隼鷹 (空母)

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隼鷹
Image-Japanese aircraft carrier Junyo 2 cropped.jpg
1945年11月1日、佐世保にて[1]
経歴
運用者  大日本帝国海軍
建造所 三菱重工業長崎造船所[2]
起工 1939年3月20日橿原丸として[2]
進水 1941年6月26日[2]
竣工 1942年5月3日[2]
除籍 1945年11月30日[3]
その後 1946年から1947年解体[4]
母港
建造費 買収及び艤装費、兵装費予算合計
38,073,000円[5]
要目 (特記なきは計画)
種別 航空母艦
クラス 隼鷹型(飛鷹型)
基準排水量 24,140英トン[6]
公試排水量 27,500トン[6]
満載排水量 29,471トン[6]
全長 219.32m[6]
水線長 約215.32m[6]
垂線間長 206.00m[6]
水線幅 26.70m[6]
深さ 21.79m[6](飛行甲板まで)
吃水 公試平均 8.15m[6]
満載平均 8.60m[6]
ボイラー 三菱式水管缶6基[7]
補助缶:円缶2基[8]
主機 三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基[7]
推進 2軸[8]
出力 計画 56,250hp[6]
公試成績 56,400hp[9]
速力 計画 25.5ノット[6]
公試成績 25.68ノット[9]
燃料 計画 重油 4,100トン[6]
公試成績 4,117.89トン(満載)[10]
航続距離 計画 10,000カイリ / 18ノット[6]
公試成績 10,090カイリ / 18.14ノット[11]
1944年5月調査 10,150カイリ / 18ノット[12]
乗員 計画乗員 1,187名[13]
兵装 竣工時[14]
40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃8基
最終時[15]
40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃19基
25mm連装機銃2基
25mm単装機銃30挺
12cm28連装噴進砲6基(1944年12月)[16] または最終時10基[要出典]
装甲 計画[17]
機関室舷側 20+25mmDS鋼
弾火薬庫甲板25mmDS鋼、後部舷側25mmDS鋼
軽質油タンク甲板25mmDS鋼
搭載艇 12m内火艇2隻、12m内火ランチ2隻、8m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、6m通船1隻、13m特型運貨船2隻[18]
搭載機 計画 (常用+補用)[19]
零式艦上戦闘機12+3機
九九式艦上爆撃機18+2機
九七式艦上攻撃機18機
合計 48+5機[注釈 1]
飛行甲板 210.30m x 27.30m[6]
エレベーター2基[20]
レーダー 1944年7月:21号電探2基、13号電探1基[12]、逆探[16]
テンプレートを表示
1945年9月26日の佐世保での姿。手前に見えるのは波二〇一型潜水艦

隼鷹(じゅんよう)は、日本海軍航空母艦飛鷹型航空母艦[21]の2番艦。 ただし、海軍の公式記録上では隼鷹型航空母艦の1番艦である[22]

概要[編集]

隼鷹は、姉妹艦の空母飛鷹(出雲丸)同様、有事の空母改造を前提に建造中の日本郵船橿原丸級貨客船橿原丸」(かしはらまる)を空母へ改装したものである[23]。日本海軍は太平洋戦争開戦から約半年を経て発生した1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦において大敗、主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)を失う。この時点で残る中型以上の高速正規空母翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴瑞鶴)のみであった。隼鷹、飛鷹の速力は正規空母の30kt以上に比較して遅く、鋼板も薄く防御能力でも見劣りしたが、中型の正規空母蒼龍なみの航空機搭載量を持つ貴重な戦力であり[24]ミッドウェー海戦以降は大型正規空母の翔鶴、瑞鶴をサポートし、それに勝るとも劣らぬといえる活躍をした。なお、姉妹艦の飛鷹は1944年6月のマリアナ沖海戦で撃沈されている。以後の隼鷹は高速輸送艦として運用され、終戦まで残存した[25]。だが機関部の損傷により、空母鳳翔葛城のように復員船として運用されることなく、また客船に戻されることもなく解体された[25]

艦歴[編集]

橿原丸として[編集]

海軍技術将校/艦艇研究家の福井静夫によれば、大型高速客船を有事に際し空母に改造する発想はイギリスからもたらされたという。1923年(大正12年)末、第一次大戦後の欧州視察のためイギリスを訪問した平賀譲造船少将に対し、イギリス海軍造船局長サー・ユースタス・テニスン・ダインコートは大型商船を空母化する利点について熱心に説いた[26]。当時のイギリスが保有する150隻以上の1万トン以上大型客船は、有事に際し兵員輸送船や特設巡洋艦に転用できるため、列強(特にアメリカ)から重大な脅威とみなされていた[27]。ダインコート卿の提案は日本海軍の構想と一致した。アメリカを仮想敵とした場合に求められたのは、兵員輸送力ではなく、洋上決戦を挑むための航空戦力とそれを運用する航空母艦だったからである[28]。こうして日本海軍は有事空母化を前提とした商船や客船の建造を模索、1929-1930年に日本郵船の秩父丸(鎌倉丸)浅間丸龍田丸が完成した[29]。続いて大阪商船あるぜんちな丸級貨客船2隻(あるぜんちな丸海鷹》、ぶらじる丸)が三菱重工業長崎造船所で1938年-1939年にそれぞれ進水、竣工する[30]。さらに1940年東京オリンピックにそなえるべく日本郵船の新田丸級貨客船3隻(新田丸《冲鷹》、八幡丸《雲鷹》、春日丸《大鷹》)が計画され、いずれも三菱重工業長崎造船所で建造された[31]。太平洋戦争と共に各船は日本海軍に徴用され、大鷹型航空母艦として再就役した[32]

隼鷹の前身である客船橿原丸は三菱重工業長崎造船所において1939年(昭和14年)3月20日に起工した[33]。完成した場合には、2万7700トン、最大発揮速力25.5ノット、旅客定員890名という、太平洋航路最大級の客船となるはずだった[34]。だが機関部や客室部分など、設計段階から空母に改造することを前提とした構造となっていた[35]。隣の船台では大和型戦艦2番艦武蔵が建造中であった(1938年3月29日起工)。1939年11月27日、兵庫県神戸市川崎造船所(川崎重工業)で空母瑞鶴が進水、3日後の11月30日に同船台にて「出雲丸(第一〇〇一番艦)」が起工される[33]。1940年(昭和15年)1月6日、新田丸級貨客船春日丸が橿原丸の隣で起工される(同年9月15日進水)。11月1日、武蔵は橿原丸より一足先に進水した。だが武蔵進水後の造船台は依然として簾で隠されたままで、長崎の住民は「武蔵はもう1隻いる」と噂していた[36]。造船所の火災で橿原丸の姿が簾越しに浮かびあがると、住民達は同船を第二の武蔵と錯覚したという[36]。1941年(昭和16年)2月、橿原丸は日本海軍に買収され「第一〇〇二番艦」の仮艦名を与えられる[33]。6月24日、「出雲丸/1001番艦」が進水、2日後の6月26日に「橿原丸/1002号艦」が進水した[33]。12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまる。

アリューシャン作戦[編集]

「1002号艦」は1942年(昭和17年)5月3日に竣工、特設航空母艦隼鷹として呉鎮守府所管[37]。この時はまだ艦首の菊御紋章がついていなかった[38]。隼鷹は日本の空母として初めて島型艦橋と上方煙突が一体化した大型艦橋を有していた[33]。これは建造中の大鳳型航空母艦の実験を兼ねており、煙突は外側へ26度傾斜している[33]レーダー二式二号電波探信儀一型)の装備も日本空母初の試みであった[33]。また商船としてある程度建造が進んでいた隼鷹は、姉妹艦の飛鷹にくらべて木製部分が多く、戦争後半の防火対策で苦労する事になった[39]

竣工後の隼鷹はただちに空母龍驤と合同し、第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入された[33]。5月19日、隼鷹は広島湾那沙美水道の最狭部で軍艦大和と反航してすれ違い、宇垣纏連合艦隊参謀長は「無謀とや云はん。禮儀を知らずとや云はん。」と隼鷹艦長に怒っている[40]。 5月20日附で、四航戦(龍驤、隼鷹)、第四戦隊第2小隊(摩耶高雄)、第一水雷戦隊(旗艦阿武隈、第6駆逐隊《》、第21駆逐隊《若葉初霜子日初春》、第7駆逐隊《》)は北方部隊に編入された。隼鷹は第二機動部隊に所属し、四航戦(龍驤、隼鷹)、重巡洋艦2隻(摩耶、高雄)、駆逐艦3隻(潮、曙、漣)、補給船「帝洋丸」と共にアリューシャン方面作戦に参加した。 6月3日、雲間より出現したPBYカタリナ飛行艇に雷撃されるが、投下位置が隼鷹に近すぎたため魚雷は飛行甲板を越えて反対舷に落下、その後PBYは高雄に撃墜されたという[41]。6月4日よりダッチハーバーに対し空襲を行うが、小数兵力のため大きな戦果をあげることもなく、天候悪化により隼鷹艦爆1機が行方不明となった[42]。龍驤所属の零戦が不時着し、アメリカ軍に鹵獲されたのも、この作戦中の出来事だった(アクタン・ゼロ)。 6月5日、ミッドウェー海戦南雲機動部隊主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)が沈没した。6月14日、攻略部隊に所属していた空母瑞鳳、第三戦隊第1小隊(比叡金剛)が北方部隊に合流した。隼鷹は駆逐艦から蒼龍の搭乗員を受け入れたという[43]。また本土からも空母瑞鶴が出撃し、6月23日に大湊で四航戦と合流した。各隊はアメリカ軍機動部隊来襲に備えて北方海域の哨戒を行ったが米艦隊出現の徴候はなく、7月5日には米潜水艦グロウラー、トライトンの雷撃で駆逐艦2隻(、子日)が沈没、2隻(不知火)も大破航行不能という被害を出した。これを機会に、各隊は日本本土の母港へと帰投した。7月10日、隼鷹以下各隊各艦は北方部隊の指揮下を離れた。

アメリカ軍機動部隊との戦い[編集]

7月14日、隼鷹は軍艦籍に加入し、呉鎮守府所属の『軍艦 隼鷹』となった[44][45]。7月31日、姉妹艦飛鷹が軍艦籍に加入した[46]。隼鷹、飛鷹、龍驤は再編成された第二航空戦隊に所属し、第三艦隊の構成艦として出撃準備を行う。だが各隊訓練中の8月7日にアメリカ軍はガダルカナル島フロリダ諸島に上陸し、ガダルカナル島の戦いがはじまる。8月12日、二航戦旗艦は飛鷹に移った。この時、第一航空戦隊の空母瑞鳳は練度不足と判断された。そのため瑞鳳の代艦として龍驤が第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)に編入されるとソロモン諸島へ進出した。その龍驤も8月24日の第二次ソロモン海戦で撃沈された。

10月4日、第二航空戦隊(飛鷹、隼鷹)と駆逐艦磯波は内地を出発、9日トラック泊地へ進出した[47]。ガダルカナル島米軍ヘンダーソン飛行場への日本陸軍総攻撃(10月24-25日予定)に呼応すべく、日本海軍は空母機動部隊、水雷戦隊(軽巡由良、駆逐艦秋月村雨春雨夕立五月雨白露等)を派遣する。ところがヘンダーソン基地への航空攻撃を実施中だった二航戦旗艦の飛鷹で機関室から火災が発生[48]、飛鷹は戦闘航海不能となりトラックへ撤退した[49]。隼鷹は二航戦旗艦となり、飛鷹艦載機の一部を臨時編入した。10月26日、隼鷹は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)と共に米艦隊(第11任務部隊・第16任務部隊・第64任務部隊)と交戦する。米空母ホーネットの撃沈、米空母エンタープライズの撃退に貢献したが[50]、多くの航空機と熟練搭乗員を失った。翔鶴、瑞鶴、瑞鳳は損傷の修理と航空隊補充のため随時内地へ回航され、トラック泊地に残る作戦行動可能な空母は隼鷹1隻となった[51]

11月12日以降の第三次ソロモン海戦では、第一夜戦で行動不能となった挺身艦隊旗艦比叡と護衛駆逐艦(雪風照月時雨白露夕暮)を掩護する必要が生じ、隼鷹は零式艦上戦闘機を派遣する。だが数機単位でしかなく、ヘンダーソン基地から次々に飛来するF4Fワイルドキャット戦闘機と交戦して身を守るがやっとだった。B-17爆撃機TBFアベンジャー雷撃機の波状攻撃を受けた比叡はアイアンボトム・サウンドに沈んだ。ヘンダーソン基地に対する艦砲射撃は中止、ガダルカナル島へ向かう増援部隊輸送船団も大損害を受け、日本海軍はガダルカナル島を巡る決定的な戦闘に敗北した。

12月上旬、空母龍鳳が第三艦隊に編入され、トラック泊地への進出が決まった。駆逐艦時津風に護衛されて12月11日に横須賀を出港するが、翌日に米潜水艦ドラムに雷撃され中破、横須賀に避退した[52]。龍鳳と隼鷹が合同する機会はしばらく遠のいた。

昭和十八年以降の戦い[編集]

その後ウェワクへの陸軍部隊の輸送(丙一号輸送)の際に搭載機を対潜、対空警戒にあたらせるため、1943年(昭和18年)1月15日、隼鷹は駆逐艦朝雲、五月雨とともにトラックを出港した[53]。17日にウェワクに零戦23機、艦攻6機を進出させて反転、19日にトラックに戻った[54]。この輸送作戦中に、ウエワクへ隼鷹基地要員と陸兵を輸送していた春雨が米潜水艦ワフーに雷撃されて大破、後述の船体断裂により復帰に1年弱を要する損害を受けている[55]。隼鷹の飛行機隊はウェワクでの活動中B-24を6機撃墜、3機撃破を報じ、25日にカビエン経由で零戦14機、艦攻6機がトラックに戻った[56]。なお春雨は2月中旬に駆逐艦天津風浦風と工作艦雄島に曳航されてトラック泊地へ戻るが、途中で船体は断裂、艦前部を喪失した[57]

1月下旬、ガダルカナル島からの撤退作戦(ケ号作戦)が実施される。これを支援すべく、第二艦隊司令長官近藤信竹中将が座乗する旗艦愛宕以下重巡愛宕、高雄羽黒妙高、戦艦金剛榛名、軽巡洋艦長良神通阿賀野、空母隼鷹、瑞鳳、駆逐艦朝雲、五月雨、時雨、陽炎大波敷波は1月31日にトラック泊地を出撃した[58][59]。2月3日、朝雲、五月雨はケ号作戦実施部隊にまわされショートランド泊地へ向かう[60]。支援艦隊はアメリカ軍機動部隊出現に備えて待機したが交戦の機会はなく、2月9日までにトラックへ帰投した。 2月15日、隼鷹は第三戦隊(金剛、榛名)、空母冲鷹、水上機母艦日進、重巡鳥海利根、駆逐艦時雨、大波、黒潮、陽炎、と共にトラック泊地を出港するが、悪天候のため航空隊を収容できず、隼鷹、陽炎、黒潮のみトラックへ引き返した[61]。2月16日、改めて15駆2隻(陽炎、黒潮)と共に内地へ向かった[62]

3月22日、二航戦(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦涼月、夕暮、陽炎は大分県佐伯市を出港した[63]。28日、トラック泊地に着く[64]。 4月18日、い号作戦指揮中の山本五十六連合艦隊司令長官が海軍甲事件で戦死した。連合艦隊旗艦武蔵は山本長官の遺骨を乗せて日本に帰投することになり、飛鷹も同行する事になった。戦艦武蔵、金剛、榛名、空母飛鷹、重巡利根、筑摩、駆逐艦時雨、有明、海風初月、涼月は5月17日にトラックを出港した。その後、日本海軍はアリューシャン方面のアメリカ軍の動向を踏まえた上で、内地の飛鷹にトラックへの進出を命じた[65]。6月10日、横須賀を出港した飛鷹、駆逐艦夕暮、有明は暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦トリガーから襲撃された[65]。魚雷1本が命中した飛鷹は航行不能となり、軽巡洋艦五十鈴に曳航されて横須賀へ引き返した[66]。6月16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[67]、空母龍鳳、大鷹、冲鷹は第7駆逐隊・16駆・17駆・27駆等(時雨、雪風、浜風谷風、潮、曙等)に護衛されてトラックへ進出、隼鷹と合同した[68]

一方、トラック泊地の隼鷹は航空隊と基地要員をルオット島へ派遣することが決定[69]。6月16日、第二水雷戦隊・軽巡神通と駆逐艦江風は基地用要員300名以上、航空魚雷、軍需物資糧食をルオット島へ輸送した[69]。7月以降、隼鷹も輸送任務に従事する。またマーシャル諸島へ派遣していた二航戦(隼鷹、龍鳳)航空隊をラバウルへ転用する事になり[70]、 第四水雷戦隊の軽巡長良と27駆時雨がその任務に投入された[71]。輸送任務中の7月15日、長良はカビエンで触雷し小破した[72]。同月下旬、隼鷹は日本本土へ帰投した。

9月11日、連合艦隊の下令により丁一号輸送部隊(指揮官隼鷹艦長:隼鷹、木曾、多摩、大波、谷風、栗田丸)が編制され、海上機動旅団(甲支隊)を輸送する事になった[73]。第一回次は9月15日宇品より木曾、多摩、第二回次は9月18日宇品より栗田丸、大波、第三回次は空母隼鷹と駆逐艦谷風が担当して9月19日岩国よりトラックへ向かい、24日に到着した[73]。隼鷹が輸送した部隊はトラックにて木曾、多摩、谷風に移乗し、カロリン諸島ポナペにて揚陸した[73]。第一次進出部隊の輸送完了により、丁一号輸送部隊は27日附で解散した[73]

10月20日、第11水雷戦隊司令官木村進少将が指揮する丁三号輸送部隊(旗艦山城航空戦艦伊勢、軽巡龍田、第32駆逐隊《早波涼波藤波》)は、甲支隊第二次進出部隊を輸送してトラック泊地へ到着する[73][74]。この部隊は陸軍兵士2000名以上や各種軍需品を輸送してきた他、山城、伊勢には戦艦「武蔵、長門扶桑」用の46㎝砲弾、40㎝砲弾、36㎝砲弾を積載していた[75]。 28日、古賀峯一連合艦隊司令長官は隼鷹と駆逐艦海風涼風谷風及び空母雲鷹と駆逐艦に対し、第11水雷戦隊と合流しての日本本土帰還を命じる[76][77]。さらに同部隊に重巡利根が合流した[78]。利根は10月16日にタービンの損傷が判明し、内地で本格的に修理する予定であった[79]

10月31日、第11水雷戦隊(伊勢《旗艦》[80]、山城、隼鷹、雲鷹、利根、龍田、海風、涼風、谷風、曙)はトラック泊地を出発[81]。11月4日、悪天候により龍田、海風が損傷を受けた。 11月5日午前5時、暗号解読により豊後水道近海で日本艦隊を待ち伏せていた米潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) が第11水雷戦隊を襲撃、長門型戦艦翔鶴型航空母艦とおぼしき目標に対して魚雷攻撃を敢行した。5時35分、魚雷1本が隼鷹の艦尾に命中、右舷機械室の浸水と舵故障により隼鷹は直進不能となった[82]。戦死2名、行方不明2名、重傷者2名、軽傷者14名を報告したが[83]、海に落ちた行方不明2名は谷風に救助された[84]。なお、ハリバットが発射した魚雷のうち山城に向かった魚雷は外れた。午前10時頃より隼鷹は利根に曳航されて約5-6ノットで被雷海域を離脱し、6日に母港・呉へ帰投した[85][86]。損傷部分の修理と並行し、花園雄次(海兵51期、隼鷹副長)、桜庭久右衛門(隼鷹内務長)の指導により、艦内の各所に使用されていた木材や可燃物を撤去する[87]。前述のように隼鷹は飛鷹に比べて商船時代の名残り(木材部分)が多く、改修には苦労したという[39]

マリアナ沖海戦[編集]

1944年(昭和19年)2月、新艦長として渋谷清見大佐が隼鷹に着任[88]。書類上の最大発揮速力25.5ノットとは裏腹に、実際には24ノット程度だったと回想している[88]。 3月7日、翔鶴、瑞鶴、隼鷹、飛鷹を上回る装甲空母大鳳がようやく竣工し、4月上旬にはリンガ泊地に到着して第一機動艦隊旗艦・第一航空戦隊旗艦となる。修理後の「隼鷹」は6月19日-20日のマリアナ沖海戦に小沢機動部隊(第一機動艦隊)・乙部隊(指揮官城島高次少将:第二航空戦隊《隼鷹、飛鷹、龍鳳第六五二海軍航空隊》、戦艦長門、重巡洋艦最上、第4駆逐隊《満潮野分山雲》、第27駆逐隊《時雨五月雨》、第2駆逐隊《秋霜早霜》、第17駆逐隊《浜風》)として参加した。隼鷹は第二航空戦隊旗艦(司令官城島少将)に指定されていたが、これは隼鷹の訓練整備不充分のため、司令官が直接指揮するという意図があったという[89]

6月19日、小沢機動部隊本隊の空母「大鳳翔鶴」が米潜水艦アルバコアカヴァラの雷撃で沈没した。2隻の炎上と大鳳の沈没は第二航空戦隊からも見ることが出来た[90][91]。 翌6月20日夕刻、小沢機動部隊は、甲部隊、乙部隊、前衛部隊、補給部隊が同一海面に集結したところをアメリカ軍機動部隊艦載機約200に襲撃された。隼鷹の煙突に命中した爆弾は艦橋と一体化した煙突を吹き飛ばし、戦死者多数(二航戦司令部2名、六五二空7名、隼鷹乗組員約50名以上)を出した[92][93]。また至近弾6発により飛行甲板が損傷し[94]、着艦制動装置も故障して上空退避させた航空隊を収容することが出来なくなる[95]。至近弾による被害は他にも生じた。特に艦尾・舵取機室左舷の空き部屋に石油缶を積み込んでいたため、これ引火して消火に手間取った[96]。本来陸揚げすべき帳簿外の燃料を、飛行科が秘密裡に艦内に持ち込んでいたことが6時間にわたる火災の原因となったという[97]。また同日の空襲では被弾直後にアメリカ軍雷撃機隊に襲撃されたが、その編隊は戦艦「長門」の主砲対空射撃により撃退され隼鷹は難を逃れた[90][98]

この戦闘で姉妹艦の飛鷹は爆弾1発、魚雷1本が命中して炎上、長門による曳航も失敗して沈没していった[95]。乗組員は満潮《飛鷹艦長・副長収容》、浜風等に救助された。飛鷹の生存者達は、隼鷹を襲撃したTBFアアベンジャー艦攻6機を長門が主砲で撃退した際(4機撃墜)、残存した2機が飛鷹に目標を変更、1機が同艦に魚雷を命中させたと分析している[99]。 時雨の援護もあった龍鳳は小破に留まった。22日、小沢機動部隊は沖縄中城湾に撤退、ここで隼鷹は浜風、満潮等が救助した飛鷹生存者を受け入れる[100][101]。一連の戦闘で、第652海軍航空隊の残存戦力(隼鷹、龍鳳合計)は九九式艦上爆撃機:8機(21喪失)・彗星艦上爆撃機:5機(6喪失)・天山艦上攻撃機:3機(12喪失)・爆装零戦:5機(22喪失)・零式艦上戦闘機:12機(41喪失)になっていたという[102]

マリアナ沖海戦以後[編集]

7月10日、第二航空戦隊は解隊された。同日附の編制替えにより隼鷹は第四航空戦隊(司令官松田千秋少将:伊勢型航空戦艦伊勢日向、隼鷹、龍鳳《後日編入》:第六三四海軍航空隊)に所属する[103]。煙突や飛行甲板など損傷箇所を修理、12cm28連装噴進砲と対空機銃を増設装備した[104]。並行して艦内の徹底的な不燃化を実施し、食卓・椅子・チェスト・ロッカーなども廃止した[105]。だが、隼鷹が搭載すべき所属航空隊は各方面に転用されてしまった。1944年10月中旬以降の捷号作戦では、隼鷹は航続距離の短い駆逐艦に対する燃料補給船(タンカー)として周防大島近くの八島錨地に回航されたという[106]。日本海軍機動部隊最後の作戦行動となったレイテ沖海戦に参加した四航戦艦艇は、空母ではなく航空戦艦2隻(伊勢、日向)であった。同海戦で第三航空戦隊瑞鶴瑞鳳千代田千歳)は全滅、隼鷹の隣で建造された戦艦武蔵も沈没した。以降は搭載する航空戦力がなく、残存空母達は輸送作戦に従事するようになった。空母は格納庫や飛行甲板に大量の物資を積める上に、通常の輸送船と比較して遙かに高速であり、輸送艦としても適任だったのである[107]

1944年(昭和19年)10月30日、渋谷清見隼鷹艦長を指揮官として、隼鷹は軽巡木曾、第30駆逐隊(司令澤村成二大佐:夕月卯月)を護衛艦とし、『緊急輸送作戦』に従事すべく佐世保を出港する[108]。翌日には30駆秋風と合同した[108]。台湾・馬公市に立ち寄ったのちブルネイに向け移動中の11月3日夜、米潜水艦ピンタドが隼鷹に対して魚雷6本を発射した。これが駆逐艦秋風に命中して22時53分に同艦は轟沈[109]、総員戦死[110]。ピンタドは爆雷攻撃を受けて退避し、隼鷹は難を逃れた。同海域にはピンタドの他に米潜水艦複数(ジャラオアトゥル等)が遊弋していたが、これらも隼鷹の捕捉に失敗した。 6日にブルネイ到着し第一遊撃部隊(大和長門金剛榛名等)と合流、隼鷹は大和型戦艦用の46㎝砲弾(九四式四〇糎砲)を供給した[111]。 8日未明には第一遊撃部隊に引き続いてブルネイを出港[112][113]。第一遊撃部隊と分離後、輸送艦隊(隼鷹、利根、木曽、卯月、夕月)は10日夕刻にフィリピンマニラに到着した[114]。木曾は同日附で第五艦隊・第一水雷戦隊に編入されマニラで待機することになり、隼鷹と分離した。直後の13日、木曾はアメリカ軍機の空襲を受けマニラ湾で大破着底した。一方、隼鷹は12日にマニラを出発する。西村艦隊唯一の残存艦時雨が隼鷹に合同していた[115]。15日、米潜水艦バーブから雷撃されたが、5隻とも無事であった。16日、日本近海で隼鷹と利根は護衛艦と分離[116]。各艦母港へ帰投した。11月16日附の編成替えで第一機動艦隊・第三艦隊は解隊され、隼鷹は連合艦隊直属、第一航空戦隊の所属となる。1945年1月、第二艦隊、第一航空戦隊の所属となった。

11月下旬、再度マニラへ『緊急物資』輸送任務を行うべく、隼鷹は第41駆逐隊(秋月型駆逐艦冬月涼月)、松型駆逐艦を護衛として内地を出発した[107][117]。30日マニラ到着後、物資揚陸を行い12月1日に出港[118]。武蔵の生存者200名ほどが日本に戻るため隼鷹に便乗した。続いて台湾の馬公市に移動、戦艦榛名、駆逐艦初霜と合流する。榛名はシンガポールで座礁し、18ノット以上を出すと危険な状態にあった。霞、初霜は榛名と分離して第二水雷戦隊本来の任務へと戻っていった。台湾を出港した榛名、隼鷹は日本への帰投を急ぐが、もはや本土近海も安全な海域ではなかった。12月9日午前1時30分頃、長崎県野母崎沖の女島付近で、隼鷹、榛名達は米潜水艦シーデビル(USS Sea Devil, SS-400) 、レッドフィッシュ(USS Redfish, SS/AGSS-395)、プライス (USS Plaice, SS-390) の3隻に同時襲撃された。シーデビルかレッドフィッシュのどちらかが発射した魚雷2本が隼鷹の艦首と右舷中央部に命中したのだった。武蔵の生存者を「また沈没するのか」と慌てさせた[119]。隼鷹の艦首部底部は10m近く亡失した[120]。右舷中央部に命中した魚雷により右舷機械室は満水となるが、浸水被害を中央隔壁で食い止めたため、左舷機関は無事だった[121]。戦死者19名、浸水被害は約5000トン。右舷に18度傾斜した隼鷹は13ノットを発揮、佐世保に向かった[121]。後方の涼月は隼鷹が転覆するのではないかと懸念していたという[122]

なお石塚(槇艦長)によれば、槇は隼鷹に向かう魚雷に意図的に被雷し隼鷹を守ったとされる[123]。当時槇を操艦していた後藤航海長によれば、先頭槇-榛名-隼鷹の順序で嵐の中を航行していたところ榛名から『槇は隼鷹の後につけ』の命令があり、榛名、隼鷹の右側を反航して南下した[124]。水中聴音機により潜水艦を確認。警戒しながら隼鷹の後方につくべく面舵に転舵したところ左舷前方から魚雷が迫り、被雷面積を最小限におさえるため艦長の許可を得て直進した[125]。艦中央部への命中は避けられたものの、槇は艦首に被雷して艦首部を喪失、微速前進で長崎港へ帰投している[126]。槇は隼鷹の乗組員から大いに感謝されることになった[127]

機関部に損傷を受けた隼鷹は行動不能となった。そこで輸送任務に投入される航空母艦として雲龍型航空母艦雲龍が指定された。12月17日、雲龍は駆逐艦時雨と共に軍需物資・陸軍兵及び『緊急輸送物件』(有人ロケット特攻機桜花)30機を積載、マニラに向かったが12月19日、雲龍は隼鷹を雷撃したレッドフィッシュに襲撃され、桜花の誘爆により沈没した。檜、樅はマニラに向い、時雨は佐世保に帰投した。12月31日、今度は空母龍鳳が桜花58機を積込み、駆逐艦時雨、浜風磯風及びヒ87船団と共に台湾高雄市へ桜花を輸送した。

隼鷹の修理は1945年(昭和20年)3月末までかかった。ドックから出渠したものの、船体が修理されたのみで右舷機械室は修理されなかった[128]。そもそも大型艦を作戦に投入する燃料がなかった[120]。再度修理した後に出撃させる計画(戦艦大和と同じく、特攻作戦に使われるなどの)があったが、機械室の修理が完了されないまま佐世保のエビス湾に疎開して繋留放置され、8月15日の終戦を迎える[128]。マストから四方にワイヤーを張り、マットと樹木で艤装した隼鷹は一度も空襲を受けなかったという[120]。隼鷹は外洋航行ができず、引き揚げ任務の特別輸送艦に指定されなかった。11月30日に除籍し、1947年(昭和22年)8月1日解体が終了した。商船への復帰はならなかったが、太平洋戦争を生き延びた商船改造艦艇の中で最大級の船舶であった。

隼鷹の鐘はマリアナ沖海戦の爆弾命中によって失われたが、後にアメリカが回収し1944年にアメリカのフォーダム大学に寄贈されている。隼鷹の慰霊碑は呉海軍墓地にあり、隣には隼鷹の楯となって全乗組員が戦死した駆逐艦秋風の慰霊碑が建立されている。

艦型の変遷[編集]

上記の通り、竣工の1942年5月に対し、21号電探を艦橋上に装備したのは同年7月と言われ、電探を装備した最も早い艦艇の1隻だった[129]

1943年に飛行甲板前部の両側に25mm3連装機銃を2基づつ、計4基を増備、計12基になっていたと推定される[16]。この時の機銃座はまだ円形であり、同時に射撃指揮装置2基も追加された[16]。また同時期に飛行甲板後方左舷の4番探照燈を撤去し、代わりに隠顕式の21号電探1基を追加した[16]

マリアナ沖海戦直前の1944年5月には、25mm機銃3連装16基、同単装(移動式)12挺を装備したとされる[12]。追加の3連装機銃4基は艦尾に機銃座を設けて2基、艦橋構造物の前後に1基ずつが確認される[16]。単装機銃は飛行甲板上に移動式を装備した[16]。当時の写真では飛行甲板前端に2挺、後端に3挺の装備が確認される[130]。また艦橋構造物上にも装備したらしい[16]。13号電探はまだ装備しておらず、逆探は既に装備していた[16]。竣工時の公式図によると高角砲指揮装置は4.5m高角測距儀であった[131]が、この時点で九四式高射装置に交換されている[注釈 2]

マリアナ沖海戦では隼鷹も損傷し、復旧工事を行った。この時に煙突のサポート形状が変化し[16]、艦橋構造物は後方に延長され、信号マストはその上に設置された。対空兵装の増備も実施され、「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると1944年7月の時点で25mm3連装機銃19基、同連装2基、同単装27挺、他に単装機銃座4基とされる[132]。増備した3連装機銃は、艦橋構造物上の前後に1基ずつ、艦首に1基の計3基がその後の写真でも確認される。連装機銃2基に関しては、同調査の図では右舷は艦橋側面にあった探照燈座を拡大して1基を設置した[133]。左舷は発動機試運転場の甲板を拡大して1基となっている[133]が、戦後を含めてその付近の鮮明な写真が無く、位置が明らかでないとされる[16]。同時に信号マスト上に13号電探1基を追加した[134]

1944年12月に隼鷹は雷撃により損傷したが、その時の写真から飛行甲板前方の両舷、前部高角砲の前方に28連装噴進砲が3基ずつ、計6基装備されているのが確認される[16]福井静夫の調べによると右舷最後方の25mm3連装機銃2基を撤去、機銃座を後方へ延長して噴進砲4基を設置、左舷は起倒式クレーンの側方、発動機試運転場の上に砲座を設けて4基の噴進砲を装備した[15]。ただし戦後の写真を見ると左舷は3基ないし4基の噴進砲座が確認できるが、右舷の機銃座延長は確認できない[135]

この時に舷側は対潜迷彩の塗装を行っていた[16]。戦後の写真から飛行甲板も迷彩塗装らしきものが確認できる[136]

年表[編集]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』61-63頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

艦長[編集]

  • 石井芸江 大佐:1942年5月3日-
  • 岡田為次 大佐:1942年7月20日-
  • 長井満 大佐:1943年2月12日-
  • 大藤正直 大佐:1943年12月25日-
  • 渋谷清見 大佐:1944年2月21日-
  • 欠:1944年12月20日-
  • 前原富義 大佐:1945年5月12日-

同型艦[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.33によると艦攻が+補用5機で補用計10機、または7機の資料もある[要出典]
  2. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.33の解説、同p.12の写真。

出典[編集]

  1. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.4
  2. ^ a b c d #昭和造船史1pp.780-781
  3. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.42、落合康夫「航空母艦『隼鷹』行動年表」
  4. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.126、多賀一史「終戦時の日本空母」
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  9. ^ a b #隼鷹公試成績表画像5
  10. ^ #隼鷹公試成績表画像12
  11. ^ #隼鷹公試成績表画像9
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  13. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.41。
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  16. ^ a b c d e f g h i j k l m #写真日本の軍艦第4巻p.35。
  17. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.38。
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  72. ^ #S1811二水戦日誌(5)p.19『昭和十八年七月十五日軍艦長良「カビエン」ニ於ケル触雷状況報告』
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  75. ^ #S1804十一水戦日誌(5)pp.19-20『14日0902呉需部長/第一艦隊機密070645番電竝ニGF機密100716番電関連兵器送付|(一)山城発送ノ分 扶桑用36糎砲零式弾101個、扶桑用同常装薬120発、扶桑用同三式弾79個|(二)伊勢送付ノ分 長門用40糎砲三式通常弾48個、長門用訓練用弾薬10発、武蔵用94式40糎砲3式通常弾48個、扶桑用36糎砲零式弾101個、長門用40糎砲常装薬3発』
  76. ^ #S1804十一水戦日誌(5)pp.35-36『28日1025GF長官/GF電令作第778號 一.丁三部隊ノ編制ヲ解キ各隊(艦)ヲ夫々原隊ニ復帰ス|二.訓練部隊指揮官ハ第11水雷戦隊(龍田)山城伊勢ヲシテ10月30日頃(補給終了後)「トラック」発内海西部ニ回航セシムベシ、隼鷹ハ右部隊ト同行呉ニ回航スベシ|三.遊撃部隊指揮官ハ第24駆逐隊(海風涼風)、機動部隊指揮官ハ駆逐艦1隻ヲシテ第二項部隊ノ警戒ニ任ゼシムベシ|三.雲鷹、第7駆逐隊(曙)ハ途中迄第二項部隊ト同行横須賀ニ回航スベシ(以下略)』
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  80. ^ #S1804十一水戦日誌(5)p.49『10月31日|内地回航部隊(略)0800内地ニ向ケトラック発|旗艦ヲ伊勢ニ変更』
  81. ^ #S1804十一水戦日誌(5)p.4『28日連合艦隊電令作第778號ニ依リ本職内地回航部隊(龍田山城伊勢隼鷹雲鷹利根第24駆逐隊(海風涼風)谷風第7駆逐隊(曙))ヲ指揮シ31日「トラック」発内地ニ回航セリ』
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  83. ^ #S1804十一水戦日誌(6)p.19『5日1120隼鷹/一.被害状況浸水遮防終了、浸水箇所右軸室舵機室等舵頭故障ノ為操舵不能面舵5度ニテ停止右舷機使用不能左舷機18節迄使用可能|二.戦死2名行方不明2名重傷2名軽傷14名』
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  99. ^ #飛鷹副長221-222頁『分析された敗因』
  100. ^ #飛鷹副長224頁
  101. ^ #あ号作戦日誌(1)p.28『6.22 1500/本隊中城湾着 午後大鳳(瑞鶴)、翔鶴(摩耶601空ハ瑞鶴)、飛鷹(準鷹)乗員ノ移乗ヲ実施ス』
  102. ^ #あ号作戦日誌(1)pp.65-66『2.二航戦|自爆(炎上):6、未帰還:47、不時着亡失(被弾):(15)、戦死者:14、行方不明者:67、戦傷者:6』
  103. ^ #第1機動艦隊戦時日誌p.6『三.7月10日第三艦隊軍隊区分ヲ左ノ通改ム|4sf(日向、伊勢、隼鷹、634空)』
  104. ^ #日本空母物語420頁
  105. ^ #日本空母物語422頁
  106. ^ #軍艦華麗なる生涯114頁
  107. ^ a b #駆逐艦隊悲劇の記録146頁
  108. ^ a b #S1906第30駆日誌(3)p.4『10月30日/夕月、卯月、隼鷹、木曽護衛「ブルネイ」ニイ向ケ佐世保発(作戦緊急輸送)秋風馬公ニ向ケ大島出港|31日/秋風、夕月卯月ニ合同ス』
  109. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.21『11月3日2253秋風敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没隼鷹ヨリ「人員ヲ救助シタル後合同セヨ」ノ命アリタリ|卯月ハ護衛続行、夕月ハ現場ニ残リ敵潜掃蕩竝ニ秋風生存者ヲ捜索救助セントス』
  110. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.12『3日2252地点北緯128度41.5分東経117度21分ニテ秋風敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没全員戦死、夕月掃蕩セルモ航海不明』
  111. ^ #戦藻録(1968)435頁
  112. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.12『6日/「ブルネイ」入港、夕月ハ榛名ニ卯月ハ金剛ニ各横付給油ヲ受ク』-『8日/未明隼鷹、木曽、筑摩《註:筑摩は既に沈没》ヲ護衛シ第一遊撃部隊シ第一遊撃部隊ニ引続キ「ブルネイ」出港』
  113. ^ #戦藻録(1968)436頁
  114. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.12『10日/日没時「マニラ」入港、隼鷹ヨリ給油ヲ受ク』
  115. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.13『12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』
  116. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.13『16日/筑摩隼鷹ト分離』
  117. ^ #佐藤 艦長(文庫)84頁(渋谷艦長は槇1隻と回想しているが、記憶違い)
  118. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)472頁
  119. ^ #武藏下396頁
  120. ^ a b c #軍艦華麗なる生涯115頁
  121. ^ a b #佐藤 艦長(文庫)83-85頁『片肺航行で帰還』
  122. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録153頁
  123. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)473頁
  124. ^ #最後の海空戦38-39頁
  125. ^ #最後の海空戦40頁
  126. ^ #最後の海空戦45頁
  127. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)474頁
  128. ^ a b #日本空母物語306頁
  129. ^ #写真日本の軍艦第4巻pp.34-35。
  130. ^ #写真日本の軍艦第4巻pp.12,13に掲載の写真。
  131. ^ #日本海軍艦艇図面集p.42、図24、「航空母艦 飛鷹型 隼鷹 一般艤装図(船内側面、上部平面)」昭和17年7月14日付けの完成図。
  132. ^ #日本空母物語p.418。
  133. ^ a b #日本空母物語p.429。
  134. ^ #日本空母物語pp.418,429。
  135. ^ #日本航空母艦史p.75の写真。
  136. ^ #日本航空母艦史p.75の写真、#空母大鳳・信濃pp.141-142の写真。

参考文献[編集]

  • 倉橋友二郎 『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』 徳間書店、1967年6月。 倉橋は1944年9月~1945年5月まで駆逐艦凉月の砲術長勤務。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
  • 「丸」スペシャル第11号空母隼鷹・飛鷹、潮書房、1977年3月15日
  • 飯尾憲人 『艦と人 海軍造船官八百名の死闘』 集英社、1983年7月。ISBN 4-08-772441-7
  • 山川新作 『空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録今日の話題社1985年ISBN 4-87565-118-x
  • 佐藤和正 『軍艦 華麗なる生涯』 光人社、1986年8月。ISBN 4-7698-0319-2
    • 女王の転進 <改造空母「隼鷹」マリアナに奮戦す>
  • 須藤幸助 『駆逐艦五月雨』 朝日ソノラマ、1988年1月。ISBN 4-257-17097-2
  • 写真日本の軍艦 第4巻 空母II』 雑誌『』編集部/編、光人社、1989年10月ISBN 4-7698-0454-7
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年5月。ISBN 47698-2009-7
    • 門前の小僧 <航空母艦隼鷹艦長・渋谷清見少将の証言>(太平洋戦争時、球磨艦長、隼鷹艦長、長門艦長等)
    • 統率の妙 <戦艦長門艦長・兄部勇次郎少将の証言>(太平洋戦争時、利根艦長、長門艦長等)
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』 光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9
    • 「戦術の極意」<駆逐艦「」艦長・石塚栄少佐の証言>(太平洋戦争時、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語』 光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8
  • 長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年
  • 志柿謙吉 『空母飛鷹海戦記 飛鷹副長の見たマリアナ沖決戦』 光人社、2002年2月。ISBN 4-7698-1040-7
  • 片岡紀明 『最後の海空戦 若き最前線指揮官たちの日米戦争』 光人社、2003年12月。ISBN 4-7698-1164-0
    • エンガノ岬沖の死闘――駆逐艦槇航海長・五藤英一郎(戦艦武蔵左高角砲指揮官第五分隊士→「槇」航海長)/15-46ページ
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.18-商船改造空母、モデルアート社、2005年
  • 大内建二 『特設艦船入門 海軍を支えた戦時改装船徹底研究』 光人社NF文庫、2008年4月。ISBN 978-4-7698-2565-4
  • 手塚正己 『軍艦武藏 下巻』 新潮文庫、2009年
  • 秋本実編 『伝承・零戦空戦記2 零戦の攻防 [母艦部隊の激闘]ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、ガ島戦』 光人社、2010年3月。ISBN 978-4-7698-1459-7
    元準鷹戦闘機隊・海軍飛曹長 河野茂「必殺の単縦陣白夜の空に乱舞す」/元春日丸乗組戦闘機隊・海軍飛曹長 谷水竹雄「母艦零戦隊ダッチハーバー痛撃記」45-47ページ
  • 雑誌「丸」編集部 『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』 光人社、2010年7月。
    • 元空母飛鷹艦長・海軍少将別府明朋『航空母艦の誕生、発達、奮戦秘話 空母艦長が綴る「体験的空母論」』
    • 元空母飛鷹艦長・海軍少将別府明朋『空母飛鷹ガダルカナル沖の悲運』
    • 当時第三艦隊参謀・元海軍中佐中島親孝『南太平洋海戦の勝利 ミッドウエーの仇を討った日本機動部隊』
    • 元空母飛鷹艦長・元海軍少将横井俊之『空母飛鷹マリアナ沖の痛恨』
    • 当時隼鷹乗組・元海軍二等兵曹吉川亘『マリアナ沖の明暗 二航戦旗艦隼鷹で戦ったわが初陣』
  • 『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』明治百年史叢書 第242巻、(社)日本造船学会/編、原書房、1978年(原著1975年)、四版。
  • 『空母大鳳・信濃』〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ Vol.22、学習研究社、1999年7月ISBN 4-05-602062-0
  • 福井静夫 『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』 KKベストセラーズ、1982年4月ISBN 4-584-17023-1
  • 『世界の艦船2011年1月号増刊(増刊第95集) 日本航空母艦史』、海人社、2010年12月
  • 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」
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    • Ref.C12070162700 『昭和17年4月~6月 内令2巻/昭和17年5月(1)』。
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    • Ref.C08030126500 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(6)』。
    • Ref.C08030036200 『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030711400 『昭和19年6月13日~昭和19年6月22日 あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(1)』。
    • Ref.C08030711500 『昭和19年6月13日~昭和19年6月22日 あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(2)』。
    • Ref.C08030039800 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030039900 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030724100 『昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030149800 『昭和19年6月1日~昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.A03032269800 『(第1002番艦)新造運転公試成績摘要表(三菱重工業(株)長崎造船所)』。

外部リンク[編集]

  • [1] 英文の隼鷹経歴と写真集
  • [2] アメリカのフォーダム大学に寄贈された隼鷹の鐘の記念碑

関連項目[編集]

画像集[編集]