松 (松型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
Insert image here.svg
艦歴
発注 1942年戦時建造補充(改マル5計画)追加計画
起工 1943年8月8日
進水 1944年2月3日
就役 1944年4月28日
その後 1944年8月4日に戦没
除籍 1944年10月10日
性能諸元
排水量 基準:1,262t
公試:1,530t
全長 100.00m
全幅 9.35m
吃水 3.30m
主缶 ロ号艦本式缶2基
主機 艦本式タービン2基2軸 19,000hp
速力 27.8kt
航続距離 18ktで3,500
燃料 重油370t
乗員 211名
兵装 40口径12.7cm単装高角砲 1基
40口径12.7cm連装高角砲 1基
25mm連装機銃 4基
25mm単装機銃 12基
61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)
九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発)

(まつ)は大日本帝国海軍駆逐艦松型(丁型)の1番艦。日本海軍の艦名としては2代目である。

艦歴[編集]

丁型一等駆逐艦第5481号艦として舞鶴工廠で建造。1943年(昭和18年)8月8日起工。1944年(昭和19年)4月28日竣工。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将海軍兵学校41期[1])に編入され、5月1日に舞鶴を出港してに回航された。

6月18日まで瀬戸内海方面で慣熟訓練を行った後[2]軽巡洋艦長良」、駆逐艦「清霜」とともに横須賀に回航され[3]、第十一水雷戦隊に加勢された他の軽巡洋艦、駆逐艦および輸送艦とともに、小笠原諸島方面への輸送作戦に投入された[4]。「松」は「長良」、「冬月」および第4号輸送艦とともに硫黄島への輸送部隊の第一陣に加わり、6月29日に横須賀を出撃[5]。硫黄島への輸送任務を終えて父島を経由し、7月2日に横須賀に帰投した[6]。帰投後、「松」は横須賀鎮守府部隊に編入された[7]

7月15日、「松」と「」「」「」で第四十三駆逐隊(菅間良吉中佐)が編成される[8]。7月29日、「松」は第二護衛船団司令部高橋一松少将・海兵40期[9])の旗艦として、駆逐艦「旗風」、第4号海防艦第12号海防艦第51号駆潜艇と、第109師団栗林忠道中将)指揮下の歩兵第145連隊主力を乗せた輸送船5隻で四八〇四船団を構成し、館山を出港して父島へ向かった[10]

第四八〇四船団[11]
  • 昌広丸(石原汽船、4,739トン)
  • 利根川丸(松岡汽船、4,997トン)
  • 延寿丸(岡田商船、5,374トン)
  • 第七雲海丸(中村汽船、2,182トン)
  • 龍江丸(大連汽船、5,626トン)
  • 護衛:松 旗風 第4号海防艦 第12号海防艦 第51号駆潜艇[12]

8月1日、第四八〇四船団は父島に到着。物資を陸揚げ後、第四八〇四船団は8月4日8時に父島を出航した[12]。しかし、10時30分に父島北西20海里の地点にさしかかったところで、スカベンジャー作戦のため来襲した第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機に発見された[13]。艦載機は二波に分かれて襲来し[13]、攻撃後の第四八〇四船団は、「松」と第4号海防艦、「利根川丸」を残すのみとなり、損傷した第12号海防艦は別途で横須賀に向かっていた[14]。ミッチャー中将は第四八〇四船団を全滅させるために、軽巡洋艦ビロクシ (USS Biloxi, CL-80) 、モービル (USS Mobile, CL-63) 、サンタフェ (USS Santa Fe, CL-60) および駆逐艦12隻の混成部隊(L・デュ・ボース少将)を分離させて、第四八〇四船団が彷徨っている海域に急行させた。

18時ごろ、第4号海防艦はデュ・ボース少将の艦隊を発見して砲戦を開始した。第四八〇四船団は利あらずと更なる退却を続けていたが、やがて「松」は第4号海防艦と「利根川丸」を逃がす為、高橋少将は「四号海防艦は利根川丸を護衛し戦場を離脱せよ」と命令した上で反転して、単艦でデュ・ボース少将の艦隊を迎撃していった。1時間40分後の19時40分、「松」は第4号海防艦に対し「我、敵巡洋艦と交戦中。これより反転、突撃す」と最期の打電をして、「松」は敵艦隊に突撃していった。敵艦隊の一時的な足止めには成功したが、「松」は「我敵巡洋艦と交戦中、ただいまより反転これに突撃…」の平文電信を最後に通信が途絶えた。「松」が逃がそうとした「利根川丸」も逃げ切ることが出来ず、20時ごろに艦砲射撃およびB-24の夜間爆撃で撃沈された[15]。「松」の乗組員は吉永艦長以下全員が戦死し、高橋少将以下第二護衛船団司令部員全員もこれに殉じた。その最後の戦いの詳細は不明であるが、アメリカ側の記録では、聟島北東25海里地点で、モービルが指揮下の駆逐艦とともに「松」と「利根川丸」を撃沈したとある[16]。「松」は10月10日に除籍された。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』360-361頁による。

艤装員長[編集]

  1. 米井恒雄 少佐:1944年3月25日 -

駆逐艦長[編集]

  1. 吉永源 少佐:1944年4月28日 - 8月4日戦死

脚注[編集]

  1. ^ 同期の将官は海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#41期参照
  2. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.6
  3. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.17
  4. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.21
  5. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.23,45
  6. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.36,45 、C08030127500, pp.5
  7. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.5
  8. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.63 、雨倉, 93ページ
  9. ^ 同期の将官は海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#40期参照
  10. ^ 『海防艦戦記』690ページ
  11. ^ 木俣, 475ページ
  12. ^ a b 『海上護衛総司令部戦時日誌』pp,12
  13. ^ a b 『海防艦戦記』696ページ
  14. ^ 『海防艦戦記』723ページ
  15. ^ 『海防艦戦記』696ページ、多田, 86-90頁(四号海防艦所属学徒士官談)
  16. ^ 木俣, 477ページ

参考文献[編集]

  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年四月一日至昭和十九年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十九年五月一日至昭和十九年五月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127100
  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年六月一日至昭和十九年六月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127400
  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127500
  • 海上護衛総司令部『自昭和十九年八月一日至昭和十九年八月三十一日 海上護衛総司令部戦時日誌』(昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030137600
  • 海防艦顕彰会『海防艦戦記』海防艦顕彰会/原書房、1982年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 多田実『何も語らなかった青春「学徒出陣五十年、歴史を創ったわだつみの若者たち」』三笠書房、1993年
  • 雨倉孝之「松型駆逐艦長の奮戦記」『歴史群像太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年、ISBN 4-05-603251-3
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9

関連項目[編集]