エクセター (重巡洋艦)

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HMS Exeter after refit 1941 IWM A 3553.jpg
「エクセター 」
艦歴
発注 デヴォンポート造船所に1928年3月15日発注
起工 1928年8月1日
進水 1929年7月18日
就役 1931年7月27日
退役
その後 1942年3月1日に戦没
除籍
性能諸元
排水量 基準:8,390トン
満載:10,410トン
全長 175.25m(p/p:575ft
水線長 164.6m(p/p:540ft)
全幅 17.67m(58ft)
吃水 6.17m(17ft)
機関 アドミラリティ式重油専焼三胴型水管缶8基
+パーソンズギヤード・タービン4基4軸推進
最大出力 80,000hp
最大速力 32.5ノット
航続性能 14ノット/10,000海里
燃料 重油:1,900トン
乗員 620名
兵装 Mark VIII 20.3cm(50口径)Mk.II 連装砲3基6門
Mk.V 10.2cm(45口径)単装高角砲4基4門
ヴィッカース Mk.III 12.7mm(50口径)単装機銃8基
53.3cm(21インチ)三連装魚雷発射管2基
装甲 舷側:
76mm(機関区水線部)
89mm(前後隔壁)
甲板:
25~38mm(主甲板)
主砲バーベット
25mm(最厚部)
砲塔:
38~51mm
主砲弾薬庫:
64~127mm(最厚部)
水密隔壁:
89mm(最厚部)
司令塔:
-mm
航空兵装 なし
(1932年に水上機:2 機
カタパルト:固定式2基)
レーダー 279型(対空警戒)

エクセター (HMS Exeter, 68) は、イギリス海軍重巡洋艦ヨーク級。艦名はデヴォン州エクセターに因む。その名を持つ艦としては4隻目。

概要[編集]

本艦はイギリス海軍の1927年度海軍計画において1隻の建造が認められ、建造・就役した重巡洋艦だが、イギリス海軍における最後の重巡洋艦となった。エクセターと姉妹艦ヨークはそれまでの重巡洋艦の8インチ主砲8門とは異なる8インチ主砲6門で、これは1921年 - 1922年におけるワシントン海軍軍縮条約による保有トン数量の制限の影響である。発注はヨークの2年後であった。


艦形[編集]

1941年の修理後に撮られたエクセター。10.2cm単装高角砲が連装砲架4基となり、艦橋に遮風枠が設置されている。
1942年2月頃に撮られたエクセター。


本艦の設計にあたって「ヨーク」をタイプシップとして、既存のカウンティ級で得られた運用実績により実戦的な設計がなされ、従ってエクセターの設計はヨークでの経験を踏まえた改良が組み込まれた。トップウェイトの増加に合わせて艦幅は1フィート広げられた。就役後に船首楼の側壁を魚雷発射管の手前まで伸ばし、居住空間を増した。

前後に長い艦橋の形状はより低くされ、水面から16 m 以内に抑えられた。ボイラーからの排煙管はボイラー室後方に収められ、ヨークでは傾斜した煙突が必要だったのが、エクセターは艦橋から離れた位置に直立した煙突を装備し、排気の確実な排気ができるようになった。その結果マストは直立し、後方の煙突は太くなった。

8インチ主砲塔の天板はヨークで考えられたカタパルトの装着には不適であったため、エクセターでは就役後に2番煙突の後方に航空施設を設け、中心線から斜め45度の角度で2基のカタパルトを埋没させた。この工夫により、風向きに関係なく水上機を発艦させることができた。水上機の運用には右舷にクレーンを装着した。

就役後の1941年の大修理の際に艦橋に遮風装置が付けられ、前後のマストを三脚型とし、新たに搭載した279型レーダーアンテナを設置した。また、1番煙突の側面にあった10.2 cm 単装高角砲4基が撤去されて、新型の10.2 cm 連装高角砲を艦橋と1番煙突の側面に1基ずつ計4基とした。

機関[編集]

搭載機関には重巡洋艦と同じく、ボイラーはアドミラリティ三胴式重油専焼水管缶8基、タービン機関はパーソンズ式オール・ギヤードタービンを4基4軸合計で最大出力80,000 shp で最大速力は32.5ノットを発揮した。

機関配置は前大戦時の装甲巡洋艦のように艦首側に缶室、艦尾側に機関室(推進機室)を配置する全缶全機方式であった。カウンティ級においては3本煙突であったが、追い風時に排煙が艦橋にかかるのを防ぐために前側2基と中央部の4基の排煙を1番煙突に導いたために煙突の本数は2本であった。

防御[編集]

舷側防御は機関区のみを防御する物で、高さ4 m の装甲板がもっとも厚い箇所が76 mm で、末端部は25 mm へとテーパーしており、前後隔壁の89 mm 装甲と接続されていた。

弾薬庫は舷側防御とは別個で、側盾が127 mm で前後隔壁と天蓋が76 mm であった。主砲塔は最厚部で25 mm でしかなく、バーベットは最厚部で19 mm である。水平防御は主甲板の平坦部が25 mm で傾斜部は38 mm であった。

機関区を守るだけの短い範囲内のみで艦首から艦橋脇、後檣から艦尾までの広範囲は無防御であり、その防御様式の正当性は実戦で証明された。

弾薬庫は艦中央部にあったものが艦前方および後方に分散配置され、「ボックス・シタデル(箱砲郭)」で守られた。10.2 cm 副砲兼高角砲は弾薬庫の移動に合わせて、容易に給弾できるよう前方に移動した。ラプラタ沖海戦ではこの強化された増設装甲帯がエクセターを助けたと考えられている。

武装[編集]

艦名 主砲 対空火器 備砲 機関砲 近接火器 雷装 レーダー その他
エクゼター 20.3cm(50口径)連装速射砲3基 10.2cm(45口径)単装高角砲4基 4.7cm(40口径)単装機砲4基 4cm(39口径)単装ポンポン砲2基 なし 53.3cm魚雷発射管三連装2基 なし 1932年にカタパルトとフェアリー III型水上機搭載
エクゼター(1933) 撤去 なし なし
エクゼター(1935年) 12.7mm(62口径)四連装機銃2基 なし (1937年に水上機がウォーラス水上機に更新
エクゼター(1939年) 撤去 なし
エクゼター(1941年) 10.2cm(45口径)連装高角砲4基 4cm(39口径)八連装ポンポン砲2基 279型レーダー搭載

艦歴[編集]

「エクセター」はデヴォン州プリマスデヴォンポート造船所1928年8月1日に起工し、1929年7月18日に進水1931年7月27日に竣工した。

1932年には艦中央部の上部デッキに装甲が追加され、煙突後部に作業スペースが形成され、フェアリー III型水上機2基が搭載された。1935年には.50"/62ヴィッカース機関銃が多数増設された。1937年に水上機(偵察機)がスーパーマリン ウォーラス飛行艇に更新された。

ラプラタ沖海戦での本艦を描いた絵画。
スラバヤ沖海戦にて日本海軍の攻撃を受けるエクセター。

「エクセター」は第二次世界大戦が勃発すると重巡「カンバーランド」 (HMS Cumberland, 57) と共に南アメリカ戦隊(G部隊)を形成した。1939年12月13日、軽巡「エイジャックス 」(HMS Ajax, 22)、「アキリーズ 」(HMNZS Achilles, 70) と共に、ラプラタ沖海戦ドイツポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー」と交戦する。「エクセター」は「エイジャックス」、「アキリーズ」と別れて「グラーフ・シュペー」に攻撃を行ったが、「グラーフ・シュペー」の反撃により11インチ砲弾7発の直撃を受け、61名が死亡、23名が負傷した。全ての8インチ砲塔が故障し、速度も18ノット(33 km/h)に低下、後退を余儀なくされる。「エクセター」はフォークランド諸島ポートスタンリーで応急処置を受け、その後1940年2月から1941年3月までかかってデヴォンポートで修理が行われた。「エクセター」が大口径砲の直撃を受けながらも沈没しなかったのは、乗組員によるダメージコントロールの努力と設計上の改良によるものであった。この時に対空火器が強化され、279型レーダーも装備された。

スラバヤ沖海戦で撃沈されたエクセター。

1941年に艦隊に復帰すると、大西洋での船団護衛任務に就く。その中には「ビスマルク」追撃戦の間に行われた中東に向かうWS-8B船団の護衛を含む。その後「エクセター」は極東へ向かう。

1941年12月の日本との開戦において、「エクセター」は日本軍の侵入からオランダ領東インド諸島防衛を意図したオーストラリアイギリスオランダアメリカによる四国連合艦隊(ABDACOM)の一部を形成した。

1942年(昭和17年)2月15日、「エクセター」はABDA連合艦隊の指揮下、軽巡3隻、駆逐艦8隻と共にガスパル海峡を北上し、日本軍輸送船団の攻撃に向かっていた[1]。日本軍偵察機は戦艦1隻、軽洋艦3隻・駆逐艦8隻と報告し、空母「龍驤」および基地航空隊の一式陸上攻撃機九六式陸上攻撃機が反復攻撃を行った[1]。深刻な損傷はなかったものの、航空機の援護のないABDA連合艦隊は反転・避退した[1]

2月27日、「エクセター」はスラバヤ沖海戦に参加する。第五戦隊・第二水雷戦隊・第四水雷戦隊と交戦中、おそらく重巡「羽黒」の砲撃によりボイラー室を損傷し、スラバヤへの後退を命じられる[2]。「エクセター」を掩護した3隻(エレクトラ、エンカウンター、ジュピター)のうち、駆逐艦エレクトラ」(HMS Electra, H27) は「エクセター」援護中に駆逐艦「朝雲」「峯雲」の砲撃で撃沈された[2]

バタビアからスンダ海峡を経由してチラチャップへ向かおうとスンダ海峡へ達した1942年3月1日午前中、オランダ病院船オプテンノール」を捜索していた日本海軍の駆逐艦「」と遭遇、砲撃戦となる[3][4]。続いて偵察機に誘導された重巡洋艦2隻(第五戦隊高木武雄少将:那智羽黒)、駆逐艦2隻(山風江風)が出現[2][5]。弾薬の不足していた第五戦隊は第三艦隊(司令長官高橋伊望中将:旗艦「足柄」)の重巡2隻(足柄妙高)、駆逐艦「」の援軍を要請し、第五戦隊と第三艦隊の両者で「エクセター」「エンカウンター」「ポープ」を挟撃した[5]。砲撃雷撃の集中攻撃を受けた「エクセター」は右に大きく傾き始め、「エクセター」は13時30分に沈没した[5]。さらに日本艦隊の追撃と空母「龍驤」艦載機の支援により、「エクセター」を護衛した「エンカウンター 」(HMS Encounter) 、「ポープ」 (USS Pope, DD-225) も撃沈される[6]。3月1日の戦闘で、第三艦隊(足柄、妙高)は20㎝砲弾1171発(さらに足柄は12.7㎝高角砲14発)、第五戦隊(那智、羽黒)は20㎝砲弾288発、「雷」は12.7㎝主砲279発、重巡4隻(那智、羽黒、足柄、妙高)は魚雷合計24本、駆逐艦3隻(雷、山風、江風)は魚雷合計11本を発射した[5]。 なお「エクセター」沈没時、妙高偵察機が「雷」の雷撃と「エクセター」の被雷・沈没を写真撮影した[7]。この写真[8]写真週報第215号に掲載された。大本営海軍報道部は「エクセター」がラプラタ沖海戦で自沈に追い込んだポケット戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」の仇を討ったと宣伝している[9]

この日、駆逐艦「天津風」は病院船「オプテンノール」護送のため戦闘海域を航行していた[3]。すると「エクセター」の生存者多数以上を発見、第二水雷戦隊旗艦「神通」に救助を依頼すると漂流者に対し「別に救助船が来る」と英語で知らせ、その場を去った[3]。 その後、エクセター艦長のO・L・ゴードン大佐を含む798名の連合軍将兵は日本海軍により救助され、「天津風」によってボルネオ島バンジャルマシンに連行されていた病院船「オプテンノート」に引き渡された(この件の詳細は、工藤俊作 (海軍軍人)電 (吹雪型駆逐艦)を参照)[10]。また「山風」に救助されていたエクセター乗組員67名は、マカッサルで軽巡「ジャワ」生存者と共に海軍陸戦隊へ引き渡された[11][12]

この救助の時の事を、「雷」艦長伝令だった佐々木氏は「流石イギリス海軍士官」と思ったといい、次のように回想している。

「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクセター』副長(安全確認のため、艦長よりも先に上がった)、次に『エクセター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。」「当初『雷』は自力で動ける者を先に上げ、重傷者は後回しにしようとしたのですが、彼らは頑として応じませんでした。その後私は、ミッドウェー海戦戦艦『榛名』乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、これと対照的な情景を目にしました」[13]

脚注[編集]

  1. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦298-303頁『敵艦撃滅の好機を逸す』
  2. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦478頁『連合軍側の状況』
  3. ^ a b c #第二氷川丸の航跡61頁
  4. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.58『1144|曙|我敵巡ト交戦中』
  5. ^ a b c d #戦史叢書26海軍進攻作戦461-462頁『残存敵艦隊を撃滅』
  6. ^ #週報第283号p.8『大東亞海の殲滅戦(大本営海軍報道部)』
  7. ^ #安永索敵機pp.125-156
  8. ^ HMS Exeter Final Days
  9. ^ #写真週報第215号p.10『独逸海軍の仇エクゼターを屠る』
  10. ^ #第二氷川丸の航跡278頁
  11. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.30『尚山風ヲシテ敵駆(H10)[(註)後日山風ノ捕虜トセシハ「エクセター」乗員ニシテ5S指令ノH10ノ乗員ナラザリシコト判明セリ]ノ乗員67名(内士官6)ヲ捕虜トセシメタリ』
  12. ^ #S1703五戦隊日誌(2)p.35『3-3|5S(妙高欠)江風「セレベス」島南方経由「スターリング」湾ニ航行 山風「マカツサル」着収容中ノ俘虜ヲ佐聯特ニ引渡シ同日出港「バンジャルマシン」ニ向フ』
  13. ^ 敵兵を救助せよ!p262

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A06031044500 『週報第283号(1942年3月11日号)』。
    • Ref.A06031081000 『写真週報第215号(1942年4月8日)』。
    • Ref.C08030043000 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030043100 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 安永弘 『死闘の水偵隊』 朝日ソノラマ文庫、1994年 著者は「妙高」偵察機操縦者として戦況を観測・報告した。
    • 安永弘 『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』 光人社、2002年 朝日ソノラマ文庫の改訂
  • 三神國隆 「第1章 スラバヤ沖海戦とオプテンノール号」『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』 光人社NF文庫、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2

外部リンク[編集]