. ^ 細谷四郎 1988, p. 159.
  83. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第22画像
  84. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第51画像
  85. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第52画像
  86. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第57画像
  87. ^ a b 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第61-62画像
  88. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第2-3画像
  89. ^ 以上、電文状況については主に佐藤和正「第九章 混迷の海」『レイテ沖海戦 下』に拠った。
  90. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第3画像
  91. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第4画像
  92. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第5画像
  93. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第24画像
  94. ^ 井川聡 2010, p. 170.
  95. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 162.
  96. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 165.
  97. ^ カール・ソルバーグ 1999, pp. 154-155.
  98. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)」
  99. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)」第34画像
  100. ^ 「昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦瑞鶴捷1号作戦戦闘詳報(1)」第22画像
  101. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 178.
  102. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)」第13-14画像
  103. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)」第40画像
  104. ^ 戦史叢書 56 P.201
  105. ^ 戦史叢書 56 P.188~194 P.200~204
  106. ^ 戦史叢書 56 P.234~241
  107. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 180.
  108. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 181.
  109. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 191.
  110. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 187.
  111. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 160.
  112. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 161.
  113. ^ a b 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第6画像
  114. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第25画像
  115. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 204.
  116. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第7画像
  117. ^ a b カール・ソルバーグ 1999, p. 205
  118. ^ a b c d e カール・ソルバーグ 1999, p. 206
  119. ^ a b カール・ソルバーグ 1999, p. 207
  120. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 208
  121. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第27画像
  122. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 207.
  123. ^ a b カール・ソルバーグ 1999, p. 209
  124. ^ a b カール・ソルバーグ 1999, p. 210
  125. ^ 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第16-17画像
  126. ^ 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第7画像
  127. ^ 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第19画像
  128. ^ 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第9画像
  129. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)」第36画像
  130. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 256.
  131. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)」第38-39画像
  132. ^ 「昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦瑞鶴捷1号作戦戦闘詳報(1)」第16画像
  133. ^ 「昭和19年10月25日 軍艦伊勢捷1号作戦戦闘詳報(1)」第6画像
  134. ^ 「軍艦五十鈴フィリピン沖海戦戦闘詳報」第17画像
  135. ^ 「軍艦五十鈴フィリピン沖海戦戦闘詳報」第30画像
  136. ^ 潮書房丸 (雑誌)・12月号(2008年)」94頁
  137. ^ 「軍艦五十鈴フィリピン沖海戦戦闘詳報」第10画像
  138. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)」第4画像
  139. ^ a b カール・ソルバーグ 1999, p. 268
  140. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)」第47画像
  141. ^ 井上陽介 2010, p. 187,191.
  142. ^ 小板橋孝策 1984, pp. 129-130.
  143. ^ 池田清 1998, p. 174.
  144. ^ 小板橋孝策 1985, p. 166.
  145. ^ a b 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第19画像
  146. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第29画像
  147. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第30、31画像
  148. ^ 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』170頁
  149. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 218.
  150. ^ 小板橋孝策 1984, p. 140.
  151. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第16画像
  152. ^ a b c 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』171頁
  153. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第20画像
  154. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第21画像
  155. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第27画像
  156. ^ 『写真集・日本の重巡』(光人社、1972)44頁
  157. ^ 井川聡 2010, p. 189-190.
  158. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第37、44画像
  159. ^ 池田清 1998, pp. 173-188.
  160. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第17画像
  161. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第29画像
  162. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 221.
  163. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第50画像
  164. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第45画像
  165. ^ 駆逐艦雪風手記編集委員会『激動の昭和 世界奇跡の駆逐艦 雪風』(駆逐艦雪風手記刊行会、1999年10月))。ただし『歴史群像 太平洋戦史シリーズ vol.9 レイテ沖海戦』では、撃沈した巡洋艦は2隻、撃破した空母は3隻となっている。矢矧では、戦闘中に「帝国海軍は敵艦隊と交戦、空母1隻、巡洋艦1隻撃沈、なおも戦果拡大中」との軍艦マーチつき大本営発表を受信したという(池田清 1998, p. 182、井川『軍艦「矢矧」海戦記』185頁)。
  166. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第65画像「煙幕の展開利用は巧みにして我攻撃効果を著しく減殺せり」
  167. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第9画像「煙幕の為視認極めて困難なり」。「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)」第42画像「発射前後目標視認状況」
  168. ^ 戦後、栗田、小柳ともに戦略爆撃調査団に煙幕が非常に有効であったと陳述している。
  169. ^ バレット・ティルマン「サマール沖のまちぶせ」『第二次大戦のTBF/TBMアベンジャー』P42には魚雷発射管の誘爆を狙ったと記されている。
  170. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第69画像「銃撃による被害は極めて大にして」
  171. ^ しかし福田幸弘、都竹によれば、93式電話機の空中線が吹き飛び、重巡群を先導していた同艦と、旗艦との通話連絡が途切れたことは、事後の戦況の把握に大きな支障を与えた。重巡群の戦果報告が比較的正確なのに対して、大和を含む他艦での報告は誇大で艦級のサイズも大きく報告されているが、それはこの接近距離に原因していた。
  172. ^ a b 『写真集・日本の重巡』(光人社、1972)45頁
  173. ^ 梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』212頁、矢矧航海士談(角川書店、2009)
  174. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第19画像
  175. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第21-22画像
  176. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第22-23画像
  177. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 225.
  178. ^ a b 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第34-35画像
  179. ^ a b c d 伊藤 1956, p. 238.
  180. ^ アメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月24日(英語版
    にある「Almost unanimous - yes, the decision was unanimous.」の回答がそれである。
  181. ^ James D. Hornfischer, "The Last Stand of the Tin Can Sailors", An unprecedented account of the U.S. Navy’s impossible victory: the Battle off Samar, October 25, 1944
  182. ^ 都竹が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』や第一戦隊戦闘詳報の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」(「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第54画像)が概ねの事実で、その艦はファンショウ・ベイである。至近弾による振動で同艦は黒煙を噴き、大和ではこれを撃破したと判断して他艦に目標を変更したものらしい(「大和」艦橋から見たレイテ海戦」)。能村次郎(大和副長兼砲術長)は、2隻目の米正規空母が煙幕に隠れる前に損傷させようと目標変更したと証言。なお、ガンビア・ベイへの命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている(『レイテ戦記 上巻』P217)。
  183. ^ 『空母ガムビアベイ』17「砲火の下で」
  184. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第13画像
  185. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第14画像
  186. ^ アメリカ海軍太平洋艦隊司令部作成『Battle Experience: Battle of Leyte Gulf』87頁
  187. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 253.
  188. ^ 戦史叢書 56 P.369 P.375 P.401
  189. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第43、45画像
  190. ^ 海峡通過・撤収の時系列は主に『駆逐艦「野分」物語』第七章、第八章による
  191. ^ 小板橋孝策 1985, p. 210.
  192. ^ 戦史叢書 41 P.312
  193. ^ ニミッツの太平洋海戦史 P.333
  194. ^ ハルゼーの太平洋海戦史 P.487
  195. ^ ハルゼーの太平洋海戦史 P.517
  196. ^ 『日本海軍 戦場の教訓』P400
  197. ^ 『学研太平洋戦史シリーズ9 レイテ沖海戦』P127
  198. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第11章 サマール沖の砲煙 P171
  199. ^ 『レイテ戦記 上巻』の「九 海戦」内P260
  200. ^ 文献では一般的な紹介である。『レイテ戦記』P260では日時について言及がある。
  201. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第十章P84-85
  202. ^ ACTION IN BATTLE OF SURIGAO STRAITS 25 OCTOBER 1944 USS West Virginia”. 2014年2月2日閲覧。}
  203. ^ Tully, Anthony P. (2009). Battle of Surigao Strait. Bloomington, Indiana: Indiana University Press. ISBN 978-0-253-35242-2.
  204. ^ ACTION IN BATTLE OF SURIGAO STRAITS 25 OCTOBER 1944 USS West Virginia”. 2014年2月2日閲覧。}
  205. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第十章P85
  206. ^ 佐藤和正も『レイテ沖海戦 下巻』P171で同様の立場を取っている
  207. ^ 例えば疲労については『栗田艦隊』P169、『日本海軍 戦場の教訓』P385、407等、立場を問わず半ば常識化して語られている。
  208. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第24画像
  209. ^ 『栗田艦隊』P156、P209等
  210. ^ 燃料減少と言う記述は児島襄 1974中公文庫版P283など
  211. ^ 『レイテ戦記 上巻』P261-262等
  212. ^ 「軍艦羽黒戦闘詳報(1)」第27画像
  213. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第24-25画像「0845、距離8000敵巡洋艦に魚雷4本発射」
  214. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第35画像
  215. ^ 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』230頁(光人社、1999年)
  216. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第42画像
  217. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』P179-180
  218. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』P260
  219. ^ 『レイテ戦記 上巻』P262
  220. ^ 『レイテ沖海戦 下巻』P170に大岡と全く同じ表現あり
  221. ^ 大塚好古「机上の空論だった戦艦大和のアウトレンジ戦法」「命中率3倍説はなぜ生まれたか」『やっぱり勝てない?太平洋戦争』2005年
    「机上の空論だった戦艦大和のアウトレンジ戦法」では、日本海軍が30000m以上の「遠大距離」での砲戦演習を1937年より開始したが、1941年には25000mに戻した旨が述べられている。理由は散布界の収束問題や敵艦の測的から射撃、弾着観測までの一連のシークエンスを短縮する目処がつかなかったからである。また、「命中率3倍説はなぜ生まれたか」ではサマール沖海戦を事例に実戦では演習時より命中率が大幅に低下するとしている。
  222. ^ 北村賢志「戦艦大和の虚像」『虚構戦記研究読本』光人社 1998年
    北村も史実では起こらなかったような戦艦同士の遠距離砲戦が仮にあったとしても、実績から命中弾が出ることに期待出来ない旨主張している。
  223. ^ 石橋孝夫「大和型、アイオワ級もし戦わば」『大和型戦艦』歴史群像太平洋戦史シリーズ 1996年
    石橋もまた、戦例の少なさから、特定の状況を仮定しその中で勝利条件を提示している。モデルにはレイテ沖海戦も挙げられている。結論としては、遠距離砲戦は不確定要素が多く、搭載機による弾着観測が行えることが条件であるが、実際の大和は常に航空機の脅威に晒されながら作戦行動していた旨が説明されている。
  224. ^ 第5次空襲で米側は輪形陣を組み直しつつあった第一遊撃部隊本隊ではなく、落伍した武蔵に攻撃を集中した。佐藤のようにこのことを以って被害担当艦とする者もいる。
    佐藤和正「武蔵 最大の被害担当艦となる」『レイテ沖海戦 上巻』第八章P387
  225. ^ なお、武蔵は猪口艦長の強い意向で出撃前の9月頃から外舷をダークシルバーへ塗り直しすることを各艦の艦長に薦め、シンガポールからペンキを取り寄せて自艦に実施した。このため武蔵は薄汚れた他艦の中にあって異彩を放ち夜間の航行でもあざやかな姿であったとされている。当時の艦隊乗員の中には「死に装束」と解釈した者達も居た。
    佐藤和正「武蔵 最大の被害担当艦となる」『レイテ沖海戦 上巻』第八章P164-165
    手塚正巳によればこの塗り替えは10月21日とされているが、それまでにもこまめに再塗装をする傾向があり、可燃性の塗料を作戦前に使い切るための処置だったとも言われていると言う。また「死に装束」という言葉と艦の最後から、「武蔵は被害担任艦として敵の攻撃を引き付けて沈没した」という解釈が生まれたという
    手塚正巳「第十五章 出撃」『軍艦武蔵(上)』新潮文庫 P593-594
  226. ^ なお、10月21日の愛宕作戦室での会議で最終的な突入計画が説明された際、参集した者達の間で被害担当艦を期待されていたのは第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)であった。
    佐藤和正「片道航路の特攻進撃計画」『レイテ沖海戦 上巻』第四章P204
  227. ^ 司令部人員の参考値は原勝洋『戦艦大和のすべて』インデックス・コミュニケーションズ(2004年)
  228. ^ 池田清『海軍と日本中公新書1981年、P33
  229. ^ 『戦艦大和 激闘の軌跡』p.104
  230. ^ 伊藤 1956, pp. 238-239.
  231. ^ a b c 伊藤 1956, p. 239.
  232. ^ 伊藤 1956, pp. 239-240.
  233. ^ 小柳『栗田艦隊』P207
  234. ^ 児島襄 1974, p. 281
  235. ^ 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ9』P122、『レイテ沖海戦 上』P93-97他 むしろこの話に触れない文献の方が少ない
  236. ^ 例えば佐藤和正『レイテ沖海戦 下』P353の黛
  237. ^ 『図説 太平洋海戦史3』P207の栗田による戦闘詳報
  238. ^ 外山三郎『図説 太平洋海戦史 3』P223
  239. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦下巻』P353にて「あの時はそれが正解だったし今でもそう信じている」と記載あり。
  240. ^ 小板橋孝策 1985, p. 216。戦後、著者と黛の対談より。
  241. ^ a b c 小板橋孝策 1985, p. 217
  242. ^ 小板橋孝策 1985, p. 218.
  243. ^ 『最後の帝国海軍』、『レイテ沖海戦下巻』P286
  244. ^ 『栗田艦隊』の序文
  245. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』他
  246. ^ 『レイテ戦記 上巻』P258
  247. ^ 『レイテ戦記上巻』P232
  248. ^ P262-263
  249. ^ 『レイテ戦記 上巻』P200-203
  250. ^ 谷は『歴史群像 太平洋戦史シリーズ9』P126
  251. ^ 『レイテ沖海戦 上』P93-97、『歴史群像 太平洋戦史シリーズ9』P123
  252. ^ 外山三郎『図説 太平洋海戦史 3』
  253. ^ 『レイテ沖海戦』『日本海軍 戦場の教訓』
  254. ^ 『魔性の歴史』P236、356[要文献特定詳細情報]
  255. ^ 『海上護衛戦』26 しびれた輸血管
  256. ^ 小板橋孝策 1985, p. 219.
  257. ^ 小板橋孝策 1985, p. 221.
  258. ^ 井川聡 2010, p. 207「『大和』艦橋での激論」
  259. ^ 井川聡 2010, p. 213「小沢治三郎の短刀」
  260. ^ 桜BBインターネット放送「人間の杜」#59/60及び『防人の道 今日の自衛隊』 2006年11月13日および15日に前編、12月に後編。当該番組の概要
  261. ^ 井川聡 2010, p. 209.
  262. ^ 井川聡 2010, p. 210「栗田は三川の電報だから信用した、と言っている」
  263. ^ 井川聡 2010, pp. 210-211「『捏造電報』だった」"A"は原文まま。戦後、参議院議員とあることから作戦参謀であった大谷藤之助少佐を指すものと考えられる。
  264. ^ 井川聡 2010, p. 200-201.
  265. ^ 細谷四郎 1988, p. 288.
  266. ^ 細谷四郎 1988, pp. 291-292.
  267. ^ "「CQ Ham Radio」誌、JA2CNCJA9LIN"
  268. ^ 艦船用の通信設備についての一般的な解説は『世界の艦船1989年2月号』「特集・艦隊通信」他に拠る。
  269. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第69画像「軍艦大和に於ける捷一号作戦通信戦訓」
  270. ^ なお、小島の活動については現在中帰連などで確認ができる
  271. ^ 佐藤和正、外山三郎など
  272. ^ 小柳富次『栗田艦隊』P157で「戦後真相を知ってびっくりした」との記述
  273. ^ 『レイテ沖海戦 下』P351-352等、また小柳は護衛空母だと戦後に知ったと『栗田艦隊』で述べた。
  274. ^ 『太平洋戦史シリーズ 9』P123で谷光太郎が米側専門家の指摘に同意する形で纏めた部分。『図説 太平洋海戦史』P221等
  275. ^ 大岡昇平『レイテ戦記 上巻』佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』『やっぱり勝てない?太平洋戦争』など。亀井、都竹などもこの系譜に類する
  276. ^ 数は児島襄 1974, p. 247による
  277. ^ 指揮系統の2元問題については下記を参照
    新見政一「23 沖縄上陸に至るまでの米国の太平洋戦争指導の概要」『第二次世界大戦戦争指導史』P507-508
    佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第十一章P158-159
    『学研太平洋戦史シリーズ9 レイテ沖海戦』P81,84,P123
  278. ^ 外山三郎『太平洋海戦史 3』
  279. ^ 谷光太郎『アーネスト・キング』による
  280. ^ 『レイテ沖海戦 上』P158
  281. ^ 陸軍部隊は児島襄 1974, p. 249および『太平洋戦史シリーズ 9』P88等による。上陸地点は文献は多いが佐藤和正『レイテ沖海戦 上』P193など

参考文献[編集]

基本的には最も新しい出版時点を基準に配列。本海戦については長年に亘り多くの出版物が発行され、それをもとに多くの議論がなされた。特に後年のものは前の文献を参照している事例が多いため、初出年についても記す。

  • 米国海軍省戦史部 編、史料調査会 訳『第二次大戦米国海軍作戦年誌 1939-1945』出版協同社。
  • ジェームス・フィールドJr 著、中野五郎 訳『レイテ沖の日米大決戦 捷号作戦の真相記録 太平洋戦争の大海戦史』妙義出版、1956年、初出1949年。
    • 『The Japanese at Leyte Gulf』の邦訳。著者はハーバード大出身の戦史研究者。訳者は朝日新聞記者として開戦時ワシントンに駐在。
  • 伊藤, 正徳 (1956), 連合艦隊の最後, 文藝春秋新社 
  • 『実録太平洋戦争〈第4巻〉マリアナ沖海戦からレイテ特攻まで』中央公論社、1960年。
  • 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将栗田健男中将』中央公論社、1967年。
  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで』朝雲新聞社、1970年。
  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書41巻 捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦』朝雲新聞社、1970年。
  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書56巻 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦』朝雲新聞社、1972年。
  • 栗田中将会見記」『決断 8月号(Vol.3)』(1971年、「君はアニメンタリー決断を知っているか」内に転載)。
  • 「レイテ海戦の戦史的考察 -上、下-」『軍事史学 7(1)〜(2)』、1971年6月、9月。
  • ドナルド・マッキンタイヤー 著、大前敏一 訳『第二次世界大戦ブックス5 レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』サンケイ新聞社出版局、1971年。
  • 『写真集・日本の重巡「古鷹」から「筑摩」まで全18隻の全て』(光人社、1972)42-45頁
    • 浅井秋生 元海軍中佐、羽黒砲術長。サマール沖海戦、護衛空母追撃部分の証言。
  • 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』1973年(昭和48年12月増刊号)170-171頁
    • 都竹卓郎 元海軍中尉。サマール沖海戦における大和の砲撃開始から終了まで。反転については語っていない。
  • 児島襄 『太平洋戦争 下巻』 中央公論社〈中公文庫, [こ-8-1,2]〉、1974年ISBN 412200117X
    • 政治的経緯との関係が充実、(上)のまえがきで発言まで含め史料に拠ったことを明記、初版は中公新書、1966年
  • 小島清文 「栗田艦隊反転は退却だった「ナゾの反転」の神話はかくて崩壊した (昭和史・最後の証言)」『文藝春秋』1978年3月号、文藝春秋
  • 小島清文『栗田艦隊』図書出版社、1979年。
    • 著者は大和の暗号士、その経験から栗田艦隊司令部による電文捏造説を主張
  • 福田茂夫「第四章 三 オーバーロード開始とレイテ作戦決定」『第二次大戦の米軍事戦略』叢書、国際環境、中央公論社、1979年。
  • 福田幸弘「「栗田艦隊」反転の謎-1-〜-5-」『ファイナンス』大蔵財務協会、1979年7月号〜10月号に連載。
    • 著者は羽黒の主計士官で本海戦の戦闘記録係でもあった。羽黒の戦闘詳報はこの記録を元に作成され終戦後も残存、それと著者の記憶などを元に執筆した物。
  • 『丸 昭和56年4月 特集レイテ沖海戦』潮書房、1981年。
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年。
  • 小板橋孝策 『戦艦大和いまだ沈まず』 光人社、1984年ISBN 4769802242 愛宕航海士。大和移乗後、防空指揮所見張員。サマール沖海戦後に負傷。
  • 小板橋孝策 『下士官たちの戦艦大和』 光人社、1985年ISBN 4769802676
  • 細谷四郎 『戦艦武蔵戦闘航海記』 八重岳書房、1988年ISBN 4896461142
  • ジョン・トーランドen:John Toland (author))『大日本帝国の興亡〈4〉』ハヤカワ文庫(ノンフィクション)、1984年、初版は1971年(毎日新聞社)。
  • 『丸スペシャル 比島沖海戦1 太平洋戦争海空戦シリーズ』丸スペシャル105、潮書房、1985年。
  • 『丸スペシャル 比島沖海戦2 太平洋戦争海空戦シリーズ』丸スペシャル106、潮書房、1985年。
  • 中川八洋「レイテ湾頭の栗田艦隊「痛恨の反転」の謎を追う(将の「大決断」<特集>)」『ウイル』1985年1月号、中央公論社。
  • 豊田穣『空母瑞鶴の生涯』集英社文庫、1985年、ISBN 4-0874-9009-2。のち光人社で著作集
  • 外山三郎『敗因究明に主論をおく太平洋海戦史〈5〉マリアナ沖海戦、レイテ海戦、及び特攻攻撃並びに敗因の底にあるもの』教育出版センター、1986年。ISBN 4-7632-6804-X
  • 森本忠夫「レイテ沖"謎の反転"の真相」『潮』、1986年9月号。
  • W・P・ブリューア 著、井上寿郎 訳『悪魔の魚雷艇』朝日ソノラマ、文庫版新戦史シリーズ、1988年。ISBN 4-2571-7206-1
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争(全)』1989年。ISBN 4-7698-0445-8
  • 福田幸弘『最後の連合艦隊 レイテ海戦記(上巻)』角川文庫、1989年。ISBN 4-04-174401-6
  • 福田幸弘『最後の連合艦隊 レイテ海戦記(下巻)』角川文庫、1989年。ISBN 4-04-174402-4
    • 『ファイナンス』の連載を大幅に改稿し『連合艦隊―サイパン・レイテ海戦記』(1981年)として単行本としたものの文庫化。栗田の陳述禄付(『海軍経理学校第36期のホームページ』内の引用、紹介
  • 読売新聞社 編集『昭和史の天皇 レイテ決戦〈上〉』角川書店、1989年。ISBN 4-04-173902-0
  • 読売新聞社 編集『昭和史の天皇 レイテ決戦〈下〉』角川書店、1989年。ISBN 4-04-173903-9
  • 『写真太平洋戦争 第四巻』光人社、1989年。ISBN 4-7698-0416-4
  • 戸部良一寺本義也鎌田伸一杉之尾 孝生村井友秀野中郁次郎「1章5 レイテ海戦 自己認識の失敗」「第2章」「第3章」『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』中公文庫、1991年、1984年に出版した単行本の文庫化。ISBN 4-1220-1833-1
  • E・B・ポッター 著、秋山信雄 訳「第18章 レイテ湾」『キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』1991年。ISBN 4-7698-0576-4
  • C・W・ニミッツ / E・B・ポッター 共著、実松譲 / 冨永謙吾 共訳『ニミッツの太平洋海戦史』(英題 THE GREAT SEA WAR)恒文社、1992年新装版。ISBN 4-7704-0757-2
  • 柳田邦男『零戦燃ゆ〈5〉』文春文庫、1993年。ISBN 4-1672-4013-0
    • 『零戦燃ゆ〈渾身篇〉』(1990年初出)を改題、分冊して文庫化。
  • 福田誠伊藤健太郎牧啓夫石橋孝夫「第7章」「第8章」『太平洋戦争海戦ガイド』新紀元社、1994年。ISBN 4-8831-7230-9
  • 中尾裕次「捷号作戦準備をめぐる南方軍と第十四軍との葛藤」『軍事史学』第30巻第1号、1994年
  • 小柳富次『栗田艦隊』光人社NF文庫、1995年、初出は1950年、1956年再版。ISBN 4-7698-2095-X
  • 外山三郎『図説 太平洋海戦史〈3〉』光人社、1995年。ISBN 4-7698-0711-2
  • 小林昌信ほか『証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995) ISBN 4-7698-2087-9
    • 渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず」(瑞鶴戦闘機整備科員。エンガノ沖海戦に参加)
  • 伊藤由己『検証・レイテ輸送作戦』近代文芸社、1995年。ISBN 4-7733-4387-7
  • 『レイテ沖海戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』学習研究社、1995年。ISBN 4-0540-1265-5
  • 奥宮正武『日本海軍が敗れた日〈下〉 レイテ沖海戦とその後』、PHP文庫、1996年、初出1993年。ISBN 4-5695-6958-7
  • 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』光人社NF文庫、1998年。ISBN 4-7698-2196-4
  • 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』光人社NF文庫、1998年。ISBN 4-7698-2198-0
    • 雑誌『丸』に1984年9月から1987年12月まで連載したものを『レイテ沖の日米決戦(日本人的発想VS欧米人的発想)』ISBN 4-7698-0374-5(1988年刊行)として単行本化。文庫化にあたり改題。
  • 原勝洋『戦艦大和建造秘録』KKベストセラーズ、1999年。ISBN 4-5841-7076-2
  • カール・ソルバーグ・高城肇訳 『決断と異議 : レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』 光人社、1999年ISBN 4769809344
    • 原書 Carl Solberg (1995). Decision and dissent: with Halsey at Leyte Gulf. Naval Institute Press. ISBN 978-1-55750-791-4. 
    • 著者はTIME誌記者を経て軍に志願、空中戦闘情報(ACI)将校として南西太平洋軍に勤務、本海戦時は第3艦隊司令部に配属され旗艦ニュージャージーに乗組み従軍した。訳者は光人社創業者。
  • 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年。ISBN 4-05-400982-4
  • 利根川裕「それは臆病風に吹かれたのではなく、古き海軍の思想と美学ゆえだった レイテ沖海戦--栗田健男「謎の反転」の心理を読む」『プレジデント』2000年3月号。
  • 青山弘「戦史豆知識 栗田艦隊の謎の反転を考える」『鵬友』航空自衛隊幹部学校幹部会、2000年7月号。
  • 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』P128-142、P256、光人社NF文庫、2000年、1989年に出版した単行本の文庫化。ISBN 4-7698-2289-8
  • 半藤一利 『レイテ沖海戦』PHP研究所、2001年。ISBN 4-569-57616-8
    • 半藤一利、吉田俊雄共著『全軍突撃 レイテ沖海戦 』(初版1970年)を改題し、後半部の半藤著述部分を抜粋した版。吉田が記述した前半部は作成の背景や計画についての経緯が詳述されたが、再版に当たり現在の読者にはそういった文章は受け入れづらいという(編集者出身の)半藤の判断で、吉田の了承を得て削除された。半藤は自らの著述部分については「海戦記」を目指した旨を述べている。
  • 大井篤 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年2月ISBN 978-4-05-901040-1「第7章 南方ルート臨終記」
    • 初出1953年、以後1975年、1983年、1992年に再版。
  • 宇垣纏戦藻録 宇垣纏日記[新装版]』原書房、2001年第2版、初出1953年、1968年再版、1996年新装版初版。ISBN 4-562-02783-5
  • 外山三郎「戦史 太平洋諸海戦の我が敗因に潜む「迂闊」と「不覚」の史例の考察(2)サマール島沖海戦後レイテ湾を背に針路を「北」にとった栗田艦隊の部隊集結」『波涛 Vol.27, No.2』兵術同好会、2001年7月。
  • 神野正美『空母瑞鶴』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1026-1
    • 1992年初出、1995年文庫化した本の改訂版。書名は個艦名がつけられているが、エンガノ岬沖海戦を米軍のアクションレポートを和訳し日本側戦闘詳報と比較、通信不達についても新証言などがある。
  • E・P・ホイト 著、戸高文夫 訳『空母ガムビアベイ』学研M文庫、2002年。ISBN 4-05-901140-1
  • 江戸雄介『激闘レイテ沖海戦 提督ブル・ハルゼーと栗田健男』光人社NF文庫、2002年、初出1993年。ISBN 4-7698-2336-3
  • 『歴史群像55 特集レイテ沖海戦』2002年10月号、学習研究社。
  • ダグラス・マッカーサー 著、津島一夫 訳『マッカーサー大戦回顧録[下]』中公文庫、BIBLO20世紀、2003年、日本での初出版は1964年。ISBN 4-12-204239-9
  • 半藤一利、横山恵一秦郁彦『日本海軍 戦場の教訓』PHP文庫、2003年、2001年単行本初出。ISBN 4-569-66001-0
  • 左近允尚敏「レイテ海戦における重巡熊野の戦闘 航海士 左近允中尉手記 第1回〜第4回」『波涛 Vol.29, No.2〜5』兵術同好会、2003年7月、9月、11月、2004年1月。
  • 岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間 「大和」艦載機偵察員の戦場報告』光人社NF文庫、2004年、初出1998年、以前にも自費出版歴あり。ISBN 4-7698-2414-9
  • 原勝洋「第二部 レイテ沖海戦における大和艦隊の実態」『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』三修社、2004年。ISBN 4-3840-3389-3
    • 第二部にて日米の一次資料を駆使しアメリカ側の作戦計画、栗田艦隊の動きを記述。
  • 「やっぱり勝てない?太平洋戦争」制作委員会 著『やっぱり勝てない?太平洋戦争』シミュレーションジャーナル、並木書房、2005年。ISBN 4-89063-186-0
  • 酒井直行、本多秀臣、文殊社(編)、2006、『戦艦大和 激闘の軌跡』28号 第31巻第2号 通巻721号、 新人物往来社〈別冊歴史読本〉
  • 志柿謙吉『回想レイテ作戦 海軍参謀のフィリピン戦記』光人社NF文庫、2005年、初出1996年。ISBN 4-7698-2462-9
  • 佐藤晃「16章 フィリピンの戦い」『帝国海軍が日本を破滅させた(下) Incompetent Japanese Imperial Navy』光文社ペーパーバックス、2006年。ISBN 4-3349-3388-2
  • 菊澤研宗『「命令違反」が組織を伸ばす』光文社、2007年。ISBN 4-3340-3413-6
  • 井川聡 『軍艦「矢矧」海戦記: 建築家・池田武邦の太平洋戦争』 光人社、2010年8月ISBN 978-4-7698-1479-5
    • 第三章レイテ沖海戦「反転の謎を追って」「『大和』艦橋での激論」深井俊之助(大和副砲長)の証言。
  • 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定--ミッドウェー・レイテ沖両海戦」、『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部日本史学研究室、2010年3月、 183-197頁、 NAID 40017143241

『機関誌水交』掲載記事[編集]

  • 石川寿雄「比島沖海戦における「瑞鶴」の最後」337号、1981年。
  • 久原一利「若い世代へ遺すもの(6)レイテ湾における栗田艦隊」533号、1999年。
  • 久原一利「栗田艦隊レイテ反転の疑問について」535号、1999年。
  • 左近允尚敏「「栗田艦隊の謎の反転」ほか」584号、2005年。
  • 櫻井正「比島沖海戦における第五艦隊と志摩清英司令長官」589号、2006年。
  • 池田清 『最後の巡洋艦・矢矧』 新人物往来社、1998年12月28日ISBN 978-4-404-02692-7

日本国外文献(主に未邦訳もの)[編集]

  • Woodward C.Vann 『The Battle for Leyte Gulf』 McMillan Press (1947)
  • Samuel en:Samuel Eliot Morison『Leyte: June 1944-January 1945 (History of United States Naval Operations in World War II, Volume 12) 』(2001)
    • いわゆる『モリソン戦史』。レイテ海戦は12巻。フィリピン戦は13巻。日本では中野五郎訳『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』として改造社より4巻組で1950年から1951年に出版。
  • Richard Bates『The Battle for Leyte Gulf, October 1944. Strategical and Tactical Analysis. Volume I. Preliminary Operations until 0719 October 17th, 1944 Including Battle off Formosa』(1953)PDF文書
    上記カール・ゾルバーグによれば海大のベイツ准将が作成。膨大な戦闘詳報、通信記録をもとに編纂され、後にモリソンもこれを著書の参考にした。
  • [The Battle of Leyte Gulf]『World War II Naval Histories and Historical Reports』 Naval War College, Battle Analysis Series (1953〜1958)
    • 海軍大学戦闘分析シリーズ(国会図書館による日本語仮訳)。海軍士官の訓練と教育のために、海軍大学が作成。同図書館では2002年度購入、2003年公開
  • Stanley Falk 『Decision at Leyte』 W.W.Norton Press (1966)
  • Stewart Adrian『The Battle of Leyte Gulf』 Scribner's Press (1980)
  • Charles D.Crowell『SHO-1 versus KING II - Victory at Leyte Gulf - Was it United States Luck or Japanese Mistakes?』(1989)
  • Gerald E. Wheeler 『Kinkaid of the Seventh Fleet: A Biography of Admiral Thomas C. Kinkaid, U.S. Navy』Naval Historical Center ISBN 1557509360 (1996)
  • Rafael Steinberg『Return to the Philippines (World War II)』Time Life Education ISBN 0783557094(1998、初出1979年)
  • 『Afternoon of the Rising Sun: The Battle of Leyte Gulf』Presidio Press ISBN 0891417567 (2001)
  • Thomas J. Cutler『The Battle of Leyte Gulf: 23-26 October 1944 (Bluejacket Books)』Naval Inst Press ISBN 1557502439 (2001、1994年初出)
  • H. P. Willmott『The Battle Of Leyte Gulf: The Last Fleet Action (Twentieth-Century Battles)』Indiana Univ Press ISBN 0253345286(2005)
  • Paul Dull『A Battle Hisitory of THE IMPERIAL JAPANESE NAVY(1941-1945)』Naval Inst Press ISBN 1591142199 (2007)
  • [Leyte:The Return to the Philippines]"U.S.Army in World War II"
    • アメリカ側の公式戦史のひとつ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本国外(日本語以外)[編集]