初霜 (初春型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
InsertCaptionHere
艦歴
発注 マル1計画
起工 1933年1月31日
進水 1933年11月4日
就役 1934年9月27日
その後 1945年7月30日戦没
除籍 1945年9月30日
性能諸元(計画時)
排水量 基準:1,400t
公試:1,680t
全長 109.5m
全幅 10.0m
吃水 3.5m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 オール・ギアードタービン2基2軸 42,000hp
最大速 36.5ノット
兵員 205名
兵装 50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
40mm単装機銃 2基
61cm3連装魚雷発射管 3基9門
(八年式魚雷18本)

初霜(はつしも)は、大日本帝国海軍駆逐艦[1]一等駆逐艦初春型の4番艦である[2]。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「初霜」に続いて2隻目。

艦歴[編集]

1932年(昭和7年)12月1日、建造中の初春型駆逐艦3隻にそれぞれ「初霜」、「有明」、「夕暮」の艦名が与えられた[1]浦賀船渠1933年(昭和8年)1月31日に起工、同年11月4日に進水[3]。建造途中で同型艦「初春」の復元性能不良が判明し、改善工事を施して1934年(昭和9年)9月27日竣工した[3]

太平洋戦争開戦時には、第1水雷戦隊第21駆逐隊(初春、子日、若葉、初霜)に所属し、内海西部で対潜掃蕩に従事した。1942年(昭和17年)、ケンダリー攻略作戦、マカッサル攻略作戦、バリ島攻略作戦、アリューシャン作戦などに参加。同年7月5日、姉妹艦「子日」が米潜水艦の雷撃で沈没した。1943年(昭和18年)3月、アッツ島沖海戦に参加後、第5艦隊第1水雷戦隊に編入され、内地と千島間の船団護衛に従事。7月にキスカ島撤退作戦に加わり、7月26日、濃霧により「若葉」と触衝したが、行動に支障はなかった。幌筵で応急修理後、千島方面の船団護衛に従事した。

1944年(昭和19年)1月より空母「雲鷹」「千歳」「瑞鳳」「龍鳳」などの護衛に従事し、6月のマリアナ沖海戦に参加後、船団護衛の任務を実施した。10月には第1水雷戦隊の志摩艦隊に属し、台湾からマニラへの輸送任務に就き、マニラから志摩艦隊本隊へ合流するためスルー海を南下中の10月24日、米艦載機の攻撃を受け損傷した。沈没した僚艦「若葉」の生存者を「初春」とともに救助してマニラに送り届け、本隊を追って26日にブスアンガ島コロン泊地に入港した。第21駆逐隊は2隻(初春、初霜)となった。マニラ湾のカビテ軍港で修理した後、第二次多号作戦に参加。11月13日、空襲により「初春」が沈没。11月15日附で白露型駆逐艦時雨」が第21駆逐隊に編入された[4]。11月20日、第1水雷戦隊は解隊され、第21駆逐隊は第2水雷戦隊に所属することになった。その後、シンガポールに回航し、北号作戦に参加して「伊勢」「日向」を護衛して内地に帰投した。

1945年(昭和20年)1月24日、ヒ87船団を護衛していた「時雨」が沈没。2月10日、夕雲型駆逐艦朝霜」を第21駆逐隊に編入した[5]。3月10日、「時雨」の除籍と共に満潮型駆逐艦」を第21駆逐隊に編入する[6]。第21駆逐隊は「朝霜」「霞」「初霜」という編制で坊ノ岬沖海戦に参加した。

4月6日、第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵少将:旗艦「矢矧」)は戦艦「大和」(第二艦隊司令長官伊藤整一中将座乗)とともに沖縄水上特攻作戦に参加した。4月7日の戦闘で、各艦は「大和」を中心とした輪形陣を形成、「初霜」の配置は「大和」左舷斜め後方である[7]。激しい空襲により第21駆逐隊の司令駆逐艦「朝霜」が沈没し駆逐隊司令小滝久雄大佐以下総員戦死、僚艦「霞」は航行不能となる(乗員を冬月に収容後、自沈処理)[8]。第17駆逐隊からは「浜風」が轟沈した[9]。空襲の最中、通信機能を喪失した「大和」は「初霜」に通信代行を依頼した[10]。午後2時20分前後、「大和」は沈没、第41駆逐隊(冬月、涼月)の司令吉田正義大佐が残存艦の指揮をとる[11]。「初霜」の損害は軽傷者3名のみで、他に被害はなかった[12]。各艦は沈没艦の生存者救助を開始。「初霜」は午後3時前後から「浜風」生存者救助に従事、256名を救助した[13]。続いて「冬月」「雪風」「初霜」は沈没した二水戦旗艦「矢矧」の生存者の救助を開始、「初霜」は矢矧乗組員57名、「冬月」は同276名、「雪風」は同156名を救助した[14]。第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将も「初霜」に救助され[15]、そのまま「初霜」を第二水雷戦隊旗艦と定める[16]

古村司令官が「初霜」に将旗を掲げた頃、第17駆逐隊司令艦「磯風」は航行不能となっていた。12時32分の空襲開始から約10分後に「矢矧」は被雷、13時前には航行不能となっていた。「磯風」は古村司令官と第二水雷戦隊司令部移乗のため幾度も軽巡「矢矧」に接近を試みており[17]、13時56分に艦後部へ至近弾を受け[18]、機関部への浸水で動けなくなったのである。15時35分に「磯風」は「初霜」に対し速力12ノットを報告、帰路誘導を依頼していた[19]。17駆僚艦の「雪風」が「磯風」救援におもむき合流した。その後、「初霜」の古村司令官は「磯風」曳航許可を求める第17駆逐隊司令部に対し[20]、「磯風」の放棄と自沈を命令[21][22]。 翌日の再空襲や潜水艦の襲撃により、更に被害が増えることを避ける為とされる[23]。 22時40分、「初霜」からの下令に従い「雪風」は姉妹艦の「磯風」を砲撃処分した[24]。これにより陽炎型駆逐艦5隻(雪風、磯風、浜風、浦風谷風)が所属した第17駆逐隊は「雪風」1隻となった。また古村司令官は「初霜」より「冬月」に対し「涼月」の護衛を命じるが[25]、同時に『状況によっては涼月を処分しても差支なし』と下令していた[26]。だが「涼月」は「冬月」に遭遇せず、単艦で佐世保への航海を続けた。翌日、二水戦残存艦3隻(初霜、雪風、冬月)は佐世保に帰投した。なお、吉田満著『戦艦大和ノ最期』では「初霜」が「大和」の乗員の救助に当たったとされ、その際に『軍刀で生存者の手首を切った』という記述が存在する。戦闘詳報によれば「大和」の救助を行った艦は「雪風」と「冬月」である[27]。「初霜」は「浜風」乗組員救助中のため「大和」救助には従事しておらず、記述に矛盾が生じている。

4月20日、「初霜」艦上で解散式が行われ、第二水雷戦隊は解隊された[28]。同日附で「初霜」は第21駆逐隊から「磯風」「浜風」を喪失したばかりの第17駆逐隊に編入され、同隊は「雪風」「初霜」の2隻となった[29]。5月10日、第21駆逐隊は除籍された[30]。 6月に宮津湾で砲術学校練習艦となるが、7月30日に米機の攻撃を受け、対空戦闘中に触雷し大破。「初霜」は沈没を逃れるため海岸に強引に擱座し、終戦後解体されている。8月15日(終戦の日)、第17駆逐隊は解隊され、それに伴い「雪風」は第41駆逐隊へ転出した[31]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』296-298頁による。

艤装員長[編集]

  1. 松原博 少佐:1934年2月1日 -

艦長[編集]

  1. 松原博 少佐:1934年9月27日 - 11月15日
  2. 宮坂義登 少佐:1934年11月15日 - 1935年10月15日
  3. 山田雄二 少佐:1935年10月15日 - 1936年12月1日
  4. 鈴木正金 少佐:1936年12月1日 -
  5. 塚本守太郎 少佐:1937年12月1日 -
  6. 本倉正義 少佐:1939年10月15日 -
  7. 浜中脩一 少佐:1940年8月30日 -
  8. 古浜智 少佐:1941年9月10日 -
  9. 入戸野焉生 少佐:1942年11月27日 -
  10. 瀧川孝司 少佐:1943年11月1日 -
  11. 酒匂雅三 少佐:1944年8月25日 -

脚注[編集]

  1. ^ a b #達昭和7年12月(5)pp.6『達第百七十五號 艦艇製造費ヲ以テ昭和七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦三隻水雷艇二隻掃海艇二隻敷設艦二隻ニ左ノ通命名ス 昭和七年十二月十日 海軍大臣岡田啓介|驅逐艦 浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 初霜(ハツシモ)/株式會社川崎造船所ニ於テ建造 有明(アリアケ)/舞鶴要港工作部ニ於テ建造 夕暮(ユフグレ)|潜水艦 株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第六潜水艦/佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第七十潜水艦/株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第七十一潜水艦|水雷艇 舞鶴要港部工作部ニ於テ建造 友鶴(トモヅル)/株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 初雁(ハツカリ)|掃海艇 株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 第十五號掃海艇/三井物産株式會社造船部玉工場ニ於テ建造 第十六號掃海艇|敷設艇 横濱船渠株式會社ニ於テ建造 猿島(サルシマ)/株式會社播磨造船所ニ於テ検図 那沙美(ナサミ)』
  2. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『驅逐艦|一等|初春型|初春、子日、若葉、初霜、有明、夕暮』
  3. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『初霜|一等駆逐艦|(艦要目略)|浦賀船渠會社|8-1-31|8-11-4|9-9-27|(艦装備略)』
  4. ^ #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一駆逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  5. ^ #秘公報昭和20年2月(2)pp.20-21『内令第一一一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年二月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「桃、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「桑、」ヲ削ル』
  6. ^ #秘海軍公報昭和20年3月(2)p.15『内令第二二一號 駆逐隊編制中左ノ取改定セラル|昭和二十年三月十日海軍大臣|第七駆逐隊ノ項中「、霞」ヲ削ル|第二十一駆逐隊ノ項中「初霜、時雨、朝霜」ヲ「初霜、朝霜、霞」ニ改ム|第四十三駆逐隊ノ項中「梅、」ヲ削ル|第五十二駆逐隊ノ項チ中「樅、」ヲ削ル』
  7. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.24『0600|大隅海峡通過第三警戒航行序列ニ占位ス』
  8. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.47『1622|冬月霞ノ左舷ニ横付人員救助(准士官以上15名下士官兵273名)』
  9. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.38『1247|浜風被雷火災』-『1248|浜風船体切断沈没(30度47分北128度8分東)』
  10. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.40『1325|大和→初霜(信号)通信ヲ代行セヨ』
  11. ^ #S2004二水戦詳報(2)pp.42-43『1417|大和左舷ニ大傾斜《艦底露出》ノ後誘爆瞬時ニシテ沈没第二艦隊司令長官伊藤整一中将戦死一時41dg司令當面ノ部隊ノ指揮ヲ執ル』
  12. ^ #図説太平洋海戦史第3巻242-243頁『第二図本図(三)「大和」」部隊被害図』
  13. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.44『1450|初霜浜風生存者救助開始(准士官以上駆逐艦長以下12名下士官兵244名)』
  14. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.48『1700頃|初霜矢矧乗員救助開始(准士官以上7名下士官兵50名)』-『1720~1815|冬月雪風矢矧乗員救助 冬月(准士官以上22名下士官兵254名)/雪風(准士官以上13名下士官兵143名)』
  15. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.32『初霜|071724雪風|司令官救助セリ』
  16. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.48『1720|初霜二水戦司令官救助、二水戦旗艦ヲ初霜ニ変更1YBノ指揮ヲ継承ス』
  17. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.40『1300|磯風二水戦旗艦変更ノ為矢矧ニ近接《當時矢矧主隊ト離隔約20粁》』-『1328|磯風 矢矧ニ横付ヲ試ム』
  18. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.42『1356|磯風後部至近弾ニ依リ浸水速力低下』
  19. ^ #S2004二水戦詳報(2)pp.46-47『1535|磯風→初霜(信号)「長官如何」左片舷航行出シ得ル速力12節電源関係全部故障鹿児島湾口ニ向フ針路?誘導サレ度浜風乗員ハ救ヒ居ラズ』
  20. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33『071900(将旗)17dg|雪風初霜|我航行不能被曳航準備完成』
  21. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33『(将旗)初霜→071935雪風|雪風ハ磯風ニ横付ケ乗員ヲ容収セヨ』-『初霜→雪風072100/磯風ハ缶室ノ「コンアイ」弁ヲ開キ自沈セシメヨ』
  22. ^ #S2004二水戦詳報(2)pp.51-52『1915将旗17dg→将旗2sd(信号)/我被曳航準備完成雪風ヲシテ曳航セシメラレ度』-『1925 2sd→17dg/曳航速力何節ノ見込ナリヤ』-『17dg→2sd/9節ノ見込、傾斜十度ニ復原シアリ』-『1939情況判断 曳航開始ヲ2100トシテ安全海域迄十二時間ヲ要ス、敵KdBノ空襲ニ対シ安全ナラズ敵潜ノ顧慮更ニ大トナリ|2sd→17dg(信号)先ノ命令通退去セヨ』
  23. ^ #S2004二水戦詳報(2)pp.49-51『1902情況判断(略)(ハ)敵潜情報今朝附近ニ測定1隻、(ニ)沈没艦生存者全部救助セリ、(ホ)明日敵艦上機ノ来襲尚予期セザルベカラズ、(ヘ)安全海域迄100浬(佐世保迄160浬)、(ト)海軍戦備方針ニ徴シ損傷艦ノ修復ハ当面見込ナシ|二.判決 速ニ佐世保ニ帰投スルヲ可トシ今後尚被害ノ増大ハ極力避クルヲ要ス。磯風ハ乗員収容ノ上処分スルコトトス』
  24. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.53『2240 磯風、雪風ニテ砲撃処分沈没(30度46.5分128度92分東)』
  25. ^ #S2004二水戦詳報(3)p.25『七日1930初霜→冬月|凉月見ユルヤ』-『七日1945冬月→初霜|見エズ』-『七日1947初霜→冬月|凉月ヲ護衛シ至急佐世保ニ回航セヨ』
  26. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.52『1955|(将旗)2sd→冬月 状況ニ依リテハ涼月ヲ處分シテ差支ナシ』
  27. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.45『1445|冬月大和乗員救助(2F参謀長以下准士官以上8名下士官兵89名)/1450~1637|雪風同右(准士官以上12名下士官兵93名)』
  28. ^ #S1911第17駆日誌(9)pp.37-38『旭部隊本部191310→初霜雪風冬月凉月/20日ノ儀礼ヲ左ノ通リ定ム|一.1330メクカメ(駆逐艦長)以上初霜ニ参集伺候訓示|二.1330司令官退艦将旗ヲ撤去ス(使用短艇防備隊内火艇)|三.服装第三種軍装短剣、畧授|四.初霜ハ司令官退艦時総員見送ノ位置ニ就ク』-『201330将旗2sd→大臣、総長、GF、潮(11S)、31S、各鎮/本職将旗ヲ撤ス』
  29. ^ #内令昭和20年4月(3)p.33『内令第三三六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年四月二十日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「雪風」ノ下ニ「、初霜」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、」ヲ削ル』
  30. ^ #秘公報昭和20年5月(3)p.2『内令第四〇四號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月十日海軍大臣|第二十一駆逐隊ノ項ヲ削ル』
  31. ^ #秘海軍公報昭和20年8月(2)p.28『内令第七三四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年八月十五日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「夏月」ノ下ニ「、雪風」ヲ加フ』

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070095800 『昭和7年達完/12月(5)』。
    • Ref.C12070503600 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)』。
    • Ref.C12070503900 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/2月(2)』。
    • Ref.C12070504300 『昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報号外/3月(2)』。
    • Ref.C12070504700 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/4月(3)』。
    • Ref.C12070505000 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/5月(3)』。
    • Ref.C12070530000 『昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)』。
    • Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。
    • Ref.C13071974300 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C08030566400 『昭和20年4月6日〜昭和20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報』。
    • Ref.C08030147700 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(8)』。
    • Ref.C08030147800 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。
    • Ref.C08030103000 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030103100 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030103200 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
  • 古村啓蔵回想録刊行会編 『海の武将-古村啓蔵回想録』 原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1
  • 外山三郎 『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2
  • 井上理二 『駆逐艦磯風と三人の特年兵』 光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2C0095。
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 墨田区の山田記念病院に初霜の錨が保存・展示されている。当時「初霜」の軍医だった病院創立者の山田正明が、解体後に引き取ったものである。