金剛 (戦艦)

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金剛
Japanese battleship Kongo.jpg
公試運転中の「金剛」
艦歴
建造者 ヴィッカース
運用者  大日本帝国海軍
起工 1911年1月17日[1][2]
進水 1912年5月18日[1][2]
竣工 1913年8月16日[1]
就役 1913年8月16日[2]
その後 1944年11月21日沈没
主要諸元
艦種 戦艦
艦級 金剛型
排水量 26,330 トン
29,330トン(第一次改装)
31,720トン(第二次改装)
全長 214.6m
219.4m(第二次改装)
全幅 28.0m
31.0m(第一次改装)
機関 蒸気タービン2基、4軸 64,000馬力
蒸気タービン4基、4軸 136,000馬力(第二次改装)
速力 27.5 ノット
26ノット(第一次改装)
30.3ノット(第二次改装)
航続距離 8,000(14ノット時)
10,000浬(14ノット時、第一次改装)
9,800浬(18ノット時、第二次改装)
乗員 士官、兵員2,367名
兵装 竣工時
45口径35.6cm連装砲4基
50口径15.2cm単装砲16基
53cm魚雷発射管8門
最終時
35.6cm45口径連装砲4基
15.2cm50口径単装砲8基
12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装18基
同連装8基
同単装30挺
(機銃は推定)
装甲 水線203mm、甲板70mm
弾火薬庫甲板70mm+102mm(第一次改装)
水線(改装後)203mm[3]または203mm+102mm[4]
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金剛(こんごう)は、日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として発注した金剛型の1番艦。イギリスに発注された最後の主力艦である[5]。2度の改装を経て高速戦艦に変身し、太平洋戦争でも活躍した。本艦は、日本海軍が太平洋戦争で使用した唯一の外国製日本戦艦である[注釈 1]

艦名の由来[編集]

戦艦では旧国名が付くことが多いが、一等巡洋艦として設計されたため山岳名が付けられている。艦名は、奈良県と大阪府の境にある金剛山にちなんで命名された。艦内神社は建水分神社。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。なお、名称は海上自衛隊イージス艦1番艦である「こんごう」に受け継がれている。

建造までの経緯[編集]

日露戦争終結2年後の1907年(明治40年)に建造が決定された。最初は装甲巡洋艦として計画されたが、英国1906年に画期的戦艦「ドレッドノート」を完成させて以来あまりに戦艦の進歩は飛躍的になり、設計はまとまらなかった[2]1908年には弩級巡洋戦艦インヴィンシブル級3隻が竣工[2]1909年には超弩級戦艦(ドレッドノートを超える戦艦という意味)オライオン級が起工されるとともに当時世界最大艦となる超弩級巡洋戦艦ライオン級が計画されるという事態に鑑み、1911年(明治42年)に「金剛」を超弩級巡洋戦艦として建造すべく計画を変更した。予算が通過したのは1910年(明治43年)である[2]

この当時日本海軍は1907年(明治40年)計画の国産弩級戦艦河内型を建造中であったが、構想や技術的に欧米に劣る点も多く認められたため、「金剛」は技術導入を兼ねて英国に設計・建造を依頼した。建造にアームストロング・ホイットワースとヴィッカース[6]が名乗りを上げたが、設計試案と技術力を検討しライオン級巡洋戦艦プリンセス・ロイヤルを建造した実績からヴィッカースに決定した[1]

建造[編集]

基本計画は近藤基樹による[1]。計画にあたり日本海軍はイギリス海軍と違う戦略、伝統、その他の事情による意見を出し、ヴィッカースの技術者と詳細な意見交換を行なった[2]

設計にはヴィッカースの主任設計師ジョージ・サーストン卿(George Thurston )が当たった[2]が、フィリップ・ワッツの指導に負うところも多いという[7]。サーストンはオスマン帝国海軍に輸出予定だった戦艦「エリン」 (発注時はレシャド5世)を元に巡洋戦艦を設計する。この艦は英海軍当局の課す設計上のさまざまな制限から自由に設計できたため、14インチ砲8門を搭載した、極めてバランスの取れた素晴らしい軍艦と認められた。その際立った特徴は、射界の狭い船体中央の砲塔を廃して、主砲塔を前後二基ずつ配置したことである。14インチ砲は当時イギリスが採用していた13.5インチより少しでも威力のある砲を、と採用したものだが、これは日本海軍が世界最大の艦砲を持った最初の例となった[2]

英国が図った便宜[編集]

軍艦を建造する造船所はそれぞれ他社にはない独自の技術を持っており、一般に企業秘密として公開しない。しかし、ヴィッカースは戦艦「三笠」「香取」を建造した実績があり、日露戦争日本海海戦における戦艦「三笠」の活躍を誇りとしており、日本海軍と親密な関係が保たれていた[1]

発注に際し日英両国の間で次の約束がされた。

  • 日本海軍の造船、造機、造兵各技術者を派遣、長期に渡り金剛の工事の一切を監督、調査する[1]
  • 砲塔その他一切の船体、機関などの図面を日本は入手し、引き続き利用して同型艦を日本国内で建造する[1]

ヴィッカースは快く派遣要員を受け入れ、技術指導を実施した[1]。日本より建造立ち会い監督官、船体、機関、武器各部門の技術士官、2番艦「比叡」を建造する横須賀工廠の工員が多数派遣されまた3番艦「榛名」や4番艦「霧島」を建造する神戸川崎造船所三菱重工業長崎造船所から技術者や工員が建造技術取得と調査のために渡英した[1][2]。「金剛」の設計図は契約に基づき日本に引き渡され、同型艦3隻は本艦の図面を元に国内で建造された[1][2]。特に日本が立ち後れていた艦内電気艤装工事の技術は大きな収穫となり、日本の造船技術を一躍世界超一流に引き上げる結果となった[1]。日本海軍ではこれを「技術輸入」と称していたという[2]。後に戦艦大和の46cm主砲を製造した秦千代吉もこの時派遣された者の一人である[2]

進水式[編集]

外国では艦首に吊るしたシャンパンボトルを割るのが通例であったが、日本側の要望で日本式に鳩の入った薬玉を用いたところ、英国人が珍しがって喜んだという[1]

回航[編集]

日本海軍の乗員により行なわれ、大艦であったためスエズ運河を通れず喜望峰回りで11月5日横須賀に到着した[1]

建造後の影響[編集]

世界最大、世界最強の戦艦として完成以来その名は世界に轟き、日本海軍の戦力は空前絶後の飛躍を遂げた[2]。このデザインは大きな影響を及ぼし、英海軍は金剛の設計を採用するために本来ライオン級の4番艦となるはずだった「タイガー」の建造を1年半遅らせ、他の3艦とは全く外観の印象が違う艦になった[2]。特に6インチ12門の副砲は明らかに金剛に学んだものであり、防御力は金剛より強化された[2]

シーメンス事件[編集]

アームストロング・ホイットワースとヴィッカースは軍艦の建造受注を巡って競争していた[8]。ヴィッカースの日本代理店三井物産には天下りした松尾鶴太郎(元予備海軍造船総監)がおり、松本和艦政本部長と交流があった[9]。協議の結果、三井取締役岩原謙三はヴィッカースに対し「金剛」のコミッションを2.5%から5%に引き上げさせた[9]1910年(明治43年)3月、藤井光五郎海軍機関大佐は渡英してアームストロングとヴィッカースから提出された新型巡洋戦艦の調査を行い、8月にヴィッカース有利の報告を出した[10]。11月17日、三井物産は230万7100ポンドで日本政府と「金剛」の建造契約を調印する(巡洋戦艦プリンセス・ロイヤルは209万2214ポンド)[11]。藤井は交友のあったヴィッカースのバーロウ造船所長から20万円の謝礼を受け取った[12]。松本は約40万円を受け取った。また姉妹艦「比叡」の蒸気タービン製造を三菱造船所が断ったため、ヴィッカースは1911年(明治44年)3月25日に13万2000ポンドで契約調印、藤井は1万円の謝礼を受け取った[12]

1914年(大正3年)3月、ドイツ企業シーメンスを巡る裁判で収賄事件が発覚、松本らは軍法会議にかけられ処分された。山本権兵衛総理大臣率いる第1次山本内閣内閣総辞職に追い込まれた。

御召艦[編集]

改装[編集]

第一次改装までの小改装[編集]

第一次改装までに小改装が繰り返された。年代別に記載する。

  • 前部三脚マスト頂部の射撃観測所に方位盤照準装置を設置した[1]。時期は1916年末[15]
  • 90cm探照灯を110cm探照灯に換装した[1]。時期は7、8番が1914年10月から翌春、1、2番が1915年7月という[15]
  • 逆風時に排煙が艦橋に流入するのを防ぐため第一煙突を高く改正、煙突頂部に防煙盾を設置した[1]
  • 射撃命中率向上のため前部マストヤード前面に測的所を設置した[1]
  • 8cm単装高射砲を4基搭載した[1]
  • 前部マスト基部張り出しと第一煙突横後方の両舷探照灯を廃止、第一煙突と第二煙突の間に探照灯台を設置し、探照灯を移設した[1]
  • 主砲塔上の単装砲を廃止[1]。時期は1916年末[15]
  • 第二煙突の頂部に煙路雨水浸入防止キャップを取り付け[1]
  • 砲塔と艦橋前面に測距儀を設置[1]
  • 前部三脚マストを廃止し、射撃指揮所を含めた櫓式艦橋とした[1]
  • 主砲仰角を25度から33度に引き上げ、これにより最大射程を25,000mから28,500mに延伸した[1]
  • 後部三脚マスト上の射撃観測所を撤去した[1]
  • 8cm単装高射砲を4基増設した[1]
  • 第三砲塔後部の上部構造上に水上偵察機を搭載し、これに伴い機を吊り上げるデリックポストと起倒式ブームを右舷に設置した[1]

第一次改装[編集]

第一次改装後の「金剛」

1928年(昭和3年)10月より1929年(昭和6年)9月15日[15]まで横須賀工廠で、主として水平・水中防御力の強化と重油への燃料移行が行なわれた。1929年(昭和6年)6月1日付けで戦艦に艦種変更された。

  • 水平防御の強化。弾火薬庫上部甲板に厚さ4インチのNVNC装甲板を、機関区画は缶室や機械室上の下甲板に厚さ3インチのHT強度材を追加した[1]
  • 砲塔支筒の円筒部装甲板と砲塔天蓋装甲板を3インチ増厚し、6インチとした[1]
  • 煙路、通風路、揚弾筒が防御甲板を貫通する部分を4インチから7インチの範囲で増厚した[1]
  • 対魚雷と至近炸裂弾による水中弾片防御としてバイタルパート部の側外板に厚さ1インチのHT材を3-4枚張り重ねた[1]
  • 主缶室外側の燃料庫内に厚さ2インチのHT材縦隔壁を新設した[1]
  • 水中防御のため喫水線長の4/5に渡り総容量3,000トンのバルジを取り付け。前後部は水防区画、中央部は燃料タンクとして用いた。艦の幅が広くなり水中抵抗と排水量が増加したため速力は低下したが、復元性能上有効であった[1]
  • ヤーロー式缶36基を取り外し、日本海軍がヤーロー式を改良したロ号艦本缶を重油・石炭混焼缶が6基、重油専焼缶が4基の計10基搭載した[1]
  • 煙突を一本減らし2本煙突となった。重油使用の増加により従来あった石炭庫の一部は油密され給油配管艤装され重油タンクとなり、このため重油搭載総量は5,000tとなり、航続距離が14ノットで2,000海里延伸された。また煙の色が薄くなるため遠方から発見される確率が低くなった[1]
  • 艦橋構造を変更し檣楼頂部に射撃指揮所を設置した[1]
  • 三番主砲塔の後方に水上偵察機3機搭載設備を設置した[1]
  • 水中魚雷発射装置4基を撤去した[1]

その他艦内全般に渡り諸艤装の改正が施された[1]

第一次改装から第二次改装までの小改装[編集]

  • 8cm単装高角砲7基を撤去し、12.7cm連装高角砲4基を装備した[1]
  • 40mm連装機銃2基を装備した[1]
  • カタパルトを装備した[1]
  • 副砲の1番、2番15cm単装砲を撤去し、砲廓開口部を閉鎖した[1]

第二次改装[編集]

1935年(昭和10年)6月より1937年(昭和12年)1月まで横須賀工廠で、主として機械の換装による速力増加と兵装強化が行なわれた。機関出力は136,000馬力に上昇し、速力30.3ノット。燃料搭載量は6,480t、18ノットでの航続距離は9,800海里となり、近代的な高速戦艦となった[1]

  • 従来装備していた主缶を取り外し、ロ号艦本式大型重油専焼缶8基とした[1]
  • 主機械を艦本式ギヤードタービン4基に換装した[1]
  • 缶配置を変更し缶室区画を廃止、燃料タンクとした[1]
  • 船体抵抗に関して有利にするため艦尾を7.4m伸長した[1]
  • 凌波性を向上するため船首材を鋭利な形状に変更[1]
  • 艦橋構造と関連諸室を大幅に改造。檣楼頂部に10m測距儀を設置、射撃指揮装置を新形式の機器に換装した。これらの機器の振動防止のため艦橋構造檣楼の背後に太い補強支柱を設置した[1]
  • 後部艦橋構造を大型化し、第二煙突からの煙と熱を避けるため傾斜をつけた[1]
  • 主砲仰角を33度から45度に引き上げ、これにより最大射程を28,500mから33,000mに延伸した[1]
  • 副砲仰角を30度とし最大射程を延伸、砲台座と砲廓を改正した[1]
  • 水中発射管を全廃、倉庫または燃料タンクとした[1]
  • 40mm機銃を撤去し25mm連装機銃を10基搭載した[1]

その他艦内諸艤装の改正を実施し、居住性が向上した[1]

第二次改装から第二次世界大戦までの小改装[編集]

  • バルジ内に鋼管を配置した[1]
  • 磁気機雷防止のため舷外電路を取り付けた[1]
  • 注排水装置を新設した[1]
  • 防毒装置を新設した[1]
  • 主砲塔の装甲板を増厚した[1]

鋼鈑に関する風説[編集]

「金剛」の装甲鋼鈑には、ヴィッカースの特殊鋼板VC鋼板が使用されていた。後に日本で建造された同型3艦にもこの技術は導入され、国産化された。なお後年の改装の際に「ドリルで装甲鈑に穴を開けようとすると、国産3艦はやすやすと通ったにもかかわらず、金剛だけはドリルが折れてしまうということがあった」という話が紹介されることがあり、「ヴィッカース社製の甲鈑が使用された金剛とは違い、冶金技術で劣る国産品を使用したため」と解説される事もある。ただし、実際には比叡も全てヴィッカーズから供給された資材を使用して建造されており[16]、当該装甲の部位、厚み、材質などにはまったく言及されていない為、風説の域を出ない。

第二次世界大戦での活躍[編集]

近代化改装後の「金剛」

元々軽防御の巡洋戦艦として設計されたため、第一次改装で防御力を強化したといっても充分ではなく、ユトランド沖海戦で必要性が明らかになった、大口径砲弾が大角度で落下してくる場合に対する水平防御は明らかに貧弱であっただけでなく、垂直防御に関しても日本の戦艦の中では最弱の防御しか持ち合わせていなかった。長門型以前の日本戦艦同様に全体防御方式を取る金剛型の場合は、舷側、甲板、バイタルパート部だけでなく。非バイタルパート部にまで及ぶ広範囲を防御したため、元々余裕の無い装甲部分が全体的に薄くならざるを得なかった(というよりも、先に水平防御を強化した金剛型を教訓として、他の日本戦艦は後にさらに有効な水平防御を施したという経過であった)。

しかし、水雷戦隊と共に前衛として夜戦に参加する事を可能とするために、第二次改装時に機関の換装を行った事で、第二次世界大戦に参加した日本戦艦では唯一30ノットを超える高速性能を持つ事となった。このため金剛型は水雷戦隊と共に前衛部隊として機動部隊に随伴する事となったが、既に時代は戦艦や巡洋戦艦同士による艦隊決戦が行われるような時代では無く、航空機の時代へと移っていたため、持ち前の砲戦力を生かす機会に恵まれる事は無かった。日本が保有する戦艦の中では、攻防共に最弱の老朽艦であった金剛型は、例え損耗したとしても戦力に及ぼす影響が低かったため、第二次世界大戦に参戦した日本戦艦の中では最も活動する機会の多い艦となった。

マレー沖海戦

「金剛」は、太平洋戦争開戦時は同型艦「榛名」とともに第三戦隊第2小隊を編成し、南方攻略部隊の支援任務に就いた。シンガポールに進出していた英海軍東洋艦隊旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と対峙する事となったが、新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」よりも全ての点で大幅に性能の劣る巡洋戦艦金剛型2隻による砲戦は企図されず、航空隊と水雷戦隊によって英艦隊を迎え撃つ事が計画された。作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められる事は無いと考え、1機の護衛戦闘機もつけず、日本側の航空機を過小評価(イタリア軍と同等以下)していた英国側は、この海戦の結果「日本海軍航空隊」によって「プリンス・オブ・ウェールズ」を失う事となった。しかし、金剛型による交戦は企図されていなかったものの、実際には「金剛」、「榛名」の両艦は「プリンス・オブ・ウェールズ」と砲戦が可能な距離にまで一時接近していた事が作戦後に判明した。幸いにも「プリンス・オブ・ウェールズ」より砲撃を受ける事は無かったため、「金剛」は命拾いをした形となった。

その後、第三戦隊は金剛型4隻そろって南雲機動部隊(空母赤城蒼龍飛龍瑞鶴翔鶴)の随伴艦となり、インド洋に進出した。この時の第三戦隊隊番号は、旗艦/第1小隊「比叡」、2番艦「霧島」、第2小隊/3番艦「榛名」、4番艦「金剛」であった。3月6日、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:蒼龍、飛龍)、第三戦隊第2小隊(榛名、金剛)、第一水雷戦隊第17駆逐隊(谷風浦風浜風磯風)は機動部隊本隊から分離、クリスマス島へ向かった。空母2隻の護衛に「浜風」「磯風」を残すと、「榛名」「金剛」「谷風」「浦風」はクリスマス島に対し艦砲射撃を実施した。続いてセイロン沖海戦に参加する。

ヘンダーソン基地艦砲射撃

ソロモン諸島の戦いの一幕ガダルカナルの戦いでは、「金剛」が旗艦を務め「榛名」とともに日本戦艦で初めてヘンダーソン飛行場(現ホニアラ国際空港)を砲撃、同飛行場を一時機能停止に追い込んだ。

マリアナ沖海戦では、機動部隊の護衛として出撃。

レイテ沖海戦

佐世保市にある金剛の慰霊碑では、金剛はサマール島沖にて護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツの撃沈に貢献したとされている。[注釈 2]

金剛は10月22日にブルネイ湾を出撃、第二艦隊の旗艦としてレイテ湾を目指した。23日早朝にはパラワン島沖、24日にはシブヤン海の戦闘で愛宕、大和、武蔵、長門が攻撃に晒されたが金剛は第三戦隊にいたためほぼ無傷であった[17]。10月25日午前6時45分サマール島沖でトーマス・L・スプラグー少将率いる第七七・四任務部隊の第三群((通称タフィ3戦隊))と遭遇。米護衛空母群は大和、長門、榛名、金剛の先制砲撃を受け折しも到来していたスコールへと退避するために東方へと遁走。煙幕を展張し、7時6分から次々とスコールへと逃げ込んだ。栗田長官率いる第一遊撃部隊は第五、第七戦隊を先頭に追撃を開始し、金剛は第五、第七戦隊に後続する形で東方へと向かった[注釈 3]。榛名もこれに続いたがマリアナ沖海戦での推進機類故障が直っておらず26ノット程度しか出せず金剛との距離が離れ第三戦隊は各艦がバラバラに進撃する事となった。28ktで突撃する第七、第五戦隊の後方に続行していた金剛は7時14分に駆逐艦に砲撃を加えた後スコールに突入。同22分には航空からの機銃掃射を受け主砲測距儀を破損(9時に修理が完了)し、スコールに突入したことから7時25分には砲撃を中止する。同33分にはホーエルから発射されたとされる魚雷を回避する事態もあったが、その後は米艦隊を視認し予測位置とされる東南東に向けて全速で突撃した[16]。同59分にスコールを脱した金剛は米空母軍を南西方向に発見し、8時2分から主砲副砲による砲撃を再開したのち、同5分に今度は南方へと艦先を変え落伍していたガンビア・ベイに追い迫り、重巡部隊と共に攻撃を加えた[18][19]。同20分にガンビア・ベイは金剛主砲の至近弾による機雷効果、もしくは重巡部隊主砲の水中弾により前部機関室が浸水、速度が11ノットまで低下する。その結果金剛と重巡部隊の集中攻撃を受け同45分に航行不能に陥り、9時11分に沈没した。金剛は8時50分に「空母一隻大火災大爆発」を報じ、射撃を中止している[19]

金剛は同55分に「われ一四〇度方向の空母に向かう」と報告し南東方向の空母群へと向かおうとしたが、栗田長官は位置的に近い榛名に攻撃を命じたため、金剛は南西方向の空母群へと向かった。その途中、金剛は重巡部隊の砲撃によって40発もの命中弾を受け満身創痍の状態となった護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツと9時2分に遭遇し、これに主砲を一斉射し直撃弾を与えた。金剛の主砲弾を前部5インチ砲塔と後部機関室に受け、致命傷を負ったサミュエル・B・ロバーツは同35分に総員退去を行った[20]。この後軽巡洋艦矢矧と第十七駆逐隊(駆逐艦浦風磯風雪風)からの止めの砲撃を受け、10時5分に沈没している[21]。しかし金剛は、サミュエル・B・ロバーツとの戦闘により空母群の追撃から脱落することになってしまった[20]

9時11分に旗艦大和より発信された「逐次集レ」の集結命令を同25分に受信した金剛は命令に従い北上を開始した。午後1時28分金剛は航空からの集中的な急降下爆撃を浴びこれまでに無いかなりの損傷を受けた。28日ブルネイに帰投した[22]

サマール島沖で金剛が消費した弾薬数は以下のとおりである[23]

  • 主砲=三式通常弾98発、一式徹甲弾211発
  • 副砲=零式通常弾170発、四式通常弾177発
  • 高角砲=三式通常弾薬包100発、通常弾薬包2,028発
  • 機銃=50,230発

艦長付兼甲板士官を務めていた長山兼敏が雑誌「丸」に寄稿した金剛沈没時の体験記事『比島洋上決戦にわが金剛主砲の雄叫びよ、ひびけ』の中にも、この海戦における金剛の様子が書き残されている。

こうして30ノットの高速で約2時間追跡して、遂に空母1隻(戦後ガンビアベイと判明)を捕捉し、
これに集中砲火を浴びせた。
だが、主砲の徹甲弾は舷側を打ち破り、艦内を貫通して反対舷に突き抜けた。
これでは何時まで経っても沈むわけがないと判断した艦長は、野口砲術長に水線を狙って撃つように指示すると
同時に高畑副砲長に対して、「副砲左砲戦対空弾使用」を命じた。
この対空弾は、時限信管だから舷側を打ち破って艦内で爆発し、水線攻撃とあいまって功を奏しはじめ、
次第に空母は傾斜し始めた。
この時彼我の距離は僅かに2000メートルであったため、空母の乗員が舷側に鈴なりになって
海面に滑り落ちていく姿が双眼鏡にはっきり見えだしたので、「射ち方止め」の号令が発せられた。
しかし敵は傾斜し沈みつりある空母から最後まで射撃を続けていた砲があったのは敵ながら天晴れであった。

(雑誌「丸」1977年12月号掲載[24]

「距離は僅かに2000メートル」とあるが、これは第二次改装後の金剛の最大射程は33000mであるため。

なおガンビア・ベイをどの艦が撃沈したか、に関しては著書によっては異説も存在し、金剛の他に大和[注釈 4][25]、羽黒[25]、筑摩[26]、利根[27]などの名前が上がることもある。金剛は海戦の戦果報告として空母一隻の共同撃沈と駆逐艦一隻の撃沈を報じており[20]、ガンビア・ベイの戦果を単艦ではなく共同撃沈として上げる資料もある[28]

サマール沖海戦後の「金剛」はフィリピンやブルネイを転々したのち、日本本土への帰還が決定。戦艦「大和」、「長門」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「浦風」、「磯風」、「雪風」、「浜風」、「」、「」が「金剛」と行動をともにした。11月16日、艦隊は「榛名」「羽黒」「足柄」「大淀」をブルネイに残置して外洋へ出た[29]。11月20日、「梅」「桐」が艦隊から分離して台湾の馬公へ向かった[30]。これにより、護衛駆逐艦は第十七駆逐隊の四隻だけとなった。「磯風」乗組員によれば、「金剛」に燃料補給を依頼すると『やる油はないから、後からついてこい』との返事があったという[31]。20日20時、「大和」から陣形変更の信号があり「大和」→「金剛」→「長門」から「金剛」→「長門」→「大和」に序列が変わったという[32]。ただしブルネイ出港時から「金剛」「長門」「大和」だったという証言もある[32]

沈没[編集]

11月21日零時、先頭「金剛」、二番「長門」、三番「大和」の順で航行する日本艦隊は正体不明の電波を探知、之字運動をやめ速度をあげて現場海域を突き切ろうとした[33]。艦隊の先頭を「矢矧」が、戦艦戦隊の右舷(左舷)を「浦風」「雪風」(浜風、磯風)が航行していたが、台風に突入したためレイテ沖海戦で損傷していた「矢矧」は落伍、駆逐艦隊も危険な状態となっていた[32]。午前3時ごろ、「金剛」は台湾沖・基隆北方50浬で米海軍潜水艦シーライオン」(USS Sealion, SS/SSP/ASSP/APSS/LPSS-315)の魚雷攻撃を受けた。「シーライオン」は6本の魚雷を発射。午前3時6分、12ノットで航行していた「金剛」の左舷艦首と2番煙突下の缶室に合計2本の魚雷が命中した[34]。この時、戦艦長門」を狙って外れた魚雷1本が護衛の第十七駆逐隊司令艦「浦風」に命中して「浦風」は轟沈、第十七駆逐隊司令部、艦長以下乗組員全員が戦死している[35]。3隻となった第十七駆逐隊は、「雪風」が戦艦「大和」や「長門」の護衛として現場海域を離脱[36]。「金剛」は『六・八罐室浸水、十六節、傾斜十四度』等を報告し、「磯風」「浜風」と共に基隆へ退避することになった[33]。鈴木司令や島崎艦長は金剛夜戦艦橋にて指揮をとった[37]

当時「金剛」すでに艦齢30数年と老朽化が進んでおり、レイテ沖海戦でも至近弾で浸水被害を受けていた。魚雷命中破孔に加えてリベットの継ぎ目などからも浸水、徐々に破損箇所が広がって傾斜が増大する[38]。傾斜12度になり、艦長は左舷副砲指揮官兼衛兵司令の佐藤中尉を呼び、艦長公室の御真影を艦橋に移させた[38]。午前5時の時点でも11ノットで航行しており、乗組員の誰もが魚雷2本で沈むとは考えず楽観視していたため、駆逐艦を接舷させての乗員退避は実施されなかった[39]。応急決死隊が潜水具をつけて作業にあたるも手遅れであり、傾斜18度で司令官及び艦長より総員退去命令が出される[38]。5時20分には機関が停止、10分後の午前5時30分に転覆した[40]。沈没直前、弾薬庫の大爆発が起きて艦中央付近にいた多くの乗員が吹き飛ばされ犠牲となった[40]。被雷してから沈没まで2時間があったにもかかわらず、損害の軽視、総員退艦の判断の遅れなどにより、島崎利雄艦長、鈴木義尾第三戦隊司令官以下1,300名とともに沈むこととなった。「磯風」、「浜風」は準士官以上13名、下士官兵224名、計237名を救助したとされる[33](浜風:准士官以上7名、下士官兵139名。磯風:准士官以上副長以下6名、下士官兵85名)[41]。23日、「浜風」は「矢矧」に金剛生存者を引き渡した[42]。この後、第十七駆逐隊は日本帰還後、横須賀へ回航される「長門」の護衛任務につき、折り返して、大和型戦艦を改造した空母信濃」の呉回航の護衛任務につくことになった。

なお「金剛」は、日本戦艦で唯一潜水艦の雷撃により撃沈された艦である。一部連合国側戦史では、日本海軍戦艦の最高殊勲艦とされている[要出典]。慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。また1930年の第一次改装で取り外されたボイラーは現在、呉市海事歴史科学館に展示されており、2008年重要科学技術史資料(未来技術遺産)に認定された。

なお、沈没時に艦首に掲揚されていた軍艦旗は乗員によって回収され、この乗員が捕虜になった関係から一時、中華民国に接収されていたが、1969年に同国政府より返還され、海軍のOB会「黒潮会」によって管理されていた。その後、2009年に会員の高齢化によって同会が解散した際、旗を回収した乗員の地元である福岡県飯塚市に寄贈され、飯塚市歴史資料館に保存されている。

艦歴[編集]

主要目一覧[編集]

要目 新造時計画
(1913年)
1次改装後
(1930年)
2次改装後
(1938年)
最終時
(1944年)
排水量 常備:27,500t 基準:29,330t 基準:32,200t
公試:36,314t
全長 214.6m 222m
全幅 28.04m 31.02m
吃水 8.38m 8.65m 9.6m
主缶 ヤーロー式混焼缶36基 ロ号艦本式専焼缶4基
同混焼缶6基
ロ号艦本式缶8基
主機 パーソンズ式直結タービン2基4軸 艦本式タービン4基4軸
軸馬力 64,000shp 136,000shp
速力 27.5ノット 26ノット 30.3ノット
航続距離 8,000海里/14ノット 9,500海里/14ノット 10,000海里/18ノット
燃料 石炭:4,000t
重油:1,000t
石炭:2,661t
重油:3,292t
重油:6,000t
乗員 1,201名
主砲 毘式35.6cm連装砲4基
副砲 毘式15.2cm単装砲16門 同14門 同8門
高角砲 なし 短8cm砲7門 12.7cm連装砲4基 同6基
機銃 なし 25mm連装10基 25mm3連装18基
同連装8基
同単装30挺
魚雷 53cm水中発射管8本 同4本 なし?
その他兵装 短8cm砲12門 21号電探1基
22号2基
13号2基
装甲 水線203mm
甲板19mm
主砲天蓋75mm
同前盾250mm
副砲廓152mm
水線203mm
甲板19mm※※
主砲天蓋152mm
同前盾250mm?
副砲廓152mm?
搭載機 なし 3機 3機
カタパルト1基

※ ←は左に同じ(変更なし)。空白は不明。1944年は推定を含む。
※※ 水平防御に缶室64mm、機械室83-89mm、弾薬庫102-114mm、舵取室76mmなど追加。

公試成績[編集]

状態 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
竣工時 27,580t 78,275shp 27.54kt 1913年(大正2年)5月8日 英国クライド湾
1次改装後 25.374kt 1931年(昭和6年)8月4日 館山沖標柱間
2次改装後 30.27kt 1936年(昭和11年)11月14日

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』9-11頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  1. 中野直枝 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日 *兼海軍艦政本部艤装員(- 1912年8月16日)
  2. 山中柴吉 大佐:1913年12月1日 -
  3. 松岡修蔵 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
  4. 荒川仲吾 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  5. 吉岡範策 大佐:1916年12月1日 -
  6. 金丸清緝 大佐:1917年12月1日 - 1918年4月9日
  7. 島内桓太 大佐:1918年4月9日 -
  8. 野崎小十郎 大佐:1919年4月1日 - 11月20日
  9. 田尻唯二 大佐:1919年11月20日 - 1920年11月12日
  10. 牟田亀太郎 大佐:1920年11月12日 - 1921年11月20日
  11. 武光一 大佐:1921年11月20日 -
  12. 関干城 大佐:1922年12月1日 - 1923年11月20日
  13. 岸井孝一 大佐:1923年11月20日 - 1924年11月1日
  14. 八角三郎 大佐:1924年11月1日 -
  15. 松下元 大佐:1925年12月1日 -
  16. 吉田善吾 大佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日
  17. 池中健一 大佐:1928年12月10日 -
  18. 池田敬之助 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  19. 日暮豊年 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  20. 近藤信竹 大佐:1932年12月1日 -
  21. 三木太市 大佐:1933年11月15日 -
  22. 岸本鹿子治 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
  23. 鋤柄玉造 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  24. 松浦永次郎 大佐:1936年12月1日 -
  25. 栗田健男 大佐:1937年12月1日 -
  26. 鈴木義尾 大佐:1938年11月15日 -
  27. (兼)西村祥治 大佐:1939年10月20日 -
  28. 田中頼三 大佐:1939年11月15日 -
  29. 大杉守一 大佐:1941年4月15日 -
  30. 小柳富次 大佐:1941年8月15日 -
  31. 伊集院松治 大佐:1942年12月26日 -
  32. 島崎利雄 大佐:1943年7月17日 -

同型艦[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、前弩級戦艦として同じヴィッカースで建造された敷島型戦艦「朝日」が工作艦として太平洋戦争に実戦参加している。
  2. ^ 長崎県佐世保市の佐世保東山海軍墓地にある金剛の慰霊碑の碑文の文字の中に「10月25日敵機動部隊とサマール島沖にて遭遇、数千米の至近距離にて一大砲撃戦を展開、空母1駆逐艦2を撃沈せり」という一文が刻まれている。
  3. ^ 風上が東であった。直線的に突き進んだ他の艦艇は激しいスコールと護衛駆逐艦の煙幕に視界を奪われた。
  4. ^ 31Kmの長距離射撃をガンビア・ベイに命中させたという類のものが多い。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj 『歴史群像太平洋戦史シリーズ21 金剛型戦艦』p.71-83「日本初の超弩級金剛型の誕生」。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本戦艦物語I』p.213-234「金剛型の建造」。
  3. ^ 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p133
  4. ^ 『日本戦艦物語1』p346
  5. ^ #死の商人121頁
  6. ^ 尚、この2社は1927年に合併しヴィッカース・アームストロングとなる。
  7. ^ 『日本戦艦物語I』p.59-61「戦艦史をかざる四人の造艦設計者」
  8. ^ #死の商人122頁
  9. ^ a b #死の商人138頁
  10. ^ #死の商人136頁
  11. ^ #死の商人133頁
  12. ^ a b #死の商人137頁
  13. ^ 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』38頁(光人社)
  14. ^ 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』38頁(光人社)
  15. ^ a b c d e f g 『歴史群像太平洋戦史シリーズ21 金剛型戦艦』折り込みチャート。
  16. ^ a b 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p.115「建造ドキュメント:第2章 巡洋戦艦『金剛』の建造」
  17. ^ 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』34頁(光人社)
  18. ^ 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』35、36頁(光人社)
  19. ^ a b 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p.187-188「サマール島沖での一大追撃戦」
  20. ^ a b c d 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p.188-189「サマール島沖での一大追撃戦」
  21. ^ #昭和19年10月17日~捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)
  22. ^ 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』37頁(光人社)
  23. ^ 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』37頁(光人社)
  24. ^ なにわ会ニュース95号18頁より引用
  25. ^ a b 『連合艦隊下巻・激闘編』(世界文化社)
  26. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』(光人社NF文庫)
  27. ^ 砲術艦長黛治夫―海軍常識を覆した鬼才の生涯 (光人社NF文庫)
  28. ^ 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』や雑誌「丸」2014年3月号『金剛型戦艦』等
  29. ^ #昭和19年11月~第17駆戦時日誌戦闘詳報(1)p.19、#戦藻録(九版)442頁
  30. ^ #戦藻録(九版)443頁
  31. ^ #駆逐艦磯風と三人の特年兵241頁
  32. ^ a b c #最後の海空戦102頁
  33. ^ a b c #戦藻録(九版)444頁
  34. ^ #昭和19年11月~第17駆戦時日誌戦闘詳報(1)p.7、#雪風ハ沈マズ新装381頁
  35. ^ #雪風ハ沈マズ新装384頁
  36. ^ #駆逐艦磯風と三人の特年兵243-245頁
  37. ^ #最後の海空戦103頁
  38. ^ a b c #最後の海空戦104頁
  39. ^ #雪風ハ沈マズ新装382頁
  40. ^ a b #雪風ハ沈マズ新装383頁
  41. ^ #昭和19年11月~第17駆戦時日誌戦闘詳報(1)p.27
  42. ^ #昭和19年11月~第17駆戦時日誌戦闘詳報(1)p.24

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030147000 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030567100 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦金剛捷号作戦戦闘詳(3)』。
    • Ref.C08030037400 『昭和19年10月17日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)』。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書 第九版』 原書房、1968年1月。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第2巻 戦艦II』(光人社、1989年) ISBN 4769804520
  • 横井勝彦 『大英帝国の<死の商人>』 講談社、1997年8月。ISBN 4-06-258110-8
  • 井上理二 『駆逐艦磯風と三人の特年兵』 光人社、1999年9月。ISBN 4-7698-0935-2
  • 片岡紀明 『最後の海空戦 若き最前線指揮官たちの日米戦争』 光人社、2003年12月。ISBN 4-7698-1164-0
    • 武勲艦、東シナ海に沈む――戦艦「金剛」艦長付・長山兼敏
  • 豊田穣 『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』 光人社NF文庫新装版、2004年ISBN 978-4-7698-2027-7
  • 『歴史群像太平洋戦史シリーズ21 金剛型戦艦』学習研究社 1999年 ISBN4-05-602016-7
  • 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』学習研究社 2008年 ISBN4-05-605192-5
  • 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社 ISBN4-7698-0607-8
  • 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』光人社 ISBN 4-7698-0773-2
  • 『連合艦隊-サイパン・レイテ海戦記』著者:福田幸弘 出版:時事通信社 1981年
  • 『戦史叢書 海軍捷号作戦(2)』著者:防衛庁防衛研究所戦史室 出版:朝雲新聞社 1972年
  • 『モリソンの太平洋海戦史』著者:サミュエル・エリオット モリソン 訳者:大谷内 一夫 出版:光人社 2003年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 官報

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

画像集[編集]

座標: 北緯26度09分 東経121度23分 / 北緯26.150度 東経121.383度 / 26.150; 121.383