筑紫 (測量艦)

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筑紫
艦歴
計画 1937年度(マル3計画
起工 1940年1月17日
進水 1940年11月29日
就役 1941年12月17日竣工
喪失 1943年11月4日戦没
除籍 1944年1月5日
性能諸元(計画)
排水量 基準:1,400トン
全長 84.00m
垂線間長:79.30m
全幅 10.60m
吃水 3.65m[1]
機関 マン式3号10型ディーゼル3基
3軸 5,700馬力
速力 19.7ノット
航続距離 16ノットで8,000海里
燃料 重油 255トン
乗員 固有乗員128名
水路部員65名
兵装 12cm高角砲 連装2基4門
25mm機銃 連装2基4挺
航空機 十二試水上偵察機1機
その他 10m測量艇4艇
測量機材30トン

筑紫(つくし)は日本海軍測量艦1943年カビエン沖で触雷沈没。

艦名は初代「筑紫」の襲用。

概要[編集]

1937年(昭和12年)度のマル3計画において日本海軍初の測量専門の艦として計画された。1942年(昭和17年)度に改型艦1隻が計画されたが戦局悪化により建造取り止めとなったので、当初から測量艦として計画された唯一の艦となった。敷設艦勝力」をタイプシップとし[2]、前線での単独強行測量を想定して海防艦に準じた兵装を搭載している。また艦型も海防艦などの小型艦艇に近い形状となった。測量設備としては30トンの測量機材の他、本艦の入れない場所の測量のために10メートル測量艇を4隻、航空測量英語版用に一二試水偵1機を搭載した。また艦内には製図室、測量作業室、気象・海象作業室なども設けられた。主機は測量艦として大きな航続力を求められるためディーゼルとなったが、大和型戦艦に利用予定だった主機を転用している[2]天龍型軽巡洋艦軽巡洋艦夕張」、敷設艦「厳島」などとともに[3]3軸艦としたのは、低速が必要な測量時には3軸のうち中央のみを使用するためである。公試運転時には振動が甚だしく、就役までに修正が施された[3]。小柄な艦型のところ、固有乗員の他に水路部員を乗せたため居住性は良くなかった[3]

艦歴[編集]

1941年(昭和16年)12月17日に三菱重工業横浜船渠で竣工し、横須賀鎮守府籍となる[4]。同日第三艦隊高橋伊望中将・海軍兵学校36期)付属となり、第一測量隊を乗せて12月20日に横須賀を出撃して12月25日にラモン湾英語版に到着し、同地の測量を開始した[5]。測量終了後、昭和17年1月1日にダバオに到着した[6]マナドケンダリの攻略戦に参加の後[6]マカッサル攻略戦では敷設艦「蒼鷹」などとともに第二梯団を編成して後方支援にあたった[7]。マカッサル攻略後は間髪入れずバリ島攻略に移り[8]蘭印作戦の総仕上げであるジャワ島攻略戦では第一根拠地部隊に加わって参加した[9]。この間、2月27日にスラバヤ沖海戦、2月28日夜半から3月1日にはバタビア沖海戦があり、カレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊は、両海戦を経てアメリカ駆逐艦4隻を残して壊滅していた。そのアメリカ駆逐艦、アルデン英語版 (USS Alden, DD-211) 、ジョン・D・エドワーズ英語版 (USS John D. Edwards, DD-216) 、ジョン・D・フォード英語版 (USS John D. Ford , DD-228) およびポール・ジョーンズ英語版 (USS Paul Jones, DD-230) はオーストラリア目指してバリ海峡を通過しようとした。3月1日早朝、第二一駆逐隊(駆逐艦「子日」「初霜」「若葉」)とともにバリ海峡で警戒にあたっていたところ、件の4隻を発見して交戦するも、最終的には振り切られた[10]。3月10日付で第二南遣艦隊(高橋伊望中将)付属となり、南方作戦が一段落したのちは、スラバヤダバオバリクパパンなど南方要所の測量に従事した[6]昭南(シンガポール)セレター軍港で修理の後[6]、9月7日に出港してバリクパパンを経由し[11]、10月1日にトラック諸島に到着した[12]。トラックに向かう途中の9月25日に第四艦隊井上成美中将・海兵37期)付属となった[6]

10月4日にトラックを出港して10月8日にタラワに到着[13]。タラワ在泊中の10月15日、アメリカ重巡洋艦ポートランド (USS Portland, CA-33) からの艦砲射撃を受ける[14]。ポートランドは防空巡洋艦ジュノー (USS Juneau, CL-52) を伴ってソロモン諸島の戦場に向かう途中、砲撃訓練のためタラワ、アベママ英語版マイアナの各環礁を砲撃[14]。タラワ砲撃のあとにはタラワに入港しつつあった特設巡洋艦浮島丸大阪商船、4,730トン)、特設給糧船日立丸(日産汽船、6,540トン)、駆逐艦夕凪」に対して砲撃を行った[14]。艦砲射撃による直接の被弾はなかったものの、内火艇1隻が至近弾で沈没した[15]。10月31日から11月2日まではジャルート環礁に停泊し[16]、11月6日には再びタラワに戻った[17]。12月からはブタリタリ、アベママ近海で行動した[18]1943年(昭和18年)3月12日にトラックに帰投する[19]。3月27日に横須賀に入港の後、横浜にて修理を行う[6]。5月20日、第八艦隊鮫島具重・海兵37期)付属となった[6]

修理後、6月6日にラバウルに進出[6]。7月9日付でラバウル方面防備部隊に編入された[20]。以後は同方面で測量や護衛、輸送任務に従事した[6]。9月に入り、中支那派遣軍中の第十七師団酒井康中将)をニューブリテン島へ移して連合軍に対抗させようとする構想が持ち上がる[21]。第十七師団を輸送するため丁二号輸送、丁三号輸送、丁四号輸送の計画が立てられ、大型の特設艦船や軽巡洋艦などが動員された[22]。丁四号輸送はさらに3つの輸送隊に分割され、そのうちの第二輸送隊は軽巡洋艦「那珂」、「五十鈴」、元特設巡洋艦清澄丸(大阪商船、8,613トン)、護国丸(大阪商船、10,438トン)、駆逐艦「山雲」で編成されていた[23]。第二輸送隊は10月21日に上海を出撃し、トラックを経てラバウルに向かう予定となっていた[24]。その途中の11月3日、第二輸送隊はカビエン近海で「B-24」の爆撃を受け、清澄丸が至近弾によって航行不能となった[25]。清澄丸は「五十鈴」に曳航されてカビエンに到着し[26]、清澄丸搭載の物件や人員を他の艦艇に移す事となった[27]。これら物件の受け取りのために輸送船龍王山丸(鶴丸汽船、2,455トン)を連れてラバウルを出港し、カビエンに向かう[28]。しかし、カビエン入港間近の11月4日21時10分頃、エドマゴ(エトマゴー)島[29]付近で触雷して沈没[30]。同行の龍王山丸も間を置かず触雷し沈没した[30]1944年(昭和19年)1月5日に除籍。

歴代艦長[編集]

艤装員長[編集]

  1. 山高松次郎 大佐:1941年6月12日 - 12月17日[31]

特務艦長[編集]

  1. 山高松次郎 大佐:1941年12月17日 - 1943年1月19日[31]
  2. 上田泰彦 大佐:1943年1月19日[要出典] -

同型艦[編集]

1942年の改マル5計画において、同型艦である三保(仮称5418号艦)の建造が計画され、三菱重工業横浜船渠で建造が予定されていたが、1944年5月5日に建造取りやめとなった。

脚注[編集]

  1. ^ 『世界の艦船 増刊第47集』による。『昭和造船史 第1巻』によると吃水は3.60m。
  2. ^ a b 福井, 283ページ
  3. ^ a b c 福井, 236ページ
  4. ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030313600, pp.23
  5. ^ 『戦史叢書24』277ページ、『日本の軍艦13』47ページ
  6. ^ a b c d e f g h i 『日本の軍艦13』47ページ
  7. ^ 『戦史叢書26』260ページ
  8. ^ 『戦史叢書26』322ページ
  9. ^ 『戦史叢書26』398ページ
  10. ^ 『戦史叢書26』479ページ
  11. ^ 『第四艦隊戦時日誌』C08030018300, pp.42,43,44
  12. ^ 『第四艦隊戦時日誌』C08030018300, pp.48
  13. ^ 『第四艦隊戦時日誌』C08030018300, pp.48,49
  14. ^ a b c 『第六根拠地隊戦時日誌』C08030252100, pp.5 、『戦史叢書62』183、184ページ、木俣, 296ページ、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  15. ^ 『戦史叢書62』184ページ
  16. ^ 『第四艦隊戦時日誌』C08030018300, pp.50 、C08030018400, pp.3
  17. ^ 『第四艦隊戦時日誌』C08030018400, pp.3
  18. ^ 『第四艦隊戦時日誌』C08030018400, pp.9,10,11,16,17,18
  19. ^ 『第四艦隊戦時日誌』C08030018400, pp.23,24
  20. ^ 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.7
  21. ^ 木俣, 497ページ
  22. ^ 木俣, 496,497,499ページ
  23. ^ 『丁四号輸送部隊任務報告』C08030052500, pp.12,13
  24. ^ 『丁四号輸送部隊任務報告』C08030052500, pp.14,18
  25. ^ 『丁四号輸送部隊任務報告』C08030052500, pp.19,20
  26. ^ 『丁四号輸送部隊任務報告』C08030052500, pp.20
  27. ^ 『丁四号輸送部隊任務報告』C08030052500, pp.21,22
  28. ^ 『戦史叢書96』359ページ
  29. ^ ニューギニア島 ビスマルク諸島 カビエン” (日本語). 東北大学外邦図デジタルアーカイブ. 2011年6月11日閲覧。
  30. ^ a b 『丁四号輸送部隊任務報告』C08030052500, pp.23
  31. ^ a b 『日本海軍史』第10巻、548頁。

参考文献[編集]

  • 横須賀鎮守府司令部『自昭和十六年十二月一日至昭和十六年十二月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和16年12月1日~昭和16年12月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030313600
  • 第四艦隊司令部『自昭和十七年九月一日至昭和十七年九月三十日 第四艦隊戦時日誌』『自昭和十七年十月一日至昭和十七年十月三十一日 第四艦隊戦時日誌』(昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030018300
  • 第四艦隊司令部『自昭和十七年十一月一日至昭和十七年十一月三十日 第四艦隊戦時日誌』『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 第四艦隊戦時日誌』(昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030018400
  • 第六根拠地隊司令部『自昭和十七年十月一日至昭和十七年十月三十一日 第六根拠地隊戦時日誌』(昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第6根拠地隊戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030252100
  • 第八艦隊司令部『外南洋部隊戦闘詳報(第一九号) 自昭和十八年六月三十日至昭和十八年八月十五日作戦』(昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第88艦隊戦時日誌(8)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030023200
  • 第十四戦隊司令部『昭和十八年十一月十日 丁四号輸送部隊任務報告』(昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030052500
  • 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1970年
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
  • 雑誌「」編集部(編)『写真 日本の軍艦13 小艦艇 I 』光人社、1990年、ISBN 4-7698-0463-6
  • 世界の艦船 増刊第47集 日本海軍特務艦船史』海人社、1997年3月号増刊
  • 福井静夫『日本補助艦艇物語』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0658-2
  • 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』第3刷(原書房、1981年)ISBN 4-562-00302-2
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、2003年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目[編集]