長門型戦艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
長門型戦艦
大改装直後の長門。連合艦隊旗艦時。
艦級概観
艦種 戦艦
艦名 旧国名
前級 伊勢型戦艦
次級 大和型戦艦
同型艦 長門陸奥
性能諸元(新造時)
排水量 常備:33,800トン[1]
全長 215.8m、水線長: 201.7m
660呎、229m[1]
全幅 28.96m(90呎、31.32m[1])
吃水 9.08m(30呎、10.44m[1])
主機 ロ号艦本式重油専焼缶 16基
ロ号重油・石炭混焼缶 6基
技本式オール・ギヤード・タービン 4基
4軸推進、80,000hp
最大速力 26.5ノット
航続距離 16ノット/5,500海里
乗員 1,333名
兵装 41cm(45口径)連装砲 4基
14cm(50口径)単装砲 20基
7.6cm(40口径)単装高角砲 4基
53.3cm水中魚雷発射管 4基
53.3cm水上魚雷発射管 4基
装甲 舷側 305mm(ヴァイタルパート部)
甲板 70+75mm
主砲防盾 305mm(前盾)、152mm(側盾)、-mm(後盾)、115mm(天蓋)
副砲ケースメイト装甲 152mm
海外で紹介された新造時の長門の画。
大和ミュージアム展示の陸奥の舵とスクリュー
1927年長門(奥)と陸奥。右は球磨型軽巡洋艦

長門型戦艦(ながとがたせんかん)は、大日本帝国海軍戦艦の艦型のひとつで、八八艦隊計画により最初に作られた戦艦。

概要[編集]

長門型戦艦は、「長門」と「陸奥」の2隻が建造された。長門型戦艦は建造時(1920年)、世界最大・最強・最高速の戦艦であり[2]、日本国民にとって日本海軍の象徴であり[3]、当時の子供達も「大好きな戦艦は何か」と聞かれればこの長門型(特に長門)と即答し、写生するときの題材にも必ず挙がったと言われている[4]。長門型2隻を上回る大和型戦艦大和」「武蔵」の存在が広く知られるようになったのは、戦後の事である。

建造経緯[編集]

本型は八八艦隊の1番艦、2番艦である。「長門」は八四艦隊案大正五年度計画により、「陸奥」は大正六年度計画により加賀型戦艦天城型巡洋戦艦と共に建造が承認された。2番艦の「陸奥」は、ワシントン海軍軍縮条約で完成しているかどうか問題になり、結果として「陸奥」の建造は認められたが、代償としてアメリカ海軍コロラド級戦艦2隻の建造(別に1隻が既に完成。)、イギリス海軍は戦艦2隻の新造を認められた。一連の経過を経て竣工した長門型戦艦2隻、コロラド級戦艦(3隻/1921年)、ネルソン級戦艦(2隻/1927年)を世界のビッグセブンと呼ぶ事もある[5]

艦形[編集]

当初は前檣を三脚マストにする予定だった。だが、ユトランド沖海戦の戦訓を取り入れ、耐震性に優れる強固な主檣に六本の副檣を合わせた七脚檣を採用した。

艦首は水線付近で60度の傾斜を持ち、上部を垂直とする独特のスプーン・バウを採用した。これは当時、決戦海域に配備する予定だった秘密兵器・一号機雷を乗り切るための形状だった。

主砲塔はイギリスから提供されたクイーン・エリザベス級戦艦の設計図を参考として、これと同様に連装4基を前後に背負式で配置した。

就役後の長門型戦艦は運用面で艦隊側から、良好な評価を得た。加速・減速性能は就役中の日本戦艦で最良であり、旋回半径は扶桑型伊勢型よりも大きかったものの、速度低下は少なかった。また、舵の利きもよく、艦の保針も容易であることから、日本戦艦で最良の運動性を持つと評価された。

また機関に最新のギヤードタービンを採用し、「長門」は26.44ノット[6]、「陸奥」は巡洋戦艦並みの速力26.7ノットを記録したが、速力は機密とされ、公表23ノットとされていた[7]。この最高速力は、改装に伴う重量増加により25ノットに低下した。なお、1920年代の米国資料には「日本の公称は23ノット、でも機関の能力から考えて24.5~25ノットは出るはず」とあり、1936年に米国で出た大改装前の長門を示す資料でも、24.5ノットと認識されていた。

関東大震災の際、演習のため渤海湾に集結していた聯合艦隊(聯合艦隊司令長官は竹下勇大将、「長門」に坐乗)は救援のため演習を中断し、救援物資や食料を搭載して東京湾に急行した[8]。この際、「長門」が、単艦で、最大速力26.5ノットに近い速度で遠州灘を航行している時に、英海軍のダナイー級軽巡洋艦HMS Despatchを後方に認めた。「長門」は、最高速度に係わる機密が漏洩するのを避けるために速度を落とした。長門型の最大速力が26.5ノットであることは重大な機密事項であるため、公海上でみだりにその速度を発揮することは禁じられていたため。HMS Despatchは、「長門」坐乗の竹下大将に礼砲を行ってから、「長門」を追い抜いて横浜港に向かった。[9]1923年(大正12年)9月18日に兵庫県知事から海軍大臣宛に「英艦『デイスパツチ』入港ス」という報告があった旨の記録がある[10]

なお、長門型の設計は一般的には日本独自のものとされているが、長門型のタービン主機は米国ウェスチングハウス社の基本設計によるものであり、「長門」の歯車減速装置は同社からの輸入品であった。「陸奥」は同社から歯切盤を輸入して国内で歯車を削りだしたものである。

このように、一部はまだ輸入に頼る部分もあったものの、日本独自の設計が多い本型は、大きな問題を起こさず、長門型建造のころには、日本の軍艦建造技術が一応、世界レベルに到達していたことが証明され、伊勢型の反省から、主砲塔の減少に伴い居住区を広く取れたため、乗員からも歓迎され、居住性も大和型戦艦を除けば、日本艦艇中最良のものとなった。

速力では、長門型と同じく16インチ砲搭載のコロラド級戦艦の21ノット、ネルソン級戦艦の23ノットよりも優れていた。

また、長門型戦艦2隻は、昭和9年から行われた大改装で近代化され、ネルソン級や各国の35,000トン級戦艦(米国ノースカロライナ級戦艦、英国キング・ジョージ5世級戦艦、仏国リシュリュー級戦艦、伊国ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦、独国ビスマルク級戦艦などの新型戦艦を指す)に対抗できる性能を、額面上は維持し続けた。長門型戦艦は「最強の旧世代戦艦」と言える。

艦橋構造[編集]

正面から見た長門。新造時の櫓マスト艦橋。
建造当初の長門型戦艦。
煙突を湾曲させた長門型戦艦。

本型から近代戦艦的な艦橋構造になった。前部艦橋は頂上部に円筒状ケース内に射撃方位盤を収めた射撃所とされ、水線からの高さは約41mとされている。数値上は大和型戦艦の艦橋高39mより高いはずだが、「大和」左舷に「長門」が横付けするのを「武蔵」艦橋から観察していた信号兵は「大和の檣楼は長門の艦橋より頭一つ(射撃指揮所、15.5m測距儀)高かった」と回想している[11]。頂上射撃所の下部は射撃指揮所、その下は檣楼指揮所とされ、半段下がって両側が副砲指揮所となっている。その次は列強の中でも大型の10m主砲用測距儀が置かれた高所測距儀所とされ、測距儀はレール上を旋回するという珍しい方式となっている。

扶桑型の建造でも問題となった主砲発射による爆風からの負荷から耐えるため、平賀譲の設計によって、艦橋部支柱をそれまでの3本から、7本に追加したと言われる。その爆風対策に問題はなかったが、新造時には艦橋が外に露出している事から、煙突からの排煙処理には悩まされた。牧野茂によれば、排煙処理が問題になった時点で平賀譲計画主任は藤本喜久雄部員に対策を検討させた[12]。藤本が前煙突を湾曲させることを提案すると、平賀は「みっともないことが出来るか」と拒否し、覆いをつけるという対策をとった[13]。ところが効果はなく、平賀は煙突を曲げるという藤本の提案を無断で取り入れ、両者の対立の一因となった[13]。この煙突は長門型戦艦のシンボルとなったという[13]。幾度かの改装と共に艦橋構造は複雑な外観を呈した。艦橋にエレーベーターがあり、山本五十六長官が利用したという証言もある[14]。末期の「長門」には、偽装の為、頂上部の射撃所と電探が取り払われた。

武装[編集]

主砲[編集]

大和ミュージアムに展示している陸奥の41cm主砲

長門型の主砲は大正4年(1915)に、米海軍が今後戦艦主砲に16インチ砲(40.6センチ砲)を採用することを予測して、開発されたものである。

国内で実用化された最初の戦艦用主砲であり、さらに世界で最初に採用された16インチ級艦砲であった。級、と断り書きするのは、長門型の主砲口径で40.6センチではなく、正41センチだからである。この主砲は大正6年(1917)に「四十五口径三年式四十一糎砲」として正式化されたが、ワシントン海軍軍縮条約の結果、戦艦の主砲口径が最大16インチとされたため、条約調印後の大正11年(1922)3月29日に呼称が「四十五口径三年式四十糎砲」と変更されている(実口径41センチに変更はない)。当初、主砲に「四十一糎」と彫り込んだ数字があったが、「四十糎」と修正している[15]

本砲の砲身直径67.4センチは英国の15インチMk.Iよりも小さく、技術的に優れた軽量砲であった。性能的にも、米国コロラド級戦艦や、英国ネルソン級戦艦の16インチ砲より全般的に優れており、米新型戦艦のSHS(初速低下と引き替えに、水平装甲への打撃力を大幅に増した大重量砲弾)を搭載した16インチ砲を除けば、最強の16インチ級艦載砲と言えた。

建造当初の性能は、初速790m/s、最大射程30,300m(最大仰角30度/俯角5度)、砲弾重量1,000kg(五式徹甲弾)、砲身の命数は250発、距離20キロでの垂直装甲貫徹力は271ミリであったが、改装により未成に終わった加賀型戦艦の主砲塔と換装され、砲弾の改良もあって大幅に強化された。
改装後の性能は初速790m/s、最大射程38,430m(最大仰角43度/俯角2度)、砲弾重量1,020kg(九一式徹甲弾)、砲身の命数は250発、距離20キロでの垂直装甲貫徹力は454ミリであった。

また、建造時には砲の駐退機構と揚弾機への動力供給能力不足により「斉発(多連装砲塔が、搭載砲を同時に発砲すること。全砲を一斉に発射する場合も斉発と呼ぶ)」を多用すると射撃速度が低下するという問題があった。これは改装により、弾庫及び装薬庫の移送機能強化、装薬缶の形状変更などの改善がされている。

この改善により、それまで常用されてきた搭載砲の半数ずつを交互に発砲する「斉射(交互一斉打ち方)」だけでなく、全搭載砲の斉発を問題なく行えるようになった。しかし、斉発可能となったことにより今度は揚弾能力の不足が問題となった。昭和14年の『術科年報』によると、斉射による交互射撃では16秒ごとの砲撃が可能だが、斉発では30秒前後が精一杯とされ、実際には最初の10発ですら平均50秒近く要する艦や、長門の3番砲のように41発目以降の揚弾で100秒を越える艦があるなど、要求された発射速度を達成できなかった。

実際の発射速度は、昭和14年の艦隊演習時では、最良で40秒、最悪で1分20秒であった。これは14インチ砲の記録だが、長門型の41センチ砲もほぼ同等とされている。

また命中率改善のために、各砲の射撃タイミングをわずかにずらす九八式発砲遅延装置が搭載された。これにより、全砲による斉発を行った場合、1発の命中弾(水中弾を含む)が75%で期待できる距離が34,500mとなったとされた。しかし実際には25,000mを越える距離での着弾観測が困難であること(32,000mまでの測距は一応信頼が置けるが、近弾以外の弾着水柱を確認できないので、観測機を併用しなければ着弾修正が難しい)から、遠距離射撃に対する問題は解消されていなかった。

演習時の観測機使用による主砲の散布界は、昭和15年度の昼間乙種戦闘射撃実施記録では、自艦速力21ノットのさいに長門が32,500mで遠近261m/左右102m、命中率は15.7%(水中弾による命中を考慮した第二有効帯を含めるなら、17.5%)、陸奥が32,300mで遠近200m/左右52m、命中率14.9%と優れた数値も残っている(ただし、陸奥は同じ演習で28,300mで12発撃って命中0、長門も命中1など、あくまで目安でしかないことに注意)。

さらに昭和19年12月に、一度充填した砲弾を他の弾種に変更する機構を追加設置したとされている。

副砲、その他兵装[編集]

前型である伊勢型に引き続き「五十口径三年式十四糎砲」を搭載した。搭載位置は両舷の最上甲板と上甲板の二段ケースメイト配置に装備され、単装砲20基を搭載した。伊勢型よりも船体容積が増したため、副砲により居住空間が狭くなる弊害は少しは改善された。その他に「四十口径三年式八糎高角砲(実口径は3インチ)」を第一煙突両脇のシェルター甲板に2基ずつの計4門搭載した。

改装により、三年式8センチ高角砲を降ろし、代わりに八九式12.7センチ連装高角砲4基(計8門)を搭載した、重量問題などもあり副砲2門を降ろしている。

さらに昭和18年6月に、二号一型電探を搭載した。マリアナ沖海戦後に二号二型電探、一号三型電探各2基搭載、対空機銃増設(計98門)を行った。なおこの時点で副砲2門を代償重量として撤去されたとされていたが、昭和19年10月に撮られたブルネイ停泊時の長門の写真では撤去はされていない。レイテ沖海戦後には、副砲4門撤去の代償として、八九式12.7センチ連装高角砲2基(計12門)、25ミリ機銃30基(計128門)を増設している。こうした装備のほとんどは、昭和20年6月に本土決戦に備えた特殊警備艦となった際に降ろされている。

さらに、53.3センチ魚雷発射管を8門(4基を水上設置の半旋回型とし、残りは水中装備)搭載していたが、改装時に撤去された。

竣工時には弾着観測用気球を装備し、甲板後部に係留・発艦させていた。水上機による弾着観測が実用化されると弾着観測用気球は水上機に置き換えられたが、カタパルトが実用化されていなかったためにデリックで水上機を水面に上げ下ろしし、水上機は水面より発進していた。改装前後の時期に実用化された呉式2号5型カタパルトが装備され、同時に艦載機運搬軌条とターンテーブルの設置、従来のデリックを廃止し収納式の強化デリックの新設などが行われた。艦載機には九五式水上偵察機、のちに零式水上観測機といったいわゆる「二座水偵」が3機搭載された。長門型に装備されたカタパルトは、旋回時に後部艦橋に接触することを防ぐため、前から1/4ほどの位置で上に折り曲がる機構を持っていた。

防御[編集]

防御構造(改装前)[編集]

新造時の長門

建造中にユトランド沖海戦が起こったことから、長門型は同海戦の戦訓である「水平防御の強化、高速の実現」を反映した、初のポスト・ジュットランド型戦艦として完成した。水平防御は元設計よりも1インチ強化され、70ミリ+76ミリで計146ミリあった(機関出力も元計画の60,000馬力より20,000馬力強化され、1.5ノット増加の26.5ノットという計画となっている)。

主砲塔前楯と側面は12インチ(305ミリ)、上面は6インチ(152ミリ)であり、コロラド級の18/9~10/5インチに比べ、前面は薄いものの、遠距離での砲戦には対応していた。ただしネルソン級は16/11/7.25インチなので改装前の長門型を上回る重防御だった。

垂直防御は水線部305ミリ+傾斜装甲76ミリであり、343ミリのコロラド級とほぼ同等、330~356ミリ18度傾斜(垂直換算だと400ミリ以上)のネルソン級よりは劣っていた。

水中防御は舷側装甲の下端から下方内側に傾斜した防御隔壁を備え、鋼板を3枚重ねた構造となっており、さらに水中弾防御として76.2mmHT鋼の隔壁を備えていた。水中防御区画の幅は6.2mであり、防御構造を加味する必要はあるが、コロラド級の5.334m、ネルソン級の5.625mを上回っていた。

防御構造(改装後)[編集]

改装後の長門型の船体断面図。

なお、改装により、各部位の防御力は大幅に強化された。砲塔防御は前楯が460ミリ、側面は280ミリ、天蓋は127~191ミリとなっており、バーベットも457ミリとなっていた。

垂直防御は、弾火薬庫部分の傾斜装甲に2~8インチ(50.8~203ミリ)を加え、垂直305ミリ+傾斜装甲127~280ミリと非常に強力だった(ただし、弾火薬庫部分以外は新造時の305+傾斜装甲76ミリのままであった)。

水平防御は弾火薬庫部分で69.85ミリHT+127ミリNVNC+50.8ミリHT(合計247.65ミリ。1枚板換算だと180ミリ程度)。機関部の水平防御は50.8ミリHT+69.85ミリHT+25.4ミリDS+50.8ミリHT(合計196.85ミリ。1枚板換算だと140ミリ程度)とかなり強化されていた。

水中防御はバルジを加え約9mの幅となっていた。これはテネシー級(改装後)の7mを大幅に上回るものであり、全ての近代戦艦を含めた中でもかなりの水中防御力を備えていた艦型と考えられる。

装甲配置[16]
主甲帯 305-76 VC
中甲板甲帯 229 VC
横防御隔壁 前部中甲板 254 VC 下甲板 330 VC 後部中甲板 254 VC 下甲板 229-76 VC
水平防御 中甲板 51 HT+25 DS 上甲板 70 HT 最上甲板 25+25-13+25 HT
魚雷防御隔壁 76 HT
弾薬庫 甲板平坦部 51 HT+127 NVNC 甲板傾斜部 76 HT+279-127 NVNC 垂直部 76 HT+231-44 NVNC 底部 38-25 HT+38 CNC
司令塔 側面 330-254 VC 上面 178 NVNC 床面 76 VC 交通筒 127-76 VNC
主砲塔 前盾 305+152 VC 側面 280-230 VC 後面 190 VC 上面 228-250 VC 床面 102 VC バーベット 305-229 VC+229-124 VC
ケースメイト 砲盾 38 HT 隔壁 19 HT
舵取機室 上面 51 HT+76-51 VNC 側面 210 NVNC+51 HT
煙路 25 HT

速力[編集]

大和ミュージアム展示の陸奥のスクリュー

改装前の長門型は石炭と重油の双方を燃料としていた[17]。燃料を3分の2搭載した状態では26.5ノットが最高とされていた。また、改装後に重油専燃となり、10/10全力公試で排水量43,473トン、機関出力88,445馬力での25.8ノットを発揮したことがある。こうしたことからも、改装による速力低下は実質的には最低限に抑えられていた。レイテ沖海戦で同部隊の大和が26ノット以上の速度で2時間半以上走り回っても、同行する長門が落伍しなかったことが、このことを証明している。

航続力は16ノットで5,500浬だったが、改装で10,600浬とほぼ倍加した。

当初は改装時に機関換装を行い、速力を29.3ノットに向上させると共に、ボイラー数の減少によって捻出したスペースに格納庫を設置し、9機の航空機を搭載する予定だった。搭載機用のエレベーターも昭和7年に日立製作所より、横須賀工廠に納入されたが機関換装は中止され、改装は防御構造の強化により重防御となった。

その他[編集]

竣工時の長門と陸奥の識別点は様々な点があり、主なものでは主砲塔用測距儀が長門は波式6m測距儀で陸奥は武式8m測距儀で大型化している(改装時に両艦とも10m測距儀と交換)。また、艦首からの眺めでは菊の御紋章の位置が長門よりも陸奥の方が上がっている点も挙げられる。

歴史[編集]

改装後の長門と潜水艦母艦「靖国丸」
終戦後の長門を伊400型もしくは伊13型から望む。後方にサウスダコタ級戦艦も見える。
大和ミュージアム展示の陸奥の錨
  • 1917年8月28日 - 「長門」起工
  • 1918年6月1日 - 「陸奥」起工
  • 1919年11月9日 - 「長門」進水
  • 1920年5月31日 - 「陸奥」進水
  • 1920年11月15日 - 「長門」竣工、横須賀鎮守府入籍
  • 1921年10月24日 - 「陸奥」竣工、佐世保鎮守府入籍
  • 1923年8月 - 「陸奥」第一次改装
  • 1924年7月31日 - 「長門」第一次改装
  • 1934年4月1日 - 「長門」第二次改装
  • 1934年6月 - 「陸奥」横須賀鎮守府へ移籍
  • 1934年9月5日 - 「陸奥」第三次改装
  • 1936年2月26日 - 「長門」二・二六事件に出撃。
  • 1937年8月1日 - 「長門」「陸奥」、中国陸軍部隊上陸支援に出撃。
  • 1941年12月2日 - 「長門」"ニイタカヤマノボレ1208"の暗号無電を赤城などの艦に配信。
  • 1942年6月 - 両艦ミッドウェー海戦に出撃
  • 1943年6月8日 - 「陸奥」柱島泊地で第三砲塔下弾火薬庫が原因不明の爆発を起こし轟沈。
  • 1944年6月19日 - 「長門」マリアナ沖海戦に出撃。
  • 1944年10月22日 - 「長門」レイテ沖海戦に参加。
  • 1945年4月20日 - 「長門」横須賀で予備艦となり、そのまま終戦を迎える。
  • 1945年8月30日 - 「長門」米軍に接収される。
  • 1946年7月29日 - 「長門」原爆実験(クロスロード作戦)で沈没。

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 「軍艦長門、扶桑要目」p.4
  2. ^ 大きさ、速力では同時期のフッドが上回るが、同艦は巡洋戦艦
  3. ^ #海軍艦隊勤務p.84
  4. ^ #増補 軍艦物語p.13『「戦闘艦を描いてよう、戦闘艦を」と注文する子供には是が非でも「陸奥」や「長門」のあの仁王様の火見櫓のやうな前檣と芋蟲か何ぞのやうな前部煙突とを描いて見せなければ承知しないのだ。』
  5. ^ 『平易に説いた陸海軍の知識』p.143
  6. ^ 「試験(3)」pp.3、pp.14
  7. ^ 「軍艦長門、扶桑要目」p.4、「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」p.2
  8. ^ 「連合艦隊関係(1)」p.2-3、「艦船行動簿大正12年9月分(1)」p.3
  9. ^ 阿川弘之『米内光政』新潮文庫、2002年(平成14年)、31-34頁。
  10. ^ 「英」(大正12年 公文備考 巻161変災災害)
  11. ^ 細谷四郎『戦艦武蔵戦闘航海記』p.103-104
  12. ^ #牧野ノートp.90
  13. ^ a b c #牧野ノートp.91
  14. ^ #従兵長p.75
  15. ^ #従兵長p.193
  16. ^ 『図解 日本帝国海軍全艦船 1868-1945』(並木書房)
  17. ^ #従兵長p.199

参考文献[編集]

  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 国防科学研究会 編『平易に説いた陸海軍の知識』(二松堂書店、1934年)
    • 福永恭助 『増補 軍艦物語』 一元社、1934年11月。
    • 海軍研究社編纂部 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1940年3月。
    • 海軍研究社編纂部 『日本軍艦集 : 2600年版』 海軍研究社、1940年7月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08021559500「試験(3)」
    • Ref.C08050212400「軍艦長門、扶桑要目」
    • Ref.B04122588300「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」
    • Ref.C10100092400「艦船行動簿大正12年9月分(1)」
    • Ref.C08050971600「救護品輸送(其の他)」
    • Ref.C08050978200「連合艦隊関係(1)」
    • Ref.C08050982100「英」(大正12年 公文備考 巻161変災災害)
  • 牧野茂 『牧野茂 艦船ノート』 出版協同社、1997年5月。ISBN 4-87970-045-2
  • 元連合艦隊司令部従兵長 近江兵治郎 『連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』 テイ・アイ・エス、2000年7月。ISBN 4-88618-240-2近江は1932-1934年、1940-1942年2月まで長門勤務。1940年、連合艦隊司令長官付。
  • 池田清野村実ほか・近現代史編纂会・編 『海軍艦隊勤務』 新人物往来社、2001年ISBN 4-404-02914-4


関連項目[編集]