大淀 (軽巡洋艦)

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1943年に呉で撮影された大淀。
艦歴
発注 1939年マル4計画
起工 1941年2月14日 呉工廠
進水 1942年4月2日
就役 1943年2月28日
その後 1945年7月28日に転覆着底
除籍 1945年11月20日
性能諸元
排水量 基準:8,146トン
公試:9,980トン
全長 192.0m
180.0m(水線長)
全幅 16.6m
吃水 6.0m
機関 ロ号艦本式重油専焼水管缶6基
+艦本式オールギヤードタービン4基4軸推進
最大出力 110,430shp
最大速力 35.5ノット
航続距離 18ノット/8,700海里
乗員 730名
兵装 三年式 15.5cm(60口径)三連装砲2基
九八年式 10cm(65口径)連装高角砲4基
九六年式 25mm(60口径)三連装機銃6基/18基(最終時)
同単装機銃16基(最終時)
装甲 舷側:50mm(水線面主装甲)
甲板:25~50mm(主甲板)
主砲塔:70mm(前盾)、63.5mm(側盾)
主砲バーベット:-mm
司令塔:-mm
搭載機 水上偵察機6機(改装後2機)
二式一号一〇型射出機1基(改装後呉式二号五型射出機1基)

大淀(おおよど/おほよど)は日本海軍軽巡洋艦。艦名は宮崎県下の最大河川である大淀川に由来する[1]。大日本帝国海軍最後の連合艦隊旗艦でもある。昭和十四年度に着手された第四次軍備充実計画(通称マル4計画)により乙巡(阿賀野型軽巡洋艦)と共に丙巡として建造された[2]

概要[編集]

太平洋戦争開戦前、海軍の対戦計画では潜水艦部隊による敵主力艦隊の漸減邀撃が予定されていた。だが、広大な太平洋上を潜水艦単独で敵艦隊と接触交戦するのは困難であった。そこで潜水艦部隊の旗艦として新型の高速水上偵察機を搭載し、これにより最前線で強行偵察を行うことを目的とした偵察巡洋艦の建造が計画された[3]。航空搭載能力が重視されたため、艦後部には主砲を装備せず、高速水上偵察機用の格納庫と大型の射出機を装備している(新造時)。計画では「大淀」、「仁淀」の二隻が建造される予定であったが太平洋戦争勃発のため「仁淀」は建造中止となる。なお、「仁淀」の艦名は後に海上自衛隊の護衛艦「によど」として陽の目を見る事になる。

艦形[編集]

基本構造[編集]

本艦の船体形状は平甲板型船体である。全備排水量は1万600トンに達し、阿賀野型軽巡洋艦の7700トンと比較しても非常に大きい[4]。強く傾斜したクリッパー・バウから艦首甲板上に主砲の「三年式 15.5cm(60口径)砲」を三連装砲塔に収めて背負い式に主砲塔計2基を配置した。この15.5cm砲は最上型軽巡洋艦が重巡洋艦に改装された時に降ろした15.5cm砲塔を流用している。大淀型の他には、大和型戦艦の副砲にも使用された。対空戦闘では、10cm高角砲と共に1万メートル付近の米軍12機編隊に撃ちこんで8機撃墜を主張しており、用兵側は有効性を評価している[5]

2番主砲塔の基部から上部構造物が始まり、その上に司令塔を前方に組み込み、頂上部に測距儀とレーダーを乗せた塔型艦橋が立つ[6]。艦橋の後方にトラス構造の前部マストが立ち、船体中央部に集合煙路式の1本煙突が立ち、左右甲板上が艦載艇置き場となっていた。副武装の「九八年式 10cm(65口径)高角砲」は秋月型駆逐艦大鳳型空母に搭載されたものと共通で、艦載艇置き場を前後に挟み込むかのように片舷2基ずつ計4基を配置していた[7]。煙突の後方には大型の箱型格納庫が設けられ、上部にトラス構造の後部マストが立っていた。格納庫後部の右舷側に水上機を運用するためのクレーンが1基が配置されており、後部甲板上の中心部に位置する44.5mの巨大なカタパルトがあった[4]

機関は翔鶴型航空母艦で採用された高温高圧缶を6基装備し、これを1缶1室に分けて6室に搭載した[8]。タービンはその後部に4基設置され、これも1基1室にわけて搭載された[8]。いわゆるシフト配置ではないが、この配置によって煙突を1本に纏めることに成功している[8]。公試では35.5ノットだが、実際には39.5ノット発揮が可能であったとされる[9]

本型には冷暖房も完備されており、居住性はよい[4]。居住区には簡易組み立て式の三段ベッドと、不足分のハンモックがあった[10]第三次ソロモン海戦で沈没した戦艦比叡」の元乗組員が多く、訓練や制裁は厳しかったという[11]宮崎神宮から分神した神社が艦橋直下・主砲発令所の近くにあった[12]

用兵評価[編集]

「大淀」は1944年(昭和19年)3月に水上機格納庫を改装して司令部施設とした。格納庫を三段に仕切り、上段に幕僚寝室、中段に作戦室と幕僚事務室、下段に司令部付の事務室や倉庫があった[13]。当時の連合艦隊情報参謀だった中島親孝中佐は本艦の司令部施設について、鉄板で仕切り防火塗料を塗っただけで気持ちの良い部屋ではなかったが、広さは充分で使いやすかったと回想している[13]。連合艦隊長官室と参謀長室は艦橋の真下にあり、作戦室と居室の往復には露天甲板を移動する必要があった[13]。また航海中は艦橋直下の小さな作戦室を使用していたという[13]。碇泊中、前甲板には常に天幕がはられて長官や幕僚が休憩し、軍楽隊の演奏を聴きながら食事をとった[14]

艦隊の司令を行う事を専門に建造された艦というものは、戦後新たに出来た艦種である指揮専用艦の先駆けであったといえる。だがレイテ沖海戦後の戦闘詳報では、用兵側から「司令部旗艦」について不満点が列挙されている。まず司令部旗艦としては攻撃力・防御力も劣り、通信能力が限定的であることから「旗艦不適トセラレアリ、中途半端ニテ何レトモツカザル存在ニナリ」と評し、司令部施設を廃して四連装魚雷発射管2基の増設を希望している[15]

搭載レーダーには不具合があった。レイテ沖海戦時の「大淀」は三式一号電波探信儀三型(13号電探)を装備していたが、最大測定距離は「瑞鶴」の242kmに対し「大淀」は200kmであった[16]二式二号電波探信儀一型(第21号電探)と仮称二号電波探信儀二型(第22号電探)に関しては15.5cm主砲射撃の衝撃で故障が頻発するため使い物にならず、13号電探も無線電話・電波と混信するため測定不能となることがあった[17]

艦のバランスも問題となった。「大淀」は司令部施設の改装と共に安定性が失われ[18]、最大速力発揮時に転舵すると傾斜15-20度に達し『相当注意ヲ要スルモノアリ』という状態になった[18]。この傾斜になると、高角砲の揚弾機が停止することも改善を要する点だった[19]。戦闘詳報では、次の改装時にバルジを装備して安定性を改善することを求めている[15]。だが戦局の悪化から、根本的な解決策がとられることはなかった。

艦歴[編集]

戦争中期[編集]

竣工した「大淀」も、搭載される予定であった水上偵察機紫雲が期待されたほどの性能を発揮できず不調に終わり、潜水艦部隊による敵艦隊の漸減という戦局もなく、潜水戦隊旗艦としての能力は無意味となった。魚雷発射管がなく、主砲の門数も少ない(ただし、対空兵装は新型高性能の長10cm高角砲(連装)を4基装備し、その火力は秋月型駆逐艦に匹敵する)上に同型艦もいない「大淀」が活躍出来る場面はなく、連合艦隊内で浮いた存在となっていた。

1943年(昭和18年)2月28日竣工後は、横須賀で訓練に従事した。5月31日、第27駆逐隊(時雨有明)に護衛され、第一航空戦隊(翔鶴瑞鶴)、重巡洋艦「最上」と共に横須賀から西日本へと向かう[20]。「時雨」「有明」はトラック泊地より山本五十六元帥の遺骨を横須賀へ運ぶ連合艦隊旗艦「武蔵」護衛任務を終えたばかりであった。「大淀」「最上」は桂島泊地に到着後、戦艦「長門」「扶桑」と共に停泊したが、これにより6月8日の長門型戦艦陸奥」爆沈に遭遇することになった。7月9日、「大淀」は宇品を出港してトラック泊地へ向かい、南海第四守備隊をラバウルへ輸送した[21]。ラバウルでは駆逐艦「磯風」に燃料補給を行っている。7月26日にトラックへ戻り、10月17日にクェゼリン環礁へ進出、10日ほど警備したあとトラックに戻った。

12月下旬、連合艦隊はトラック泊地からカビエンへの戊号輸送作戦を発動する。戊号作戦輸送部隊編成は以下の通り[22]

  • 戊一号輸送部隊(内地~トラック泊地、大和艦長大野竹ニ大佐)
 戦艦「大和」、第10駆逐隊「秋雲」、第17駆逐隊「谷風」、第4駆逐隊「山雲
  • 戊二号輸送部隊(トラック泊地~カビエン、第5戦隊司令官橋本信太郎少将)
 第5戦隊(妙高羽黒)、重巡洋艦「利根」、第27駆逐隊(白露時雨藤波に変更)
  • 戊三号輸送部隊第一部隊(第7戦隊司令官西村祥治中将)[23]
 第7戦隊(熊野鈴谷)、駆逐艦「谷風」、「満潮
  • 戊三号輸送部隊第二部隊(第2水雷戦隊司令官早川幹夫少将)
 第2水雷戦隊「能代」、駆逐艦「秋月」、「山雲」

12月26日、「大淀」以下戊三号輸送部隊第二部隊は戦艦「大和」に横付けし、同艦が日本本土から輸送してきた宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊と軍需品を移乗させた[24]。各艦の搭載区分は、「能代」人員400名・物件650トン、「大淀」500名・1000トン、「山雲」50名・100トン、「秋月」150名・50トン[25]。この時の「大和」はトラック泊地入港直前に米潜水艦「スケート」から雷撃され小破した状態であった。12月29日、戊三号輸送部隊第二部隊は第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦「能代」、駆逐艦「秋月」、「山雲」と共にカビエンへ向かう[26]。1月1日4時45分、カビエン着[27]。同地でカビエンで物資揚陸作業完了直後、米軍機約100機に襲撃される[28]。第2水雷戦隊戦闘詳報では『作戦ニ影響セル事項』として「大淀」の揚搭作業が多艦より約2時間遅れた事、基地航空隊による哨戒が不足していた事を指摘している[29]。カビエン基地航空隊(陸上基地派遣第二航空戦隊所属の戦闘機36)が上空掩護を行う筈であったが排除しきれず、米軍機は第2部隊に殺到した[30]。戊三号輸送部隊はただちに外海に出たが、揚陸の遅れた「大淀」が遅れてしまう。対空戦闘開始時、4隻は旗艦「能代」を中心にして、「能代」右舷4kmに「秋月」、左舷3kmに「山雲」、「能代」後方8kmに「大淀」という陣形をとっていた[31]。「能代」は「大淀」の直衛に「秋月」を派遣したため、戊三号輸送部隊は「能代」・「山雲」と「大淀」・「秋月」という二群に分離[32]。米軍機は二手にわかれると、大型の「能代」「大淀」を主として狙った[33]。一方日本側も「能代」-「大淀」という二手に分かれたことにより、各艦が全速を発揮しての回避運動を行うことが可能になった[34]。主砲発令所勤務だった小淵は、主砲射撃盤の自速計が45ノットを示していたと述べている[35]。「大淀」は8時42分に射撃を開始して9時19分に砲撃を停止[36]。「大淀」は規定対空用主砲弾300発を撃ち尽くし、水上弾や演習弾まで発砲したという[37]。戦闘詳報による各艦消費弾数は、「大淀」主砲194・高角砲240・機銃4640、「能代」主砲283・高角砲29・機銃1612、「秋月」主砲190・機銃1260、「山雲」主砲94・機銃1230[38]。「大淀」は煙突近くに50kg爆弾1発が命中(不発)、至近弾と機銃掃射より2名が戦死4名が重軽傷、他に「能代」が中破、「山雲」が損傷を受けた[39][40]

戦闘終了後、「能代」の第2水雷戦隊司令部は「大淀」に対し搭載高速水上偵察機による米軍機動部隊捜索を指示する[41]。しかし「大淀」の水上偵察機は空襲時に損傷を受けており応急修理も間に合わず、結局「能代」は『一.飛行索敵ハ行ハズ 二.飛行機待機ハ昼間ノミトス』と下令した[42]。1月4日、「大淀」「秋月」は米潜水艦の雷撃を受けた輸送船「清澄丸」救援に向かっため、「能代」「山雲」に2日遅れてトラック泊地に到着、輸送任務を終えた[43]。なお「清澄丸」は軽巡洋艦「那珂」に曳航されトラック泊地に到着した。

その後「大淀」は訓練に従事し、1944年2月のトラック島空襲によりトラック泊地が壊滅する直前に退避し、日本本土へ戻った。2月24日、日本を出撃し、サイパン島へ物資を輸送する[44]

連合艦隊旗艦「大淀」[編集]

1944年春に撮影された「大淀」。1番主砲塔は右舷を指向している。

1944年(昭和19年)3月6日、「大淀」を連合艦隊旗艦とする改装がはじまる[45]。太平洋戦争では、日清・日露戦争のように艦隊決戦で連合艦隊司令部が第一戦隊を直率して艦隊の先頭に立つような事態は起こらず、後方で全体指揮を取る状態であり、日本海軍最強の大和型戦艦長門型戦艦が所属する第一戦隊をむざむざ後方で遊ばせる事態に陥った。そこで海軍は潜水戦隊旗艦用として設計された「大淀」の通信能力に着目し、大型射出機を撤去して従来型の射出機と水上偵察機を搭載、格納庫を改装して司令部施設に変更、連合艦隊の旗艦とした[46]。なお工事中の3月31日、パラオ大空襲から退避するため二式飛行艇2機に分乗した連合艦隊司令部が、悪天候により遭難。1番機に搭乗していた古賀峯一連合艦隊司令長官は殉職、不時着した2番機に搭乗していた福留繁連合艦隊参謀長はゲリラの捕虜となり、暗号書や作戦計画書を含む機密書類を没収された。

この事件により、連合艦隊司令長官は古賀から豊田副武大将となる。5月1日に「大淀」の工事完了、5月3日に豊田連合艦隊司令長官を迎えて将旗をあげた[47]。旗艦任務は5月4日から9月29日である。豊田は「大淀」の防御力の低さを懸念して、万一戦死したら「まるで日本海軍の足元を見られるようで、嫌だな」と渋ったという[46]。「戦死するなら、武蔵か大和のデッキで死にたい。こんな船の上ではいやだ」だったとも伝えられる[48]高田利種参謀副長は、本艦の対空防御力や通信力を説明して豊田をなだめている[46]。改装後の初任務はマリアナ沖海戦での柱島(あ号作戦発令は木更津沖、5月23日より柱島)からの直接指揮だった。予想作戦海域の電波状況が悪かったため小笠原諸島に進出することも検討されたが、完全な電話施設を持った浮標を持つ柱島泊地からの指揮が望ましいとされたためである[49]

しかしこのような処置は間に合わせのものであり、連合艦隊司令部は陸上にあって後方指揮を取るのが望ましいとされた。中央(東京)と連絡をつけやすく、作戦部隊作戦地域に近く、かつ作戦全体の指揮も可能という候補地を求めた結果、第一候補地・神奈川県日吉台慶応大学附近、第二候補地・台湾高雄(高雄警備府司令部所在地)と決定され、昭和天皇の勅許を得た[50]。第一候補地については、「大淀」の改装完了以前から日吉台(横浜市港北区日吉)に海軍の部隊が移駐しており、1944年3月には軍令部第三部(情報)が慶應義塾大学日吉キャンパスに移転、同じ頃川崎市蟹ヶ谷には海軍通信隊が地下壕を建設しており、軍令部三部の地下壕は7月15日に建設開始、連合艦隊司令部の地下壕は8月15日に建設が開始された。

通信室、作戦室、居住施設の順番で建設を開始、徐々に機能を移し、9月29日に豊田は将旗を移動、連合艦隊司令部は丘に上がった[51]。「大淀」は連合艦隊旗艦の役目を解かれて、ただの軽巡洋艦という立場に戻った。規則のうるさい連合艦隊旗艦任務にうんざりしていた乗組員は逆に安堵し[52]鈴木孝一砲術長も前任の戦艦武蔵」主砲発令所長勤務より「連合艦隊司令長官護衛任務はずっと難しかった」と回想している[53]。この頃横須賀に停泊していた「大淀」からは本艦三代目艦長阿部俊雄が初代艦長となった巨大空母「信濃」の艤装工事を見ることが出来た[54]。その後のレイテ沖海戦礼号作戦北号作戦に参加した。

レイテ沖海戦[編集]

10月5日、「大淀」は小沢治三郎中将指揮する第三艦隊第一機動部隊に編入され、正規空母「瑞鶴」、軽空母「千代田」、「千歳」、「瑞鳳」、航空戦艦伊勢」、「日向」、軽巡洋艦「多摩」、「五十鈴」、駆逐艦8隻と行動を共にすることになる[55]。10月20日、日本を出撃した[56]。「大淀」は第一駆逐連隊、第三十一戦隊旗艦、兼艦隊予備旗艦である[57]。なお当初は「大淀」が艦隊旗艦の予定であったが、小沢が「やはり機動部隊と名前がつくからには瑞鶴に乗ってやろう」と決めた為、「瑞鶴」が旗艦となったという[58]

10月25日、小沢機動部隊はウィリアム・ハルゼー提督が率いる米軍機動部隊の空襲を受けた。午前8時20分頃、米軍機100機以上が艦隊上空に到達、「大淀」は対空射撃を開始する[59]。午前8時35分、小型爆弾2発が四番高角砲付近に命中、機銃掃射により戦死8名、負傷14名を出した[60]。小火災が発生したが、すぐに鎮火に成功している[61]。午前8時50分、「大淀」の周囲では駆逐艦「秋月」が爆沈、空母「瑞鶴」が被弾速力低下、「千代田」が沈没しかけていた[62]。また「大淀」の付近に燃料切れになった6機の零式艦上戦闘機が不時着したが、救助できた搭乗員は1名だけだった[63]。実際には、さらに数名が救助されたと見られる[64]。午前8時53分、右舷に傾斜した「瑞鶴」は「大淀」に無線代行を依頼、午前9時30-44分には「旗艦を大淀に変更す」の信号により「瑞鶴」に接近する[65]。しかし小沢司令部が移乗する前に第二波攻撃隊が接近し、「大淀」は「瑞鶴」から離れた[66]。第二波攻撃終了後の午前10時54分、被雷・被弾炎上した「瑞鶴」から小沢中将以下司令部が移乗している[67]。午後2時40分、歴戦の空母「瑞鶴」が沈没[68]。「大淀」は主砲1門につき50発あった対空弾が238発を消耗し、定数2割程度(残68発)になるほど奮戦した[69]。夜間、軽巡洋艦「五十鈴」、駆逐艦「若月」、「初月」が米軍重巡洋艦部隊と交戦し、「初月」が水上砲戦の末に沈没した[70]。小沢は「大淀」を含めた残存艦隊を率いて艦隊決戦のために南下したが会敵できず[71]奄美大島に向かって北上、戦場を離脱した[72]。「大淀」は10月27日に奄美大島に入港した[73]。本艦は米軍機撃墜27機を主張[74]。さらに作戦そのものについて、戦闘詳報では「敵軍上陸して数日を経過し敵の防御体勢累整備し居る港湾に何等の術策を用いず単純一突入する事は将に自殺的行為と云ふを得べく」と厳しく批判している[75]

なおレイテ沖海戦直前の10月19日、小沢機動部隊各艦に報道班員が乗艦していた。旗艦「瑞鶴」にカメラマン2人(飯島正一・大鹿栄太郎)と記者2人(村岸正雄、尾高光)、「瑞鳳」に竹内宏一、「大淀」に山根重視、「秋月」に西本良之介である[76]。「瑞鶴」乗艦の報道班員は全員戦死、「大淀」の山根は無事、「瑞鳳」の竹内も「桑」に救助され生還した[77]。山根、竹内が撮影したフィルムは編集されて「比島沖海戦」と題され、1944年11月9日の「日本ニュース・第232号」に収録されて全国公開された[78]。前半部分は「瑞鳳」の竹内が撮影したもので、杉浦艦長の訓示、攻撃隊の発進、「瑞鳳」被弾の様子が撮影されている[79]。後半部分は「大淀」の山根が撮影したもので、空母「瑞鶴」と攻撃隊発進の遠景、対空射撃を行う伊勢型戦艦や「大淀」、零戦搭乗員救助の様子が公開された[80]

フィリピンの戦い[編集]

10月28日、第三十一戦隊司令部が退艦し、「大淀」は旗艦任務を解かれた[81]。10㎝高角砲弾のみ「霜月」から補充を受けている[82]。10月29日、駆逐艦「若月」と共に出撃してフィリピン方面に向かう。10月31日、マニラ湾に到着して補給を受けたが、主砲弾は未だ補充されていない[83]。牟田口艦長は南西方面艦隊司令部から空襲の危険性を告げられ、ミリ泊地への移動を決意する[84]。11月5日の出港直後、マニラ湾は米軍機動部隊の空襲をうけ、停泊していた重巡洋艦「那智」が沈没した[85]。ミリ泊地へ移動後、停泊・総員洗濯中にB-24爆撃機3機の爆撃を受けたが、「大淀」の被害はなかった[86]。ブルネイ泊地にて、大破した重巡洋艦「高雄」や第二遊撃部隊の残存艦・重巡洋艦「足柄」と合流する[87]。11月11日、栗田健男中将の第二艦隊がブルネイに入港し、「大淀」は戦艦「大和」から15.5cm砲対空砲弾を譲り受けた[88]。11月18日、戦艦「伊勢」、「日向」、「榛名」、重巡洋艦「足柄」、「羽黒」、駆逐艦「霞」、「朝霜」とリンガ泊地へ移動する[89]

その後サンジャック湾やカムラン湾を転々としていたが、12月21日、第二水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮のもと、礼号作戦参加が決定する[90]。12月24日、重巡洋艦足柄」」、駆逐艦「霞(旗艦)」、「朝霜」、「清霜」、「」、「」、「」と共にカムラン湾を出撃、ミンドロ島へ向かう[91]。10月26日、艦隊は米軍大型爆撃機に発見された[92]。「大淀」は搭載水上偵察機2機を発進、その後、B-25爆撃機から夜間空襲を受ける[93]。この攻撃で爆撃を受けた「清霜」が沈没、被弾B-25が体当たりした「足柄」が損傷した[94]。午後9時1分、「大淀」に250kg爆弾2発が命中、2発が至近弾となったがいずれも不発で、軽傷者1名が出た。直撃弾1発目は一番砲塔から10m前方を貫通・左舷喫水線上を突き破り、2発目は煙突右から中甲板を貫通・罐室に飛び込んだ[95]。不発だったため轟沈は免れるも、損傷により1号罐室が使用不能、3号罐室から蒸気が噴出、最大発揮速力32ノットに低下する[96]。このときの不発弾はシンガポールの海軍基地に送られ不発処理をされ、艦内の大淀神社に祭られた[8]。「大淀」と「足柄」は米軍魚雷艇の雷撃を全て回避し、午後23時から1時間ほどサンホセ港や飛行場を砲撃した[97]。「大淀」は距離14000mから輸送船3隻を砲撃、火災を発生させたと記録した[98]。艦隊は12月28日にカムラン湾へ戻った[99]。「大淀」は15.5cm通常弾42発、徹甲弾31発、照明弾25発、高角砲弾61発を発砲[100]、輸送船2隻大破、魚雷艇1隻撃破、飛行機2機撃墜を主張している[101]。実際の戦果は、貨物船1隻が着底した程度だったとされる。

1945年(昭和20年)2月10日、「大淀」は北号作戦に参加する。これに先立って、格納庫を改造して設置されていた司令部区画を改造して物資輸送庫とした[8]。輸送庫にドラム缶を満載し、そのうえに防弾の意味もふくめて天然ゴムを積んでシンガポールを出港する[102]。軍令部は「半分の艦が日本本土に戻れれば上出来で、全滅の可能性もある」と予測したが「伊勢、日向、大淀は運が強いからどんな作戦でも成功する」とする意見もあった[103]。2月20日、参加艦艇は全艦無事に日本本土・呉軍港に到着した[104]。呉に到着したものの、作戦行動する燃料もなく、3月1日に「大淀」は練習艦に格下げされた。乗組員の間では戦艦「大和」の沖縄水上特攻に参加することも噂されていた[105]が、その機会はなかった。

着底大破[編集]

転覆した大淀。

3月19日、呉を米軍機動部隊艦載機が襲撃する。日本軍は当初友軍機編隊と判断していたため反応が遅れた[106]。「大淀」は艦中央部右舷への至近弾により艦底を破損し、浸水して右舷に傾斜した[8]。また直撃弾1発が煙突付近に命中して罐室を破壊、2発目が第二機関室を破壊して喫水線上部に大孔をあけ[107]、機関科員を中心に戦死者52名を出した[108]。この被害によって6基の缶のうち4基が使用不能となった[8]。ドックに入って舷側の穴を塞ぐなどの応急修理は行われたが、破損した機関部の補修など抜本的な修理は実施されず、対空火器も一部破損したままであった[8]。その後江田島湾に曳航されて迷彩塗装やカモフラージュの偽装が施され、浮き砲台となった[8]。すぐ近くには同じく曳航されて浮き砲台となった重巡洋艦利根」の姿があった[8]

7月24日、呉が米軍機動部隊艦載機の襲撃を受けた際に500ポンド爆弾3~4発が命中、右に傾斜して着底した[109]。火災は駆けつけた住民の協力もあり鎮火に成功した。また排水作業によって傾斜も復旧された[8]

7月28日、米艦載機の空襲(呉軍港空襲)を受けた。午前10時ごろ艦橋近くの被弾によって大規模な浸水が発生し右に傾斜した。艦長は傾斜を防ぐために注水弁開けを指示したが[8]、次々に命中する爆弾による浸水のために転覆を防ぐことは出来ず、12時ごろ「大淀」は右に横転した。現場は浅い海岸だったので、船体の一部のみ海面に出した状態で完全に船体は横倒しとなり、艦橋も左に大きく根元から歪んだ[8]

24日と28日の戦闘による戦死者は223名、負傷者は180名だった[110]。転覆後の「大淀」に対して、さらに攻撃がおこなわれ、舷側に爆弾が命中している[8]

同年11月除籍。戦後、アメリカ軍による被害調査が行われた[8]。至近距離で炸裂した爆弾の水圧によって広範囲にわたって艦底が陥没している様子や、空中発射のロケット弾によって0.5インチの鋼板が貫通している様子などが写真に残されている[8]

1947年(昭和22年)の引き上げと解体に際しては、着底現場で解体するのではなく、転覆を復元してドックまで曳航した。

同型艦[編集]

  • 仁淀(大淀と同様にマル4計画の丙巡として計画されたが、起工前に建造中止)

この他、昭和12年~16年頃に、大淀型とほぼ同様の船体を持つ防空巡洋艦(65口径10cm連装高角砲12基を装備)が計画されていたが、建造コストの高さからペーパープランに終わっている[111]

歴代艦長[編集]

艤装員長[編集]

  1. (兼)田原吉興 大佐:1942年12月31日 -
  2. 富岡定俊 大佐:1943年1月20日 -

艦長[編集]

  1. 富岡定俊 大佐:1943年2月28日 -
  2. 篠田勝清 大佐:1943年8月29日 -
  3. 阿部俊雄 大佐:1944年5月6日 -
  4. 牟田口格郎 大佐:1944年8月15日 -
  5. 松浦義 大佐:1945年2月25日 -
  6. 田口正一 大佐:1945年5月15日 -

脚注[編集]

  1. ^ #大淀生涯、172、270頁
  2. ^ 福井静夫『日本巡洋艦物語』光人社321、322、328頁
  3. ^ #指揮官たちの太平洋戦争241頁
  4. ^ a b c #大淀生涯、172-173頁
  5. ^ #大淀捷1号、48頁
  6. ^ #大淀生涯、176頁
  7. ^ #大淀生涯、182頁
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 雑誌 丸 2011年10月号
  9. ^ #指揮官たちの太平洋戦争241頁
  10. ^ #大淀生涯、214頁
  11. ^ #大淀生涯、224頁
  12. ^ #大淀生涯、184頁
  13. ^ a b c d #聯合艦隊作戦室、189頁
  14. ^ #大淀生涯、256頁
  15. ^ a b #大淀捷1号、43頁
  16. ^ #捷号詳報(3)p.3
  17. ^ #捷号詳報(3)pp.4-5
  18. ^ a b #大淀捷1号、44頁
  19. ^ #大淀捷1号、51頁
  20. ^ #昭和18年5月~4水戦日誌(1)p.6『27dg(白露欠)22日GF電令作第565号ニ依リKdBニ編入 横須賀及木更津方面ニ行動 31日 1sf最上大淀ト共ニ内海西部ニ向ケ横須賀発』
  21. ^ #大淀生涯、174頁
  22. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(1)p.4,9
  23. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.5『戊第一号輸送部隊ヲ以テ「トラック」迄輸送セル陸軍部隊及物件ヲ引続キ「カビエン」迄輸送セントス 之ガ為戊三号輸送部隊編成セラル軍隊区分左ノ通』
  24. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(1)p.71『26日0512戊三号輸送人員物件搭載ノ為大和ニ横付物件搭載ヲ初ム/0742大和ヨリ横付ヲ離ス』
  25. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)pp.40-41『(イ)第一部隊終了後令ニ依リ巡洋艦及駆逐艦ノ順序ニ輪番大和ニ対スル横付舷ヲ左ノ通定ム 大和ノ右舷、能代・山雲 同左舷、大淀・秋月|(ロ)搭載区分』
  26. ^ #カビエング沖対空戦闘詳報p.4、#大淀生涯、187頁
  27. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.9『1月1日快晴0445/第二部隊「カビエン」着揚搭作業開始』
  28. ^ #カビエング沖対空戦闘詳報p.5『0852 敵機大編隊(約100機)右30度(20度方向)約20粁三群ニ分レ近キ一群ハ北方ヨリ二群ハ北西方ヨリ襲撃態勢ヲトル』
  29. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.21『(イ)能代、秋月、山雲ハ0630迄ニ揚搭完了セシモ大淀ハ0845ニ至リ漸ク終了シ為ニ全軍避退ノ時機ヲ遅延シ敵機ノ来襲ヲ受クルニ至レリ|(ロ)東正面ニ対スル飛行哨戒不充分ニシテ早期ノ敵空母ヲ確認シ得ザリシコト』
  30. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.7『(3)上空警戒ハ揚陸中及「カビエン」発当日概ネ日没時迄「カビエン」基地戦闘機隊(2Sf戦闘機36機増援)ニ依ル』
  31. ^ #カビエング沖対空戦闘詳報p.8
  32. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.10『0845将旗2sd→秋月/秋月ハ大淀ノ警戒ニ当レ|能代山雲及大淀秋月ノ2組ニ分散間隔概7粁ニテ上空直衛機援護下ニ対空戦闘開始』
  33. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.10『0855 敵機ハ二群ニ分離シ来襲 主トシテ能代大淀ニ雷爆銃撃ヲ行フ』
  34. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.36『(一)今回ノ「カビエン」ニ於ケル対空戦闘ニ於テハ立上リヨリ能代山雲及大淀秋月ノ2組ニ分散シ其ノ間隔概ネ7粁ナリシモ終始運動上相互ニ危険ノ考慮ヲ感ゼズ 対空戦闘ニ於テハ支援並ニ回避運動上概ネ5粁ノ間隔ヲ有スルヲ適当ト認ム』
  35. ^ #大淀生涯、196頁
  36. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)pp.19-20『自隊(艦)及友軍ノ戦闘経過』
  37. ^ #指揮官たちの太平洋戦争241頁、#大淀生涯202-203頁
  38. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.20『発射弾数』
  39. ^ #カビエング沖対空戦闘詳報pp.9-13
  40. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.34『戦果及被害 (二)大淀(1)船体兵器機関 極メテ軽イ (2)人員 戦死2・重軽傷4・計6』
  41. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.14『1158 敵機動部隊ノ動静以前不明ニシテ現針路ノ続行ニ対シ梢々不安ナリ、大淀ノ高速水偵ヲ以テ索敵セシメントス 2sd→大淀「為シ得レバ飛行機ヲ発進シ敵空母ノ西進中ナルヤヲ確メ「カビエン」又ハ「トラック」ニ帰投セシメヨ、空母ノ位置0845ニソ四ソメ針路320度速力25節』
  42. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)p.14『1430将旗2sd→大淀/大淀ハ飛行機1機応急修理完成次第第15分間待機トナセ』-『1552 大淀ノ飛行機ハ被空襲時ノ応急修理完成セズ、敵機動部隊ノ来襲ノ算減少ニヨリ索敵ニ使用セザルコトトス』
  43. ^ #昭和18年12月~2水戦日誌(2)pp.17-18『1月4日1333『大淀秋月「トラック」着 戊第参号輸送終了』
  44. ^ #大淀生涯、241-242頁
  45. ^ #大淀生涯、254頁
  46. ^ a b c #指揮官たちの太平洋戦争242頁
  47. ^ #聯合艦隊作戦室191頁
  48. ^ #海軍反省会4、449頁 高田利種(海兵46期)談。
  49. ^ #聯合艦隊作戦室194頁
  50. ^ #海軍反省会4、486頁
  51. ^ #聯合艦隊作戦室217頁、#海軍反省会4486頁
  52. ^ #大淀生涯、258頁
  53. ^ #指揮官達の太平洋戦争244頁
  54. ^ #大淀生涯、259頁
  55. ^ #大淀捷1号、3頁
  56. ^ #大淀捷1号4頁、#指揮官達の太平洋戦争244頁
  57. ^ #大淀捷1号、3頁
  58. ^ #海軍反省会4、349頁 鈴木孝一(海兵59期。昭和19年時 大淀砲術長)談。
  59. ^ #大淀捷1号、8、12頁
  60. ^ #大淀捷1号、8、13-14頁
  61. ^ #大淀捷1号、37-38、59-60頁
  62. ^ #大淀捷1号、9、15頁
  63. ^ #大淀生涯、307頁、#大淀捷1号、9頁
  64. ^ #空母瑞鳳生涯397頁
  65. ^ #大淀捷1号、15、31頁
  66. ^ #大淀捷1号15-16頁、#指揮官たちの太平洋戦争246頁
  67. ^ #大淀生涯、308頁、#大淀捷1号、17頁
  68. ^ #大淀捷1号、19頁
  69. ^ #大淀生涯、321頁、#大淀捷1号、52、68頁
  70. ^ #大淀捷1号、9、32頁
  71. ^ #大淀生涯、325頁、#大淀捷1号、33-34頁
  72. ^ #大淀生涯、326頁
  73. ^ #大淀捷1号、10頁
  74. ^ #大淀捷1号、37頁
  75. ^ #大淀捷1号、42頁
  76. ^ #空母瑞鳳生涯395頁
  77. ^ #空母瑞鳳生涯399頁
  78. ^ #空母瑞鳳生涯400頁
  79. ^ #空母瑞鳳生涯401頁
  80. ^ #空母瑞鳳生涯402頁
  81. ^ #捷号日誌(4)、14頁
  82. ^ #大淀生涯、331頁
  83. ^ #大淀生涯、333頁
  84. ^ #大淀生涯、336頁
  85. ^ #大淀生涯、335頁
  86. ^ #大淀生涯、337頁
  87. ^ #大淀生涯、340頁
  88. ^ #大淀生涯、375頁
  89. ^ #大淀生涯、386頁
  90. ^ #大淀ミンドロ詳報(1)、5頁、#大淀ミンドロ詳報(2)、5-6頁
  91. ^ #大淀生涯、394頁、#大淀ミンドロ詳報(1)、3頁
  92. ^ #大淀ミンドロ詳報(1)、7、9頁
  93. ^ #大淀生涯、396-397頁、#大淀ミンドロ詳報(1)、6、9-10頁
  94. ^ #大淀ミンドロ詳報(1)、7頁
  95. ^ #大淀生涯、399頁
  96. ^ #大淀ミンドロ詳報(1)、7、12頁
  97. ^ #大淀生涯、403-404頁、#大淀ミンドロ詳報(1)、7頁
  98. ^ #大淀ミンドロ詳報(1)、16-18頁
  99. ^ #大淀生涯、406頁、#大淀ミンドロ詳報(1)、8頁
  100. ^ #大淀ミンドロ詳報(2)、27-28、54頁
  101. ^ #大淀ミンドロ詳報(2)、26、39頁
  102. ^ #大淀生涯、419頁
  103. ^ #大淀生涯、420-421頁
  104. ^ #大淀生涯、426頁
  105. ^ #大淀生涯、461頁
  106. ^ #大淀生涯、467頁
  107. ^ #大淀生涯、475、477頁
  108. ^ #大淀生涯、482頁
  109. ^ #大淀生涯、489-491頁
  110. ^ #大淀生涯、494頁
  111. ^ 福井静夫『日本巡洋艦物語』光人社 341~346頁 「日本海軍の防空巡洋艦構想」

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030116900 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030101800 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030101900 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030145400 『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 昭和19年1月5日 第四駆逐隊(山雲)戦闘詳報 昭和19年1月1日「カビエング」沖対空戦闘
    • Ref.C08030036600 『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)』。
    • Ref.C08030036700 『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)』。
    • Ref.C08030036800 『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)』。
    • Ref.C08030577500 『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 軍艦大淀捷1号作戦戦闘詳報』。
    • Ref.C08030038300 『昭和19年10月1日~昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(4) 軍艦大淀・軍艦鈴谷』。
    • Ref.C08030578100 『昭和19年12月24日~昭和19年12月28日 軍艦大淀戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030578200 『昭和19年12月24日~昭和19年12月28日 軍艦大淀戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030578500 『昭和20年2月10日~ 軍艦大淀戦闘詳報』。
    • Ref.C08030750200 『昭和19年12月16日~昭和19年12月27日 駆逐艦榧ミンドロ島サンホセ突入作戦戦闘詳報案』。
  • 吉田俊雄 『指揮官たちの太平洋戦争 青年士官は何を考え、どうしようとしたか光人社1984年8月ISBN 4-7698-0242-0
  • 小淵守男 『航跡の果てに 新鋭巡洋艦大淀の生涯今日の話題社1990年ISBN 4-87565-136-8
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集14 軽巡 長良型』光人社、1997年。
  • 戸高一成 監修『日本海軍艦艇公式図面集(2) 軽巡「大淀」一般艤装図 新造時+改装後』(プレアデス工房、2005年) ISBN 4-7720-0894-2
  • 歴史群像太平洋戦史シリーズ62 帝国の艦船』(学習研究社、2008年) ISBN 978-4-05-605008-0
  • 中島親孝 『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』 光人社NF文庫、2008年10月ISBN 4-7698-2175-1 中島は連合艦隊情報参謀として「大淀」に乗艦した。
  • 桂理平 『空母瑞鳳の生涯 われ等かく戦えり』 霞出版社、1999年10月。ISBN 4-87602-213-5 
  • 戸高一成編 『[証言録] 海軍反省会4』 PHP研究所、2013年1月。ISBN 978-4-569-80915-1

関連項目[編集]

外部リンク[編集]