隼鷹 (空母)

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1945年佐世保にて
艦歴
起工 1939年3月20日
進水 1941年6月26日
竣工 1942年5月3日
除籍 1945年11月30日
処分 1947年にスクラップとして解体
性能諸元
排水量 基準: 24,140トン
全長 219.32m
水線幅 26.7m
吃水 8.15m
飛行甲板 長さ:210.3m x 幅:27.3m
主缶 三菱式水管缶6基
主機 三菱ツェリー式オールギヤードタービン 2基2軸 56,250hp
速力 25.68 ノット
航続距離 18ノットで10,150海里(燃料: 重油 4,118トン )
乗員 士官、兵員 1,187名
兵装
(竣工時)
40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃8基
兵装
(最終時)
40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃19基
25mm連装機銃2基
25mm単装機銃30挺(推定)
12cm28連装噴進砲10基
搭載機
(常用+補用)
艦戦12+3機 艦爆18+2機
艦攻18+5機 合計48+10機
(補用計5機、または7機の資料もある)
1945年9月26日の佐世保での姿。手前に見えるのは波二〇一型潜水艦

隼鷹(じゅんよう)は、日本海軍航空母艦飛鷹型航空母艦[1]の2番艦。 ただし、海軍の公式記録上では隼鷹型航空母艦の1番艦である[2]

概要[編集]

空母「隼鷹」は、姉妹艦の空母「飛鷹(出雲丸)」同様、有事の空母改造を前提に建造中の日本郵船橿原丸級貨客船橿原丸」(かしはらまる)を空母へ改装したものである[3]。日本海軍は太平洋戦争開戦から約半年を経て発生した1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦において大敗、主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)を失う。この時点で残る中型以上の高速正規空母翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴瑞鶴)のみであった。「隼鷹、飛鷹」の速力は正規空母の30kt以上に比較して遅く、鋼板も薄く防御能力でも見劣りしたが、中型の正規空母「蒼龍」なみの航空機搭載量を持つ貴重な戦力であり[4]、ミッドウェイ海戦以降は大型正規空母の「翔鶴、瑞鶴」をサポートし、それに勝るとも劣らぬといえる活躍をした。姉妹艦「飛鷹」は1944年6月のマリアナ沖海戦で撃沈される。以後の「隼鷹」は高速輸送艦として運用され、終戦まで残存した[5]。だが機関部の損傷により、空母「鳳翔葛城」のように復員船として運用されることなく、また客船に戻されることもなく解体された[5]

艦歴[編集]

橿原丸として[編集]

海軍技術将校/艦艇研究家の福井静夫によれば、大型高速客船を有事に際し空母に改造する発想はイギリスからもたらされたという。1923年(大正12年)末、第一次大戦後の欧州視察のためイギリスを訪問した平賀譲造船少将に対し、イギリス海軍造船局長サー・ユースタス・テニスン・ダインコートは大型商船を空母化する利点について熱心に説いた[6]。当時のイギリスが保有する150隻以上の1万トン以上大型客船は、有事に際し兵員輸送船や特設巡洋艦に転用できるため、列強(特にアメリカ)から重大な脅威とみなされていた[7]。ダインコート卿の提案は日本海軍の構想と一致した。アメリカを仮想敵とした場合に求められたのは、兵員輸送力ではなく、洋上決戦を挑むための航空戦力とそれを運用する航空母艦だったからである[8]。こうして日本海軍は有事空母化を前提とした商船や客船の建造を模索、1929-1930年に日本郵船の「秩父丸(鎌倉丸)」、「浅間丸」、「龍田丸」が完成した[9]。続いて大阪商船あるぜんちな丸級貨客船2隻(あるぜんちな丸海鷹》、ぶらじる丸)が三菱重工業長崎造船所で1938年-1939年にそれぞれ進水、竣工する[10]。さらに1940年東京オリンピックにそなえるべく日本郵船の新田丸級貨客船3隻(新田丸《冲鷹》、八幡丸《雲鷹》、春日丸《大鷹》)が計画され、いずれも三菱重工業長崎造船所で建造された[11]。太平洋戦争と共に各船は日本海軍に徴用され、大鷹型航空母艦として再就役した[12]

「隼鷹」の前身である客船「橿原丸」は三菱重工業長崎造船所において1939年(昭和14年)3月20日に起工した[13]。完成した場合には、2万7700トン、最大発揮速力25.5ノット、旅客定員890名という、太平洋航路最大級の客船となるはずだった[14]。だが機関部や客室部分など、設計段階から空母に改造することを前提とした構造となっていた[15]。隣の船台では大和型戦艦2番艦「武蔵」が建造中である(1938年3月29日起工)。1939年11月27日、兵庫県神戸市川崎造船所(川崎重工業)で空母「瑞鶴」が進水、3日後の11月30日に同船台にて「出雲丸(第一〇〇一番艦)」が起工される[13]。1940年(昭和15年)1月6日、新田丸級貨客船「春日丸」が「橿原丸」の隣で起工される(同年9月15日進水)。11月1日、「武蔵」は「橿原丸」より一足先に進水。だが武蔵進水後の造船台は依然として簾で隠されたままで、長崎の住民は「武蔵はもう1隻いる」と噂していた[16]。造船所の火災で「橿原丸」の姿が簾越しに浮かびあがると、住民達は同船を第二の「武蔵」と錯覚したという[16]。1941年(昭和16年)2月、「橿原丸」は日本海軍に買収され「第一〇〇二番艦」の仮艦名を与えられる[13]。6月24日、「出雲丸/1001番艦」が進水。2日後の6月26日、「橿原丸/1002号艦」が進水した[13]。12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまる。

アリューシャン作戦[編集]

「1002号艦」は1942年(昭和17年)5月3日に竣工、特設航空母艦隼鷹」として呉鎮守府所管[17]。この時はまだ艦首の菊御紋章がついていなかった[18]。「隼鷹」は、日本の空母として初めて島型艦橋と上方煙突が一体化した大型艦橋を有していた[13]。これは建造中の大鳳型航空母艦の実験を兼ねており、煙突は外側へ26度傾斜している[13]レーダー二式二号電波探信儀一型)の装備も日本空母初の試みであった[13]。また商船としてある程度建造が進んでいた「隼鷹」は、姉妹艦「飛鷹」にくらべて木製部分が多く、戦争後半の防火対策で苦労する事になった[19]

竣工後の「隼鷹」はただちに空母「龍驤」と合同し、第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入される[13]。5月19日、「隼鷹」は広島湾那沙美水道の最狭部で軍艦「大和」と反航してすれ違い、宇垣纏連合艦隊参謀長は「無謀とや云はん。禮儀を知らずとや云はん。」と隼鷹艦長に怒っている[20]。 5月20日附で、四航戦(龍驤、隼鷹)、第四戦隊第2小隊(摩耶高雄)、第一水雷戦隊(旗艦阿武隈、第6駆逐隊《》、第21駆逐隊《若葉初霜子日初春》、第7駆逐隊《》)は北方部隊に編入された。「隼鷹」は第二機動部隊に所属し、四航戦(龍驤、隼鷹)、重巡洋艦2隻(摩耶、高雄)、駆逐艦3隻(潮、曙、漣)、補給船「帝洋丸」と共にアリューシャン方面作戦に参加した。 6月3日、雲間より出現したPBYカタリナ飛行艇に雷撃されるが、投下位置が「隼鷹」に近すぎたため魚雷は飛行甲板を越えて反対舷に落下、その後PBYは「高雄」に撃墜されたという[21]。6月4日よりダッチハーバーに対し空襲を行うが、小数兵力のため大きな戦果をあげることもなく、天候悪化により隼鷹艦爆1機が行方不明となった[22]。「龍驤」所属の零戦が不時着し、米軍に鹵獲されたのも、この作戦中の出来事だった(アクタン・ゼロ)。 6月5日、ミッドウェー海戦南雲機動部隊主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)が沈没。6月14日、攻略部隊に所属していた空母「瑞鳳」、第三戦隊第1小隊(比叡金剛)が北方部隊に合流。「隼鷹」は駆逐艦から「蒼龍」搭乗員を受け入れたという[23]。また本土からも空母「瑞鶴」が出撃し、6月23日に大湊で四航戦と合流した。各隊は米軍機動部隊来襲に備えて北方海域の哨戒を行ったが米艦隊出現の徴候はなく、7月5日には米潜水艦「グロウラー、トライトン」の雷撃で駆逐艦2隻(、子日)沈没、2隻(不知火)大破航行不能という被害を出す。これを機会に、各隊は日本本土の母港へと帰投した。7月10日、「隼鷹」以下各隊各艦は北方部隊の指揮下を離れた。

米軍機動部隊との戦い[編集]

7月14日、特設航空母艦「隼鷹」は軍艦籍に加入し、呉鎮守府所属の『軍艦 隼鷹』となった[24][25]。7月31日、姉妹艦「飛鷹」が軍艦籍に加入[26]。「隼鷹、飛鷹、龍驤」は再編成された第二航空戦隊に所属し、第三艦隊の構成艦として出撃準備を行う。だが各隊訓練中の8月7日に米軍はガダルカナル島フロリダ諸島に上陸し、ガダルカナル島の戦いがはじまる。8月12日、二航戦旗艦は「飛鷹」に移る。この時、第一航空戦隊の空母「瑞鳳」は練度不足と判断される。そのため「瑞鳳」の代艦として「龍驤」が第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)に編入されるとソロモン諸島へ進出した。「龍驤」は8月24日の第二次ソロモン海戦で撃沈された。

10月4日、第二航空戦隊(飛鷹、隼鷹)と駆逐艦「磯波」は内地を出発、9日トラック泊地へ進出した[27]。ガダルカナル島米軍ヘンダーソン飛行場への日本陸軍総攻撃(10月24-25日予定)に呼応すべく、日本海軍は空母機動部隊、水雷戦隊(軽巡由良、駆逐艦秋月村雨春雨夕立五月雨白露等)を派遣する。ところがヘンダーソン基地への航空攻撃を実施中だった二航戦旗艦「飛鷹」で機関室火災が発生[28]。同艦は戦闘航海不能となりトラックへ撤退する[29]。「隼鷹」は二航戦旗艦となり、飛鷹艦載機の一部を臨時編入した。10月26日、「隼鷹」は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)と共に米艦隊(第11任務部隊・第16任務部隊・第64任務部隊)と交戦する。米空母「ホーネット」の撃沈、米空母「エンタープライズ」の撃退に貢献したが[30]、多くの航空機と熟練搭乗員を失った。「翔鶴、瑞鶴、瑞鳳」は損傷の修理と航空隊補充のため随時内地へ回航され、トラック泊地に残る作戦行動可能な空母は「隼鷹」1隻となった[31]

11月12日以降の第三次ソロモン海戦では、第一夜戦で行動不能となった挺身艦隊旗艦「比叡」と護衛駆逐艦(雪風照月時雨白露夕暮)を掩護する必要が生じ、「隼鷹」は零式艦上戦闘機を派遣する。だが数機単位でしかなく、ヘンダーソン基地から次々に飛来するF4Fワイルドキャット戦闘機と交戦して身を守るがやっとだった。B-17爆撃機TBFアベンジャー雷撃機の波状攻撃を受けた戦艦「比叡」はアイアンボトム・サウンドに沈んだ。ヘンダーソン基地に対する艦砲射撃は中止、ガダルカナル島へ向かう増援部隊輸送船団も大損害を受け、日本海軍はガダルカナル島を巡る決定的な戦闘に敗北した。

12月上旬、軽空母「龍鳳」が第三艦隊に編入され、トラック泊地への進出が決まる。駆逐艦「時津風」に護衛されて12月11日に横須賀を出港するが、翌日に米潜水艦「ドラム」に雷撃され中破、横須賀に避退する[32]。「龍鳳」と「隼鷹」が合同する機会はしばらく遠のいた。

昭和十八年以降の戦い[編集]

その後ウェワクへの陸軍部隊の輸送(丙一号輸送)の際に搭載機を対潜、対空警戒にあたらせるため、1943年(昭和18年)1月15日、空母「隼鷹」は駆逐艦「朝雲、五月雨」とともにトラックを出港した[33]。17日にウェワクに零戦23機、艦攻6機を進出させて反転、19日にトラックに戻った[34]。この輸送作戦中、ウエワクへ隼鷹基地要員と陸兵を輸送していた「春雨」が米潜水艦「ワフー」に雷撃されて大破、後述の船体断裂により復帰に1年弱を要する損害を受けている[35]。隼鷹飛行機隊はウェワクでの活動中B-24を6機撃墜、3機撃破を報じ、25日にカビエン経由で零戦14機、艦攻6機がトラックに戻った[36]。なお「春雨」は2月中旬に駆逐艦「天津風浦風」と工作艦「雄島」に曳航されてトラック泊地へ戻るが、途中で船体は断裂、艦前部を喪失した[37]

1月下旬、ガダルカナル島からの撤退作戦(ケ号作戦)が実施される。これを支援すべく、第二艦隊司令長官近藤信竹中将が座乗する旗艦「愛宕」以下重巡洋艦「愛宕、高雄羽黒妙高」、戦艦「金剛榛名」、軽巡洋艦「長良神通阿賀野」、空母「隼鷹、瑞鳳」、駆逐艦「朝雲、五月雨、時雨、陽炎大波敷波」は1月31日にトラック泊地を出撃[38][39]。2月3日、「朝雲。五月雨」はケ号作戦実施部隊にまわされショートランド泊地へ向かう[40]。支援艦隊は米軍機動部隊出現に備えて待機したが交戦の機会はなく、2月9日までにトラックへ帰投した。 2月15日、「隼鷹」は第三戦隊(金剛、榛名)、空母「冲鷹」、水上機母艦「日進」、重巡「鳥海利根」、駆逐艦「時雨、大波、黒潮、陽炎、」と共にトラック泊地を出港するが、悪天候のため航空隊を収容できず、「隼鷹、陽炎、黒潮」のみトラックへ引き返した[41]。2月16日、改めて15駆2隻(陽炎、黒潮)と共に内地へ向かった[42]

3月22日、二航戦(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦「涼月、夕暮、陽炎」は大分県佐伯市を出港した[43]。28日、トラック泊地に着く[44]。 4月18日、い号作戦指揮中の山本五十六連合艦隊司令長官が海軍甲事件で戦死した。連合艦隊旗艦「武蔵」は山本長官の遺骨を乗せて日本に帰投することになり、「飛鷹」も同行する事になった。戦艦「武蔵、金剛、榛名」、空母「飛鷹」、重巡「利根、筑摩」、駆逐艦「時雨、有明、海風初月、涼月」は5月17日にトラックを出港した。その後、日本海軍はアリューシャン方面の米軍の動向を踏まえた上で、内地の「飛鷹」にトラックへの進出を命じる[45]。6月10日、横須賀を出港した「飛鷹」、駆逐艦「夕暮、有明」は暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦「トリガー」に襲撃された[45]。魚雷1本が命中した「飛鷹」は航行不能となり、軽巡洋艦「五十鈴」に曳航されて横須賀へ引き返した[46]。6月16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[47]、軽空母「龍鳳、大鷹、冲鷹」は第7駆逐隊・16駆・17駆・27駆等(時雨、雪風、浜風谷風、潮、曙等)に護衛されてトラックへ進出、「隼鷹」と合同した[48]

一方、トラック泊地の「隼鷹」は航空隊と基地要員をルオット島へ派遣することが決定[49]。6月16日、第二水雷戦隊・軽巡「神通」と駆逐艦「江風」は基地用要員300名以上、航空魚雷、軍需物資糧食をルオット島へ輸送した[49]。7月以降、「隼鷹」も輸送任務に従事する。またマーシャル諸島へ派遣していた二航戦(隼鷹、龍鳳)航空隊をラバウルへ転用する事になり[50]、 第四水雷戦隊の軽巡「長良」と27駆「時雨」がその任務に投入された[51]。輸送任務中の7月15日、「長良」はカビエンで触雷し小破した[52]。同月下旬、「隼鷹」は日本本土へ帰投した。

9月11日、連合艦隊の下令により丁一号輸送部隊(指揮官隼鷹艦長:隼鷹、木曾、多摩、大波、谷風、栗田丸)が編制され、海上機動旅団(甲支隊)を輸送する事になった[53]。第一回次は9月15日宇品より「木曾、多摩」、第二回次は9月18日宇品より「栗田丸、大波」、第三回次は空母「隼鷹」と駆逐艦「谷風」が担当して9月19日岩国よりトラックへ向かい、24日に到着した[53]。「隼鷹」が輸送した部隊はトラックにて「木曾、多摩、谷風」に移乗し、カロリン諸島ポナペにて揚陸した[53]。第一次進出部隊の輸送完了により、丁一号輸送部隊は27日附で解散した[53]

10月20日、第11水雷戦隊司令官木村進少将が指揮する丁三号輸送部隊(旗艦山城航空戦艦伊勢、軽巡龍田、第32駆逐隊《早波涼波藤波》)は、甲支隊第二次進出部隊を輸送してトラック泊地へ到着する[53][54]。この部隊は陸軍兵士2000名以上や各種軍需品を輸送してきた他、「山城、伊勢」には戦艦「武蔵、長門扶桑」用の46㎝砲弾、40㎝砲弾、36㎝砲弾を積載していた[55]。 28日、古賀峯一連合艦隊司令長官は「隼鷹」と駆逐艦「海風涼風谷風」及び空母「雲鷹」と駆逐艦「」に対し、第11水雷戦隊と合流しての日本本土帰還を命じる[56][57]。さらに同部隊に重巡洋艦「利根」が合流する[58]。同艦は10月16日にタービンの損傷が判明し、内地で本格的に修理する予定であった[59]

10月31日、第11水雷戦隊(伊勢《旗艦》[60]、山城、隼鷹、雲鷹、利根、龍田、海風、涼風、谷風、曙)はトラック泊地を出発する[61]。11月4日、悪天候により「龍田、海風」が損傷を受ける。 11月5日午前5時、暗号解読により豊後水道近海で日本艦隊を待ち伏せていた米潜水艦「ハリバット」 (USS Halibut, SS-232) は第11水雷戦隊を襲撃、長門型戦艦翔鶴型航空母艦とおぼしき目標に対して魚雷攻撃を敢行した。5時35分、魚雷1本が「隼鷹」艦尾に命中、右舷機械室の浸水と舵故障により「隼鷹」は直進不能となる[62]。戦死2名、行方不明2名、重傷者2名、軽傷者14名を報告したが[63]、海に落ちた行方不明2名は「谷風」に救助された[64]。なお「ハリバット」が発射した魚雷のうち、戦艦「山城」に向かった魚雷は外れた。午前10時頃より「隼鷹」は「利根」に曳航されて約5-6ノットで被雷海域を離脱し、6日に母港・呉へ帰投した[65][66]。損傷部分の修理と並行し、花園雄次(海兵51期、隼鷹副長)、桜庭久右衛門(隼鷹内務長)の指導により、艦内の各所に使用されていた木材や可燃物を撤去する[67]。前述のように「隼鷹」は「飛鷹」に比べて商船時代の名残り(木材部分)が多く、改修には苦労したという[19]

マリアナ沖海戦[編集]

1944年(昭和19年)2月、新艦長として渋谷清見大佐が「隼鷹」に着任[68]。書類上の最大発揮速力25.5ノットとは裏腹に、実際には24ノット程度だったと回想している[68]。 3月7日、「翔鶴、瑞鶴、隼鷹、飛鷹」を上回る装甲空母「大鳳」がようやく竣工し、4月上旬にはリンガ泊地に到着して第一機動艦隊旗艦・第一航空戦隊旗艦となる。修理後の「隼鷹」は6月19日-20日のマリアナ沖海戦に小沢機動部隊(第一機動艦隊)・乙部隊(指揮官城島高次少将:第二航空戦隊《隼鷹、飛鷹、龍鳳第六五二海軍航空隊》、戦艦長門、重巡洋艦最上、第4駆逐隊《満潮野分山雲》、第27駆逐隊《時雨五月雨》、第2駆逐隊《秋霜早霜》、第17駆逐隊《浜風》)として参加した。「隼鷹」は第二航空戦隊旗艦(司令官城島少将)に指定されていたが、これは「隼鷹」の訓練整備不充分のため、司令官が直接指揮するという意図があったという[69]

6月19日、小沢機動部隊本隊の空母「大鳳翔鶴」は米潜水艦「アルバコアカヴァラ」の雷撃で沈没。2隻の炎上と「大鳳」沈没は第二航空戦隊からも見ることが出来た[70][71]。 翌6月20日夕刻、小沢機動部隊は、甲部隊、乙部隊、前衛部隊、補給部隊が同一海面に集結したところを米軍機動部隊艦載機約200に襲撃された。「隼鷹」の煙突に命中した爆弾は艦橋と一体化した煙突を吹き飛ばし、戦死者多数(二航戦司令部2名、六五二空7名、隼鷹乗組員約50名以上)を出した[72][73]。また至近弾6発により飛行甲板が損傷し[74]、着艦制動装置も故障して上空退避させた航空隊を収容することが出来なくなる[75]。至近弾による被害は他にも生じた。特に艦尾・舵取機室左舷の空き部屋に石油缶を積み込んでいたため、これ引火して消火に手間取った[76]。本来陸揚げすべき帳簿外の燃料を、飛行科が秘密裡に艦内に持ち込んでいたことが6時間にわたる火災の原因となったという[77]。また同日の空襲では被弾直後に米軍雷撃機隊に襲撃されたが、その編隊は戦艦「長門」の主砲対空射撃により撃退され「隼鷹」は難を逃れた[70][78]

この戦闘で姉妹艦「飛鷹」は爆弾1発、魚雷1本が命中して炎上、「長門」による曳航も失敗して沈没[75]。乗組員は「満潮《飛鷹艦長・副長収容》、浜風」等に救助された。飛鷹生存者達は、「隼鷹」を襲撃したTBFアアベンジャー艦攻6機を「長門」が主砲で撃退した際(4機撃墜)、残存した2機が「飛鷹」に目標を変更、1機が同艦に魚雷を命中させたと分析している[79]。 「時雨」の援護もあった「龍鳳」は小破に留まった。22日、小沢機動部隊は沖縄中城湾に撤退、ここで「隼鷹」は「浜風、満潮」等が救助した飛鷹生存者を受け入れる[80][81]。一連の戦闘で、第652海軍航空隊の残存戦力(隼鷹、龍鳳合計)は九九式艦上爆撃機:8機(21喪失)・彗星艦上爆撃機:5機(6喪失)・天山艦上攻撃機:3機(12喪失)・爆装零戦:5機(22喪失)・零式艦上戦闘機:12機(41喪失)になっていたという[82]

マリアナ沖海戦以後[編集]

7月10日、第二航空戦隊は解隊された。同日附の編制替えにより「隼鷹」は第四航空戦隊(司令官松田千秋少将:伊勢型航空戦艦伊勢日向、隼鷹、龍鳳《後日編入》:第六三四海軍航空隊)に所属する[83]。煙突や飛行甲板など損傷箇所を修理、12cm28連装噴進砲と対空機銃を増設装備した[84]。並行して艦内の徹底的な不燃化を実施し、食卓・椅子・チェスト・ロッカーなども廃止した[85]。だが「隼鷹」が搭載すべき所属航空隊は各方面に転用されてしまった。1944年10月中旬以降の捷号作戦では、「隼鷹」は航続距離の短い駆逐艦に対する燃料補給船(タンカー)として周防大島近くの八島錨地に回航されたという[86]。日本海軍機動部隊最後の作戦行動となったレイテ沖海戦に参加した四航戦艦艇は、空母ではなく航空戦艦2隻(伊勢、日向)であった。同海戦で第三航空戦隊瑞鶴瑞鳳千代田千歳)は全滅、「隼鷹」の隣で建造された戦艦「武蔵」も沈没した。以降は搭載する航空戦力がなく、残存空母達は輸送作戦に従事するようになった。空母は格納庫や飛行甲板に大量の物資を積める上に、通常の輸送船と比較して遙かに高速であり、輸送艦としても適任だったのである[87]

1944年(昭和19年)10月30日、渋谷清見隼鷹艦長を指揮官として、空母「隼鷹」は軽巡洋艦「木曾」、第30駆逐隊(司令澤村成二大佐:夕月卯月)を護衛艦とし、『緊急輸送作戦』に従事すべく佐世保を出港する[88]。翌日には30駆「秋風」と合同した[88]。台湾・馬公市に立ち寄ったのちブルネイに向け移動中の11月3日夜、米潜水艦「ピンタド」は「隼鷹」に対して魚雷6本を発射する。これが駆逐艦「秋風」に命中して22時53分に同艦は轟沈[89]、総員戦死[90]。「ピンタド」は爆雷攻撃を受けて退避し、「隼鷹」は難を逃れた。同海域には他に米潜水艦複数(ジャラオアトゥル等)が遊弋していたが、これらも「隼鷹」の捕捉に失敗した。 6日にブルネイ到着し第一遊撃部隊(大和長門金剛榛名等)と合流、「隼鷹」は大和型戦艦用の46㎝砲弾(九四式四〇糎砲)を供給した[91]。 8日未明には第一遊撃部隊に引き続いてブルネイを出港[92][93]。第一遊撃部隊と分離後、輸送艦隊(隼鷹、利根、木曽、卯月、夕月)は10日夕刻にフィリピンマニラに到着した[94]。「木曾」は同日附で第五艦隊・第一水雷戦隊に編入されマニラで待機することになり、「隼鷹」と分離した。直後の13日、「木曾」は米軍機の空襲を受けマニラ湾で大破着底した。一方、「隼鷹」は12日にマニラを出発する。西村艦隊唯一の残存艦「時雨」が「隼鷹」に合同していた[95]。15日、米潜水艦「バーブ」に雷撃されたが、5隻とも無事であった。16日、日本近海で「隼鷹」と「利根」は護衛艦と分離[96]。各艦母港へ帰投した。11月16日附の編成替えで第一機動艦隊・第三艦隊は解隊され、「隼鷹」は連合艦隊直属、第一航空戦隊の所属になる。1945年1月、第二艦隊、第一航空戦隊の所属になる。

11月下旬、再度マニラへ『緊急物資』輸送任務を行うべく、「隼鷹」は第41駆逐隊(秋月型駆逐艦冬月涼月)、松型駆逐艦「」を護衛として内地を出発した[87][97]。30日マニラ到着後、物資揚陸を行い12月1日に出港[98]。戦艦「武蔵」の生存者200名ほどが日本に戻るため「隼鷹」に便乗した。続いて台湾の馬公市に移動、戦艦「榛名」、駆逐艦「初霜」と合流する。「榛名」はシンガポールで座礁し、18ノット以上を出すと危険な状態にあった。「霞、初霜」は「榛名」と分離して第二水雷戦隊本来の任務へと戻っていった。台湾を出港した「榛名、隼鷹」は日本への帰投を急ぐが、もはや本土近海も安全な海域ではなかった。12月9日午前1時30分頃、長崎県野母崎沖の女島付近で、「隼鷹、榛名」達は米潜水艦「シーデビル」(USS Sea Devil, SS-400) 、「レッドフィッシュ」(USS Redfish, SS/AGSS-395)、「プライス」 (USS Plaice, SS-390) の3隻に同時襲撃される。「シーデビル」か「レッドフィッシュ」のどちらかが発射した魚雷2本が「隼鷹」の艦首と右舷中央部に命中。「武蔵」生存者を「また沈没するのか」と慌てさせた[99]。「隼鷹」の艦首部底部は10m近く亡失した[100]。右舷中央部に命中した魚雷により右舷機械室は満水となるが、浸水被害を中央隔壁で食い止めたため、左舷機関は無事だった[101]。戦死者19名、浸水被害は約5000トン。右舷に18度傾斜した「隼鷹」は13ノットを発揮、佐世保に向かった[101]。後方の「涼月」は「隼鷹」が転覆するのではないかと懸念していたという[102]

なお石塚(槇艦長)によれば、「槇」は「隼鷹」に向かう魚雷に意図的に被雷し「隼鷹」を守ったとされる[103]。当時「槇」を操艦していた後藤航海長によれば、先頭「槇」-「榛名」-「隼鷹」の順序で嵐の中を航行していたところ「榛名」から『槇は隼鷹の後につけ』の命令があり、「榛名、隼鷹」の右側を反航して南下した[104]。水中聴音機により潜水艦を確認。警戒しながら「隼鷹」後方につくべく面舵に転舵したところ左舷前方から魚雷が迫り、被雷面積を最小限におさえるため艦長の許可を得て直進した[105]。艦中央部への命中は避けられたものの、「槇」は艦首に被雷して艦首部を喪失、微速前進で長崎港へ帰投している[106]。「槇」は「隼鷹」乗組員から大いに感謝されることになった[107]

機関部に損傷を受けた「隼鷹」は行動不能となった。そこで輸送任務に投入される航空母艦として雲龍型航空母艦雲龍」が指定された。12月17日、「雲龍」は駆逐艦「時雨」と共に軍需物資・陸軍兵及び『緊急輸送物件』(有人ロケット特攻機「桜花」)30機を積載、マニラに向かった。12月19日、「雲龍」は「隼鷹」を雷撃した「レッドフィッシュ」に襲撃され、桜花の誘爆により沈没する。「檜、樅」はマニラに向い、「時雨」は佐世保に帰投した。12月31日、今度は空母「龍鳳」が桜花58機を積込み、駆逐艦「時雨、浜風磯風」及びヒ87船団と共に台湾高雄市へ桜花を輸送した。

「隼鷹」の修理は1945年(昭和20年)3月末までかかった。ドックから出渠したものの、船体が修理されたのみで右舷機械室は修理されなかった[108]。そもそも大型艦を作戦に投入する燃料がなかった[100]。再度修理した後に出撃させる計画(戦艦大和と同じく、特攻作戦に使われるなどの)があったが、機械室の修理が完了されないまま佐世保のエビス湾に疎開して繋留放置され、8月15日の終戦を迎える[108]。マストから四方にワイヤーを張り、マットと樹木で艤装した「隼鷹」は一度も空襲を受けなかったという[100]。「隼鷹」は外洋航行ができず、引き揚げ任務の特別輸送艦に指定されなかった。11月30日除籍。1947年(昭和22年)8月1日解体終了。商船への復帰はならなかったが、太平洋戦争を生き延びた商船改造艦艇の中で最大級の船舶であった。

「隼鷹」の鐘はマリアナ沖海戦の爆弾命中によって失われたが、後にアメリカが回収し1944年にアメリカのフォーダム大学に寄贈されている。「隼鷹」の慰霊碑は呉海軍墓地にあり、隣には「隼鷹」の楯となって全乗組員が戦死した駆逐艦「秋風」の慰霊碑が建立されている。

年表[編集]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』61-63頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

艦長[編集]

  • 石井芸江 大佐:1942年5月3日-
  • 岡田為次 大佐:1942年7月20日-
  • 長井満 大佐:1943年2月12日-
  • 大藤正直 大佐:1943年12月25日-
  • 渋谷清見 大佐:1944年2月21日-
  • 欠:1944年12月20日-
  • 前原富義 大佐:1945年5月12日-

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ #日本空母物語300頁
  2. ^ #内令昭和18年9月(6)p.24『内令第千九百八十五號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十八年九月二十五日海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ項ヲ左ノ如ク改正ス 鳳翔、赤城、加賀、龍驤、蒼龍、飛龍|翔鶴型:翔鶴、瑞鶴|瑞鳳型:瑞鳳、龍鳳|隼鷹型:隼鷹、飛鷹|大鷹型:大鷹、雲鷹、冲鷹|大鳳型:大鳳|雲龍型:雲龍、天城』
  3. ^ #特設艦船入門183頁
  4. ^ #日本空母物語64頁
  5. ^ a b #特設艦船入門191頁
  6. ^ #日本空母物語94頁
  7. ^ #日本空母物語96頁
  8. ^ #日本空母物語97頁
  9. ^ #日本空母物語102頁
  10. ^ #日本空母物語298頁
  11. ^ #日本空母物語105頁
  12. ^ #佐藤 艦長(文庫)73頁
  13. ^ a b c d e f g h #日本空母物語302-303頁
  14. ^ #特設艦船入門186頁
  15. ^ #日本空母物語103頁
  16. ^ a b #艦と人129頁
  17. ^ #内令昭和17年5月(1)p.29『内令第七百九十七號 特設航空母艦 隼鷹 右呉鎮守府所管ト定メラル|昭和十七年五月三日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  18. ^ #零戦の攻防46頁
  19. ^ a b #飛鷹副長175-176頁
  20. ^ #戦藻録(1968)118頁
  21. ^ #零戦の攻防55頁
  22. ^ #零戦の攻防56頁
  23. ^ #零戦の攻防57頁
  24. ^ #内令昭和17年7月(2)pp.9-10『内令第千二百四十二號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月十四日海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ項中「瑞鳳」ノ下ニ「、隼鷹」ヲ加フ(略)』
  25. ^ #内令昭和17年7月(2)pp.14-15『内令第千二百四十七號 特設航空母艦 隼鷹 右呉鎮守府所管ト定メラレタル處之ヲ解カル|軍艦 隼鷹 右本籍ヲ呉鎮守府ト定メラル|昭和十七年七月十四日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  26. ^ #内令昭和17年7月(4)pp.38-39『内令第千三百八十九號 艦艇類別等級表左ノ通改正ス 昭和十七年七月三十一日海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ項中「隼鷹」ノ下ニ「、飛鷹」ヲ加フ』-『内令第千三百九十一號 軍艦 飛鷹 右本籍ヲ呉鎮守府ト定メラル(略)』
  27. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)180頁『第二航空戦隊のトラック進出と米軍と誤認された「瑞鳳」』
  28. ^ #空母機動部隊(2010)126-127頁
  29. ^ #戦藻録(1968)213頁
  30. ^ #佐藤 艦長(文庫)74頁
  31. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)211-212頁『支援部隊トラック帰投及びその一部の内地回航』
  32. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)216-217頁『航空母艦による航空機輸送』
  33. ^ #須藤.五月雨164頁
  34. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦3、32-33ページ
  35. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)243頁『丙三号輸送』
  36. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦3、33ページ
  37. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)260頁『「天津風、浦風」によるウエワクへの増援輸送と「春雨」の救難』
  38. ^ #S1811二水戦日誌(1)p.24『31日|二.0630前進部隊警戒隊(神通朝雲五月雨陽炎大波時雨敷波)「トラック」出撃。0800ヨリ1045迄北口外方海面対潜掃蕩|三.900前進部隊本隊及同航空部隊「ケ」号作戦ノ為「トラック」出撃|四.1050警戒隊同右ノ直衛配備ニ就ク|五.1030親潮「トラック」帰着|六.野分初風、機動部隊ニ編入』
  39. ^ #須藤.五月雨166頁
  40. ^ #須藤.五月雨167頁
  41. ^ #S1811二水戦日誌(3)p.20『15日1100 3S時雨(佐世保ニ向ケ)鳥海冲鷹嵐大波(横須賀)2sf(飛鷹缺)日進黒潮陽炎(呉)8S(筑摩缺)(舞鶴)各軍港ニ向ケ「トラック」発|四.1700 2sf(飛鷹缺)陽炎黒潮天候不良ノ為Y収容不能ニ付「トラック」入泊』
  42. ^ #S1811二水戦日誌(3)p.3『(ロ)第15駆逐隊|陽炎1月31日「トラック」発前進部隊警戒隊トシテ「ケ」號作戦ニ従事2月9日「トラック」帰着、同16日隼鷹ヲ護衛シ「トラック」発21日呉着修理ニ従事|黒潮(略)15日「トラック」着16日同地発陽炎ト共隼鷹ヲ護衛21日呉着修理ニ従事』
  43. ^ #S1811二水戦日誌(4)p.16『22日|一.1200 2sf、8S、61dg(涼月)夕暮15dg(陽炎)「トラック」ニ向ケ佐伯発』
  44. ^ #S1811二水戦日誌(4)p.6『3月22日-3月28日|使用兵力:陽炎(将旗15dg)|被護衛艦艇:2sf(隼鷹飛鷹)、8S(利根筑摩)|行動:佐泊-「トラック」』
  45. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)341-342頁『「飛鷹」の損傷と第二航空戦隊のトラック進出』
  46. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.85『有明夕暮1400トラックニ向ケ横須賀発(2sf(隼鷹欠)護衛)途中、飛鷹遭難ノ為横須賀ニ引返ス』
  47. ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.5『6月16日第三戦隊司令官指揮ノ下ニ第三戦隊第七戦隊(最上欠)第二航空戦隊(龍鳳)五十鈴雲鷹冲鷹…(以下略)』
  48. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.9『15日27dg(時雨)GF電令作第590号AdB電令作第218号ニ依リAdBニ復帰、16日27dg(白露欠)ハGF電令作第593号ニ依リ将旗3Sノ指揮下ノ下ニ3S、7S(最上欠)、2sf(龍鳳)五十鈴雲鷹冲鷹、7dg、16dg(雪風)浜風谷風涼風清波新月等ト共ニ横須賀発、21日「トラック」着(将旗)2sfノ指揮ヲ解カル爾後27dg(時雨)ハ前記「ナウル」輸送任務ニ従事』
  49. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)347頁『「隼鷹」飛行機隊のマーシャル方面への進出』
  50. ^ #S1805四水戦日誌(4)pp.37-38『隼鷹飛行機隊及隼鷹龍鳳基地員ノ進出ニ関シ左ノ通定ム(後略)』
  51. ^ #S1805四水戦日誌(4)p.4『(略)隼鷹派遣隊ノ「マーシャル」撤収並ニ2sf飛行機隊ノ「ラボール」方面進出ノ為4sd(長良、時雨)ハ之ガ輸送ニ協力シ併セテ22sf用糧食ノ「ルオット」輸送ヲ実施ス。長良及時雨ハ航続力ノ関係上初メ計画セラレタル「トラック」「ルオット」「ラボール」間ヲ直航スルヲ変更シ「ルオット」ニ於テ22sfノ糧食陸揚ゲ及隼鷹派遣隊ノ収容ヲ終ラバ一旦「トラック」ニ帰投燃料補給後「ラボール」方面ノ輸送ヲ実施スルコトトナレリ』
  52. ^ #S1811二水戦日誌(5)p.19『昭和十八年七月十五日軍艦長良「カビエン」ニ於ケル触雷状況報告』
  53. ^ a b c d e #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)435頁『甲支隊』
  54. ^ #S1804十一水戦日誌(5)pp.3-4『9月26日連合艦隊機密第242131番電ニ依リ第11水雷戦隊(龍田)、第32駆逐隊(早波、涼波、藤波)、山城、伊勢ヲ以テ丁三號輸送部隊ヲ編成セラル(略)本職10月11日山城ニ将旗ヲ移揚シ15日1000豊後水道西掃海水道出撃20日1300「トラック」ニ進出本職将旗ヲ龍田ニ復帰ス』
  55. ^ #S1804十一水戦日誌(5)pp.19-20『14日0902呉需部長/第一艦隊機密070645番電竝ニGF機密100716番電関連兵器送付|(一)山城発送ノ分 扶桑用36糎砲零式弾101個、扶桑用同常装薬120発、扶桑用同三式弾79個|(二)伊勢送付ノ分 長門用40糎砲三式通常弾48個、長門用訓練用弾薬10発、武蔵用94式40糎砲3式通常弾48個、扶桑用36糎砲零式弾101個、長門用40糎砲常装薬3発』
  56. ^ #S1804十一水戦日誌(5)pp.35-36『28日1025GF長官/GF電令作第778號 一.丁三部隊ノ編制ヲ解キ各隊(艦)ヲ夫々原隊ニ復帰ス|二.訓練部隊指揮官ハ第11水雷戦隊(龍田)山城伊勢ヲシテ10月30日頃(補給終了後)「トラック」発内海西部ニ回航セシムベシ、隼鷹ハ右部隊ト同行呉ニ回航スベシ|三.遊撃部隊指揮官ハ第24駆逐隊(海風涼風)、機動部隊指揮官ハ駆逐艦1隻ヲシテ第二項部隊ノ警戒ニ任ゼシムベシ|三.雲鷹、第7駆逐隊(曙)ハ途中迄第二項部隊ト同行横須賀ニ回航スベシ(以下略)』
  57. ^ #S1804十一水戦日誌(5)p.40『29日10S司令官/10S信令第60號 機動部隊信令第257號第一項ニ依ル駆逐艦ヲ谷風ニ指定ス』
  58. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)424頁
  59. ^ #S1701八戦隊日誌(7)p.31『同日(16日)午前利根左舷後機中壓「タービン」第二段落翼毀損シアルコト発見直ニ工作艦明石ト協力之ガ応急措置ニ當ラシム…』
  60. ^ #S1804十一水戦日誌(5)p.49『10月31日|内地回航部隊(略)0800内地ニ向ケトラック発|旗艦ヲ伊勢ニ変更』
  61. ^ #S1804十一水戦日誌(5)p.4『28日連合艦隊電令作第778號ニ依リ本職内地回航部隊(龍田山城伊勢隼鷹雲鷹利根第24駆逐隊(海風涼風)谷風第7駆逐隊(曙))ヲ指揮シ31日「トラック」発内地ニ回航セリ』
  62. ^ #S1804十一水戦日誌(6)p.17『5日0630隼鷹/沖ノ島135度40浬ニ於テ雷撃4本ヲ受ク1本命中後部右舷運転不能片舷航行ニテ旋回中舵機室浸水殆ド傾斜ナシ曳船準備完成』-『5日0735将旗11sd/一.0535足摺岬ノ160度22浬ニ於テ隼鷹雷撃4本ヲ受ケ1本命中右舷機使用不能舵機室浸水セルモ傾斜ナシ利根ニテ曳航準備中(以下略)』
  63. ^ #S1804十一水戦日誌(6)p.19『5日1120隼鷹/一.被害状況浸水遮防終了、浸水箇所右軸室舵機室等舵頭故障ノ為操舵不能面舵5度ニテ停止右舷機使用不能左舷機18節迄使用可能|二.戦死2名行方不明2名重傷2名軽傷14名』
  64. ^ #S1804十一水戦日誌(6)p.21『5日1625谷風/隼鷹乗員2名救助負傷者ナシ』
  65. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)429頁
  66. ^ #S1701八戦隊日誌(7)p.45『利根ハ(略)途中5日ヨリ被雷艦隼鷹ヲ曳航11月6日呉入港…』
  67. ^ #艦と人167頁
  68. ^ a b #佐藤 艦長(文庫)76-77頁
  69. ^ #飛鷹副長168頁
  70. ^ a b #空母機動部隊(2010)229-232頁『救いの神"長門"主砲の咆哮』
  71. ^ #飛鷹副長195-197頁
  72. ^ #空母機動部隊(2010)232頁『目をおおう艦橋の惨状』
  73. ^ #佐藤 艦長(文庫)80頁(渋谷艦長によれば53名戦死)
  74. ^ #あ号作戦日誌(1)p.63『3.隼鷹|煙突附近ニ直撃弾2 其ノ他至近弾計6 飛行機ノ発着困難トナル 航海ニハ支障ナシ』
  75. ^ a b #佐藤 艦長(文庫)80-82頁
  76. ^ #日本空母物語124頁
  77. ^ #飛鷹副長227-228頁
  78. ^ #佐藤 艦長(文庫)109-111頁『長門の初砲撃』
  79. ^ #飛鷹副長221-222頁『分析された敗因』
  80. ^ #飛鷹副長224頁
  81. ^ #あ号作戦日誌(1)p.28『6.22 1500/本隊中城湾着 午後大鳳(瑞鶴)、翔鶴(摩耶601空ハ瑞鶴)、飛鷹(準鷹)乗員ノ移乗ヲ実施ス』
  82. ^ #あ号作戦日誌(1)pp.65-66『2.二航戦|自爆(炎上):6、未帰還:47、不時着亡失(被弾):(15)、戦死者:14、行方不明者:67、戦傷者:6』
  83. ^ #第1機動艦隊戦時日誌p.6『三.7月10日第三艦隊軍隊区分ヲ左ノ通改ム|4sf(日向、伊勢、隼鷹、634空)』
  84. ^ #日本空母物語420頁
  85. ^ #日本空母物語422頁
  86. ^ #軍艦華麗なる生涯114頁
  87. ^ a b #駆逐艦隊悲劇の記録146頁
  88. ^ a b #S1906第30駆日誌(3)p.4『10月30日/夕月、卯月、隼鷹、木曽護衛「ブルネイ」ニイ向ケ佐世保発(作戦緊急輸送)秋風馬公ニ向ケ大島出港|31日/秋風、夕月卯月ニ合同ス』
  89. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.21『11月3日2253秋風敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没隼鷹ヨリ「人員ヲ救助シタル後合同セヨ」ノ命アリタリ|卯月ハ護衛続行、夕月ハ現場ニ残リ敵潜掃蕩竝ニ秋風生存者ヲ捜索救助セントス』
  90. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.12『3日2252地点北緯128度41.5分東経117度21分ニテ秋風敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没全員戦死、夕月掃蕩セルモ航海不明』
  91. ^ #戦藻録(1968)435頁
  92. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.12『6日/「ブルネイ」入港、夕月ハ榛名ニ卯月ハ金剛ニ各横付給油ヲ受ク』-『8日/未明隼鷹、木曽、筑摩《註:筑摩は既に沈没》ヲ護衛シ第一遊撃部隊シ第一遊撃部隊ニ引続キ「ブルネイ」出港』
  93. ^ #戦藻録(1968)436頁
  94. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.12『10日/日没時「マニラ」入港、隼鷹ヨリ給油ヲ受ク』
  95. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.13『12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』
  96. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.13『16日/筑摩隼鷹ト分離』
  97. ^ #佐藤 艦長(文庫)84頁(渋谷艦長は「槇」1隻と回想しているが、記憶違い)
  98. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)472頁
  99. ^ #武藏下396頁
  100. ^ a b c #軍艦華麗なる生涯115頁
  101. ^ a b #佐藤 艦長(文庫)83-85頁『片肺航行で帰還』
  102. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録153頁
  103. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)473頁
  104. ^ #最後の海空戦38-39頁
  105. ^ #最後の海空戦40頁
  106. ^ #最後の海空戦45頁
  107. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)474頁
  108. ^ a b #日本空母物語306頁

参考文献[編集]

  • 倉橋友二郎 『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』 徳間書店、1967年6月。 倉橋は1944年9月~1945年5月まで駆逐艦「凉月」砲術長勤務。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
  • 「丸」スペシャル第11号空母隼鷹・飛鷹、潮書房、1977年3月15日
  • 飯尾憲人 『艦と人 海軍造船官八百名の死闘』 集英社、1983年7月。ISBN 4-08-772441-7
  • 山川新作 『空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録今日の話題社1985年ISBN 4-87565-118-x
  • 佐藤和正 『軍艦 華麗なる生涯』 光人社、1986年8月。ISBN 4-7698-0319-2
    • 女王の転進 <改造空母「隼鷹」マリアナに奮戦す>
  • 須藤幸助 『駆逐艦五月雨』 朝日ソノラマ、1988年1月。ISBN 4-257-17097-2
  • 雑誌「丸」編集部、写真|日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ、光人社、1989年
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年5月。ISBN 47698-2009-7
    • 門前の小僧 <航空母艦「隼鷹」艦長・渋谷清見少将の証言>(太平洋戦争時、球磨艦長、隼鷹艦長、長門艦長等)
    • 統率の妙 <戦艦「長門」艦長・兄部勇次郎少将の証言>(太平洋戦争時、利根艦長、長門艦長等)
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』 光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9
    • 「戦術の極意」<駆逐艦「」艦長・石塚栄少佐の証言>(太平洋戦争時、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語』 光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8
  • 長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年
  • 志柿謙吉 『空母「飛鷹」海戦記 「飛鷹」副長の見たマリアナ沖決戦』 光人社、2002年2月。ISBN 4-7698-1040-7
  • 片岡紀明 『最後の海空戦 若き最前線指揮官たちの日米戦争』 光人社、2003年12月。ISBN 4-7698-1164-0
    • エンガノ岬沖の死闘――駆逐艦「槇」航海長・五藤英一郎(戦艦「武蔵」左高角砲指揮官第五分隊士→「槇」航海長)/15-46ページ
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.18-商船改造空母、モデルアート社、2005年
  • 大内建二 『特設艦船入門 海軍を支えた戦時改装船徹底研究』 光人社NF文庫、2008年4月。ISBN 978-4-7698-2565-4
  • 手塚正己 『軍艦武藏 下巻』 新潮文庫、2009年
  • 秋本実編 『伝承・零戦空戦記2 零戦の攻防 [母艦部隊の激闘]ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、ガ島戦』 光人社、2010年3月。ISBN 978-4-7698-1459-7
    元準鷹戦闘機隊・海軍飛曹長 河野茂「必殺の単縦陣白夜の空に乱舞す」/元春日丸乗組戦闘機隊・海軍飛曹長 谷水竹雄「母艦零戦隊ダッチハーバー痛撃記」45-47ページ
  • 雑誌「丸」編集部 『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』 光人社、2010年7月。
    • 元空母「飛鷹」艦長・海軍少将別府明朋『航空母艦の誕生、発達、奮戦秘話 空母艦長が綴る「体験的空母論」』
    • 元空母「飛鷹」艦長・海軍少将別府明朋『空母「飛鷹」ガダルカナル沖の悲運』
    • 当時第三艦隊参謀・元海軍中佐中島親孝『南太平洋海戦の勝利 ミッドウエーの仇を討った日本機動部隊』
    • 元空母「飛鷹」艦長・元海軍少将横井俊之『空母「飛鷹」マリアナ沖の痛恨』
    • 当時「隼鷹」乗組・元海軍二等兵曹吉川亘『マリアナ沖の明暗 二航戦旗艦「隼鷹」で戦ったわが初陣』
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070162700 『昭和17年4月~6月 内令2巻/昭和17年5月(1)』。
    • Ref.C12070164100 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年7月分(2)』。
    • Ref.C12070164300 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年7月分(4)』。
    • Ref.C12070180900 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年9月(6)』。
    • Ref.C08030019000 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(1)』。
    • Ref.C08030019100 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(2)』。
    • Ref.C08030019200 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(3)』。
    • Ref.C08030019300 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(4)』。
    • Ref.C08030019400 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(5)』。
    • Ref.C08030019500 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(6)』。
    • Ref.C08030100200 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030100400 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030100500 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030047800 『昭和17年4月1日~昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。
    • Ref.C08030116900 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030117000 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030117100 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030117200 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030117300 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030048800 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(7)』。
    • Ref.C08030126400 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030126500 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(6)』。
    • Ref.C08030036200 『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030711400 『昭和19年6月13日~昭和19年6月22日 あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(1)』。
    • Ref.C08030711500 『昭和19年6月13日~昭和19年6月22日 あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(2)』。
    • Ref.C08030039800 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030039900 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030724100 『昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030149800 『昭和19年6月1日~昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。

外部リンク[編集]

  • [1] 英文の隼鷹経歴と写真集
  • [2] アメリカのフォーダム大学に寄贈された隼鷹の鐘の記念碑

関連項目[編集]

画像集[編集]