フッド (巡洋戦艦)
| 艦歴 | |
|---|---|
| 発注 | 1916年4月7日にジョン・ブラウン社クライドバンク造船所に発注。 |
| 起工 | 1916年9月1日 |
| 進水 | 1918年8月22日 |
| 就役 | 1920年5月15日 |
| その後 | 1941年5月24日戦没 |
| 前級 | レナウン級 |
| 後級 | インコンパラブル |
| 性能諸元 | |
| 排水量 | 常備:41,125トン(1939年:42,750トン) 満載:46,880トン(1939年:48,650トン) |
| 全長 | 262,3 m |
| 水線長 | 259.2 m |
| 全幅 | 28.9m (1939年:32.0 m) |
| 吃水 | 10,2 m(満載時) |
| 機関 | ヤーロー式重油専焼三胴型水管缶24基 +ブラウン・カーチス式ギヤードタービン4基4軸推進 |
| 最大出力 | 常用:44,000 hp 公試時:151,280 hp |
| 最大速力 | 常用:29.5ノット 公試時:32.07ノット 1941年:28ノット |
| 航続距離 | 14ノット/8,900海里 |
| 燃料 | 重油:1,200トン(常備)、4,000トン(満載) |
| 乗員 | 1,341名(1940年:1,421名) |
| 兵装 | 就役時:Mark I 38.1cm(42口径)連装砲4基 14 cm(50口径)単装速射砲12基 10.2 cm(50口径)単装高角砲4基 53.3 cm水上魚雷発射管単装4基、同水中魚雷発射管2基 |
| 兵装 | 1937年: Mark I 38.1cm(42口径)連装砲4基 14 cm(50口径)単装速射砲10基 10.2 cm(50口径)連装高角砲4基 ヴィッカーズ Mk VIII 4cm(39口径)八連装ポンポン砲1基 ブローニング 12.7 mm(62口径)四連装機銃4基 53.3 cm水上魚雷発射管単装4基 |
| 兵装 | 1940年: Mark I 38.1cm(42口径)連装砲4基 MkXVI 10.2 cm(45口径)連装高角砲4基 ヴィッカーズ Mk VIII 4cm(39口径)八連装ポンポン砲3基 ブローニング 12.7 mm(62口径)四連装機銃4基 53.3 cm水上魚雷発射管単装4基 17.8 cm 20連装UP発射機5基 |
| 装甲 | 舷側:305 mm(水線面)178 mm(第一甲板舷側部)、25~38(艦首部)、75 mm(水線面下部) 甲板:38 mm(上甲板)、25 mm(主甲板)、51 mm(水線下傾斜部) 主砲塔:381 mm(前盾)、279~305 mm(側盾)、178~279 mm(後盾)、127 mm (天蓋) |
フッド(HMS Hood)は、イギリス海軍が第一次世界大戦後に建造した巡洋戦艦で同型艦はない。建造当時は、世界最大の軍艦であり、イギリス国民からは「マイティ・フッド」と言われて親しまれた。艦名はサミュエル・フッド提督にちなむ。
その優秀さゆえ大規模近代化改装を先送りにし続けた事が後の悲劇をうむこととなる。
なお、歴史研究の大家でジェーン海軍年鑑の編集長をも務めたオスカー・パークスに「軍艦美の極致」と評されるほど優美で女性的な艦である。
目次 |
概要 [編集]
計画 [編集]
イギリス海軍は、ジョン・アーバスノット・フィッシャーの提唱する防御力を速力で補うというコンセプトで巡洋戦艦を設計・建造していた。1915年に入った時に、仮想敵としてドイツ海軍がマッケンゼン級巡洋戦艦の建造を開始しており、さらに38cm砲を搭載する巡洋戦艦を計画中という情報が入ったことで、イギリス海軍は対抗策として15インチ(38.1cm)砲を搭載する巡洋戦艦4隻の急増を開始した。1916年3月にまとめられた設計では排水量は36,000トン、速力32ノットとされた。艦名にはネームシップのフッドをはじめとする海軍提督の名前がつけられ、これがアドミラル級巡洋戦艦である。
しかし、1916年に起きたユトランド沖海戦において「インヴィンシブル」の爆沈、ユトランド沖海戦では「インディファデガブル」の爆沈に加えて最新鋭の「ライオン」も主砲塔を撃ち抜かれて大破し、「クイーン・メリー」が爆沈した。
ここにきてイギリス海軍はイギリス巡洋戦艦のコンセプトが誤りであることを自覚できた。そこでアドミラル級巡洋戦艦においては 設計時の高速性能を損なわない程度で防御力を強化する再設計が行われ、これにより排水量が約5,000トン増加して常備排水量は41,200トンとなった。この改設計により「フッド」は5カ月の建造遅延に繋がった。
フッドはこの改良によりイギリス巡洋戦艦としては格段の防御力(というより装甲の厚さのみは戦艦並みの防御力)を得た。ただし、カタログデーターに表れる装甲の厚みこそ戦艦並みであったが、後述する防御様式の古さから実際には水線部付近の狭い範囲しか防御できず、船体の大部分は未だに薄い装甲板で防御されており、その欠点により同クラスの主砲を搭載し、同等の速力を出せる超弩級戦艦「ビスマルク」追撃戦での沈没へと繫がった。
建造 [編集]
本級は「アドミラル級」として4隻の建造が予定されていた。1番艦であるフッドは1916年4月7日にジョン・ブラウン社クライドバンク造船所に発注し、5月31に起工したが上述の防御力強化のために改設計により9月1日再び起工するトラブルがあった。さらに1917年にドイツがマッケンゼン級の建造を中止すると、イギリスも「フッド」を残して他の3隻は1918年に建造中止となってしまった。未成艦3隻の予定艦名はアンソン、ハウ、ロドネーで、後の「ネルソン級」や「キング・ジョージ五世級」らの艦名に引き継がれた。
大戦に伴い工事遅延により進水は1918年8月22日となり、第一次世界大戦後の1920年3月5日にようやく竣工した。本艦の竣工後にワシントン海軍軍縮条約が締結・発効されたがフッドは特例で制限排水量35,500トンを超えるサイズであったが廃艦を免れたことにより、排水量でフッドを超える大戦艦は1940年にドイツが建造したビスマルク級が竣工するまで現われなかった。
艦形 [編集]
竣工時 [編集]
本艦の船体形状はイギリス巡洋戦艦伝統の長船首楼型船体であったが、排水量に比して乾舷の高さが低かったために将兵から「イギリス海軍中もっとも濡れやすい艦(wet ship)」の異名を受けた[1]。高速力の発揮のためにイギリス軍艦初のバルバス・バウ(球状艦首)が水線下に採用された。
クリッパー型の軽くシアの付いた艦首から前部甲板上に1・2番主砲塔を背負い式で2基搭載、その背後に測距儀を載せた司令塔の背後に立つ操舵艦橋を基部として軽量な三脚式の前部マストが立つ。
2本煙突の間には探照灯台が立ち、その左右の舷側に副砲の14cm単装砲が艦橋側面に防楯の付いた単装砲架で単装砲架2基、舷側ケースメイト配置で片舷5基ずつの計12基が配置された。
2番煙突から後ろは艦載艇置き場となっており、それらは2番煙突の側面に片舷1基ずつ付いたクレーン2基と後部三脚マストを基部とするクレーン1基の計3基により運用された。
対空火器の10.2cm高角砲は船首楼甲板の終わりに後部マストの左右に1基ずつと後部見張り所の下に直列に1基ずつの計4基が配置された。甲板一段分下がって後部甲板上に3番・4番主砲塔が背負い式で後ろ向きに2基が配置された。
海軍休日から第2次世界大戦時 [編集]
就役後の1931年5月より小規模な改装が行われた。外観上の相違点として水上機を運用するために艦尾側にカタパルトが設置された。また近接火器として1番・2番煙突の側面に「ヴィッカース 4cm(39口径)ポンポン砲」を八連装砲架で片舷1基ずつ計2基を搭載した。1932年にカタパルトが撤去され、近接火器として新たに「ヴィッカース 12.7mm(62口径)機関銃」を四連装砲架で2基を搭載した。1937年に船体内の53.3cm魚雷発射管2門を撤去し、10.2cm高角砲を単装砲架で2基を搭載し、後部見張り所の下に4cm八連装ポンポン砲1基、12.7mm四連装機銃を、後部見張り所の脇に1基ずつ計2基を追加した。
1938年から1940年にかけて副砲の14cm速射砲の撤去が行われ、代わりに10.2cm高角砲を単装から連装砲架5基へと更新された。また、近接対空火器として17.8cm20連装ロケット砲が2番主砲塔上に1基、1番煙突の脇に1基ずつ、艦載艇置き場の脇に1基ずつの計5基搭載された。1941年3月に284型レーダーが搭載され、前部マストにアンテナが設置された。
武装 [編集]
射撃指揮装置はファイア・コントロール・テーブル(FCT:Fire Control Table)で最新型のMark V 型が搭載され、司令塔上と1番~4番主砲塔上に9.15m測距儀と後部測距所の4.58m測距儀から送られてきたデータを管制する方位盤には艦橋に搭載され、主砲に射撃データを送った。1941年1月から3月にかけての改修で対空捜索レーダー 279M型および射撃指揮レーダー 284型が前部マストに設置され、4月から運用試験を開始したが、5月にビスマルク追撃戦で本艦ごと失われた。[2] 副砲には射撃方位盤は無く、計算尺とレンジ・クロックが用いられた。前述の1930年代後半の改装により10.2cm高角砲および対空火器にデータを送る対空管制装置HACS(High Angle Control Systemの略) Mark III型が搭載され、装置には4.58m測距儀が装備された。
主砲 [編集]
主砲は前級より引き続き「Mark I 38.1cm(42口径)砲」を採用しているが、本級は主砲仰角を従来の20度から30度まで高め、射程を22,850mから26,000台にまで伸ばしたMark II 型砲塔を採用して連装砲塔4基に収められている。砲の性能は、重量871 kgの砲弾を最大仰角45度で26,520 mまで届かせることが可能で、俯仰能力は仰角30度・俯角5度である。旋回角度は船体首尾線方向を0度として、左右150度の旋回角度を持つ。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に水圧で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分2発である。
副砲、その他の備砲、雷装 [編集]
前級において副砲に採用されていた10.2cm砲は、大型化する駆逐艦の撃退には非力であった。そこで本艦は軽巡洋艦の主砲クラスの口径である14cm速射砲を採用した。元々はバーケンヘッド級軽巡洋艦のために開発された「Mark I 1915年型 14cm(50口径)速射砲」である。既存の15.2cm砲弾よりも14cm砲弾の方が2割軽く、装填速度も良好であったが威力が落ちるために本級のみの採用であった。その性能は37.2 kgの砲弾を最大仰角30度で16,250 mまで届かせられる性能であった。この砲は旋回と俯仰は人力で行われ、150度の旋回角度があり、俯仰は仰角30度・俯角5度で発射速度は毎分12発と早かった。これを単装砲架で舷側ケースメイト配置で12基装備した。
他に対空火器として「10.2cm(45口径)高角砲」を単装砲架で4基、47 mm速射砲を単装砲架で4基搭載した。他に主砲で対処できない相手のために53.3cm水上魚雷発射管を単装で4基と同水中魚雷発射管を単装で2基を竣工時に装備したが、第一次大戦の戦訓から水線下に開口部を増やす水中魚雷発射管2門は就役後の廃止されたが水上魚雷発射管4門のみ最後まで搭載された。
機関 [編集]
機関構成は前級のレナウンではバブコックス&ウィルコックス式水管缶42基だったが、本艦では重量軽減とスペース減少に効果のあるヤーロー式水管缶の採用によりボイラー数は24基まで節約できた。また、タービン機関もレナウン級ではブラウン・カーチス式直結タービンを高速2基・低速2基の計4基4軸だったものを、本艦では同社製の新型ギヤード・タービン4基4軸推進に更新、計画出力144,000馬力で31ノットを発揮できるものとされ、公試時に最大出力151,280馬力で32.07ノットを発揮して計画値を凌駕した。この結果から常用で31ノットで運用できるとされた。
機関配置は艦首側にボイラー室、艦尾側にタービンを収める機械室を配置するイギリス巡洋戦艦伝統の全缶全機配置である。ボイラー室は横隔壁で区切られた4室構成で1室当たりボイラー6基を搭載した。機械室は横隔壁で区切られた3室構成で第1機械室には外軸用のタービン2基、第2機械室は左舷側内軸1基、第3機械室に右舷側内軸1基を配置した。[3]
燃料タンクは重油を収める4,000トンで、航続距離は速力10ノットで4,000海里と計算された。就役後の1931年の改装時に燃料タンクの拡充を行って搭載量は4,615トンとなり14ノットで8,900海里を航行できるとされた。[4]
防御 [編集]
本艦はイギリス巡洋戦艦にして初の「敵戦艦からの砲撃に耐えうる防御」を、限定的ではあるが与えられた最初で最後の巡洋戦艦である。前級であるレナウン級は舷側装甲の最厚部分は装甲巡洋艦並みの152mmでしかなく、仮想敵国ドイツの巡洋戦艦が元来28~30.5cm砲を積んでいたことからみて、戦艦級の主砲弾に対し全くの無防御であった。さらに、前述のユトランド沖海戦では自国の巡洋戦艦が3隻も爆沈しており、この戦訓に基づいて、本艦からは防御力を既存の戦艦並みに施す方針となった。排水量に比して防御重量は32.5%に達しており、キング・ジョージ五世級の33.2%に次ぐものだった。防御要領は基本的には前級の様式を踏襲しており、大幅な進化はしていない[要出典][5]。
原案ではフッドの装甲は巡洋戦艦「タイガー」に基づいて舷側8インチ(203mm)であったが、タイガーとは異なり、舷側が内側へ12度のテーパーをもたせており、これが傾斜装甲としてカタログデーター以上の防御力を持った[6]。しかし、1番主砲塔から機関区を挟んで4番主砲塔の側面を覆ったが上下幅が狭く、その上の主装甲帯から上の広範囲な場所は機関区でさえ178mmであり、上甲板までに128mmにまで薄くなった[7]。
主砲塔の装甲は前盾が381mm、側盾が305mmから279mmへと薄くなり、後盾は279mm、天蓋は127mmで重防御であった。主砲塔を支える基部(バーベット)は甲板の上は305mmと戦艦並であったが、甲板から下の部分は152mmから127mmへと一気に薄くなるという初期のイギリス巡洋戦艦と変わらない様式であった。前後の弾薬庫を守る前後の隔壁(bulk heads)の厚さは102~128mmである。
舷側防御は高さの低い装甲板を横方向には広く貼る旧来の全体防御様式であった。確かにもっとも厚い部分ではオライオン級戦艦と同レベルの305mm装甲を貼ったが、その範囲は水線部の高さ4.79mのみで、主甲板(Main deck)から上には178mm装甲が高さ2.79mの範囲で張られ、その上から甲板上までの大部分は128mm装甲が貼られたに過ぎなかった。ただ、舷側装甲は各国の戦艦に先駆けて傾斜装甲(Inclined Armour)が採用され、これは舷側部を12度傾斜させることにより、装甲に対して敵弾の撃角が増すほどに貫通力が下がる工夫で、後の「ネルソン級戦艦」にも採用された。305mmから下の水線下装甲は一気に76mmから38mmにまで薄くなり、水線下から艦底部までの広範囲が38mm装甲で守るしかなかった。これは再設計など大幅な改訂をするよりも既存の装甲を厚くすることで、建造時間を短縮するためであった[6]。
バルジの中は燃料タンクと液体を空気層の三層構造となっており、その内側の水密隔壁には前述の38mm装甲が艦底部まで伸ばされて二重底と接続された。一方、水平防御は原案よりは若干強化はされ、主甲板76mmでカタログデータ的には戦艦並みの防御力を与えられた。実際には76mmと言うのは合計厚であって、一枚板ではない。主甲板は51mmであり、舷側装甲と接続する傾斜部は51mmから38mmにまで薄くなった。その上にある上甲板が25mmである。大口径砲による大落下角砲弾には充分ではなかった。機関区の煙突の基部には13mm装甲が貼られた。艦橋基部は38mm、副砲ケースメイト配置箇所は127mmであった。
なお、未成となったアンソン以降の3隻ではバルジや舷側装甲の変更、水平防御の強化といった改正を実施する予定であった[8] 。
艦歴 [編集]
フッドは就役から戦没するまでの間、その優秀さと財政難ゆえ大規模な近代化改装を全く受けていない。1931年までにフッドに施された改装は、カタパルトとポンポン砲の追加のみであった。
1939年5月にIrvine Glennie大佐が艦長に就任し、フッドは本国艦隊の巡洋戦艦戦隊に配属された。第二次世界大戦が始まると、フッドは主に船団護衛や大西洋への進出をもくろむドイツ仮装巡洋艦や封鎖突破船阻止を目的としてアイスランドやフェロー諸島近海で哨戒活動に従事した。1939年9月25日、損傷した潜水艦スピアフィッシュの帰還を援護するため本国艦隊は北海中央部へ進出した。艦隊はドイツ軍に発見され空襲を受けた。フッドはJu 88から250kg爆弾1発を被弾し、左舷側のバルジや復水器が損傷した。1940年初め頃には、フッドの機関はひどい状態になっており、速力は26.5ノットに低下していた。4月4日から6月12日まで修理がなされた[9]。1938年9月に地中海で座礁して損傷した。
その後、ジブラルタルを拠点とするH部隊旗艦の任務に就いており、1940年6月23日ジブラルタルに到着した。1940年7月2日、フッドは戦艦レゾリューション、ヴァリアントなどと共に、ジブラルタルを出撃。翌3日、フッドと2隻の戦艦は北アフリカのメル・エル・ケビル(Mers El Kébir)軍港に停泊する最新鋭艦を2隻も有するフランス海軍の戦艦4隻を攻撃し、ブルターニュを撃沈、ダンケルクとプロヴァンスを中破、座礁させるという大きな戦果を挙げた(カタパルト作戦)。
フッドにとって幸運だったのは、フランス艦隊がイギリス艦隊に対し艦尾を見せて停泊していた事をうまく利用できた事にある。最新鋭のダンケルク級2隻は前砲に主砲を集中配置していた関係からイギリス艦隊に向けて主砲の砲撃が出来ず、火力の劣る副砲での応戦を余儀なくされた。しかも、プロヴァンス級は僚艦により射界を遮られた状態だった。これにより、海戦初期は敵からの反撃を受けず落ち着いた射撃を送ることができた。しかし、海戦の中盤でストラスブールをはじめとするフランス戦艦が動きだし、ダンケルクとブルターニュが港内で艦を反転させ、ストラスブールの脱出を支援すべくイギリス艦隊に全砲門を向けて砲撃を開始。巡洋戦艦で戦艦の相手をすればどうなるかを知るイギリス艦隊司令ジェームズ・サマヴィル中将は、冷静に撤退を決断し、旗艦は撤退せざるを得なかった。
フッドはこの後、イギリスに帰国して最後の入渠修理を行った。この入渠中に機関のオーバーホールと対空レーダー・射撃レーダーの増設のみを行っている。
そして1941年5月21日、本艦は(未完成でなおかつ新兵揃い、戦力にならない)プリンス・オブ・ウェールズ(POW)と共にナチス・ドイツ海軍の戦艦ビスマルクの追撃を命じられ出撃。5月24日、両艦はアイスランド近海の大西洋上において、ビスマルクと僚艦の重巡洋艦プリンツオイゲンを発見し戦闘を開始した(デンマーク海峡海戦)。戦闘開始から6分後、ビスマルクの第五斉射がフッドの非装甲部位を貫き、不運にも火薬庫に命中、フッドは轟沈した。生存者は乗員1,419名中、3名であった。
なお、後に予定されていた大規模近代化改装さえ実行されていればビスマルクを撃沈することも十分可能であったとされる事、優秀さゆえに改装を受けられていなかった事などから優秀な艦であった事は確かである。
沈没原因 [編集]
沈没後の調査委員会の結論は「ビスマルクの15インチ砲弾が、本艦の高角砲用の4インチ砲あるいは主砲用15インチ砲の弾薬庫に命中し、誘爆したために船体後部が破壊されたことによる」というものだった。4インチ砲の弾薬庫がまず爆発し、15インチ砲の弾薬庫が続いた可能性が高いとしていた。
これについて、近年では以下のような推測がなされている。
- 高角砲弾薬庫への砲弾の直撃
- 目撃証言によれば、まずメインマスト付近から爆煙が上がったとのことだが、これは4インチ砲の弾薬庫の爆煙が、機関用の換気口を通じて吹き上がったと説明される。同じ爆煙が、15インチ砲弾薬庫との間の隔壁を吹き飛ばし、致命的な誘爆を発生させたというのが調査委員会の結論である[10]。
- 水中弾による弾薬庫への直撃
- ビスマルクとの交戦中にプリンス・オヴ・ウェールズは15インチ砲の水中弾を受けて損傷した。調査委員会では、水中弾の場合、信管が作動すれば、船体に直撃する前に砲弾は炸裂するだろうとしている[11]。
- 搭載魚雷の誘爆によって沈没
- スタンレー・グッドオール卿(海軍造船部長)は、火災の延焼または砲弾の直撃によって搭載魚雷が誘爆し、船体側面に大穴を開け、そこから30ノットの早さで流入する水圧で船体後部が引きちぎられてしまったのではないかと推測した[12]。
- 甲板上の火災の延焼により弾薬庫が誘爆
- 調査委員会によれば、4インチ砲の弾薬供給路は交戦中は閉ざされていたということだが、砲弾の命中によって弾薬庫に穴が開き、そこから延焼したことは考えられる。また、換気装置からの延焼や、15インチ砲塔の床からの延焼も考えられる[13]。
- 弾薬庫外に積まれていた4インチ砲弾が誘爆
- 1979年に海軍史家のアンソニー・プレストンは4インチ砲弾が後部弾薬庫の周りに積まれており、それが砲弾の命中または火災の延焼により誘爆したのではないかとした[14]。
- フッドの15インチ砲が砲身内爆発
- 調査委員会で一部の証言はフッド自身の15インチ砲身内で爆発がおき、それが砲塔の爆発につながったとしている。戦闘中のことで、安全のための手順がおろそかにされた可能性は否定できない[15]。
ジュレンスは、以上の内プレストンの説明以外について検証した。その主な結論は、沈没は4インチ砲弾薬庫の爆発が原因である可能性が高いが、その爆発の原因は色々考えられるということだった。よく言われるような、ビスマルクの15インチ砲弾が水平装甲を貫通して弾薬庫に命中したとの説明については、交戦距離での15インチ砲弾の垂直方向の命中角度は14度以下であり、水平装甲を貫通した可能性は低いが、舷側の装甲帯を貫いた可能性はありうるとしている[16]。
最近行われたフッドの海底の残骸の調査では、後部弾薬庫は爆発していたことが確認された。後部船体は切り離されておらず、グッドオール卿の推論を否定している。大爆発の前の、4インチ砲の弾薬庫からの煙は、フッドの15インチ砲が砲身内爆発を起こしたことを否定している。その他の推測はいずれも可能性がある[17]。
脚注 [編集]
- ^ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 107
- ^ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 142~143
- ^ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 137
- ^ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 136
- ^ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 131~133
- ^ a b バート, pp. 297–98
- ^ ロバーツ 1997, p. 113
- ^ 大塚好古『「フッド」と「レキシントン」』歴史群像シリーズ『帝国海軍の礎 八八艦隊計画』p101-103 学研パブリッシング、2011年
- ^ Taylor, pp. 192, 240–41
- ^ ジュレンス 1987, p. 139
- ^ ジュレンス 1987, pp. 147–51
- ^ ジュレンス 1987, p. 152
- ^ ジュレンス 1987, pp. 152–53
- ^ プレストン 1979, p. 109
- ^ ジュレンス 1987, p. 154
- ^ ジュレンス 1987, pp. 122–61
- ^ "Statutory Instrument 2006 No. 2616 The Protection of Military Remains Act 1986 (Designation of Vessels and Controlled Sites) Order 2006". Queen's Printer of Acts of Parliament.
参考文献 [編集]
参考図書 [編集]
- 「世界の艦船 増刊第30集 イギリス戦艦史」(海人社)
- 「世界の艦船 増刊第22集 近代戦艦史」(海人社)
- 「世界の艦船 増刊第67集 第2次大戦時のイギリス戦艦」(海人社)
- 「世界の艦船 増刊第83集 近代戦艦史」(海人社)
- 「Conway All The World's Fightingships 1906–1921」(Conway)
- 「Conway All The World's Fightingships 1922-1946」(Conway)
- Burt, R. A. (1993). British Battleships, 1919–1939. London: Arms and Armour Press. ISBN 1-85409-068-2.
- Jurens, Bill (1987). "The Loss of H.M.S. Hood—A Re-Examination". Warship International (Toledo, OH: International Naval Research Organization) XXIV (2): 122–180. ISSN 0043-0374. http://www.warship.org/no21987.htm.
- Preston, Antony (1979). Sea Power: A Modern Illustrated Military History. London: Phoebus Publishing Company. ISBN 0-89673-011-5.
- Roberts, John (1997). Battlecruisers. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 1-55750-068-1.
- Taylor, Bruce (2008). The Battlecruiser HMS Hood: An Illustrated Biography, 1916–1941. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 978-1-86176-216-0.
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- H.M.S. Hood Association
- H.M.S. Hood Today - Wreck Overview Description of the wreck state, and many annotated photographs.
- Books and Magazines
- Official Records Pertaining to H.M.S. Hood
- Battle of the Denmark Strait Documentation Resource
- Hunt for the Hood Includes colour photographs and a log of the expedition.
- Blue Water Recoveries The Hood page at the deep-sea exploration company which found her.
- HMS Hood 1920 Official Royal Navy page.
- Maritimequest HMS Hood photo gallery
- HMS Hood - NavalStudies.com by Dr. Bruce Taylor who is a leading historian of the Royal Navy in the 20th century. He is author of numerous articles and books including The Battlecruiser HMS Hood: An Illustrated Biography, 1916–1941.
- H.M.S. Hood - A Film by Trevor Lacas