山城 (戦艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
山城
初期の山城
山城
近代化改装後の山城
艦歴
発注
起工 1913年11月20日
進水 1915年11月3日
就役 1917年3月31日
その後 1944年10月25日に戦没
除籍 1945年8月31日
性能諸元(竣工時)
排水量 39,154t
全長 215.80m
全幅 28.96m
吃水 9.08m
機関 ブラウン・カーチス式直結型タービン
40,000馬力
燃料 石炭5,022t、重油1,026t(扶桑の値)
最大速 23.3kt(公試)
航続距離 14ktで8,000浬
兵員 約1,400名
兵装 主砲35.6cm(45口径)連装6基12門
副砲15cm(50口径)単装16基16門
高角砲8cm(40口径)単装4基4門
53cm水中魚雷発射管6門
装甲 水線305mm
甲板64mm
主砲天蓋115mm

山城(やましろ)は、日本海軍戦艦扶桑型戦艦の2番艦。大東亜戦争太平洋戦争)においては第一艦隊第二戦隊に編入され第二戦隊が解隊されるまでの間主力の戦艦部隊の一隻として作戦に従事した。しかし、第二戦隊解隊後は横須賀方面海軍諸学校練習艦として任務に就く事となり、この間に戦訓に基づく対空兵装の増設なども行われた。しかし、1944年(昭和19年)9月10日に捷一号作戦警戒が発令されると共に再編された第二艦隊第二戦隊へと編入され、西村中将の座乗する旗艦となり第一遊撃部隊第三部隊としてレイテ沖海戦投入されスリガオ海峡における米艦隊との夜間水上戦闘にて撃沈された。

艦名[編集]

山城の艦名は、畿内令制国「山城国 (やましろのくに)」から採られた[1]艦内神社石清水八幡宮からの分祀。

建造の背景[編集]

イギリス海軍において、単一口径主砲を中心線上に配置すると言う斬新な発想の戦艦「ドレッドノート」が誕生すると、世界は一気に弩級戦艦の時代を迎える事となり、その数年後には早くも超弩級戦艦の時代を迎えた。そのころの日本海軍はこの波に乗り遅れた形となっており、艦隊の旧式化は否めなかった。そこで、日本海軍は主力艦の近代化を図り、1910年(明治43年)の艦隊補充計画によって扶桑型4隻を含む戦艦8隻の建造を計画した。しかし、当時の日本は独自設計による薩摩型戦艦や弩級戦艦河内型の建造の経験はあったものの、新たに登場した超弩級戦艦を設計・建造出来るほどのノウハウも技術も持ち合わせていなかった。このため、明治40年度計画で建造される予定の伊号装甲巡洋艦を巡洋戦艦として技術導入を目的に英国に発注する事となった。こうして建造されたのが金剛型巡洋戦艦の1番艦金剛であったが、巡洋戦艦と対になる戦艦である扶桑型は弩級戦艦河内型を雛型に、技術導入によって得た知識を加えた純国産の超弩級戦艦として設計・建造される事となった。1903年(明治36年)に計画されながらも起工の遅れていた第3号戦艦扶桑建造のための予算が下り、1912年(明治45年)にようやく起工されたのに対して、2番艦となる予定であった第4号戦艦山城の起工はさらに遅れ大正2年度計画によって、後に伊勢、日向として竣工する第5号戦艦、第6号戦艦と共に建造する事が計画されていたが、伊勢型のように大幅に設計が改められることは無く、最終的に山城は扶桑型戦艦として建造される事となった。しかし、結果的に扶桑より2年ほど起工の遅れた山城では、扶桑の建造中より指摘されていた主砲配置による爆風問題などの諸問題の修正が試みられ、扶桑では接続されていなかった艦橋基部と艦橋甲板が第2砲塔に接続され、司令塔が扶桑では楕円状となっていたものを改め、円形に変更しただけでは無く、扶桑では第2砲塔上に設置していた3.7m測距儀を司令塔の前方に1基設ける形に変更し、司令塔の後方にも2.7m測距儀が新たに設けられることとなった。また、砲塔上に設置されている測距儀を扶桑の4.5mから6mへと改め、前檣トップの観測所を拡大し、新たに方位盤照準装置が設置されるなどの変更も行われた。この他に、扶桑では竣工時に撤去されたスターンウォークが補強用のアームを新たに設けた上で残されただけでなく、竣工直後に8cm(40口径)高角砲4基が前檣両側と第2煙突の両側に装備された。

苦しい防御設計[編集]

「扶桑」型戦艦の設計に当たって、日本海軍ではさまざまな案が検討されたが、結局、排水量30,600トン、速力22.5ノットとしてまとめられた。主砲の搭載に関しては12インチ連装砲、三連装砲などの案も検討されたようだが金剛型との主砲共有との考えを取り入れた結果、14インチ2連装砲6基12門でまとまった。しかし、当時の日本海軍は日露戦争時の様な近戦思想から、8,000m~10,000mの近距離戦重視の配置をしていたため、遠距離20,000m~30,000mでの大落角砲弾に対する水平防御力不足が後のユトランド沖海戦の戦訓で判明する事となる。

「山城」の誕生と扶桑型の問題点[編集]

扶桑型戦艦「山城」は、完成時世界最大の戦艦で、また初めて排水量が30,000トンを越えた戦艦でもあった。しかし、先に竣工し公試を行っていた扶桑では、大角度変針時の速力低下が大きい事や、建造中から懸念されていたように、主砲発砲時に爆風が全艦を覆い、艦橋等の暴露部分に影響が出るといった問題がある事が発覚していた。[2] 通常、主砲は2個を1つとして指揮するのだが、三番主砲と四番主砲の間に煙突があるため三番、四番主砲の指揮がとりにくい。[要出典]同時期に建造された金剛型巡洋戦艦と同様に扶桑型では、積極的に新たな技術や装備の導入が行われていただけでなく、より旧式な金剛型程では無かったものの他国の主力艦に対抗する事が出来るように、時代に合わせて繰り返し改装が行われていた。また、山城の大規模な近代化改装としては、水中防御の強化・改善、機関の換装、上部構造の近代化、兵装の改善などが盛り込まれた1930年(昭和5年)~1934年(昭和9年)の長期に渡って行われた大改装が有名であるが、この際に、扶桑が山城と同じ1930年(昭和5年)に改装が開始されたにも関わらず、山城より一足早く1933年(昭和8年)に艦隊に復帰したため、山城は扶桑と比べると、艦隊で行動した期間よりもドックで改装を行っていた期間のほうが長いという、“艦隊にいる方が珍しい艦”となってしまった[3]。なお、山城が扶桑よりも1年遅れて艦隊に復帰した背景には、折からの満州出兵や上海事変などによって日米関係が悪化していたという事もあり、山城については有事の際に即工事を打ち切って出撃可能とするために、工程を区切って工事が行われたため、工期が長くなったという事情が存在する。「山城」進水時の式典段階では「扶桑」「山城」の同型姉妹艦と紹介された「伊勢」「日向」だが[4]、実際には砲塔配置を変更するなど設計変更がなされて伊勢型戦艦となった。

艦上機発艦実験[編集]

1922年(大正11年)3月29日、山城第2砲塔上に滑走台を設け陸上機の発艦実験を行った。航空機はグロースター・スパローホーク戦闘機で3回の実験全てが成功した。山城では実験後に滑走台は撤去されたがこの成功以降、5500トン型軽巡洋艦に滑走台が設けられた。しかしその後の用兵側の評判は良くなくカタパルトが実用化されると滑走台形式は廃れることとなった。

大改装[編集]

山城と加賀

就役から大改装までの間、航空艤装の搭載などの小規模な改装は度々行われてきたが、1930年(昭和5年)から1934年(昭和9年)にかけて、大改装が行われる事となった。これにより艦橋構造物は大幅に巨大、複雑化し新造時の山城と比べると艦形も大きく変わる事となった。この大規模な近代化改装では各種機器の改正も行われ、機関を換装し速力を24.5ノットまで上昇させる事に成功し、射撃指揮装置の換装と主砲、副砲の抑角増大により砲戦距離が飛躍的に伸びたのと同時に、この改装の際に新式の九一式徹甲弾が使用可能となった。また、水平・水中防御の強化も行われ、弾火薬庫、機関室上部に51mm~102mmの甲鈑が追加され、水中防御の強化としてはバルジが装着されただけでなく、64mm~76mmの縦隔壁が新たに設けられた。さらに航行中の水による抵抗の減少を図って艦尾を15m延長した結果出来た艦尾スペースに従来5番砲塔上に搭載されていた射出装置を移設し、航空機運搬用のレールを設けて水上偵察機及び観測機を3機搭載した。また日本戦艦として初めて12.7cm高角砲も搭載し、一部に防御装甲の追加工事も行われている。この近代化改装の際に扶桑では第3砲塔上部にカタパルトが装備され、砲塔の繋止位置を従来と逆方向にして砲口を艦首に向けることとなったため、艦橋基部が細くなり不安定な形状となったが、山城では第3砲塔の繋止位置を従来のままとし、延長した船尾に航空兵装を設けたため、扶桑のような不安定な形状とはなっておらず、この点が大改装後の扶桑と山城を見分ける一つのポイントとなった。この改装の結果、「扶桑」型の2隻は能力を向上させる事が出来たが、旧式的な垂直防御の構造自体は他の老朽艦同様に改善はされておらず、他国の新鋭艦に対抗するためには、決して満足できるものでは無かったようである。

艦歴[編集]

扶桑型戦艦2番艦「山城」は1913年(大正2年)11月20日、横須賀海軍工廠第四號戦艦として起工された[5]1915年(大正4年)11月3日、伏見宮博恭王が臨席して進水し「山城」と命名される[6][7]1917年(大正6年)3月31日竣工した[8]

1927年(昭和2年)7月23日、昭和天皇が「連語艦隊の戦闘射撃及爆撃実験御覧」するに当り「山城」が御召艦に指定された(護衛は第四駆逐隊、供奉艦は扶桑)[9]。28日、天皇が「山城」に乗艦する[10]。「山城」には事前に徹底的な清掃と修理、天皇滞在の為の改造が施されていた[11]。また艦上水泳のためのプールも六・七番砲塔左舷側に設けられた[12]。当時の乗組員は、佐官11、尉官35、准士官16、下士官257、兵1011、傭人4、計1334名であった[13]。以後、天皇の御召艦として、佐伯湾、奄美大島、小笠原諸島を航海する[14]。豊後水道では空母「赤城」「鳳翔」の艦載機訓練や戦艦「長門」「陸奥」の夜間射撃訓練を天皇が天覧した[15]。8月10日、横須賀に入港して天皇御退艦[16]

同年10月30日、横浜沖で行われた大演習観艦式(御召艦「陸奥」、先導艦「鬼怒」、供奉艦「阿武隈」「由良」「球磨」「長良」)に参加。その後1928年(昭和3年)12月から1929年(昭和4年)11月まで、連合艦隊旗艦となる。1936年(昭和11年)2月4日、「山城」から「長門」に連合艦隊旗艦が変更されたように、短時間ながら連合艦隊旗艦となった事例がある[17]

1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖で行われた御大礼特別観艦式(御召艦「榛名」、先導艦「金剛」、供奉艦「比叡」「磐手」)に参加[18]。1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖で行われた特別大演習観艦式(御召艦「霧島」、先導艦「足柄」、供奉艦「妙高」「那智」「羽黒」)に参加[19]。1934年(昭和9年)11月15月からの1年間、南雲忠一大佐(のちの南雲機動部隊司令長官)が山城艦長を勤めた。翌年5月の第二水雷戦隊との夜間演習では軽巡洋艦「神通」(二水戦旗艦)と正面衝突しかけたが、南雲の冷静な判断で回避に成功、大事故を免れている。1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖で行われた昭和11年特別大演習観艦式(御召艦「比叡」、先導艦「鳥海」、供奉艦「愛宕」「足柄」)に参加。1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式(御召艦「比叡」、先導艦「高雄」、供奉艦「加古」「古鷹」)に参加。

太平洋戦争における戦績[編集]

太平洋戦争初期~中期は、扶桑型戦艦のほか日本海軍の戦艦のほとんどは内地にあった。「山城」と「扶桑」は1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦に戦艦「大和」以下主力部隊として出撃するが、戦闘には参加しなかった。そのミッドウェーで失った空母戦力穴埋めの為に全ての戦艦を航空母艦へ改造する事が検討された際に扶桑型は伊勢型と共にと共に最終候補となっていたが、結局これは伊勢型戦艦2隻の改造となり実現しなかった。その後も内地で待機の任務が続き、砲術学校の練習艦として使用されていた。「艦内は隅々まで手入れが行き届き光り輝いていた」という見学した横須賀海軍砲術学校生徒の回想があるが、その一方で『鬼の山城・蛇の長門』と畏れられる艦でもあった[20]1943年10月には航空戦艦「伊勢」と共に『甲支隊T3号輸送部隊』として輸送任務を行った。帰路は空母「隼鷹」と行動を共にした。1944年(昭和19年)になると、「扶桑」はトラック泊地に進出して戦艦「大和」や「武蔵」と共に待機し、その後渾作戦等に従事したが、「山城」は内地待機が続いた。6月、日本海軍はマリアナ沖海戦で大敗、サイパン島陥落により絶対国防圏は崩れた。日本海軍は6月15日~29日にかけて東号作戦を発動、マリアナ諸島の米軍に対し、日本本土の航空兵力を多数投入していた[21]。この状況下、神重徳連合艦隊参謀は戦艦「山城」(もしくは扶桑)と第五艦隊(巡洋艦那智足柄多磨木曾阿武隈等)によるサイパン島突入作戦を発案、海軍陸戦隊をサイパンへ強行輸送しつつ、艦隊は浮き砲台となって陸上砲撃をおこなう計画を提案する。神は山城艦長となって自ら陣頭に立つことを希望した。第五艦隊は北方より内地に戻り作戦準備を行うも、作戦は中止された[22]

捷一号作戦[編集]

レイテ沖海戦での山城。米側資料の為、実際と異なる箇所がある。

日本本土への攻撃準備を進める米軍に対し、日本軍は捷号作戦で迎撃する計画を立てた。9月10日、西村祥治中将が第二戦隊司令官に着任し、「山城」を旗艦とした。23日、第二戦隊は第十七駆逐隊(浦風雪風磯風)に護衛され日本本土を離れ、29日ブルネイに入港した。10月、日本軍は台湾沖航空戦で米軍機動部隊に大打撃を与えたと錯覚、フィリピンに襲来した米軍を撃退すべく連合艦隊は出動した[23]。この中で、改めて「山城」「扶桑」に出撃命令が下った。作戦はレイテ湾へ突入し、基地航空隊の協力のもと、米軍輸送船団を撃破し上陸部隊を殲滅、米軍のフィリピン侵攻の企図を完全に撃砕すべしというもので、「山城」「扶桑」の任務は、米軍の注意を南方に向けさせると同時に弾薬消耗を誘うという、特攻的な性格を強く持っていた[24]。「山城」は第一遊撃部隊第三部隊/第一遊撃部隊支隊(通称西村艦隊)旗艦に指定され、引き続き西村中将が乗艦した[25]。西村艦隊は第二戦隊(扶桑型戦艦山城、扶桑)、重巡洋艦「最上」、第四駆逐隊(満潮朝雲山雲)、第二十七駆逐隊(時雨)、戦艦2隻・重巡洋艦1隻・駆逐艦4隻の計7隻で編成されていた[26]。統一訓練すら行ったことのない寄せ集め艦隊であり、最初から生還の見込みはなかったとされる[27]。同艦隊は扶桑型戦艦の最高速度や駆逐艦燃料不足の観点から第二艦隊(栗田艦隊)主力に随伴できず、ブルネイ泊地→バラバック海峡スルー海ミンダナオ海スリガオ海峡レイテ湾という最短南寄りルートを指定され、25日黎明のレイテ突入を目指した[28]。西村中将は、出撃直前のブルネイで初めて西村艦隊(第三部隊)は栗田艦隊(第一部隊・第二部隊)と別行動を取ることを知らされたという[29]。10月22日午後3時30分、栗田艦隊出撃から七時間半を置いて西村艦隊はリンガ泊地から出撃し、23日10時20分にバラバック海峡を通過してスル海に入る[30]

10月24日午前6時50分、「最上」水上偵察機がレイテ湾に到達、戦艦4隻・巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、魚雷艇14隻、輸送船80隻を含む米艦隊の存在を伝えた[31]。最上偵察機の電報は陸上基地経由で艦隊にもたらされ、また艦隊上空に戻ると報告球を投下して詳細な情報をもたらした[32]。午前9時以降、スールー海ネグロス島南西海域で米軍機動部隊(第3艦隊第4群デビソン隊)艦載機27機(ロケット弾装備F6Fヘルキャット、SBC2ヘルダイバー急降下爆撃機)の攻撃を受ける[33]。米軍機動部隊の攻撃は栗田艦隊に集中しており、西村艦隊は10時以降空襲を受けず、予定通りスリガオ海峡を目指して進撃した。「扶桑」「最上」「時雨」が被弾したが、各艦とも損害は軽微であった[34]。ただし「山城」生存者の江崎寿人(山城主計長)によれば、レーダー機器に被弾してレーダーが使用不可能になった他、至近弾により右舷中央から後部にかけてのバルジと艦体の境が大規模に裂けた[35]結果、右舷に五度傾斜したが、左舷への注水により平衡を回復したという[36]。12時15分、米軍第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は指揮下の全艦艇に対し夜戦準備警報を発し、特にジェシー・B・オルデンドルフ少将の艦隊42隻(戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻)に西村艦隊と志摩艦隊への迎撃準備を命じた[37]。戦艦6隻( ウェストバージニア/16インチ砲8門、 メリーランド/16インチ砲8門 、 テネシー/14インチ砲12門、 カリフォルニア/14インチ砲12門、 ミシシッピ/14インチ砲12門、 ペンシルベニア/14インチ砲12門)のうち、「ミシシッピ」以外の米戦艦5隻は真珠湾攻撃で沈没もしくは大破しており、近代化改修を受けて再投入された軍艦達であった[38]。しかし、戦艦用砲弾の77.3%は陸上砲撃用のHC(high capacity)弾で占められており、徹甲AP弾(armor piercing)は全体の僅か22.7%に過ぎずHC弾も既に58%が陸上砲撃に使用され消耗していた。[39]少ない対艦用徹甲弾で最大限の効果をあげるべく1万7000~2万ヤードでの射撃方針が決定された[40]。湾内には28隻の輸送船、3隻の上陸作戦用指揮官、ダグラス・マッカーサー将軍が座乗する軽巡洋艦「ナッシュビル」が停泊していた[37]。第7艦隊の魚雷艇戦隊(ボーリング中佐指揮)のうち、レッスン少佐率いる39隻がスリガオ海峡の13箇所に展開、一部はミンダナオ島のカミギン島に進出していた[41]

10月24日午後7時前後、最前線に立つ栗田艦隊や西村艦隊は豊田副武連合艦隊司令長官(連合艦隊司令部/慶応義塾大学日吉台地下壕)から発せられた「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ(連合艦隊電令第372号 GF機密241813番電)」を受信した[42]。25日未明、「山城」以下西村艦隊は、ミンダナオ海を抜け、志摩艦隊に先んじて米軍第7艦隊が待ち構えるスリガオ海峡に突入した。西村艦隊は闇雲にスリガオ海峡へ突入したと誤解されがちだが、西村長官は逐一自隊の状況を栗田長官に報告していた[43]。一方で、栗田艦隊の「武蔵」沈没という被害や反転・再反転の情報を受信していたかは定かではない[43]。21時13分、西村司令官は「二十五日〇四〇〇『ダラグ』沖ニ突入予定」(第二戦隊機密第242013番電)と発信(栗田艦隊受信20時20分)[44]。対する栗田長官は、21時45分にレイテ突入予定時刻を25日11時と伝え「(西村艦隊は)予定通『レイテ』泊地ニ突入後 二十五日〇九〇〇『スルアン』島ノ北東一〇浬付近ニ於テ主力ニ合同」(第一遊撃部隊第242145番電)と発信した(西村艦隊受信22時40分)[45]

レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)[編集]

24日午後7時頃、「最上」と第4駆逐隊(満潮、山雲、朝雲)は掃討隊として先行した[46]。午後11時、「時雨」はカミギン島の北方で米軍魚雷艇との交戦を報告[47]。魚雷艇1隻が「時雨」の砲撃で損傷したのみで双方に主な戦果はなく、魚雷艇は煙幕を展開して避退したが、オルデンドルフ提督への通報は1時間遅れた(受信0026)[48]。25日0時時前後、西村艦隊掃討隊は魚雷艇3隻と交戦、被害は無かった[49]。一連の戦闘で、米軍魚雷艇39隻のうち30隻が戦闘に参加、魚雷34本(海戦全体で160本とも)を発射したが、確実に挙げた戦果は志摩艦隊軽巡洋艦「阿武隈」中破のみである[50]。1時、西村艦隊は「〇一三〇『スリガオ』海峡南口通過『レイテ』湾ニ突入、魚雷艇数隻見タル他敵情不明」(第二戦隊機密第250100番電)と報告(栗田艦隊受信2時20分)[51]。1時30分、掃討隊が西村艦隊本隊に合流[52]。2時になると針路を真北にとり、突入態勢とった。同時刻、西村艦隊と米魚雷艇群が砲雷撃を交わしたが、双方とも戦果はなかった[53]。一連の戦闘で、魚雷艇1隻(PT493)が大破翌朝沈没、10隻が損傷し、6名が戦死した[54]

米軍魚雷艇群の攻撃を切り抜けた西村艦隊は、先頭から「満潮」「朝雲」「山城」「扶桑」「最上」が一列に並び、「山城」左舷1.5kmに「時雨」、右同距離に「山雲」という単縦陣を形成した[55]。2時50分以降、「時雨」はディガナット島寄りに駆逐艦3隻発見を報告、西村司令官は探照灯による照射攻撃を命じると共に単縦陣を令し、「満潮」「朝雲」「山雲」「時雨」「山城」「扶桑」「最上」という完全な単縦陣を形成した[56]。西村艦隊は3時10分前後に砲撃を開始した[57]。米軍は、海峡東側(西村艦隊右前方)を進む第54水雷戦隊3隻(リメイ、マクゴワン、メルビン)が魚雷27本を発射[58]。海峡西側(西村艦隊左前方)を進む第108駆逐隊2隻(マクデルマット、モンセン)が魚雷20本を発射[59]。米軍水雷戦隊は計47本の魚雷を発射した後、西村艦隊の照明弾やサーチライトに追われつつ離脱した[59]

午前3時10分頃戦艦「扶桑」右舷中部[60]魚雷が命中[61]。扶桑第二分隊一等軍曹であった小川英雄氏によると「扶桑」は第二砲塔右舷に一本目の魚雷を受けた後、注水によって傾斜の復元が行われている最中に再度一本目の魚雷とほぼ同じ位置に魚雷を受けたとされる。また、被雷後の扶桑は右舷に傾斜し第一砲塔より先の艦首が水没した状態で緩やかに右旋回しながら前進しており、総員退去が発令されたと思しき後に左に急転倒し艦首から海底に突っ込んで行き、第六砲塔より後方の船尾60mほどがスクリューが回転を続けた状態で海面に50度程度の角度で静止していたと証言している。[62](3時38分に大爆発を起こし艦体分断、前部は4時30分前後、後部5時20分前後に沈没)[63]。離脱した「扶桑」の位置に「最上」がつき、「山城」に続行した[64]。西村中将は「扶桑」の落伍に気づかず、「扶桑」健在と判断したまま命令を発していた[65]尤も、0352に山城から扶桑に対して発せられた出し得る最大速力を知らせという命令は、時雨が扶桑[66]に続行すると発したのを受けての下令であるため、時雨が山城と扶桑を取り違えていた事を知らなかった西村中将が扶桑に対して命令を発したのは当然の事であったと言える。[67]。逆に、「時雨」は脱落した戦艦を「山城」、戦闘可能な戦艦を「扶桑」と判断していた[68][69]。午前3時33分~3時40分、「最上」は「山城」左舷に水柱2本が立つのを確認し、艦首付近に魚雷命中を認め、3時35分に山城の左舷に火災が発生しているのを確認した。[70][71]。護衛の駆逐艦も「山雲」轟沈、「満潮」被雷航行不能、「朝雲」艦首切断という大損害を受けて次々に落伍する[72]。3時25分、米軍第24水雷戦隊の駆逐艦6隻が戦闘に加わり、駆逐艦「キレン」が「山城」に魚雷1本を命中させた[73]。数本の魚雷は「時雨」の艦底を通過していった[74]。西村は栗田艦隊や志摩艦隊に対し3時30分に「スリガオ水道ノ北口両側 敵d(駆逐艦)魚雷艇アリ 味方d2被雷遊弋中 山城被雷1戦闘航海ニ支障ナシ」(第二戦隊機密第250330番電)を発信した(栗田艦隊受信04時15分)[75]。だが3時50分-4時10分にかけて、残存する「山城」「最上」「時雨」は、米戦艦6隻(ウェストバージニア、メリーランド、テネシー、カリフォルニア、ミシシッピ、ペンシルベニア) 、巡洋艦8隻から集中砲火を浴びた[76]。米軍戦艦6隻(ペンシルバニアは発砲せず)の主砲発射弾数は計272発、米軍巡洋艦部隊は8インチ砲・6インチ砲計約3000発を発射したと記録されている[77]。既に2本の魚雷を被雷していた「山城」は艦橋付近に命中した敵弾により炎上、「最上」も艦橋への命中弾で艦長や航海長が戦死するなど戦闘力を喪った[78]。西村は「我魚雷ヲ受ク 各艦ハ前進シテ敵艦隊ヲ攻撃スベシ」と下令したという[79]。なお時雨戦闘詳報では3時55分に炎上・航行不能となった戦艦を「扶桑」としているが[80]、実際には「山城」であった。

同時刻、米軍第56水雷戦隊駆逐艦9隻は「山城」が速力を落とし針路を北から西に変えるのをレーダーで探知、第1小隊「ニューコム」「アルバート・W・グラント」「リチャード・P・リアリー 」は「山城」と並走しつつ距離約5580mで各艦魚雷5本(計15本)を発射、4時11分30秒に2つの爆発音を認めた[81]。山城艦橋にいた江崎主計長によれば、午前3時30分頃に1本目の魚雷が「山城」左舷後部に命中して速力低下、つづいて艦橋付近に艦砲射撃を受け火災が発生し第1・2番砲塔のみで応戦中、左舷中央部に魚雷1本が命中。一時速力が5ktに低下したものの停止するには至らず速力は12ktに回復(艦内通信遮断)、3本目の魚雷が右舷機関室に命中すると「山城」は艦首を南西に向けて停止、停止後唯一健在だった1番砲塔のみで応戦していた所、最後に4本目の魚雷が右舷に命中、取舵に転舵したまま急速に傾斜しはじめた[82]。そこで総員退去が命じられたが、3分後には横転して艦尾から沈没した[83]。西村司令官が安藤先任参謀に「我レイテ湾に向け突撃、玉砕す」の電文作成指示を出すのを江崎は目撃しているが、この電文は栗田艦隊に届かなかったか、「山城」は通信能力を既に喪失していたと見られる[84]。米軍記録を総合すると、「山城」に対し3時20分に第108駆逐隊所属「モンセン」の魚雷1本が命中、3時25分に第24水雷戦隊所属「キレン」の魚雷1本が命中、4時11分に第56水雷戦隊所属「ニューコム」の魚雷2本が命中して致命打となり、4時19分に沈没した[85]。なお米軍戦艦・巡洋艦部隊は駆逐艦「グラント」に対する同士討ちを避けるため4時9分に射撃を中止、直後に艦隊に迫る魚雷を発見し、回避のため北方へ変針した[86]。大破炎上する「最上」は酸素魚雷4本を発射しており[87]、米艦隊はこの魚雷を発見したものと思われる[88]。約10分後に射撃再開命令が出たが、「最上」「時雨」は南に反転して退避しつつあり、米軍のレーダーには何も映っていなかった[89]。大破した「最上」は避退中に第二遊撃部隊(志摩清英中将)旗艦「那智」と衝突、その後も戦場離脱に努力していたが、午前9時前後に空襲を受け航行不能となり、駆逐艦「」によって雷撃処分された[90]。駆逐艦「朝雲」は12ノットで退避していたが、追撃してきた巡洋艦「デンバー」、「コロンビア」、駆逐艦「クラクストン」、「コニー」、「ソーン」に補足されて7時21分に撃沈された[91]。西村艦隊所属艦のうち、『呉の雪風、佐世保の時雨』と謳われた「時雨」のみが損傷を受けつつ生還、27日になってブルネイに帰着した[92]

生存者[編集]

レイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦は、空軍が関与せず、戦艦同士の砲撃戦が行われた最後の海戦だった[93]。戦艦から戦艦に対する最後の砲撃は、10月25日午前4時9分、戦艦「ミシシッピ」(USS Mississippi, BB-41/AG-128)が「山城」に対して発射した12発の14インチ砲弾とされる[94]。本海戦において、日本海軍側は「山城」「扶桑」「最上」「阿武隈(志摩艦隊)」「山雲」「満潮」「朝雲」が撃沈され4000名以上が戦死したのに対し、米海軍の損害は駆逐艦1隻損傷、魚雷艇1隻沈没、戦死39名・負傷者114名であり、本海戦は太平洋戦争における最も無惨な戦いの一つと評されている[95]。「山城」沈没時の定員は1350名であったが、対空機銃を増設した関係で約1500名が配属されていたと思われる[96]。士官2名、下士官兵8名、生存者10名が米軍に救助され、戦後帰還した[97]。沈没時100名以上(米軍駆逐艦艦長によれば数百名)の乗組員が漂流していたが、米駆逐艦の救助を拒み溺死したもの、陸地に上陸したが住民に殺害された者も少なくなく、最終的に生存者10名となってしまった[98]。米軍がこの戦闘に発射した砲弾は大口径弾300発、中、小口径弾4,000発とされるが、主計長として西村司令官と共に艦橋にいて、戦後帰還した江崎寿人氏の手記によると艦を沈めたのは4本の魚雷であり、艦砲射撃は終末を早めたのみであったという。[要出典]「時雨」は上級司令部に対し『我ト同勢力以上ノ敵泊地ニ夜間突入スルハ勝算ナシ』と報告している[99]。戦後、小沢治三郎(レイテ沖海戦時小沢機動部隊司令官)は「あのとき、まじめに戦争をしたのは、西村一人だったよ」と語った[100]。また江崎(山城主計長)は、敗因について「日本海軍が米海軍に負けたのであって、西村司令官の責任ではない。当時の誰でも西村司令官以上の指揮は出来ず、あの状況下では最善の指揮だったと信じている」と回想した[101]

主要目一覧[編集]

要目 新造時
(1917年)
大改装後
(1935年)
レイテ沖海戦時
(1944年)
排水量 基準:32,720t
常備:33,800t
基準:39,130t
公試:43,580t
全長 215.80m 224.94m
全幅 28.96m 34.60m
吃水 9.08m 9.49m
主缶
主機  ブラウン・カーチス式直結型タービン 艦本式タービン4基4軸
軸馬力 40,000shp 70,000shp 75,000shp
速力 23.3ノット 24.6ノット
航続距離 8000海里/14kt
燃料 石炭5022t 重油1026t
乗員
主砲 四一式35.6cm連装砲6基
副砲 四一式15.2cm単装砲16門 同14門
高角砲 8cm単装砲4門 12.7cm連装4基
機銃 40mm連装2基
13mm4連装4基
25mm連装8基
(40mmにかえて後日装備)
25mm3連装8基
25mm連装17基
同単装34挺
13mm連装3基
同単装10挺
魚雷 53cm水中発射管6門 なし
その他兵装 22号電探2基
13号2基
装甲 水線305mm
甲板64mm
主砲天蓋115mm
水線305mm
甲板100mm
主砲天蓋152mm
縦壁75mm
搭載機 なし 3機
カタパルト1基

※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。1944年(昭和19年)は推定を含む。

公試成績[編集]

項目 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
竣工時 30,577t 47,712shp 23.307kt 1916年(大正5年)12月19日 館山沖
大改装後 39,172t 70,922shp 24.600kt 1934年(昭和9年)12月14日 館山沖

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』21-23頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長[編集]

  • 志津田定一郎 大佐:1916年4月1日 - 5月20日
  • (兼)志津田定一郎 大佐:1916年5月20日 - 12月1日
  • (兼)中島資朋 大佐:1916年12月1日 -

艦長[編集]

  1. 志津田定一郎 大佐:1916年5月20日 - 12月1日
  2. 中島資朋 大佐:1916年12月1日 -
  3. 加藤雄次郎 大佐:1917年12月1日 - 1919年11月20日
  4. 大内田盛繁 大佐:1919年11月20日 -
  5. 増田幸一 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月20日
  6. 小山武 大佐:1921年11月20日 -
  7. 高橋節雄 大佐:1922年7月1日 -
  8. 鳥崎保三 大佐:1922年11月10日 -
  9. 高橋律人 大佐:1923年12月1日 -
  10. 大湊直太郎 大佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日
  11. 伊地知清弘 大佐:1925年12月1日 -
  12. (兼)益子六弥 大佐:1926年12月1日 -
  13. 寺島健 大佐:1927年3月1日 -
  14. 東林岩次郎 大佐:1927年12月1日 -
  15. 豊田貞次郎 大佐:1928年12月10日 -
  16. (兼)岩村兼言 大佐:1929年10月5日 - 1929年11月30日
  17. 小槙和輔 大佐:1929年11月30日 -
  18. 寺本武治 大佐:1930年12月1日 -
  19. 真崎勝次 大佐:1931年12月1日 -
  20. 糟谷宗一 大佐:1932年12月1日 -
  21. 小島謙太郎 大佐:1933年11月15日 -
  22. 南雲忠一 大佐:1934年11月15日 -
  23. 大熊政吉 大佐:1935年11月15日 -
  24. 小林仁 大佐:1936年12月1日 -
  25. 阿部嘉輔 大佐:1937年10月20日 -
  26. 角田覚治 大佐:1938年11月15日 -
  27. (兼)五藤存知 大佐:1939年9月15日 -
  28. 五藤存知 大佐:1939年11月1日 -
  29. 原鼎三 大佐:1939年11月15日 -
  30. 緒方真記 大佐:1940年10月15日 -
  31. 小畑長左衛門 大佐:1941年5月24日 -
  32. 大和田昇 大佐:1942年9月1日 -
  33. 早川幹夫 大佐:1943年3月1日 -
  34. 久宗米次郎 大佐:1943年8月2日 -
  35. 田原吉興 大佐:1943年12月25日 - 1944年5月5日戦死
  36. 篠田勝清 少将:1944年5月6日 - 10月25日戦死

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.110『国名なり、畿内山城国に採る。』
  2. ^ 「丸 2013年8月号」p76参照
  3. ^ 学研『日本の戦艦』参照
  4. ^ #戦艦山城命名及進水式(2)pp.29-30
  5. ^ #山城(1)p.3、『軍港と名勝史蹟』p.45
  6. ^ 『官報』第980号、大正4年11月5日。
  7. ^ #山城(2)p.24、#戦艦山城命名及進水式(2)p.18
  8. ^ #山城(2)pp.42-42
  9. ^ 『行幸に関する件』pp.4-5
  10. ^ 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(1)』p.7
  11. ^ 『御召艦準備に関する件』、『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(1)』pp.19-27
  12. ^ 『行幸に関する件』p.29
  13. ^ 『扶桑乗員の件』p.11
  14. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.239『昭和2年7月28日~8月10日聯合艦隊演習へ 軍艦山城 横須賀軍港にて御乗艦、佐伯湾奄美大島方面、小笠原諸島 横須賀軍港にて御乗退艦』
  15. ^ 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(3)』p.39、『供奉艦乗組員数の件(2)』p.6
  16. ^ 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(3)』p.42
  17. ^ 『連合艦隊機密第35号 11.2.4 旗艦変更の件』p.1
  18. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.241
  19. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.242
  20. ^ #16歳の海戦(文庫版)136頁
  21. ^ #第5艦隊戦時日誌AL作戦(6)p.28
  22. ^ #第5艦隊戦時日誌AL作戦(6)p.27
  23. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.4-5
  24. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.19、#サイパン・レイテ海戦記230頁
  25. ^ #サイパン・レイテ海戦記191頁
  26. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか126頁、#軍艦最上戦闘詳報pp.2,6
  27. ^ #サイパン・レイテ海戦記231頁
  28. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.20、#軍艦最上戦闘詳報p.5、#サイパン・レイテ海戦記192頁
  29. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか124頁
  30. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか128頁
  31. ^ #軍艦最上戦闘詳報p.8,14、#サイパン・レイテ海戦記194頁
  32. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.14,24、#駆逐艦時雨戦闘詳報p.28
  33. ^ #サイパン・レイテ海戦記195頁
  34. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか194頁
  35. ^ #完本・太平洋戦争(下)87頁
  36. ^ #サイパン・レイテ海戦記239頁
  37. ^ a b #サイパン・レイテ海戦記201-203頁
  38. ^ #サイパン・レイテ海戦記211頁
  39. ^ #サイパン・レイテ海戦記p203
  40. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか231-233頁
  41. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか235頁
  42. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.29、#軍艦大和戦闘詳報第3号(2)p.22、#サイパン・レイテ海戦記195-196頁
  43. ^ a b #サイパン・レイテ海戦記196頁
  44. ^ #軍艦最上戦闘詳報p.28、#軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)p.22、#サイパン・レイテ海戦記196頁
  45. ^ #軍艦大和戦闘詳報第3号(2)p.27、#軍艦最上戦闘詳報p.27、#サイパン・レイテ海戦記196頁
  46. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.8,15,27
  47. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.8,15、#駆逐艦時雨戦闘詳報p.8,30
  48. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか236頁
  49. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.8,15、#駆逐艦時雨戦闘詳報pp.31-32、#サイパン・レイテ海戦記198頁
  50. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか254頁、#サイパン・レイテ海戦記204頁
  51. ^ #軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)pp.25-26、#サイパン・レイテ海戦記198頁
  52. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報pp.8,31-32
  53. ^ #軍艦最上戦闘詳報p.15、#サイパン・レイテ海戦記199頁
  54. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか127頁
  55. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.8
  56. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか239頁
  57. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報pp.9,35、#サイパン・レイテ海戦記199頁
  58. ^ #サイパン・レイテ海戦記205頁
  59. ^ a b #サイパン・レイテ海戦記206頁
  60. ^ 「完本・太平洋戦争(下)」p98では0330~0335に扶桑右舷船尾に魚雷が一本命中し火災発生と記録されている。
  61. ^ #サイパン・レイテ海戦記199頁、#軍艦最上戦闘詳報p.16(最上戦闘詳報の扶桑被雷0210は0310の誤認)
  62. ^ 『丸 エキストラ5月別冊「戦史と旅」34』p126
  63. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか249頁
  64. ^ #軍艦最上戦闘詳報p.16
  65. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか240頁
  66. ^ 実際は山城
  67. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.37『0348時雨→扶桑/我貴隊ニ続行ス 0352将旗2S(西村司令官)→扶桑/出シ得ル最大速力知ラセ』
  68. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.9「〇三二〇 敵魚雷四dgニ命中 山雲轟沈 満潮朝雲(前部ニ命中)航行不能 コノ頃敵砲撃漸次猛烈トナリ(コノ頃山城ラシキモノ左傾斜 後方ニテ奮戦中 被雷停止集中砲火ヲ受ケツツアルヲ認メタルモノアリ)」
  69. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.37 〇三四八[時雨→扶桑]「我貴隊ニ続行ス」、他に#駆逐艦時雨戦闘詳報p.52
  70. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.9,16、
  71. ^ #完本・太平洋戦争(下)p98
  72. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.9、#サイパン・レイテ海戦記207頁
  73. ^ #サイパン・レイテ海戦記209頁
  74. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.9『0333/雷跡三本艦底通過』
  75. ^ #軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)p.27、#サイパン・レイテ海戦記200頁
  76. ^ #サイパン・レイテ海戦記211頁
  77. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか245-246頁
  78. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.16-17
  79. ^ #サイパン・レイテ海戦記200頁
  80. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.9 「〇三五〇 扶桑猛烈ナル敵戦艦巡洋艦ノ集中砲火ヲ受ケ火災 〇三五五航行不能トナリタルヲ認ム」
  81. ^ #サイパン・レイテ海戦記210頁
  82. ^ #完本・太平洋戦争(下)88頁
  83. ^ #サイパン・レイテ海戦記200頁
  84. ^ #サイパン・レイテ海戦記239-240頁
  85. ^ #サイパン・レイテ海戦記228頁
  86. ^ #サイパン・レイテ海戦記215頁
  87. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.9,16
  88. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか248頁
  89. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか249頁
  90. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.17-19、#サイパン・レイテ海戦記201頁
  91. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか255頁
  92. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.10
  93. ^ #サイパン・レイテ海戦記227頁
  94. ^ #サイパン・レイテ海戦記228頁
  95. ^ #サイパン・レイテ海戦記191,227頁
  96. ^ #サイパン・レイテ海戦記200,238頁
  97. ^ #サイパン・レイテ海戦記200頁
  98. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか253頁、#サイパン・レイテ海戦記241頁
  99. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.45
  100. ^ #サイパン・レイテ海戦記232頁
  101. ^ #サイパン・レイテ海戦記242頁

参考文献[編集]

  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 帝国水難救済会 編『帝国軍艦帖』(帝国水難救済会出版部、大正5年) 戦艦「山城」進水式写真
    • 引頭文博『軍港と名勝史蹟』(軍港と名勝史蹟発行所、1933年)「戦艦山城の話」
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』(海軍研究社、昭和12乃至15)
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A06050685900 『天皇陛下豊後水道沖ニ於ケル聯合艦隊ノ戦闘射撃及爆撃実験御覧ノ為東京御発行幸被仰出御発着割宮内大臣通牒、同正副議長顧問官ヘ通知』
    • Ref.C08020922600 『山城(1)』。
    • Ref.C08020922700 『山城(2)』。
    • Ref.C08020764800 『試験(2)』。
    • Ref.C08020545200 『戦艦山城命名及進水式(1)』。
    • Ref.C08020545300 『戦艦山城命名及進水式(2)』。
    • Ref.C08020922800 『伊勢(1)』。
    • Ref.C08020922900 『伊勢(2)』。
    • Ref.C04015510200 『御召艦準備に関する件』
    • Ref.C04015514000 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(1)』
    • Ref.C04015514100 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(2)』
    • Ref.C04015514200 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(3)』
    • Ref.C04015514300 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(4)』
    • Ref.C04015509800 『行幸に関する件』
    • Ref.C04015514400 『扶桑乗員の件』
    • Ref.C04015514600 『御座所に掲うへき額送付の件』
    • Ref.C04015514700 『供奉艦乗組員数の件(1)』
    • Ref.C04015514800 『供奉艦乗組員数の件(2)』
    • Ref.C05034930200 『連合艦隊機密第35号 11.2.4 旗艦変更の件』
    • Ref.C13120031400 『東号作戦戦闘詳報(第2号) 自昭和19年6月15日至昭和19年6月29日(第2次)東号作戦司令部』
    • Ref.C08030126400 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030019500 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(6)』。
    • Ref.C08030564600 『昭和19年10月17日~昭19年10月28日 軍艦大和戦闘詳報 第3号(2)』。
    • Ref.C08030577600 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030575400 『昭和19年10月18日~昭和19年10月25日 軍艦最上戦闘詳報』。
    • Ref.C08030589500 『昭和19年10月23日~昭和19年10月27日 駆逐艦時雨戦闘詳報』。
    • Ref.C14061105800 『捷1号作戦に於ける2YBの作戦経過概要 5F水雷主務参謀 中佐 森幸吉記憶』。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

画像集[編集]