神川丸 (特設水上機母艦)

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KamikawaMaru.JPG
船歴
起工 1936年8月5日[1]
進水 1936年12月13日[2]
竣工 1937年3月15日[2]
その後 1943年5月29日沈没
主要目
総トン数 6,853 トン[3]
載貨重量トン数 9,844 トン[1][注釈 1]
全長 146.16 m[3]
垂線間長 145.00 m[1]
型幅 19.0 m[3]
型深 9.23 m[3]
吃水 3.59 m(空船時平均・推定)[4][注釈 2]
8.23 m(満載時平均・推定) [4][注釈 3]
主機 川崎MANディーゼル機関 1基[3]
出力 7,500馬力(計画)[3]
9,137馬力(最大)[1][注釈 4]
航海速力 16ノット[1][注釈 5]
最高速力 19.56ノット[3]
乗員 47名(推定)[4][注釈 6]

神川丸(かみかわまる)とは、川崎汽船の神川丸型級貨物船のネームシップ。日中戦争から太平洋戦争にかけて特設水上機母艦、特設航空機運搬艦として運用された。

なお、太平洋戦争後に川崎汽船の神川丸型貨物船(二代目)のネームシップとして同名の二代目船が建造された。1951年(昭和26年)に竣工後、北米航路で活躍。1972年(昭和47年)にパナマ企業に売却後、1979年(昭和54年)に解体された[5]

概要[編集]

廈門に停泊中の「神川丸」

定期航路貨物船[編集]

1919年(大正8年)設立の川崎汽船は当初、川崎造船所で建造中のストックボートや、委託された造船所所有船などを船隊の主力とした[6]。2年後の1921年(大正10年)には、川崎造船所および国策会社の国際汽船と航路の共同運営を開始。「Kライン」の始まりとなる[7]。その後、1927年(昭和2年)の国際汽船の離脱および1934年(昭和9年)の川崎造船所の船主業撤退を経て、名実とともに「Kライン=川崎汽船」となった[8]。この時点での川崎汽船は船隊の主力は依然としてストックボートなど旧型船が多くを占めていた。そこで、川崎汽船では優秀船隊整備計画を掲げ、1935年(昭和10年)にタンカー「建川丸」(10,091トン)を建造して就役させたのを手始めとして、新鋭船を続々投入する事となった[9]

「神川丸」はニューヨーク定期航路用貨物船として川崎造船所で建造され、1937年(昭和12年)3月に竣工した。本船型4隻の船名の由来は「神聖君國」からきている[10]。就航後は予定通りニューヨーク航路に就いたものの、4ヵ月後に勃発した日中戦争により、商業航海はわずか二往復しかできなかった[11]。このため、川崎汽船は代替として、優秀船舶建造助成施設の適用を受けて、仕様を一部変更した「宏川丸」(6,872トン)を建造し、さらに火災事故により放棄されたイギリス船籍貨物船を購入して大修理を行い、「靖川丸」(6,770トン)として更生させてニューヨーク航路に投入した[12]

日中戦争での活動[編集]

「神川丸」は9月17日付で日本海軍に徴傭され、翌9月18日に特設水上機母艦として入籍[2]佐世保鎮守府籍となる[2]。簡単な艤装工事を行って中国戦線に赴き、第三艦隊長谷川清大将・海軍兵学校31期)に属して10月より中支方面で杭州湾上陸戦や南京攻略戦などを支援。12月からは第三航空戦隊所属艦として南支方面へ移動し、翌1938年(昭和13年)1月にかけて補給路遮断作戦に参加。水上機母艦神威」の水上機隊と組んで軍用列車や船艇を繰り返し爆撃して多大な戦果を挙げた[13]。この頃、艦内に酒保設置の申請が出される[14]。やがて戦線が奥地へ移動したため水上機隊の作戦もとりあえず終了し[13]、12月15日付で特設航空機運搬艦へ類別変更となる[2]

1939年(昭和14年)2月以降は海南島攻略作戦後の掃討作戦にも参加[15]。9月17日、北部仏印進駐(IC作戦)に参加、重巡洋艦鳥海」・第二航空戦隊などと共に第二遣支艦隊を編成し、本艦の九四式水上偵察機九五式水上偵察機は洋上哨戒や日本陸軍の地上支援に活躍した[16]。11月13日、重巡洋艦足柄」水上機隊・水上機母艦「能登呂」を指揮下に入れ南寧市からの撤退作戦に従事した[17]。作戦中の11月15日付で再度特設水上機母艦となり[2]支那方面艦隊及川古志郎中将・海兵31期)に属して南支方面を転戦した[18]。月平均20回、延べ120機が出動し、45日ごとに台湾・高雄に入港して補給、再出撃を繰り返していたという[19]。1939年11月から1年間にかけて本艦は九五式水上偵察機4喪失・8名戦死と引き換えに、敵兵1万名を攻撃、戦車6両爆砕、自動車113両破壊、牛車725両損傷、ジャンク216隻を撃沈、倉庫357棟破壊または炎上、橋梁39大破という戦果を挙げた[20]

太平洋戦争での活動[編集]

1941年(昭和16年)5月、佐世保海軍工廠に入渠して出師準備計画に沿った改装が行われ、カタパルトを1基装備した[21]。また、零式水上偵察機を前甲板に2機と後甲板に2機の計4機、零式水上観測機を前甲板に2機と後甲板に6機の計8機搭載できるように改められた[21]。兵装は12センチ高角砲2門から15センチ単装砲2門に換装され[22]、対空機銃も装備された[21]。次いで11月には臨戦準備を行い、11月22日に佐世保を出撃して海南島三亜に進出[23]。「山陽丸」(大阪商船、8,360トン)、「相良丸」(日本郵船、7,189トン)とともに第十二航空戦隊(今村脩少将)に属し、太平洋戦争開戦後は馬来部隊第二航空部隊として南方作戦に従事することとなった[23]。開戦劈頭のマレー作戦では、シンゴラ、パタニ両上陸作戦の掩護と水上機基地設営に従事し[24]ミリセリアクチン攻略戦の支援も行った[25]1942年(昭和17年)に入ってからはカムラン湾での整備作業に専念していたが[26]、2月から3月にかけては蘭印作戦に協力し、パレンバンジャワ島作戦で搭載機による対潜哨戒などに従事した。3月10日付で第四艦隊井上成美中将・海兵37期)付属となり、南東方面に転じる。4月から5月にかけてはツラギ攻略作戦協力[27]に続いて、ポートモレスビー攻略を目的とする珊瑚海海戦では、デボイネに前進水上機基地を設営し飛行機隊を移した後[28]ウッドラーク島英語版近海で基地航空隊や掩護部隊の指揮を執った[29]。ポートモレスビー攻略作戦が中止になるとショートランドに帰投し[30]ラバウルを経てサイパン島に移動した[31]。6月にはミッドウェー海戦にも攻略部隊掩護として参加し[32]、海戦に敗れた後の6月9日以降は北方部隊に編入され、アッツ島およびキスカ島攻略作戦にも参加した[33]。7月14日付で第二艦隊近藤信竹中将・海兵35期)第十一航空戦隊に編入され[34]、再びショートランド方面に進出。ソロモン方面の作戦を支援した。1943年(昭和18年)2月1日、ショートランドで停泊中に爆撃を受け損傷する[34]。修理後も横須賀トラックおよびラバウル方面を往復する輸送任務に任じた。

沈没[編集]

5月14日、ラバウル向けの航空機や軍需品、酒保用品などを搭載して第3415船団に加入して横須賀を出港する[35]。5月22日にトラックに到着後、編成替えを行って二隻の駆潜艇に護衛されて5月26日にトラックを出港[35]。5月28日、視界内にB-24が出現して砲撃により追い払った後[35]の12時3分、南緯01度42分 東経150度18分 / 南緯1.700度 東経150.300度 / -1.700; 150.300の地点[35]に差し掛かったところでアメリカ潜水艦「スキャンプ」 (USS Scamp, SS-277) に発見される。「スキャンプ」は魚雷を5本発射し[36]、うち3本が船体の前中後部にそれぞれ1本ずつ命中し、航行不能に陥る[37]。駆潜艇は爆雷攻撃を行い、「スキャンプ」は攻撃が静まるのを待って深海に潜み、攻撃が止むと浮上して最初の攻撃地点へと戻った[36]。救援のためにラバウルから救難船「長浦」、カビエンから特務艦「宗谷」がそれぞれ現場に向かってエミラウ島ムッソウ島英語版に曳航することとなり[37]、救援が到着するまでの間、対潜および対空警戒を厳重にして応急処置を行っていた[37]。そこに「スキャンプ」が浮上のまま接近してくる[38]。翌5月29日0時16分、「スキャンプ」は南緯01度40分 東経150度24分 / 南緯1.667度 東経150.400度 / -1.667; 150.400の地点で浮上攻撃を行い、魚雷を2本発射[39]。うち1本が命中し[37]、急速に傾斜が増して被雷の5分後に沈没した[40]。7月15日に解傭および除籍[2]

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

  • 大森仙太郎 大佐:1937年9月18日 - 12月1日
  • 有馬正文 大佐:1937年12月1日 - 1938年9月1日
  • 横川市平 大佐:1938年9月1日 - 12月15日
  • (兼)横川市平 大佐:1938年12月5日 - 1939年11月15日
  • 安藤栄城 大佐:1939年11月15日 - 1940年7月1日
  • 山田道行 大佐:1940年7月1日 - 11月15日
  • 服部勝二 大佐:1940年11月15日 - 1941年9月20日
  • 篠田太郎八 大佐:1941年9月20日 - 1942年10月1日
  • 松田尊睦 大佐:1942年10月1日 - 1943年4月26日
  • 原精太郎 予備海軍大佐:1943年4月26日 - 1943年5月29日戦死 ※同日、海軍少将に特進。

姉妹船[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #日本汽船名簿・神川丸の当該項は、名簿作成時「現状調査未了」のため空欄である。
  2. ^ #日本汽船名簿・神川丸の当該項は、名簿作成時「現状調査未了」のため空欄である。
  3. ^ #日本汽船名簿・神川丸の当該項は、名簿作成時「現状調査未了」のため空欄である。
  4. ^ #日本汽船名簿・神川丸の当該項は、名簿作成時「現状調査未了」のため空欄である。
  5. ^ #日本汽船名簿・神川丸の当該項は、名簿作成時「現状調査未了」のため空欄である。
  6. ^ #日本汽船名簿・神川丸の当該項は、名簿作成時「現状調査未了」のため空欄である。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050073300 『昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、38頁。
    • Ref.C08050073300 『昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、36頁。
    • Ref.C05110834500 『軍艦神川丸酒保設置具状書』、3-5頁。
    • Ref.C08030640200 『あ号作戦準備同第一段第一期作戦 神川丸戦闘詳報第一号』。
    • Ref.C08030661600 『馬来部隊 第二航空部隊山陽丸戦闘詳報 第一号』。
    • Ref.C08030640300 『自昭和十六年十二月十三日至昭和十六年十二月二十九日 あ号B作戦神川丸戦闘詳報第二号』。
    • Ref.C08030640400 『自昭和十六年十二月三十日至昭和十七年一月三十一日 あ号作戦神川丸戦闘詳報第三号』。
    • Ref.C08030640700 『自昭和十七年二月二十一日至昭和十七年三月四日 あ号作戦神川丸戦闘詳報第五号』、31-43頁。
    • Ref.C08030641100 『自昭和十七年四月二十八日至昭和十七年五月二十日 MO作戦神川丸戦闘詳報第六号』。
    • Ref.C08030641300 『自昭和十七年五月二十八日至昭和十七年七月九日 MI AL作戦神川丸戦闘詳報第七号』。
    • Ref.C08030641700 『自昭和十七年九月四日至昭和十七年十月二十五日 「カ」号作戦神川丸飛行機隊十四空水戦隊戦闘詳報第八号』。
    • Ref.C08030642400 『昭和十八年五月二十九日 特設水上機母艦神川丸遭難沈没報告』、38-59頁。
  • (Issuu) SS-277, USS SCAMP. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-277_scamp?mode=a_p. 
  • 坂田治吉『海軍短現士官よもやま物語』(光人社、1988年)ISBN 4769803966(著者は昭和17年8月1日から主計長として神川丸に乗艦していた。本書は神川丸のエピソードや撃沈時の状況に詳しい。)
  • 日辻常雄 『最後の飛行艇 海軍飛行艇栄光の記録』 光人社、1988年9月。ISBN 4-87565-133-3(著者は1940年5月1日から約1年間、神川丸艦載機搭乗員)
  • 『写真 日本の軍艦4 空母II』 雑誌「」編集部(編)、光人社、1989年ISBN 4-7698-0454-7
  • 林寛司(作表)・戦前船舶研究会(資料提供) 『戦前船舶 第104号・特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿』 戦前船舶研究会、2004年
  • 『歴史群像No64 特設水上機母艦 神川丸』学習研究社、2004年
  • 松井邦夫 『日本商船・船名考』 海文堂出版、2006年ISBN 4-303-12330-7
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目[編集]