スラバヤ沖海戦

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スラバヤ沖海戦
Battle of Java Sea - HMS Exeter under Attack.jpg
攻撃を受ける英重巡洋艦エクセター
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日:1942年2月27-3月1日
場所インドネシアスラバヤ
結果:日本の完勝
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 オランダの旗 オランダ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
オーストラリアの旗 オーストラリア
指導者・指揮官
高橋伊望中将
高木武雄少将
田中頼三少将
西村祥治少将
カレル・ドールマン少将
戦力
軽空母1
重巡洋艦4
軽巡洋艦2
駆逐艦14
重巡洋艦2
軽巡洋艦3
駆逐艦9
損害
駆逐艦1大破 重巡洋艦1、
軽巡洋艦2、
駆逐艦5沈没
重巡洋艦1小破、
司令官戦死
南方作戦

スラバヤ沖海戦(スラバヤおきかいせん)とは、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)2月27日から3月1日にかけて、インドネシアスラバヤ沖で日本軍ジャワ島攻略部隊を連合国軍が迎撃した海戦である[1]日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進むこととなった。

海戦の背景[編集]

太平洋戦争の勃発と共に、日本海軍はマレー沖海戦英国東洋艦隊の主力戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス)を撃沈し、東南アジア方面の最大の脅威を排除した。日本軍はフィリピンを占領すると、つづいて資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目標とし、三つの進撃路を準備した。アジア大陸沿いにシンガポールを目指すルートと、ボルネオ島を経由して南進しスマトラ島へ至るルート、さらにフィリピンダバオからスラウェシ島両岸のマカッサル海峡モルッカ海峡を経て、最終的にジャワ島を占領するルートである[2]

1942年(昭和17年)2月になると、日本軍はジャワ島占領を目的として行動を開始。陸軍の上陸船団とその護衛艦隊として第二水雷戦隊、第四水雷戦隊、第五戦隊、第四航空戦隊、第十一航空戦隊等を派遣する。日本船団は東西に分かれて進撃し、東部ジャワ攻略部隊として第48師団坂口支隊が輸送船約40隻に分乗していた[3]。これを護衛する第一護衛隊(指揮官西村祥治四水戦司令官:旗艦「那珂」、駆逐艦8、掃海艇5、駆潜艇5、他3)も含めると、約60隻に及ぶ大規模な船団であった[3]。これらはスラバヤ西方のクラガン海岸を上陸目標としてマカッサル海峡を南下、ジャワ海を航行していた。バリ島攻略作戦やチモール攻略作戦に従事していた主隊(足柄、山風、江風)、東方支援隊(那智、羽黒、雷、曙)、第二護衛隊(第二水雷戦隊、第7駆逐隊第1小隊《潮、漣》)、「妙高」等も漸次輸送船団護衛に加わる[3]。ベトナムのサンジャックに待機中だった第四航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母龍驤)と第七戦隊(司令官栗田健男少将:最上型重巡洋艦4隻《熊野、鈴谷、三隈、最上》)は、27日朝になってから南方部隊司令官近藤信竹第二艦隊司令長官より蘭印部隊編入とバタビア方面作戦協力を命じられる[4]。「龍驤」は27日午後に急遽出動したが、28日までの戦闘には間に合わなかった[4]

対する連合国軍は日本軍の進撃を阻止すべくABDA司令部を設置し、ジャワやオーストラリアの防衛のため艦隊を再編した。トーマス・C・ハート(米海軍大将・アジア艦隊司令長官)はカレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊を編成する[5]。しかし、この艦隊は急遽編成されたアメリカAmerican)・イギリスBritish)・オランダ(Dutch)・オーストラリアAustralian)の各国で構成された寄せ集めであった。合同しての訓練は一度も行ったことがない上に、連合軍の中で唯一の非英語圏であるオランダのドールマン少将は英語を解さなかった。

母国をナチス・ドイツに占領されたオランダにとって、極東の植民地は最後の拠点である[6]。オランダ亡命政府は米軍が極東の防衛に真剣でないと判断し、アメリカ人のハート大将を解任し、オランダ人のコンラッド・ヘルフリッヒ英語版中将(東インド諸島出身)を司令官とする人事を連合軍に行わせている[7]。しかし、既にシンガポールの戦いシンガポールは陥落[8]。大規模海軍基地を失ったことで、連合軍は損傷艦の修理や補給も難しい状態になっていた[9]。その上、ジャワ沖海戦バリ島沖海戦などの小規模海戦で連合軍に損傷艦が続出する[10]。たとえば重巡「ヒューストン」は損傷により前部砲塔6門しか使用できなかった[11]。さらに連合軍にとっての痛撃は、オーストラリアからジャワ島に至る戦闘機中継基地ティモール島を占領され、くわえて2月19日の南雲機動部隊のポートダーウィン空襲により北部豪州主要港のダーウィンが大打撃を受け、ジャワとオーストラリアの連絡線が遮断された事であった[8]

この時点でABDA連合は既に現有戦力ではジャワの防衛は不可能として撤退を始めていた。2月21日、アーチボルド・ウェーヴェル大将はウィンストン・チャーチル英国首相に、ジャワの防衛が絶望的であると報告[12]。2月25日の時点でウェーヴェル将軍はジャワを去った[13]。ジャワにはドールマン少将指揮の艦隊の他はアメリカ、オーストラリアの少数の航空機が残されているのみで、ABDA司令部の主だったメンバーは既にセイロンやオーストラリアへ脱出しており、残っているのはオランダ軍だけであった。

参加兵力[編集]

日本軍艦艇[編集]

指揮官:第三艦隊司令長官(蘭印部隊指揮官)高橋伊望中将

連合国軍艦艇[編集]

指揮官:カレル・W・F・M・ドールマン少将

  • アメリカ海軍
  • 第5任務部隊 司令官:A・H・ルークス海軍大佐
    • 重巡洋艦:ヒューストン
    • 駆逐艦:ジョン・D・エドワーズ、ポール・ジョーンズ、ジョン・D・フォード、アルデン、ポープ

戦闘経過[編集]

海戦前夜[編集]

ドールマン少将は2月25日、バウエアン島(ジャワ島東ジャワ州)に日本軍襲来との報を得て、機関故障を起こしていた米駆逐艦「ポープ」以外の全艦でスラバヤより出撃した。しかし、この報は事実ではあったものの日本軍はまだ進軍途中で、彼の出撃が早すぎたために会敵に至らず一旦ドールマン少将はスラバヤに帰投する[14]。26日になって再び日本軍接近中との報を得て出撃するも、いまだ日本軍は当該海域に達しておらず、26日、27日と索敵行動を続けたものの日本軍は発見できなかった。第一護衛隊指揮官西村(四水戦司令官)も第五戦隊に対しスラバヤ方面の索敵を依頼したが、哨戒艇3隻を発見しただけだった[3]。しかし日本軍航空隊(第二空襲部隊指揮官竹中龍造少将)は重巡1、軽巡2隻を含む有力水上艦隊の存在を報告しており、西村司令官は第五戦隊に対水上艦戦闘に備えるよう要請した[3]

一方連合軍艦隊は日本艦隊との海戦は夜戦になると見て水上偵察機(水偵)を陸揚げして出撃していた。2月27日早朝、日本軍の空襲を受けるが[15]、被害はなかった[16]。だが連日の戦闘配置によって乗員の疲労も高まっていた[13]。そこで彼は一旦補給のため、再びスラバヤに帰投することとして艦隊を帰投進路に向ける。ヘルフリッヒ長官は「航空攻撃にかかわらず、貴官は東方に向い敵を捜索、攻撃するものとす」と攻撃続行を命じたが、ドールマンは艦隊乗組員が限界を超えると返答して後退を続けた[17]

しかしその直後の2月27日11時50分、バリクパパン基地所属の日本軍偵察機が連合軍艦隊を発見、触接し日本軍艦隊にその位置を通報した。また同日、カーチスP-40戦闘機32機を搭載してジャワ方面に急行していた水上機母艦「ラングレイ」が[18]一式陸上攻撃機の爆撃で大破、駆逐艦ホイップル」 (USS Whipple, DD-217) および「エドサル」 (USS Edsall, DD-219) によって自沈処理された[19]

二月二十七日昼戦直前の経過[編集]

「敵艦隊発見」の報を受けたとき、第五戦隊部隊と第二水雷戦隊は第一護衛隊(第四水雷戦隊)及び輸送船団の北東約50浬を西進し、正午前後にそれぞれ南に転舵して第一護衛隊に続行した[20]。日本艦隊はPBYカタリナ飛行艇B-17爆撃機小数機の爆撃を受けたものの、爆弾は駆逐艦「天津風、初風」の近くに落下しただけで、何の被害も受けなかった[21][20]。この頃、日本艦隊は航空隊から『敵巡洋艦五隻、駆逐艦六隻、「スラバヤ」ノ310度63浬針路80度速力12節 1150』の報告を受け、日本艦隊指揮官、第五戦隊司令官高木武雄少将は直ちに敵方に向かって増速、第二水雷戦隊に合同命令を出した上で旗艦の重巡「那智」の水偵による偵察を下令[20]。「那智」機は14時5分、連合軍艦隊を発見、日本艦隊に位置を通報した[22]。また第四水雷戦隊も輸送船団の護衛指揮を「若鷹」艦長に任せると、第五戦隊に合同する運動を開始した[22]。日本艦隊は連合軍艦隊が船団攻撃に向うのか、スラバヤに退避するのか判断しかねており、第五戦隊は速度を落とし、二水戦はそのまま南東進を続け、四水戦は反転して船団護衛の位置に戻った[23]

一方で連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところ、総司令部より日本軍船団発見の報が入ったため反転、当該海域へ向かった[24]。巡洋艦部隊は先頭から「デ・ロイテル」-「エクセター」-「ヒューストン」-「パース」-「ジャヴァ」の単縦陣で、英駆逐艦3隻が巡洋艦部隊前方、蘭駆逐艦2隻は左舷前方、米駆逐艦4隻は後方に配置されていた[13]。これらの動きは全て上空触接していた那智機によって逐一日本艦隊へ送信されており、第五戦隊部隊・二水戦は連合軍艦隊による船団攻撃阻止のために敵艦隊との会敵予想針路を取った[25]。第四水雷戦隊は那智機の電報を受信するのが遅れ、船団護衛を第24駆逐隊司令(駆逐艦「海風」)に任せると、第五戦隊・第二水雷戦隊の後を追って予想会敵地点へ向った[25]。1650頃、第五戦隊部隊(重巡《那智、羽黒》、駆逐艦《山風、江風、潮、漣》)、二水戦(軽巡「神通」、第16駆逐隊《雪風、時津風、初風、天津風》)、四水戦(軽巡「那珂」、第2駆逐隊《村雨、五月雨、春雨、夕立》、第9駆逐隊《朝雲、峯雲》)の重巡2隻・軽巡2隻・駆逐艦14隻はおおむね並行してABDA艦隊方向へ進撃[25]。天候は晴れ、日没1950、月出1653、月齢12であった[25]

第一次昼戦[編集]

17時前後、第五戦隊と合同中の第二水雷戦隊は150度方向に敵らしき檣を認めた[26]。一方で連合軍艦隊も先頭を行く英駆逐艦「エレクトラ」が『戦艦2隻を含む艦隊発見』を報じ(スラバヤ出撃後約30分[13])、すぐに巡洋艦2隻と駆逐艦12隻の日本艦隊と判明した[27]。連合軍艦隊士官の証言によれば、「那智」と「羽黒」には気付いていなかったという[28]。両軍とも直ちに戦闘速度に増速し、敵艦隊方向へと互いに針路を取った。17時30分以降、「神通」から1機、「那智」「羽黒」から各2機(合計4機)の弾着観測機が射出された[26]。この間、高木司令は第五戦隊直衛の駆逐艦4隻(潮、漣、山風、江風)を臨時に二水戦に編入させ、水雷戦隊として行動するよう命じた[26]。軽巡1隻・駆逐艦8隻となった第二水雷戦隊は単縦陣を形成し、「那智、羽黒」より敵艦隊に近い航路をとる[29]

海戦はスラバヤ北西約30マイル(48km)の海域ではじまった[30]。日本艦隊は連合軍艦隊に対して右から左へ斜めに前を横切るいわば「T字戦法」を取ろうとしたが、これを嫌ったドールマン少将は艦隊針路をやや左に変針して、日本軍と同航砲戦を取る形とした[31]。17時45分、まず「神通」が距離約17,000mで初弾を発砲[32]。これらは連合軍艦隊先頭を行く英駆逐艦3隻を挟叉したが命中弾は得られなかった[33]。英駆逐艦群も撃ち返すが、搭載していた12センチ砲には距離が遠すぎて日本艦隊へまともに届かなかった[33]。二水戦が攻撃を始めている間に「那智、羽黒」は連合軍艦隊へ針路を並行とし、距離26,000mで砲撃を開始[32]。これに対して17時48分、連合軍艦隊の巡洋艦部隊が反撃を開始、最も近距離の二水戦に向かって砲撃を始めた[29]。実際にはABDA艦隊の方が先に射撃を開始、「那智、羽黒」にそれぞれ至近弾になったという[34][35]。また「エンカウンター、ジュピター、エレクトラ」は魚雷を発射し、日本艦隊に命中したと錯覚した[36]。初弾から挟叉を浴びた二水戦司令田中頼三少将は形勢不利と判断。17時50分、「神通」は煙幕を展張して離脱を図り、二水戦は一旦戦域からの避退針路を取った[32]

この頃、10機のカーチスP-40戦闘機と3機のA-24急降下爆撃機(SBDドーントレス急降下爆撃機の陸軍型)が戦場に到着、交戦中の日本艦隊を無視し、その北方にいた輸送船団を攻撃して撃沈3隻を主張した(実際は損害なし)[37]。仮にP-40が日本軍水上観測機を撃墜していた場合、海戦の展開は変わった可能性がある[37]。一方、日本艦隊にも増援が加わった。第四水雷戦隊(四水戦)が戦域に到着し、連合軍艦隊を巡洋艦4隻、駆逐艦2隻と判断、一挙に南下すると第五戦隊や二水戦の前方を突っ切って接近戦を仕掛けた[32][29]。「夕立」水雷長だった中村悌次は、『デ・ロイテルがまるで戦艦のように見えた』と回想している[38]。中村によれば、第四水雷戦隊は遠距離から魚雷を発射して主力(第五戦隊)の方向に敵艦隊を誘致し、続いて突撃して決戦を挑むという企図だったという[38]。1804に「那珂」は魚雷発射、四水戦駆逐隊は「那珂」よりさらに敵艦隊に接近して魚雷を発射、四水戦は計27本を発射[32]。「神通」は1805に四水戦の外側から魚雷4本を発射、それぞれ煙幕を展張し避退する[32]。しかしこれらは一本も命中せず、さらにこのうち1/3が航走中に自爆してしまった。これは九三式魚雷の信管が鋭敏すぎたため波の衝撃で反応したためである[39]。この爆発による長巨大水柱を日本軍は連合軍敷設の機雷の爆発と考えたため、接近戦戦法を取るのを諦めた[40]。戦艦の砲弾による水柱のようにも見えたという[39]。「那珂」は「敵巡洋艦3隻撃沈ス、船団ハ予定ノゴトク行動セヨ」、「神通」は「本艦魚雷、二・三番艦に命中」と味方艦隊に通知した[41]。 一方で「那智、羽黒」は連合軍艦隊との距離を維持し、砲撃を続けつつ18時22分、「羽黒」は魚雷を8本を隠密発射した[42]。「那智」はヒューマンエラーにより魚雷を発射できなかった[42]

両軍は命中しない砲撃と雷撃戦を展開しながら西方へ航行していた。第五戦隊は「昼戦で敵を適宜誘致しながら夜戦に突入し、優れた魚雷力で一挙に敵を撃滅するつもりだった」と述べている[42]。18時35分、それまで両軍の砲弾は殆どがはずれ、何発か命中してた日本艦隊の弾も不発弾だったが[43]、おそらく「羽黒」の20cm砲弾が「エクセター」の機関部に命中して炸裂[44]。これが「エクセター」の缶室8基のうち6基を破壊し「エクセター」は速力11ノットとなる[45]。「エクセター」は単陣形を維持できなくなったため左に転舵、すると続航していた米重巡「ヒューストン」は「エクセター」の運動をドルーマン提督の命令によるものと判断して取舵をとり、豪重巡「パース」も従った[46][13]。先頭を航行していた旗艦(蘭軽巡)「デ・ロイテル」は孤立しかけ、南に変針するなど、連合軍艦隊の隊列が混乱した[47][29]。原(天津風艦長)は魚雷の回避運動と見ていたが、実際は混成艦隊ゆえの陣形混乱だったのである[47]。そこへ、先ほど「羽黒」が放った魚雷8本が到達し、このうち一本が蘭駆逐艦「コルテノール」に命中する[44]。この魚雷攻撃は、後述の第四水雷戦隊の魚雷の可能性もある[47]。「コルテノール」はV字型に折れ轟沈した[48]。ここで混成艦隊は日本の潜水艦が近くに居るものと錯覚し、隊列を乱して遁走を始めた[49]。ABDA艦隊の混乱を見たドールマン少将は一旦戦場を離脱し、体勢を立て直すことを決断する。艦隊の針路を南東へ向け、戦域離脱を図った。「神通」の砲撃開始より約50分が経過、日本艦隊は20㎝砲弾1271発、14㎝砲171発、魚雷39本を消費した[42]

第二次昼戦[編集]

1837、連合軍艦隊の変針および混乱を見て、高木少将は直ちに「全軍突撃せよ」を下令[42]。当時の日本艦隊陣形は、ABDA艦隊より第五戦隊、第二水雷戦隊、第四水雷戦隊の順番だった[50]。 これを見て西村祥治少将の四水戦が真っ先に突撃を始めた[51]。四水戦旗艦「那珂」は連合軍艦隊に距離12,000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退した[51]。四水戦の子隊である、第2駆逐隊・第9駆逐隊は肉薄攻撃をかけるために突撃した[51]。この間に四水戦に続いた二水戦が戦場に到着し、まず田中少将座乗の「神通」が距離18,000mで魚雷を発射し反転離脱[51]。駆逐艦8隻(雪風、時津風、天津風、初風、山風、江風、潮、漣)は9,000mまで接近して魚雷を発射、「神通」の後を追い離脱する[51]。第二水雷戦隊が発射した魚雷は64本にのぼる[52]。「那智、羽黒」はアウトレンジからの砲撃を続けた[51]。しかし、これら発射した魚雷は連合軍艦隊が再び煙幕を張りつつ大回頭をしたため全て外れ、また砲撃も距離が遠すぎてまともに命中弾が出ず、第五戦隊・第二水雷戦隊とも気迫にかけていた[53]。なお、「コルテノール」轟沈はこの時点であるという見解もある[54]

こうした膠着状態を打破したのは、連合軍艦隊に肉薄攻撃を仕掛けた第四水雷戦隊子隊であった。第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)は7,500mまで接近すると魚雷を発射し反転離脱[51]。しかし第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は駆逐隊司令 佐藤康夫大佐が発射命令を出さず、敵艦隊に接近し続けた。「朝雲」では水雷長が司令に「司令、早く撃ちましょう」と何度も催促したが、佐藤大佐は発射命令を出さなかった。たまりかねた岩橋透駆逐艦長が早期の発射、反転を具申すると佐藤大佐が「艦長、後ろを見るなッ!前へ!」と大喝するシーンもあったという[39]。連合軍艦隊と日本艦隊の間には既に連合軍艦隊が展張した煙幕が漂っており、接近しなければ照準は難しい状態であった。距離5,000mに接近しようやく佐藤大佐は「発射はじめ」の号令をかけ、「朝雲、峯雲」は一斉に魚雷を発射した[39]。これらの魚雷は結局命中しなかったが、第9駆逐隊はそのまま反転離脱せず、さらに接近を試みた[51]

これに対してドールマン少将は被弾し速力の低下した英重巡「エクセター」の避退を援護するため、英駆逐艦「エレクトラ」(駆逐隊司令艦)、「エンカウンター」「ジュピター」に対し第9駆逐隊への阻止攻撃を下令[55]。第9駆逐隊からは煙幕から駆逐艦2隻(エレクトラ、エンカウンター)が飛び出してくるのを確認し、距離3000mで砲撃戦となる[51]。「朝雲、峯雲」は「エレクトラ」を撃破したが、反撃の一弾が「朝雲」の機械室に命中、「朝雲」は一時航行不能に陥った[44]。なおも「エレクトラ」は魚雷で反撃したが命中せず、「峯雲」に撃ち負けてまもなく戦闘力を完全に失った[56]。艦長C・W・メイ中佐は総員退去を命じ、自身は19時54分、艦と運命を共にした[57]

この戦闘が行われている間に「エクセター」をはじめ連合軍艦隊は全艦戦域を離脱した[56]。また19時50分、戦闘海面は日没して暗くなり、煙幕と砲煙により視界は極度に悪化[56]。さらに陸岸にて機雷らしき大爆発(酸素魚雷の自爆)があり、20時5分、これ以上の追撃は危険と判断した高木少将は追撃を中止し、麾下の各艦に対し集結し夜戦準備を整えるように下令した[51]。 第二水雷戦隊は1940に各隊の集結を命じ2015に「潮、漣、山風、江風」が合同した[58]。第16駆逐隊は「朝雲」を支援すべく一旦反転していたため、2037に「神通」と合流した[58]。 第四水雷戦隊は2000に第2駆逐隊と合同したが「朝雲、峯雲」の状況は不明、敵艦隊の動向もわからなかったため、西村司令官は2015に輸送船団の反転を命じた[58]。この間の各艦消耗弾数は、20㎝砲302発、14㎝砲50発、12.7㎝砲515発、25mm機銃256発、魚雷98本と記録されている[58]。二時間以上にわたる砲撃戦により弾薬庫の温度は急上昇し、「羽黒」では熱射病により2名の戦死者を出した[59]

第一次夜戦[編集]

避退した連合軍艦隊ではあったが、その動向は触接し続けていた「神通」機により逐次、報告されていた[58]。高木少将は敵艦隊の位置と味方船団の中間に「那智、羽黒」を置きつつ、昼間に発進させた「那智、羽黒」の水偵(計5機)の回収作業を命令した[60][61]。 一方、ドールマン少将は損傷した英重巡「エクセター」に蘭駆逐艦「ヴィテ・デ・ヴィット」を護衛につけてスラバヤへ帰投させると共に、自艦隊の隊列整理の時間稼ぎのため、米駆逐艦4隻に対し敵艦隊に対して攻撃し自艦隊の援護をするように命令した[62]。これを受けた米駆逐艦4隻は反転北上し、煙幕を突破して第五戦隊「那智、羽黒」を発見すると距離9,000mで両舷の魚雷を全弾発射したが、魚雷は第五戦隊まで届かず沈んでしまった[63]。当時のアメリカの魚雷では距離9,000mは射程ギリギリの距離であり、これにより米駆逐艦群は全ての魚雷を射ち尽してしまった。ちなみに日本艦隊は米駆逐艦隊が接近してきたことも、魚雷を発射したことも一切気付かなかった。

ドールマン少将は日本艦隊が追いかけてこなかったことから、日本艦隊は船団護衛のため一旦後退したものと考えて、敵船団攻撃のため反転、進撃を始めた。しかしこの行動は触接していた「神通」機によって全て日本艦隊に筒抜けだった。日本側では、先の昼戦で敵艦隊の主だった艦に損傷を与えられなかったことから、敵艦隊は反転、攻撃してくるものと判断していた。

20時16分、「神通」機から「敵針310°」と通報が入る。明らかに味方船団攻撃に反転したと判断した高木少将は、麾下の部隊に対して、敵艦隊を夜戦にて迎え撃つことを通告し、直ちに準備に入った。ところが、肝心の第五戦隊(那智、羽黒)が丁度先の命令の水偵揚収作業にかかり始めたところであった。

20時52分、両軍はほぼ同時に敵を発見した[60]。しかし、第五戦隊は水偵の揚収作業がようやく終わりかけたところで、連合軍艦隊(デ・ロイテル、パース、ヒューストン、ジャバ、駆逐艦5隻)を第三戦隊の金剛型戦艦2隻と錯覚しており、正体に気付くと慌てて航進を開始する[64]。油断して機関の缶を二つに落とし、砲塔動力電流も遮断していた「那智、羽黒」は逃走するしか手段がなかった[65]。最後の那智水偵は放置寸前に『運よく』回収された[60]。「羽黒」でも艦長が『今度懸らなかったら此の飛行機は捨てる』と下令したが、こちらも回収に成功した[66]。 一方で偵察機を持たない連合軍艦隊にとっても、敵情不明のままだったのでこの会敵は想定外だった。距離12,000mで触接していた「神通」機が照明弾を投下する[67]。連合軍艦隊も「ヒューストン」と豪軽巡「パース」が第五戦隊目掛けて照明弾を発射する[60]。連合軍艦隊は急斉射したが、照準が不正確で結局一発も当たらなかった[68]。この間、「那智、羽黒」の左舷後方にいた二水戦が敵艦隊に対して突撃をかけた[69]。2107、「神通」が距離19,000mで魚雷4本を発射したが、この発射を「パース」が確認しておりすぐに右転舵・回避行動を取った。後続の艦もこれに倣ったため魚雷は命中しなかった[60]。「那智、羽黒」は煙幕を展開しながら一旦戦場から避退し、速力を上げて体勢を立て直してから戦場に戻ってきたが、連合軍艦隊が変針してしまったため見失ってしまった[60]

結局この戦闘は両軍とも互いに一発の命中弾も発生しなかった。

機雷原[編集]

連合軍艦隊は一旦南下し、ジャワ島沿岸に向かっていた。しかし、その動向は相変わらず「神通」機によって日本艦隊に通報されていた。22時50分、「神通」機は「那珂」機と触接を交代する[70]。ドールマン少将は艦隊戦では彼我の戦力差から不利と考えて、ジャワ島沿岸スレスレまで南下し陸沿いに進撃することで日本艦隊の目をくらまし、日本船団に直接突入することを企図していた。ジャワ島沿岸に達すると、ドールマンは燃料が不足してきた米駆逐艦4隻にスラバヤへの帰投命令を発し、艦隊から離脱させた(無断離脱だった可能性もある[71])。この分離で「那珂」機は連合軍艦隊を見失ってしまった(交信が途切れたためとも)[70]。「那珂」機が触接を失ったことで日本艦隊は自ら索敵をせねばならなくなり、「那智、羽黒」と第二水雷戦隊は各隊に分かれて南下を始めた。

索敵機の目をくらますことに成功した連合軍艦隊はジャワ島沿岸を西進していたが、その先にはオランダ軍がその日の午後に敷設したばかりの機雷原があった[44]。しかし、連絡不達によりその存在をドールマン少将はおろか、連合軍海軍現地司令官のヘルフリッヒ中将すら知らなかった[13]

22時55分、最後尾の英駆逐艦「ジュピター」が突如大爆発を起こして炎上し『われ雷撃を受く』を報告、4時間後に沈没した[72]。日本潜水艦からの雷撃と判断(誤認)したドールマン少将は急いで海域を離れるべく艦隊を北上させた[73]。しばらく北上すると昼戦時の戦闘海面に達し、ここに撃沈された「コルテノール」の生存者が多数漂流していたため、艦隊に唯一残っていた駆逐艦「エンカウンター」がこれを救助、スラバヤへ後送するため艦隊を離れた[73][44]

こうして連合軍艦隊は巡洋艦4隻(デ・ロイテル、パース、ジャワ、ヒューストン)だけとなってしまった[44]。しかし、ドールマン少将はあくまでも日本船団に対する攻撃を諦めず、ひたすら日本船団がいると思われる海域へ北上していった[74]

第二次夜戦[編集]

先述したように日本艦隊は索敵のため南下し、連合軍艦隊も日本船団攻撃のため北上していた[13]。2月28日0000、高木司令官は第二水雷戦隊に対し「敵情不明ニ付キ第四水雷戦隊側ニ近寄レ0000」と下令する[70]。「那智、羽黒」が南下中の0時33分、両軍は会敵した[70][75]。第二水雷戦隊は「那智、羽黒」の右舷前方(ABDA艦隊の西方15km)を南西方向に航行しており、0045時に右転舵して北上、「那智、羽黒」の砲雷撃戦に参加しなかった[75]

連合軍艦隊に最も近かったのは第五戦隊(那智、羽黒)であった。高木少将は0時40分、それまで針路180度(真南)だった戦隊の針路を反転させ針路零度(真北)とし、同航戦の態勢をとった[70]。ドールマン少将も日本艦隊を認めると距離12,000mで照明弾を発射、続いて砲戦を開始したが、両軍ともかなりの砲弾を消費しており、更に砲員は疲れきっていたため、従って互いに交互打ち方、緩斉射で応戦しあった[74][70]。「那智、羽黒」にとってこの砲撃戦は思惑通りであり、敵艦隊に酸素魚雷が到達するまでの時間(11分30秒)を稼いでいたという[76]

0時52分、旗艦「那智」が8本、「羽黒」が4本の魚雷を順次発射する[70]。「那智」は昼間の戦闘で人為的ミスから魚雷を発射しなかったため、夜戦で8本を一気に射出できたのである[77]。この発射に連合軍艦隊は気づかず進路を変えなかった。1時06分、「デ・ロイテル」後部に魚雷1本が命中して火薬庫に引火・炎上、後続の「パース」と「ヒューストン」は炎上する旗艦と魚雷を回避したが、1時10分に最後尾の「ジャワ」艦尾に魚雷が命中、急速に沈没した[78]

ヒューストン及びパースは我が生存者にかまわずバタビアに避退せよ

カレル・ドールマン

これがドールマン少将の最期の命令となった。通信が終わった直後、「デ・ロイテル」は沈没した。ドールマン少将以下殆どの乗員が脱出できず、救出された生存者は「デ・ロイテル」が17名、轟沈した「ジャワ」に至っては2名のみであった(3月1日に江風がジャワ乗組員37名を救助)。命令を受けた「パース」とウォーラー艦長(先任士官)は「ヒューストン」を従えて反転すると最大戦速で海域を離脱し、バタビアへ避退して無事に入港、ヘルフリッヒ司令官にドールマン提督の戦死を伝えた[79]

高木少将は「デ・ロイテル」と「ジャワ」の撃破を確認すると、残敵掃討のため水雷戦隊との合同を図った[70]。「デ・ロイテル、ジャワ」の轟沈に司令部・全艦将兵が万歳を三唱しつつ見惚れていたため、「ヒューストン、パース」がいなくなったことに気付かなかったという[80]。0145に「那智」から水偵を射出し索敵させたが、発見できなかった[70]。「ヒューストン、パース」は東方のスラバヤへ避退したと誤認したためであり、この二艦が実際は西方のバタビアへ避退したので発見できなかったのである[44]。第二水雷戦隊は「デ・ロイテル、ジャワ」轟沈の火柱を確認して0120に反転、0130に針路90度で敵艦隊の追跡を試みたが、失敗した[70]。第四水雷戦隊は二水戦よりもさらに南西方向にあって、第二次夜戦には参加できなかった[70]。0135、高木司令官は二水戦・四水戦に「船団ノ南東ヲ警戒セヨ」と下令した[77]。第一次夜戦・第二次夜戦における弾薬消耗数は、第一次夜戦で「神通」が魚雷4本、第二次夜戦で20㎝砲弾46発、魚雷12本である[77]

三月一日昼戦に至る経緯[編集]

2月28日朝、スラバヤ港に停泊していたオランダ病院船「オプテンノール」は「デ・ロイテル、ジャワ、コルテノール」生存者救助を命じられ、同港を出港した[81]。「コルテノール」沈没海域では生存者を発見できず、続いて蘭軍巡洋艦沈没地点へ向かおうとした[81]。 同時刻、第五戦隊、第二水雷戦隊は主隊(足柄、妙高、雷、曙)と合同、損傷した「朝雲」はボルネオ島バリクパパンに回航された[82]。また田中二水戦司令官は航続距離の短い吹雪型駆逐艦(潮、漣)を燃料補給のため同島バンジェルマシンに回航させ、「山風、江風」を第五戦隊部隊に復帰させた[82]。昼過ぎには第一根拠地隊から軽巡「鬼怒」、第8駆逐隊が輸送船団43隻に合流した[82]。これに対し連合軍は急降下爆撃機10による空襲を実施、「徳島丸」が浸水・擱座、「じょほーる丸」命中弾により死傷者150名という被害を出す[82]。 午後3時前後、「オプテンノール」は『2隻の駆逐艦』に臨検された[81]。日本側記録によると「村雨」(もしくは夕立)[83]が「オプテンノール」を臨検している[84]。「天津風」に引き渡された「オプテンノール」はバウエアン島の仮泊地に一時停泊するよう命じられた[85]。なお原為一(天津風艦長)の手記では、「天津風」による「オプテンノール」拿捕は26日となっている[81]。 3月1日0235、輸送船団はジャワ島クラガン泊地に進入、これを襲撃した連合軍魚雷艇3隻の攻撃を「春雨」が撃退した[82]。0400、第一次上陸部隊が上陸を果たす[82]

順調にジャワ島攻略作戦を実施する日本艦隊に対し、スラバヤに帰投した連合軍艦艇は惨憺たる有様だった。無事だった米駆逐艦4隻は魚雷を撃ち尽し、補給も出来ない状態で実質戦闘不能。英重巡「エクセター」は応急修理でなんとか23ktまで出せるようになったものの、本格的な修理が必要な状態であった[86]。従って戦闘に堪え得るのは、米駆逐艦「ポープ」(機関故障で残留)、英駆逐艦「エンカウンター」(コルテノール生存者を後送)、オランダ駆逐艦「ヴィテ・デ・ヴィット」(エクセターを護衛して到着)の3隻のみである。「ポープ」は魚雷を満載していたが「エンカウンター」は魚雷の補給ができなかった[87]。残存艦隊にとって最大の問題は、日本軍輸送船団の撃滅ではなく「どうやってジャワ海から脱出するか」になっていた[88]

連合軍海軍司令部は米駆逐艦4隻はバリ海峡を抜けオーストラリアに回航し、「エクセター」は修理のためセイロンに回航、この護衛に戦闘可能な3隻の駆逐艦を随伴させることに決め、2月28日、スラバヤ出港命令を出した[89]。第58駆逐隊司令官T・H・ビンフォード中佐は命令により「ポープ」を「エクセター」の護衛に残すと、東に向った[90]。しかし、ここで損傷した「エクセター」をどうやってインド洋に脱出させるかが問題となった。バリ海峡は深度が浅いため「エクセター」の航行には向かなかった[91]。後はロンボク海峡スンダ海峡を突破する2通りのパターン(既にシンガポールは陥ちており、マラッカ海峡通過は不可能だった)があったが、先に起きたバリ島沖海戦により日本軍は既にバリ島を抑えていると判断した司令部は、スンダ海峡突破を命令した[89]。しかし実際はロンボク海峡には日本軍は殆ど居らず、むしろスンダ海峡を固めていたのであるが、連合軍は空中偵察を行おうともしなかった[92]。また「エクセター」も戦闘機ブルースターF2Aバッファロー1機を搭載していたが、最後の戦闘で使用される事はなかった[93]

2月28日午後6時、夕焼けの中を英国重巡洋艦「エクセター」(速力16ノット)は、駆逐艦2隻(ポープ、エンカウンター)を従えて出港した[94]。「ヴィテ・デ・ヴィット」は艦長が乗員に半舷上陸の許可を出していたため出港に間に合わなかった(この艦は3月2日、日本軍の空襲により撃沈)。一方、バタビアに退避していた米巡洋艦「ヒューストン」、豪州巡洋艦「パース」、蘭駆逐艦「エヴェルトセン」も「エクセター」と同時刻にバタビアを出港、西進してスンダ海峡を目指した[88]。だがジャワ島西部上陸作戦中の日本軍輸送船団と遭遇、第三護衛隊(第五水雷戦隊基幹、指揮官原顕三郎少将:旗艦「名取」および第七戦隊《三隈、最上》、第三水雷戦隊)との戦闘により「ヒューストン、パース」は撃沈され、「エヴェルトセン」は座礁して喪失した(バタビア沖海戦)。

三月一日昼戦[編集]

以下の戦いを、連合軍側は第二次ジャワ海海戦(en:Second Battle of the Java Sea)と呼称している。日本軍側はスラバヤ沖海戦の一部「スラバヤ沖(第二次)海戦」と分類している[95]

3月1日午前4時、前述のように輸送船2隻が損害を受けるも、日本軍はクラガン泊地への敵前上陸に無事成功した[96]。同時に航空偵察により、損傷した連合軍艦艇の動きを探っている[97]。この時点で日本軍は、第一護衛隊(第四水雷戦隊)がクラガン泊地外方、第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊)は泊地北東側、第四潜水戦隊旗艦・軽巡洋艦「鬼怒」は泊地北西側、第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)はクラガン北方海面、主隊(足柄、妙高)、第六駆逐隊、「曙」(第七駆逐隊)は哨戒行動中だった[98]

同時刻、バウエアン島近海で「エクセター」は敵らしきものを発見し、これを反転回避する。これは日本軍第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)であった。この時日本軍は「エクセター」に気づかず、そのまま遠ざかっていった。しばらくして「エクセター」は再反転すると西進を始めた。また日本軍別働隊でも、日本軍偵察機が報告した病院船「オプテンノール」護送のため、駆逐艦「曙」が艦隊から分離した[99]。「曙」は『時津風からオプテンノール護送任務を引き継げ』と命じられていたという[100]

1103、クラガン泊地沖を哨戒していた第五戦隊部隊4隻は距離28km先に「エクセター」隊を発見する[101][102]。既に第五戦隊部隊は残弾が底をつきかけており、已む無く高木少将は蘭印艦隊司令長官高橋伊望中将の重巡2隻(足柄、妙高)に応援を要請すると共に弾着観測機を射出し、敵艦隊に触接させた[102][103]。「エクセター」は戦闘を避けるため煙幕を展開しながら北西に転針し、戦域から離脱を図った[93]。1127、第五戦隊部隊は「足柄、妙高」の到着を待って追撃を開始した[104][105]

午前11時40分、「エクセター」は前方左、距離31,000mに新たな敵艦を発見する。同時刻、駆逐艦「曙」は「エクセター」を病院船「オプテンノール」と誤認し、停止命令を出した[106]。英軍重巡洋艦は14-18kmで砲撃した[107]。第五戦隊も「エクセター」が艦首方向に射撃をしていたことを記録している[108]。1140-1144分、「曙」は『(1140発、曙)敵らしき巡洋艦1、駆逐艦2見ゆ、我より方位120度』『我敵巡と交戦中』と報告し、救援を求める[109]。第三艦隊は「曙」に対し、敵艦隊を誘致・拘束するよう命じた[110]

「エクセター」は「曙」が水平線の向こうに逃走したことで砲撃を停止した[111]。やがて左舷に新たな日本艦隊が出現、これは高木少将からの連絡を受け、戦場に急行していた高橋中将率いる主隊(足柄、妙高、雷)の別働部隊であった[112]。「エンカウンター」に乗艦していたサムエル・フォール卿(当時中尉)は、まず英艦隊の右前方に駆逐艦4隻が出現、続いて左前方に最上型重巡洋艦2隻が出現(妙高型重巡洋艦を誤認)、最後に左舷後方に最上型重巡洋艦2隻(これも妙高型の誤認)が出現したと証言している[113]

「エクセター」は距離23000mで砲撃を開始した[113]。「足柄、妙高」も応戦すべく、弾着観測のため零式水上偵察機を射出した。「足柄、妙高」は右砲戦を開始したが、2隻の弾着は非常に悪く、初弾斉射は「エクセター」から1000m離れ、次斉射は2000m離れた海面に着弾したという[114]。逆に「エクセター」が「足柄」を夾叉する光景も見られた[115]。だが「エクセター」は数の上で不利であり、東方への逃走を試みる[116]。これを援護すべく「エンカウンター、ポープ」が別働隊と「エクセター」の間に割って入り、1200前後に煙幕を展張した[105]。煙幕の展開は効果的で、「那智、羽黒」は「エクセター」を見失う[117]。状況を打破すべく、別働隊は「曙、雷」が「エクセター」に対して突撃をかけ、距離12,000mで砲撃を始めた。「足柄」と「妙高」は「エクセター」に酸素魚雷を発射したが、少なくとも魚雷2本が自爆し、全魚雷が命中しなかった[118]。逆に第五戦隊部隊の方向へ魚雷が向かったので、「那智、羽黒」が回避する場面も見られた[119]

東方への逃走を図る「エクセター、エンカウンター、ポープ」はスコールの中に飛び込んだ。「足柄」はスコールのため射撃を中止した程である[120]。しかし「エクセター」は損傷のため無理をしても23ノットしか出せない[119]。一方、日本艦隊は全艦が30kt以上の速力を発揮可能であった。短い嵐が去った時、「エンカウンター」は右舷9000に駆逐艦隊、「エクセター」の左舷18000mに"最上型巡洋艦"4隻、右舷後方の水平線上に"那智級巡洋艦"2隻を確認している[121]。英艦隊は包囲されていた。 この絶望的な状況下においてフォール卿は「自分は生来楽天的な性格であったため、何とか日本艦隊の包囲網を抜けて脱出できると信じていました。方位盤の横で即的士官と冗談を言い続けていました。」と語っている[122]

1224、「那智、羽黒」が距離25kmで「エクセター」に対し射撃を開始した[123]。「エクセター」も反撃し、「那智」の周辺に水柱が上がる[124]。日本軍は英軍艦隊を包囲し、集中砲撃を浴びせた[125]。午後12時30分、「エンカウンター」は「山風、江風」の砲撃により被弾し[126]、舵故障を起こして速度が低下した[125]。さらに「那智、羽黒」の方向に艦首を向けたため[127]、第五戦隊は魚雷発射と誤認して回避運動を行っている[105]。「エンカウンター」の士官によれば、主砲弾をほぼ撃ちつくしたところ、砲撃によりオイルポンプが破損して航行不能になったという[128]

1240分頃、第十一航空戦隊(水上機母艦瑞穂)より、「エクセター」爆撃のため観測機11機を送るという連絡があった[129]。日本艦隊は距離17kmにて「エクセター」に対し射撃を再開する[125]。同時に魚雷戦を開始し、1250分ごろ「那智」4本、「羽黒」4本、「山風」2本、「江風」4本を発射した[130][105]。すると日本艦隊と「エクセター」の間に幅5-6m、高さ70-80mという巨大な水柱があがった[131]。 

この時、フォール卿の回想では「我々は日本潜水艦の雷撃を避けるためにジグザグ航行をしておりました。(中略)艦隊は変針を繰り返し、33ノットの高速で走り、対潜警戒と回避行動を繰り返しました。さらに、『エンカウンター』は『エクセター』の周りに煙幕展張を行い、日本側の砲撃をそらそうとしました。しかも、日本軍の包囲網から『エクセター』を突破させようとして、『ポープ』と共に日本艦隊に4000ヤードまで接近し、魚雷発射の擬似運動を行いました。この時だけは日本艦隊が大きくループを描いて回避運動を行いました。この時、包囲網に隙間が生じましたが、僅かの間でした。このため、『エクセター』は包囲網から脱出できなかったのです。」となっていた[132]

だが日本軍の魚雷が自爆しても、「エクセター」の命運は尽きようとしていた。20cm砲弾1発がまたも「エクセター」の缶室に命中し、火災が発生した[133]。1254、動力を全て失った「エクセター」は航行不能となり、主砲も動かなくなる[134]。「エクセター」艦長O・L・ゴードン大佐は総員退去を命じ、乗組員は海に飛び込み始めた[119]。「エクセター」総員退去と前後して駆逐艦「雷」が「エクセター」に肉薄して魚雷を発射し[135]、一本が「エクセター」の右舷に命中[136]。続いて「足柄、妙高」も砲撃を開始した[137]。止めを刺された「エクセター」は1330、右舷に転覆し沈没した[138]。この時、妙高偵察機が「エクセター」の被雷・沈没を写真撮影した[139]。この写真[140]写真週報第215号に掲載された。大本営海軍報道部は「エクセター」がラプラタ沖海戦で自沈に追い込んだポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー」の仇を討ったと宣伝している[141]

沈没寸前の「エクセター」

なおも日本軍は残った「エンカウンター、ポープ」の追撃を行った。「羽黒、那智」に至っては高角砲も用いて駆逐艦2隻を砲撃する[142]。まず舵の故障を起こして速度の低下していた「エンカウンター」が狙われた。同艦は集中砲火を浴び、完全に戦闘不能となった。この時の事をフォール卿は「『エンカウンター』は、砲弾を撃ち尽くした直後に日本艦隊の砲撃を受けました。その結果、宙に放り投げられる感覚がしました。」と語っている。降伏を進言する士官もいたが、モーガン艦長は交戦旗をおろすなと命令[143]。モーガン艦長を含めて乗組員の殆どが脱出、「エンカウンター」は戦死者7名と共に1335、沈没した[144]。「ポープ」はスコールに逃げ込み、日本艦隊の追撃から離脱することに成功する[105]。燃料が尽きかけていた第五戦隊部隊は第三艦隊の命令により、午後1時53分に「ポープ」追撃を主隊(足柄、妙高)に任せて戦場を離脱した[145]

「ポープ」はロンボク海峡からオーストラリアに脱出しようと試みるが、妙高偵察機から逃れることができずにいた[138]。「ポープ」はボルネオ島南岸に沿って全速で東進していたが[146]、1505、カリマタ海峡を南下中だった第四航空戦隊(軽空母龍驤)から発進した九七式艦上攻撃機6機(合計250kg爆弾6発、60kg爆弾24発装備)が来襲する[147][148]。命中はしなかったものの左舷に落ちた至近弾により船腹に大穴が開き、左舷推進軸が捻じ曲がって使用不能となった。爆撃を受けた「ポープ」は回避運動により浸水が酷くなり、遂には艦尾が沈下してしまった。「ポープ」の艦長W・C・プリン中佐は艦を諦めて総員を退去させ、「ポープ」には爆薬を仕掛けて自沈させることにした[149]

全員が退去し終わった直後、主隊(足柄、妙高、雷、電)が接近してきて、航行不能の「ポープ」に砲撃を始めた[102]。六斉射目で遂に一弾が「ポープ」に命中。1530、「ポープ」は大爆発を起こすと僅か15秒で沈んでいった[138]。また妙高偵察機は、戦闘詳報とは違った光景を見た。艦隊型駆逐艦が航行不能になった「ポープ」に距離1000mまで接近し、魚雷3本を発射。全弾が外れ[150]、その日本軍駆逐艦はさらに2本を発射。ようやく1本が命中し、「ポープ」は爆沈したという[151]。漂流した「ポープ」乗員は3日後、1隻の日本駆逐艦に救助された。

3月1日昼戦における弾薬消耗数は20㎝砲(足柄、妙高)1171発、20㎝砲(那智、羽黒)288発、12.7㎝砲(足柄)14発、12.7㎝砲(雷)279発、魚雷(那智、羽黒、足柄、妙高)24本、魚雷(雷、山風、江風)11本[102]。主砲残弾は、「那智」主砲1門あたり7発(定数1門につき200発)・魚雷4本(定数24本)、「羽黒」主砲1門あたり19発・魚雷4本であった[102]

一方、オーストラリアに離脱を図った米駆逐艦4隻は、バリ海峡突破に成功していた[88]。3月1日午前二時ごろ、バリ海峡西岸スレスレを航行していた米駆逐艦隊は第21駆逐隊(子日若葉初霜)、測量艦「筑紫」に発見される[44]。第21駆逐隊は距離4,500で火蓋を切った。しかし、魚雷を持っていない米駆逐艦隊は戦闘するつもりは毛頭無かった。会敵した場合に備えて十分に缶圧を上げてあった米駆逐艦隊は、直ちに最大戦速に速度を上げると猛スピードで第21駆逐隊を振り切り、バリ海峡を突破したのである。そして全艦無事にポートダーウィンに入港した。

時系列[編集]

海戦前(2月25-27日)[編集]

  • 2月25日、連合国艦隊司令長官カレル・ドールマン少将は日本軍迎撃のため、艦隊を率いスラバヤを出航した。
  • 27日12:00頃、日本軍の偵察機がスラバヤ沖で連合軍艦隊を発見。日本軍はスラバヤへ向かった。
  • 27日午後、ドールマン少将は日本軍を発見できなかったためスラバヤに戻ることにした。
  • 27日16:00頃、ドールマン少将はバウエアン島に日本軍接近中との報を受け反転。

海戦経過(2月27-28日)[編集]

  • 27日
  • 14:05、那智水偵が連合軍艦隊発見。
  • 16:59、神通が敵艦のマストを発見。(第一次昼戦)
  • 17:45、16800mで神通砲撃開始。
  • 17:47、26000mで第五戦隊砲撃開始。
    • 連合軍も砲撃を開始。
  • 17:50、第二水雷戦隊はいったん退避。
  • 18:04、第四水雷戦隊は魚雷を発射。戦果無し。
    • 第五戦隊は遠距離からの砲撃を続けたため、損害を与えられず。
  • 18:22、羽黒魚雷発射。
  • 18:37、高木少将、全軍突撃を命令。
  • 18:38、エクセターに命中弾。速度低下、左へ変針。
    • 後続艦も変針命令が出たものと勘違いして変針。
  • 18:45、コルテノールに魚雷命中、沈没する。
    • 連合軍艦隊は戦場離脱。
  • 19:15、第五戦隊、連合軍を捕捉、砲撃開始。
    • 日本艦隊は魚雷を発射するも、一本も命中せず。
  • 19:40、連合軍も反撃し、朝雲に命中弾。
  • 19:50、日没
  • 19:54、エレクトラ沈没。
    • 両軍、夜戦準備に入る。
  • 20:55、連合軍は那智、羽黒を発見し攻撃開始。那智、羽黒は退避。(第一次夜戦)
    • エクセター、駆逐艦4隻はスラバヤへ退避。
  • 22:55、ジュピター、オランダ軍機雷により沈没。
  • 28日
  • 00:33、第五戦隊、連合軍巡洋艦4隻を発見。(第二次夜戦)
  • 00:50、12,000mで同航戦に入る。
  • 00:53、那智、羽黒魚雷発射。
  • 01:09、デ・ロイテル、ジャワに魚雷命中、沈没。司令官ドールマン少将が戦死。
    • ヒューストン、パースは離脱。

掃討戦[編集]

  • 3月1日
  • 11:30、第五戦隊はバウエアン島西方でエクセター以下の艦隊を発見。
  • 第五戦隊は弾薬不足のため、別働隊(重巡妙高、足柄)の到着を待つ。
  • 11:40、妙高、足柄が到着し、連合軍を挟撃。
  • 11:50、別働隊、24,000mで砲撃開始。
  • 12:25、第五戦隊、25,000mで砲撃開始。
  • 13:30、エクセターに魚雷命中、沈没。
  • 13:35、エンカウンター沈没。
  • 15:20、ポープはスコールに逃げ込むも、日本軍航空隊(龍驤艦載機等)の攻撃により航行不能となる。
  • 15:40、足柄、妙高の砲撃によりポープ沈没。

評価[編集]

この海戦の大きな特徴としては第一次昼戦から「ポープ」の沈没まで、46時間という長時間に及ぶ戦いとなったことであろう。この間に主要な戦闘は5つ行われているが、太平洋戦争の中で、これだけ長時間の海戦になったのは数えるほどしかない。しかも、対戦した艦艇数から考えると異常ともいえる長さであった。これは、戦力に勝る日本軍がアウトレンジ戦法に固執したため、砲や魚雷の命中率が極端に低下し、致命傷を与えるのに時間がかかったことが主な要因といえる[152]。日本軍艦船の命中率の低さは驚くべきものがあり、例えば第五戦隊の重巡「那智」「羽黒」は主砲弾を1艦あたり定数2000発(200発/門)、魚雷を24本搭載していたが、戦闘終了時の残弾数は「那智」70発・4本、「羽黒」190発・4本とほぼ全弾撃ち尽くしている[153]。これに対して第五戦隊が与えた有効弾と判断されるのは、「デ・ロイテル」、「ジャバ」、「コルテノール」を撃沈した魚雷1本と、「ヒューストン」に命中した2発(2発とも不発)、「デ・ロイテル」に命中した1発(不発)、「エクセター」の缶室に命中した1発程度である。連合艦隊司令部が3月22日におこなった調査によれば、魚雷121本を発射して駆逐艦1隻に1本命中であった[152]。「エクセター」追撃戦(3月1日昼戦)に参加した「妙高、足柄」も、この海戦のみの参加でたった3隻(エクセター、エンカウンター、ポープ)を撃沈するだけのために1171発もの砲弾を消費している。艦隊全艦で188本の発射のうち命中したものは僅か4本、命中率2%強という酷いものであった。この戦訓は後に活かされ、1万m以上での魚雷発射は以降の海戦では殆ど見られなくなる。だがレイテ沖海戦におけるサマール沖海戦では、軽巡洋艦「矢矧」(第十戦隊)と同艦に従う第17駆逐隊(浦風、雪風、磯風、野分)が米護衛空母群に遠距離雷撃を実施し、27本発射して1本も命中しなかった。

本海戦における第五戦隊砲術参謀だった末國正雄中佐は戦史叢書に『海戦が終わって考えてみると、演習のときは全軍突撃せよで一応の襲撃行動が終われば演習終結になるのがふつうでありその後の訓練はあまり行なっていなかった。襲撃後の訓練も十分に行なっておかないと、実戦の場合は平常の訓練より力は出ないものであり、敵を撃滅することは困難なものであることを痛感した。』と回想している[77]。 また、このような戦いとなる指揮を取った、高木少将、二水戦の田中少将の戦術指揮は敢闘精神が足りない等と厳しい批判を受けることとなった。宇垣纏連合艦隊参謀長は以下のように評価している[152]

重巡として二萬五六千米の遠距離砲戦を一時間継続し、主砲弾の殆ど全部を使用し盡し、而も敵巡洋艦撃滅の目的を達せず、魚雷亦一二一本を發射し漸く驅逐艦一隻に一本命中せるのみと云ふ。蓋し護衛中の輸送船團籔十隻近在し、優勢なる敵に遭遇せし事とて、勢力保全遠戦主義を取りたりと云ふも何れも初陣の拙劣さを物語るものと謂ふべし。

宇垣纒、戦藻録(昭和十七年三月廿二日)

一方で、ドールマン少将の最期まで攻撃態勢を取り続けた敢闘精神に対しては称賛する評価もある。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は後年、スラバヤ沖海戦におけるABDA艦隊について以下のように評価した。

ABDA部隊は時をかせぐために使用されたが、この部隊はその犠牲に相当する効果をほとんどあげることができなかった。しかし、逆境にあってこそ、人間の、いな海軍の真価というものは、はじめて明らかにされるものである。米国海軍の歴史において、圧倒的に優勢な日本艦隊と取り組んだアジア艦隊の行為ほど、立派なものはない。

C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』40ページ

いずれにせよ、この海戦によりジャワ近海における連合軍艦船はほぼ壊滅した。また本海戦に於ける3月1日昼戦直前にバタビア沖で生起したバタビア沖海戦により、第二次夜戦で戦場離脱した巡洋艦「ヒューストン」、「パース」は既に撃沈されており、駆逐艦「エヴァンツェン」も座礁して放棄された(前述)。2月27日に自沈した水上機母艦「ラングレイ」の乗組員を救助して戦場を離脱しようとしていた駆逐艦「エドサル」「ホイップル」、油槽艦「ペコス」は、近藤信竹中将の指揮下で行動していた南雲忠一中将の機動部隊に襲われ、「エドサル」は戦艦「比叡」に、「ペコス」は空母「加賀」「蒼龍」艦載機の攻撃で撃沈され、「ホイップル」は幸運にも脱出に成功した[154]。これによって連合軍艦船は全てジャワ近海から消えることとなり、ジャワ島近海の制海権が完全に日本側に移った。日本軍の上陸作戦はほぼ無傷で行われ、また補給を絶たれた連合軍のオランダ領東インドの維持はほぼ不可能となり、日本軍のジャワ島攻略作戦は3月上旬で完了した[88][155]

露見した問題[編集]

この海戦で「妙高」と「足柄」が秘密兵器と言われた酸素魚雷を発射したが、全弾が発射直後に水面から飛び出したりしてまともに進まず、さらに「那智」と「羽黒」が発射した魚雷は自爆も発生して、一本も命中しないという事態が発生した。この事態に対して、戦闘終了後に詳細な調査が行われた[156]。早爆の最大要因は、爆発尖(魚雷の先端にあり、衝撃で撃針を作動させ火薬を爆発させる装置)が規格はずれの軽い力で働くよう現場(艦の水雷科兵員)で調整されており、このため敵艦に命中する以前に波浪の衝撃で爆発したのである[156]。竹大部員は『帝国海軍軍人の「大和魂」が自爆を起こした主な要因であった。泣いてよいのやら感激してよいのやら、自分にはいまだ分らない』と述べている[156]。九三式魚雷の権威・大八木静雄技術少将も、『爆発尖の感度調整器を各艦に供給したのは、千載の痛恨事である』と回想した[156]。 その他の原因として、開発実験から訓練にいたるまで今まで、艦の速度が30ノットを超える速度での発射を行ったことが無かったため、想定外の34ノットでの魚雷発射を行った結果、水中突入時の蛇行が大きくなりすぎて正常に機能しなかったためであった。もう一つの原因として深度調定(深度設定)を駆逐艦への命中に備えて4メートルと浅くしたことが上げられている。

また、酸素魚雷の自爆は1942年11月14日の第三次ソロモン海戦(夜戦)でも繰り返された。高雄型重巡洋艦愛宕高雄」が発射した酸素魚雷がノースカロライナ級戦艦ワシントン」の艦首波で自爆したのである。サウスダコタ級戦艦「サウスダコタ」も雷撃を受けたが、こちらも1本も命中していない。

敵兵救助作業[編集]

2月27-28日第二次夜戦で第五戦隊(那智、羽黒)は蘭軍巡洋艦「デ・ロイテル、ジャワ」を撃沈した。2番艦「羽黒」は1番艦「那智」より『溺者あり救助を乞う』との信号があり救助に向かったところ、それは蘭軍巡洋艦の乗組員だった[157]。『全員救助すべし』の下令により「羽黒」は約20名を収容、士官達は参謀予備室に収容された[157]

2月28日、第二水雷戦隊・第四水雷戦隊に拘束されたオランダ病院船「オプテンノール」は、前日の戦闘で沈没した「デ・ロイテル、ジャワ」生存者救助におもむこうとしたが、『生存者は日本海軍によって救助されるはずだ』として拒否された[81]。バウエアン島北方海域に仮泊するよう命じられたが、それを無視してオーストラリアへ向けて航行を開始したところ、日本軍水上偵察機に警告射撃されて移動を諦めた[81]

3月1日午前2時、第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)は哨戒中に軽巡洋艦「ジャワ」の生存者を発見、37名が「江風」に収容された[158]

3月1日昼間の戦闘後、第三艦隊司令長官高橋伊望中将は、艦隊に海上を漂流中の連合国軍将兵の救助活動を命じ、駆逐艦三隻が救助にあたった[159]。「山風」は「エクセター」生存者67名を救助[160]、約100名の捕虜を抱えた第五戦隊は第二艦隊・第三艦隊に指示を仰いだ[161]

しかし、捕虜の扱いは各艦で異なる。「那智」での捕虜の扱いは冷淡で、副長の市川重中佐は次のように証言している。「甲板士官が、救助した敵兵7名の処遇に困り、夜間、海に突き落としたいと言って何度も自分のもとを訪れた。」 加えて、第五水雷戦隊(バタビア方面西部ジャワ攻略部隊護衛隊)は、先任参謀由川周吉中佐が「敵兵救助に関する指示は、作戦行動指示に忙殺されて出していない」と記述している。 一方、南方作戦全般を指揮した第二艦隊司令部(司令長官近藤信竹中将)は、ジャワ島南方洋上の重巡「愛宕」艦上にあったが、これも全軍に対し、「敵兵救助」の命令を発した形跡は全く残っていない。高橋中将の第三艦隊は、第五戦隊および第二水雷戦隊に対し、捕虜を駆逐艦にまとめマカッサルに移送するよう下令した[162]。「山風」は「江風」達と分離してマカッサルへ向かった[163]

この点「電」「雷」は、英国滞在歴があり親英的な感覚を持っていた高橋中将の直属かつ、単艦行動中だった幸運が重なり、艦長の決断と個性が遺憾なく発揮された。 「電」に乗艦していた岡田氏の回想によると「『サンキュウ』と、蒼白な顔の中にも救助された喜びの笑みをたたえ、敬礼して甲板に上がってくる敵兵、激しい戦闘によって大怪我をしている者、シャツは着ていてもパンツのない者等服装もまちまちだ。ズボン、靴下等彼らが身につけているのは純毛だった。『持てる国イギリス』の感を強くした。」となっている[164]

午後2時過ぎ、駆逐艦「曙」が漂流するフォール卿らを発見したが、砲を向けたのみで去った[165]。駆逐艦「天津風」は病院船「オプテンノール」をバンジェルマシンに護送するため単艦行動中だったが、バウエアン島北西部で「エクセター」生存者らしき連合軍将兵漂流者多数を発見、『別に救助船がくる』と英語で知らせ、同時に第二水雷戦隊司令部に救助を依頼すると、その場を去った[100]。この後、「天津風」は「オプテンノール」をバンジェルマシンへ連行した[81]。「オプテンノール」は同地(3月9日以降マカッサル)で捕虜収容船となってしまい、同船船長は日本軍に「病院船に捕虜を送り込まないでくれ」と抗議している[81]

午後10時頃、「雷」は漂流していたフォール卿らを発見すると、潜水艦による攻撃といった様々な危険を承知で救助作業に入った。 漂流する英国兵は、重傷者の後に「エクセタ-」「エンカウンター」両艦長が上がり、その後、「雷」に殺到して一時パニックに陥ったが、ライフジャケットを付けた英国青年士官が号令をかけると整然となった。この青年士官は、独力で上がれない者には、「雷」が差し出したロープをたぐり寄せて身体に巻きつけ、そして「引け」の合図を送り、多くの者を救助していた。 「雷」艦長伝令だった佐々木氏は「流石イギリス海軍士官」と思ったといい、次のように回想している。「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクセター』副長(安全確認のため、艦長よりも先に上がったと思われる)、次に『エクセター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、下士官兵、殿が青年士官という順でした。」「当初『雷』は自力で動ける者を先に上げ、重傷者は後回しにしようとしたのですが、彼らは頑として応じませんでした。その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、これと対照的な情景を目にしました。」[166]

同艦航海長であった長谷川氏は「何人も舷梯近くまで来ながら次々と沈んでいった。気力、体力の限界だったのだろう」と回想している。 勝又氏の回想によるとペットのサルを抱いて甲板に上がってきた者がいた。谷川氏は「主計長らしき人物が持ってきた札を丁寧に甲板に並べて乾燥させようとしていたのが心に残っている」と回想している[167]。 「雷」に救助された英国兵達は暖かいもてなしを受けた。佐々木氏は「我々は自分達すら貴重この上ない物としている真水や乾パンも、彼らに配給した。彼らはしかし、必要なだけ乾パンを取ると次々と箱をまわし、残ったのをそのままこちらに返してよこした。英国は紳士の国と聞くが、まさしくその通り、我々なら先を争って1個でも余分に掠め取ろうとする根性を丸出しにする場面なのに、まったく整然とした行為だった。これには我々は感嘆した。」と回想し、さらに、主砲塔旋回時に危険なため、立ち入り禁止のロープをはろうとした際、佐々木氏が言った拙い英語を理解した者たちが手伝ってくれたという[168]。 英国兵達がライフジャケット等を着用しているのを見て日本兵は大変驚いた(日本駆逐艦には4つほどしか救命胴衣は用意されていない)[169]。日も暮れ始める頃にはすっかり両軍の兵士達は打ち解け合ってしまっており、私物の物々交換等が盛んとなり、「艦内軍紀を厳守せよ」との指示が出されたほどである[170]。 「雷」の工藤艦長は佐々木氏に対し「おい伝令、もしも彼らに反乱を起こされたら命取りになるなあ。背は高いし、力は強い、どこを壊されても大変だなあ!」と得意のブラック・ジョークを語っていた。 「エンカウンター」の将兵を救助した駆逐艦「雷」の工藤少佐/艦長は、英語で「諸君は果敢に戦われた。今、諸君は大日本帝国海軍の大切な賓客である。私は英国海軍を尊敬するが、日本に戦いを挑む貴国政府は実におろかである」と挨拶している[171]。「雷」での待遇は良かったが、その後の東南アジアでの捕虜生活は「まあまあ」であったという[172]。 「雷」の乗組員は、日露戦争蔚山沖海戦ロシア海軍装甲巡洋艦リューリク」乗組員を救助した上村彦之丞中将の気分だったと回想している[173]

3月2日、潜水艦との戦闘後に海戦海域に戻った艦隊は、再度高橋中将の命令により救助活動を実施した。2回目の救助活動では「妙高、足柄」他の艦も漂流者を収容している。『望遠鏡で見ると、どの味方僚艦の後甲板も、救助した捕虜が山積みされ、いまにもこぼれ落ちそうであった。』。その後、海上に漂流者多数を残して参謀長命により救助活動は中止された。救助中止は無電によるものと、「足柄」射撃盤員の石井勝は推測している[174]

3月3日午前6時半に浮上した連合国潜水艦へ「足柄」が高角砲射撃を行い、潜水艦乗員たちは海に飛び込んだ。このときは駆逐艦「潮」が救助している[175]。同日、捕虜100名を乗せた「山風」はマカッサルに到着した[176]

3月5日セレベス島マカッサルに入港した艦隊は、捕虜を陸軍捕虜収容所のトラックへ引き渡している。港内で「足柄」の隣だったオランダ病院船「オプテンノール」の看護婦たちは甲板上の捕虜たちと手を振り合っていた[177]

損害[編集]

日本軍艦艇[編集]

  • 大破
    • 駆逐艦:朝雲

連合国軍艦艇[編集]

  • 沈没
    • 重巡/エクセター(英)
    • 軽巡/デ・ロイテル(蘭)、ジャワ(蘭)
    • 駆逐艦/コルテノール(蘭)、エレクトラ(英)、ジュピター(英)、駆逐艦エンカウンター(英)、ポープ(米)
  • 小破
    • 重巡/ヒューストン(米)

脚注[編集]

  1. ^ #戦藻録(1968)88-89頁
  2. ^ #ニミッツの太平洋海戦史pp.31-32『日本軍、蘭印に進撃す』
  3. ^ a b c d e #戦史叢書26pp.441-444『東部ジャワ攻略船団の進航』
  4. ^ a b #戦史叢書26pp.440-441『第四航空戦隊の進出、間に合わず』
  5. ^ #連合国艦隊壊滅すp.141
  6. ^ #連合国艦隊壊滅すp.152
  7. ^ #連合国艦隊壊滅すp.153
  8. ^ a b #ニミッツの太平洋海戦史pp.35-36
  9. ^ #連合国艦隊壊滅すp.148
  10. ^ #連合国艦隊壊滅すp.175
  11. ^ #戦史叢書26p.482
  12. ^ #連合国艦隊壊滅すp.173
  13. ^ a b c d e f g #ニミッツの太平洋海戦史pp.36-39『ジャヴァ海海戦』
  14. ^ #連合国艦隊壊滅す178頁
  15. ^ #戦史叢書26pp.446-447『第二空襲部隊、東部ジャワをほぼ制圧』
  16. ^ #連合国艦隊壊滅すp.185
  17. ^ #連合国艦隊壊滅すp.186
  18. ^ #連合国艦隊壊滅すp.193
  19. ^ #連合国艦隊壊滅すpp.196-197
  20. ^ a b c #戦史叢書26pp.448『敵有力水上部隊出現(二月二十七日)』
  21. ^ #連合国艦隊壊滅すpp.188-189
  22. ^ a b #戦史叢書26p.449
  23. ^ #巡洋艦戦記p.119
  24. ^ #連合国艦隊壊滅すp.199
  25. ^ a b c d #戦史叢書26p.450
  26. ^ a b c #戦史叢書26p.451『第一次昼戦(自一七五〇至一八五〇』
  27. ^ #連合国艦隊壊滅すp.203
  28. ^ #連合国艦隊壊滅すp.204
  29. ^ a b c d #戦史叢書26付図第五『スラバヤ沖海戦(昭和十七年二月二十七日)第一次昼戦(1725~1850)合戦図』
  30. ^ #連合国艦隊壊滅すp.206
  31. ^ #連合国艦隊壊滅すp.207
  32. ^ a b c d e f #戦史叢書26p.452
  33. ^ a b #連合国艦隊壊滅すp.208
  34. ^ #巡洋艦戦記pp.125-126
  35. ^ #波濤と流雲と青春とp.188
  36. ^ #外交官回想p.68
  37. ^ a b #連合国艦隊壊滅すp.211
  38. ^ a b #生涯海軍士官38頁
  39. ^ a b c d #生涯海軍士官40頁
  40. ^ #5戦隊日誌(1)pp.30-31
  41. ^ #五月雨p.71
  42. ^ a b c d e #戦史叢書26p.453
  43. ^ #連合国艦隊壊滅すpp.212,214
  44. ^ a b c d e f g h #戦史叢書26pp.478-479『連合軍側の状況』
  45. ^ #連合国艦隊壊滅すp.217
  46. ^ #連合国艦隊壊滅すp.217
  47. ^ a b c #連合国艦隊壊滅すp.218
  48. ^ #外交官回想p.69。エンカウンターは900m離れた位置。
  49. ^ 敵兵を救助せよ!p231
  50. ^ #戦史叢書26付図第五『スラバヤ沖海戦(昭和十七年二月二十七日)第一次昼戦その一(1850~1920)合戦図』
  51. ^ a b c d e f g h i j #戦史叢書26p.454『第二次昼戦(自一八五〇至一九五〇)』
  52. ^ #連合国艦隊壊滅すp.216
  53. ^ #巡洋艦戦記p.140-141『猛進駆逐隊』
  54. ^ #連合国艦隊壊滅すp.219
  55. ^ #連合国艦隊壊滅すp.223
  56. ^ a b c #戦史叢書26付図第五『スラバヤ沖海戦(昭和十七年二月二十七日)第一次昼戦その二(1920~1950)合戦図』
  57. ^ #連合国艦隊壊滅すp.226
  58. ^ a b c d e #戦史叢書26p.455
  59. ^ #巡洋艦戦記p.134
  60. ^ a b c d e f #戦史叢書26p.456『第一次夜戦(自二〇五〇至二一一〇)』
  61. ^ #巡洋艦戦記p.144
  62. ^ #連合国艦隊壊滅すp.227
  63. ^ #連合国艦隊壊滅すp.231
  64. ^ #連合国艦隊壊滅すp.235
  65. ^ #巡洋艦戦記p.145
  66. ^ #波濤と流雲と青春とp.190
  67. ^ #連合国艦隊壊滅すp.236
  68. ^ #巡洋艦戦記p.146
  69. ^ #戦史叢書26付図第六『スラバヤ沖海戦(昭和十七年二月二十七日~同年三月一日)第一次夜戦(2050~2110)合戦図』
  70. ^ a b c d e f g h i j k #戦史叢書26p.457『第二次夜戦(自〇〇三〇至〇一〇〇)』
  71. ^ #連合国艦隊壊滅すp.237
  72. ^ #連合国艦隊壊滅すp.238
  73. ^ a b #連合国艦隊壊滅すp.239
  74. ^ a b #連合国艦隊壊滅すp.240
  75. ^ a b #戦史叢書26付図第六『スラバヤ沖海戦(昭和十七年二月二十七日~同年三月一日)第二次夜戦(0030~0100)合戦図』
  76. ^ #巡洋艦戦記pp.150-151
  77. ^ a b c d #戦史叢書26pp.458-459
  78. ^ #連合国艦隊壊滅すp.242
  79. ^ #連合国艦隊壊滅すp.243
  80. ^ #巡洋艦戦記p.153『長蛇を逸す』
  81. ^ a b c d e f g h #第二氷川丸の航跡pp.273-278『オランダ側資料で見るオプテンノール号事件』
  82. ^ a b c d e f #戦史叢書26pp.460-461『輸送船団クラガン入泊』
  83. ^ #5戦隊日誌(2)pp.22-23『2-28|(略)(4)1630頃蘭国病院船1隻上陸泊地附近ニ航行中ナルヲ認メ夕立之ヲ臨検次テ天津風之ヲ「バウエアン」島北方ニ抑留ス』
  84. ^ #第二氷川丸の航跡pp.52-60『オプテンノール号の謎めいた動き』
  85. ^ #4水雷戦闘詳報(2)p.23『(28日)1555村雨140度方向20粁ニ商船ラシキ檣ヲ認メ(蘭国病院船「オプテンノルト」)1635之ヲ臨検次イデ天津風ニ引渡ス』
  86. ^ #連合国艦隊壊滅すp.244
  87. ^ #外交官回想p.69
  88. ^ a b c d #ニミッツの太平洋海戦史pp.39-40『ジャヴァから退却』
  89. ^ a b #外交官回想p.70
  90. ^ #連合国艦隊壊滅すp.245
  91. ^ #撃沈戦記pp.129-130『スラバヤを脱出』
  92. ^ #連合国艦隊壊滅すp.246
  93. ^ a b #撃沈戦記pp.130-131『有力部隊に挟撃される』
  94. ^ #外交官回想p.71
  95. ^ #5戦隊日誌(1)p.16
  96. ^ #奇蹟の海からp.138
  97. ^ #5戦隊日誌(1)p.18
  98. ^ #5戦隊日誌(1)p.19
  99. ^ #大高海戦記p.196
  100. ^ a b #第二氷川丸の航跡p.61
  101. ^ #5戦隊日誌(1)pp.22,54
  102. ^ a b c d e #戦史叢書26p.461『残存敵艦隊を撃滅』
  103. ^ #巡洋艦戦記pp.157-159『"牛刀"来援す』
  104. ^ #5戦隊日誌(1)p.22
  105. ^ a b c d e #戦史叢書26付図第六『スラバヤ沖海戦(昭和十七年二月二十七日~同年三月一日)三月一日昼戦(1100~1340)合戦図』
  106. ^ #大高海戦記p.199
  107. ^ #連合国艦隊壊滅すp.252
  108. ^ #5戦隊日誌(1)p.57『敵ハ艦首方向ニ発砲中トスルヲ認ム』
  109. ^ #2水雷日誌(2)p.12、#5戦隊日誌(1)pp.22,58「敵ノ前方ニ味方d×1、砲戦中1140」
  110. ^ #5戦隊日誌(1)pp.22,59「敵ヲ我ニ誘致セヨ1145」、#2水雷日誌(2)p.12、#大高海戦記p.201
  111. ^ #外交官回想p.72
  112. ^ #大高海戦記p.202
  113. ^ a b #外交官回想p.73
  114. ^ #安永索敵機p.122
  115. ^ #安永索敵機p.123、#大高海戦記p.204
  116. ^ #戦史叢書26pp.462-463
  117. ^ #5戦隊日誌(1)p.61「煤煙のため敵を見失う」
  118. ^ #安永索敵機pp.122-123
  119. ^ a b c #撃沈戦記pp.132-135『咆哮する二〇センチ砲』
  120. ^ #外交官回想p.74、#2水雷日誌(2)p.13「我スコールにて射撃中止中」
  121. ^ #外交官回想p.74
  122. ^ 敵兵を救助せよ!p235
  123. ^ #5戦隊日誌(1)pp.23,63「砲撃開始(24500m)」
  124. ^ #5戦隊日誌(1)p.23
  125. ^ a b c #5戦隊日誌(1)p.24
  126. ^ #5戦隊日誌(1)p.64『1237:山風、江風、敵駆逐艦ニ対シ砲戦開始(註)コノ報告以前ニ既ニ砲戦ヲ開始シアリ』
  127. ^ #5戦隊日誌(1)p.64「敵駆逐艦面舵変針近づく(註)後刻判明、敵駆は舵機故障等のため自然と我方に向首せるものの如し」
  128. ^ #外交官回想p.76、フォール中尉談。
  129. ^ #2水雷日誌(2)p.13
  130. ^ #5戦隊日誌(1)pp.24,66
  131. ^ #5戦隊日誌(1)pp.30-31
  132. ^ 敵兵を救助せよ!p236
  133. ^ #連合国艦隊壊滅すp.253、#5戦隊日誌(1)p.67『敵巡ハ火災ヲ発生セリ』
  134. ^ #5戦隊日誌(1)p.25
  135. ^ #奇蹟の海からp.143
  136. ^ #敵兵救助pp.238,246、#安永索敵機p.125
  137. ^ #5戦隊日誌(1)p.67「1257:足柄、妙高砲戦開始」
  138. ^ a b c #5戦隊日誌(1)p.26
  139. ^ #安永索敵機pp.125-156
  140. ^ HMS Exeter Final Days
  141. ^ 「写真週報215号」p.10
  142. ^ #5戦隊日誌(1)p.68『主砲、高角砲ヲ以ッテ敵駆逐艦ヲ砲撃ス』
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  145. ^ #奇蹟の海からp.144、#5戦隊日誌(1)p.72
  146. ^ #連合国艦隊壊滅すp.254
  147. ^ #龍驤飛行隊調書(2)pp.24-25
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  149. ^ #連合国艦隊壊滅すp.253
  150. ^ #安永索敵機p.129
  151. ^ #安永索敵機p.130
  152. ^ a b c #戦藻録(1968)96頁
  153. ^ #5戦隊日誌(1)p.29
  154. ^ #連合国艦隊壊滅すpp.255-256
  155. ^ #戦藻録(1968)92頁
  156. ^ a b c d #戦史叢書26pp.470-471『艦政本部魚雷担当部員竹大孝志大佐(当時中佐)談』
  157. ^ a b #波濤と流雲と青春とp.191
  158. ^ #5戦隊日誌(2)p.31『3-1|(1)支援隊「クラガン」北方哨戒中(28日夜戦ニテ敵艦沈没位置附近海面)0020頃漂流救助ヲ求ムルモノアリ江風ヲシテ之ヲ救助セシメタルニ蘭巡「ジャバ」乗員ニシテ37名アリ全部江風ニ救助収容ス』
  159. ^ #『わが愛する重巡「足柄」青春海戦記~栄光の旗艦のもとに生きた四年間の艦隊勤務裏話』(リバイバル戦記コレクション6~証言・昭和の戦争)p.234-239
  160. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.30『尚山風ヲシテ敵駆(H10)[(註)後日山風ノ捕虜トセシハ「エクセター」乗員ニシテ5S指令ノH10ノ乗員ナラザリシコト判明セリ]ノ乗員67名(内士官6)ヲ捕虜トセシメタリ』
  161. ^ #5戦隊日誌(2)p.31『3-1|(3)1453蘭印部隊指揮官ヨリ「ケンタリ」ニ回航スベク下令セラル山風江風燃料残額ノ関係上「バンジャルマシン」経由ノコトトシ戦場ヲ引揚ゲ捕虜ノ処理ニ関シ左ノ通指令ヲ仰グ 3月1日1840(5Sキデ756)発5S司令官宛2F3F参謀長受報大海三部長軍務局長GF参謀長 当隊「ケンダリ」回航中ナル処3月1日収容ノ「ジャバ」乗員三七3月1日午後ノ戦斗直後救助セル英駆H10ノ乗員六七名ノ俘虜ノ処理ニ関シ至急指示ヲ得度』
  162. ^ #5戦隊日誌(2)pp.33-34『3-2|(略)俘虜ノ処理ニ関スル発受報左ノ通 3月2日0800(3Fキデ582)発3F参謀長宛5S2sd司令官 5S機密第760番電関聯 捕虜ハ駆逐艦1隻ニ収容ノ上「マカツサル」佐聯特陸ニ之ヲ引渡シ同艦ハ「マカツサル」又ハ「バンジャルマシン」ニ於テ補給終了後原隊ニ復帰セシメラル』
  163. ^ #S1703五戦隊日誌(2)p.35『3-3|5S(妙高欠)江風「セレベス」島南方経由「スターリング」湾ニ航行 山風「マカツサル」着収容中ノ俘虜ヲ佐聯特ニ引渡シ同日出港「バンジャルマシン」ニ向フ』
  164. ^ 敵兵を救助せよ!p247
  165. ^ 敵兵を救助せよ!p249
  166. ^ 敵兵を救助せよ!p262
  167. ^ 敵兵を救助せよ!p261
  168. ^ 敵兵を救助せよ!p262
  169. ^ 敵兵を救助せよ!p263
  170. ^ 敵兵を救助せよ!p265
  171. ^ #外交官回想p.82
  172. ^ #外交官回想p.97
  173. ^ #奇蹟の海からpp.144-145
  174. ^ #『わが愛する重巡「足柄」青春海戦記~栄光の旗艦のもとに生きた四年間の艦隊勤務裏話』(リバイバル戦記コレクション6~証言・昭和の戦争)p.234-239
  175. ^ #『わが愛する重巡「足柄」青春海戦記~栄光の旗艦のもとに生きた四年間の艦隊勤務裏話』(リバイバル戦記コレクション6~証言・昭和の戦争)p.234-239
  176. ^ #5戦隊日誌(2)p.35『3-3|5S(妙高欠)江風「セレベス」島南方経由「スターリング」湾ニ航行 山風「マカツサル」着収容中ノ俘虜ヲ佐聯特ニ引渡シ同日出港「バンジャルマシン」ニ向フ』
  177. ^ #『わが愛する重巡「足柄」青春海戦記~栄光の旗艦のもとに生きた四年間の艦隊勤務裏話』(リバイバル戦記コレクション6~証言・昭和の戦争)p.234-239

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A06031044500『週報 第283号』(昭和17年3月11日)「大東亜海の大殲滅戦」
    • Ref.A06031081000『写真週報 215号』(昭和17年4月8日)「独逸海軍の仇、エクゼターを屠る」
    • Ref.C08030043000 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030043100 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030094200 『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030094300 『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030110100 『昭和17年2月1日~昭和17年2月28日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030110200 『昭和17年2月1日~昭和17年2月28日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030110300 『昭和17年2月1日~昭和17年2月28日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030110600 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030110700 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030110800 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030110900 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030110000 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030110100 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(6)』。
    • Ref.C08030110200 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(7)』。
    • Ref.C08051585800 『昭和16年12月~昭和17年8月 龍驤飛行機隊戦闘行動調書(2)』。
  • 佐藤和正『太平洋海戦1 侵攻篇』ISBN 4-06-203741-6
  • チェスター・ニミッツ/E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳 『ニミッツの太平洋海戦史』 恒文社、1962年12月。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
  • D・A・トーマス著、関野英夫訳 『スラバヤ沖海戦 連合国艦隊壊滅す』 明光社、1968年7月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 五月会 『波濤と流雲と青春と 第二期二年現役海軍主計課士官 四十周年記念文集』 朝雲新聞社、1980年4月。
    • 大野健雄『巡洋艦羽黒奮戦記 拙著「なぜ天皇を尊敬するか」より抜粋
  • 橋本衛 『奇蹟の海から 特型駆逐艦水兵物語』 光人社、1984年3月。ISBN 4-7698-0230-7 橋本は「雷」射撃発令所配置。
  • 須藤幸助 『駆逐艦五月雨』 朝日ソノラマ文庫、1988年ISBN 4-257-17097-2
  • 永井喜之・木俣滋郎 「第2部 第二次大戦/日本編 3章 イギリス重巡洋艦「エクゼター」」『新戦史シリーズ 撃沈戦記』 朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8
  • 安永弘 『死闘の水偵隊』 朝日ソノラマ文庫、1994年 著者は「妙高」偵察機操縦者として戦況を観測・報告した。
    • 安永弘 『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』 光人社、2002年 朝日ソノラマ文庫の改訂
  • 駆逐艦雪風手記編集委員会 『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』 駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。
  • 三神國隆 「第1章 スラバヤ沖海戦とオプテンノール号」『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』 光人社NF文庫、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2
  • 惠隆之介 『敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』 草思社2006年ISBN 4794214995
  • サム・フォール著、中山理訳 『ありがとう武士道 第二次大戦中、日本海軍駆逐艦に命を救われた英国外交官の回想麗澤大学出版会2009年ISBN 978-4-89205-581-2 フォールは当時英国海軍中尉、「エンカウンター」乗艦。外交官時代回想が主題。
  • 中村悌次 『生涯海軍士官 戦後日本と海上自衛隊』 中央公論社、2009年ISBN 978-4-12-004006-1 「夕立」水雷長。
  • 大高勇治 『第七駆逐隊海戦記 生粋の駆逐艦乗りたちの戦い』 光人社NF文庫、2010年ISBN 978-4-7698-2646-0
  • 「丸」編集部編 「萱嶋浩一 重巡「那智」神技の砲雷戦を語れ」『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』 光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 萱嶋は海軍大尉、那智主砲発令所長。

関連項目[編集]